補足・自警団をどう見るか考

 (最新見直し2006.1.9日)

  「半月城」氏の「半月城通信の1999.3.23日付け論考「各界の反応、関東大震災(13)」 にコメントしてみたい。批判を込めるが、労作であると見立てる評価には変わりない。(Return to Index of this monthReturn to aml HOME
 前回は、朝鮮人虐殺に走った自警団を弁護し、彼らをたきつける結果にな った官憲を非難した右翼の巨頭・内山良平を紹介しましたが、この点だけにつ いていえば、内山の主張は世間の支持をえているようでした。

 たとえば、内山とはとうてい主張の相容れない、石橋湛山すらもこの一点 に関しては、暗に内山を支持して「或団体が、自警団の為め冤をそそがんと立 てるはもっともである」と評価しました(注1)。 

 自由主義者としてしられる石橋はさらに筆鋒鋭く「そもそも彼等をして、 斯く思ひ込ましめし者は誰れか。それこそ実に真の犯罪人である」と書き、官 憲の犯罪をほのめかしました。   

 彼はその帰結として、責任者の厳罰を主張しました。その理由を「此問題 は唯だ十二分に日本の何人かが罪を負ひて、而(しか)して辛じてゆるさるべ きものである」と書き、ジャーナリストらしい正義感をみせました。  

 しかし現実は石橋の意に反し、自警団をそそのかした官憲の責任者はもち ろん誰一人として処分されませんでした。それどころか、水野錬太郎・内務大 臣や、赤池濃・警視総監など治安関係者は数カ月後に再任されるありさまで、 表だって反省の兆候は微塵もみられませんでした。  

 その後、石橋は1956年に首相になりましたが、たった2カ月と短命に おわってしまい、この問題も依然として手つかずのまま残され、今日に至りま した。この間、日本政府による朝鮮人被害者への謝罪や補償など一切なかった ことはいうまでもありません。  

 一方、軍により虐殺された王希天など中国人犠牲者に対しては、日本は中 国政府の求めに応じ、20万円を支払いました(注2)。これにより日本政府 は中国人虐殺を公式に認めたことになります。

(私論.私見)

 ここまではこれで良い。為になる記述である。


 朝鮮人犠牲者がほとんどかえりみられなかったのは、朝鮮人の命が犬コロ 同然に軽んじられていた当時の民族的偏見に満ちた世情にあっては、なかば当然の成り行きでした。そうしたことに誰もほとんど危機感を持たなかったなか で、さすが慧眼の持ち主の石橋湛山はこの問題の重要性を見てとり、こう慨嘆 しました(東洋経済新報,1923.10.27、注1)。  
 「盛んに鮮人騒ぎの伝えられた頃、我日本の運命も之にて定りたりと慨嘆せるは、独り小評論子のみではなかったよしだが、今回の官憲の発表を見て、其慨嘆の果して杞憂ならざりしことを愈(いよい)よ小評論子は嘆くものである。   

 今更、心配は過ぎ去ったから安心して来いなどと鮮人や、支那人を招くは、 片腹痛い。日本人さへ心ある者は日本ほど恐ろしい国はないと思っているのに、 何で新附の民及外国人が来やうものか。若し之を招かんと欲するならば、日本は万斗の血と涙とを以て、過般の罪をつぐなはなければならぬ」

 石橋湛山は、帝国主義外交の廃止,とくに植民地の放棄を主張し,大正デモクラシーの思想的頂点に立った人物だけに、他民族蔑視・虐殺の行きつく先 を憂慮して論陣を張っていたようでした。  

 同じように「鮮人暴行」の流言が残虐な結果を招いたことに危機感をもった人に、東大教授・吉野作造がいました。 「手当たり次第、老若男女の区別なく、鮮人を鏖殺(おうさつ)するに至っ ては、世界の舞台に顔向けの出来ぬ程の大恥辱」と考える吉野は、この問題の根源をこう説きました(注1)。
 「我々は自らの態度を深く反省して見るの必要を感ずる。我々は平素朝鮮人を弟分だといふ。お互いに相助けて東洋の文化開発の為めに尽さうではないかといふ。然るに一朝の流言に惑ふて無害の弟分に浴せるに暴虐なる民族的憎悪を以てするは、言語道断の一大恥辱ではないか、しかしながら顧ればこれ皆在来の教育の罪だ。 ・・・  仮令(たとえ)下級官憲の裏書があったとは云へ、何故にかく国民が流言を盲信し且つ昂奮したかと云ふ点である。  ・・・  鮮人暴行の流言が伝って、国民が直にこれを信じたに就いては、朝鮮統治の失敗、之に伴ふ鮮人の不満と云ふようなことが一種の潜在的確信となって、 国民心裡の何所かに地歩を占めて居ったのではなかろうか。果して然らば、 今度の事件に刺戟されて、我々はまた朝鮮統治といふ根本問題に就いても考へ させられる事になる」。

 吉野作造はこのように問題を掘り下げ、朝鮮統治という根本問題にまでさ かのぼって批判を展開しました。吉野の他にも、自由法曹団の布施辰治などが 「鮮人」殺害の真相調査および責任追及を行ったことは、このシリーズ(8) に記したとおりです。このように官憲が火をつけた「不逞鮮人」のデマに惑わ されず、信念を持って対処した人びとも少数ながらいました。
(私論.私見)

 ここまではこれで良い。為になる記述である。

 その一方で、同じく犠牲になった社会主義者の朝鮮人虐殺に関する対応は やや複雑なものがあり、研究者の間でもその評価が分かれるようです。これは 興味あるところなので、次にそれについてふれたいと思います。  
 社会主義者に関する流言は、はやくも地震当日(1923.9.1)の午後三時ころには発生したようで、警視庁は「社会主義者及び鮮人の放火多し」と公式に記録しました。しかし、社会主義者に関するデマだけは民衆に受け入れられなか ったのか、それはすぐに消えたようでした。  

 そのかわり警察は、このシリーズにたびたび書いたように、もっぱら「不逞鮮人」暴動のうわさにのみ火をつけてまわりました。その結果、9月2日、 3日を中心に自警団による凄惨な大虐殺が始まりました。  

 このとき、社会主義者はいったい何をしていたのでしょうか。それについ て、姜徳相教授はこう述べました(注2)。
 彼らは、自警団に加わっています。この社会主義者の検挙が始まるのは、 9月4日早朝以降です。亀戸で虐殺が始まるのもこの時ですし、あちこちにい る社会主義者が検挙されるのも4日以降です。

 一方、朝鮮人は1日から3日の夜まで、朝鮮人であるがゆえに、街頭であの世送りになったのです。これについては、法政大学の二村一夫氏などが、社会主義者の行動の詳しい資料をまとめています。

 平沢計七を初めとする亀戸事件の9人の犠牲者たちは、進んで自警団に入っています。夜警にも出ています。そして「鮮人」騒ぎがおこったので、みんなで棒をもって夜警に参加しています。何のために棒をもったのでしょうか。  

 9月3日の夜までは、彼らは「殺す」側にいたのです。大杉栄も9月9日 以降に自警団に入っています。わたしも大杉栄が自ら進んで入ったとは思いません。自分の身を守るために参加したのだろうと思います。自警団がどういうものであるかをあまりきちんと考えずに、町を守るということで加わっていたのかも知れません。  

 この頃の日本の社会主義者は、まだ民族問題、あるいは階級問題が未分明な段階ではなかったかと思います。この頃の社会主義者、あるいは共産主義者 の文献である『前衛』『赤旗』などを見ると、彼らの朝鮮に対する見方は、 「鮮人の解放」、「鮮人同志との連帯」といったもので、「鮮地」支配民族と しての優越感が見えます。
 当時の朝鮮の民族運動の指導者キムヤクス(金若水)は「日本の同志は、 指導者意識をもって常に我々に接している。これははなはだ不愉快だ。彼らと一緒に我々は闘うことはできない」と言っています。だから彼らは、自警団がどういう団体であるのかということについてあまり詳しく考えずに、無自覚に参加したのだと思います。  

 むろん自警団に参加した社会主義者が、朝鮮人を殺したという証拠はあり ません。しかし「殺す側」「殺される側」という民族的な違いというものは、 少なくとも3日夜までは明確にあったと思います。しかも、一般民衆が自警団に入ってきた社会主義者を敵視したということはありません。仲良く町を守っています。
(私論.私見) 姜徳相教授の自警団認識について

 姜徳相教授の自警団認識は逆さま見解である。恐らく、当時の自警団運動とその後の自警団運動との識別ができておらず、為にこの時の自警団の役割を見落としている。
      

 姜氏は上記のように、社会主義者の民族問題認識に疑問を投げかけました が、この見解に対し、かって彼の共同研究者であった琴氏は異議をはさみまし た。同氏は、具体的に亀戸事件で虐殺された川合(資料によっては河合)の思想を検討し、こう反論しました(注1)。
 自警団は朝鮮人暴動に備えた警察肝いりの暴力装置であるのが本質である。 だから、これに参加し、夜警に出た者がいたという理由で、社会主義者は殺す側にいた、とする断定を私は採らない。  

 亀戸事件の犠牲者10人のほとんどは自警団に参加していたし、大杉栄も 自警団に参加していた。故に彼等が朝鮮人を殺す側に立っていたとするには、 少なくとも二つのことが検討されなければならないように思う。  
 一つはその人の思想の検討であり、二つ目は、行動の検討であろう。この 問題をこの解説で詳説するゆとりはないが、例として川合義虎の場合をみてみ たい。  

 川合は自警団に参加していたが、亀戸署に逮捕され、9月3日、亀戸署で 軍・警察により虐殺された。その川合は、殺される数カ月前、雑誌『赤旗』編集部の朝鮮問題に関する質問に次のように答えている。
 「1.(略)。2.日本の労働階級は、朝鮮植民地の絶対解放を叫び、経済的にも政治的にも民族差別撤廃を主張し、具体的に朝鮮より軍隊の撤去、日鮮労働者の賃金平等を要求し、運動上の完全なる握手と、同一戦線に立つことを、 最大急務として努めなければなりません」。

 川合の思想、彼の朝鮮問題についての考え方は明白である。当時にあっては、 朝鮮の民族独立運動と、労働者の階級闘争との関係は未分化の部分が濃厚にあったとは云え、引用部分の川合の論は立派である。それに川合は民青の初代委員長 として、進歩的青年組織の指導者として行動していた。こういう人物を自警団に参加していたという一事で朝鮮人を殺す側にあったと云い切れるものだろうか。大杉栄も途中からではあるが、自警団に参加している。彼も殺す側に立っていたのであろうか。

 私はこの時の社会主義者の自警団参加は、いい意味で自己防御本能が働いたものと思っている。この時の社会主義者の言動に私見がない訳ではないが、 少なくとも、今日までの所、社会主義者の参加した自警団の朝鮮人殺しの例は報告されていない。  

 それに何より大事なことは、朝鮮人を殺した同じ軍・警にこの人達は殺さ れたのだと云うことである。為政者・治安当局者にすれば朝鮮人も日本人社会 主義者も共に抹殺すべき不逞の輩だったのである。
(私論.私見) 琴氏の自警団認識について

 琴氏の自警団認識の方がよほどまっとうである。
    

 たしかに琴氏のいうように、朝鮮人も社会主義者もともに「不逞の輩」と して虐殺された歴史のうねりのなかでは、社会主義者が殺す側にたったのかど うかはささいな問題かもしれません。それはそれとして、その後の社会主義者の行動もやや気になります。それについて、姜氏はこう明らかにしています。
 亀戸事件に抗議した社会主義者・労働者も、自分たちの同志、社会主義者の虐殺に対して抗議していますが、朝鮮人事件については一言も触れません。 その証拠として、亀戸事件労働者大会というのがあります。
 「我等が同志川合義虎、山岸実司、平沢計七は震災後の混乱に乗じ、警察と 軍隊との協力に依って9月3日、殺戮せられた。  

 決議  吾人は官憲当局の発表は己を蔽わんが為の卑劣なる遁辞にして、人道上断じ て許すべからざる行為なることを認む。吾人は速に司法当局が司法権を発動し以て責任者を厳罰に処せん事を要求す。 右、決議する」。

 この中に、朝鮮人事件については一言も触れていません。日本の歴史家が 三大虐殺事件として並立していっているにもかかわらずです。社会主義者は朝鮮人事件に目をつぶったのです。
 朝鮮人事件合理化のために「鮮人の背後に社会主義者がいる、ロシアがいる」という官憲による第二の流言が出て来るということを知らずに、そういう ことを提起せずに、抗議文なんかは意味がないと思います。このときの社会主義者は、朝鮮人問題には目をつぶり、そっぽを向き、連帯のひとかけらもありません。そればかりか、このときの労働運動のボス鈴木文治は朝鮮総督に手紙を送って、「朝鮮人の思想善導のために、一役買いまし ょう」という提案をしています。つまり朝鮮人を使って、震災後の廃墟を整理 する方向に彼らの能力を生かしたい、そのためには朝鮮人を善導し、思想教育をしたいと言う訳です。これは朝鮮人の中の、日本に協力して金儲けをしようとした相愛会の朴春琴、李起東らと全く同じ行為だった訳です。同じくテロを受けた者たちが真相究明に対して一言も言わないということ では、真相の究明などあり得ない訳です。         
 朝鮮人虐殺や労働運動指導者の虐殺事件は、労働総同盟の一部指導者を震えあがらせたようで、その後、日本労働総同盟は急速に右傾化したとされます。 そのいい例が鈴木文治の手紙といえます。それでも総同盟は震災の翌年、公式に朝鮮人虐殺事件の抗議をしました。 しかしそれも後の祭りで、日朝労働者の提携気運は急速にしぼんでしまったようでした。こうしてみると、関東大震災は日本の労働運動にとっても大きな転機だったようでした。

(私論.私見) 論考「各界の反応、関東大震災(13)」について

 論考「各界の反応、関東大震災(13)」は、資料的知識としての入手価値はあるが、この論考だけでは事件に対する認識がさっぱり深まらない。甲乙論を並べるだけの愚に陥っているので、要するに要点を得ていない。こういう学問的手法はちょっちゅう見かけるが詰まらない。知識者が知識人という訳ではないということを物語る見本のような論考でしかない。

 肝腎な事は、各種資料を併記して、結論的にどう見立てるべきカまで言及し無いといけないのではなかろうか。判断留保せざるを得ないような場合には単に併記でも良い。しかし、判断が求められる事に関しては、併記の上で自身の結論を述べねばなるまい。そうやって議論を逞しゅうしていくべきではなかろうか。

 2008.6.30日再編集 れんだいこ拝




(私論.私見)