小林多喜二考その2

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).4.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、小林多喜二の通夜考をしておく。「ウィキペディア小林多喜二」、「小林多喜二」、「児玉 悦子の小林多喜二論」その他を参照する。他にも「小林多喜二虐殺事件」、「小林多喜二はいかに殺されたか」、江口渙の「多喜二虐殺」読む」他を参考にしたが、「スパイ三船留吉手引き説」等々、宮顕、百合子におもねた書き方をしているのでそのままでは使えない。ちなみに「小林多喜二虐殺事件」はコピー転載できなくしている。何の為にか分からぬが、日共系の者がすることは解せないことおびただしい。観点もオカシイとなるとどこに取り柄があるのだろうか。

 2013.2.24日 れんだいこ拝


【小林多喜二虐殺考その2、通夜と葬儀の様子】
 翌21日夜、多喜二は母親セキの家(東京都杉並区馬橋)に運ばれた。セキは、変わり果てた息子の体を抱きかかえて次のように泣き叫んでいる。
 「あぁ痛ましや、痛ましや。心臓まひで死んだなんてウソだでや。子供の時からあんなに泳ぎが上手でいただべに。(中略)心臓の悪い者にどうしてあんだに泳ぎができるだべが。心臓まひだなんてウソだでや。絞め殺しただ。警察のやつが絞め殺しただ。絞められて息が詰まって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべが。息のつまるのが、息のつまるのが、、、あぁ痛ましや、痛ましや」。(泣きながら)「これ。あんちゃん。もう一度立てえ!みなさんの見ている前でもう一度立てえ!」。
 (写真)小林多喜二の遺体を囲む人々。中央=母・セキ、その左=弟・三吾(伊藤純さん提供)
 多喜二の遺体囲む新写真見つかる 母セキ・弟三吾さんの姿  2015年2月22日(日)赤旗

 作家の小林多喜二が虐殺されて82周年の日を前に、多喜二の遺体を遺族が囲む新しい写真が発見された。特高警察に捕らえられた20日のうちに虐殺された多喜二の遺体は、21日夜、東京・馬橋の自宅に運び込まれた。プロレタリア文化運動の仲間たちが腕組みをして遺体を囲んでいる同日夜の写真は知られている。今回発見されたのは、同じ場所で母のセキさんや弟の三吾さんら肉親が写っているもの。撮影したのは、文化運動のメンバーとして活躍した貴司山治(きし・やまじ)。息子で、プロレタリア文学研究者の伊藤純さんが遺品の中から見つけた。原板は、大判名刺の大きさのガラス乾板で、没後2年目の2月に開かれた多喜二をしのぶ会や、プロレタリア作家同盟創立大会(1929年2月)などの、これまで多喜二の写真集などに収められていたものと別のカットなどもある。 多喜二・百合子研究会の副代表・大田努さんが次のように語る。
 当時の衝撃をなまなましく伝える写真で、文学・歴史の証言として意味があります。プロレタリア写真家同盟の責任者だった貴司山治の報道写真としても優れており、82年を超えて深い感銘があります。
 潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子が来るや遺体に取り付き、顔を両手で挟んで泣きながら多喜二に接吻をした。最期の別れをして夜中に去って行った。彼女は、小林の死後、政治漫画家熊森猛と再婚したが、小林多喜二を想う心を持ち続け、次のような句を残している。「アンダンテ・カンタービレ聞く多喜二忌」、「多喜二忌や麻布二の橋三の橋」。澤地久枝著「昭和史のおんな」の「小林多喜二への愛」で追跡されている。熊森は、1982年に亡くなった妻の骨壷に、彼女が持ち続けた小林多喜二の分骨を一緒にして納骨したと云う。

 翌朝、小樽時代の愛人で一度は結婚していた美しい田口滝子が妹と妹の友人の三人で訪ねてきた。
 同志たちが死因を確定するため、遺体解剖を依頼したが、どの大学病院も引き受けなかった。次のように記されている。
 東大と慶応はすでに警視庁の手がまわり断られる。慈恵医大が引き受けてくれて寝台車に遺体を乗せて向かう。医大は警視庁からの圧力にいったん引き受けたのに頑として受けられないと拒否。

 多喜二の遺体の様子につき次のように記されている。
 左右の太ももは多量の内出血で色が変わり膨れ上がっていた。背中一面に痛々しい傷跡があった。手首には縛りあげられたことによりできた縄跡、首にも同様の縄の跡が認められた。左のこめかみ下辺りに打撲傷、向こう脛に深く削った傷跡が残っていた。右の人差し指は骨折していた。
 安田博士の指揮のもとで検診がはじまる。すさまじいほど青ざめた顔はでこぼこになり、げっそりと頬がこけ眼球がおちくぼみ十歳も老けて見え左のこめかみにはバットで殴られたような跡がある。首にはひとまきぐるりと細引きの跡。両方の手首にも縄の跡。下腹部から両足の膝頭にかけて墨とべにがらを混ぜて塗りつぶしたようなものすごい色に一面染まっている。内出血により膨れ上がっている。ももには錐か釘を打ち込んだような穴が15~6箇所もあいている。脛にも肉を削り取られたような傷がある。右の人差し指が反対側につくぐらい骨折。背中も一面の皮下出血。上の歯も一本ぐらぐらとぶら下がっている状態。内臓を破られたために大量の内出血がすでに腹の中で腐敗し始めていた。

 多喜二の死を知った人たちが次々と杉並の家を訪れたが、待ち構えていた警官に検挙された。3.15事件記念日の3.15日に築地小劇場での葬儀が企画されたが、当日、江口葬儀委員長他が警察に逮捕されたため取り止めになった。多喜二の墓は南小樽の奥沢共同墓地にある。「昭和5年6月2日小林多喜二建立」とあるので、多喜二は絶命の3年前に墓を建立していることになる。

 悲報を聞いた中国の作家魯迅からの弔電は次の通り。
 日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだましてその値で世界をえがいた。又えがきつつある。しかし無産階級とその先駆者は血でそれを洗っている。同志、小林の死はその実証の一つだ。我々は知っている。我々は忘れない。我々は堅く同志小林の血路にそって前進し握手するのだ。

 後年、多喜二の弟が兄の思い出を次のように語っている。
 地下活動していた兄を訪ねたときに、2人でベートーヴェンを聴きました。バイオリン協奏曲です。その第一楽章のクライマックスで泣いていた兄の姿が忘れられません。

【補足・伊藤ふじ子、手塚英孝考】
 今年は小林多喜二没後80年である。そういうこともあって虐殺日の2.20日、新聞各社が短文を添えていた。これにより久しぶりに多喜二を確認している折柄、一言しておきたいテーマに当ったので一文ものしておく。「潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子が来るや遺体に取り付き、顔を両手で挟んで泣きながら多喜二に接吻をした。最期の別れをして夜中に去って行った」につき、「多喜二最期の像―多喜二の妻」によれば、手塚英孝の「小林多喜二」は次のように記しているとのことである。
 多喜二が逮捕の危険をおもんぱかって、ふじ子に近づかなかったのは、当時の状況の下ではやむをえないことだった。ところが一か月後、多喜二が虐殺されたとき、同志はもちろん田口たきにも通知して、みんな集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない。あるいは、だれも通知しなかったのではないかと疑われる。そして田口たきについては、その後の消息も明らかにされているのに、多喜二の妻である伊藤ふじ子は伝記においてもその他においても消えさって二度と名前もあらわれない」、「党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだろうか。

 これに対し、江口渙は、「夫の遺体に悲痛な声/いまは幸福な生活送る」で「多少の誤解がある」として次のように記述している。
 昭和八年二月二十一日の夜、拷問でざん死した多喜二の遺体を築地署から受け取り、阿佐ヶ谷の彼の家に持ち込んだ時である」、「彼の遺体をねかせてある書斎にひとりの女性があわただしく飛び込んできた。なにか名前をいったらしいが声が小さくて聞きとれない。女は寝かせてある多喜二の右の肩に近く、ふとんのすみにひざ頭をのり上げてすわり、多喜二の死顔をひと目見ると、顔を上向きにして両手でおさえ、「くやしい。くやしい。くやしい」と声を立てて泣き出した。さらに「ちきしょう」「ちきしょう」と悲痛な声で叫ぶと、髪をかきむしらんばかりにしてまた泣きつづける。よほど興奮しているらしく、そうとう取り乱しているふうである。私たちは慰めてやるすべもなくただボウ然として見つめていた。やがて少しは落ちついたらしく、多喜二の首のまわりに深く残るなわの跡や、コメカミの打撲傷の大きな皮下出血を見つめていたが、乱れた多喜二の髪を指でかき上げてやったり、むざんに肉の落ちた頬を優しくなでたりした。そして多喜二の顔に自分の顔をくっつけるようにしてまた泣いた。
 十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさんで、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二の顔から引き離した。「死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。そこで私は彼女と多喜二の特別なかんけいを、絶対に口に出してはならないこと、二度とこの家には近づかないことを、こんこんといってきかせた。それは警察が彼女と多喜二の間柄を勘づいたら、多喜二が死をもって守りぬいた党の秘密を彼女の口から引き出そうと検挙しどんな拷問をも加えないともかぎらないからである。彼女は私の言葉をよく聞き入れてくれた。そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった。そんなわけで彼女がつぎの晩のお通夜に姿をみせなかったのは私の責任である。

 「多喜二最期の像―多喜二の妻」は、続いて平野謙の「下司の勘ぐり」に触れた後、「そこには、ふじ子の姿がくわしく描かれている」として小坂多喜子の「通夜の場所で…」という一文を紹介している。
 その多喜二の死の場所へ、全く突如として一人の和服を着た若い女性が現れたのだ。灰色っぽい長い袖の節織りの防寒コートを着たその面長な、かたい表情の女性はコートもとらず、いきなり多喜二の枕元に座りこむと、その手を自分の膝にもっていき、人目もはばからず愛撫しはじめた。髪や頬、拷問のあとなど、せわしなくなでさすり、頬を押しつける。私はその異様とさえ見える愛撫のさまをただあっけにとられて見ていた。その場をおしつつんでいた悲愴な空気を、その若い女性が一人でさらっていった感じだった。人目をはばからずこれほどの愛の表現をするからには、多喜二にとってそれはただのひとではないことだけはわかったが、それが、だれであるかはわからなかった。その場にいあわせただれもがわからなかったのではないかと思う。いかに愛人に死なれても、あれほどの愛の表現は私にはできないと思った。多喜二の死は涙をさそうという死ではない。はげしい憎悪か、はげしい嫌悪かーそういう種類のものである。それがその場に行き合わせた私の実感である。その即物的とも思われる彼女の行動が、かえってこの女性の受けた衝撃の深さを物語っているように思われた。その女性はそうして自分だけの愛撫を終えると、いつのまにか姿を消していた。私はそのすばやさにまた驚いた。
 二月二十一日、原泉が多喜二が死亡したことを知って、築地小劇場から一番先に前田病院にかけつけ特高と激しくやりあい、検挙されかかったがそこへちょうど大宅、貴志山治がやってきて救われた。そのすきに劇場へにげ帰って安田徳太郎弁護士への連絡や、劇団の女優を築地署のピケにたてたりと気をもんでいると、一人の若い女性が近づいてきた。その女性は「私は小林の女房です」。「あの人にどうしても会いたい」といった。原泉には、左翼劇場の研究生の伊藤ふじ子だとすぐ分かった。この前年の春の一斉検挙を機に、警察の追求からかくれる生活に入った小林多喜二は、かくまってくれたふじ子と結婚した。もちろん結婚届を役所に届け出ることはできなかった。しかし、ふじ子は母を呼び寄せ、図案社に勤める自分の給与で生活し、警察の目をくぐっての組織活動と「党生活者」の小説や評論に打ち込み多喜二を支えた。新しい年を迎えた三三年一月七日に小説「地区の人々」を書き上げた直後の十日ごろ、ふじ子は職場の美術サークル仲間とともに特別高等警察に検挙され、二十日ふじ子の自宅が捜索された。さいわい多喜二は外出中で、ふじ子の母が「二階は部屋貸ししているのだから困ります」と応対し、多喜二の部屋に警察をあげなかった。直後に帰宅し、すぐに身の危険を知った多喜二は、隠れ家を去った。こうしてふじ子と多喜二の結婚生活は、九カ月たらずで終わったのだった。ふじ子は多喜二の死の場で、母セキに「いっしょに暮らしていた人間です」と挨拶した。セキは、ふじ子の言葉を聞き「死人に口なしだ」とその言葉をうけとめなかったという。二十二歳になったばかりだったふじ子は、失意のまま馬橋の家を出て、二度と小林家を訪ねることはなかった。

 これによると、「潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子の多喜二の通夜の来訪」を廻って、手塚英孝が「ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」とし、と江口渙が「通夜に駆け付け激情的に多喜二を悼んだ」としており、記述が明らかに違っている。これはどうでも良いことではなくて、どちらかが明らかに間違った記述をしていることになる。小坂多喜子の「通夜の場所で…」で補強すれば、江口証言が正しく、手塚証言が間違いと云うことになろう。問題は、手塚がなぜウソの記述をしているのかにある。

【手塚英孝とは何者か】
 手塚英孝とは何者かにつき記しておきたい。れんだいこの知識によると、情報元は忘れたが、手塚英孝こそが宮顕を日本共産党へ入党させた一人である。同郷の誼もあって推薦したとされているが、同郷の誼だけの繫がりかどうか不明である。いずれにせよ、手塚と宮顕とは相当深い繫がりがある。このことが知られねばならない

 手塚英孝の履歴を見るのに、「ウィキペディア手塚英孝」によれば「1906年12月15日 - 1981年12月1日(亨年74歳)、山口県熊毛郡周防村(現光市小周防)に代々続く医師の長男として生まれる」とある。「慶應在学中に社会運動に参加するようになり、その後当時非合法だった日本共産党に入党し、文化団体の活動をする。1933年に検挙され、出獄した後は同じ中学の一年後輩だった宮本顕治の救援活動をおこない、宮本百合子と協力して獄中でのたたかいを支えた」とも記している。戦後、再建された日本共産党に入党し、日本民主主義文学同盟常任幹事、民主文学編集長を務めるなど、新日本文学会から日本民主主義文学同盟へと一貫して民主主義文学運動の発展に尽力したことでも知られる。非合法活動を共にした同志である小林多喜二の伝記研究を進め、1958年に筑摩書房から刊行した「小林多喜二」は、その後も補訂を重ねつつ、多喜二の伝記として内外から高く評価された云々。

 手塚英孝が小林多喜二論に精力的に向かったことは良い。問題は、どのような小林多喜二論を展開したのかにある。れんだいこは、手塚の「小林多喜二」を読んでいないが、多喜二の伴侶たる伊藤ふじ子の多喜二通夜の席での不在論を平気で書いているのが一事万事で、多喜二を書きながら多喜二を書くより宮顕党の利益、庇護されている宮顕の利益の見地から平気で筆を曲げて居ることを予想しておく。それは、宮顕の査問リンチ殺害事件の解明に見せた手塚英孝の筆曲げを知るゆえにである。多喜二論がそういう者の多喜二論で推移しているとしたら多喜二が可哀そうと思う。こういうことは世によくあることだけれども。

 大事なことを書き忘れたので追加しておく。小林多喜二を売った男・三船留吉説」を説いているのが作家同盟の手塚英孝なんだな。何かと歯車を狂わせているんだな。臭いんだな。

 「小林多喜二考
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/senzenundoshi/
proretariabungakuundoshico/takigico.htm)


 2013.2.25日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1111 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 2月25日
 補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考

 今年は小林多喜二没後80年である。そういうこともあって虐殺日の2.20日、新聞各社が短文を添えていた。これにより久しぶりに多喜二を確認している折柄、一言しておきたいテーマに当ったので一文ものしておく。

 「潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子が来るや遺体に取り付き、顔を両手で挟んで泣きながら多喜二に接吻をした。最期の別れをして夜中に去って行った」につき、「多喜二最期の像―多喜二の妻」によれば、手塚英孝の「小林多喜二」は次のように記しているとのことである。

 「多喜二が虐殺されたとき、同志はもちろん田口たきにも通知して、みんな集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」。

 これに対し、江口渙は、「夫の遺体に悲痛な声/いまは幸福な生活送る」で「多少の誤解がある」として次のように記述している。

 「昭和八年二月二十一日の夜、拷問でざん死した多喜二の遺体を築地署から受け取り、阿佐ヶ谷の彼の家に持ち込んだ時である」、「彼の遺体をねかせてある書斎にひとりの女性があわただしく飛び込んできた。なにか名前をいったらしいが声が小さくて聞きとれない。女は寝かせてある多喜二の右の肩に近く、ふとんのすみにひざ頭をのり上げてすわり、多喜二の死顔をひと目見ると、顔を上向きにして両手でおさえ、「くやしい。くやしい。くやしい」と声を立てて泣き出した。さらに「ちきしょう」「ちきしょう」と悲痛な声で叫ぶと、髪をかきむしらんばかりにしてまた泣きつづける。よほど興奮しているらしく、そうとう取り乱しているふうである。私たちは慰めてやるすべもなくただボウ然として見つめていた。やがて少しは落ちついたらしく、多喜二の首のまわりに深く残るなわの跡や、コメカミの打撲傷の大きな皮下出血を見つめていたが、乱れた多喜二の髪を指でかき上げてやったり、むざんに肉の落ちた頬を優しくなでたりした。そして多喜二の顔に自分の顔をくっつけるようにしてまた泣いた」。

 「十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさんで、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二の顔から引き離した。「死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。そこで私は彼女と多喜二の特別なかんけいを、絶対に口に出してはならないこと、二度とこの家には近づかないことを、こんこんといってきかせた。それは警察が彼女と多喜二の間柄を勘づいたら、多喜二が死をもって守りぬいた党の秘密を彼女の口から引き出そうと検挙しどんな拷問をも加えないともかぎらないからである。彼女は私の言葉をよく聞き入れてくれた。そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった」。

 これによると、「潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子の多喜二の通夜の来訪」を廻って、手塚英孝が「通夜にも葬式にも見えていない」とし、江口渙が「通夜に駆け付け激情的に多喜二を悼んだ」としていることになる。これはどうでも良いことではなくて、どちらかが明らかに間違った記述をしている。小坂多喜子の「通夜の場所で…」で補強すれば、江口証言が正しく、手塚証言が間違いと云うことになろう。問題は、手塚がなぜ明白なるウソの記述をしているのかにある。ここでは、この問題をこれ以上問わず、手塚英孝論に向かいたい。

 手塚英孝とは何者かにつき記しておく。れんだいこの知識によると、情報元は忘れたが手塚英孝こそが宮顕を日本共産党へ入党させた一人である。同郷の誼もあって推薦したとされているが、同郷の誼だけの繫がりかどうか不明である。いずれにせよ、手塚と宮顕とは相当深い繫がりがある。この二人は相当に胡散臭い。このことが知られねばならない。

 手塚英孝の履歴を見るのに、「ウィキペディア手塚英孝」によれば次のように記している。1906年12月15日 - 1981年12月1日(亨年74歳)。山口県熊毛郡周防村(現光市小周防)に代々続く医師の長男として生まれる。慶應在学中に社会運動に参加するようになり日本共産党に入党、文化団体の活動をする。1933年に検挙され、出獄した後は同じ中学の一年後輩だった宮本顕治の救援活動をおこない、宮本百合子と協力して獄中でのたたかいを支えた。

 戦後、再建された日本共産党に入党し、日本民主主義文学同盟常任幹事、民主文学編集長を務めるなど一貫して民主主義文学運動の発展に尽力したことでも知られる。非合法活動を共にした同志である小林多喜二の伝記研究を進め、1958年に筑摩書房から刊行した「小林多喜二」は、その後も補訂を重ねつつ、多喜二の伝記として内外から高く評価されている云々。

 手塚英孝が小林多喜二論に精力的に向かったことは良い。問題は、どのような小林多喜二論を展開したのかにある。れんだいこは、手塚の「小林多喜二」を読んでいないが、多喜二通夜の席での伊藤ふじ子不在論を平気で書いているのが一事万事で、多喜二を書きながら多喜二を書くより党の利益、庇護されている宮顕の利益の見地から平気で筆を曲げていることを予想しておく。それは、宮顕の査問リンチ殺害事件の解明に見せた手塚英孝の筆曲げを知るゆえにである。そういう者の多喜二論が権威だとしたら多喜二が可哀そうと思う。こういうことは世によくあることだけれども。

 大事なことを書き忘れたので追加しておく。小林多喜二を売った男・三船留吉説」を説いているのが作家同盟の手塚英孝なんだな。何かと歯車を狂わせているんだな。臭いんだな。
 「小林多喜二考」
 (marxismco/nihon/senzenundoshi/
proretariabungakuundoshico/takigico.htm


 2013.2.25日 れんだいこ拝
 jinsei/

【小林多喜二虐殺考その3、多喜二追悼】
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK144」のgataro氏の2013..2.20日付け投稿「小林多喜二没後80年(東京新聞「筆洗」)/志賀直哉:彼等の意図、ものになるべし(この人を、たたえよ!)」を転載しておく。

 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2013022002000140.html

 【コラム】筆洗 東京新聞 2013年2月20日

 昭和五年八月から翌年一月まで、東京の豊多摩刑務所に収監されていたプロレタリア作家の小林多喜二は、私淑していた志賀直哉に手紙を送っている。▼「この太陽の明るさは! それはまるで、北海道の春か十月頃をしか思わせません」。東京の冬の日差しに驚きを隠さず、出所したら「必ず一度お訪ねしたいと思い、楽しみにして居ります」とつづっていた。▼出獄後、多喜二は奈良に暮らす志賀を初めて訪ねている。地下活動に入った多喜二はその一年三カ月後、築地署で特高の刑事から拷問を受け死亡した。志賀は多喜二の母親に悔やみ状を書いている。▼<前途ある作家としても実に惜しく、又お会いした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります。不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持になりました>。悔やみ状は雑誌『文化集団』に掲載されたが、検閲によって<不自然なる>の部分は伏せ字にされた(梯久美子著『百年の手紙』)。▼多喜二が亡くなってからきょうで八十年。特高警察が共産主義者の作家を虐殺した事件は、たった八十年前のこの国で起きた出来事なのだ。▼若者の非正規雇用が増え、新たな貧困問題が社会問題になった二〇〇八年には、代表作の『蟹工船(かにこうせん)・党生活者』(新潮文庫)が五十万部を超えるベストセラーになった。多喜二は今こそ、読む価値のある作家だ。


【朝日新聞夕刊「標的」欄(眠)の署名記事「多喜二の妻」】
 2011-08-06日付「多喜二最期の像―多喜二の妻」は次の通り。
 多喜二の妻  

 多喜二の通夜の参列者の間で守られた、「秘密」もある。それは「多喜二の妻」のことである。

 昭和四十二年六月九日の『朝日新聞』夕刊「標的」欄に(眠)の署名記事「多喜二の妻」が「手塚英孝の『小林多喜二』は多喜二の伝記のうちでオーソドックスなものだか、さいきん、この本を読んで、多喜二が結婚しているのを知った。しかもその相手は、小樽時代に赤線から救い出した有名な恋人田口たきではなくて、伊藤ふじ子というあまり知られていない女性である」。「多喜二が逮捕の危険をおもんぱかって、ふじ子に近づかなかったのは、当時の状況の下ではやむをえないことだった。ところが一か月後、多喜二が虐殺されたとき、同志はもちろん田口たきにも通知して、みんな集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない。あるいは、だれも通知しなかったのではないかと疑われる。そして田口たきについては、その後の消息も明らかにされているのに、多喜二の妻である伊藤ふじ子は伝記においてもその他においても消えさって二度と名前もあらわれない」、「党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだろうか」と書いた記事を掲載した。

 これに応えて江口渙は、「夫の遺体に悲痛な声/いまは幸福な生活送る」で「多少の誤解がある」とし、「私も小林多喜二が地下活動中に結婚したことは全然知らなかった。合法的に動いていた私たちと非合法の彼とのあいだには何の連絡がなかったのは、当時の社会状況としては当然のことである。それをはじめて知ったのは、昭和八年二月二十一日の夜、拷問でざん死した多喜二の遺体を築地署から受け取り、阿佐ヶ谷の彼の家に持ち込んだ時である」。

 「彼の遺体をねかせてある書斎にひとりの女性があわただしく飛び込んできた。なにか名前をいったらしいが声が小さくて聞きとれない。女は寝かせてある多喜二の右の肩に近く、ふとんのすみにひざ頭をのり上げてすわり、多喜二の死顔をひと目見ると、顔を上向きにして両手でおさえ、『くやしい。くやしい。くやしい』と声を立てて泣き出した。さらに『ちきしょう』、『ちきしょう』と悲痛な声で叫ぶと、髪をかきむしらんばかりにしてまた泣きつづける。よほど興奮しているらしく、そうとう取り乱しているふうである。私たちは慰めてやるすべもなくただボウ然として見つめていた。やがて少しは落ちついたらしく、多喜二の首のまわりに深く残るなわの跡や、コメカミの打撲傷の大きな皮下出血を見つめていたが、乱れた多喜二の髪を指でかき上げてやったり、むざんに肉の落ちた頬を優しくなでたりした。そして多喜二の顔に自分の顔をくっつけるようにしてまた泣いた」。「」喜二とこの女との関係はハウスキーパー以上のものと私たちには受けとれた。女もそれを口に出そうとするそぶりが見える。だが私たちの方からはだれひとりとしてその事について彼女に問いただそうとしない。それは地下活動をしている人々の人間かんけいを、合法場面にいる者が問いただす事は絶対にしてはならない鉄則になっていたからである」。

 「十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさんで、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。『そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ』。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二の顔から引き離した。死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。そこで私は彼女と多喜二の特別なかんけいを、絶対に口に出してはならないこと、二度とこの家には近づかないことを、こんこんといってきかせた。それは警察が彼女と多喜二の間柄を勘づいたら、多喜二が死をもって守りぬいた党の秘密を彼女の口から引き出そうと検挙しどんな拷問をも加えないともかぎらないからである。彼女は私の言葉をよく聞き入れてくれた。そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった。そんなわけで彼女がつぎの晩のお通夜に姿をみせなかったのは私の責任である」。

 「その後、彼女は私たちの視界から全然姿を消してしまった。うわさによるといまはある男性と幸福で平和な生活を送っているという。私たちが彼女のその後についてふれないのは、そういう現在に彼女の生活にめいわくをかけたくないからである」と結んでいる。

 余談だが、タキの弟・宮野駿がこの『朝日新聞』の「多喜二の妻」を読んだ感想の一端を、「A君への手紙ー多喜二~タキ世界の盲点にふれて」(『北方文芸』六八年三月号)に書いている。「数年前にも、進歩陣営で『多喜二~タキ世界』を物語化して映画を作る企画がもちあがり、長姉に協力要請があったのですが、タキは悲愴な決意をするほどに苦悩し、これを知った妹のミツが壺井繁治氏を通じていんぎんに断っております。企画者側が多喜二の恩を忘れたのか、といって激怒したという話がぼくにも間接的に伝わってきているのですが、これは怒る方が間違っているのではないでしょうか。こういう問題を考えるについては、前述しました朝日新聞夕刊“標的”欄の「多喜二の妻」という一文に対する江口渙氏の一節を是非紹介しておきたいと思います」。「タキの身上についても同様の配慮があってしかるべきだと考えるのです」と希望を述べている。


【文芸評論家平野謙の「小林多喜二と宮本顕治」考】
 「私は小林多喜二虐殺直後のあまり知られていない一挿話を書き添えておきたい」ともったいぶって書き出された、文芸評論家平野謙の「小林多喜二と宮本顕治」(『週刊朝日』一九七六年二月二十七日号)の一文は、ー日本共産党はいわゆるリンチ事件と表裏一体のものとして《赤旗》紙上に小林多喜二らの虐殺を大きく採りあげているが、なぜ小林多喜二が殺されたのか」ということについての①地下生活から一年ちかく経った時、堂々と本名で一流雑誌に小説を発表し、《朝日新聞》などの大きく白ヌキの広告が掲げられるというような人もなげなふるまいに、警視庁特高課の人々は、あの野郎とばかりアタマにきたに違いない、②もうひとつ間接的な原因として、やはり私はコップ弾圧以来の日本共産党の文化政策の誤りをあげたいのである、と私見を披露している。①の理由は警視庁特高課の人々への共感を示し、その虐殺にいたった責任を多喜二にあるかのように描いている。②においては顕治や多喜二たちが、『三二テーゼ』に基づいて、文化分野での共産党に天皇制から民主主義革命への旗をおろさず戦争反対を貫いた文化政策を具体化したことを非難する立場を表明するものになっている。

 そのうえで平野謙はーナルプ中央機関誌《プロレタリア文学》昭和八年四・五月合併号は「同志小林多喜二の××に抗して」という特集を編み、その一環として窪川いね子〈今日の佐多稲子〉の『二月二十日のあと』というすぐれた「報告文学」を発表している。小林多喜二のお通夜における母親の嘆きなど、今日でも鮮烈な印象を与えずにはおかないが、そのなかには「親せきの婦人が三人が転がるやうに走り込んできて小林のそばに泣き伏した時、お母さんは顔を上げ、小林の屍の上に目を落として、はっきりと言った。〃×されたのですよ。多喜二は〃その言葉で、三人の婦人が一層声高く泣いた」という一説がある。

 果たして当時小林多喜二の親戚の婦人が三人在京していただろうかいうことを、戦後、貴司山治らがひそかに問題にして、それは北海道以来の愛人・田口タキと、非合法生活時代のハウスキーパア・伊藤ふじ子と、新しい愛人だったらしい女流作家・若林つや子の三人ではないかという推定をたてたことがある。ーとその「推定」の責任を、貴司山治にあるかのように書きながら、「通夜の席の三人の女性のうちひとりが若林つや子でなかったとしても、小林多喜二と彼女らの微妙な関係を無視することはできない」との断定に続いて、「かつて私はその問題をとらえて、当時の小林多喜二は党絶対化から自己絶対化という一種のラスコリーニコフ的な超人思想にとらえられ、文字通り党に身命を献げた自分には、なにをしても許されると思っていたのではないかという下司の勘ぐりをしたことがある。この場合問題になるのは、ハウスキーパア・伊藤ふじ子と小林との関係を、忠実な評伝作家手塚英孝が正規の結婚のように扱っている点だろう。佐多稲子の『二月二十日のあと』における三人の女性とは、田口タキとその妹と伊藤ふじ子のことだったらしい」と前段では「下司の勘ぐり」であることを告白しながらも、それが「下司の勘ぐり」をはっきりとは認めようとしていない。

 平野が「この場合問題になるのは」と「この場合」とはどんな場合であるのだろうか。

 ここには平野が、ゴマかそうとして削除した言葉が隠されている。この行間には、平野が「下司の勘ぐり」であることを認めたくないんだが認めざるを得ないのは、手塚英孝が「伊藤ふじ子と小林との関係が正規の結婚」であり、手塚が伊藤ふじ子と小林との関係を党指導部とハウスキーパーとの関係だと描けば、平野の「下司の勘ぐり」は「下司の勘ぐり」ではなくなり、それは直接的に多喜二の非人間的な罪状としてあげつらうことが可能なのだ、という願望を告白しているのである。それでいて平野はこのことを正面から反論されることを避けるため、姑息にも「佐多稲子の『二月二十日のあと』における三人の女性とは、田口タキとその妹と伊藤ふじ子のことだったらしい」と一文を不自然に添えて、その責任を放棄しているのである。なぜならば佐多稲子の『二月二十日のあと』を一読すればあきらかなように、そこには「伊藤ふじ子」は名はない。それも当然であろう。このいね子の「二月二十日のあと」は多喜二虐殺の惨状をレポートすることにその主題があり、平野の「下司の勘ぐり」の欲求をみたす立場からではないからである。それにそもそも「三人の女性」とは、田口タキとその妹とタキの小学校時代の同級生岩名雪子なのだから。さらに「ハウスキーパア・伊藤ふじ子と小林との関係を、忠実な評伝作家手塚英孝が正規の結婚のように扱っている点だろう」との引用した一節だけを読んでもその姑息さは読み取れるだろう。「忠実な評伝作家手塚英孝」の「忠実」は事実に「忠実」とも、事実をまげても日本共産党に「忠実」とも、どちらの意味にもとれるようにあいまいにしながら、文脈としては後者の「事実をまげても日本共産党に忠実」な「評伝作家」としているし、伊藤ふじ子の位置づけにしても「ハウスキーパア」と最初から先入見を与えるように前置きし、正規の結婚の「ように扱っている」と非難めかした叙述になっていることはだれにでも読み取れるだろう。

 そして平野は「下司の勘ぐり」を反省しているかのようなポーズで示しながらも、そのことを論じることを止めて、「ところで」と宮本顕治のことに話題を転じていくのである。そしてその結論は、「いわゆるリンチ共産党事件の最も哀切で悲惨な犠牲者は、この熊沢光子にほかならない。そのことは宮本顕治や袴田里見にはよくわかっているはずだ。現に袴田里見は彼女の暗い絶望について書いてもいる。しかし、ここでも私の強調したいのは、熊沢光子がいわゆるハウスキーパア制度なるものの哀れな犠牲者だったことである。敗戦直後、私はハウスキーパア制度の非人間的性について問題にしたが、そのときも中野重治や宮本顕治に一蹴されてしまった。一つの缺陥を組織上のものとみるみかたは、わが革命運動には伝統的に缺除しているようである」と結ぶのであった。

 平野が伊藤ふじ子のことについて資料としたのは、小坂多喜子『文藝復興』(昭和四十八年四月号)、『現象』昭和四十四年十一月号の古賀孝之の回想記の二つ、若林つや子については「淡々水の如きもの」(『文化集団』昭和九年七月号)だったが、平野がこの文章を書いた当時入手できる資料としてはもう一つ、一年前に公開された映画『小林多喜二』のパンフレットがあったことを指摘しておきたい。

 このパンフレットには、小坂多喜子の「通夜の場所で…」という談話が掲載されている。そこには、ふじ子の姿がくわしく描かれている。「その多喜二の死の場所へ、全く突如として一人の和服を着た若い女性が現れたのだ。灰色っぽい長い袖の節織りの防寒コートを着たその面長な、かたい表情の女性はコートもとらず、いきなり多喜二の枕元に座りこむと、その手を自分の膝にもっていき、人目もはばからず愛撫しはじめた。髪や頬、拷問のあとなど、せわしなくなでさすり、頬を押しつける。私はその異様とさえ見える愛撫のさまをただあっけにとられて見ていた。その場をおしつつんでいた悲愴な空気を、その若い女性が一人でさらっていった感じだった。人目をはばからずこれほどの愛の表現をするからには、多喜二にとってそれはただのひとではないことだけはわかったが、それが、だれであるかはわからなかった。その場にいあわせただれもがわからなかったのではないかと思う。いかに愛人に死なれても、あれほどの愛の表現は私にはできないと思った。多喜二の死は涙をさそうという死ではない。はげしい憎悪か、はげしい嫌悪かーそういう種類のものである。それがその場に行き合わせた私の実感である。その即物的とも思われる彼女の行動が、かえってこの女性の受けた衝撃の深さを物語っているように思われた。その女性はそうして自分だけの愛撫を終えると、いつのまにか姿を消していた。私はそのすばやさにまた驚いた」。「私はその彼女と、そのような事件のあと偶然知り合い、私の洋服を二、三枚縫ってもらった。(中略)その時、私たちの間いだには小林多喜二の話は一言も出なかった。私たちの交際はなんとなくそれだけで切れてしまった」。「最近、多喜二の死の場所にあらわれた彼女が、思いもかけず私の身近にいることを知った。私の親しい知人を介してならいつでも彼女の消息がわかる。彼女が幸福な家庭の主婦で、あいかわらず行動的に動き回っていることを知り、私は安心した気分にひたっている」としている。

 ふじ子の守ったもの

 二月二十一日、原泉が多喜二が死亡したことを知って、築地小劇場から一番先に前田病院にかけつけ特高と激しくやりあい、検挙されかかったがそこへちょうど大宅、貴志山治がやってきて救われた。そのすきに劇場へにげ帰って安田徳太郎弁護士への連絡や、劇団の女優を築地署のピケにたてたりと気をもんでいると、一人の若い女性が近づいてきた。その女性は「私は小林の女房です」。「あの人にどうしても会いたい」といった。原泉には、左翼劇場の研究生の伊藤ふじ子だとすぐ分かった。この前年の春の一斉検挙を機に、警察の追求からかくれる生活に入った小林多喜二は、かくまってくれたふじ子と結婚した。もちろん結婚届を役所に届け出ることはできなかった。しかし、ふじ子は母を呼び寄せ、図案社に勤める自分の給与で生活し、警察の目をくぐっての組織活動と「党生活者」の小説や評論に打ち込み多喜二を支えた。新しい年を迎えた三三年一月七日に小説「地区の人々」を書き上げた直後の十日ごろ、ふじ子は職場の美術サークル仲間とともに特別高等警察に検挙され、二十日ふじ子の自宅が捜索された。さいわい多喜二は外出中で、ふじ子の母が「二階は部屋貸ししているのだから困ります」と応対し、多喜二の部屋に警察をあげなかった。直後に帰宅し、すぐに身の危険を知った多喜二は、隠れ家を去った。こうしてふじ子と多喜二の結婚生活は、九カ月たらずで終わったのだった。

 ふじ子は多喜二の死の場で、母セキに「いっしょに暮らしていた人間です」と挨拶した。セキは、ふじ子の言葉を聞き「死人に口なしだ」とその言葉をうけとめなかったという。二十二歳になったばかりだったふじ子は、失意のまま馬橋の家を出て、二度と小林家を訪ねることはなかった。澤地久枝は、「小林多喜二への愛」(『続昭和史のおんな』八三年、文芸春秋)で、八一年に亡くなったふじ子の遺品のハンドバックから七八年二月二十一日付けの『東京新聞』夕刊の切り抜きが見つかったという。その切り抜きは、多喜二の没後四十五周年に「伊藤ふじ子の献身」と見出しをつけた作家の手塚英孝「晩年の小林多喜二」の記事で、ふじ子のおよその経歴や、三十三年の一月に彼女が検挙された後の多喜二の生活を心配し解雇手当てを届けたことを、多喜二が手塚に涙を浮かべながら語ったことが書かれていた。さらに、ふじ子の遺品のなかには、多喜二が書き込みをしながら読んだ『新潮』などもあったという。このことだけでも、平野謙がふじ子を「ハウスキーパア」とする誤りは明らかだろう。
               ◇
 三三年の始め、ふじ子と暮らした家に残された多喜二の遺品は、死去から六十余年を経て、ふじ子が再婚した猛氏によって昨年四月、日本共産党中央委員会に寄贈された。(一九九九・二・二十)『りありすと67号』掲載。


【伊藤ふじ子】
 伊藤ふじ子 いとう-ふじこの一般的なプロフィールは次の通り。
 1911-1981 昭和時代前期,小林多喜二の妻。明治44年2月3日生まれ。昭和3年上京,日本プロレタリア劇場同盟にはいり舞台にたつ。7年結婚。夫の死後,漫画家森熊猛と再婚。多喜二についてかたることはなかった。多喜二の「党生活者」の笠原のモデルとされる。昭和56年4月26日死去。70歳。山梨県出身。甲府高女(現甲府西高)卒。

 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK47」のgataro 氏の2008 年 2 月 20 日付け投稿「<多喜二の忌>死ぬまで多喜二を追慕し続けた女性、伊藤ふじ子のこと。(どこへ行く、日本。)」を転載しておく。
 http://ameblo.jp/warm-heart/entry-10074182181.html から転載。

 <多喜二の忌>死ぬまで多喜二を追慕し続けた女性、伊藤ふじ子のこと。テーマ:権力からの自由/人権侵害/共謀罪 

 75年前の今日(2月20日)、小林多喜二は官憲の拷問によって虐殺された。次の二句は伊藤ふじ子という女性が多喜二の忌に詠んだものである。

 アンダンテ カンタビレ聞く多喜二忌

 多喜二忌や麻生二の橋三の橋

 小林多喜二は地下生活中も、弟の三吾と連絡をとって日比谷公会堂へシゲッティの演奏を聞きに行くほどの音楽好きだったと、澤地久枝さんが「小林多喜二への愛」(『続昭和史の女』)で書いている。小林多喜二を愛したかつてのハウス・キーパー、伊藤ふじ子は「多喜二は『アンダンテ カンタービレ』が好きだった」と語っていたという。麻生二の橋三の橋は多喜二とふじ子が暮らしていたあたりなのだ。

 ふじ子が多喜二のハウスキーパーだったと聞けば、小林多喜二の「党生活者」中の「笠原」のモデルではないかと思う方もあろうが、両者はまったく違う―ようである。多喜二研究家の手塚英孝が東京新聞に「晩年の小林多喜二」を寄せている。「伊藤ふじ子の献身」の小見出しのある部分には、彼女のことを語る多喜二の目に涙が浮かんでいた様子が書かれている。 そしてこの記事(1978年2月21日付)の切り抜きをふじ子は死ぬまで、おそらく持ち歩いていたと思われる。3年あまりの間である。多喜二への追慕の気持ちは死ぬまでついに消えることはなかったのだ。

 次は伊藤ふじ子の遺稿である(ふじ子の夫、森熊猛氏の提供による)。

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  鰯雲 人に告ぐべきことならず

 この句は私の師加藤楸邨の俳句で、私のために作られた様な気がして心に染みて好きな句です。人に言うべきことでない私と彼との一年間のことどもを又何のために書き残す心算になったのか、まして彼は神様的な存在で、この神様になってにやにやしている彼を、一寸からかってやりたい様ないたずら気と、彼がそれほど悲壮で人間味を知らずに神様になったと思い込んでいられる方に、彼の人間味のあふれる一面と、ユーモアに富んだ善人の彼を紹介し、彼にかわって案外楽しい日も有ったことなど書きとめて、安心してもらいたかったのかも知れません。

 元来彼はユーモリストと申しましょうか、彼の生い立ちとは正反対に、彼と一緒に居るとだれでも楽しくなるところが有りました。何せ四十何年の前のことで、その間戦争をまじえて生死の境を何とか生きながらえて来たことで、何分さだかでないこともたくさんあります。そもそも私と彼との出会いは、彼が地下の人になる一年程前のことで、あれは彼が上京して東京に住むことになった年の二月だったと思います。ひどく雪の降る日でした。ヤップの講演会のビラ張りの日で、新宿方面の割り当てが彼と私と京大の学生(中退?)だったM君の三人だったと思います。彼は大島の対の着物に歯のちびた下駄、たしか帽子はかむっていませんでした。 雪は私達にとっては幸して、受持のビラを大体張り終った時は、すっかり日が暮れていました。彼は私達をさそって新宿の角筈の(当時は角筈から若松町行の市電が出ていました)その市電の始発の停留所の角に、わりに大きな飲食店が有りました。名前は忘れましたが、その二階が牛肉を食べさせる座敷になっていました。彼を先頭に私達はその二階の座敷でスキ焼をごちそうになりました。 忘れもされません。色の白い彼は鼻の頭を赤くして、髪とまつ毛にまで雪をためていました。 会計の時、彼は三尺にくるくるまるめた中から小さな蟇口を出して姉さんに金をはらいました。食べれ、食べれ、彼はさかんに私達にすすめて、私達に牛のにえたところ取ってくれました。

 おくれましたが、私はそのころ劇団のその他一同の一人で、昼は○大学へつとめていました。その時はそれで何となく別れました。その頃私は新宿の淀橋に住んでいました。翌日の講演会は、彼は二言三言で中止になったと後でききました。それからどう言うきっかけで彼と会うようになったのか、どうしても思い出せないのですが、よくお茶をごちそうになったり、彼の小説の原稿を(の?)清書を私の知人の女性にたのんであげたりしました。当時彼は大学ノートに原稿を書いていました。 その時も面白いことが有りました。彼と高田の馬場の駅の階段を上がっていました。すると二段上に下駄の歯が落ちていました。彼はそれをひろって自分の下駄に合わせてみるのです。私は腹をかかえて笑いました。だって階段の二段上に有った歯が下にいる彼のもので有るはずがないではありませんか。

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 以上は惜しくも未完である。だがそれにしてもよく残された。 (澤地久枝著「続昭和史のおんな」から抜粋脚色したもの)


 「忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(11)、激動の時代を生きぬいた漫画家・森熊猛」を転載しておく。
 「まあよくここまで来たと思っています。でも時が来ました。天命に従って一足お先にということになりました。君はゆっくり ゆっくりあわてることはありません。ではこれで。GOOD・BYE 猛」。敬愛する漫画家・森熊猛先生から、このような自筆の葉書とともに、最晩年に実現した画集『マンガ一〇〇年 見て聞いて』(白樺文学館多喜二ライブラリー)が一緒に送られてきた。驚いて御自宅に連絡すると、先生はすでに天国に籍を移しており、まさにこの度の葉書は冥土からのお便りであり、大きなショックを受けた。平成16年9月17日没。享年95歳であった。それにしても自らの死期を悟り、細々と自身の死後についてもきちんと整理をしていたことは、見事という他はなく、「流石に森熊先生!」と改めて感服もし、懐かしさがつのり、在りし日の思い出の数々を偲んでいる。

 弾圧の中で生まれた愛

 森熊猛氏は、今何かと世間を騒がせている現在の夕張市真谷地に明治42年4月1日に生まれている。大正13年、15歳の折に札幌の北九条尋常高等小学校に転校、4月、北海中学に進学した。昭和5年頃より、プロレタリア文化運動に参加。札幌漫画研究所を開設したりしたが、左翼的な漫画を描いたために、昭和6年、22歳の折には特高刑事に連行され、1か月の拘留を受けたりしている。その後上京して、新人漫画家として様々の苦労をし、その中で、同じ画家志望の伊藤ふじ子と知り合うことになる。17歳で山梨から上京したふじ子は、当時22歳。上京して画家を志しての5年間、この短い人生のなかで、はかり知れない苦悩と悲しみを経験した。その悲しみとは―

 「森熊ふじ子、旧姓伊藤ふじ子。その人の容易ならない青春時代を知って以来、なんとかして会いたいと願っていた。しかし、会って話を聞くだけでなく、それを文章にすることをなりわいとしている人間として、ふじ子さんの逡巡や懊悩(おうのう)を思い、わたしは心臆した。峻拒されることがこわかった(以下略)」 。 

 これは、ふじ子さんの死後、森熊先生が刊行した『寒椿―森熊ふじ子遺句集』に作家の澤地久枝さんが寄せた一文である。 澤地さんに『昭和史のおんな』(文藝春秋)上下2冊の労作がある。澤地さんはふじ子さんに会いたがっていたというが、昭和56年4月26日、ふじ子さんは蜘蛛膜下出血で急逝した。享年70歳。その半生については、澤地さんがふじ子さんの没後『続昭和史のおんな』(同)に「小林多喜二への愛」として発表した。

 伊藤ふじ子は同郷の望月百合子を頼って上京。百合子はアナーキストの石川三四郎と一緒に暮らしていたので、そこに女中として住み込み、新宿にあった小林万吾の絵の研究所に通っていたという。その後、ふじ子もプロレタリア美術研究所に通うことになり、そこで作家の小林多喜二と知り合って、愛し合うようになった。『蟹工船』で知られるプロレタリア作家・小林多喜二が、昭和8年2月、街頭で演説中に検挙され、その夜、築地署で拷問の末、虐殺された話は、昭和史の中でも暗い事件として語り継がれているが、ふじ子は特高警察の目を逃れて潜伏生活を続けた多喜二の妻として、彼を支え続けてきた女性だったという。

 昭和9年3月18日の夕方、特高に拘束されていたふじ子が猛の部屋のドアをノックして「クマさん、今日やっと出されたのヨ、今晩とめて…」と訪ねてきた。 こうして猛はふじ子さんのすべて(小林多喜二とのこと)を理解し、大きな愛情で包み込み、結婚生活に入った。御夫妻は戦後、温かい家庭を築いたが、ふじ子さんの過去の秘密は御長男(私と同年)にも話さなかったという。

 最愛の妻をなくして

 私が森熊先生と親しくなったのは、ふじ子夫人が亡くなった少し後のことで、私もその後、妻をがんで亡くしたので、二人でよく慰め合った。二人とも酒を飲まなかったので、いつも喫茶店で長時間話し合った。「参っちゃうよなあ。女房の遺品に囲まれて暮らしているんだから…。勿体ないからと言って、履かなかった新品の下駄なんか見ると、たまらなくなってネ」、「女房は妊娠しやすい体質だったから、多喜二との間にも何回かそんなことがあったと思うよ…」。コーヒーをすすりながら、人には言えないような事柄まで何でも打ち明けてくれた。そんな時の森熊先生は、本当に亡き妻への熱い思いで目をうるませていたのが、今も懐かしく思い出される。

 肝心のことを書くのを忘れていた。森熊先生は何ともハンサムな人で、Gパンにリュック姿のラフな姿で現れても様(さま)になっていたし、蝶ネクタイでパリッとした姿で現れても常に人目を引くような素敵な人だった。大変シャイな性格の人で、追っかけらしい年配の女の人がいても、まったく無視して気付かぬふりをしていた。 陰で女性陣がよく「素敵ネ」とささやき合う声を何度も耳にしている。「東京へ急用で行くことになってサ。ところが電車賃がない(先生は戸塚に住んでいた)。そんな時、女房はプイと出かけ〈お父さんハイ〉といって、金を渡してくれたけど、あいつどこで都合つけてきたんだろう。有り難かったなァ」。そんな話も聞かせてくれた。

 私はこの話を思い出すたびに目頭が熱くなる。 澤地久枝さんは、「…そして、妻亡きあと、おのれ一人の決心で、多喜二の分骨を妻の遺骨へまぜ、埋葬をした夫の思い―。尋常の男にできることではない」 。

 さらに、また― 「森熊氏が伊藤ふじ子の前に姿を見せたとき、ふじ子の心には虐殺された男の面影がノミで刻んだように深くしるされていた。そういう心を抱いている妻をかかえとった森熊氏は、いわば先住者のいる女性と結婚したことになる。死後の世界を信じないとしても、森熊氏がいつか土へ還ってゆくとき、そこには遺骨になることで多喜二と一つになれた一組の男と女としての妻がいる。ふつうの男にはとうてい耐えられないことではないかとわたしには思われる」とも書き、土の下で愛した男性二人に抱かれて眠るふじ子さんに、「あなたは男運のいい方だったのね。よかった」と記している。

 このような人柄の森熊氏と晩年の20年余を楽しく交流できたことを、私はとても幸せに思っている。 思い出はつきないが、昭和天皇が御危篤におちいった時、私は漫画家のうしおそうじ氏(本名・鷺巣富雄。Pプロの社長として「宇宙猿人ゴリ」、「ハリスの旋風」、実写版「マグマ大使」、「快傑ライオン丸」等を製作した)の紹介で、「昭和天皇画帳(イラストで綴る昭和の歴史)」という豪華本のイラストと編集を引き受けた。 森熊先生をはじめ、師の小松崎茂先生など親しい人の協力により、定価2万8千円の豪華本が完成した。なにせ昭和天皇の崩御の前に完成してほしいと言われ、時間との競争で、必死にまとめあげた。 森熊先生はこの仕事をとっても喜んでくれて、「またあんな仕事したいなァ」と会う度に話していた。 先生の画集の「あとがき」には、『多喜二さん サッポロの「ネヴォ」茶店でお逢いすることは出来なかったが プロ文化の花は咲きほこりました 多喜二さん有難う(中略)』。そして家族宛に『色々と心配をかけたなァ 許してくれ 九十五才のジジより 二〇〇四、八、一日(亡くなる1か月前)』と結ばれていた。▲ このページのTOPへ ▲


 「二人の男が語る―多喜二の"妻"伊藤ふじ子」を転載する。
 ●森熊猛「伊藤ふじ子のこと」

 「私が手塚(英孝)さんと会ったのは三回ぐらいしかないんです。去年の春、私の女房が死にました。女房は僕と四十年数年間一緒にいたんですが、その前に小林多喜二と一緒に暮らしたことがある伊藤ふじ子という女性なんです。その伊藤ふじ子が私と一緒になった時、これ小林の分骨よ、といって箱に入れたちいさなものを持ってきたんです。そのほか手荷物みたいなものをいくつか持ってきたし、私も今からもう五十年ほどまえで、非常に貧乏で、どうにもこうにもならないような時代でした。小林が亡くなったのが、昭和八年ですから、昭和九年の春、ちょうど一年目ですね、そのころ二人で一緒に生活しはじめたわけなんです。それがながい年月経って、最後にその骨が残ったわけです」。

 生前私と女房がある日二人で歩いているとき、女房がお骨を向こうの家に返したいというんです。だけど受け取ってくれるかどうかと考えまして、手塚さんに電話して、相談してもらったのですが、あの時の様子がよくわからないというのだな。それが小林の骨であるかどうかわからないし受け取らないという返事がきたって手塚さんがいうんです。また女房が手塚さんと電話で話しまして、どうするといったら、もう四十年間一緒にいたんだからこれはうちに置いておく、というんです。それは生前だからまだいいんだけれども、女房がいなくなってその骨があるということは、亭主たるものまことに妙なもので、それを捨てるわけにもいかないし、どこか墓地にもっていっても、こんな小さな箱なんですよね。女房はともかく彼の骨だというわけだから、これじゃあしょうがないなあと思っているうちに、四十九日がきて、女房の骨を納めなくてはならないというわけだ。女房が小林の分骨だというお骨をあけて一緒にして土にかえしたわけだ。それはそれで済んだとまったくほっとしたわけです。

 そういういきさつがあり、それから女房が手さげカバンか何か持ってきたのがうちにある。僕がみてもわかんないいろいろな、当時でいうと労働調査なんとかだとかこむずかしい本があった、『新潮』なんかもあったような気がします。それに英語でちょちょっと書いてある。僕がそんなもの書くわけがない、女房だってもちろん語学なんかできるわけじゃない。とにかく女房の持ってきたものだし、『中央公論』だとか小林の作品の出た本があったもんだから、それを手塚さんにあげようと思ってもっていった。いろいろ手塚さんが見たら、これはあいつの字だ、まちがいない、ということで小林多喜二のそういうものを集めているところがあるから、そこに持っていくというのです。『赤旗』にデカデカと出たもんで私もちょっと驚いたんだけれども、そういうようなことでいろいろと手塚さんにはお世話になったわけです。それが去年、女房の亡くなったのが五月ですから四十九日の前、六月頃です。もっと前のことをいうと、終戦直後に手塚さんが私の家を訪ねて、私と女房と手塚さんと三人で、いろいろ戦前のことを話したことがあります。それが小林多喜二の本にちょっと出ているようですけども。そういうことがあって亡くなる半年位前にも会っているわけなんで、本当に驚いたわけなんです」。*画像は、森熊猛さんとふじ子さん。

 ●手塚の描くふじ子像「非合法時代の小林多喜二」=四月二十日頃から小林多喜二は麻布東町の称名寺という寺の境内にある二階の一室を借りてひそかに移り住んだ。ここは上下一間ずつの小さな家だった。彼が借りた階下の部屋は隣家の板壁に周りをさえぎられて一日中日光のあたらない陰気な一室であった。彼は非合法になったのちまもなく、伊藤ふじ子と結婚して同居した。伊藤とは三一年頃からの知り合いであった。彼女は銀座の図案社につとめていた。彼には田口タキという不幸な境遇から彼が救い出した北海道時代からの愛人があった。彼は田口との結婚を希望していたが、彼女は病気の母と四人の妹弟の生活のために、折角上京して習得した美容師の収入では生計が立たず、料理店で働かなくてはならない境遇にあった。彼との結婚が、彼に重い負担をあたえ、彼の生活仕事を破壊するようになることを考え、田口は彼の願いをかたくこばんで受け入れなかった。このような事情で彼もまた田口との結婚を断念しなければならなかったのである。」

 「三二年九月中旬、小林多喜二は新網町の二階から、同区桜田町に一軒の小さな二階家を借りて移ることができた。まもなく、伊藤の母を郷里の山梨から呼びよせ、非合法生活に入って半年後に、ようやく、かなり安定した隠家をつくることができるのであった。しかし、その家も長くはつづかなかった。三ヶ月後に十月事件の関係者の連関から伊藤が突然、銀座の勤先で検挙された。そして、その翌日の早朝、隠家は数名の特高刑事にふみこまれ家宅捜索をうけた。十日ばかり前から、彼は家のすぐ近くに巡査が引越してきたため、一応用心して、他へ宿っていたが、その日は朝のうちに連絡をすまして、ちょうど特高たちがひきあげていった直後に帰宅したのであった。

 ●隠家には注意ぶかい用意がしてあったとみえ、奇蹟的に彼は逮捕をまぬかれたが、このような事情で、彼は渋谷区羽沢町に下宿した。二週間後には伊藤は釈放されたが、その後は伊藤の関係をたぐって捜査される危険もあって、同居することは不可能となった。羽沢町の下宿は階段したのは二畳の狭苦しい部屋だった。換気が悪いので、彼は寒中も火鉢をおかずに仕事をした」。

【伊藤ふじ子】
 1911(明治44)年、伊藤ふじ子が山梨県北巨摩郡清哲村(現・韮崎市)に生まれる。甲府第一高女卒業。1928年(昭和3)5月、上京。知人のつてで石川三四郎、望月百合子の家へ下宿する。1929(昭和4)年、上野松坂屋の美術課に勤務。すぐにそこを辞めて明治大学事務局に転職。明治大学で働きながら長崎町にあった「造形美術研究所」へ通いはじめた。日本橋にあった銀座図案社にも非常勤で勤務しグラフィックデザイナーとして働きはじめた。彼女が担当したク ライアントは東京芝浦電気(現・東芝)の宣伝部だった。演劇にも興味をもちはじめ、労農芸術家聯盟の「文戦劇場」で女優としても舞台に立っている。1931(昭和6)年の春、ふじ子は新宿の果物屋の2階に下宿していたが、そのころ刑務所を出たばかりで保釈中の小林多喜二と親しくなる。1932(昭和7)年春、地下潜行中の多喜二と結婚する。1933(昭和8).2.20日、多喜二はスパイの手びきで赤坂区福吉町の喫茶店におびきだされて逮捕され、築地署で即日虐殺された。多喜二の死後、下落合に下宿し「クララ洋裁学院」へと通いはじめた。その後、帝大セツルメントで近所の女子工員たちを集めて編み物や和裁、洋裁などの教室を開いている。この頃、プロレタリア漫画家・森熊猛と知り合う。森熊猛は、1909(明治42)年生まれで小林多喜二よりも6歳年下だった。札幌の北海中学校で左翼美術運動に触れ、その後上京した。彼女が風邪を引いて寝こんでいるとき、森熊猛が薬をもって見舞いに訪れプロポーズしたといわれている。1934(昭和9).3月、伊藤ふじ子は日本赤色救援会(モップル)に参加していたという理由で特高に逮捕された。留置所から釈放されたあと、森熊猛の下宿を訪ね、そのままふたりはいっしょに暮らしはじめて結婚している。伊藤ふじ子は小林多喜二の分骨を終生大切に保管していたという。1981(昭和56).4月、逝去(享年71歳)。森熊猛はふたりの遺骨を合葬して同一の墓所に納めている。

 「アンダンテ カンタビレ 聞く多喜二忌」、「多喜二忌や 麻布二の橋三の橋」などの句を遺している。

【田口タキ】
 2009(平成21).6.9日、小説「蟹工船」で知られるプロレタリア作家小林多喜二の恋人だった田口タキさんが横浜市の自宅で老衰のため亡くなった(享年102歳)。

 市立小樽文学館によると、1924(大正13)年、21才の暮、小樽入舟町の小料理屋「やまき屋」で働いていたタキ(16歳)が銀行に勤めていた多喜二と出会って交際を始め、同居生活を送った履歴を持つ。

 「闇があるから光がある」は田口タキの事情について次のように説明している。
 「この女性は多喜二と同じ、いや多喜二以上に貧しい10人家族の長女として生まれた。蕎麦職人であった父親の事業の失敗により夜逃げをして函館へと行くが、そこで生計を立て直すことなどできず、14才で、父親に室蘭の銘酒屋へ売られてしまった。タキを売ったお金で家族は小樽に戻り、父は日雇いの仕事をしてその日暮らしをするが、そんな生活に疲れたのか、鉄道自殺をしてしまったのである。父の自殺後、転売され小樽に戻ってきたタキは小料理屋の酌婦として働くのである。酌婦とは下級料理屋で客の接待をする女性であり、いわゆる私娼で客を店の二階に招いて売春する・・・・彼女はこのときまだ16才だった」。

 1925年末、多喜二は500円(今の200万円)のお金を工面して苦界から救い、母セキと相談し自宅に住まわせた。しかし彼女は翌年11月、自活の道を選 び家出した。多喜二は悲嘆にくれ小樽の街を彼女を探してさまよい歩いた。そして、やっと病院で働いていた彼女を見つけたが彼女は再び戻ることを拒んだと云う。

 1930(昭和5).3月、多喜二は小樽から上京し中野に下宿する。翌月、田口タキが洋髪技術を学ぶため多喜二の後を追い上京し同棲を始める。但し、共に暮した日々は短い。この時、 喜多喜二はタキにプロポーズするが、タキはこれを断っている。次のように記している。
 「自分は多喜二にあの地獄のような所から救ってもらった。それだけで自分はすごく幸せで、それ以上を貴方に求めるなんてことはできない。貴方の日本に対する強い想いを知ってるから、あなたのその意思を尊重したい。私は貴方の重荷になるようなことはできない」。

 タキが結婚を拒んだ理由として「私は貴方の重荷になるようなことはできない」 だけではなかった。タキの弟が、「あの人(多喜二)は非常に好きだけれども、あの人が天皇さまのことをないがしろにするのがおっかなくて、ついていけない」と言ったと回想している。こうなると、天皇制を廻る理解の差が介在していたことになる。この辺りが興味深い。

 1930(昭和5).8月、多喜二は治安維持法違反で逮捕され豊多摩刑務所に収容された。翌年2月保釈。その後、 地下に潜り活動する。活動中はハウス・キーパーの伊藤ふじ子と行動を共にする。

 1933(昭和8)年、多喜二が虐殺される1ヶ月前、タキの元を訪れている。久しぶりに彼女を訪れたとき、あいにく会えず置手紙をして帰っている。その手紙がタキへの「最後の手紙」になった。

 1933(昭和8)年、多喜二は特高警察の拷問を受け29歳で死亡。タキは多喜二の悲報を聞き、妹と駆けつけ通夜と葬儀に参列している。香典などの控えメモのコピーが残されており、その中に「五円也、田口タキ」の名前がある。多喜二の師と仰いだ作家、志賀直哉でさえ5円の額であったから、当時のお金でも少なくない額であったろう。決して豊かでないタキが算段して仏前に上げた香典の重さとその心中に目頭が熱くなる。

 タキさんは戦後、横浜の貿易商の事業家と結婚した。親族は「本人は平穏な晩年を送りました。幸福な一生だったのではないでしょうか」と語っている。

 作家の澤地久枝と昭和55年頃まで手紙のやりとりを続けている。但し、澤地とは決して会おうとしなかった。澤地の著書「我が人生の案内人」(文春新書)によると、タキは弟妹4人を育て上げ、その後結婚し孫もいるが、昭和54年夫に先立たたれたという。昭和55年4月1日、タキ72歳の時、タキから澤地宛ての断わりの手紙の文面が紹介されている。
  「秋田にいる妹の息子の結婚式に出席するため秋田に参りました時には、小林のお墓へもおまいりをして参りました、今××(夫の名前)が亡くなり、無抵抗な人になられて見ますと、とても昔の恋人の話を他人に平気に話すということができないような私の今の心境です。ただただ二人の冥福を朝夕祈っている現在です。私は学校もろくに出ず、何の教養もないことを恥ずかしく、それに母と小さい弟妹のこともあり、小林との結婚をお断りしましたような訳で、とても貴女様にようなお偉い方とお会いしてお話するなぞ、若し小林の名を汚すようなことがありましてもいけませんし、申訳けございいませんがお断りさせていただきます。手紙を書くことは苦手です。どうかお かんべんください。先ずは用件のみで失礼します。乱筆乱文どうぞ御判読ねがいます。かしこ」。

 澤地は、このようなつらい手紙を彼女に書かせたことを悔いている。そして、「若い日、多喜二がタキに魅せられたのは少女の置かれた境遇、そしてそれに濁され まいと凛とした挙措、瞳のすがすがしさであろうと思われる」。さらに続けて、「恨み言、繰り言には無縁、背負った過去に動じない毅然とした姿勢に「凛乎として」という言葉が浮かぶ」と述べている。
 多喜二の作品にはタキさんに似た貧しい境遇の女性を主人公にした小説もあり、全集にはタキさんにあてた手紙が収録されている。多喜二はタキさんに23通もの恋文を書いている。タキ宛の最初の手紙(大正14年3月2日)で多喜二はこう宣言する。
 「『闇があるから光がある』 そして闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分るんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸という ものが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。だから、俺たちが本当にいい生活をしようと思うなら、うんと苦しいことを味わってみなければならない。滝ちゃん達はイヤな生活をしている。然し、それでも決して将来の明るい生活を目当てにすることを忘れないようにねぇ。そして苦しいことも その為めだ、と我慢をしてくれ。僕は学校を出てからまだ二年しかならない。だから金も別にない。滝ちゃんを一日も早く出してやりたいと思っても、ただそれは思うだけのことでしかないんだ。これはこの前の晩お話しした通りだ。然し僕は本当にこの強い愛をもっている。安心してくれ。頼りないことだけれども、何時かこの愛で完全に滝ちゃんを救ってみせる。滝ちゃんも悲しいこと、苦しいことがあったら、そのたびに僕のこの愛のことを思って、我慢し、苦しみ、悲しみに打ち 勝ってくれ」。

 「闇があるから光がある」の一節が有名である。タキさんとの出会いを機に、貧困女性に焦点を当てた「瀧子もの」と呼ばれる数点の作品も残されている。






(私論.私見)