鈴木頌の「手塚英孝と江口渙は矛盾していない 」に対する反論 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).4.3日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、ネット検索で出くわした「鈴木頌の『手塚英孝と江口渙は矛盾していない 』に対する反論」をしておく。 2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).4.3日 れんだいこ拝 |
【「手塚英孝と江口渙は矛盾していない 」に対する反論】 | ||||||
ネット検索で、「鈴木頌の発言」主宰者の鈴木氏の「手塚英孝と江口渙は矛盾していない 」に出くわした。「れんだいこのカンテラ時評№1111 、補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考」に対しての愚弄的批評が目に余るので反論しておく。こういう手合いが特に著作権にうるさいのであるが、よもや誹謗中傷された側の正当防衛的反論の前作業としての転載を仮に無断だとしても詰ることはあるまい。この無断転載権が認められないなら、云い得云い勝ちにされてしまう。私には後日の証として記録しておく必要がある。
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れんだいこのカンテラ時評№1244 投稿者:れんだいこ 投稿日:2014年11月 9日 |
手塚説と江口説が矛盾していないなんてことがある訳がなかろうにその2 手塚とは何者か。「れんだいこのカンテラ時評№1111、補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考」で素描している通りである。ここでは、Sが知らしめた省略部分の「合法的に動いていた私たちと非合法の彼とのあいだには何の連絡がなかった」に注目しておく。 本人の弁で、多喜二の生前に於いて特段の接点がない御仁であったと語っている。むしろ「多少の誤解がある」として「伊藤ふじ子存在説」を証言した江口の方が多喜二と親交が深かった人と云うことになる。その江口氏が、「ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」なる手塚式偽証に異議を唱えていることの重みを受け取るのが筋であろう。 付言しておけば、「多喜二の通夜の席へのふじ子の存在有無」判断につき、組織防衛的見地からの偽証であればあるほど、手塚如きが決められるべき筋合いのことでもない。ならば誰の指示によるのかと云うことになる。Sレベルの事情通ぶりでは皆目見当がつくまいが、蔵原-宮顕ラインの指示に従っての歴史詐術と云う線は大いにあり得ると窺うべきだろう。 「ふじ子の来訪と激しい哀惜ぶり」を歴史に刻むか隠蔽するかにつき、これは歴史的行為であるから歴史的眼力で判断して差し支えない。が、一応は当人の考えも聞いて見るべきだろう。これを確認したところ、当人が史実を隠蔽するよう依頼していた形跡はないようである。否むしろ「ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」とする手塚式偽証の方にこそ非人情を感じているのではなかろうかと思える節がある。 「ふじ子のこの後の生活に傷がつくことを踏まえ、彼女の生活に迷惑をかけたくないから」云々なる思いやり論による偽証正当化は気色の悪いものでしかない。事件から半年後、釈放されたふじ子が、それまで若干の付き合いのあった漫画家の森熊猛・氏の部屋のドアをノックして、「クマさん、今日やっと出されたのヨ。今晩とめて…」と訪ねて来た時、森熊氏にはふじ子と多喜二との仲は公然のことであり、そのことを受け入れた上で二人が睦みあう家庭を持ったのが史実である。手塚式思いやり論のおたく性、詭弁性が知れよう。 Sの「手塚の事実隠しを宮本顕治の陰謀だと持っていくのは、下衆の勘繰りとまでは言わないが、あまり趣味の良くない推論だろう」の謂いには何の論証もない。云い得云い勝ちの弁でかく云いなして傲然としている。宮顕英明指導者論者のSが宮顕スパイ頭目説を唱えるれんだいこに敵意を燃やすのは分かるが、責任ある発言には多少なりとも論証が必要ではなかろうか。今や、れんだいこ説とS説のどちらが正しいのかが問われている。こういう論点の対立はどちらかが正しく、足して二で割る式の折衷では納まらない。れんだいこは歴史の審判が下るまでの道中を火の粉を払いながら待つことにする。 それにしてもSの没論理性が気になる。「手塚の不在説は訳ありなのであり、偽証には違いないが偽証事情を忖度せねばならない」と述べ、この線でとどめるのなら一応は筋が通っている。ところが「手塚英孝と江口渙は矛盾していない」と云いなしている。こうなると完全に味噌くそ同視詭弁であり、且つ限度を超しているとみなすべきだろう。こういう論法を使い始めると物事の見境いがなくなってしまう。 Sへのはなむけの言はこうである。当人は「趣味の良い推論」派を自認しているようだが、罵られた方のれんだいこからすれば、この手合いが高潔紳士として世間に通用しているとしたら気色の悪い、世渡りが上手過ぎるのではないかと思う。 |
【手塚説と江口説が矛盾していないなんてことがある訳がなかろうにその3】 | |||
思わぬ副産物として、「」の「多喜二最期の像―多喜二の妻」に「宮本顕治を入党させたのは生江健次である」(林淑美「中野重治 連続する転向」)の記述があるとされている。私のザっと読みでは該当箇所に出くわさない。それは仕方ないとして、「宮本顕治を入党させたのは生江健次である」情報の真偽を確かめたい。「生江健次」(ナマエ ケンジ)をネット検索すると次のような情報になる。
法政大学大原社会問題研 究所兼任研究員/立本 紘之((たてもと・ひろゆき)「1931年のプロレタリア 文化運動における 運動方針転換問題の再検討」が次のように記している。
これによると、党中央の松村(スパイM)がナップ(全日本無産者芸術団体協議会)の生江健次、手塚英孝と接触。これにモスクワ帰りの蔵原が参画、宮本顕治、村山知義、杉本良吉らが入党となる。要約すれば、松村(スパイM)の息のかかった生江健次、手塚英孝らが宮本顕治の入党に関係していると推理できるようだ。なかなか貴重な発見である。 石堂清倫「『転向』再論-中野重治の場合」が次のように記している。
石堂清倫氏は、「生江は共産党の最高幹部の松村(本名飯塚盈廷)の直接の指示によって行動していた」と証言している。以上よりすれば、生江健次、手塚英孝、蔵原らが党中央の松村(スパイM)の指示によって行動しており、このラインが宮本顕治を入党させたことになる。何やら貴重な情報を得たと云うべきか。 |
【宮本顕治「小林多喜二とその戦友たち」考】 | |||
ネット検索で、「◎歴史のふるいに十分たえうるリアリティー……一九三二年二月二〇日 小林多喜二虐殺される」に出くわした。宮本顕治「小林多喜二とその戦友たち」と思われるので、これを転載しておく。(読み易くするために趣旨不改編に基づくれんだいこ文法に則り書き換える)
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(私論.私見)