戦前日共史その4、第一次日共解党される

 (最新見直し2005.11.13日)

 関連サイト「大正ルネサンスの光と影


1923(大正12)年の動き

 1923(大正12)年、大震災後の山本内閣は、普通選挙実施を表明した。


【「第一次解党運動」】
 1923(大正12)年、この当時の指導部が誰かは不明であるが、当局の苛酷な弾圧政策と関東大震災の混乱に乗じた大虐殺に動揺した解党主義的な日和見(ひよりみ)主義(形勢により、有利な方につこうとして、事態のなりゆきに対して傍観者的態度をとること。機会主義とかオポチュニズムとも)の潮流が党内に生まれた。

 その後、赤松、野坂が解党派として立ち働き、堺利彦、山川均、猪俣津南雄、田所輝明らがこれに同調した。後の流れとの関係で、これを「第一次解党運動」と称することにする。解党派は、「求心主義的な党の結成はまだ早い。今は提唱するにとどめ、時を待とう」という説を唱えた。

 この時山川は、「日本の客観情勢では、まだ、共産党を造ることは時期尚早である。まず、大衆が入りやすい無産政党を造って大衆の成長を促進し、しかる後に共産党を造るべきだ」論を展開した。

 11月、荒畑寒村は帰国したが、佐野文夫、赤松克麿ら仮執行部の方針で、暫く所在をくらまし、検挙を避ける為に転々とした。荒畑は解党是非論を問われ、言下に拒否している。この時期、反対論を徹底していたのは、荒畑寒村と高瀬ということになる。
(私論.私見 ) 第一次解党派・野坂考
 野坂は、第一次共産党解党の立役者である。その野坂は、共産党が再建されるや又にじりより機会を窺いながら解党運動に精出す。野坂の共産党との関わりは終生これが原則であった。この事実が案外知られていない。戦後、六全協以降、これをやらなくなったのは、共産党が牙を抜かれた投降主義的体制内野党運動に堕落し、もはや解党させる必要が無くなったからに過ぎない。それにしても、そういう野坂とコンビを組んだ宮顕の胡散臭さはいかがなものだろう。同じ側のものでないと有り得ない、れんだいこはそう窺う。

 11月、日本労働総同盟は、中央委員会で、普通選挙に向けて投票権の有効行使を決議し、組合内に政治部を設け日本農民組合も極めて積極となった。


 11.1日、全国水平社青年同盟が結社される。委員長・松田喜一、中央委員・高橋貞樹ら。翌大正13.3月から機関紙「選民」発行。発行責任者は岸野重春。岸野は後に当局と内通しスパイ活動に転じる。


【虎の門事件】
 12.27日、後の昭和天皇となる当時の皇太子・摂政宮裕仁親王が、摂政の宮として大正天皇の代理で開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上、虎の門を通過中に仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助はその場で逮捕された。これを虎ノ門事件と云う。

 この事件で、翌日に第2次山本権兵衛内閣は総辞職。事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあり警備の直接の責任者であった。正力は警視総監・湯浅倉平らとともに、即刻辞表を提出。警務部長らは懲戒免職、山口県知事は休職、父は衆議院議員を辞任して閉門 蟄居、謹慎した。正力は、翌大正13.1.7日、懲戒免官となった。 1.26日、摂政殿下裕仁のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となった。官界復帰の道が開けた。但し、本人は古巣に戻る気をうせていた。

 難波大介の履歴は次の通り。
 山口県熊毛郡周防村立野(光市)の旧家に生まれる。父作之進は県議を経て大正9年(1920)代議士当選。母はロク。長兄は東京帝国大学、三兄、弟は京都帝国大学出身。 母方の遠縁に河上肇・大塚有章、長兄夫人の遠縁に宮本顕治がいる名望家。

 徳山中学に進んだが退学、私立鴻城中学に移り、高等学校受験に失敗。11年、大正第一早稲田高等学院文科に入学したが、翌大正12.2月、退学。深川の労働者街に身を投じた。この間、河上肇『断片』(「改造」)を讀むなど左傾化しつつあった。関東震災直後の帰省の途次、甘粕事件・亀戸事件などを聞いて官憲の非道ぶりにテロリズムの実行を決意する。12.22日、父のステッキ銃を持って上京。京都の友人宅に滞留の後、事前に新居格ら新聞記者にテロ決意の手紙を送ったうえで、12.27日、虎ノ門で帝国議会開院式に赴く車中の皇太子(当時摂政にして後の昭和天皇)を狙撃したが失敗した。この銃は、韓国帰りの林文太郎が作之進に譲ったものだが、伊藤博文が部下の林に与えたものという説がある。

 事件当日より予審訊問が行われ、翌年2月本裁判に付された。裁判長は横田秀雄大審院長、検事は小山松吉検事総長ら。官選弁護人は今村力三郎、岩田宙造、松谷与二郎であった。10.1日、公判開始、11.13日に死刑の判決が下った。 大審院でも天皇制否定の主張を曲げず、裁判所の改悛慫慂政策は、判決直後、難波の「日本無産労働者、日本共産党万歳」の絶叫で挫折した。判決2日後の15日、大助は処刑された。26歳。
(私論.私見) 虎ノ門事件考
 この事件は、存外その後の影響が強い。これを採りあげないのは歴史家として失格と云えよう。そういうことが分かってきた。これについては本日サイト化し今後更に検証することにする。

 2005.11.13日 れんだいこ拝

 12月末、青野末吉、島中雄三、高橋亀吉、鈴木茂三郎らが中心になり、在京労働団体、思想団体の有志が参加して「政治問題研究会」を発起した。


 第一次共産党事件の難を逃れた佐野、近藤はウラジオストク会議で、片山潜の配下で佐野がコミンテルン、近藤がプロフィンテルン入りとなった。


1924(大正13)年の動き

 1924(大正13).1月、英国で、労働党内閣が出現。これが、日本の無産政党運動を大きく刺激した。


【第一次日共の最高指導者堺、山川両氏が離党】

 1924(大正13)年始め頃の時点において、堺、山川両氏は実質的にボルシェヴィズム派党運動から戦線離脱していた。山川派は、概要「権力の強暴な弾圧体制下と労働者運動の遅れた我が国の情況では共産党を直ちに再建することは間違いで、当分の間は宣伝提唱で行くべきだ」と主張し始め、「無産階級運動の方向転換論」を掲げ、合法的無産政党運動を目指し、体制転覆的革命的闘争よりも労働者の日常的経済闘争を支援する党運動へ向っていく。

 ここに創設期メンバーの二分化が刻まれたことになる。山川派の流れが後に労農派へと自己形成し、共同戦線論を唱え、日本の社会民主主義運動の流れを創り出して行くことになる。戦後は、共産党に向わず社会党に合流していくことになる。


【第二次護憲運動の波】
 この頃、政党及び労働組合運動の動きは次のような状況であった。1924(大正13)年1月に清浦「超然」内閣が成立している。これに憲政会・政友会・革新クラブの三政党が反発、「政党内閣」を掲げて第二次護憲運動を展開した。

【「第一次共産党解党決議される」】
 1924(大正13).3月、東京府下荏原郡森ヶ崎の某温泉宿にて、佐野文夫、市川正一、荒畑勝三、徳田球一、野坂参三の5名が会議し、党の解体が決定された。同時にその為のビューロー(残務整理委員会)を設置した(森ヶ崎会議)。

 ここに第一次共産党は正式に解党され、1年8ヶ月の短命を終えた。以降1926年の再建までほぼ2年間、日本共産党は存在しなくなる。再建されたのは、大正15年12.4日山形県五色温泉での党再建大会であり、この間2年半経過している。この間「ビューロー時代」となる。

 第一次共産党は、綱領の制定もできないまま解党したことになる。この時、将来の党再建を考慮して、少人数の残務整理事務局「委員会(ビューロー)」を残して窓口とした。「当面の残務整理の為にも一定の機関が必要である」という口実で、青野季吉、佐野文夫、北原竜雄、徳田球一らがその任務についた。これは解散理由にも関係しており、「党のボリシェヴィキ的強化」という狙いがあったこととも関係している。

 野坂は、1929(昭和4).4.1日の東京地裁において、予審判事・藤本梅一の訊問「解散の事情は」に答え、次のように述べている。「第一、前年6月事件の検挙により、党員の意気阻喪と活動分子を捕らえられた為ほとんど壊滅の状態に陥りたる事。第二、前年9月の震災により反動的気勢のため、活動が不可能となりたる事。第三、従来の党は社会運動の古参者が個人的関係を辿って集まったいわゆる宗派的のものであった事と大衆的でなかった事がその運動を不活発にした事。第四、非共産主義的分子がその中に並在し真実の共産党としての活動ができなかった事。の四つの理由により党は事実上崩壊状態に陥っておりました(「野坂参三予審訊問調書」)。

【解党派・野坂参三らが「産業労働調査所」設立】
 3月、野坂参三らが中心となって、(マルクス・レーニン主義の立場からの?)日本の政治経済の分析と世界の労働運動、共産主義運動の紹介を主な任務として、「産業労働調査所」が設立された。
(私論.私見 )この頃の野坂の動きについて
 第一次共産党解党後のビューロー時代に「産業労働調査所」の設立が重なっていることに注意を要する。というのは、野坂は熱心な解党派であり、首尾よく解党させて後なお「産業労働調査所」なるものをつくってその後の党活動の足がかりを用意していた形跡がある。以下の指摘がこれを裏付けている。
志賀義雄  「野坂が解党の口火を野坂が切ったことは事実ではないとしても、野坂が熱心な解党論者であったことは事実であると推定される」(「日本共産主義運動の問題点」)。
荒畑寒村  「同志はもう皆保釈で出たが、一人残らず解党論になっている。かっては結党の急先鋒であった徳田球一の如き、今は解党に向けて最も急進論者であるということだ。野坂鉄(野坂参三)と赤松克麿は、労働総同盟内の党細胞を解散するが、運動費は今まで通り出してくれと虫のいい要求を持ち出して執行部から拒絶された」(「寒村自伝」)。
佐野博  「岡野(野坂)−彼に関しては、我々は完全な不信任を献する。これは、彼の政治的経歴、政治的立場、政治的才能、性格等を熟知する者の、当然に採るべき途である。階級的情熱を欠き、消極と退嬰を事とした彼は、今日まで、一日と云えども、真実の革命家であった事は無い。かって第一次の日本共産党が震災後の白色テロルに面して、危機に瀕した時、札付きの裏切り者赤松克麿と協力して、党を解体に導いた当の責任者の一人は、彼野坂であった。大正14年、党再建においても、彼は党の実際活動に関して、消極的懐疑的態度を持し、何ら献身的行為を示すことなく、唯だ産業労働調査所の安全地帯に閉じこもって、専ら一身の保守第一に動いていた」(「佐野博上申書」)。

 以上の指摘からすれば、現行党史が修辞しているような「マルクス・レーニン主義の立場から産業労働調査所を設立した」というのは、黒を白と塗り替える欺瞞的記述ということになる。全く宮顕−不破系党史は、意図的にしか思えないがこういう逆さま見解を至るところで記述している。

【ビューロー内が党再建派と様子見派の二派に分かれ、抗争する】

 党解党後、党は徳球らを通して解党決議をコミンテルンに報告したところ、コミンテルンは「とんでもないことだ」と怒り、解党決議を受けつけずに直ちに党の再建を指令した。コミンテルンが「解党反対・党再建」の方針であることを知った徳球、渡辺政之輔、荒畑、市川正一らが中心となって党再建活動に取り組んでいくことになった

 ビューロー内は提唱派と再建行動派の二派に分かれて抗争していくことになった。提唱派とは、佐野文夫・青野季吉らが中心で「一大調査機関を設けてビューローの政策を決定し、それを大衆に提示する宣伝提唱することが当面の緊急任務である」としていたグループのことを云う。いわゆる穏健派ということになる。

 これに対し、再建行動派とは、荒畑・徳球を中心として「コミンテルンの指導に従い、無産階級の実践運動を展開する中で革命分子を組織し、党再建を図るべきである」としていたグループのことを云う。いわゆる急進派ということになる。

 1923(大正12).*.24日、日本共産党第2回大会開催。急進主義派と穏和主義派の見解不一致が露呈する。急進主義の代表は徳球。


【最初の国政選挙】
 5月、総選挙が行われ、三派が285議席を占める勝利を収め、憲政会の加藤高明を首班とする護憲三派内閣が成立した。加藤内閣は普通選挙の実施を打ち出し、同法案は翌1925(大正14)年2月に治安維持法と抱き合わせで成立することになる。

 こうした情勢の中で、労働組合や農民組合など間には普選実施に対応するために独自の政党(無産政党)の設立をめざす動きが活発化していった。

【研究雑誌「マルクス主義」が創刊される】
 5月、山川派は、研究雑誌「マルクス主義」を創刊した。同誌は1929(昭和4).4月までの満5年間、発行されることになる。後に満鉄調査事件で獄死する西雅雄が編集人で、市川らが加わっていた。

 第一次共産党事件関係で西・市川が下獄した後を福本和夫が編集主任となり、水野成夫が名義人となった。1927.1月から志賀義雄が編集主任となった。この当時の編集人は、青野季吉、佐野文夫、西雅夫、志賀義雄であった。が、「マルクス主義」は1929年(昭和4)年の4.16弾圧までの命となった。この間党の合法的な理論機関誌の役割を果たした。

 このグループが1927年に雑誌「労農」を創刊し、ここを拠点にして精力的な理論活動を行い始めたことからこの流れを労農派マルクス主義と云う。

【コミンテルン第5回世界大会】
 5月(6.17−7.8日)、モスクワでコミンテルン第5回世界大会が開かれ、日本代表として片山潜、副代表として佐野学、徳田球一、近藤栄蔵の3名が参加した。日本に関して小委員会を設け、「党再建決議案」を決議した。党再建の指令が日本のビューローに向って発せられたことになる。

【コミンテルン上海会議】
 コミンテルン第5回世界大会終了後、極東部主任ヴォイチンスキーが主宰で、佐野、荒畑、佐野文夫、渡辺政之輔、青野季吉、徳田球一、鍋山貞親らで上海会議を開き、「党再建決議案」の具体化を討議した。
 次のように評されている。
 先進西欧資本主義列強の世界植民地化の流れに、バスに乗り遅れるなと後追いした日本資本主義は、富国強兵政策をとることによって、体内的には、勤労大衆の生活水準の劣悪を招き、対外的には隣接諸民族の犠牲の上に大概進出を強行せしめた。この二つの面に必然的に生起する反抗を抑圧するための軍事的警察的権力機構を生み出した。これを軍事的警察的天皇制と云う。一見、ロシアツアーリズムの如く見え、かかる事情により日本革命はロシア10月革命式暴力革命論を呼び込むこととなった。民主的な政治構造の欠如が運動をして急進主義的ならしめた。ボルシェヴィズムの指導に身をゆだねることになった。

 6月、前年末に結社された「政治問題研究会」が「政治研究会」を創立し、「あまねく無産民衆の政治的教育と団体的訓練とを促し、以って真に目覚めた民衆的政治運動の第一歩を踏み出したい」と宣言した。

 6月、小川未明、秋田雨雀、加藤一夫、江口カン、江馬修、佐々木孝丸らが、雑誌「文芸戦線」を創刊。「無産階級運動における芸術上の共同戦線に立つ」との綱領を掲げて再出発した。


【】
 「早稲田一九五〇年・史料と証言 別冊・資料」の「唯物論全書『美術論』の頃 沼田 秀郷 (武田 武志) 一九七九年一月十四日・採録 【編集部・註】早大学生運動史研究会(絲屋寿雄・主宰・1980−10) 早大学生運動の記録(第一集)より」。 
 大震災の翌年、一九二四年。大正デモクラシーの後期、第一次大戦後の思想状況の混乱していた時期。その中から労働者階級の立場に立った新しい思想がずっと出始め、さらに左右の無産政党とその運動が抬頭し、日本の政治の舞台に登場してきた。西田天香の一燈園。丁度その時期、河上博士が一燈園の門をたたいている。築地小劇場の観劇。 教授の安部磯雄がシドニー・ウェッブの「大英帝国の構成( Constitution)」。かれはイギリスの消費組合運動の権威者。石川三四郎がクロポ トキンの「田園、工場、仕事場」を英文でやっていた。デュル ケムの「社会分業論」。石川準十郎――これは高畠素之の弟子で、国家社会主義者だと自分で言っていた――が、レーニンの「国家と 革命」の英文パンフレット。また、高畠素之「資本論」講義。五来欣造。「読書会」の人物構成についていえば石川準十郎、荒垣秀雄。荒垣は後に朝日の論説委員になる。この二人が 最初の中心。それから尾崎陞。彼は戦前〃赤い判事〃として検挙されましたが、いま、 弁護士で、日本ベトナム友好協会会長をやっている男――水野秀夫、小柳、秋山憲夫(後 にアナトール・フランスの著作を翻訳し、日ソ友好協会の役員をしている)、それに私。 これらが中心でやっていました。だいたいレーニンにしても、その他のものにしても、原 書でなければ手に入らない状態で、確か稲門堂に頼んで入手していました。当時、稲門堂 や丸善からはインプレコールも入手できました。それから一九二六年には社研に合流していきますが、その当時の社研のメンバーとして は、松尾茂樹さん、恐らく彼が創立者じゃないかと思いますが、非常にしっかりした男で したね。佐野楠弘、秋笹正之輔、これはしっかりした理論家だったが、学内で仕事をする よりむしろ慶応の野呂さんあたりと親密になって、外部で仕事をしていた様子です。それ から杉本文雄さん、福富正雄さん、私、中村というのがいたが、私の郷里の家で町田君と 一夏勉強したとき参加して、相当優秀な男でしたが、後のことはわかりません。こうして 社会科学研究会の運動の中でそうとう沢山の人材を生み出していくことができたわけです。  

 軍教反対運動。一九二三年頃から早稲田ではずっ と盛り上っていた。全国的に軍教反対の闘争を盛り上げるというので、一九二 五年一月十四日、早稲田でデモを組織する。早稲田から文部省までずっとデモ。これを組織し、先頭に立ったのが橋本登美三郎で、茨城の水戸出身です。いまでこそ汚職にまみれた自民党幹部の一人ですが、当時は戦闘的で、恐らく雄弁会の指導部じゃないですか、我々をアジリながら、官憲と乱闘しながら行くのですから、向うへ着く迄には洋服の袖がとれてしまうくらいの状況でした。岡崎文相といいましたか、彼のところまで押しかけるわけです。この頃はまだ 我々のほうが優勢ですから、そういうことがやれたわけです。 最初の治安維持法が立法化されるのが一九二五年の三月十四日。 同時に無産者新聞が九月に発行されると、これは当時の共産党の、いわば合法的な舞台に おける機関紙の役目を果たします。従って、我々学生の中にも無新はずっと配布され、無 新の組織者や宣伝者としての役割は非常に大きなものがあったわけです。無産者新聞社に 対する我々の協力というのは、ずいぶん人も出し、配布にも協力し、維持していったわけ です。その翌年、ご承知のように労働農民党が結成されて、大山さんの留任問題で大きなスト ライキが発生する。対学校との闘争の中で学生自治同盟が誕生してきます。勿論、 犠牲も大きくて、第一高等学院からも大学からも相当大量の処分者が、その翌年一九二七 年に出ます。私は高等学院で闘争に参加したんですが、最後までわからずにいて、篠原匡文君その他が退学処分になって、最後になって、やはり沼田が背後にいたということがわ かって、私は落第させられるわけです。また、その夏、先ほど触れた町田、中村と私の田舎で共同研究をやります。スターリン の「レーニン主義の基礎」をやっていたら肋膜だということがわかって休学するわけです。 その研究会は一九二七年の夏。
 私が学生運動の中で大きく関係をもつのは、昭和五年のストライキ。蔵原が訳すプレハーノフの「藝術と社会生活」。ロ シア文学関係からは相当の人材を出していますね。教師の中でも片上伸がいたり……。三・一五とか四・一六の時代は、弾圧されても、逆にいっそう攻勢的に、文化関係では どんどん前進して拡大していく。そして、あの当時の徳永直とか小林多喜二のプ ロレタリア文学は、確かドイツで開かれた国際作家会議の席上、日本のプロレタリア文学 は非常に水準が高いんだ、国際的に注目すべきだという評価を受けています。私自身の経 験を言いますと、徳永直の「太陽のない街」はフランス語その他各国語に翻訳されて、そ してフランス共産党が毎年毎年出版している「アルマナック・ウーヴェリエ・エ・ペイザ ン」(労働者・農民年鑑)を丸善からとりよせてみると、美しいさし絵入りでこの小説の ダイジェストが入っていました。そういう風に世界的に注目される水準に達していたし、 あの当時蔵原さんが果した日本の文化運動に対する指導の正しさ、文芸批評の水準の高さ、 正確さは注目すべきだと思います。  我々の時代は、レーニン著作集やマルクス・エンゲルス全集の刊行と共に、本ものに― ―解説や紹介ではなく、理論の原泉に直接、接し得るようになった時代です。 一九二六年から二七年の春にかけては、福本イズムが、雑誌「マルクス 主義」誌上での論文と彼の著書を通じて、全国的に風靡してくるわけですが、私たちも夢 中になりました。一九二七 年の「日本テーゼ」で福本イズムが批判をうけ、私たちも目が醒めるわけです。
 河上さんの業績というのは、日本の科学的社会主義の理論を前進させた上で非常に大きな 役割を果していると、私は思います。 それから先程の福本ですが、彼の「社会の構成並びに変革の過程」、その他で、マルク ス主義の理論に於ける学問的な取組みといいますか、方法論というか、マルクスがどうい う風にして資本主義社会の運動法則を勉強して、叙述したか、そういう科学的な取組みを 重視し、そして方法論の問題も彼は提起してるわけですね、ですから、弁証法の問題を、 真正面にとりあげてきたのは彼で、そういう点では彼は我々に衝撃を与え、科学として社会主義というものを全面的に研究していかなければならないものだ、俗悪な経済主義的な 「唯物弁証法」の考え方だけではだめなんだ、ということがだんだんわかってくるわけで す。その後、「二七年テーゼ」に従って、日本の現実の社会、日本の資本主義の分析が始 ってきます。 日本の運動が「二七年テーゼ」 を基礎にして指導され、展開されていきます。 圧倒的な影響を与えたのはソ連邦の存在です。これの十周年のときなんかは、築地小劇場 で秋田雨雀の作品が合同公演で催される。小山内がソ連に行く。そして、感激をもって社 会主義を紹介する。同時に理論的な文献がどんどん入ってくるんですから、これはもう圧 倒的な波として我々には大きかったですね。今でも覚えていますが、スコットホールで文 化人の色紙を並べて展覧会をやったことがありますが、秋田雨雀のもので、文章を正確に は覚えてませんが、「共産主義はかつてはユートピアだったが、今は現実のものだ」とい う文章があって、感動を受けました。そして、福本主義が出て、コミンテルンのテーゼが紹介されて、その後の一九三二年の テーゼが出るまで、私たちはこれに従って行動したわけです。綱領が規定されると、その 都度いつも日本のプロレタリア運動と各分野の理論も前進します。三二年テーゼが出てま た前進するという波を描きます。 築地小劇場がだんだん左翼化していく につれ、それと共に私も左翼化したわけです。初めて、チェーホフの「白鳥の歌」とゲー リングの「海戦」ともう一つが上演された。次の年にチェーホフ、イプセン、ゴーリキーが取り上げられ、二六年からだ んだん左翼のものが取りあげられ、二七年以後は、藤森成吉の「何が彼女をそうさせたか 」、その他ずっと日本のものが入ってくるわけです。そして、労働者の運動と演劇運動が 密着してきます。そして、左翼によって、これが支えられていくという状況が出てきます。 それから二八、二九、三〇年と、蔵原が演劇関係まで指導していきます。ですから、今で も我々は、村山さんの「暴力団記」とかレマルクの「西部戦線異常なし」とか「太陽のな い街」とか、こういうのは、日本の新劇の歴史の上で輝かしい歴史であったと思います。 そして、文学関係のほうは、今度初めて私わかりましたが、昭和二年の春、山村房次君た ちが蔵原さんを学校に呼んで講演したというような、密接な関連を持ちながら、影響をう けてくるわけですね。 稲岡 それに関連して、武田武志というペンネームの由来と、芸術論がどういう動機で出 されたか必ず入れてほしい。 日本のプロレタリア文学運動の中で、蔵原さんの指導、 批評は非常に正確で、水準の高いものだということを、私は痛感します。




(私論.私見)