| 当局の弾圧の威力と転向政策、思想問答の様子 |

(最新見直し2005.11.13日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 当時、治安維持法が猛威をふるった。1925年に「国体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的とする行為を処罰するために制定された法律」で、無政府主義や共産主義の取り締まりを意図していた。同法は、戦後の1945.10.4日にGHQにより「政治的・公民的及び宗教的自由に対する制限除去の件(覚書)」が発布されるまで続いた。 |
| 【当時の治安維持法違反検挙者数及び起訴者数】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
治安維持法が猛威をふるった間の検挙者数、そのうちの起訴者数、虐殺者数は次の通りである。
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| 当局の転向政策をこれから見ていくが、「転向政策に触れる前に、共産党の組織自体に、『転向対策』とでもいうべきものが何もなかった、ということは指摘しておきたい。石堂清倫氏は、共産党の側に『非合法活動でありながら、捕まったらどうするかということについての方針らしいものがない』ことを述べている(いいだ+石堂+菅+丸山1983年」。 「しかし、もちろん、秘密の保持などといった一般的な心得はあったであろう。だが、たとえば積極的に偽装転向をして早く獄外にでるべきか否か、といった問題については、個人や一部の集団が各自勝手に方針をたてていたらしい。そのため、せっかく獄外に出たものが、党に戻っても信頼されなかったりするようなことも起きた。逆に言えば、もし当時の共産党が、党員たちに偽装転向を推奨し、一日も早く獄外に出て活動を再開するよう方針をたてていたら、国家権力の転向政策なるものは破綻せざるを得なかったであろう」。 |
8−2:転向政策の巧妙さ 転向政策のまず第一のポイントは、転向者たちを決して自由に解き放ったりしなかったことである。伊藤晃によれば「転向者にたいして、官憲の警戒と不信の目、周到な監視は活動家時代と少しも変わらなかった」(伊藤1995年)。「しかも1932年の「熱海事件」以降の共産党(またはそれに関連する運動)と警察権力の力の差は圧倒的であって、1935年に最後の中央委員が検挙されたあとの党再建運動はほとんど全てアッという間に潰されている。それ以降の弾圧の強力さは言うまでもない。このように監視を怠らないことによって、共産党なり共産党以外の社会運動を封じるのである」。 |
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(私論.私見)