小林多喜二考

 (最新見直し2015.03.08日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、小林多喜二を検証しておく。「ウィキペディア小林多喜二」、「小林多喜二」、「児玉 悦子の小林多喜二論」その他を参照する。他にも「小林多喜二虐殺事件」、「小林多喜二はいかに殺されたか 江口渙の「多喜二虐殺」読む」他を参考にしたが、「スパイ三船留吉手引き説」等々、宮顕、百合子におもねた書き方をしているのでそのままでは使えない。ちなみに「小林多喜二虐殺事件」はコピー転載できなくしている。何の為にか分からぬが、日共系の者がすることは解せないことおびただしい。観点もオカシイとなるとどこに取り柄があるのだろうか。

 2013.2.24日 れんだいこ拝


【小林多喜二の生涯履歴】
 (1903.10.13日-1933.2.20日)。日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家である。
 1903(明治36).10.13日、秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)で農家(貧農)の次男として生まれる。

 1907(明治40)年、4歳の時、小樽でパン屋をしていた伯父を頼り、一家そろって北海道・小樽の若竹町に移住する。多喜二はこのパン工場に住み込みで働く。

 小樽商業学校卒業後、1921(大正10)年、伯父の学資を受け小樽高等商業学校((現国立小樽商科大学)へ進学。在学中から創作に親しみ、文芸誌への投稿や、校友会誌の編集委員となってみずからも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組んだ。

 小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。

 卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に勤務。市内の有志とともに同人誌「クラルテ」を発行した。この間、志賀直哉文学のリアリズムに傾倒し、自作を送って批評を求める等している。この頃、悲惨な境遇にあった恋人田口タキを救う。

 多喜二は勤務の休み時間に本を読み、仕事の合間に紙片に原稿を書いていた。彼のこの素行は次第に知れるようになったが、人徳によってか特段の掣肘を受けていない。多喜二はそれまで約30篇の習作的な短篇を書いていた。この間、田口たきという酌婦と恋愛し、彼女をその苦境から救い出したりしている。この頃、ストリンドベルヒ、ロシア文学の巨峰ドストエフスキー作品愛読している。続いてゴーリキー文学に傾倒する。
 
 1921(大正10)年、プロレタリア文学が「種蒔く人」を創刊する。1923(大正12).9.1日、関東大震災発生(死者9万1802名、行方不明者4万2257名)。1924(大正13)年、文芸戦線が創刊される。1925(大正14)年、日本プロレタリア文学の草分けとして登場する葉山嘉樹 の「淫売婦」(「文芸戦線」第2巻7号)が発表される。多喜二21歳の時であり、読んだ時の感想を次のように記している。
 概要「自分にとつては少くとも記念すべき出来事である。自分にはグアン!と来た。言葉通りグアンと来た」(「小林多喜二日記」1926.9.14日)。

 こうして、社会的諸問題に関心を抱き、港湾労働者の争議の支援等にかかわるようになる。

 1925(大正14)年、日本プロレタリア文芸連盟が結成される。1926(昭和元)年、葉山嘉樹が続いて「海に生くる人々」を発表する。多喜二は大いに触発され作家を決意する。この年、共産党が再建された。

 1927(昭和2)年、労農芸術家連盟(分裂後は前衛芸術家同盟)に加入。中編「防雪林」(生前未発表)を書く。

 1928(昭和3)年、第1階階総選挙が行われた。この時、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品「東倶知安行」に生かされている。同年3.15未明、田中義一内閣が共産党、労農等等の関係者約3600名を検挙し結社を禁止した。これを「3.15事件」と云う。同年暮れ、「3.15事件」を題材にして「一九二八年三月十五日」を全日本無産者芸術連盟の機関誌「戦旗」に発表した。検閲を通す為に編集部判断でかなりの削除、伏字をしたが発売禁止になった。但し、非合法で流通し80000部以上が売れ、一躍脚光を浴びることになった。これより警察からも要注意人物としてマークされ始める。作品中の特別高等警察による拷問の描写が特高の憤激を買い、後年の拷問虐殺へとつながる。

 1929(昭和4)年、「蟹工船」を「戦旗」に発表。厳しい労働条件に苦しむ蟹工船の労働者たちが、団結して闘争に立ち上がるという筋書きの作品で、当時のプロレタリア文学の理論的、実作的水準を一挙に高めた画期的作品と高く評価され、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集める。国際的評価も高く、いくつかの言語に翻訳されて出版された。同年7月、土方与志らの新築地劇団(築地小劇場より分裂)によって「北緯五十度以北」という題で帝国劇場にて上演された。同年、中央公論に発表した「不在地主」が原因で銀行を解雇される(形は依願退職)。同年8月、読売新聞紙上で、「蟹工船」が「本年度上半期の最高作」として推薦されたと報じた。

 1930年春、東京へ移住。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。同5月中旬、戦旗を発売禁止から防衛するため江口渙、貴司山治、片岡鉄兵らと京都、大阪、山田、松阪を巡回講演する。「工場細胞」を発表した直後の5.23日、大阪で日本共産党へ財政援助の嫌疑で逮捕され、額に傷が残るほどの激しい拷問を受けたが、 6.7日、一旦釈放された。

 6.24日に帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され、7月、「蟹工船」の件で不敬罪の追起訴を受ける。8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。

 1931(昭和6).1.22日、保釈出獄。その後神奈川県・七沢温泉に篭る。「オルグ」、「独房」、「安子」を書き上げる等、文学運動の先陣に立ち、日本プロレタリア作家同盟書記長になる。同10月、非合法下にあった日本共産党に入党。入党後は作家同盟の党グループ員となり日本プロレタリア文化連盟の結成に尽力する。11月上旬、奈良の志賀直哉邸を訪ねる。11.15日、作家同盟の拡大中央委員会で芸術協議員に選出されている。

 1932(昭和7)年春、危険思想取締りによる文化戦線への大弾圧を機会に地下活動に追いやられる。文化団体の共産党グループ責任者として「右翼的偏向の諸問題」など多くの評論を書き、大作「転形期の人々」の執筆に向かう。)4月下旬、伊藤ふじ子という女性と麻布で同棲し始める。8月下旬、自らの地下生活の体験を元に「党生活者」を執筆し、満州事変直後の軍需工場内の共産党細胞の活動を、個人的生活のいっさいをなげうって党活動に専心する主人公「私」の動向を中心に描き、世に問う。

 1933(昭和8).2.20日、築地警察署の特高刑事に逮捕された。この時の特高警察部長は安倍源基。部下は毛利基特高課長、中川成夫警部、山県為三警部。丸裸にされ3時間以上に及ぶ執拗な拷問を受けた末に留置場に投げ込まれた。既に意識がなく、ただならぬ様子を見て、同房の者が看守を呼び、警察裏の築地病院に担架で運んだが、午後7時45分、死亡した(亨年31歳)。死因は心臓まひと発表された。

 中央公論編集部は、多喜二から預かったまま掲載をためらっていた「党生活者」の原稿を「転換時代」という仮題で中央公論(1933.4-5月号)に遺作として発表した。


【逮捕、拷問考】
 事件から三年後、多喜二と一緒につかまって市ヶ谷刑務所にいた詩人の今村恒夫が膀胱結核で保釈になり、つかまった時の様子について次のように証言している。
 共産同盟の責任者に会う用件があり二人で出かけたら特高三人がいた。二人が同じ方向に逃げ、多喜二は着物で道がぬかるんでいたので追いつかれ、特高が「どろぼうだあ」と叫んだので近くの大勢の運転手に取り押さえられた。築地署にて。水谷特高主任や悪名高い特高係の芦田が取り調べ、警視庁からはナップ係の中川警部が須田巡査部長と山口巡査をつれてくる。よってたかって残忍な拷問が始まる。丸裸にされた小林はあくまで頑張り続け、床に寝かされて上から踏みまくられ内臓が破れた。四時過ぎに死にそうになったのをみて調べ室から留置場におろした。

 日本プロレタリア文化連盟の「大衆の友」に載った窪川いね子の「屍の上に」の一節は次のように記している。

 「午後十一時、阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。前田病院へ電話をかけると、死体は自宅へ帰ったというのだ。我々六人はものを言うと慄(ふる)えるような気持ちで、言葉少なく歩いた。昨年三月以前、まだ文化連盟の犠牲者たちが外にいる頃、同志小林を訪ねて来た道である。家近くなると、私は思わず駆け出した。玄関を上がると左手の八畳の部屋、もとの小林の部屋である。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。床の間の前に、蒲団の上に横たえられた姿! ああやっぱり小林であった。蒼ざめ、冷たくこわばっているその顔! それはやはり同志小林の顔である。彼は十ケ月ぶりで自分の部屋に帰って来ている。それを彼はもう知らない。我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。我々の目は一斉に、その無残に皮下出血をした大腿部へそそがれた。みんな一様にああ! と声を上げた。蒼白くこわばった両脚の太ももは、すっかり暗紫色に変じている。我々は岩田義道を思い出した。

 お母さんが、ああッ、おおッとうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながら「お母さん、気を丈夫に持っていらっしゃいね」、「ええ、大丈夫です」。お母さんは握りしめているハンカチで、涙を両方へこするように拭いて、ははっ、おおっと声を上げた。「心臓が悪いって、どこ心臓が悪い。うちの兄ちゃは、どこも心臓がわるくねえです。心臓がわるければ泳げねえのに、うちの兄ちゃは子供の時からよう泳いどったんです」・・・中略・・・押しあぐる息で、お母さんは苦しそうに胸を弱って、はつッ、おつッと声を上げつづけた。涙を腹立たしそうにこすっては、また顔の上にかがみ、小林のこめかみの傷を撫で「ここを打つと云うことがあるか。ここは命どころだに。はア、ここ打てば誰でも死にますよ」。それから咽喉の縄の跡を撫で、両頬にあるさるぐつわの跡を撫で廻した。しわを延ばすように力を入れてこすり、血を通わそうとするように。お母さんは、小林の顔に、胸に、足に、見るところ毎に、敵の凶暴な手段の跡をはっきりと認めた。おっ母さんが見たように、我々もまた同志小林の顔に、胸に、足に敵の凶暴な手段の跡をはっきりと認めた」。


【小林多喜二虐殺考その1、逮捕から虐殺まで】
 小林多喜二検挙手引き犯の詮索をひとまず置いて、小林多喜二虐殺の様子を確認しておく。次のように証言されている。

 1933(昭和8).2.20日、多喜二は大島銘仙の着物に二重回しを着、ロイド眼鏡にソフト帽をかぶり変装して、赤坂福吉町の待合に近い食堂で詩人にして文化運動組織の地下の指導者で文化団体内の共青の責任者だった洋服姿の今村恒夫と落ち合った。二人は党の連絡線から指定されていた近くの飲食店に入った。待ち受けていたのは張り込んでいた特高刑事だった。二人は店を飛び出して、人通りの多い電車通りの方へ逃げた。正午過ぎ、赤坂・田町6丁目の芸妓屋街を中心に逃走し溜池の市電通りに出たところ、刑事たちが「泥棒」「泥棒」と叫んだために通行人によって取り押さえられた。

 小林と今村は、自動車で築地署へ運ばれた。それと前後して、警視庁特高課(各警察署の特高係司令部)から、テロ係という評判のある中川、須田、山口が築地署に来た。小林と今村は引き離され、小林は本庁の三人によって、今村は築地署の特高係に別々に拷問された。今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」によると、警視庁特高係長中川成夫の指揮の下に、小林を寒中まる裸にして、先ず須田巡査部長と山口巡査が握り太のステッキで打ってかかったとある。

 多喜二は、築地警察署内において3時間以上にわたる激しい拷問により全身を殴打された末、夕方頃に十人ほど留置されていた第三房留置場に投げ込まれた。既に意識がなく、身もだえしながら、「苦しい」、「ちきしょう」ということばを、半死半生の状態で口にした。小林が便所へ行きたいと言い出して、看守が許可して、同房の二人が背負うようにして、留置場内の便所に運んだ。血尿が出たことから、同房のものが騒ぎだして、看守が小林をそれから畳のある保護室に移した。留置者の一人を付き添いにつけた。まもなく小林にシャツクリの発作がおこった。半眼を開いた小林の目は、うわずっていた。付き添いが看守に怒鳴って、急変を告げ、しばらくして白衣の医師が留置場に姿をあらわした。小林は警察裏の築地病院に担架で運び出された。午後7時45分、死亡した(亨年31歳)。

 翌日の午後、築地署は、拷問の事実に一切触れず「心臓麻痺で急死」と発表した。夕方、母親が遺体をひきとった。死顔は日本共産党の機関紙「赤旗」(せっき)が掲載した他、同い歳で同志の岡本唐貴により油絵で描き残されている。小林多喜二を拷問した警視庁特高課の三人は、第二次世界大戦後、中川が東京のある区の区長になり、山口は発狂して精神病院で死んだ。須田がどうなったかはわからない云々。

 「【関連情報2】▼中川成夫(しげお)とは?」を転載する。
 http://tree.atbbs.jp/saiken/detail?n=4247

 くらせみきお「小林多喜二を売った男 スパイ三舩留吉と特高警察」という本があり、その中には中川成夫に関して、上記の松本克平さんより詳細な記述があります。
                           
 中川成夫(しげお):警視庁特高課第二係長

 明治27年(1894)9月5日、農家の三男として広島県に生まれる。大正5年前後に上京。不明ながら何かの職についた後、警視庁巡査となる。3ヶ月間の警察練習所(警察学校)を終了後、外勤係巡査となる。巡査勤務の間、苦学して日本大学専門部の夜間部本科(法律学科)に学び、大正12年(1923)3月卒業。28歳。昭和3年(1928)、東京市下谷区(現、台東区)上野警察署の特高係に勤務。翌年、四・一六全国一斉検挙事件(339名起訴)に応援・関係したのを機に警視庁特高課に配属される。山県為三警部とともに「昭和の新選組」「警視庁新選組七人衆」を自称し、その取調べ方は拷問を伴う荒っぽいものだった。昭和7年頃は専らプロレタリア文化連盟などの左翼文化運動を担当し、主任警部として活躍する。昭和7年、警察官の最高栄誉である功労記章を下付され、翌年12月末にも中川ら19名の特高警察官が功労記章と特別賞を受ける。昭和12年5月、特高第一課第一係から同課第二係に転じ、その係長に昇進。43歳。翌年、経済警察の創設に伴い、その経済第三課に転じ、同課長に就任。昭和14年、警視庁警視に昇進、高輪署長に栄転。昭和18年、築地署長に就任。昭和18年7月1日、東京市制が東京都制へ移行に際し、都政施行によって都長官は官選となり、都内区長職も東京都書記官を充てることとなると、中川は警察を退職して東京都書記官へと転じる。昭和19年6月30日、東京都滝野川区(現、北区)区長に就任、敗戦後の昭和21年3月30日までこれを務める。昭和21年、公職追放となるが、同年、滝野川区のヒカリ座映画劇場の経営に参画。同劇場の常務取締役に就任。さらに、オリムピア興業(映画興業会社)に転じ、同社の専務取締役となる。昭和27年10月、オリムピア興業の東映への吸収合併に伴い、幹部社員として東映に入社、のちには同社の取締役興業部長等を務める。この間、自宅借地の寺院内に幼稚園を設立し妻がこれを経営(後に、同幼稚園は学校法人となる)。幼稚園の経営を背景に、昭和38年からは北区教育委員会委員を務め、昭和43年には同教育委員長となっている。

 【関連情報3】▼安倍源基とは?(Wikipediaより)

 安倍 源基(あべ げんき、明治27年(1894年)2月14日 - 平成元年(1989年)10月6日)は、日本の内務官僚、弁護士。警視庁特別高等警察部長、警視総監、内務大臣を歴任した。

 略歴

 1920年 - 東京帝国大学法学部を卒業、内務省に入省。1932年 - 警視庁特別高等警察部長(初代)。1937年 - 警保局長。1937年 - 警視総監。1940年 - 警視総監再任。1941年 - 企画院次長。1945年 - 鈴木貫太郎内閣で内務大臣及び企画院総裁に就任。 

 来歴・人物

 1894年、山口県熊毛郡曾根村(現平生町)に生まれた。山口県士族安倍半次郎の長男。山口中学、徳山中学(現山口県立徳山高校)、第六高等学校を経て、1920年、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。1932年、警視庁において初代特別高等警察部長となり、赤色ギャング事件や日本共産党査問リンチ事件を通じて「赤狩り安倍」の名を轟かせた。安倍が特高部長であった1933年には、19人が特高警察の過酷な取調べで死亡しており(19人は戦前で最多、「しんぶん赤旗」2005年2月17日)、その中にはプロレタリア文学作家の小林多喜二も含まれている。1936年の二・二六事件に際しては、特高部長として戒厳会議の構成メンバーであった。その後、内務省保安課長、同警保局長、警視総監を歴任した[2]。太平洋戦争末期の1945年、鈴木貫太郎内閣で内務大臣及び企画院総裁(心得)に就任。ポツダム宣言受諾には豊田副武などと共に反対意見[3]だった。

 戦後、A級戦犯容疑者の一人として逮捕された。しかし、東條英機らの死刑執行が終わると、占領政策の転換で不起訴となり釈放された。その後、岸信介・木村篤太郎らと共に新日本協議会を結成、代表理事に就任した。のちに全国警友会連合会会長、東京都警友会会長を歴任した。従三位勲一等を受賞。1956年の第4回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で山口地方区から立候補したが、落選している。なお、自民党が参院選山口地方区(山口選挙区)で敗れたのは、この時と1989年(日本社会党の山田健一が当選)、1998年(無所属の松岡満寿男が当選)の3回しかない。1989年10月6日死去。
 山田正行は、「小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫」2、4において、次のように書いている。(「宮地健一のHP『共産党問題、社会主義問題を考える」の「4、〔疑惑証拠2〕、小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫経歴」参照)
 1933年2月22日、築地署に小林多喜二が連行されたことはすぐさま留置場内に伝わり、次に中川や須田が来たときもサッと伝わったという。実際、その日、署内に中川や須田がいたことは、政治犯や思想犯たちに目撃されている。
 小林多喜二が署内で絶命すると、警察は「心臓麻痺」と新聞発表し、遺体を自宅に返した。急を知って大勢の友人、知人が駆けつけてきたが、遺体のあまりにも凄まじく無残な姿に、解剖で死因を究明しようと、東京大学はじめいくつかの医大へ掛け合った。しかし、どの医大にも特高が手を回しており、断られた。
 最後に、内科医安田徳太郎医学博士(「山宣」こと山本宣治のいとこ)が死体の外況を検分した。
両こめかみに大きな打撲傷を中心に数箇所の傷跡があり、皮下出血していた。首に細引きで絞められた痕が残り、手首にも細引きで縛り上げられた痕があった。下腹部から膝にかけて、前も後ろも一面墨と紅がらをまぜて塗りつぶしたように覆われていた。大腿部は二倍ほどにふくれ、太い釘か畳針で突いた穴が十数か所あり、肉が露出しているところもあった。陰茎も睾丸も赤黒い内出血で異常にはれあがっていた。右手の人差し指は反対に折り曲げられて完全骨折し、指先が手の甲にとどく程であった。このような遺体の状況については、安田が説明し、そこに居合わせた友人たちが記録した。そして、戦後になり江口渙や手塚英孝らによって公表された。
 多喜二の陰茎も睾丸も赤黒い内出血で異常にはれあがっていたということは、男の存在の本源を傷つける暴力を中川や須田は振るったことを実証している。しかも、このような拷問を受けた多喜二は29歳の青年であった。まさに正気の沙汰ではない。

【死に場所考】
 2019.20.20日、「86年目の多喜二虐殺の日に思う」参照。
 築地署特高に逮捕された多喜二は、数時間におよぶ拷問の末、運びこまれた築地署近くの前田医院で絶命したとされている。しかし、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟(中央本部常任理事・千葉県本部理事)の藤田廣登氏は、その著書「小林多喜二とその盟友たち」(学習の友社)のなかで、築地署・特高らは、虐殺した多喜二の遺体を前田医院には運ばず、そのまま翌21日の午後まで放置していた可能性があると疑義を呈している。藤田氏はその根拠として、多喜二急逝の報で、文芸講演会を途中で切り上げて最も早く築地署に駆けつけたグループの一人、田邊耕一郎氏の目撃証言を挙げている。田邊氏は、「小林が絶命したあとまる一日築地署の冷たい留置場入り口のところのたたきの上に、丸裸で仰向けにして転がされ、きたないドンゴロス(麻で織った粗布=小松)の布切れをかぶせて引き取り人がくるまで放ったらかされていたものと思われる。私が駆けつけたのは三時頃だったと思うが、その時はそうなっていたのだ」と述べている。前田医院への搬送は、築地署内ですでに絶命していた事実を糊塗し、「心臓麻痺で死んだ」との警察発表に合わせるための偽装に過ぎなかったということになる。

 警視庁特高は、最初から多喜二の命を奪うつもりだったと藤田さんは指摘している。それを裏付ける江口渙の証言が紹介されている。その2月上旬、警視庁を訪れた江口氏に語った特高・中川成夫の言葉「小林多喜二のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説など書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。・・・・いいか。われわれは天皇陛下の警察官だ。・・・・おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは逆賊だ。そんな逆賊はつかまえしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ。小林多喜二もつかまったら最後いのちはないものと覚悟していろと、君から伝えておいてくれ。このことだけは、やつがつかまらないうちからはっきりいっておくからな。いいか、連絡であのやろうにあったら忘れずに伝えてくれ」。その言葉通り、中川ら特高は多喜二を虐殺した。そのことに対し、未だに日本政府は謝罪もしていなければ調査もしていない。

【小林多喜二虐殺考その2、通夜と葬儀の様子】
 翌21日夜、多喜二は母親セキの家(東京都杉並区馬橋)に運ばれた。セキは、変わり果てた息子の体を抱きかかえて次のように泣き叫んでいる。
 「あぁ痛ましや、痛ましや。心臓まひで死んだなんてウソだでや。子供の時からあんなに泳ぎが上手でいただべに。(中略)心臓の悪い者にどうしてあんだに泳ぎができるだべが。心臓まひだなんてウソだでや。絞め殺しただ。警察のやつが絞め殺しただ。絞められて息が詰まって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべが。息のつまるのが、息のつまるのが、、、あぁ痛ましや、痛ましや」。(泣きながら)「これ。あんちゃん。もう一度立てえ!みなさんの見ている前でもう一度立てえ!」。

 潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子が来るや遺体に取り付き、顔を両手で挟んで泣きながら多喜二に接吻をした。最期の別れをして夜中に去って行った。彼女は、小林の死後、政治漫画家熊森猛と再婚したが、小林多喜二を想う心を持ち続け、次のような句を残している。「アンダンテ・カンタービレ聞く多喜二忌」、「多喜二忌や麻布二の橋三の橋」。澤地久枝著「昭和史のおんな」の「小林多喜二への愛」で追跡されている。熊森は、1982年に亡くなった妻の骨壷に、彼女が持ち続けた小林多喜二の分骨を一緒にして納骨したと云う。

 翌朝、小樽時代の愛人で一度は結婚していた美しい田口滝子が妹と妹の友人の三人で訪ねてきた。

 同志たちが死因を確定するため、遺体解剖を依頼したが、どの大学病院も引き受けなかった。次のように記されている。
 「東大と慶応はすでに警視庁の手がまわり断られる。慈恵医大が引き受けてくれて寝台車に遺体を乗せて向かう。医大は警視庁からの圧力にいったん引き受けたのに頑として受けられないと拒否」。

 多喜二の遺体の様子につき次のように記されている。
 「左右の太ももは多量の内出血で色が変わり膨れ上がっていた。背中一面に痛々しい傷跡があった。手首には縛りあげられたことによりできた縄跡、首にも同様の縄の跡が認められた。左のこめかみ下辺りに打撲傷、向こう脛に深く削った傷跡が残っていた。右の人差し指は骨折していた」。
 「安田博士の指揮のもとで検診がはじまる。すさまじいほど青ざめた顔はでこぼこになり、げっそりと頬がこけ眼球がおちくぼみ十歳も老けて見え左のこめかみにはバットで殴られたような跡がある。首にはひとまきぐるりと細引きの跡。両方の手首にも縄の跡。下腹部から両足の膝頭にかけて墨とべにがらを混ぜて塗りつぶしたようなものすごい色に一面染まっている。内出血により膨れ上がっている。ももには錐か釘を打ち込んだような穴が15~6箇所もあいている。脛にも肉を削り取られたような傷がある。右の人差し指が反対側につくぐらい骨折。背中も一面の皮下出血。上の歯も一本ぐらぐらとぶら下がっている状態。内臓を破られたために大量の内出血がすでに腹の中で腐敗し始めていた」。

 多喜二の死を知った人たちが次々と杉並の家を訪れたが、待ち構えていた警官に検挙された。3.15事件記念日の3.15日に築地小劇場での葬儀が企画されたが、当日、江口葬儀委員長他が警察に逮捕されたため取り止めになった。多喜二の墓は南小樽の奥沢共同墓地にある。「昭和5年6月2日小林多喜二建立」とあるので、多喜二は絶命の3年前に墓を建立していることになる。

 悲報を聞いた中国の作家魯迅からの弔電は次の通り。
 「日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだましてその値で世界をえがいた。又えがきつつある。しかし無産階級とその先駆者は血でそれを洗っている。同志、小林の死はその実証の一つだ。我々は知っている。我々は忘れない。我々は堅く同志小林の血路にそって前進し握手するのだ」。

 後年、多喜二の弟が兄の思い出を次のように語っている。
 「地下活動していた兄を訪ねたときに、2人でベートーヴェンを聴きました。バイオリン協奏曲です。その第一楽章のクライマックスで泣いていた兄の姿が忘れられません」

【作品考】

【名著「蟹工船」考】





(私論.私見)