二、科学的社会主義を土台にした自己改革の努力 |
日本共産党の党史を貫く第二の特質は、科学的社会主義を土台にして、政治路線と理論の面でも、党活動と組織のあり方の面でも、つねに自己改革の努力を続けてきたことであります。日本共産党に対して「無謬(むびゅう)主義の党」――“誤りを決して認めない党”という攻撃が、行われてきましたし、今なお繰り返されています。しかし、これほど事実に反する、的外れの攻撃はありません。わが党の歴史のなかには、多くの誤り、時には重大な誤りがあります。さまざまな歴史的制約もあります。 |
(私論.私見) |
この自己批判は党としてのものであって、宮顕-不破-志位と続く現下の党中央ラインの誤りについては居直り続け自己批判を聞いた事がない。「無謬(むびゅう)主義の党」批判はそういう意味では当たっている。 |
それらに事実と道理に立って誠実に正面から向き合い、つねに自己改革を続けてきたことにこそ、わが党の最大の生命力があることをお話ししたいと思います。 |
「50年問題」と、自主独立の路線の確立
自主独立の路線はどのようにして形成されていったか |
100年の歴史を通じて、わが党の最大の危機は、戦後、1950年に、旧ソ連のスターリンと中国によって武装闘争をおしつける乱暴な干渉が行われ、党が分裂に陥るという事態が起こったことにありました。私たちはこれを「50年問題」と呼んでいますが、この時、無法な干渉に反対し、党の分裂を克服して統一を実現するたたかいの先頭にたった宮本顕治さんは、 |
(私論.私見) |
この時、宮顕は「無法な干渉に反対」していない。「クレムリンの云う事はその通り」とするいわゆる国際派の頭目として言動している。「無法な干渉に反対」したのは時の党中央派の徳球-伊藤律であった。志位は歴史詐術していることが判明する。 |
後年、1988年に、次のよう律にのべています。「50年問題は、日本共産党史上、最大の悲劇的な大事件だった。かつて、これほどの大きな誤りはなかったし、これからもないだろう。絶対にないことを願わずにはおれない」。私は、この一文を読んだ時に、絶対主義的天皇制による苛烈な弾圧を体験した宮本さんが、それを上回る「最大の悲劇的な大事件」とのべたことに、あらためてこの問題がいかに深刻だったかを痛感したことが深く記憶に残っています。
1950年、干渉に呼応して分派をつくった徳田球一や野坂参三らは、占領軍による弾圧を利用し、党中央委員会を一方的に解体しました。分派によって武装闘争の方針の日本への流し込みが行われました。 |
(私論.私見) |
この時の党中央は徳球-伊藤律派であり、分派を作る必要がない。分派を作ったのは反党中央派の宮顕派、その他であり、ここも歴史詐術している。 |
同時に、この危機をのりこえる過程で、わが党は大きな自己改革をとげていきました。そこには認識の巨大な発展が記録されています。戦後直後の時期に、わが党には、“ソ連や中国のやることには間違いはない”という認識があったことは、当事者からも率直に明らかにされていることです。わが党は、そうした認識を、わが党への乱暴な干渉と党の分裂という最大の誤りを解決していくなかで、大胆にのりこえ、自主独立の路線――日本の党と運動の問題は、日本共産党自身がその責任で決定し、いかなる外国勢力の干渉も許さないという路線を確立していきました。自主独立の路線はどのように形成されていったか。コミンフォルム――スターリンが、第2次世界大戦後、覇権主義を世界におしつける道具としてつくった国際機関――による日本共産党への公然とした干渉は、1950年1月、51年8月の2度にわたって行われました。宮本顕治さんは、2度目の干渉までの間に、「私自身のコミンフォルム観は大きく変わらざるをえなかった」として次のような認識に到達したとのべています。「自分たちが身をもって日々切り開こうとしている日本共産党のまさに内部問題についての、実情を知らない干渉の不当さというのが私の判断の到達点だった」。宮本さんのこの認識は、「50年問題」を総括する過程で、やがて党全体の共通の認識となっていきました。「50年問題」は、ソ連などによる干渉がひき起こしたものであり、干渉に対する批判なくしてその科学的総括は絶対にできません。徹底した総括の議論をすすめるなかで、党は1957年10月に開催した中央委員会(第15回拡大中央委員会)で、総括文書「50年問題について」を全員一致で採択しました。総括文書は、コミンフォルムの2度目の干渉について、党の「正しい統一の道をとざした」との批判を明記しました。この中央委員会の直後の時期に、ソ連と中国を訪問していたわが党代表団に対し、ソ連のフルシチョフなどは、「いまさら古い汚れものを出すことはない」などと総括に反対する出来事が起こりました。日本共産党がこの問題を総括すると、自分たちの悪行が明るみに出ることを恐れたのでしょう。しかし、わが党は、それをはねのけて堂々と総括をすすめ、党の組織的統一を全面的に回復した1958年の第7回党大会で、自主独立という確固とした路線を引き出したのであります。 |
(私論.私見) |
自主独立路線の確率はそれで良いとしても、これを最初に打ち出したのが徳球-伊藤律の所感だっという功績を語らないのは片手落ちと云うか恣意的に過ぎようぞ。 |
「50年問題」における国際的な干渉の全貌は、ソ連が解体した後の1992年~93年に表に出てきた旧ソ連の秘密資料から明らかになっていきました。干渉の全体像は、50年代当時の党の認識をはるかにこえる大がかりなものでした。この時点では知りえないことが多くありました。しかし、わが党は限られた事実と認識から、自主独立という確固とした路線を引き出しました。その後、明らかになった事実に照らしても、57年の総括文書「50年問題について」を読み返してみますと、党の分裂の経過と責任についての基本点は驚くほど正確にとらえられています。私は、先人たちがなしとげた偉業に、強い敬意の気持ちをのべたいと思うのであります。 |
二つの覇権主義による乱暴な干渉――全党の努力と奮闘で打ち破った |
自主独立の路線が明確にされたといっても、それがどれだけ自覚的につかまれていたかという点では、当時の個々の党幹部に違いがありました。党の認識としても、ソ連や中国などの実態をはじめからすべて分かっていたわけではありませんでした。自主独立の路線は、1960年代以降の、二つの覇権主義による乱暴な干渉――旧ソ連、中国・毛沢東派による干渉に正面から反対する闘争で鍛えられ、認識が発展させられ、全党の血肉となっていきました。二つの干渉とのたたかいは、「社会主義」を名乗る大国が、国家権力の総力をあげ、内通者を仕立て上げ、日本共産党の指導部を転覆させようという悪辣(あくらつ)な攻撃との、党の生死をかけたたたかいとなりました。ここで重要なのは、党中央が干渉者との論争をしていただけではないということです。たたかうべき相手は、海のかなただけでなく、国内にも存在していました。干渉者に内通した分派がつくられ、「ニセ共産党」の組織がつくられ、党を破壊する先兵となりました。少なくない他の政党とメディアも干渉者に追随・加担しました。多くのメディアは、わが党がソ連と論争を始めると「中国派になった」とレッテルをはり、中国とも論争を始めると「自主独立というが自主孤立ではないか」と冷笑と揶揄(やゆ)で報じました。そうした状況のもとで、全党は懸命に論争の中心点をつかみ、全党の力で干渉を打ち破っていきました。 |
(私論.私見) |
「ニセ共産党」であるかどうかは勝てば官軍の常套決めつけであり、「50年問題」では分派側であったのに党中央を無理矢理に分派規定し、以降党中央になってからは分派に対してこのように罵詈雑言するのは勝手が良過ぎよう。 |
当時の「赤旗」には長文の国際問題の論文が次々に出されました。 |
1964年9月2日付の「アカハタ」には、ソ連共産党への長文の「返書」が掲載されています。ソ連の干渉に全面的な反論をくわえたものですが、1面の頭から8面まで8ページにわたってびっしりと「返書」が掲載され、9面から10面と11面の一部は、資料としてソ連側の書簡が掲載され、一般記事は11面の1ページ弱に圧縮され、12面は、テレビ・ラジオ欄等となっています。しかも「返書」のため、見出しは一切なく、細かい活字がびっしりと続いています。1967年4月29日付の「赤旗」には、中国の干渉者たちの党攻撃の中心点である武力革命論を全面的に論破した「極左日和見主義者の中傷と挑発――党綱領にたいする対外盲従分子のデマを粉砕する」と題する長文の論文――私たちは「4・29論文」と呼んだものです――が掲載されています。この「赤旗」は1面は一般記事ですが、2面から7面まで5ページ半にわたる大論文が掲載されています。こうした長文の「返書」や論文を当時の同志たちはどう読んだのか。当時、滋賀県委員会で党専従として活動していた浜野忠夫副委員長に聞くと、次のような話でした。「当時、地方にいた党員は、ソ連、中国に対して、革命を成し遂げた党としての強い信頼があっただけに、論争が始まった時には、『これからどうなるのか』という大きな不安があった。それだけに党中央の出した『返書』や論文は、何をさておいても全部読みきるまでは気がすまない、自分自身の党員としての生き死にに関わる問題として、必死に、むさぼるように、一気に読んだ。党機関で何度も討議し、確信を深め、中央委員会を信頼してたたかいぬこうとの決意を固めていった。党機関のメンバーの中には、『返書』や論文が、『長すぎる』などという意見を言ったものは一人もいなかった」。当時の全党の先輩たちのこうした努力と奮闘によって、日本共産党は、干渉者を打ち破ったのであります。ソ連との関係でも、中国との関係でも、論争には歴史的決着がつきました。この二つの大国の党に、二つながら干渉に対する「反省」を言わせた世界で唯一の党が日本共産党であります。さらに1991年にソ連共産党が崩壊したさいに、大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉(しゅうえん)として、「もろ手をあげて歓迎する」と言い切った世界で唯一の党が日本共産党であります。これはたんにわが党にとって誇るべき歴史であるだけではありません。わが党への干渉は、日本国民の運動の自主性に対する侵害であり、それは日本に対する主権侵害・内政干渉という重大な意味をもつものでした。干渉と正面からたたかいぬき、打ち破ったことは、国民的意義をもつものだったと言ってよいのではないでしょうか。(拍手) |
(私論.私見) |
ソ連共産党が崩壊したさいに「もろ手をあげて歓迎する」権利を持つのは勝共連合の立場であり、日本共産党の姿勢としてはオカシイのではないのか。 |
自主独立の路線を土台にした綱領路線の理論的・政治的発展 |
日本共産党は、自主独立の路線のうえに、この60年余、綱領路線の大きな理論的・政治的発展をかちとってきました。その中には、国際的に「定説」とされていたものを打ち破った画期的な発展がいくつもあります。私が、強調したいのは、そうした発展がどれも生きたたたかいのなかでかちとられたものだということです。ここでは、今日につながる大きな理論的・政治的発展として、四つの点についてお話ししたいと思います。とくに、それぞれの理論的・政治的発展がどういうプロセスを経て達成されたのかについて、お話ししたいと思います。 |
アメリカ帝国主義論の発展――ソ連覇権主義との生死をかけたたたかいのなかで |
第一は、アメリカ帝国主義論の発展です。1963年~64年に始まるソ連による干渉の出発点となったのは、ソ連のフルシチョフが“米ソ協調”を唱え、63年8月の米ソ英3国による部分的核実験停止条約――その実態は地下核実験合法化条約――を、日本の運動におしつけたことでした。ソ連は、“米ソ協調”路線を合理化しようとして、ソ連が「世界で最大の威力をもつ核兵器」をもつようになった結果、「帝国主義者は、“力の立場”に立つ政策を実施する物質的地盤を失ってしまった」――アメリカがソ連の核兵器の力によって平和政策を受け入れざるを得なくなったという、途方もない帝国主義美化論を行いました。こうした議論に対して、日本共産党は、1963年10月に開催した中央委員会総会(8大会・7中総)で、現在の“米ソ協調”といわれる状況は、アメリカの政策が平和的なものに変わったことを意味するものではない、アメリカ帝国主義は、ソ連など大国との対決を避けつつ、大きくない社会主義国や民族解放運動を狙い撃ちにしようという政策をとっていると分析し、この政策を「各個撃破政策」と名づけました。当時の世界で、こういう分析はどこにもありませんでしたが、日本共産党は、アメリカの実際の行動や外交・軍事の諸文書を研究してこの結論を導いたのであります。この分析の正確さは、翌年、1964年のアメリカによるベトナム侵略戦争の本格開始によって証明され、侵略戦争に反対するたたかいで力を発揮しました。わが党は、“アメリカの実際の政策や行動をもとにアメリカをとらえる”という姿勢を、その後も一貫して発展させてきました。2004年の第23回党大会で行った綱領改定では、現在のアメリカの政策と行動を分析して、アメリカがまぎれもなく帝国主義であることを明らかにするとともに、「アメリカの将来を固定的に見ない」――将来、アメリカの侵略的な政策と行動が変化することがありうるという解明を行いました。
さらにその後、わが党は、アメリカが「将来」、変化する可能性だけでなく、「現在の局面」でも、「アメリカのすることはすべて悪」と“黒一色”でとらえるのでなく、多面的に複眼で見ていくというアメリカ論を発展させていきました。2009年にオバマ米大統領が、プラハでの演説で「核兵器のない世界」を米国の国家目標にすると言明しました。私は、この演説を聞いて、新しい重要な踏み込みがあると感じ、オバマ大統領に、この言明を「心から歓迎」し、「核兵器廃絶のための国際条約の締結をめざして国際交渉を開始」することを要請する書簡を送り、米国政府から返書が届くというやりとりもありました。オバマ大統領の言明は、その後うちすてられましたが、こうした対応を行ったことは意義があったと考えるものです。今後もそうした変化が起こったときには、私たちは弾力的に対応していきます。こうした弾力的なアメリカ論は、2020年の第28回党大会で行った綱領一部改定で綱領に明記され、今日に生きる力を発揮しています。このように、“アメリカの実際の政策や行動をもとにアメリカをとらえる”というアメリカ帝国主義論は、ソ連覇権主義との全党の生死をかけたたたかいのなかで形成され、情勢にそくして発展させられてきたものであることを、強調したいと思うのであります。 |
“議会の多数を得ての革命”の路線は、どのように形成、発展してきたか |
第二は、“議会の多数を得ての革命”――選挙で国民の多数の支持を得て平和的に社会変革をすすめる路線であります。「50年問題」で引き起こされた最も深刻な誤りは、党を分裂させた分派が、干渉者のいうままに武装闘争方針をおしつけたことにありました。わが党は、61年綱領を確立する過程で、この問題を掘り下げて検討し、武装闘争方針をきっぱり否定するとともに、61年綱領で、議会の多数を得て平和的に社会変革をすすめることを、日本革命の大方向として打ち出しました。そこにいたるプロセスを、あらためてつぶさに調べてみました。その重要な契機となったのは、1956年6月に開催された中央委員会総会(「6全協」・7中総)であります。この中央委員会総会で採択された決議「独立、民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について」は、日本を含む「一連の国々では、……議会を通じて、平和的に革命を行うことが可能となった」と明記するとともに、分派がつくった武装闘争方針の土台となった文書――「51年文書」を日本の現状に「適合しない」ときっぱり否定しました。この決議の採択を契機として、綱領討議が正式に始まりました。1958年の第7回党大会を経て、61年の第8回党大会で綱領路線が確定し、61年綱領では“議会の多数を得ての革命”の路線が明確に表明されました。すなわち、武装闘争方針の否定こそが61年綱領を確立する出発点だったのであります。この路線は、1966年に始まる中国・毛沢東派による武力革命論をおしつける干渉との闘争のなかで大きく発展させられました。中国・毛沢東派は、レーニンが1917年に書いた『国家と革命』という著作を振りかざして、わが党綱領の“議会で多数を得ての革命”という路線に対して、「日本共産党は選挙活動にばかり熱中している」などという非難をあびせ、武力革命論をおしつける干渉を行ってきました。わが党は、「4・29論文」などで、マルクスの革命論を武力革命一本やりとするのは歴史のねじ曲げであることを論証し、“議会で多数を得ての革命”という路線が、マルクス、エンゲルスの革命論の大道のなかに位置づけられていることを明らかにした徹底的反論をくわえました。この理論的な探究は、1997年から2001年にかけて当時委員長・議長をつとめた不破哲三さんが執筆した『レーニンと「資本論」』のなかで、さらに大きく発展させられました。不破さんは、レーニンの『国家と革命』に再び立ち戻って全面的な批判的検討をくわえ、この著作が、マルクス、エンゲルスが生涯を通じてその可能性を追求し、豊かな肉づけをあたえてきた“議会の多数を得ての革命”という展望をまったく欠く、国家論・革命論にかかわる重大な理論的な誤りを犯していることを綿密に論証しました。不破さんの著作の全体は個人のものですが、レーニンの『国家と革命』にかかわる部分については、特別の重要性を考慮して、常任幹部会で集団的にその内容を確認したということも紹介しておきたいと思います。このように、日本共産党の綱領路線は、「暴力革命論」との徹底したたたかい、否定のなかで形成されてきたものであって、公安調査庁がいくら妄想しようとも、「暴力革命論」が存在する余地などはどこにもないということを、強調しておきたいと思います。(拍手) |
世界論の発展――ソ連、中国の覇権主義との闘争、批判をつうじて |
第三は、党綱領の世界論を大きく発展させていったことであります。61年綱領の世界論は、当時、国際的な「定説」とされていた「二つの陣営」論という世界の見方でした。すなわち、一方の陣営は、アメリカを中心とした「帝国主義の陣営」であり、戦争と侵略の政策を展開している。他方の陣営は、「反帝国主義の陣営」であり、平和、独立、社会進歩のためにたたかっている。こういう世界の見方でした。これは一見分かりがいいのですが、大きな問題をはらんだ世界論でした。わが党は、2004年の綱領改定、2020年の綱領一部改定で、こういう図式的な見方を清算し、“20世紀に起こった世界の構造変化――植民地体制の崩壊と百を超える主権国家の誕生が、21世紀の今日、平和と社会進歩を促進する生きた力を発揮しはじめている”――20世紀の世界史的発展を踏まえて、21世紀を展望するという新しい世界論をうちたてました。ここで強調したいのは、こうした新しい世界論は、ただ机の上で考えたというものでなく、覇権主義に対する闘争と批判をふまえて、到達した世界論であるということです。かつての「二つの陣営」論の最大の問題点は、「反帝国主義の陣営」のなかにソ連覇権主義という巨悪が含まれていたことにありました。わが党は、ソ連の覇権主義との生死をかけた闘争の経験をふまえて、さらに、近年、顕著となった中国の覇権主義・人権侵害への批判をつうじて、一切の図式的見方から解放されて、世界をあるがままの姿で、リアルにダイナミックにとらえる新しい世界論を確立したのであります。 |
野党外交と世界論――発達した資本主義国の左翼・進歩政党との交流の発展を |
いま一つ、私が、強調したいのは、わが党の新しい世界論は、1999年に本格的に開始した野党外交の生きた実践をつうじて豊かにされてきたということです。わが党は、この間、核兵器禁止条約の国連会議、NPT(核不拡散条約)再検討会議などに参加し、唯一の戦争被爆国の政党として「核兵器のない世界」の実現のために力をつくしてきました。また、東南アジアの国ぐにを繰り返し訪問し、そこで起こっている平和の激動に直接触れ、その教訓を学ぶなかで、東アジアに平和をつくる「外交ビジョン」を提唱してきました。私たちは、これらの活動に取り組むなかで、今日の世界は一握りの大国が思いのままに動かしている世界ではない、世界のすべての国ぐにと市民社会こそが国際政治を動かす主役となる時代が到来していることを、強い実感をもってつかんでいきました。わが党綱領の世界論は、こうした野党外交の生きた経験の裏付けをもつものであり、野党外交によって豊かにされてきているのであります。ここで野党外交の一つの新しい発展方向をのべたいと思います。発達した資本主義国の左翼・進歩政党との交流と協力の新たな発展をはかりたいということです。ヨーロッパの左翼・進歩政党の現状を見ますと、「軍事同盟のない世界」「核兵器のない世界」などで、私たちと協力することが可能で、かつ、それぞれの国で政治的影響力を持ち国政選挙などでも健闘している政党が、一連の国ぐにに存在しています。日本共産党は、それらの政党と、あれこれの理論的立場の違いを超えて、直面する国際的連帯の課題を実現するための交流と協力を強化していきたいと思います。発達した資本主義という共通した条件のもとで活動している政党が、互いにその経験を学び、交流し、一致点で協力することは、大きな意義をもつものであると考えるものです。こうした方向にも野党外交を発展させていきたいと考えていますが、いかがでしょうか。(拍手) |
社会主義・共産主義論――画期的な理論的発展をどうやってかちとったか
第四は、未来社会論――社会主義・共産主義社会論を、大きく発展させたことであります。61年綱領の社会主義・共産主義論は、これも当時、国際的な「定説」とされていた生産物の分配方式を中心としたものでした。社会主義段階は、「能力におうじてはたらき、労働におうじてうけとる」の原則が実現される社会であり、共産主義段階は、「能力におうじてはたらき、必要におうじてうけとる」状態に到達した社会として、説明されていました。これはレーニンの『国家と革命』に由来する「定説」でしたが、「必要におうじての分配」ということは一体どういうことか。私なども、学生時代から疑問で、おいしいものが腹いっぱい食べられる社会ということかなどと議論したものでした。生産物が人間の欲望を超えてありあまるほど分配されることが、理想社会の一番の目標ということになるとどうなるでしょうか。社会主義・共産主義のもつ人間の自由と解放という壮大な人類史的意義をとらえられない、あまりに寂しい見方になってしまうではないでしょうか。わが党は、2004年の綱領改定のさいに、こうした旧来の規定を抜本的に見直し、「生産手段の社会化」を社会主義的変革の要にしっかりすえるとともに、“すべての人間が十分な自由の時間をもち、その時間をつかって、自分の能力を自由に全面的に発展させることのできる社会”というマルクスの未来社会論の真の輝きを発掘し、綱領にすえたのであります。それでは、わが党は、この画期的な理論的発展をどうやってかちとっていったのか。
2003年6月の中央委員会総会(22大会・7中総)で行われた綱領改定案についての中央委員会報告で、当時の不破哲三議長は、理論的発展の経過を二つの角度から明らかにしています。第一は、ソ連崩壊という事態を受けて、わが党が、ソ連社会の実態についての研究を行い、「ソ連社会は、対外関係においても、国内体制においても、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会であった」という結論的な認識に到達したということです。第二は、わが党が、それと並行して、科学的社会主義の未来社会論そのものを、より根源的にとらえなおす努力をつくしたということです。ソ連社会が社会主義と無縁な社会ならば、本来の社会主義とは何かが問われてきます。この問題を根源から探究する努力のなかで、わが党は、かつての「定説」の大本になったレーニンの『国家と革命』の批判的再検討をこの面でもすすめ、『資本論』とその草稿の研究のなかからマルクス本来の未来社会論を発掘し、その基本点を2004年に改定した綱領に盛り込みました。こうしてソ連の体制への徹底的批判が、未来社会論の豊かな発展につながっていったのであります。さらにわが党は、2020年の綱領一部改定にさいして、ロシア革命以降の1世紀の歴史を概括して、綱領に「発達した資本主義国での社会変革は、社会主義・共産主義への大道である」という命題を書き込みました。高度な生産力、経済を社会的に規制・管理するしくみ、国民の生活と権利を守るルール、自由と民主主義の諸制度、人間の豊かな個性などを引き継ぎ、発展させる、未来社会の壮大な展望を明らかにしました。格差と貧困の拡大、気候危機の深刻化など、資本主義体制の矛盾が地球的規模で噴き出し、この制度をのりこえる社会への模索と探究が、さまざまな形で広がっている21世紀の世界において、わが党綱領の未来社会論は、科学的社会主義の未来社会論の本来の輝き、本来の魅力を現代に生かすものとして、国際的にも画期的な意義をもつものだと確信するものであります。(拍手) |
科学的社会主義の「ルネサンス」――覇権主義とたたかい続けた全党の奮闘の成果 |
これらの理論的・政治的発展のなかで大きな役割を果たしてきた不破哲三さんは、党創立90周年の記念講演で、わが党の半世紀にわたる理論的発展について、「スターリン時代の中世的な影を一掃して、この理論の本来の姿を復活させ、それを現代に生かす、いわば科学的社会主義の『ルネサンス』をめざす活動とも呼べるものだ、と思っています」とのべました。私も、まさに「ルネサンス」と呼ぶにふさわしい仕事であり、現綱領はそれを体現したものだということを、確信をもって言いたいと思います。そしてこの理論的・政治的達成は、自主独立の立場であらゆる覇権主義とたたかい続けた全党の奮闘によってかちとった成果であるということを、私はかさねて強調したいと思うのであります。(拍手) |
党の活動と組織のあり方――民主集中制の発展
わが党自身の歴史的経験のなかでつくられ、発展してきたもの
自己改革というわが党の特質の最後に、日本共産党が党の活動と組織のあり方においても、自己改革を重ねてきたということをのべたいと思います。この問題でも大きな自己改革を行ったのが「50年問題」の総括でした。なぜソ連・中国などからの干渉によって、党が分裂するという事態に陥ったのか。その大きな根の一つに、当時の党内に強くあった反民主的な気風がありました。とくに党の中央委員会で、当時の徳田書記長の専決による指導が人事も含めて支配的となり、徳田の気に入らないものは排除されるという状態が生まれ、民主的、集団的な検討が保障されなかったことが、分裂という最悪の事態に陥る根の一つとなりました。その総括にたって、わが党は、いかなる事態のもとでも党の統一と団結――とりわけ中央委員会の統一と団結を守ること、個人中心主義のやり方を排して、集団的な指導を重視すること、党内の民主主義的な気風を大切にするとともに、規律をやぶる分派主義は絶対に許さないこと――これらの民主集中制の原則を守り、発展させることが何よりも大切だという教訓を引き出しました。民主集中制という組織原則を確立したからこそ、わが党は、足かけ5年におよぶ党内での徹底的な民主的討論をへて、61年綱領を確立することができました。さらに、その後の、旧ソ連と中国・毛沢東派による内通者を分派に仕立てての干渉攻撃を打ち破ることもできました。わが党の民主集中制という原則は、外国のどこかから持ち込まれたものではなく、わが党自身の歴史的経験のなかでつくられ、発展してきたものであるということを、私はまず強調したいと思うのであります。 |
(私論.私見) |
ここで、組織規律論では民主集中制と云う名の強権中央集権制と分派禁止の堅持を宣言している。政策面では限りなくソフト化し組織面では相変わらず強面(こわもて)で行くと云う、宮顕-不破-志位ラインの党中央にはまことに都合の良い本音を明かしている。 |
2000年の規約改定――組織と運営の民主主義的な性格をいっそう発展させた |
さらに、日本共産党は、2000年の第22回党大会での規約改定で、日本共産党と日本社会の関係の新しい発展にそくして、党の組織と運営の民主主義的な性格をいっそう発展させました。この規約改定では、それまでの「前衛政党」という規定について、「前衛」という言葉に込めた「不屈の先進的な役割をはたす」という党の特質はしっかりと引き継ぎながら、「前衛」という言葉そのものは誤解されやすい要素があるので規約から削除しました。それまでは党組織の相互の関係で、「上級・下級」という言葉が使われてきましたが、中央委員会から支部にいたるまで、わが党に「上下関係」はありません。共通の事業を実現するうえでの仕事の分担にすぎません。そのことを踏まえ、「上級・下級」という表現はできるだけ取り除きました。それまでは民主集中制を、「民主主義的中央集権制」とも表現していましたが、「中央集権制」という表現も、この時に削除しました。第22回党大会への規約改定報告では、「『民主』というのは党内民主主義をあらわします。『集中』というのは統一した党の力を集めることをさします。これはどちらも近代的な統一政党として必要なことであります」とその意味を明確にしました。この規約改定も、党の組織と活動のあり方の大きな自己改革であり、わが党は改定規約の条項と精神にそくして、活動を発展させてきました。
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民主集中制に対する攻撃に答える――党大会の開き方を見てほしい |
わが党が民主集中制を組織原則にしていることをもって、「上意下達の党」「閉鎖的な党」などと非難し、この原則を放棄せよと迫る攻撃が、半世紀前から繰り返されています。私は、そうした議論に対して、党の民主主義のうえでも、統一のうえでも、カナメをなす党大会を、私たちがどうやって開いているかを見てほしいと言いたいと思います。2020年に行われた第28回党大会の場合、党大会の議案は、大会の2カ月半前に発表され、2カ月半にわたって、すべての支部、地区委員会、都道府県委員会が、会議を開いて議論をつくし、全体で1800件の意見・提案等が寄せられました。党の会議では多数にならず、大きな流れのなかでは現れてこない少数意見も含めて、214通の個人意見が寄せられ、「しんぶん赤旗」の臨時号に掲載されました。それらの意見は一つひとつ吟味され、大会議案に修正・補強が加えられ、採択されました。全党討論で寄せられた意見の一つに、党綱領の一部改定で「ジェンダー平等」を明記したことにかかわって、1970年代、「赤旗」に掲載された論文などで、同性愛を性的退廃の一形態だと否定的にのべたことについて、きちんと間違いと認めてほしいというものがありました。この意見についても集団的に吟味したうえで、党大会の結語で、「これは当時の党の認識が反映したものだが、間違いであったことを大会の意思として明確に表明したい」と真剣な反省をのべました。たとえ半世紀近い前のものであっても、事実にそくして間違いはきっぱりと正す。これが日本共産党の大原則なのであります。民主集中制に対する攻撃は、わが党の民主的運営のこうした生きた実態や、自己改革能力を見ようとしない不当な独断に満ちたものといわなければなりません。 |
(私論.私見) |
ここで、「ジェンダー平等明記」を自画自賛している事を確認しておく。 |
ところで、自民党の党大会はどう開かれているでしょうか。今年の党大会は3月13日、1200人を集めて開かれていますが、午前10時開会、12時には終わっています。大会の「次第」を見ますと、その2時間に、国歌、党歌の斉唱、来賓あいさつ、党務報告、運動方針報告、党則改正報告、優秀党員などの表彰、総裁演説、特別企画の空手演武の披露、参院候補者紹介、必勝コールが行われています。驚くことに、報告・提案に対する質疑も討論も、大会の「次第」にまったくありません。この党の「自由」と「民主」はいったいどこにあるのか。そのことが問われてくるのではないでしょうか。みなさん。民主集中制の組織原則をもつ党は、党内の民主的討論にもっとも力をつくす党であることは、こうした対比においても明らかではないでしょうか。(拍手)自己改革という角度からわが党の歴史をお話ししてきましたが、私たちは今後もこの姿勢を貫きます。科学的社会主義と綱領を土台に、誠実に、真剣に、自己改革の努力を続けるならば、どんな困難ものりこえることはできると、私は確信するものであります。(拍手) |
(私論.私見) |
自民党の党大会に触れて、「この党の『自由』と『民主』はいったいどこにあるのか」と問い、返す刀で、「民主集中制の組織原則をもつ党は、党内の民主的討論にもっとも力をつくす党であることは、こうした対比においても明らか」としている。言論詐欺師の面目躍如の言であろう。 |