戦時色が強まっていた1933(昭和8)年、作家・小林多喜二の拷問死の直前に、やはり特高警察に検挙され、福岡県で死亡した社会運動家がいた。北海道出身の共産党員、西田信春(死亡時30歳)。散在していた資料を、がん闘病を押して収集した同郷の元高校教諭が亡くなる直前、初の本格的な評伝にまとめ、無名の活動家の生涯に光を当てた。専門家も高く評価する著書は西田の命日とされる2月11日に刊行される。
◇北海道出身の西田信春 「四・一六事件」後に失踪
北海道新十津川村(現・新十津川町)出身の西田は旧制一高から東京帝大に進み、学生運動団体「新人会」での活動を経て、29年3月、共産党に入党した。その翌月、全国の党員が一斉検挙された「四・一六事件」で逮捕され、32年、治安維持法違反で懲役5年の判決を受けた。だが、保釈後に逃亡していた西田は服役することなく、壊滅状態だった九州の組織再建に向かい、そのまま失踪した。
このため一時期は「当局のスパイだったのではないか」との説もあったが、九州全域であった共産党員弾圧で検挙され、福岡県内の警察署で拷問され死亡していたとみられることが戦後になって判明した。同様に警視庁築地署で拷問を受けた多喜二の死亡(33年2月20日)の9日前のことだった。
ただ西田について詳しく書かれた本格的な評伝はなく、代表作の「蟹工船」をはじめ今も著書が読み継がれる多喜二とは対照的に、存在自体、歴史の片隅で忘れられていた。その西田に興味を持ったのが、2018年10月に75歳で亡くなった北海道長沼町の上杉朋史(ともし)さんだ。定年退職後に自身のルーツをたどるうち、父祖と同じ新十津川村出身の西田を知り、14年6月に調査を始めた。
上杉さんは、西田と交流のあった、後の社会思想研究家・石堂清倫(きよとも)(1904~2001年)や詩人・中野重治(1902~79年)らが戦後、失踪の状況を調べ、断片的な記憶とともにまとめた「西田信春書簡・追憶」を探し当て、後に芥川賞候補となった作家で西田の秘書役だった牛島春子(1913~2002年)の未発表手記なども発見。死の直前の詳しい経緯なども明らかになった。
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◇福岡拠点に変名で活動 鑑定書では「病死」
上杉さんが4年がかりで書き上げた評伝によると、32年8月に九州に派遣された西田は、福岡市を拠点に「岡」「坂本」「伊藤」の変名で活動。仲間からは「無駄なく歯切れのよい言葉」「会うたびに非常に勇気づけられる話や態度」と信頼を寄せられた。
だが33年2月10日、福岡県久留米市中心部で落ち合うはずだった同志との定時連絡に西田は現れなかった。同時刻、指定場所近くの西鉄久留米駅付近で「強盗の捕物があったという」と後に同志は証言する。この日、後の新聞に「大検挙」の見出しが躍った特高による大規模な取り締まりが行われていた。35年に公表された当日の逮捕者名簿に、変名で活動した西田の名はなかった。
真相を突き止めようと戦後も調査を続けた石堂らの活動で、失踪翌日の2月11日夕、西田とみられる遺体が氏名不詳の「傷害致死事件被害者」として解剖されていたらしいことが判明した。鑑定書で死因は「病死」などとされていたという。
鑑定した医師の証言も、石堂らは得た。遺体となった人物について警察関係者が「久留米駅で捕まえた」「非常に強い抵抗を示した」「あんまり白状しないから足を持って2階から階段を上から下まで引き下ろし」「4、5回やったら死んじゃった」などと話していたのを聞いたという。
評伝は生前の西田の素顔にも迫った。
東大時代の西田はボート部の活動に熱中したが、本人の日記では「(ボートは)苦闘と云ふ仮面を被った享楽に過ぎない」(25年6月)と、厳しい社会情勢で青春を謳歌(おうか)することに悩む姿をのぞかせる。「四・一六事件」で逮捕された後に中野の妹鈴子に宛てた手紙では「窓に人影が射すが……若い女の人か年まの人か、それも見分けがつかぬ」「鉄棒と金網の邪魔臭いこと」とユーモアをにじませて獄中生活を知らせている。
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◇「戦前に近づいている」危機感に突き動かされ
上杉さんは西田家の墓を訪ねるなど精力的に取材を始めた直後の14年夏、腎盂(じんう)がんと診断され、手術と入退院を繰り返す生活になった。それでも治療の合間を縫い、全国の図書館や博物館から精力的に資料を集め、深夜までワープロに向かい続けた。
特定秘密保護法制定(13年)、共謀罪の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法の成立(17年)など、「戦前に近づいているのではないか」という危機感も背中を押した。妻キミ子さん(74)によると18年7月、全身にがんが転移して医師から治療打ち切りが告げられたが執筆の手を緩めず、同9月に原稿が完成。翌月亡くなった。
「供養のためにも専門家に読んでもらいたい」と元同僚の手を経て原稿を託されたのが、特高警察などの研究で知られる荻野富士夫・小樽商科大名誉教授(66)だった。一読して「すぐに出版すべきだ」と価値を認め、弾圧された活動家らの名誉回復活動に取り組む「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」の藤田広登(ひろと)顧問(85)に相談。荻野さんを代表とする刊行委員会を結成し出版にこぎつけた。
荻野さんは「多喜二とは違う輝きを持つ西田は無名だが、もっと知られるべき存在だ。上杉さんの作品は人物像の基礎を作り、当時の時代状況をより深く理解する手がかりとなる」と評価する。
評伝「西田信春――甦(よみがえ)る死」は学習の友社(東京)から出版される。問い合わせは藤田さん(090・4527・1129)。【津島史人】