ハウスキーパー問題

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).3.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 構図的に見て何やら「転向問題」と似ているものとして「ハウスキーパー制問題」がある。これも「転向問題」同様に隔靴掻痒でややこしい判断世界へと誘われている。れんだいこは、この国の自称インテリの思想的営為にピントが合わない。以下、「ハウスキーパー問題」を考察する。「転向論の再構築」その他を参照する。

 伊藤晃・氏は、1995年、ハウスキーパー制について次のように述べている。
 概要「ハウスキーパー制度の歴史的評価については、当時の女性活動家と男性活動家のあいだに、かなりの意見の違いもあるようである」。

 ハウスキーパーの活動の内容は必ずしも明確ではない。そういう訳で、ハウスキーパー制度の実態は未だ曖昧さを残している。これをどう捉えるべきか。れんだいこがよろづ高く評価する宮内勇・氏は、1979年の座談会(石堂+原+福永+宮内)の中で次のように述べている。
 概要「あのハウスキーパーというものをそういうふうに(共産党の体質から生まれた非人間的な制度といったふうに)類型的に論じられると、それは非常に実体とちがうんじゃないかと僕は思うんだ」。

 れんだいこは、「ハウスキーパー制問題」に対する観点は、宮内勇・氏のこの観点を継承したい。以下、諸説を確認するが、平野見解は後付け批判に終始しており、宮顕見解は史実隠蔽論であり、その他のものもさほど役に立つものがない。この問題のポイントは次のことにある。「ハウスキーパー制問題」は、非合法時代に対応すべく編み出された都市型党活動であり、それに伴う否定事象は当時の情況との絡みで弁証法的に考察されるべきである。物事には長所もあれば短所もある。功罪の罪を指摘して功の面を理解しようとせず、単に否定見解へ導こうとするのは右翼的過ぎよう。既成のものは右翼的過ぎる。いくら学んでも、れんだいこ観点には至らない。よって学べば学ぶほどバカになること、れんだいこが請け負う。いずれ、「れんだいこのハウスキーパー制論」を生み出そうと思う。転向論然り、ハウスキーパー制論然り、その他諸々然りと思う。

 2005.10.21日再編集 れんだいこ拝



【ハウスキーパー制問題はどう論ぜられてきたか考】
 戦前において、ハウスキーパーを扱った言説は存在した。小林多喜二の「党生活者」にも登場しているし、片岡鐵兵氏の1930年の「愛情の問題」は、ハウスキーパーの女性を描写している。蛇足ながら、文芸界に於ける宮顕の盟友・蔵原惟人はこの「愛情の問題」を「一般にこの種の作品には“男性的偏向”がある」と批判している。

 1933年、「婦人公論3月号」は「主義と貞操」を特集し、その中で共産党のハウスキーパー制に言及し、「共産党の性利用」を批判している。平塚雷鳥は、報道されたスキャンダルをもって、女性党員を「新時代の新しい型の男性奴隷」と指摘し、「わたくしに言はせるなら共産主義思想そのものが元来男性本位の思想」と批判している。当時連載をもっていた山川菊栄は、平塚の共産主義批判には同調せず別の観点から批判している。それによれば、ハウスキーパーは党による性の利用であり、それは共産主義の理想を裏切り蹂躙するものである、として非難している。

 「転向論の再構築」は次のように述べている。
 「しかし、彼女たちをはじめとする当時の共産党の性利用批判は、『エロ班』などの報道内容を中心に行われていたのであった。ハウスキーパー自体の存在は当時知られてはいたが、興味本位のスキャンダラスな断片的な報道しかなされていなかった。従ってこの時の婦人公論の特集は、『エロ班』などの極端にスキャンダラスな事件をもって性利用を批判する側と、その極端さを批判して正反対に性利用の事実をほぼ全面的に否定(もしくは、事実は認めても「高度な貞操観」として肯定)する論調が目立っている感がある。いずれにしてもハウスキーパー制度に焦点が当てられたものではなかった、と言えるだろう」。

 戦後になって、ハウスキーパー制度自体の考察に向けたのは平野謙たちが最初であった。但し、概ね女性差別に基づく「人間侮蔑制度であった」として採りあげ言及した。平野氏は、ハウスキーパー問題について発言してきた数少ない人間の一人だが、1976年、ハウスキーパーについて以下のような説明をしている。
 「昭和初期、共産党が非合法の時代、警察の目をくらますため、男性党員が、女性党員やシンパと同居して、普通の家庭生活をしているようにみせかけた。その女性党員やシンパのことをハウスキーパアと呼ぶ。ここから、男女問題が起こったこともある」。(これはもともと平野が「週刊朝日」(1976.2.27日号)に書いた「ある個人的回想」という文章に、編集部がつけた註だという)
 概要「一般的にはハウスキーパアとはそういうものだが、荒正人や私などが戦後まもなくいわゆる『政治と文学』論争に直面して、小林多喜二の遺作『党生活者』のなかの笠原というハウスキーパアの非人間的な扱いかたをめぐって批判したとき、戦後はじめてハウスキーパア問題なるものが提起されたといっていい」。
 「つまり、ハウスキーパーという制度は戦前に行われたことだが、それが問題として可視化されたのは戦後をまたなくてはならなかったのだ」。

 平野は、ハウスキーパー問題に関して、戦後直後よりかなり大きな関心を払っていた。1946年の「ひとつの反措定」において、概要「政治という『目的』のために人間、中でも女性が『手段』にされること、そうした例の一つとしてハウス・キイパー問題がある」と述べ、この問題を採りあげている。しかし、一時の議論が終わると、ハウスキーパーが問題として取り上げられることはほとんどなくなってしまった。

 ハウスキーパー制度が再び取り上げられるのは1970年代半ばの立花隆の「日本共産党の研究」の連載によってである。同書によって、特にスパイリンチ事件を中心に当時の共産党の実態が政治的に焦点化され、ハウスキーパー制にも光が当てられた。そのような中で、平野が積極的に参加し、リンチ事件との関わりで、スパイ大泉のハウスキーパーであった熊沢光子の悲劇について取り上げた。

 福永操・氏は、1979年、平野謙氏の「『リンチ共産党事件』の思い出」を読んだときに次のように述べている。
 「何よりもうれしかったことは、それが、熊沢光子さんの悲劇をその中心観点として取りあげて下さったことでした」。

 こうした結果、いくらかの研究は積み重ねられるようになったが、ハウスキーパーを主題とした研究はまだまだ少ない。
(私論.私見) 平野の「女性の政治利用としてのハウス・キーパー制論」考
 問題は次のことにある。果たして、平野の如くな「女性の政治利用としてのハウス・キーパー制論」で良いのだろうか。それが非人間的であったとしても、あまりにも過酷な党弾圧に遭って余儀なくされた都市型党活動の適応制度としての面も見なければ片手落ちではなかろうか。その結果としての、スキャンダルは当然予想されるものであり、その予想されているものを批判したからといって何の甲斐があろう。

 むしろ、それでも何故生み出されたのか、その功の面は何なのか、負の面は何なのか、どうすればもっと適正足りえたのかを問うことが肝心ではなかろうか。こう問うことによって初めて現在の課題になるのではなかろうか。 

 2005.10.21日 れんだいこ拝

【ハウスキーパー制の歴史考】

 「ハウスキーパー」制度は、「党規約にも、党組織の図式にも存在しない」がその史実は次のようなものである。平野氏は次のように述べている。

 概要「私の知る限り、革命運動におけるハウスキーパアなるものは、田中ウタとともに始まるものではないかと推定している。牧瀬菊枝編の『田中ウタ――ある無名戦士の墓標』に収載されている山代巴の『黎明を歩んだ人』という情理をかねつくした文章によれば、後年山代巴と結婚することになる山代吉宗のハウスキーパアとして、田中ウタは昭和三年九月から昭和四年四月までの七ヶ月間、山代吉宗と共同生活を送ったらしい。つまり、三・一五事件後半年ほどたった時点から四・一六事件までの期間である。

 おそらく当時はまだハウスキーパアなどという外国製の言葉は発生していなくて、革命運動のために若い男女が共同生活を送らざるを得ない特殊な実体があっただけだと推定される。注意すべきは、そういう初期の共同生活の形態が模範的だったということである。この山代吉宗と田中ウタとの共同生活のケースが、いわゆるハウスキーパア問題の自然発生的な現諸形態にほかならなかった」。

 ここに、ハウスキーパー制の由来が明かされている。それによれば、山代巴・氏の「黎明を歩んだ人」(1975年)を参照すれば、ハウスキーパー制は、三・一五事件でやられた党の再建過程で「自然発生的」に生み出されたことになる。つまり、党の地下活動化と共に必要から編み出されたのが、当局の眼を誤魔化すための「夫婦偽装ハウスキーパー制」であったということになる。

 従って、ハウスキーパー制度の誕生は、三・一五、四・一六事件の前後と推定されることになる。それまでも非合法ではあった日本共産党が地下活動化を深め始めるのがこの頃であり、それは、共産党の地下活動化と軌を一にしていた。

 「転向論の再構築」は次のように述べている。

 概要「このようにして生み出されたハウスキーパー制が武装共産党時代に制度的に確立されていった。この時代、非合法活動を行うための技術的な部分の任務を行うことを目的とされた党組織の中の技術部(テク)が新設されたが、技術部は、地下活動におけるアジトの手配も管轄し、ハウスキーパー制も敷いていった。但し、党中央の決定としてかどうかは記録に無いからして「場合によっては技術部自体の方針ではなくとも、地下活動の実践的な技術として、現場において『実用化』されていったに違いない」。
(私論.私見)
 かく理解すべきであろう。つまり、現実の過酷な情勢から編み出されたものとしての位置づけが欲しい。

 これを裏付ける平野発言(1976年)があり、次のように述べている。

 概要「(ハウスキーパー制が制度として確立されたのは)おそらく昭和五・六年ころ党のテック(技術部)が当時の女子学連に所属する女子大生などを中心に、いわば目的意識的にハウスキーパアの養成にのりだすというようなことがあったらしい」。

 栗原幸夫氏は、以下のように説明している。

 概要「戦前の共産主義運動が、天皇制権力の弾圧のもとで、その出発のときからきわめて困難な道を歩んだことは、改めてのべるまでもない。特にその困難さがいちぢるしくなったのは、昭和三年三月十五日の一斉検挙、いわゆる三・一五事件を一つの契機としている。それはたんに、この時期以後、権力の側の弾圧体制がより整備されたということだけではない。運動の側にも大きな転換が生じたことを見逃すことはできないのである。それまで非合法の共産党と労働者・農民大衆との間には、労農党・労働組合評議会・無産青年同盟という合法的な組織が存在していた。ほとんどの共産主義者がこれらの組織に属して合法的な活動の場所をもっていた」。

 しかし、これらの組織は三・一五事件で解散させられ、四・一六事件では、これらの組織から育った活動化の大部分が検挙されてしまう。栗原氏は、1977年に次のように述べている。

 「昭和四年四月十六日のいわゆる四・一六大弾圧以後、革命運動は明らかにそれ以前とは大きく変わった。運動全体を非合法主義と心情的ラジカリズムが支配した。この傾向は、大衆的な労働運動を経験した古い活動家がほとんど検挙された後に、大量に運動に参加してきたインテリ出身者によって一層拍車がかけられた。真に革命的なプロレタリアートの組織は絶対に合法的には存在しえない、というテーゼは、弾圧にたいして組織の合法性を獲得し拡大するための闘争をみずから放棄させ、逆に運動を地下へ地下へと追い込むことになった。大衆のなかでの地道な活動のかわりに、地下生活こそが革命家の唯一の英雄的行為であるかのような幻想がふりまかれ、工場や経営のなかでの組織建設のかわりに、街頭連絡が党活動の主要な場面になった」。
(私論.私見)
 栗原氏は、ハウスキーパー制を否定的に総括したがっていることが分かる。「地下生活こそが革命家の唯一の英雄的行為であるかのような幻想がふりまかれ」と捉えるのではなく、「地下生活を余儀なくされ、その際の一策としてハウスキーパー制が編み出されていくことになった」で良いのではなかろうか。「街頭連絡が党活動の主要な場面になった」も然りで、「街頭連絡で党活動を繋ぐのが精一杯というところまで追い込まれた」で良いのではなかろうか。肝心なことは、それを好んでしたと理解するのではなく、根本的にはどちらも止むに止まれずの懸命な対応策であった、として理解することではなかろうか。

 ハウスキーパーは、夫婦を偽装しながら男性党員の地下活動を支えた。その生活を支えると共に街頭化した地下活動の伝達レポ役をも引き受けていた。


【ハウスキーパー制に対する宮顕系日共の党史的位置付け考】

 ところが、こうした史実を持つ「ハウスキーパー制」に対して、現日共党中央の創始者・宮顕が、戦後まもなくの発言の中で、「制度」としてのハウスキーパーの存在を否定して次のように述べている。

 概要「日本共産党はハウスキーパー制度というものをかって採用したことはなかった。個々の党員が夫々ふさわしい婦人党員と同居することは、その人たちの自由であって、党は干渉しなかった。これらの党員が検挙されると、警視庁がこれを様々な猟奇的歪曲によってセンセーショナルな報道をやった」。
(私論.私見)
 この「宮顕見解」は、例の「戦前党中央委員小畑査問致死事件」に対する弁明と構図が同じである。1・好んでリンチ査問することはなかった。2・仮に個々の事例でそうしたものがあったとしても、党中央の関与せざるものである。3・事件が発覚すると、警視庁が大々的に猟奇的報道で党の威信を傷つけようとした、という按配になる。

 この問題に並々ならぬ関心を寄せていた平野氏は、さすがにこの「宮顕見解」を受け付けず、1976年、「キレイゴトの原則論」であるとして次のように批判している。

 「決してハウスキーパーが存在しなかったわけではなく、後に述べるように、ある時期の日本共産党の活動の中に組み込まれていた以上、それを『制度』と呼ぶことはできるし、責任の所在を明らかにするためには、むしろその方が望ましいだろう」。

 福永氏も、1979年、次のように批判している。

 概要「『徹底した形式主義的思考態度』であり、『ハウスキーパア制度の歴史の実情に即していない』、なるほど、党規約にも、党組織の図式にも、ハウスキーパーというものはかって存在したことがありません。だから私は、『ハウスキーパー制度』という語を使うのをやめて、『ハウスキーパー慣習』という語を使うことにしたいと思う」。

 河合勇吉も、1979年のハウスキーパーをめぐる座談会(石堂+原+福永+宮内)で次のように批判している。

 「党の方針としては絶対にそういことはなかった、制度としてのハウスキーパーは存在しなかった」という証言を紹介しながらも、「戦前戦後を通じて、ハウスキーパーなるものが、制度だ、命令だ、いや強制だといろいろ意見が出ようが、要するにそういった強い無言の圧力が党の性格の中に存在していたところに問題の本質がある」。

【ハウスキーパーなる用語の由来】

 ハウスキーパーという用語はどのような歴史をたどっているのだろうか。山下智恵子(1985年)は以下のようにまとめている。

 「福永さんの発言によれば、ハウスキーパーという言葉は、最初、レポとかオルグといった言葉のように党内用語として使われたらしい。使いはじめの時期については、はっきりしない」。
 「三村さちよさんの文章で、昭和六年頃には説明抜きで通じる言葉としてハウスキーパーなる語が存在したと知ることができる」。
 「特高の資料などからみて、用語として党の内外ともに定着するのは、昭和八年以降らしい」。

 司法省刑事局の「思想月報」に収録されている「昭和三年以降昭和九年治安維持法違反に因り起訴せられたる婦人に関する調査」(司法省刑事局、1934年)を見ても、ハウスキーパーという語が登場するのは、「昭和9年」の項からのみであり、それ以前は、「内妻」という語しか出てこない。

 以上の議論をまとめれば、ハウスキーパーの活動自体は、四・一六事件の弾圧ののち、共産党活動が明確に地下活動化するにつれて起こり、技術部によって次第に制度化されていった。そしてハウスキーパーという用語も、おそらく党内用語として使われはじめ、1931年頃には一般にも広まり、1933〜34年頃に定着したということであろう。


【性の利用としてのハウスキーパー制度】

 初期の頃のハウスキーパーは、地下活動の要請に対する党(実態は仮に技術部であったとしても)の指令という形態はとっても、後に見るような明確に女性差別的な制度ではなかった。ハウスキーパーの本来の目的は、非合法活動のアジトを「普通の家庭」に偽装することであった。

 とはいえ、ハウスキーパー制度は、スキャンダルの対象となりやすく、共産党の指導部もそのことは予想していた。「武装」共産党の委員長・田中清玄は、1937年、ある幹部のハウスキーパーをする中本たか子に対して「男女の関係に就いては充分に慎しむことを注意」している。

 従ってハウスキーパーを命じられた女性は、「普通の妻」として、「夫」が働きに出るようにして活動に出ていった後、家事をこなすことになる。その延長線上に、男性の側が性的関係や結婚を求めたりする場合があった。これについて、宮内勇は次のように述べている。

 「どちらも一つの思想に燃えている二人がなんとなく結ばれていくのは非常に自然だった」。

 つまり、運動の中で結婚し、女性がハウスキーパーの役割を果たすようになる場合や、あるいはハウスキーパーとして一緒になってそのまま結婚するような場合も少なからず存在したということになる。

 ところが、そうならなかった事例もある。ハウスキーパーについて触れている数少ない戦前の資料である裁判所宛山下平次上申書の中には以下のような事例が紹介されている。それは女性党員をある男のハウスキーパーにしたところ、女性の方から党の中央に上申書が提出され、その上申書には以下のようなことが書かれていた。

 概要「又私は此処へ来る場合、上部の人に対しても又援助する男に対しても、単なるハウスキーパーで、絶対に其れ以上になる事は出来ないと云ふ事を固く約束して於いた積りです。然るに私が現在援助してゐる男は私が来て数日を立たないにも拘わらず、凡ゆる手段と口実を以て妻たる事を強訴するばかりでなく、近頃は毎晩の様に暴力によって其れを達せんとしてゐます。何分非合法的存在に在る私達で声を立て得ず誠に困ってゐますから何卒御考慮下さい」(司法省刑事局思想部編1934年)。

 あるいは、男達は、最初からハウスキーパーの役割をタテマエ通りには受け取っていなかった可能性もある。福永操・氏は、1979年の座談会(石堂+原+福永+宮内)で次のように述べている。

 概要「ハウスキーパーに採用される女性達が、世間知らずの可愛い子ちゃんのお嬢さんがハウスキーパーにされることが多かった。ハウスキーパーというのなら、少し年輩のオバチャンで、世なれて世間を心得ていて、隣近所にたいしても非常にうまくおつき合い出来るような女のほうが適していたはずなのに」。

 次のような事例も報告されている。秋沢氏は、1984年、次のように述べている。

 「一緒にいる男性は地味でまじめなよい人だったが、長くいるうちにほんとの夫婦になどと言うようになり、上部からも結婚したのかと言われてがく然とした。活動には身軽がよいと幾人もふり切って党に近づいたのにとんでもない」。

 いずれにせよ、妙齢の男女を共同生活させるのであるから、そこにはかなりな無理があったということになる。特に、女性の側の負担は大変であった様子が次のように語られている。平野謙の引用で紹介した山代吉宗のハウスキーパーをつとめた田中ウタについて、山代の方が「偽装夫婦」時代をこう振り返っている。その時田中ウタは豊原五郎と結婚していた。

 「ウタちゃんにとっても俺にとっても豊原五郎は最高の指導者だったんだ。その人を悲しませるようなことが出来るだろうか。そうはいってもお互いに弱い人間だ、男性の性的な欲望を挑発しないように、女性が男性を助けて暮らすことは至難なことだ。ウタちゃんは夜になると、土間の向うの縁側のような狭い板の間へ敷ブトンを敷いて、掛ブトンでは体を巻いて、その上を紐でしばって、枕の下へは護身のために針をしのばせて眠っていたよ。俺達を警戒して」、「ウタちゃんには若妻を装うことよりも、夜の男を警戒する闘いの方が大きかったろうと思うよ」([山代1975年)。
(私論.私見) ハウスキーパー百景について
 れんだいこは、ここでも、宮内氏の「どちらも一つの思想に燃えている二人がなんとなく結ばれていくのは非常に自然だった」見解を高く評価する。他の評者の如くに、偽装夫婦が真性夫婦になった事に対して批判するのは愚かであろう。いろんな例があって良いではないか。どのパターンが良いとかいうものではなく、いろんなパターンが認められるべきではないのか。道徳論で律するのはマルクス主義ではなかろう。

【ハウスキーパー制下での男尊女卑問題】

 ハウスキーパー制に纏わる問題として性の問題以外にも次のようなことがあった。伊藤晃・氏は、1995年、以下のように注意を促している。

 概要「同居相手の幹部はたいがい男性であるから、性関係が生ずることも多く、当時共産党のスキャンダルとしてジャーナリズムが好んで取り上げた。しかし問題はそうしたスキャンダラスな面だけではない。ハウス・キーパー制度は性的奉仕が第一義なのではなく、また性関係には通常の恋愛として理解できるケースも少なくないのだが、それでも問題は残るのである」。

 より主要な問題として、ハウスキーパーに割り当てられる仕事の意義の問題があったようである。男尊女卑的な関係で、軽業的なあしらいがされていたことが報告されている。作家の中本たか子は、「武装」共産党時代にハウスキーパーを体験した。彼女はそれを小説や手記として発表している。それを見ると彼女の活動がいかに献身的であったかわかる。1937年発表作で次のように述べている。

 「私は主婦として、シンパとして、見張りとして、ステツキガールとして、更には靴磨きや、肥料がへまでやった。夜は一時過ぎまで起き、朝は五時頃には起きて働いた。朝起きすると、瞼がくっ附いて離れないので、紅茶を真黒に煎じて飲んでゐた」が、 しかし、その一方で、自分がハウスキーパーをしている家で男ばかりの会議がもたれる。それは幹部の会議であるのか、中本には会議の内容は知らせてもらえない。党の秘密保持といえば聞こえはよいが、それは中本のようなハウスキーパーを共産主義運動の「同志」としてみていなかった扱いであったようで、「六月になると、この家で、田中、家の主人、もう一人若い男とが集まって、夜を徹して討議してゐた。私はいつも別室に遠ざかってゐたり、屋外の見張りに出たりして、その会合の内容は知らなかった」。

 秋沢弘子(1984年)も同様に次のように訴えている。

 概要「ハウスキーパーとして『ふつうの細君のような暮らしで文字を書くしごとを一日中つづける』が、仕事を割り振られたはじめは『張りのある日々』と感じながらもやがて、家を出てから本も読めない、会合に出ることがなく学習もない、党学校に間もなく入れてくれるといったのも実現しない。こんなしごとのために生命がけで党を求めてきたのではない。単なるハウスキーパーからもっとやりがいのあるオルグの仕事への変更を要望します」。

 福永(1982年)も同様で、こうした活動の意義の不明確さは街頭連絡(レポ)の場合にも見られたと云う。共産党が地下活動化を深めるにつれてレポ活動が重要な仕事して課せられてきたが、ハウスキーパーの女性もまた党員であるため、昼間は家事の他にレポに忙殺される場合が多かった。レポについて次のように述べている。

 概要「ハウスキーパーにかならず付随していた仕事がレポであった。レポとは、たいていは朝から晩まで、東京の端から端まで、命じられた時間に一分もおくれないように到着するように、そして世間の人目をひかないように気を使って、あるきまわる仕事である。ほこりだらけになって、へとへとにくたびれる仕事であった」。

 問題は次のことにある。しかし、単に忙しいだけならまだ良い。

 概要「へとへとにくたびれる仕事であったが、年が若かったし、そんなことは苦労とは思わない。このレポの仕事の真実のつらさは、その精神的な孤独さと無内容とであると思う。『ハウスキーパー』にされた女たちは、それまで彼女が活動していた大衆団体その他の『運動関係』の活動からいっさい手をひいて、断絶するように命令される。そして、レポとしては毎日『党の運動関係の連絡』の仕事をしているような外観に見えるけれども、実はその『連絡』の意味内容については全く知らない」。

 田中ウタも袴田里見との地下活動でのレポ活動についてこう述べている。

 「一日に十二回も連絡をやっているのですが、何をしているのか全然わからないのです」(牧瀬編1975年)。

 つまり毎日どこかで誰かと会うのだが、その相手が誰なのか、伝えている内容は何を意味するのか、自分の行動が何の役にたっているのか、さっぱりわからないのだ。要するに、共産党が女性党員を「消耗品」としてのみ扱い、決して活動への主体的な参加を要求しなかったことが第一の問題なのである。

 「転向論の再構築」は云う。

 「もちろんこうした傾向は女性党員だけでなく、男性であっても同ようにレポなどで「消耗品」として党活動に消費されていったのは事実であった。しかし、そのような側面が特に女性に対して現れたのがハウスキーパー制度であった、と言うことはできよう」。

【ハウスキーパー制の帰結】
 ハウスキーパー制度は、現金拐帯や美人局などとともに、「女性を利用する共産党」として、マスメディアに格好のスキャンダルの材料をあたえる結果となった。

 福永氏は、1982年、次のように述べている。
 概要「このようなマスメディアからの攻撃を受けたか否かに関わらず、先ほどからみてきたような意義の見えない活動を続けた結果、ハウスキーパーにされた女たちの大部分は、検挙された後にわれわれの運動から全く離れ去って、ゆくえ知れずに消えてしまった。即ち転向してしまった」。

 山下氏は、1985年、次のように述べている。
 概要「共産党のため、と思って献身していたハウスキーパーが、自分の『主人』が党を裏切ったと知ったときは、さらに悲惨な結果となった。なぜなら、自分の活動が、無意味どころか有害だった、ということになるからだ」。

 スパイであった大泉兼三のハウスキーパー・熊沢光子の事例は有名である。彼女は、結局獄中で自殺することになる。

【ハウスキーパー制の陥穽】

 宮内勇(1976年)はこう回想している。ハウスキーパーに関してではないが、共産党の街頭化に対して次のように述べている。

 概要「けれどもこういう秘密主義・街頭主義の地下連絡組織は、別な意味でまた大きな危険をもっていた。それはスパイの潜入を容易にするという危険である。/正直言って、どこの誰やら正体の知れぬ人物を、ただ党員であり同志であるというだけで単純に信頼することには一抹の不安があった。それも紹介から紹介へという手づるで、知り合うだけの間柄である。何かカサカサした事務的な人間感触をこれらの新しい同志たちに感じないわけにはいかなかった」。

 宮内が言うとおり、共産党自身のこうした傾向は、現にスパイの潜入を許し、あるいはスパイだらけなのではないか、と疑心暗鬼を生む温床となった。

 石堂清倫氏は、1979年、座談会(石堂+原+福永+宮内)で次のように指摘している。

 「ハウスキーパーを検討するとしたら、まずこうした力量以上の非合法部分を負いこんだことの意味を考えなくてはならないだろう」。

【ハウスキーパー制に横たわる組織論的問題点考】

 ハウスキーパー制もまた当時の党活動の水準に規定されていた。「転向の組織的土壌」の項で考察したが、組織論的に上下の命令系統が硬直化しており、「上に対して異議を述べることが出来ない構造」により、制度は空洞化させられ、何ら取り柄の無いものに変質させられていった。にも関わらず、それへの抗議も封殺された。

 福永操(1982年)は、是枝恭二との「結婚」(恋愛感情などではなく、実質的にはハウスキーパーであったと福永自身は述べている)を、志賀義雄にすすめられたとき、こう思ったという。

 概要「そのとき私のあたまに即座に直観的にひらめいたのは、この結婚話は志賀さん個人のおせっかいな考えで出てきた話ではないだろう、たぶん党の『上部』の意向であろうということであった。もしそうだとすれば、これは私のがわに相当の理由なしには拒絶できない話だった。そして私はそのときそれを拒絶する理由がなにもなかった」。

 ちなみにこのときの福永の「直観」は決して単なる思い過ごしではなく、後に是枝恭二本人から「中央(部)では、きみがぼくとの結婚を承諾しなければ、きみを除名することにきまっていたんだ」と告げられ絶句する。ただし、この場合は、福永自身の思想評価の問題も絡んでいるので、党員全般に対する共産党指導部の方針というわけでは全然なかった。ただ命令を受け入れる党員自身が、「上部」の命令の重さをどのように考えていたか、ということは福永の事例だけでもよくわかるだろう。


【「Uハウスキーパー問題に表象される革命運動組織 」】
 秦功一「プロレタリア文学運動論考」の「Uハウスキーパー問題に表象される革命運動組織 」を転載しておく。

  〈ハウスキーパー〉という語句は、昭和八年『婦人公論』の三月号の中で「主義と貞操」 という特集が組まれている中の文章に幾つか見ることができ、当時の商業新聞の中にも共産党非難の記事の中には常套手段として使われていた。しかしながらハウスキーパー問題 が日本共産党内外の人々によって批判的に取り上げられはじめたのは一切それらへの自由な論議がファシズム勢力によって閉ざされていた時代が終わって後のことだった。第二次政治文学論争の中でその問題が批判されて以来、日本共産党研究史において無視することの出来ない立花隆の大著「日本共産党の研究」の中でも大きく取り扱われ、戦前の日本共産党を考える上では欠かすことが出来ない事象となっている。

 女性、若しくは愛情という問題について日本共産党として取り上げたのは案外として古いことである事とはいえない。一九二六年の一二月四日に山形五色温泉での日本共産党再建のための第三回大会で認めることとなった二七年テーゼによって党の大衆化と党機関の確立が決定される。それと同時期に起こっていた労働組合婦人部設置問題の中へ飛び込む形で翌年の七月三日関東婦人同盟が共産党の門屋博らにより被指導組織として結成されるのである。これが日本共産党が婦人運動に具体的に関わらんとした端緒であると思われる。ここで日本ではまだ組織的革命組織が組織されていなかった頃の労働者解放運動家達の女性運動に対する考えが如実に表れていると思われる話を紹介したいと思う。

 《私が考えている婦人参政権のことを話しますと、三人から「それはフェミニストだ!そんなことよりも、今、たいせつなのは労働者の解放だ!」とやられました。》 

 これは後に共産党にも入党した女性運動家丹野セツがまだその思想を開花させきらない頃のことであるが、ここには平塚雷鳥や市川房枝達により前進しはじめていたといえる女性意識の中における革命的運動家達でさえこういった状況であったことは、後の革命運動家達の〈愛情の問題〉を革命組織の中で結局のところ圧殺してしまう要素を多喜二の活躍した時代までも孕み続ける下地があったといえるだろう。

 そもそもハウスキーパーのような女性が家屋探しや資金調達、文字どおりの男性党員への生活奉仕の仕事はどういった形で行われていたか。生活費、運動費のために女給にした「笠原」に対して《たゞ交通費を貰いに行くことゝ、飯を食いに行くことだけ》になる関係が「党生活者」中には見られるのだが、実際ハウスキーパーというものを、小説の題材、人物を普遍化して見ること、またプロレタリア文学を創作上において普遍的に描くことは無意味であろうし、多喜二が、ひいてはプロレタリア文学一般にその多大な影響を与えた「芸術的方法についての感想」の中で蔵原惟人も言っていることであるので多喜二にしてもそういった考えを念頭においては書いていないことを承知の上でハウスキーパーの実際例を考えることは無意味なことではない。

   党大衆化の過程で「婦人党員をつくれ」ということになる。それまで(注  日本共産党が再建される頃、一九二六年頃を指す〈引用者〉)の婦人党員は志賀の細君、是枝の細君、丹野さ んくらいでしょう。(「丹野セツ」)

 これは当時の日本共産党に入党していた女性の希少さを示すものであり貴重な証言であるといえる。従ってこの頃にはハウスキーパーは実質その形を組織の中で現象としてまでには顕わにしてはいない。

 それが目にみえて顕われてくるのは女子学連でオルグを受けた人々が実際運動に参加してくる頃からで、その女子学連とは通称名でありそもそもは社会科学研究、マルクス主義の研究会としてから東京女子大の波多野(福永)操、日本女子大では清家(寺尾)としらによって進められた女子学生組織のことである。この女子学連が一九二五年秋より学生社会科学連合会(学連)と連絡を取っており、その関係から後には女子学連から多くのハウスキーパーを輩出するのである。当初の最高責任者であった波多野操も党員として、当時の党幹部であった是枝恭二と結婚しており、波多野はそれを《実際はハウスキーパーなんですけど》と明言している。波多野の後にも幾人もの党員のハウスキーパーにさせられた人々がいるわけだが、させられたというのは次の清家の自伝にある証言をもってしてのことなのである。

   党員は党員同志でなければ結婚は許されぬことになっており、それも上部機関の許可 が必要だという規律があった。(「伝説の時代」)

 それが例え天皇制帝国主義国家からの弾圧に対する予備線のものであったとしても、この規律が学生ながらマルクス主義研究を経てある程度の教養を持っていた彼女たちをハウスキーパーへと追いやってしまった状況を作ったのではないだろうか。理論武装に努めた彼女たちをこのように死に体にしてしまったのは党方針の問われるところである。また清家の自伝には党資金獲得のために女性を給仕やダンスホールで働かせたり裕福な家の女性に家の金を持ち出させたことが《盛んに》あった事が書かれている。女子学連の人々もその例外ではなかった。波多野の後に女子学連の中心分子として活動し、当時党フラクションキャップであった浅野晃のハウスキーパーとなり、一九二九年五月に三・一五事件で検挙された水野成夫、門屋博、南喜一などの党員達が獄中で日本共産党の解党を主張する上申書を書くという事件に連座した夫の行動に苦悶し結果、ノイローゼとなって狂死した伊藤千代子の場合にしてもそうであった。「伊藤千代子の死」には千代子の学費である親の仕送りの金を浅野が当時普通選挙に労農党から立候補していた山本懸蔵の選挙運動費として使うために千代子から奪っていた事が示されている。この様な状況下で現実に女性運動家たちは足を削がれ手を削がれていった。

  主人公佐々木安治をその地下生活においてその生活を支えた「笠原」という人間をハウスキーパーだとして、プロレタリア文化運動、日本共産党の革命運動を政治と文学の問題にまで昇華させて『近代文学』派の人々はそれを非難してきた。しかしここでは「党生活者」の「笠原」のモデルとなった伊藤ふじ子という人物の不透明性から「党生活者」という小説の中に描かれたそれそのものとをやや混同して断じている傾向が見うけられる。これは正しい見方なのであるか。捩じ曲げたものとなっているのではないだろうか。ここではそのために「党生活者」創作上に大きく影を落としていると思われる伊藤ふじ子という人間を見ることに強い魅力を感じるのである。しかしながら伊藤ふじ子について書かれたものは非常に少ない。ある座談会では貴司山治が多喜二虐殺の報を聞いて駆けつけた時に 同じくそこに居合わせた伊藤ふじ子について次のように述べている。

  笹本と、カメラの人とで小劇場へ行つたら原君が非常に昂奮して泣いて叫んでいた。 そうして、名前のわからない質素な、貧しいナリをして、顔の黒い女が泣いていた。(中略)原君にわけを聞くと、「小林のおかみさん」だと原君が僕にささやいた。(中略)その女を馬橋(小林の家)にやつた筈だ。

 この女性が多喜二の妻であった伊藤ふじ子である。その後確かにふじ子は多喜二の両親兄弟が住む馬橋の実家へ立ち寄っている。小坂多喜子はふじ子が多喜二の遺体と実際に馬橋の家で対面したときの状況をこう語っている。

    いきなり多喜二の枕元に座りこむと、その手を両手に取って自分の頬にもってゆき、 人目もはばからず愛撫しはじめた。髪や頬、拷問のあとなど、せわしくなですさり、 頬をおしつける。(「小林多喜二と私」)

 この多喜二への激しいそして最後の愛情表現はむなしくも彼女に同情を寄せるものは誰も おらず、ただその後は馬橋の家でおろおろするばかりで結局いつのまにかそこから姿を消していたということである。

  多喜二には田口瀧子という多喜二の中においても小林家の家族の中においても心から彼の伴侶として許していた女性がいた。瀧子は小林家で同棲したこともありそれだけに多喜二の母親にとっては多喜二の相手は瀧子しかいないという思いがあったのであろう。母親セキにとっては多喜二の突然の死を聞いた直後にその遺体の前で「私は多喜二と一緒に暮らしていたものです」といわれたにしてもそれが何の想いに変わろうかということは想像するにあまりある事である。信じられない想いが溢れんばかりであったであろう。そうしてふじ子は誰ともこの愛人を失った寂寥感を分かち合えなかった。だから森熊猛氏夫人となり過去のこととなっても多喜二のことに関しては口を閉ざし続けたことは当然のことであった。

  伊藤ふじ子は戦後加熱するその論争の中でも実態がつかめず非合法生活の中でのことゆえに長くその人となりが謎とされてきていた。唯一の手がかりである手塚英孝の「小林多喜二」のみを参照するしかない状況であったのだが澤地久枝の詳細なる調査によってその履歴、人格がややはっきりと形どられたのである。  その「小林多喜二への愛」によれば、ふじ子は多喜二と出会う頃銀座の図案社で働きながら文戦劇場の女優として何度か舞台にも立つことのある左翼運動に関心を示す女性であったようだ。いわゆるシンパと呼ばれる類になるだろうか。プロレタリア演劇に関係する者達は彼女のことをエロットと呼んだ。このあだ名に彼女の性格の一端が表れている。エロットとは日本プロレタリア劇場同盟の略称プロットをエロスとかけたもので高野治郎はふじ子のことを次のように語っている

  彼女は男性関係がオープンで(肉体)関係が事実としてあったかどうかは別にして、そういった関係を想像させるものはあったね。誰とでも親しくなり、手を組んで歩ける女性だったんだ。あの時代にだからね。自由奔放な女性という感じだったね。(「小林多喜二への愛」)

  ふじ子はこのようにまさに自由奔放な女性であったようである。私はこのイメージがマイナスイメージに働いて「笠原」という女の作品中に表れるすべての悪しきイメージが伊藤ふじ子と重ねられたのではないかと思うものだ。《如何にも感情の浅い、粘力のない女だった。》 このように形どられる「笠原」のイメージがそのモデルであるふじ子にそのまま被せられてきた。確かにふじ子には軽薄を連想させる性分が充分あったであろうことは当時のふじ子を知る古賀孝之の言葉を見てもわかる気がする。《しかし当時の僕には伊藤ふじ子が「有名病」にかかっているとしか思えなかったので》ある。 このような印象を持たざるをえなかった彼らには本当にふじ子がどのように多喜二と相対していたかは邪推は免れ得ないところかもしれない。古賀はふじ子のことを《ハウスキーパーとしてすら適格者でなかったと思う。》とまで述べており、ふじ子という人間は戦後多喜二に関する口を封じたことによって「笠原」のモデルである人間ということで本人の知らぬところでその人間性を決定されていったのである。

  ふじ子は昭和五六年四月二六日脳卒中で倒れ帰らぬ人となった。彼女の遺品となったハンドバッグのなかには手塚英孝の『東京新聞』昭和五三年二月二一日付の記事「晩年の小林多喜二」の切り抜きが入っていた。その記事には伊藤ふじ子が「笠原」のモデルであるということは憶測にすぎないという意味のことがかかれていて、多喜二がふじ子の解雇手当を人づてに受け取ったときの涙を浮かべて感激したことなども書かれていた。彼女が死の間際に書き残したと思われる遺稿が残っている。その遺稿の出だしには彼女の師匠であった加藤楸邨の句《鰯雲  人に告ぐべきことならず》が記されている。彼女はこの句に《私のために作られた様な気がして心に染みて好きな句です。》という私観を述べている。彼女にとって多喜二との束の間の生活は人に知らせることのないものだと決めていたのであろう。この短い遺稿の続きには多喜二との思い出それも多喜二がユーモア溢れる人間であったことを書き記している。ここには読んだものだけが知ることのできる彼女の多喜二への愛情を窺い知ることができる。

  「党生活者」中には「伊藤」が色仕掛けで「倉田工業」の工員を集めるという叙述がなされているが、ここにも目的達成のために手段を選ばず女性の利点を生かしてのオルグ、 革命運動が展開されている。ここで多喜二が苦悶してそれを描いたかということはあまり問題ではない。当時ハウスキーパーは存在した。現に立野信之も党の指導者であった田中清玄が一人の女性をハウスキーパーだとはっきり明言して紹介されたことを思い出している。伊藤ふじ子の場合もまたハウスキーパーの一つの形であったといえる。ふじ子が多喜二が死んだことによってその存在を〈政治の優位性〉の立場により革命運動から抹殺され公然と多喜二を弔うこと、語ることを封ぜられた状況は、残されたものを救い上げることの出来なかったその組織を表象する事実なのである。

 V風俗としてのハウスキーパーと道徳

  一般的に芸術大衆化論争とはナップ内において一九二六年に中野重治、蔵原惟人らナップの理論家達によって引き起こされた文学論争を指すのであるが、現実においてはその論争はその後も連綿として続く論争の惹起点でしかなかったのである。その継続上に多喜二も徳永直、宮本顕治との間で〈大衆化〉について理論闘争を展開している。徳永直の「プロレタリア文学の一方向」というコップ作家同盟にとっての《大衆向長編小説》の必要性を説いたその論文に対して多喜二は直ちに駁論を発表しているがそれによると、レーニンの《文学は党のものとならなければならない》という言葉から《プロレタリアートの頭部である党の立場に立たなければならないこと、共産党の世界観を我々の(作家の)世界観としなければならないこと》(傍点原文通り)をもって答えている。すなわちこれが「党派性」なるもので、党の世界観イコール共産主義の、マルクス主義の世界観となるものとして彼の創作上の懐中の石となっているのである。宮本顕治も徳永の論文に対し同様の駁論を寄せている。徳永はその後「「大衆文学形式」の提唱を自己批判する」という文章において《吾々の文学は「党」の立場にたつ「大衆の文学」なのである》として「プロレタリア文学の一方向」で展開した持論を覆すこととなる。これは一九三〇年四月に『戦旗』誌上で報告された「芸術大衆化に関する決議」に依るところが大きく、多喜二、宮本の緒論もそれに基づくものとなっている。

 ここで森山重雄に従えば、多喜二は一九三〇年に共産党資金援助と「蟹工船」の不敬罪問題で豊多摩刑務所に収監されているわけだが、この時に田辺耕一郎に向けて自分がそれまで《半分職業的になりかけて、堕勢だけで作品を書いている》こと《結局「綴方文学」》でしかなかったことを自省し《誰もが今迄見ることのなかったような作品を書いてゆけるようになる》ことを決意していたことが読み取れるにもかかわらず、その後の徳永と論争を交わすに至っては《小説のプロットとか大衆に愛される文学形式とかの次元に逆戻りしてしまった》のである。この多喜二の作家的段階の上昇を期待できた獄中での心情を彼は徳永との大衆化の論争の中で思い起こさなかったのか。思い起こさなかったはずはない。それには〈党派性〉という多喜二にとっては抗し難い自己の絶対物が立ちはだかっていたのである。この〈党派性〉こそが彼にとってプロレタリア文学にとり、欠かし得ないものであり、又「党生活者」を書かせた要因となるのである。

  コップが結成される前後、すなわち一九三一年前後には〈愛情の問題〉を主題に取り上げた作品がプロレタリア作家達の手によって書かれている。例えばそれは片岡鉄兵「愛情の問題」、徳永直「「赤い恋」以上」、江馬修「きよ子の経験」、立野信之「四日間」といったところである。これら一連の作品の〈愛情の問題〉を取り上げたプロレタリア作品群は〈芸術大衆化〉〈生きた人間〉というスローガンに基づいて書かれたもので所謂芸術大衆化論争に密接に関係している。その他にもハウスキーパーを描いたものについてはややプロレタリア作家の描くところとは性格を異にしながらも、いわゆる同伴者作家らによって広津和郎「風雨つよかるべし」、野上弥生子「迷路」などによっても示されており、 日常における〈愛情の問題〉の緊密性をあらわしているといえよう。

  この内の片岡鉄兵の「愛情の問題」には主人公の女性闘士である「妾」が「石川」という男性闘士に肉体関係を迫られて別の男性闘士「皆木」への愛情からその自分の持ち場を捨て「皆木」のもとへ走るがそこで「皆木」に個人主義を諭されその非階級闘争性を否定される状況をおよそ図式的に描いた作品である。この作品に対し、蔵原惟人は「芸術方法についての感想」に《プロレタリアートにとっては家庭や恋愛の問題は、その関心の一部ではあるが中心的問題ではない。》として「愛情の問題」は《作品の中心的主題として取り上げられるのではなくて、全体的階級闘争の一部として取り上げられ、取り扱われなければならない》としている。この問題についても結局落ち着くところは〈階級闘争〉の為のということになり、全ては〈党派性〉へと帰結していくのである。

 このように思想としてのマルクス主義をその創作方法と結びつけて方法論として論ずることはできたのだが結局〈愛情の問題〉に現れる組織においての人間救済の芽を摘み取っていたのである。当時モラル問題がプロレタリア文壇のみならず文壇全体で様々な形となって生起していたがこの〈愛情の問題〉もその一類型といっていい。これらモラルの問題は共産主義文学を新たなる一方向を生み出すための礎石となるべきものであった。しかしながらマルクス主義理論家たちはそれを拒んだ。折角にも新たなる方向を生み出さんとしていた波紋を自らの手で封じてしまったのである。これを理論の段階にまで昇華させればハウスキーパーもまた違った問題の取り扱われ方をしたであろうし第二次政治文学論争も異なった形で現れたであろう。

  ハウスキーパー問題を当時の共産主義革命運動においての一つの風俗としてみるならば 次の戸坂潤の言葉は多いに私に示唆を与える。《風俗とは道徳的本質のもので思想物としての意味をもつものだ》 然り、ハウスキーパー問題は若き日本共産主義の思想が生み出した産物なのである。それは日本の革命運動が生み出したコップや全協、その他多くの産物と兄弟の位置にあるものといってよい。Tで述べたように様々な問題がナップからコップの改組の途上で止揚されていった。その中でこの女性問題だけが浮上せられることもなくコップの胎内へ近代の所産である家父長制そのままに取り残されていったのである。そもそも風俗とは思想と連絡するものでその思想を表象する具現物なのである。しかしながら風俗は一表象物であって決して思想そのものではない。単純に言って風俗とは思想を表しているものに過ぎないのだ。すなわちこの問題に関していえばハウスキーパー問題とは一側面として革命運動内だけでなくそこに関わった空間全てにおける思想物に過ぎないのである。そしてこの思想物は《道徳的本質》を内面の基調として具備している。ここで農村における日本的習俗を少し考えてみるに、農村において小作争議が無数に行われた昭和初期には日本古来の淳美風俗ということが盛んに言われた。百姓が洋服を着ること自転車に乗ることは自己中心的な個人主義に陥っていてこれこそが淳美風俗を破壊する原因であるという、今日からすればおよそ馬鹿げた論旨ではあるが「不在地主」などにも描かれているようにそれこそが小作争議を引き起こす原因であるということが信じられていたし現実これらが講演や文章の形になって彼らの周りを取り巻いていたのである。実際それが新たなる習俗という形で多面的に現れていた。この現在からすれば馬鹿げたことであると思えるところに問題は関わってくる。農村の日本的習俗とはおよそ我々の手を離れた非日常のものとして存在し、様式や服装でさえその固有性を失いみな一元化しつつある。これには皆中流階級意識が作用していると考えるのだがここでは深入りしない。別にこの例にしても何であってもよい。国語・方言問題、環境の問題であってもいいのである。要はこの様に思想状況によって意図的にせよ偶然にせよ風俗や習俗・習慣というものは変わってくる変幻的なものだということが言いたいのである。またこれら風俗とは《社会の本質の一所産であり一結論にすぎぬにも拘らず、それが社会の本質的な構造の夫々の段階や部分に、いつも衣服のように纏わって随伴している》のである。そしてこの風俗を直接に造りあげる人的な、実態の不透明なものが道徳とかモラルとか呼ばれるのである。

  ここで「党生活者」空間に立ち戻って考えれば、我々はこの「党生活者」中の「笠原」 の扱いについて非難することはセクシュアリティー、ジェンダーと女性学が発達してきた中では容易いことである。そしてこれが現在を取り巻いている道徳といえるべきもので、 私達は現在においても男性的機構の中で生きていることを忘れてはならない。勿論ハウスキーパー問題においても女性運動家達が家屋探しや飯炊きをすることによってその男性優位のヒエラルキーを拡大再生産していったことと同じ様に現在の女性を含めた我々こそがこの男性的機構を強化しているのである。ここに着眼しなければならない。政治の優位という道徳観念によって男性女性如何に拘らずハウスキーパー問題においての道徳的本質を覆い隠し、それを強化してきたことに問題がある。ここにある無意識下における道徳造型への加担・強化を鳥瞰しそこへ繋がる行為を克服すること、我々が各個においてある問題に対し無関係であると断定するのでなくどのようにその問題と関わっているのか、それを追求することこそが「党生活者」に内在する普遍的な《道徳的本質》を見極めていくことになるのである。   (了)







(私論.私見)