転向政策のまず第一のポイントは、転向者たちを決して自由に解き放ったりしなかったことである。伊藤晃によれば「転向者にたいして、官憲の警戒と不信の目、周到な監視は活動家時代と少しも変わらなかった」(伊藤1995年)。「しかも1932年の「熱海事件」以降の共産党(またはそれに関連する運動)と警察権力の力の差は圧倒的であって、1935年に最後の中央委員が検挙されたあとの党再建運動はほとんど全てアッという間に潰されている。それ以降の弾圧の強力さは言うまでもない。このように監視を怠らないことによって、共産党なり共産党以外の社会運動を封じるのである」。
そして転向者にとってさらに都合が悪かったのは、「転向ブーム」による転向者の増大と共産党の弱体化(消滅)の中で、転向政策に変化が見られていったことであった。具体的には、物理的な意味で、共産党関係者を監獄にとどめる時間を延ばしたことである。そもそも転向政策は、「思想犯」を物理的に拘束するよりも、転向を誓わせた方が効果があるとして採用され、刑の軽減をちらつかせることで転向に誘導しようとするものであった。しかし、ここまで大勢が転向すると、転向を積極的に誘い出す意義も薄れ、また大勢の転向者を獄外で監視する国家権力の側の負担も膨らんでしまう。そこで、被告人をできるだけ刑務所にとどめるため、転向したからといって刑の軽減には自動的に結びつけないという方針を決める[奥平1977:146-147]。こうした発想は、やがて1941年には「予防拘禁制度」にまで行き着いた。「予防拘禁制度」とは、転向を表明してない「非転向者」や、転向してもそれが不十分だと思われる者の「再犯」を「予防」するために「拘禁」する制度である[ibid:215-219]。こうして、治安維持法で捕まった者たちの身柄は、厳重に拘束されることとなる。
「転向」が単に共産党との決別を意味するだけならまだましであった。佐野・鍋山転向声明までは、「非合法的政治活動との絶縁」を誓うだけで、「転向」と認められた。しかし転向ブームの中で、「一切ノ社会運動ヨリ離脱」することを誓うだけでは、「準転向」としてしか扱われないようになる。この場合「本当」の「転向」と認められるためには、活動内容ではなく「革命思想ヲ放棄」することが要求される。ここにおいて治安維持法は、曲がりなりにも存在した近代法の性格を投げ捨て「文字どおりの思想弾圧法」へと変化したことになる[ibid:150-153]。つまり「行動」ではなく「思想」を罰する法律への第一歩を踏み出したのだ。
この変化は1936年の「思想犯保護観察法」の成立とともにさらなる「転向」概念の「深化」を生み、「革命思想ノ放棄」だけでなく、放棄した後にどのようにあるべきか、をも規定するようになってくる。そこでは「日本精神の体得」まで進まなければ「転向」とは呼べない、といった議論が行われるようになるが、その「日本精神」とは何か、といったことになると「司法当局もいっこうにわからない世界へまぎれ込みつつ」あった[ibid:153]。
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