鈴木頌 」に対する反論

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).4.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ネット検索で出くわした「鈴木頌の『 』に対する反論」をしておく。

 2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).4.3日 れんだいこ拝


手塚英孝と江口渙は矛盾していない 」に対する反論】
 ネット検索で、「鈴木頌の発言」主宰者の鈴木氏の 」に出くわした。「れんだいこのカンテラ時評№1111 、補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考」に対しての愚弄的批評が目に余るので反論しておく。こういう手合いが特に著作権にうるさいのであるが、よもや誹謗中傷された側の正当防衛的反論の前作業としての転載を仮に無断だとしても詰ることはあるまい。この無断転載権が認められないなら、云い得云い勝ちにされてしまう。私には後日の証として記録しておく必要がある。
 昨日のれんだいこさんの記事は、「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙というサイトの「多喜二最期の像―多喜二の妻」というページからの部分転載である。元のページはまともで、引用が誤っているようだ。

 手塚英孝の記述となっているのは、手塚の本を引用しながら書いた新聞記事からの引用である。昭和42年6月9日の『朝日新聞』夕刊「標的」欄に(眠)の署名記事「多喜二の妻」がそれである。 (眠)氏は手塚の『小林多喜二』という伝記本を参照しながら記事を書いているようであるが、どこまでが手塚の引用で、どこから(眠)氏の文章なのかはわからない。しかしこの文章全体を手塚の話とするのは明らかに無理である。伝記の著者でありその死に至るまで忠実な党員であった手塚が絶対に口にしないようなセリフが混じっている。これは明らかに(眠)氏の感想である。党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだろうか。

 江口渙の発言は、(眠)氏の記事に答えてのもののようである。「夫の遺体に悲痛な声/いまは幸福な生活送る」と題された新聞記事のようである。前後の経過からすると、これもまた朝日新聞に載せられたもののように推察されるが、委細不明だ。記事のはじめに、れんだいこさんが省略した部分がある。

 私も小林多喜二が地下活動中に結婚したことは全然知らなかった。合法的に動いていた私たちと非合法の彼とのあいだには何の連絡がなかったのは、当時の社会状況としては当然のことである。それをはじめて知ったのは、昭和八年二月二十一日の夜、拷問でざん死した多喜二の遺体を築地署から受け取り、阿佐ヶ谷の彼の家に持ち込んだ時である

 記事の終わりにもれんだいこさんの省略した部分がある。

 その後、彼女は私たちの視界から全然姿を消してしまった。うわさによるといまはある男性と幸福で平和な生活を送っているという。私たちが彼女のその後についてふれないのは、そういう現在に彼女の生活にめいわくをかけたくないからである

 ということで、手塚英孝と江口渙が矛盾したことを考えているとはいえないようだ。特に戦後、平野謙というゴロツキが「ふじ子はハウスキーパー」などとデマを飛ばしたこともあって、ふじ子のプライバシーを守りたいという思いは二人に共通していたと思われる。(タキさんについても同じ)


 このページには、小坂多喜子の「通夜の場所で…」という談話も引用されている。映画『小林多喜二』のパンフレットに掲載されたものとされる。

 小坂はちょいと多喜二と紛らわしい名前だが、戦旗社出版部に勤め、『太陽のない街』や『蟹工船』の出版に関わった人。高橋輝次さんのブログに詳しい。

 ちょいと引用というには長いが、ご容赦を。

  「その多喜二の死の場所へ、全く突如として一人の和服を着た若い女性が現れたのだ。灰色っぽい長い袖の節織りの防寒コートを着たその面長な、かたい表情の女 性はコートもとらず、いきなり多喜二の枕元に座りこむと、その手を自分の膝にもっていき、人目もはばからず愛撫しはじめた。髪や頬、拷問のあとなど、せわ しなくなでさすり、頬を押しつける。私はその異様とさえ見える愛撫のさまをただあっけにとられて見ていた。その場をおしつつんでいた悲愴な空気を、その若い女性が一人でさらっていった感じだった。人目をはばからずこれほどの愛の表現をするからには、多喜二にとってそれはただのひとではないことだけはわかっ たが、それが、だれであるかはわからなかった。その場にいあわせただれもがわからなかったのではないかと思う。いかに愛人に死なれても、あれほどの愛の表現は私にはできないと思った。多喜二の死は涙をさそうという死ではない。はげしい憎悪か、はげしい嫌悪かーそういう種類のものである。それがその場に行き 合わせた私の実感である。その即物的とも思われる彼女の行動が、かえってこの女性の受けた衝撃の深さを物語っているように思われた。その女性はそうして自分だけの愛撫を終えると、いつのまにか姿を消していた。私はそのすばやさにまた驚いた」 。
 「私はその彼女と、そのような事件のあと偶然知り合い、私の洋服 を二、三枚縫ってもらった。(中略)その時、私たちの間いだには小林多喜二の話は一言も出なかった。私たちの交際はなんとなくそれだけで切れてしまっ た」。
 「最近、多喜二の死の場所にあらわれた彼女が、思いもかけず私の身近にいることを知った。私の親しい知人を介してならいつでも彼女の消息がわかる。 彼女が幸福な家庭の主婦で、あいかわらず行動的に動き回っていることを知り、私は安心した気分にひたっている」。

 細部では江口の文章とやや異なるところがある。とくに“すばやく帰った”というあたりは食い違う。それだけに余計リアリティーがある。小坂多喜子という当時の最先端みたいなモダンガールをして驚愕させたのだから相当のものであったのは間違いない。


 以上で明らかになったことが二つある。ひとつは、どう考えても二人は熱愛関係にあり、ハウスキーパーごときものではないということである。もうひとつは、直接には組織防衛のためではあるが、後には彼女のプライバシーを守ろうという関係者の暗黙の了解があったことである。人違いの言いがかりで手塚と江口を対立させたり、手塚の事実隠しを宮本顕治の陰謀だと持っていくのは、下衆の勘繰りとまでは言わないが、あまり趣味の良くない推論だろう。変な記事に出会ってしまって、とんだ一手間になってしまった。手塚の「小林多喜二」はむかし買って読んだ記憶がある。たしかにふじ子のことはあまり触れてなかったように思う。とりあえず本棚をかき回してみるとするか。


 れんだいこのカンテラ時評№1243  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年11月 9日
 「手塚説と江口説が矛盾していないなんてことがある訳がなかろうにその1」
 鈴木頌・氏の「 手塚英孝と江口渙は矛盾していない」にネット検索で出くわした。
"http://shosuzki.blog.jp/archives/11542673.html")
同ブログは、「れんだいこのカンテラ時評№1111、補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考」に反論している。
"http://6616.teacup.com/rendaico3/bbs/203" )

 れんだいこ立論1、多喜二虐殺通夜に於ける「手塚の伊藤ふじ子不在説」は偽証である。れんだいこ立論2、そういう変調記述の背後に宮顕の影があるに反論したつもりになっている。れんだいこが反論への反論をしておく。以下、鈴木頌・氏を仮にSとする。


 Sは云う。手塚と江口の両説は食い違っているように見えるが実は「ウソも方便的偽証」なのであり「手塚英孝と江口渙は矛盾していない」と云いなしている。Sは更に云う。「手塚の事実隠しを宮本顕治の陰謀だと持っていくのは、下衆の勘繰りとまでは言わないが、あまり趣味の良くない推論だろう」。Sはこの謂いを論証している訳ではない。レトリック文に終始しつつ結論を誘導しているだけである。こういう手合いを相手にするのは大変であるが斬り込んでおく。

 Sはのっけから「記事のはじめに、れんだいこさんが省略した部分がある」、「記事の終わりにもれんだいこさんの省略した部分がある」の物言いで、れんだいこ立論を落としこめようとしている。しかし、省略文のところを加味してもれんだいこ立論に何ら影響を与えない。つまり怪しげさを臭わそうとして持ち出しているだけの印象操作に過ぎない。

 興味深いことはSのロジックである。手塚の不在説を偽証と認定した上で庇うという芸当を見せている。その種明かしは「偽証の背景事情を忖度せよ」なる論法である。これにより偽証故に評価するという変調話法へと至っている。次のように述べている。
 「以上で明らかになったことが二つある。ひとつは、どう考えても二人は熱愛関係にあり、ハウスキーパーごときものではないということである。もうひとつは、直接には組織防衛のためではあるが、後には彼女のプライバシーを守ろうという関係者の暗黙の了解があったことである」。

 この論旨自体が粗雑であるが、世の中にはこういう粗雑な論旨に合点する者が居る。類が類を呼ぶ粗脳同盟でしかない。これを論証しておく。この物言いの問題性の第一は、Sがハウスキーパーを格別に蔑視していることが分かるところにある。「二人は熱愛関係にあった故に伊藤ふじ子はハウスキーパーではない」と立論しているが、「熱愛関係の有無」をもってハウスキーパーかどうかの認定基準にするのはSの基準であって一般的なものではない。この辺りはSの同棲観、結婚観、妻妾観、ハウスキーパー観を聞いて見たいところであるが恐らく愚頓な弁を聞かされるだけのことになろう。

 Sの物言いの問題性の第二は、「組織防衛&プライバシー保護&関係者の暗黙の了解」の面からの意図的故意の偽証を正当化していることにある。こういうロジックを好むのが宮顕であるからして、Sには自覚がないだけで実は相当深く宮顕理論、論法に被れていることが分かる。本質的に御用理論であるところに特徴がある。

 この種のロジックによって日共史もソ連共産党史も何度も書き換えられたのではなかったか。こういう論法を認めると適用範囲が際限がなくなるのではないのか。そもそも「偽証の正当化」を誰が認定するのかと云う問題もある。Sはこの種の論法を未だに平然と肯定しているようであるが、陸上競技に例えればトラックランナーとして二周ほど遅れている気がしてならない。

 Sはどうやら今日においても宮顕を戦前共産党運動の英明な指導者と賛美しており、宮顕時代の日共史を極力肯定したがっているようである。この点で、れんだいこの認識と大きく食い違っている。れんだいこは、「宮顕英明指導者論は逆であり、宮顕こそがスパイM以降、スパイMに成り代わる形で登場した共産党史上最大のスパイ頭目である」と批判している。この観点の差が、手塚の意図的故意の偽証を生み、それを容認するSを生んでいると解している。

 断言しておく。Sは手塚の意図的故意の歴史偽証を容認できるものとしているが、宮顕が牛耳り始めた党活動史上に於いて、多喜二の通夜の席に実質的な妻であろうがハウスキーパー的地位であろうが、そういうことに関わりなく伊藤ふじ子が居たことを隠さねばならないほどの運動上の利益は何もない。偽証及びその偽証の正当化を促す動きが認められるが嘘の上塗りの居直り弁でしかない。伊藤ふじ子の多喜二通夜への来訪と激しい哀惜ぶりは、隠すより事実を史実として語らしめた方が歴史に対して真摯である。

 れんだいこのカンテラ時評№1244  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年11月 9日
 手塚説と江口説が矛盾していないなんてことがある訳がなかろうにその2

 手塚とは何者か。「れんだいこのカンテラ時評№1111、補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考」で素描している通りである。ここでは、Sが知らしめた省略部分の「合法的に動いていた私たちと非合法の彼とのあいだには何の連絡がなかった」に注目しておく。

 本人の弁で、多喜二の生前に於いて特段の接点がない御仁であったと語っている。むしろ「多少の誤解がある」として「伊藤ふじ子存在説」を証言した江口の方が多喜二と親交が深かった人と云うことになる。その江口氏が、「ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」なる手塚式偽証に異議を唱えていることの重みを受け取るのが筋であろう。

 付言しておけば、「多喜二の通夜の席へのふじ子の存在有無」判断につき、組織防衛的見地からの偽証であればあるほど、手塚如きが決められるべき筋合いのことでもない。ならば誰の指示によるのかと云うことになる。Sレベルの事情通ぶりでは皆目見当がつくまいが、蔵原-宮顕ラインの指示に従っての歴史詐術と云う線は大いにあり得ると窺うべきだろう。

 「ふじ子の来訪と激しい哀惜ぶり」を歴史に刻むか隠蔽するかにつき、これは歴史的行為であるから歴史的眼力で判断して差し支えない。が、一応は当人の考えも聞いて見るべきだろう。これを確認したところ、当人が史実を隠蔽するよう依頼していた形跡はないようである。否むしろ「ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」とする手塚式偽証の方にこそ非人情を感じているのではなかろうかと思える節がある。

 「ふじ子のこの後の生活に傷がつくことを踏まえ、彼女の生活に迷惑をかけたくないから」云々なる思いやり論による偽証正当化は気色の悪いものでしかない。事件から半年後、釈放されたふじ子が、それまで若干の付き合いのあった漫画家の森熊猛・氏の部屋のドアをノックして、「クマさん、今日やっと出されたのヨ。今晩とめて…」と訪ねて来た時、森熊氏にはふじ子と多喜二との仲は公然のことであり、そのことを受け入れた上で二人が睦みあう家庭を持ったのが史実である。手塚式思いやり論のおたく性、詭弁性が知れよう。

 Sの「手塚の事実隠しを宮本顕治の陰謀だと持っていくのは、下衆の勘繰りとまでは言わないが、あまり趣味の良くない推論だろう」の謂いには何の論証もない。云い得云い勝ちの弁でかく云いなして傲然としている。宮顕英明指導者論者のSが宮顕スパイ頭目説を唱えるれんだいこに敵意を燃やすのは分かるが、責任ある発言には多少なりとも論証が必要ではなかろうか。今や、れんだいこ説とS説のどちらが正しいのかが問われている。こういう論点の対立はどちらかが正しく、足して二で割る式の折衷では納まらない。れんだいこは歴史の審判が下るまでの道中を火の粉を払いながら待つことにする。

 それにしてもSの没論理性が気になる。「手塚の不在説は訳ありなのであり、偽証には違いないが偽証事情を忖度せねばならない」と述べ、この線でとどめるのなら一応は筋が通っている。ところが「手塚英孝と江口渙は矛盾していない」と云いなしている。こうなると完全に味噌くそ同視詭弁であり、且つ限度を超しているとみなすべきだろう。こういう論法を使い始めると物事の見境いがなくなってしまう。

 Sへのはなむけの言はこうである。当人は「趣味の良い推論」派を自認しているようだが、罵られた方のれんだいこからすれば、この手合いが高潔紳士として世間に通用しているとしたら気色の悪い、世渡りが上手過ぎるのではないかと思う。

【手塚説と江口説が矛盾していないなんてことがある訳がなかろうにその3】
 思わぬ副産物として、「「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙」の「多喜二最期の像―多喜二の妻」に「宮本顕治を入党させたのは生江健次である」(林淑美「中野重治 連続する転向」)の記述があるとされている。私のザっと読みでは該当箇所に出くわさない。それは仕方ないとして、「宮本顕治を入党させたのは生江健次である」情報の真偽を確かめたい。「生江健次」(ナマエ ケンジ)をネット検索すると次のような情報になる。
 昭和期の劇作家、小説家。明治40(1907)年11月24日、兵庫県神戸市に生まれる。慶応義塾大学入学。 慶大在学中の昭和2年戯曲「部落挿話」、評論「藤森成吉小論」を発表。ボルシェビキに走り、「戦旗」の編集に従事、6年「ナップ」に「過程」を発表。 転向後は文芸春秋社に入ったが、18年報道班員としてフィリピンに渡り20年ルソン島で餓死。作品「過程」は戦後「全集・現代文学の発見」に再掲された。昭和20(1945)年7月26日、逝去(享年歳)。

 法政大学大原社会問題研 究所兼任研究員/立本 紘之((たてもと・ひろゆき)「1931年のプロレタリア 文化運動における 運動方針転換問題の再検討」が次のように記している。
 概要「1931年、蔵原惟人がソ連から帰国。「最先端の 理論」であるプロフィンテルン第五回大会採択の文化テーゼを元に新しい運動方針(文化運動 組織大衆化・職場、農村への文化サークル結成。これらの運動に対応するための文化団体横断的 統一組織結成)を提案する。①31年1月の共産党再建直後から党中央の松村(スパイM)がナップ(全日本無産者芸術団体協議会)関係者生江健次、手塚英孝と接触。彼らを通じ文化運動と党運動は接点を持つ。帰国した蔵原がこのラインに参画しナッ プ内で党員を増やす動きを始め、宮本顕治、村山知義、杉本良吉らが入党する。彼ら文化人党員による党フラクション内で の合議で蔵原提案受け入れの働きかけが行われ、ナップ中央での決議に至る」。

 これによると、党中央の松村(スパイM)がナップ(全日本無産者芸術団体協議会)の生江健次、手塚英孝と接触。これにモスクワ帰りの蔵原が参画、宮本顕治、村山知義、杉本良吉らが入党となる。要約すれば、松村(スパイM)の息のかかった生江健次、手塚英孝らが宮本顕治の入党に関係していると推理できるようだ。なかなか貴重な発見である。

 石堂清倫「『転向』再論-中野重治の場合」が次のように記している。
 中野は一九三二年四月四日に逮捕されたが、党の組織関係については一貫して陳述しなかった。控訴法廷ではじめて自分が党員として文化聯盟フラクションに所属していたことを述べたのである。ところが、そのことは彼よりさきに逮捕されたフラクションの責任者生江健次が警察で自白している。警察調書がないためその時日はわからないが、四月中であったと推定される。三三年九月二一日の生江の第八回訊問調書では、改めて中野が党員であることを確認している(『運動史研究』一九七九年二月刊、第三巻二〇六ページ)。

 生江は共産党の最高幹部の松村(本名飯塚盈廷)の直接の指示によって行動していたが、この松村は思想検事戸沢重雄直属のスパイであり、党の人事も政策も要所はすべて当局が詳知していたこともつけ加えておく必要がある。中野のいう党への「人民の信頼」も、一部にはまだ残っていたかもしれないが、松村によって計画され実行された「銀行ギャング事件」で党への信頼が地に墜ちていたことを、どこまで法廷段階の中野が知っていたか疑問である。松村は一貫して目的のために手段をえらばず、大金の拐帯やいろいろさまざまな反社会的事件をくわだて、共産党が冒険主義者の集団であるかのような印象をひろめることができたのである。


 石堂清倫氏は、「生江は共産党の最高幹部の松村(本名飯塚盈廷)の直接の指示によって行動していた」と証言している。以上よりすれば、生江健次、手塚英孝、蔵原らが党中央の松村(スパイM)の指示によって行動しており、このラインが宮本顕治を入党させたことになる。何やら貴重な情報を得たと云うべきか。

【宮本顕治「小林多喜二とその戦友たち」考】
 ネット検索で、「◎歴史のふるいに十分たえうるリアリティー……一九三二年二月二〇日 小林多喜二虐殺される」に出くわした。宮本顕治「小林多喜二とその戦友たち」と思われるので、これを転載しておく。(読み易くするために趣旨不改編に基づくれんだいこ文法に則り書き換える)
 今日は、私は小林多喜二と、彼と一緒に闘って、若くして倒れた人たちについて話したいと思います。多喜二については、たびたびの記念日でさまざまな側面から語られております。しかし、いま土井大助さんの詩もいったように、まだ語りつくされてはおりません。それは、日本の歴史がすすみ、日本の革命運動が発展すれば、その新しい角度から、いろんな研究が進むからであります。同時に私は、小林多喜二の活動した時代に、小林や私たちと一緒に闘った人びとのなかで、二十歳前後の若い時期に、非常に苦しい条件下で闘い、倒れた人たちについて触れたいと思います。

 小林の生涯は、知られているように革命作家として、また党員文学者として生きぬき、闘いぬき、そして敵権力の拷問に殺された不屈の生涯でした。彼の生涯は長いものではありませんでしたが、彼の生涯と彼が残した作品とは、今日、日本共産党が五十周年の記念を迎えた時点でみますと、いっそう新しい光をはなっております。今日、私が話したいと思うのは、この小林のこととともに、その時期の、若い革命的詩人であった今野大力、今村恒夫、また当時、演劇運動で働いて、やがてソ連で死んだ杉本良吉、こういう人たちについてであります。

 ちょうど一九三二年の春、文化運動にたいする弾圧がありました。そのとき約五十人の活動家──その多くは日本共産党員でありました──が逮捕され起訴されました。また、四百人ぐらいの人びとが逮捕されて、警察署につかまっていた。手塚英孝の研究によれば、これら四百人の留置された日数をあわせますと約三十年ぐらいになるというくらいの長期拘留でした。私自身も、一九三二年の春、日本共産党員であるらしいということが特高警察につかまれて、地下活動にはいりました。その時地下活動にはいった人たちは、小林多喜二、さきほど多喜二・百合子賞を受けた作家としてここで挨拶いたしました手塚英孝、杉本良吉、詩人の今村恒夫、その他、今日では党を裏切りました西沢隆二たちでした。

 小林の地下活動のなかで、有名な彼の作品「党生活者」が書かれました。この「党生活者」は、小林がなくなってから初めて発表されたものであります。そして、戦後初めて、完全な形で発表されました。このなかに描かれておりますのは、ある軍需工場の臨時工に対する首切りに反対する闘争を、日本共産党の細胞、今日の党支部が指導する。その主人公は、「私」という名前で出てくる佐々木安治という名前の人物であります。この時期は、中国に対する日本の侵略戦争が始まって、日本の軍国主義がますます凶暴にふるまう、階級的な労働組合運動の合法性がない、いわんや日本共産党は、日本共産党員ということがわかれば長期に投獄され、その指導者は死刑・無期というような状況でした。このときの工場の情勢を描く小林多喜二の筆つきというものは、全体として時代に対して、けっして消極的、悲観的でない、しかし同時にあまい見方もしていない。

 この作品は、いくつかの点で戦後の文学界で非常な論争の対象になったものであります。そのなかには笠原という、佐々木と一緒に住んでいる婦人に対する作者の描き方、態度の問題がしばしば論じられてきました。その描き方が正しくない、目的のために手段を選ばないような描き方だ、という全面否定の批判が一部の人からありました。

 私は一昨日、この作品を久しぶりに読みかえしてみましたが、全体として今でも、飽きないで生きいきと読み続けられる、そういう生命をこの作品はもっております。一部の人は、この作品は、地下生活をしている主人公、佐々木の姿はよく描かれている、その母親の姿もよく描かれている──このお母さんについては、さきほど山本学さんが朗読しましたように非常に感動的な描写がいろいろあります──しかし、工場の描写、これはだめだ、こういうことをいう人がいます。

 たとえば、日本共産党を裏切って党から除名された小田切秀雄、彼は、最近では日本共産党から出ることが非転向なんだ、日本共産党にとどまることは「転向」なんだ、屈服なんだ、こういうことを書くところまでいっております。彼は、その前は、あのトロツキストを擁護して、そのなかで、ヘルメットとゲバ棒で大学を変えようとしている学生、彼らの闘争は半ば成功している、そして、堕落した革新政党に代わって、これは現代の明るい希望だと、こういうことを書いておりました。その後は、すこしほめ方を変えてきまして、彼らは必ずしも、まだうまい方法を発見していない。こういうふうに変わりましたが、彼は「党生活者」をどういうふうに批判しているか。それは、いま申しましたように、主人公と母親は描かれているが、ほかは完全な「観念的な設定」だ、形象性がないというわけであります。

 もちろん我々は「党生活者」をけっして弱点のない作品だとはいいません。さっきいいましたような、笠原という婦人の描き方ですが、彼女は、共産党員として地下活動にはいっているわけではありません。普通に勤めている婦人です。勤めているけれども、地下活動中の主人公といっしょに暮らしている。そして、そのなかで、いろいろ悩み、また苦しみながらともに生活し、そして、おしまいには勤め先をクビになって喫茶店に勤めながら生活費をかせぐ。こういう婦人であります。その笠原と佐々木の関係の描き方には、たしかによくわからぬ点が残るという弱点があります。また作品に書かれた範囲でも描き方に不足がありすぎて、二人の結びつきの過程をふくめて、二人の状態がよく描写されていないことが、未完に終わったこととあいまって、この作品についての解釈の余地を大きくしていますが、それは地下生活そのものを防衛するために、作者小林を追及している警察に現実的なヒントを与えまいとする心理が、フィクションを意図したとしても小林の描写力をにぶらす一つの要素となったということもあったかも知れません。

 従来、この作品をおもに主人公と笠原の愛情の問題という角度からだけ論じる傾向がありました。戦後、一部の人びとから笠原という婦人の扱い方が、きわめて非人間的で、目的のために手段をえらばない、人間軽視であるなどという攻撃がなされ、これに対していろんな論争があって、多くの「党生活者」論が書かれました。笠原の描き方の欠点をとらえて、そのように断定することに私も反対してきました。私は以前に「『党生活者』の中から」その他で書き、それは私の論文集にのっておりますから、同じことをくりかえしません。蔵原惟人君も書いております。

 また、工場そのものの状態をどういうふうに描いているかという点でも、けっして単なる「観念的な設定」ではない。「党生活者」によると、この工場は、今で申しますと朝八時から夜九時まで働いて、当時のお金で一円八銭にしかならない。こういうひどい十三時間労働の中の超低賃金であります。今は貨幣価値は変わっておりますが、それにしても。この作品を読みますと、「夜の六時から九時までは一時間八銭で、しかも晩飯を食う二十分から三十分までの時間を、会社は夜業の賃金から二銭或いは三銭(わざわざ計算をして)差引いてさえいた」、そういう状況が描かれています。そして労働者が毎日帰るときには、賃金の支払いに会社は「端数の八銭を、五銭一枚に一銭銅貨を三枚ずつつけて払った」。その銅貨を数えて渡すのにたいへんな手間がかかり、労働者は仕事が終わってからも一時間も待たなければならなかった。そういうふうな、当時の軍需工場の現実をつかんだ作者だけが描ける、奴隷的な状況が生きいきと読者に伝わってくる。

 佐々木の像が生きいきと描かれているというのは、けっしてただその心境──まったく個人生活がなくなって、水にもぐっているようなという心象だけでなく、外界との関係について、佐々木と軍需工場のなかでの日本共産党員である仲問たちの大衆のあいだでの活動との関係を当然ふくむものです。どういうふうにして、戦時下の政治的無権利状態での軍需工場のなかで、首切り反対闘争をすすめ、また当時の侵略戦争に反対する闘争がすすめられているか、佐々木や細胞員たちの大衆活動の労苦、その前進と挫折──こういう状況は、全体としてやはり今日でも私たちをあかず読ませる描写力をもっています。だから、この作品が書かれて四十年以上たっているのに、私たちは全体として非常に興味深く読むことができる。それはやはり小林の描写の力が、全体として現実性をもっているからです。

 もちろん、細胞の仲間の人物の描き方に、まだ個性的に非常に深く、像として彫られているとはいえない点はありますが、しかし、それらの部分はけっして単なるつくりものというのではありません。彼自身、こういう作品を書くのを、ただ机の上の調査で書いたんでなくして、地下活動にはいる前に、彼は藤倉電線という毒ガスよけのマスクをつくっていた軍需工場に行って、直接、そこの労働者と、いろいろ話し合っている。彼はそのころまだ二十八歳でありましたが、そこの、若い男女労働者の諸君は、多喜二のことを「おじさん」「おじさん」と読んで、おじさん、あたいたちのことを小説に書いておくれと、いっていたんですね。小林は、君たちが、うんと立派な闘争をすれば立派に書けるが、そうでなけりや書けないからがんばれと、こういうふうにいったそうであります。

 作品のなかではこの工場の名前が倉田工業となって出てまいりますが、全体としてそれまでの日本の、文学運動になかった侵略戦争下での軍需工場の労働者の状態と、それを指導する党細胞、佐々木をはじめとする党活動家、そういう革命闘争の新しい現実と人物を描いているわけであります。

 しかし、ここで私がとくに指摘したいのは、さっきのべた小田切の議論についてです。小田切はこういういい方をするわけです。この作品における工場の描写はたんなる「観念の設定」で、失敗していると。そういう前提から、それが、彼は作家の目で現実を見ないで、自分が従わなければならない「政党の見地に」「制約」されて見たから書けなかった、「誤算をふくんだ政党の目で作者が強引に現実を割り切ろう」としたから、表現の「空疎な抽象性」にとどまるしかなかったんだというのです。当時、日本共産党はコミンテルンの支部でありましたが、そのコミンテルンが「日本における情勢と日本共産党の任務にかんするテーゼ」という方針、いわゆる三二年テーゼというものを出しましたが、小田切は念入りにも、当時の日本共産党の指導部は、三二年テーゼを具体化する能力がなかった、したがってその党の一人である小林も、それに制約されて書けなかったといいます。

 しかし私はこの点で逆なことがいえると思います。もちろん三二年テーゼは全体としては、日本の絶対主義的天皇制の緻密な分析と地主的土地所有制度、独占資本主義等についての全体的考察の上に、日本革命の性格を、「社会主義革命への強行的転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命」であるという、戦略的展望の広範な理論的な基礎づけをおこなっています。こういう正しい側面が三二年テーゼのもつ主要な面でありますが、同時に欠陥もありました。その欠陥の一つは、当時日本の情勢について革命的情勢が切迫している、日本では近いうちに「偉大なる革命的諸事件がおこりうる」だろう。こういう見通しもふくまれていたわけでありますが、今日となってみればこれは一面的主観主義的な評価であったことは否定できません。ほかにも弱点はありましたが、それはただ、その文章だけがもった欠陥というだけでなく、当時のコミンテルンが革命運動の全般的情勢にたいして、主観主義的な、過大な評価をやり、日本の運動にしてもやったわけであります。

 ところが、小林が描いた「党生活者」のなかの、倉田工業の闘争はどうかと申しますと、そのなかには結局は当時の侵略戦争にたいしてはっきりした態度をとらない社会民主主義者の動きであるとか、あるいは会社の直接の手先が労働者にばけて、労働者の中で革命的分子をさぐり出し、労働者の闘争を妨害するとか、いろんなことがあって、そのなかで首切り反対闘争は、盛りあがりの機運はあったけれども、結局は挫折してしまう。臨時工のかなりが首切られる。こういう状況になるわけであります。

 けっして工場の情勢は、革命的情勢が切迫しているというふうな描きかたではなくて、全体として現実的にさまざまの困難が意識的に描かれている。戦争がおこったなかで、当時の支配階級が、この戦争は労働者階級にも役に立つ戦争だ、こういうデマゴギーが労働者の中にどんどんはいっているとか、十何時間労働といういろいろ苦しい労働条件、そういうなかで、労働者はほとんどお互いに話し合うような、十分な時間もとれない。そういうなかで共産党が活動する、非常に困難な情勢を書いております。

 だからもし小林が、本当に現実をリアルに見る、こういう作家でなくて、小田切のいうように、コミンテルンの日本についての文書は全能なものだった、革命的情勢が来るといっているのだから来るにちがいない、ということで、その工場の情勢を主観的に、そしてそこだけバラ色の描きかたをしたとするならば、小林は批判されなければなりません。しかし反対に、この文書が誤って主観主義的に過大な分折をしている情勢について、小林は作家の目を通じて、そういう誤りに影響されないで、むしろ、より現実的にとらえているのであります。これは、すぐれた作家というものは、かれのリアルな目をもって情勢を生きいきと描こうとすれば、真実に近づかざるをえない、その特殊な力をもっているということの証明であります。

 そしてしかも、あの戦争の状況のなかで、侵略戦争反対、こういう正しい立場からの闘争、これを描きえたということは、彼の属する日本共産党が、コミンテルンの指導や三二年テーゼのもっとも正しい側面に断固として立ち、当時、他のどの政党もかかげえなかった侵略戦争反対の旗を敢然とかかげていた、ただ一つの党であったからであります。小林の作品には、天皇制の問題は直接出てきておりません。それは、発表を予想したものでありますから、とうてい天皇批判は文章には書けなかった。しかし、天皇制下の侵略戦争、軍需工場の悲惨さ、ひどい奴隷的な状況ということについては、全体としては鋭い糾弾の目をもって的確にこれを描いた。しかも、こういう戦時下の労働者への専制支配と苦汗労働の状況や困難な闘争を描きつつも、作者の姿勢は歴史を変革する階級の前衛としての不屈の闘志と未来への確信につらぬかれていました。

 それは、彼が日本共産党員だから描写をさまたげられたのではなくて、逆に日本共産党員であったから、戦争にたいする基本的に正しい見方、労働者階級の未来への確信というものを身につけていたから、これを正確に描くことができたのであります。だから、小林が自分の属する日本共産党の政策に制約されて、コミンテルンの指示の立場を生かせないために、あの軍需工場の状況が書けなかったんだという式の小田切の見方は、二重の重大な時代錯誤に立っているのであり、その根底には、コミンテルンを聖化して、これとの対比で日本共産党を悪罵しようとする卑しい性根が、つよく動いています。

 今日、「党生活者」が書かれて四十年以上たっているのに、なお、日本の近代文学の中の不朽の作品の一つとして、生命をもちつづけているということは、全体としてこの作品が歴史のふるいに十分たえうるリアリティーをもっているからであります。そしてこれは今日から見ましても、あの侵略戦争にたいする当時の労働者階級の前衛としての鋭い告発の文学です。そしてあの時代に、こういう作品を書く革命作家がおり、そういう作家が属した党が日本共産党であったということは、日本共産党にとっての一つの名誉であるだけではなく、日本歴史のなかでの、一つの名誉であると私は考えるのであります。

 今日、この侵略戦争の性格は明確でありますが、それでも日本の現在の首相は、これが侵略戦争であったかどうかということをまだはっきり言うことさえできません。かれの本音は、そうでないといいたいのです。わが党の不破書記局長が、今度の国会で、この点でするどい追及をやりました。この帝国主義侵略戦争の責任者である専制的な天皇制政府は、一九四五年のポツダム宣一言によって侵略戦争であることを認めて降伏したわけでありますが、田中首相はその文書さえ、はっきりと認めようとせず、当時力がたりなかったから、ポツダム宣言は修正できなかったんだ、こういうことさえいっております。

 小林多喜二がこの作品を書いた時期から、多くの歳月がたっているのに、あの侵略戦争を日本の支配階級かやったということさえ、日本の政治ではまだ確認されていない、ということは、日本政治のもつ、支配者のもつ反動性というものがいかに根深いかということを、あらためて証明しているものであります。人民の立場からみれば、非常に明瞭な専制支配と侵略戦争の犯罪性をおそれるところなく指摘した小林の文学は、四十年たってなお現在の支配階級にたいしても鋭い告発の文学となりえているのであります。かれは、軍事的警察的天皇制の野蛮な警察官僚に拷問されて、文字通り殺されました。この事実自体が、当時の絶対主義的天皇制の暗黒支配の野蛮さがどの程度のものであったかを、この革命作家の偉大な犠牲的な最期という歴史的な記録によって、永遠に告発しているのです。

 しかし、彼の雄々しい闘いというものは、彼の作品の世界を通して後世の人びとの心に生きつづけているだけではありません。彼は凶暴な拷問に屈しないで、一言も組織の秘密をもらさないで闘いぬいた。共産党員としては当然でありますが、しかしこの毅然とした頑強な精神は、その後少なからぬ共産党員が、警察や獄中でがんばり、拷問や長期の虐待のなかでも党の旗と組織を守り、革命家──共産主義者としての信念を守る場合、非常に大きな力になりました。これも日本の革命運動のけっして忘れてならない革命的伝統の一つであります。

 彼が死んだときに、作家の志賀直哉、この人は小林が一度尋ねたことのある人でありますが、小林の死を聞いて日記に「アンタンたる気持ち」になったが「不図(ふと)彼等の意図、ものになるべしといふ気する」と書きました。「ものになる」、つまり実現の可能性がある、こういったというんですね。

 日本共産党員の文学者が、地下活動をやってつかまって拷問で殺された。これは当時の一般には、共産党の活動をやっているととんでもないことになる、こういう受けとり方をされたでしょう。現に少なからぬ作家、評論家が、日本共産党は小林を犬死にさせた、けしからん、こういう非難をあびせました。しかし志賀直哉は、そうではなくて、なるほど「アンタンたる気持ち」にはなったけれども、「不図彼等の意図、ものになるべし」とのべた。「意図」というのは、日本共産党がかかげた日本の社会を変革するという課題であります。死をもたらした拷問にもたえぬいた、それはどの性根をすえて小林多喜二という作家か、がんばりぬいた。そういう人間のめざした「意図」というもの、そういう課題というもの、これはけっしていいかげんなものでない。それをたたかいぬく、こういう信念、精神をもつ人間があるかぎり、それは実現するかもわからんのだということを、志賀直哉はふと考えたのであります。

 この人はもちろん社会主義者ではありません。しかし、この人は日本の文壇の大家の一人であり、リアリスト──現実主義者であった。しかも、戦後のこの人のいろんな活動も証明しておりますように、一定の社会的関心と正義感を失わない作家でした。戦後のいろんな社会的混乱をリアルに描いた「灰色の月」、松川事件への関心などはその一つです。

 この文壇の大家が、小林の通夜に行くだけでも多くの人を逮捕したりする当時の天皇制支配の恐怖政治のもとで、おそれず小林多喜二の母、セキさんに心のこもった弔文をよせたということは、日本文学史のきわめて光彩ある一ページです。

 この小林がかかげた「意図」、理想というものは、日本の歴史でどうなっていったでしょうか。それは、消えることがなかっただけでなく、生きつづけ、さらに今日では歴史の動向として大きく発展しているのです。日本の田中首相は、いまだに天皇制政府のおこなった戦争が侵略戦争であったということをもみとめませんでしたが、しかし、これが不正義の戦争であったことはもはや世界史的な事実であります。それは今日、自民党の首脳がなんといおうと歴史の審判がとっくについた問題です。そして当時、侵略戦争反対をかかげた党は、日本では日本共産党しかなかったという点からみても、この戦争に反対し、たたかいぬいたために小林が殺されたということは、歴史のあゆみからみますと、小林がかかげたこの侵略戦争反対という「意図」は、立派に歴史の過程のなかでその正しさが証明されました。

 当時の日本共産党がかかげた、絶対主義的天皇制反対の「意図」はどうなったでしょうか。戦後、旧憲法のような絶対主義的天皇制は一応大きな打撃を受けました。今日の憲法でのいわゆる「象徴天皇制」はブルジョア君主制の一種であり、反動的な残存物として、主権在民とは矛盾しています。しかしそれにしても、当時、日本共産党がかかげた絶対主義的な天皇制、絶対無制限の権力をもって天皇が統治するといった政治制度というものは、維持できなくなりました。いまでは憲法で主権在民をいわざるをえない。

 反封建的な土地所有制によって地主がたくさん土地を持ち、農民が働いた収穫の半分は地主におさめるという制度も、基本的には崩壊しました。「彼等の意図」つまり当時の日本共産党がかかげていた展望や方針、そのなかには、八時間労働制や労働組合活動の自由の問題もあります。小林の文学に描かれているように当時は十三時間労働制、労働組合もほとんどつくれない状態のなかでしたが、今日では、労働組合活動の自由、八時間の労働制が当然たてまえとなっています。それらの侵害に反対し、もっともっと時間を短縮せよという闘争がおこなわれています。そういうふうに、当時志賀直哉が「ものになるべし」といったものについてみれば、その平和と民主主義の要求からみれば、この半世紀のうちに、日本共産党がめざした主張の正当性を実証する方向に大きく社会は動いたのであります。日本国民の多大な犠牲と、多くの人びとの先駆的な闘争をともないつつ、この半世紀の歴史の巨大なドラマを通して、それは歴史の舞台にしるされたのです。

 日本共産党がかかげた目標は、日本を真に民主的な国にする新しい人民の民主主義革命の遂行だけでなく、それを通じてさらに社会主義の国にするという展望であります。その基本的実現のためには、今後多くの複雑、困難な過程が当然予想されます。それにしても、志賀直哉の感想は、当時においては非常に卓見であったということがその後の四十年の歴史において、非常に生きいきと証明された点で実に興味深いものがあります。

 (宮本顕治「小林多喜二とその戦友たち」『網走の覚え書き』新日本文庫 p74-88)
(私論.私見)
 宮顕らしい話法でそつがなく語っていることが分かる。しかし何も記憶に残らない。小林多喜二が一体どういう人で、どう闘い、倒れたのか、そういう肝腎なところが全てスル―されている。そういう意味では、又もや宮顕マジックが開陳されていることになる。

 問題は、「小林多喜二とその戦友たち」と云う題名で多喜二を語る場合に、こういう切り口になるのだろうかと云うところにある。党生活者を語り、ハウスキーパーを語り、小田切を批判し、当時も今も自分が指導者であり日本共産党が正しかったと語っているのだが、小林多喜二を語りながら論の端っこを語っているに過ぎない。常に自分を偉そうに語っており宮顕の尊大さが分かる語りでしかないと思う。宮顕が多喜二を語るのであれば、同じ文化戦線に身を置きながら、即日虐殺された多喜二、特高テロを撥ね退けた宮顕の明暗を分けたのは何なのか。こういうところを感概する下りが必須であろうに。多喜二を語りながら多喜二を語ること少なく、己と正義と己の支配する党の正義ばかりを語っている。嫌らしい宮顕話法である。れんだいこはかく解する。

 2013.2.23日 れんだいこ拝派









(私論.私見)