転向を促した左派の組織的運動的土壌の検証 |
(学習中)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
ここで、「転向を促した左派の組織的運動的土壌」を検証する。「転向論の再構築」の指摘する「体制変革を目標とする全面的関与型組織において、非民主的組織風土は転向を生み出しやすい」という仮説を論証するものである」と通底する。 平野謙は、次のように述べているとのことである。
これを、れんだいこなりに検証する。 |
【隷従型組織論】 | |
当時の共産党では自発性を抑圧するような構造がつくられてしまっていた。栗原氏(1977年)は、銀行ギャング事件を直接実行した党員・中村経一の事例があげ、中村が銀行ギャングのような仕事を急に割り振られたことに抗議し、命令に服従できない旨を告げたこと。しかし、結局、共産党の命令だということで押し切られ、最後には「どうせやるなら男らしくやろうと決心」した過程を検証し、次のように述べている。
こうした党員たちの自主的な判断を放棄した「献身」は、「入口」の問題が大きく影響していることは言うまでもない。松沢弘陽(1960年)は、入党時の契約的な双務性のなさと、入党後の「絶対的服従」、共産党という「絶対的な価値の体現者に対する自己否定的な献身」を指摘している。こうした傾向は共産党に集まる個々人の「被組織待望の心理」(松沢弘陽)にその原因を求められるかもしれないが、それを否定しないどころか助長し最大限に利用することが、当時の「運動」であったところに、大きな問題がある。 |
【「ブルジョア民主主義」への軽蔑】 | |||||||||||
党員たちの自発性、主体性を抑圧する構造を生んだ大きな要因として、戦前日本共産党に民主主義への蔑視が巣くっていたという点が指摘できる。伊藤晃の「天皇制と社会主義」(1988年)は、民主主義への軽蔑が、福本イズムのみならずその前の山川イズムの時点から続く戦前日本共産党の「伝統」であったことを鋭く分析している。
伊藤晃の「天皇制と社会主義」はこうも云う。
そしてこう云う。
では福本和夫においては民主主義はどう扱われたのだろうか。
こうした傾向は必ずしも日本独自のものではなかったかもしれない。当時のコミンテルンの「ブルジョア民主主」批判のレベルもそうであった。
伊藤氏は(1988年)指摘している。
32年テーゼにおいてもこうしたブルジョア民主主義の位置づけは基本的には変化しない。こうした理論的傾向が党内にはどのような形で現れたか。
こうして、戦前日本共産党の中には民主主義を実現しようという意欲も育たなければ、民主主義について真剣に考える契機もなくなってしまった。
山辺健太郎(1976年)もこう証言している。
もちろん組織体制として、「民主主義的集権主義」(通称「民主集中制」)と呼ばれるものは目指された。その原則として次のように確認されていた。
しかし、それを具体的に実現するためには、「一、党の根本方針及党の一切の生活は、党員全体の意志、即ち党員総会又は大会に於て決定される/二、党の生活に必要なる一切の機関は党員の意志に基づき選挙によって作られる/三、……」などといったことが必要であった(山辺編1964:109)。しかし、これらは弾圧その他の事情から決して実現されることはなかった。
つまり、ハウスキーパーを生んだ条件である共産党の深まる地下活動化は、今度はハウスキーパーを存続させる条件である「民主主義蔑視」へと連続していたことがわかる。 |
【「プチブル的」という非難】 | |||||
先ほど引用した論文の中で山川は、共産党「エロ班」と呼ばれる部署が美人局などの活動を行ったという報道について、「仮にこの報道が事実だとすれば」と前置きして、「党の名を汚す最も重大な裏切的行為」、「売淫は階級的裏切りとして厳罰に価する」と批判する。そしてそれらの実行者について、こう書く。
このように「エロ班活動」に「断固として反対した」者も存在したかもしれない。しかし、ハウスキーパーに関していえば、当時の党活動全体の中で位置づけられ是認されたことも事実である。「美人局」に関して、任務から逃げ出した場合「逃げ出したことなど報告すれば、どんなに批判されるかわからないから、このことは上部には報告しないでおきました」と証言している例も確認されている(牧瀬1976.9.1)。
もちろん、「プチブル的」という非難はその内容が曖昧であり、佐野・鍋山転向声明書においては、当時の共産党自体の傾向を批判する単語して多用されることになる(福永、1978年)。しかし、語の内容が曖昧であるが故に、共産党の命令に対する疑問を、それがたとえわずかなものであっても、抑圧するのに非常に効果を発揮した。
そして、党員を使用する側も、この「プチブル的」という非難を積極的に利用したと思われる。通称「女子学連」といわれる共産党に近かった女子大生グループは、学生運動としては発展せず、むしろハウスキーパーの「養成所」になっていった。その原因の一つとして、福永操は次のように述べている。
「プチブル的」という概念が、党中央の命令と党員の服従という構造を維持、強化させるのに大きな役割を果たしたことは間違いない。 |
【女性蔑視】 | |||
戦前の党活動に存在したハウスキーパー制度につき、戦前だけでなく戦後においても必要性と是非に関する議論が為されていない。これを検証する。
要するに、「鳥羽」こと岩田義道は、訴えを全く無視したことになる。当時の共産党員達に染み付いていた女性蔑視は他にも多く発見できる。近藤悠子と秋沢弘子は男性社会主義者たちの玉の井(東京都墨田区にあった私娼街)通いを指摘している。
また、第二次共産党初期の幹部たちが、アジトや会合などの場所として「待合」を頻繁に利用していたことはよく知られている。「待合」とは、客が芸者を呼び入れて遊興にふける場所であった。渡辺政之輔や三田村四郎、鍋山貞親などは、この「待合」を、党の金を使って、頻繁に利用したという(立花、1978→1983)。事実、鍋山と三田村は四・一六後直後に「待合」にいるところを検挙されている。
これよりすれば、女性蔑視の顕著な例は、三・一五以前の党幹部について顕著にあてはまるものの一般化は難しいと云うことになろうか。 |
「転向論の再構築」は「戦前共産党員の『大量転向』現象」に着目し、次のように述べている。
以下、「戦前共産党員の『大量転向』現象」を説明するために、「当時の日本共産党への過大な期待」の描写をしている。それによると、概要「当時の日本共産党が反天皇制を正面からスローガンとして掲げていたという意味で、突出した反体制集団であったことは否定できない。しかし、それが実際に中心的存在として運動を組めていたかどうかは別問題である」とし、西川洋の分析(1981年)を援用している。 それによると、「治安維持法違反起訴者などの資料から当時の共産党員の総数を推定しているが、それによると、党員数は1930年〜34年までで延べ約1500名、瞬間的には最大でも約500名くらいの党員しかいなかった」、且つ「共産党傘下と見られた大衆団体も、1930年代にはほとんど半非合法状態におかれ、決して巨大な影響力を持てたわけではなかった。つまり共産党は、実力以上の評価を受けていた、といえる」としている。つまり、概要「こうした過大評価は、戦後だけの錯覚ではなかった」と云う。 これについて、松田道雄氏も「戦前日本共産党には栄光の面と悲惨の面の両方がある」と指摘し、自らの当時の共産党観を次のように振り返っている。
これを踏まえて次のように云う。
だから多くの人たちが共産党に参加しようとしたし、共産党から批判された人々も共産党に対して何らかの引け目なり敬意を感じていたようだ。たとえば共産党の方針に逆らって新労農党を再建した大山郁夫は、共産党から『裏切り者』として激しい批判を浴びるが、それでも「日本共産党に対する大衆の信頼を傷つけたくなかった」ために、共産党に対する批判を口にすることはなかった(田部井、1956年)。
史実は、そういう立場の頂点に居た党中央の幹部級が雪崩を打つように転向に走ることになった。これに対し、石堂清倫氏は、「『転向』中央部の方針にたいする具体的なオルタナティブがあったならば、あんなに大衆的な集団的転向は出なくて済んだかもしれない思います」(1983年)と述べている。
伊藤晃はこう指摘する。
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(私論.私見)