「れんだいこ転向論の構図」いわゆる転向問題考

 (最新見直し2013.10.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこの転向論をものしておく。但し、時折に書き上げているのでかなり重複している面がある。いつの日か一文に纏め直したいと思う。

 2007.1.8日 れんだいこ拝


【れんだいこの転向論その1、はじめに】
 急に転向論に向かいたくなった。既にスケッチしているが、その後は放置したままになっている。れんだいこを再度、転向論に向かわせたのは恐らく三島事件論がきっかけになっている。三島事件論を手掛けてみて、通説の三島自決論が如何にデタラメな当局仕立ての小説に過ぎないものであるかを知った。れんだいこの解は三島強制自決論である。同じ自決でも自主的なものと強制的なものでは天地の差がある。にも拘わらず三島自主的自決論ばかりが通用している。正確には「通用させられてきた」。その上で何とも難解な、あるいは奇妙な賛美論、その逆の批判論が横行してきた。しかしながら間違った構図で幾ら論じてもまともなものにはなるまい。神経がまともなら、れんだいこの三島強制自決論の登場をもって今後はそういうデタラメの解釈ができなくなるだろう。それはさておきその余勢をかって転向論にも向かおうと思う。ここでも確か俗説ばかりが横行しているはずであるから。

 一般に学問は難しいものである。しかしながら学者、評論家ともなると、その難しい学問を咀嚼して分かり易く解析せねばならない。仕事でもそうだが芯を掴まえ要領良く裁かねばならない。しかしながら実際の論はどうだろうか。学問を余計に難しくさせ、聞く者学ぶ者をして煙に巻く術を得手とする者が多い。そういう連中の書に分け入ると読めば読むほど余計に分からなくされてしまう。口は達者になるが却って見方がぼけてくる。それをごまかす為の長文饒舌文が多くなる。この作法と戦わねばならない。転向論をそういう難しい学問にするのではなく身近な誰にでも問われている論にして今後に通用する論を確立したいと思う。

 これが、れんだいこ転向論の前口上となる。

 2002.11.3日、2013.10.114日再編集 れんだいこ拝

【れんだいこの転向論その2、構図】
 考えてみれば、転向論の現在的在り方が日本左派運動の能力を証しているのかも知れない。膨大に論ぜられているにも拘らず何の教訓も創出されていない。くだらない弁明的な物言いでねちねちとした議論を生んでいるが、真摯に向き合ってこれを実践的に討議するという作風が見られない。むしろ百人が百様の持論を述べたまま野ざらしにされている。れんだいこのこの謂いは云い過ぎだろうか。

 いわゆる「転向問題」を分かったように「解決済み」的態度で論ずるエセイストを厳しく批判せねばならない。理論的な面で戦後の左派運動は何ほどの深化を遂げていない。転向問題についても然りというのがれんだいこの見立てである。今日の馬鹿げた状況は、「転向問題」を論ずる側が、その側自身が転向しているにも拘らず、「転向問題」を外的に措定し、かっての転向者を傲慢に批判している虚構性にある。普通にはこれを傲慢不遜と云う。

 せめて次のようでなければなるまい。今現に転向している側が転向問題を解くには、転向の内的必然性を説き明かし、己の側の転向を是認する方法で裏付けねばなるまい。ところが実際には、転向問題をそのように位置づけて苦闘することもなく、これを単に道徳的に批判し、何の根拠もなしに独善的立場から論じている。つまり、全く不真面目に付き合っており、にも拘らず真面目そうに論じている。転向問題を批判し抜く立場を維持し得るのは、今現に非転向を貫いている側からでなければ論理整合しないだろうに、かような痴態がはびこっている。そのことを疑問にする声も聞こえない。れんだいこには、その不細工さが堪えられない。これでは何も解けない。れんだいこがこれまで転向問題と向き合うのを忌避したり嫌悪してきたのはそういう事情によるものと思われる。

 まだ論を整理できていないが、左派運動史上に於ける転向論の考察はかなり意義のあることのように思えるので、れんだいこ風に調理しておこうと思う。二度と轍を踏まないための教訓的な論を構築してみたい。この辺りがからきしできていないのが日本左派運動の貧困なのではなかろうか。この関心は、れんだいこの宮顕論がもたらした成果だろうと思う。とはいえ、従来の「転向論」については何も知識がない。興趣を覚えなかったのがその理由であるが、漸く見えてきたこととして次のことを指摘しておきたい。

 爾来、「内省的な転向分析」は明らかに一つの大きな欠陥を負っていないだろうか。その最大ヶ所は、有り得なかった「唯一非転向人士」としての宮顕の威光にひれ伏し、宮顕の謂いを疑う視点を放棄し、そこから逃亡した地平で自らの転向を卑下し呪い、何やらちまちました精神問答に向っていることにある。研究者達は、その種の様々な社会学的分析に労を取り過ぎていやしなかったのか。そういう意味の不満がある。

 そういう転向論は明らかに変調であろう。史上最も強硬に君臨した宮顕の「唯一非転向完黙人士的聖像」の虚と闘わずして、その不正を見逃したところで転向論を何やら難しく語ったとしても、所詮実りのない論議の遊びに堕すだけではなかろうか。そういう無茶苦茶な議論の堂々巡りしてきているのではないのか。れんだいこは爾来その空疎さとその空疎さをカムフラージュする為に拵えられた難解さに辟易してきたのではなかったか。転向問題はそれほど難しく語られるべきであろうか。

 これまでの転向論は、自称インテリ人士とか文学運動戦線での自身ないし周辺の「内省的な転向分析」、「転向者その後の歩み」の研究についてはかなり為されている。それはそれで意味がない訳ではない。しかしながら次のステップである「転向者と非転向者の評価如何問題」、「転向に対する政治的総括」、「転向事由に対する真摯な検討」は為されているのだろうか。転向問題はやはりここが肝心要の基本となるべきだろう。それも、非転向者絶対的優位の立場から転向者を断罪する為に為すのではない。そういう転向論はあまりに戯画的過ぎる。「れんだいこ転向論」は、ズバリと問題を設定するのがれんだいこ好みなので次のように課題設定する。

 その一、「宮顕が自身で云うような非転向は在り得なかったこと」を確認する。通説は、「戦後党運動における非転向の双璧は、徳球と宮顕であった」とするが、宮顕はこの規定にも飽き足らず、「実質的に非転向だったのは俺だけ」論を吹聴している。ところが、宮顕の場合、転向非転向を云うにはあまりにも胡散すぎて問題にならない。「れんだいこ転向論」は、その虚偽を暴くことから始める。「宮顕唯一タフガイ非転向人士的聖像」の虚説が信じられているだけにその嘘を暴くことは重要である。宮顕派つまり宮顕、蔵原、袴田ラインの非転向なぞペテンの類であることを明らかにしたい。

 その二、「僅か少数の非転向者の獄中闘争を真っ当に評価し直したい」。徳球、志賀、春日(庄)らは一応の非転向を貫き厳しい獄中生活を耐え、戦後になって釈放される日まで何とか生き延びた。この間、大勢の共産党員が没している。我々が為すべきことは、彼らを正当に評価し、あたら惜しくも命を落とした者を畏敬をもって祀ることであろう。日本左派運動は、この当然の事ができない。これは微妙に靖国問題に通底している。これらのことを確認する。

 補足すれば、非転向者の威光の生態を解析してみたい。はじめに明らかにしておけば、双璧の徳球と宮顕の非転向を誇る態度には次のような違いがある。徳球は専ら社民に対し自らの非転向を誇る。宮顕は、専ら党内に対し非転向を誇る。奇妙なほどに誇り方の違いがある(「宮顕の非転向神話の暴力的君臨の実態資料」参照)。転向者は、自身の転向ぶりを恥じ、徳球と宮顕の非転向に対し無条件に頭を下げるという共通の作法が見られる。その生態を解析してみたい。

 その三、「転向者の転向行為、偽装転向を免責する」。いわゆる転向は、治安維持法下では命の引き換えとなり止むを得なかったこと、それは何ら断罪されるべき性質のものではないことを明らかにしたい。宮顕の言うような非転向を貫けば、即時虐殺あるいは度重なる拷問による獄中死しかなかったのが実際ではなかったのか。有能なものであればあるほど過酷な拷問が待ち受けていたのであり、宮顕的な「特高をも恐れさせ手出しさせなかった」論なぞ原理的に有り得ない。にも関わらず、易々と宮顕ペテン論理に騙されてきた負の歴史を総括したいと思う。

 その四、「だがしかし、何ゆえに指導幹部級の大量転向が相次いだのかを問いたい」。その背景とその生態及び論理を解析してみたい。当局の弾圧の威力と転向政策、思想問答の様子と各人の転向論理を俎上に上げて見たい。「水野らの第一次大量転向」、「佐野・鍋山共同声明による第二次雪崩転向」の際に特に転向事由になった1、コミンテルンの支部機関化問題、2、天皇制問題、3、民族主義問題、その他についても言及してみたい。転向者の類型分析とその論理を解析することにより、その転向がある種不可避でもあった事情を解析したい。

 その五、「指導幹部のみならず末端党員まで何ゆえに雪崩を打つかのように転向に向ったのか。それを促した当時の左派運動の組織的運動的土壌を検証してみたい」。これを実践的観点から問うてみたい。あまりにも精神的な思弁的なものは文学者の分析に任せて、我々は生活上、左派運動上で「何ゆえ転向を促進せざるを得なかったのか、どういう対応が可能であったのか」の視点から解析してみたい。

 その六、「他の諸国の同様弾圧に対する対応ぶりと比べてみてどの辺りが違うのか」について考察したい。特に、中国、朝鮮の抵抗運動での犠牲者及び転向者の生態と比較させてみたい。いわば「転向問題の世界史的考察」と云える。

 等々が転向論に於いて本来論ぜられるべきではないのか。転向問題はかく問題設定されて論ぜられるべきではなかろうか。かく、対象の持つ意味を精確に設定しなければ、論は生産的なものにならないのではなかろうか。肝心の設定が為されず、実践に役立たない方向で何やら難しく語られるのはなぜなのだろう。

 れんだいこは、従来の転向論についてそういう不満がある。故に、かく観点を据えて「れんだいこ転向論」を始めたい。かの時代を共有した当時の者達にとって、自身の忸怩たる思いもあってか転向問題は昔のこととして極力避けて通りたかったのであろうが、幸いなことにれんだいこは時代を隔てており、これを客観化することができる。「れんだいこの宮顕論」の考察で宮顕の非転向神話の胡散臭さが明らかになった以上、皆の衆何を憚ることがあろうか。 

 インターネットサイトに「転向論の再構築」が掲載されている。これを咀嚼して次のステップへと押し上げたい。その他サイトから学べるところを抜書きしてみたい。その基盤に立って「れんだいこの転向論」を次第に精緻に書き上げたい。

 2002.11.3日、2004.11.27日再編集 れんだいこ拝

【れんだいこの転向論その3、政治論的総括】
 今日「転向論」は流行らない。何故かというと、これまで為されてきた論及の構図がまるきりひからびているからであろう。一つは、党と体制権力の絶対的対立を廻っての辛吟という構図が古過ぎる。今日、「コミンテルン支部式党」が信じられる時代は終わった。二つ目に、自らの思想の自由、自主、自律性を抑圧させ党の絶対性に帰依していたところに発生した転向を「非」として、それを「苦」として受け止めさせその責任を問うという構図が破綻している。この両面を教条主義的に幾らほじくってみてもまともな転向論が生まれる訳がなかろうに、こういう問いかけから考察する「転向論」を辛気臭く弁論してきた。しかし、これまでなされてきたような「転向論」はナンセンスの塊であろう。真に「転向論」を問うなら、自由、自主、自律的に結社され、機能していた党組織と党員が何故に転向したのか、その理由を解析することであろう。しかし残念ながら、未だそのような組織にお目にかかっていない以上宙空のものを論じても仕方ない。どうしても論じるなら、いわゆる組織論一般でどういう条件で人は結集し離散するのか、その外的条件、内的条件を見出そうとした方が良い。

 真理論を被せて党中央に対する絶対的帰依を強いて、その破綻現象である転向の非を突くなぞ元来意味がなかろう。あるとすれば、そういう党にして何故に党中央の方から離脱が発生したのかを詮索することだろう。考えられることは、案外知られていないが思想闘争、現状分析論、未来青写真論等々の理論闘争で取調べ当局側の論理に負けたということであろう。ならば、その理論闘争の様を吟味して行くのが筋であろうに。それができてから組織論、規約論の吟味へと向かうべきだろう。仮に、理想的に形成された党が存在したとして、その党に転向現象が現れたら、そこで初めて何故にと問うべきだろう。今はまだこれを問う段階ではない。というか、まだお話しにもならない。

 結論。本来的な党が形成されていない、いわば官僚式でしかない党に於ける転向発生の考察はさほど意味がない。あるとすれば、そういう未熟な党形成段階に於ける宮顕―蔵原式非転向神話に眉唾し、彼らの偶像を疑惑し、そのエセ聖人像を剥落させ、よって連中の「非転向神話による転向者排除、屈服、恫喝の為の金棒」を取り上げる為に転向論が必要であるということだろう。れんだいこ史観によれば、獄中獄外ともども当時何らかの転向なしには命の保障が覚束なかったと推測するから、端から連中の「排除の論理」を相手にしない。何ウソ云ってやがんでぇ、そったらことがあるものかは、と抵抗していくのみである。 

 
先に「文学者達による「内省的な転向分析」考」を見てきたが、いささか辟易させられている。当代の頭脳が寄って為していることだからしてそれに違和感を覚えるれんだいこの方が間違っているのだろうかと不安になることもある。だがしかし云わねばならない。そして、れんだいこの見解を打ち出さねばならない。中には膝を叩いてくれる者も居られるに違いないと信ずるから。友を求める気分で、以下、「れんだいこの転向に関する政治的総括論」をサイト化する。

 れんだいこに云わせれば、転向問題を論ずるのに何も難しく考える必要がない。まず、時の権力が弾圧に取り掛かり、その程度が暴力にかけても「巧緻な罠」においても世界に冠たる治安維持法体制から為されたものであり、「命を惜しめば転向以外に生き延びる道がなかった。もし完黙を貫き、非転向を意思表明すれば、小林多喜二のような虐殺が待ち受けていたであろう」。その状況を精確に見据えれば良い。つまり、止むを得ない対応として転向があったことを確認すればよい。いわゆる「応法問題」として課題を設定すれば良い。仮に、同時期の中共が党組織としてあるいは個々の党員がこの問題にどう対応したのか、これを参考にすることも必要だろう。

 唯一異例なことに、宮顕は、「こいにつには何を云っても無駄だ」と特高があきらめ拷問の手が緩められたことを誇っている。驚くことに、日共系の自称インテリ達はまんまとその口車に乗せられている。その種のインテリでしかない。れんだいこが再度強調しておく。そういうことは有り得る筈がない。この「唯我独尊論理」は、虐殺に倒れた同志に対する侮辱以外の何ものでもなかろうに、彼らにはそう思いやる能力がない。

 宮顕の「非転向完黙唯一人士的聖像」に対する批判構図を前提にして、真に左派急進的に闘った非転向派、右派急進的に転身した当局迎合派、そのどちらにも位置し得なかった中間的苦悩派の者が居た様子を史実的に確認し、今後同様の時局に見舞われたときに我々はどう対処かべきなのか、その手立てをどう生み出すべきなのか、これらを論ずるのが本来の転向論になるべきではなかろうか。

 2003.10.5日 れんだいこ拝

【れんだいこの転向論その4、転向理論考】
 但し、特殊解析せねばならないことがある。それは1933(昭和8)年三・一五事件、四・一六事件当時の日本共産党の最高幹部にして獄中組の佐野学・鍋山貞親の共同署名による「獄中転向声明=共同被告同志に告ぐる書」が端緒になり発生した「大量転向現象」であるが、当時神聖不可侵であった党中央の率先投降の背景にあったものが徹底分析されていない。当時の野呂指導部は、特に宮顕を中心としてこれを政治主義的に「裏切り」とのみ捉え除名措置で済まして居るが、これでは単なる断罪に過ぎない。

 佐野学・鍋山貞親らは、転向理由として次の諸点を指摘していた。
@  概要「従来のコミンテルンの指令は日本の現状にそぐわない。また、コミンテルンはスターリン政権の確立と共に、ソ連本位の国策遂行機関化し、他国の共産党はソ連の利益のたるの手先となって働いている」。
A  概要「コミンテルンは日本の実状を無視し、デモクラシーを踏みにじって党員に批判の自由を与えず、独裁的な革命指導を行っている」。
B  概要「皇室に対する親愛感情を無視して、国体変革を強要したり、徒に敗戦主義を課すことには承服できない」。
C  概要「共産党は目的のためには手段を選ばない」。

 当時の左派戦線はこの「転向事由」の吟味をせぬままに遣り過ごしてしまった。ここに充満せる不満が内向し、却って転向を促進せしめた観がある。この現象は日本左派運動の理論レベルを証左しており、このことに対する痛苦さを確認するところから転向問題も論ぜられるべきである、という視点が欲しい。

 それを思えば、史上の転向論は何とちまちましたところで為されてきていることだろう。肝心のこれらを何ら立体的に明らかにしていない。以下取り上げるのは、あまたの転向論の中でも有益な指摘をしている人士のそれである。それでさえれんだいこを納得させない。石堂清倫氏は、1983年に次のように述べている。
 「『転向』中央部の方針にたいする具体的なオルタナティブがあったならば、あんなに大衆的な集団的転向は出なくて済んだかもしれない思います」。 

 れんだいこは思う。その通りなのだが、石堂氏は重要なことを指摘していない。事実は、当時の党中央は、「『転向』中央部の方針にたいする具体的なオルタナティブ」を為しえなかったのではないのか。ならば、為しえなかった事由の解明にまで向うのが筋ではなかろうか。(オルターナティブ、alternative、(1)二者択一。代替物。代案。(2)既存のものと取ってかわる新しいもの)

 本多秋五氏は、当時の転向の様子について1954年の「転向文学論」の中で次のように記している。

 「佐野、鍋山の転向や、獄中生活の苦痛や日本国家による圧迫なしに、不可避的に、声明書のような内容をもちえたかどうか疑問で、耳を覆って鈴をぬすむ背教者の仕業とみるのが、当時もいまも変らぬ健全な常識であろうと思う」。
 「最大の原因は、いうまでもなく外的強制にあった。外的強制というなかには、検挙・投獄・拷問だけでなく、最悪の場合には死刑をも覚悟せねばならなかった治安維持法改悪の恐怖もあった」。

 本多秋五のこの観点は、拷問及び恐怖政策で転向を余儀なくされた者に対しては「これが最も素直な観点」であろう。但し、日共党中央の相次ぐ転向現象を語るには物足りない。

 この傾向に対し唯一気を吐いたのは吉本氏の「転向論」であるように思われる。但し、れんだいこには、最良の出来映えと思われる吉本氏の「転向論」でさえ、正面から挑んでいないように見える。どこが不満かというと次のことにある。史上の転向論のいずれもが、宮顕や蔵原らの有り得なかった且つ史実も次第にそれを明らかにしつつある「非転向完黙唯一人士的聖像」の虚論にひれ伏し、当時の「忸怩たる過去」を合理化させたり客観化に向かおうとしている。吉本氏のように「非転向完黙唯一人士的聖像論」に反撃を加えた論理は珍しいが、それが「非転向完黙唯一人士的聖像」論を認めた上での批判だからややこしいこと限りない。

 れんだいこが追跡してみて、史上の転向論のA派B派C派のどの論拠が正しいかなどをあげつらってもさほど意味があるように思えない。その典型として、戦後直後の「戦争責任追求運動」なぞ検証すればするほど吐き気を覚える質のものでしかない。挑発的な物言いであるとは思うが、多くの者が取り組んだ割にはそのレベルのことしか為されていないというのは事実ではなかろうか。むしろ、左派運動の能力を問う観点から「正面からの転向論」を論ずること、このことが必要にして責務なのではなかろうか。

 2002.11.11日 れんだいこ拝







(私論.私見)