小林多喜二考 |
(最新見直し2015.03.08日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、小林多喜二を検証しておく。「ウィキペディア小林多喜二」、「小林多喜二」、「児玉 悦子の小林多喜二論」その他を参照する。他にも「小林多喜二虐殺事件」、「小林多喜二はいかに殺されたか 江口渙の「多喜二虐殺」読む」他を参考にしたが、「スパイ三船留吉手引き説」等々、宮顕、百合子におもねた書き方をしているのでそのままでは使えない。ちなみに「小林多喜二虐殺事件」はコピー転載できなくしている。何の為にか分からぬが、日共系の者がすることは解せないことおびただしい。観点もオカシイとなるとどこに取り柄があるのだろうか。 2013.2.24日 れんだいこ拝 |
【小林多喜二の生涯履歴】 | |
(1903.10.13日-1933.2.20日)。日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家である。 | |
1903(明治36).10.13日、秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)で農家(貧農)の次男として生まれる。
1907(明治40)年、4歳の時、小樽でパン屋をしていた伯父を頼り、一家そろって北海道・小樽の若竹町に移住する。多喜二はこのパン工場に住み込みで働く。 小樽商業学校卒業後、1921(大正10)年、伯父の学資を受け小樽高等商業学校((現国立小樽商科大学)へ進学。在学中から創作に親しみ、文芸誌への投稿や、校友会誌の編集委員となってみずからも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組んだ。 小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。 卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に勤務。市内の有志とともに同人誌「クラルテ」を発行した。この間、志賀直哉文学のリアリズムに傾倒し、自作を送って批評を求める等している。この頃、悲惨な境遇にあった恋人田口タキを救う。 多喜二は勤務の休み時間に本を読み、仕事の合間に紙片に原稿を書いていた。彼のこの素行は次第に知れるようになったが、人徳によってか特段の掣肘を受けていない。多喜二はそれまで約30篇の習作的な短篇を書いていた。この間、田口たきという酌婦と恋愛し、彼女をその苦境から救い出したりしている。この頃、ストリンドベルヒ、ロシア文学の巨峰ドストエフスキー作品愛読している。続いてゴーリキー文学に傾倒する。
1921(大正10)年、プロレタリア文学が「種蒔く人」を創刊する。1923(大正12).9.1日、関東大震災発生(死者9万1802名、行方不明者4万2257名)。1924(大正13)年、文芸戦線が創刊される。1925(大正14)年、日本プロレタリア文学の草分けとして登場する葉山嘉樹 の「淫売婦」(「文芸戦線」第2巻7号)が発表される。多喜二21歳の時であり、読んだ時の感想を次のように記している。
こうして、社会的諸問題に関心を抱き、港湾労働者の争議の支援等にかかわるようになる。 1925(大正14)年、日本プロレタリア文芸連盟が結成される。1926(昭和元)年、葉山嘉樹が続いて「海に生くる人々」を発表する。多喜二は大いに触発され作家を決意する。この年、共産党が再建された。 1927(昭和2)年、労農芸術家連盟(分裂後は前衛芸術家同盟)に加入。中編「防雪林」(生前未発表)を書く。 1928(昭和3)年、第1階階総選挙が行われた。この時、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品「東倶知安行」に生かされている。同年3.15未明、田中義一内閣が共産党、労農等等の関係者約3600名を検挙し結社を禁止した。これを「3.15事件」と云う。同年暮れ、「3.15事件」を題材にして「一九二八年三月十五日」を全日本無産者芸術連盟の機関誌「戦旗」に発表した。検閲を通す為に編集部判断でかなりの削除、伏字をしたが発売禁止になった。但し、非合法で流通し80000部以上が売れ、一躍脚光を浴びることになった。これより警察からも要注意人物としてマークされ始める。作品中の特別高等警察による拷問の描写が特高の憤激を買い、後年の拷問虐殺へとつながる。 1929(昭和4)年、「蟹工船」を「戦旗」に発表。厳しい労働条件に苦しむ蟹工船の労働者たちが、団結して闘争に立ち上がるという筋書きの作品で、当時のプロレタリア文学の理論的、実作的水準を一挙に高めた画期的作品と高く評価され、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集める。国際的評価も高く、いくつかの言語に翻訳されて出版された。同年7月、土方与志らの新築地劇団(築地小劇場より分裂)によって「北緯五十度以北」という題で帝国劇場にて上演された。同年、中央公論に発表した「不在地主」が原因で銀行を解雇される(形は依願退職)。同年8月、読売新聞紙上で、「蟹工船」が「本年度上半期の最高作」として推薦されたと報じた。 1930年春、東京へ移住。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。同5月中旬、戦旗を発売禁止から防衛するため江口渙、貴司山治、片岡鉄兵らと京都、大阪、山田、松阪を巡回講演する。「工場細胞」を発表した直後の5.23日、大阪で日本共産党へ財政援助の嫌疑で逮捕され、額に傷が残るほどの激しい拷問を受けたが、 6.7日、一旦釈放された。 6.24日に帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され、7月、「蟹工船」の件で不敬罪の追起訴を受ける。8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。 |
【逮捕、拷問考】 | ||
事件から三年後、多喜二と一緒につかまって市ヶ谷刑務所にいた詩人の今村恒夫が膀胱結核で保釈になり、つかまった時の様子について次のように証言している。
日本プロレタリア文化連盟の「大衆の友」に載った窪川いね子の「屍の上に」の一節は次のように記している。
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【小林多喜二虐殺考その1、逮捕から虐殺まで】 |
小林多喜二検挙手引き犯の詮索をひとまず置いて、小林多喜二虐殺の様子を確認しておく。次のように証言されている。 1933(昭和8).2.20日、多喜二は大島銘仙の着物に二重回しを着、ロイド眼鏡にソフト帽をかぶり変装して、赤坂福吉町の待合に近い食堂で詩人にして文化運動組織の地下の指導者で文化団体内の共青の責任者だった洋服姿の今村恒夫と落ち合った。二人は党の連絡線から指定されていた近くの飲食店に入った。待ち受けていたのは張り込んでいた特高刑事だった。二人は店を飛び出して、人通りの多い電車通りの方へ逃げた。正午過ぎ、赤坂・田町6丁目の芸妓屋街を中心に逃走し溜池の市電通りに出たところ、刑事たちが「泥棒」「泥棒」と叫んだために通行人によって取り押さえられた。 小林と今村は、自動車で築地署へ運ばれた。それと前後して、警視庁特高課(各警察署の特高係司令部)から、テロ係という評判のある中川、須田、山口が築地署に来た。小林と今村は引き離され、小林は本庁の三人によって、今村は築地署の特高係に別々に拷問された。今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」によると、警視庁特高係長中川成夫の指揮の下に、小林を寒中まる裸にして、先ず須田巡査部長と山口巡査が握り太のステッキで打ってかかったとある。 多喜二は、築地警察署内において3時間以上にわたる激しい拷問により全身を殴打された末、夕方頃に十人ほど留置されていた第三房留置場に投げ込まれた。既に意識がなく、身もだえしながら、「苦しい」、「ちきしょう」ということばを、半死半生の状態で口にした。小林が便所へ行きたいと言い出して、看守が許可して、同房の二人が背負うようにして、留置場内の便所に運んだ。血尿が出たことから、同房のものが騒ぎだして、看守が小林をそれから畳のある保護室に移した。留置者の一人を付き添いにつけた。まもなく小林にシャツクリの発作がおこった。半眼を開いた小林の目は、うわずっていた。付き添いが看守に怒鳴って、急変を告げ、しばらくして白衣の医師が留置場に姿をあらわした。小林は警察裏の築地病院に担架で運び出された。午後7時45分、死亡した(亨年31歳)。 翌日の午後、築地署は、拷問の事実に一切触れず「心臓麻痺で急死」と発表した。夕方、母親が遺体をひきとった。死顔は日本共産党の機関紙「赤旗」(せっき)が掲載した他、同い歳で同志の岡本唐貴により油絵で描き残されている。小林多喜二を拷問した警視庁特高課の三人は、第二次世界大戦後、中川が東京のある区の区長になり、山口は発狂して精神病院で死んだ。須田がどうなったかはわからない云々。 |
「【関連情報2】▼中川成夫(しげお)とは?」を転載する。
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山田正行は、「小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫」2、4において、次のように書いている。(「宮地健一のHP『共産党問題、社会主義問題を考える」の「4、〔疑惑証拠2〕、小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫経歴」参照)
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【死に場所考】 | |
2019.20.20日、「86年目の多喜二虐殺の日に思う」参照。
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【小林多喜二虐殺考その2、通夜と葬儀の様子】 | ||||||
翌21日夜、多喜二は母親セキの家(東京都杉並区馬橋)に運ばれた。セキは、変わり果てた息子の体を抱きかかえて次のように泣き叫んでいる。
潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子が来るや遺体に取り付き、顔を両手で挟んで泣きながら多喜二に接吻をした。最期の別れをして夜中に去って行った。彼女は、小林の死後、政治漫画家熊森猛と再婚したが、小林多喜二を想う心を持ち続け、次のような句を残している。「アンダンテ・カンタービレ聞く多喜二忌」、「多喜二忌や麻布二の橋三の橋」。澤地久枝著「昭和史のおんな」の「小林多喜二への愛」で追跡されている。熊森は、1982年に亡くなった妻の骨壷に、彼女が持ち続けた小林多喜二の分骨を一緒にして納骨したと云う。 翌朝、小樽時代の愛人で一度は結婚していた美しい田口滝子が妹と妹の友人の三人で訪ねてきた。 同志たちが死因を確定するため、遺体解剖を依頼したが、どの大学病院も引き受けなかった。次のように記されている。
多喜二の遺体の様子につき次のように記されている。
多喜二の死を知った人たちが次々と杉並の家を訪れたが、待ち構えていた警官に検挙された。3.15事件記念日の3.15日に築地小劇場での葬儀が企画されたが、当日、江口葬儀委員長他が警察に逮捕されたため取り止めになった。多喜二の墓は南小樽の奥沢共同墓地にある。「昭和5年6月2日小林多喜二建立」とあるので、多喜二は絶命の3年前に墓を建立していることになる。 悲報を聞いた中国の作家魯迅からの弔電は次の通り。
後年、多喜二の弟が兄の思い出を次のように語っている。
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【作品考】 |
【名著「蟹工船」考】 |
(私論.私見)