戦前日共史その3、関東大震災事件(大杉栄事件)

 更新日/2017(平成29).4.24日

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 (れんだいこのショートメッセージ)
 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。この時政府の宣伝「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。

 9.7日、政府は、関東大震災時の混乱に対して「治安維持の為の緊急勅令」を公布した。これは、前に成立を見なかった「過激社会運動取締り法案」を、このたびは天皇の名のもとに議会の審議を要しない緊急勅令という形で公布したということである。しかし、政府はなお満足せず、やがて治安維持法に向けて着々と周辺整備していく。

 「第一次共産党事件」と「関東大震災直後の反動攻勢」に接して、獄中闘争組の中からも解党的方向が提起されたようである。幸徳秋水の大逆事件、関東大震災時の大杉栄虐殺事件という官憲側のテロル攻勢に「緊急避難」の名目で党の解党止む無し論が強まっていった。

 これに関連して福永操は次のように述べている。
 「革命運動の犠牲者たちは、人民が(人民のほんの一部でもが)その犠牲の意義をみとめて心の中で支持してくれると思えば、よろこんで死ねるであろう。なさけないのは、大逆事件関係者に対する日本の一般民衆の反感がものすごかったことであった。事件そのものにまったく無関係であった社会主義者たちまでが、この事件のとばっちりを受けて、『主義者』というよびかたのもとに一括して世間からつまはじきされて、文字どおり広い世間に身のおきどころもない状態になったことであった。労働運動も火が消えたような状態になった」(福永1978)。

 以下、検証する。 


関東大震災発生】
 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。地震の規模はマグニチュード7.9、震度6であった。焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人、行方不明者を入れると犠牲者は10万人以上という被害が発生した。工藤美代子著「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」(産経新聞出版、2009.12.2日初版 )によれば、「死者・行方不明者10万5千余人、家屋全・半壊23万戸、家屋全焼失44万7千戸、避難人数190万人以上とされている」とある。これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は当時の金で約100億円(当時の一般会計の6.5年分、現在で数兆円)と推定される。

軍及び警察の対応
 関東大震災の翌9.2日急遽、軍による戒厳令司令部を設置した。この日、後藤新平が内務大臣に就任している。船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が遺されている。

 警視庁は、非常事態に備えて臨時警戒本部を設置し、正力官房主事が特別諜報班長になって、不穏な動きを偵察する任務を持ち、その行動隊長として取締まりに専念した。後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。

 9.2日、大震災の翌日急遽、軍による戒厳令司令部が設置された。船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が為されている。今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。

 9.3日、「内務省警保局長」名で全国の「各地方長官」宛てに、要約概要「鮮人の行動に対して厳密なる取締要請」電文打たれる。今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。内務省が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。実際には「不逞鮮人暴動」は根拠が曖昧で「流言飛語」の観がある。この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。つまり、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。

 9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。同日、朝鮮人迫害停止の内閣告諭が出される。

 9.7日、政府が治安維持令を出し、また関東の全自警団を統制下に置いて虐殺を停止させる。天皇の緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」が公布された。これが後の治安維持法の前段となる。

 9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。
(私論.私見) 「内務大臣・後藤新平と正力の繋がり」について
 正力は、この後藤新平と深く繋がっており、「直接ルート」の間柄。正力の富山四高時代の友人にして官房主事であった品川主計は、回想録「叛骨の人生」の中で「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった」と記している。同書に拠れば、越権的な「汚れ役」(ダーティーワーク)仕事を躊躇無く引き受けることで信頼を得ていったとのことである。「仕事の鬼としての出世主義的性格」が強かった、ということになる。正力は、後藤内相の下で警視庁警務部長となる。同時に、財界のご意見番的存在であった郷とも親しくなって行った。

【官房主事・正力松太郎の暗躍】
 この時、警察と軍の関係を取り持っていたのは、警視庁官房主事の正力松太郎であった。これを追跡してみる。正力は米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、特高制度の生みの親であった。後に読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買うことになる。

 研究者によると、「朝鮮人来襲の危惧」を一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは官房主事の正力自身であった。自身も「悪戦苦闘」という本で、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。当局者として誠に面目なき次第」と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」と示唆されたことを明らかにしている。しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。


 東京朝日の石井光次郎営業局長の次のような証言がある(「中曽根、正力、渡辺、児玉…」参照)。
 「建物は倒壊しなかったものの、9月1日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされていた。夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることは出来たが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところへ走らせた。

 『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』。間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。その部下が言うには、正力から、『朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、各自、気をつけろ。君たち記者が回るときにも、あっちこっちで触れ回ってくれ』との伝言を託されてきたというのである。

 そこにたまたま居合わせたのが、台湾の民生長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に『それはおかしい』と言った。『地震が9月1日に起るということを、予想していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことになりはしない。朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、その時に暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか。流言飛語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』。

 石井は部下から正力の伝言を聞いたとき、警視庁の情報だから、そういうこともあるかも知れないと思ったが、ふだんから朝鮮や台湾問題を勉強し、経験も積んできた下村の断固たる信念にふれ、朝鮮人謀反説をたとえ一時とはいえ信じた自分の不明を恥じた。正力は少なくとも、9月1日深夜までは、朝鮮人暴動説を信じていた。いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた」

 内務官僚上がりの石井のこの証言に加えて、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談によると、正力は腕まくりして戒厳司令部を訪れ、「こうなったらやりましょう」と息まいている。この正力の鼻息の荒い発言を耳にした時に、当時の参謀本部総務部長で後に首相になる阿部信行をして、「正力は気が違ったのではないか」と言わしめたという。

 正力にまつわる一連の行動を分析した佐野は、[正力は少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している]と結論づけている。更に、警視庁に宛てた亀戸署の内部文書にも、「この虐殺の原因はいずれも警察官の宣伝にして、当時は警察官のごときは盛んに支鮮人を見つけ次第、殺害すべしと宣伝せり」と書いてあり、中国人労働者が300人ほど虐殺された大島事件も、正力がこの事件を発生直後から知っていたのは、間違いないと自身を持って断定するのである。
(私論.私見) 「正力の胡散臭さ」について
 後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。新聞でさんざん戦争を煽った。これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」。

 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。

【第2次山本権兵衛内閣成立と震災対応】

 9.2日、第2次山本権兵衛内閣成立。 山本内閣は発足直前に関東大震災に見舞われその処理に忙殺されることになった。

 第二次山本内閣(蔵相は前日銀総裁の井上準之助)は、震災直後の経済混乱を避けるため、被災地・振出地とする手形「震災手形」(1ヶ月のモラトリアム=支払い猶予例)を政府補償のもとに日銀に再割引させる「日本銀行震災手形割引損失補償令」を出す。つまり被災地関連の手形を政府が肩代わりして経済混乱を避ける政策を取った。その他暴利取締令をはじめ、次々と緊急措置で対応した。震災手形の発行により政府保証の財政出動も図ったが、甘い救済措置となり成功しなかった。政府は、この震災復興のために通算4億3000万余りの予算を計上した。翌年度以降、多額の震災復興予算を計上していくことになる。財源は多額の公債で賄った。高利回りで発行された外債は国辱国債という批判も浴びている。政府のこの救済政策により復興景気が起きるが、「景気」というよりむしろインフレを引き起こしていくことになった。


【流言飛語飛び交う】
 直後、「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」との噂が飛び交い始めた。発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。これにつき、工藤美代子著「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」(産経新聞出版、2009.12.2日初版 )が検証している。同書に対して、実証的ホロコースト研究者として名高い 西岡昌紀氏が次のように評している。

 戦慄を覚える本であった。関東大震災(1923年=大正12年)の際、流言飛語からデマが流れ、当時既に増えつつあった在日朝鮮人が、何の罪も無かったにも関はらず、日本人によって「虐殺」されたとする言説は、既に「歴史」と成って居る。

 しかし、この本は、その関東大震災時の「朝鮮人虐殺」とされる出来事の真相を先入観を排して検証し、イギリスに残る関東大震災に関する文書などを検証した結果、関東大震災が起きる直前、日本にやって来て居た「朝鮮独立運動」の活動家たちが日本国内でテロを計画して居た可能性が高い事、そして、たまたま震災に遭遇したそれらの朝鮮人活動家の一部が、震災時の混乱に紛れて実際に放火を行なった可能性が有る事を淡々と指摘して居る。

 信じたくない話だが、否定する材料は見当たらない。矢張り、これが、歴史の真実なのだろうか?私などに工藤氏の結論が正しいか正しくないかを断じる能力は無いが、こうした議論はタブーにするべきではない。私は、「人権救済法」が成立した暁に、こうした出版物が事実上出版出来無く成るのではないか?と言ふ危惧を抱いて居る事を付け加えておく。

 (西岡昌紀・内科医/関東大震災から88年目の夜に)

(私論.私見) 
 工藤美代子著「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」的研究の意味するところ、関東大震災時の「流言飛語飛び交う」につき、「流言飛語」ではない一定の根拠があったことを解明している。こうなると実証的検証が必要と云うことになろう。その際の要点は、仮に当時の文書であれ伝聞的なもの現認的なものに仕分けし、記述の客観性が保たれているものをもって正資料とすべきであろう。この基準を満たさないものを参考資料とすべきであろう。国際ユダヤ勢力の手のものは、それとして待遇すべきであろう。結論として他の諸事件同様に実証的検証こそが命であると思う。

【朝鮮人、社会主義者、アナーキストの検束始まる。官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺
 当時の軍及び警察は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒、襲撃」、「震災の混乱にまぎれて、朝鮮人と社会主義者が政府転覆を図っている」という風評を逆手に取って警察と軍による朝鮮人、中国人、社会主義者、社会主義的労働者の検束を始めた。「流言飛語」の根拠はともかく、当時の軍及び警察は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義者、アナーキストの検束を始めている。9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。

 自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺も発生している。無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。この時官憲テロルに倒れた朝鮮人は3千名、中国人は3百名とされている。これにより、その後毎年9.1日を共産主義運動、朝鮮民族運動の闘争記念日として追悼されていくことになる。

【関東大震災時事件その1、「朴烈事件」発生】
 9.3日、関東大震災の二日後の混乱期に、「保護検束」の名目で検挙された在日朝鮮人にしてアナキストの朴烈と妻の金子文子が東京淀橋署に逮捕された。判事の尋問の結果、爆弾入手を図って摂政官(皇太子)を暗殺しようとしていた事が判明した。朴烈は次のように証言している。「俺は日本の天皇、皇太子を爆弾投擲の最重要なる対象にしていたのだ。それで、爆弾が手に入ったら何時でも機会を見て使用する心算だった。出来るだけ日本の皇太子の結婚式に間に合うように計画を進めてきた」。これを「朴烈事件」と云う。

 翌1924.2.15日、爆発物取締罰則違反で起訴され、1925.5.2日、朴烈が、5.4日、文子が、それぞれ大逆罪にあたると求刑された。1926.3.25日、死刑判決。4.5日、恩赦で無期懲役に減刑されるが、文子は特赦状を刑務所長の面前で破り捨てた。同年7.22日、栃木女囚刑務所で、文子は看守の目を盗んで首吊り自殺で縊死。同年7月、内閣転覆を狙った北一輝により取調中に朴の膝に金子が座り抱擁している写真が政界にばらまかれ獄内での待遇が数ヶ月政治問題化した。

 朴烈は敗戦後の1945.10.27日、出獄。この時点で徹底した反共思想の持ち主に転身している。朴は在日朝鮮人連盟(朝連)への参加を避け、在日本朝鮮居留民団(民団)を結成し、1949.2月まで初代団長を勤めた。その後朝鮮戦争の際、北朝鮮へ連行された。のちに南北平和統一委員会副委員長として活動した。

【関東大震災時事件その2、川合義虎らが虐殺される亀戸事件発生】
 9.3日午後10時頃、亀戸事件の被害者となる南葛労働組合の指導者にして共産青年同盟初代委員長にして党員北原龍雄と共に第一次共産党事件後の留守委員会を構成していた川合義虎ら8名の社会主義者と、アナーキスト系の元純労働組合長・平沢計七らが亀戸警察署に拘束監禁された。

 9.5日、河合義虎ら7名の革命的労働者(北島吉蔵、山岸実司、吉村光治(南喜一の弟)、加藤高寿、近藤広造、鈴木直一)、アナーキスト系の平沢計七らが亀戸警察署で虐殺された。これを「亀戸事件」と云う。

 その遣り口が憤激に耐えない次のような史実を残している。古森署長は事後対策を警視庁に上申。この時のこの時の警視庁官房主事が正力松太郎(米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った)で、正力は軍隊への応援依頼、千葉県習志野騎兵第13連隊(田村騎兵少尉指揮)がやって来て、留置された中から最も指導能力を有していた危険な人物を選別し、演武場前広場へ引きずり出し、銃剣と軍刀で虐殺した。

 その虐殺の様について今日奇跡的に伝えられた二葉の写真があり、これを見るに多数の刺傷はそれとしても生きたまま打ち首にされている。遺体は家族に引き渡されず、二、三日放置された後、荒川放水路の一般の火葬死体の中に投擲された。田村少尉らは軍法会議にもかけられておらず、「この乱痴気が軍隊と警察と裁判所、検事局と監獄とを、内部から腐敗堕落させた」(志賀義雄「日本革命運動の群像」)とある。

 
ちなみに、南喜一は、弟の吉村光治虐殺という権力の横暴に義憤して共産党活動に入った。「南喜一著作全集」は次のように記している。
 「大正13年の春、私は工場や家を全部処分し、17万円の金をつくつた。妻子に4万円渡し、13万円を持って、亀戸の南葛飾労働組合に入った。共産党に入党したのだ」、「大正15年の共同印刷の争議までは、命ぜられることを名誉とし、火の中でも水の中へでも喜んで飛び込んだ」。

【関東大震災時事件その3、中国人留学生・王希天虐殺事件発生】
 この時、東京中華日キリスト教青年会幹事にして中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生・王希天は、亀戸署に拉致監禁された上陸軍に引き渡され、陸軍将校の手で斬殺されている。死体は切り刻まれて川に捨てられた。警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」。警察と軍の関係を取り持っていたのは、官房主事の正力であった。

 
10.20日、中国代理公使から王の殺害について抗議が為される。中国政府は王希天殺害調査団を派遣してくることになり、一気に国際的大事件となった。日本政府はその対応に苦しむことになった。警視庁はじめとする当局は口裏を合わせて知らぬ存ぜぬの「徹底的に隠蔽するの外なし」対応に終始した。結局、事件そのものは当時の日中の力関係を反映し、最後にはうやむやのままに葬り去られることになった。

【関東大震災時事件その4、甘粕憲兵大尉による大杉栄ら虐殺事件発生】

 9.16日、関東大震災の混乱に際して、アナーキストで社会運動家のリーダー的存在だった大杉栄は妻・伊藤野枝(いとうのえ、28歳)、甥(おい)の橘宗一(たちばなそういち、6歳)と共に甘粕憲兵大尉(あまかすまさひこ、32歳)に殺害された。享年38歳。妻野技は1895年1月12日生、享年28歳、甥橘宗一は1917年4月12日生、享年6歳。

 この日、大杉は、その妻(婚姻はしていなかったので正式には同棲)の伊藤野枝と横浜鶴見にあった弟の家から自宅へ帰る途中に東京憲兵隊本部に検束された。一緒にいた甥の橘宗一も一緒に連れ去れた。検束された大杉達は、麹町憲兵分隊に連行された。午後8時頃、取調中だった大杉に対し、部屋に入ってきた憲兵大尉《甘粕正彦がいきなり背後から大杉の喉に右腕を回し締め上げた。大杉がもがき後ろに倒れると、背中に乗りさらに締め上げ絞殺したと伝えられている。続いて伊藤野枝も絞殺され、橘宗一は部下の憲兵が殺害し、遺体は憲兵分隊内にあった古井戸に投げ込まれた。
この大杉栄の拘束・殺害が発端となって、軍部による社会主義者の徹底的な弾圧が始まる。

 「1.甘粕事件」が次のように記している。

 甘粕事件とは、大正12年9月におきた関東大震災のどさくさに紛れて無政府主義者の大杉栄、伊藤野枝、甥の橘宗一が憲兵大尉甘粕正彦に虐殺されたとされている事件で、高校の日本史の参考書にも出ています。一般的には、「甘粕が軍の行った罪を被った」と言われていますが、具体的に誰の指示で行ったかは明確ではありません。しかし、「周蔵手記」では上原勇作の命令であった事が書かれており、その裏事情も書かれています。
 10月大森の上原邸を訪れた周蔵は、大杉殺害事件について、初めて上原元帥の心中を伺った。単刀直入に「甘粕さんはどうなりますか?」と尋ねたら、元帥は、事も無げに即答した。「心配なか。まず4,5年の辛抱であろうが、ワシの眼の黒いうちに、何とでもなりもす。子供まで殺ったと新聞は非難しておるが、人の口には戸はたてられぬ。言いたか奴には言わせるしかなか。しかし、いつの世でも、軍の行うことは同じである。どんな争いでも、終結段階においては、小さい生命をも奪うのは、定石である」、「とにかく、無政府主義はこれで終焉じゃ」。この言葉で、周蔵は甘粕大尉が誰の命令に従ったのか、はっきり覚った。これは避けることの許されない上官の命令なのだ。自分もいつかは何かしなければならない、と周蔵は自覚した。(ニューリーダー 11月号より)

 周蔵手記によると、大杉野枝の二人は、無政府主義を唱えながら実は、内務大臣後藤新平の「」であったとの事です。大杉の命令で野枝は青山学院の教会に潜入し、上原元帥の愛人の兄ポンピドー牧師を探っていました。大正9年に甘粕は、密かにポンピドーと上原元帥の愛人の娘と一緒に渡仏していました。大正12年2月大杉は密航して渡仏しますが、その時も後藤新平に金をせびっています。渡仏の目的は、上原勇作ポンピドーらとの関係を探り、甘粕の秘密渡仏の足跡を探ることでした。目的を達成して帰国した大杉は、後藤にその内容を報告しました。このことにより、大杉、伊藤は大震災が無くても早晩、上原の意向で処分される立場にあったと落合氏は書いています。ここで大震災は奇貨というべく、上原は戒厳司令部に命じて、大杉らを殺害させる一方、甘粕にその犯行を被らせた。甘粕は甘粕で大杉宅を捜索して、後藤との関連をしめす証拠を見つけ、後藤の上原に対する負い目を作ったとの事です。

 後藤新平大杉栄の親密な関係は、ビギナーズ向けの「断影 大杉栄」 竹中労著にも下記の2点に関して書かれています。

1)大正5年杉山茂丸(「ドグラマグラ」の作者である夢野久作の父で政財界に隠密ルートを持ち孫文の辛亥革命を助けた怪人)の紹介で大杉栄は、後藤新平から300円を手に入れた。
2)大杉は、法華経をフランス語に翻訳するアルバイトを後藤新平から請け負っていた。

 無政府主義者と内務大臣との上記のような関係は、尋常ではないと思われますが、それに関して深く言及したものがないのは不思議です。これまで、大杉虐殺に関して軍の関与は言われてきましたが、具体的な名前は挙がっていませんでした。周蔵手記が上原勇作の関与を指摘している事は重要だと思います。戒厳令の出された9月1日だけ帝都治安の最高責任者として石光真臣がまかされた事も重要です。(9月2日からは、福田雅太郎大将が関東戒厳令官となる)これまで紹介してきたように周蔵手記では、甘粕正彦石光真臣真清兄弟は上原勇作の股肱であった事を明らかにしています。

 以上まとめますと、大杉栄殺害に陸軍が関わってきたことは確かですが、今まで言われてきたような単純な「無政府主義者に対する弾圧」ではなく、上原勇作、甘粕正彦周辺を調査していた大杉栄(後藤新平の意向)に対する上原・甘粕の私怨が絡んでいたと言う事です。

 ●事件に関する「周蔵手記」の記述

 九月末ヒ
 何ト書ケバヨヒカ 分カラヌガ
大杉榮 終ワル。甘糟サンガ 全テヲ カブラル。 自分ノ知ル限リ 無政府主義ハ 下向キニ ナリツツアル。マフ長クハ 続クマヒト 聞ヒテヰタ。アヘテ甘糟サンガ 共ニナリ ヤル必要ヲ良シトシナヒ クラヒハ自分ニモ分カル。

 新聞報道ナルモノハ 正ニ許サレン。噂話ヲ 拾ヒ集メ デッチ上ゲ 甘糟サンノ 人物ヲ ネジマゲテヰル。判官ビヒキト 新聞ガ 民衆ヲ アヲギタテ 甘糟サンヲ 完全ナル悪人ニ シタテアゲテヰル。

 (大正十ニ年)二月末ピ
 甘糟サン 懲役十年トノコト。閣下云ハルニ 長クモ 四、五年トノコトデアッタガ ト残念。恩赦デモアレバ ヨヒガ 十年ハ長ヒ。

 (大正十三年)正月
 甘糟サン 千葉ノ刑務所トノコト。相談事アリ、面會ノ方法ヲ調ブルコト。

 二月末ヒ
 甘糟サンヲ 訪ヌル。元気サフデ 大層喜バル。「時間ガアッタラ イラシャヒ」ト云ワル。有難ヒ。救ワル。話シハ「佐伯ガフランスヘ行ッタカ」ト聞カル。去年十一月頭頃 行ッタトヰフ。「知ラナヒ人間カラ 手紙ガ來ルカモ知レナヒカラ サノトキハ 持ッテヰラッシャヒ」ト云ハル。行ッタ人間ノ 様子ニヤッテ手紙ハ來ルカラ 疑問ナクバ 來ナヒトノコト。

 甘糟サンハ 悪評高キモ 然シ 無政府主義ノ連中ハ 自然壊滅ノ様ト ナッテキテヰル。大杉一人ガ ヰナクナルト スグ 壊滅状態ニナリツツアルハ 正ニ 正シカラザレバ展カレヅトヰッタトコロダ。


【甘粕のその後】
 ちなみに甘粕のその後は次の通り。大杉虐殺事件の軍法会議の進行は非常に早かった。戒厳令下の10.8日に第一回、以後、11.16日、17日、21日の4回で結審となり、12.8日に10年の禁固刑に処せられたものの、軍閥団体の助命運動によって3年で出獄、満州国へ渡り参議の地位に上り詰めていく。「甘粕正彦」が次のように記している。
 「一介の憲兵大尉であった甘粕正彦ですが、関東大震災のどさくさに紛れて無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝、甥の宗一を殺害したことで一躍有名となりました。その罪により懲役10年の刑を受けたにも関わらず、わずか3年で出所し帝国陸軍の官費による夫婦で(通常は単身赴任)2年間のフランス留学という破格の待遇を経て満州に渡りました。そこで、満州事変の仕掛け人としてかかわり、奉天に本拠をおき特務工作に携わりました。また、関東軍参謀長 板垣征四郎に極秘の委託を受けて天津から元皇帝溥儀をさらってくるなどの活動を行い、満州国に君臨する事になります。この辺は、映画「ラスト・エンペラー」で坂本龍一が演じていたため、ご存知の方も多いと思います。なぜ、一介の憲兵大尉でしかない甘粕が満州国の闇の実力者として君臨したのか、分からない部分が多かったのですが、「吉薗手記」により、周蔵氏と同じように上原勇作の配下である事が明らかとなりました。また、非常に不気味な存在であった甘粕が「吉薗手記」では、普通の人物として書かれていることも非常に興味深いポイントです。 」。

【「亀戸事件」余話1】
 「亀戸事件」で、あたら惜しい有能の士が虐殺されたが、歴史は不思議である。この系譜から後に共産党の指導者となる渡辺政之輔が生まれる。

 「お笑い日本共産党 氏の「幻の東映映画、実録・共産党」で次のように紹介されている。これを転載しておく。(れんだいこが句読点を挿入した)

●渡辺政之輔 (1899年9月7日〜1928年10月6日)

 http://www2u.biglobe.ne.jp/~NKK/images/mersmt/nyukonsya/watamasa.gif

 千葉県市川市根本にて、父広吉・母テフの間に生れる。 1919年5月6日、新人セルロイド工組合を結成。 1922年、創立直後の党に入党。 10月25日、南葛労働協会(翌年、南葛労働会に改称)を設立。 1923年6月、第一次共産党弾圧で逮捕・投獄さる。同年九月四日、「亀戸事件」発生。 1925年5月、日本労働組合評議会を結成。 1927年7月、徳田球一と共にコミンテルンの日本委員会に参加。『二七年綱領』を闘いとる。書記長となり、中央機関紙『赤旗』(せっき)を創刊。 1928年10月6日、台湾の基隆(キールン)で官憲の凶弾によって虐殺さる。 享年29。 渡辺政之輔は労働者出身幹部の典型であり、徳田球一、市川正一と共に日本共産党の三賢人の一人である。

 【参考文献】
 「革命と青春―日本共産党員の群像(山岸一章 新日本出版社)」


 この渡辺政之輔と親交していたのが丹野セツである。同じく次のように紹介されている。これを転載しておく。(同じく句読点挿入)

●丹野セツ(1902年11月3日〜1987年5月29日)

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 福島県小名浜にて、父一郎・母トシの間に生れる。 1917年10月、日立鉱山病院の看護婦となり、やがて社会主義の思想に目覚め、上京。暁民会・赤爛会、南葛労働会に参加。 1923年9月、亀戸事件で危うく虐殺を免る。渡辺政之輔と結婚。日本労働組合評議会婦人部長として活躍。 1926年12月、入党。1928年10月、逮捕・投獄。獄中10年を非転向で闘い抜く。 1946年、進駐軍組合婦人部長、診療諸活動を経て、1956年に四ツ木診療所を創立。 1970年代、宮本修正主義と対決し、党の革命的伝統を擁護。徳田・渡政会の前身たる渡政会再建。 1980年7月15日、日本共産党(行動派)再建第7回大会に参加、名誉中央委員となる。 徳田・渡政会会長、日本民主主義婦人同盟顧問、(刷新)日本母親大会相談役、亀戸事件を学ぶ会会長として活躍。 晩年は行動派の生活協同化における一大家族のなかで、輝かしい生涯にふさわしい日々をおくる。 享年84。 1987年7月12日、『7・15記念――日本共産党(行動派) 葬』挙行さる。

 【参考文献】
 「丹野セツ―革命運動に生きる(山代巴・牧瀬菊枝編 勁草書房)」


 ちなみに、渡辺政之輔の母は、「渡政(わたまさ)のおっかさん」と呼んで皆に親しまれていた、とのことである。袴田里見は、「党とともに歩んで」(新日本出版社)」の中で次のように記している。
 「わたしは、渡政のお母さんのことを考えるたびに、ゴーリキーの『母』を思い出します。そして、ソ連で勉強していたときに見た映画、ゴーリキーの『母』が目に浮かんできます」。
 
 渡政の死は、この「おっかさん」をいたく悲しませたに違いない。「おっかさん」は息子の死後、「赤色救援会(モップル)」の常任活動家として党活動に関わり、治安維持法で投獄されている人たちの救援や面会などに文字どおり奔走した」。ついでながら、島崎藤村が小説「新生」で告白した姪との近親相姦事件。その姪である島崎こま子も、この「救援会」で一時期活動したことがある、とのことである。

【「亀戸事件」余話2】
 「横浜市 井上友幸」の「新しい歴史教科書を見る」( http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai20-kyoukasho.html)を転載する。

 (5)大震災後、朝鮮人を守った警察署長(野田良朗・大田区道塚小学校教諭)

 1923年9月1日、関東大震災が起きた。この大震災のさなか「朝鮮人が暴動を起こす。」という噂が流れた。これを信じた警察や軍隊により、何の罪もない数千人の朝鮮人が殺された。こうしたなか、横浜鶴見の警察署長であった大川常吉は、暴徒に会った朝鮮人の命を救うのであった。

 横浜鶴見の警察には、救いを求めて300人の朝鮮人が来た。署長の大川は、最初、これらの人々を総持寺境内に収容したが、日本人の暴動が高まってきたため、彼らを警察署内に保護した。

 すると1000人ほどの日本人が「朝鮮人を殺せ。」と叫んで、警察署を包囲した。大川は、群衆の前に手を広げ大声で叫んだ。「朝鮮人を殺す前にまずこの大川を殺せ。朝鮮人が毒を入れた井戸水を持ってこい。諸君の前でその水を飲む、異常があれば朝鮮人を引き渡す。異常がなければ、彼らを私に預けよ。」

 そして、実際にその場で、一升の井戸水を飲み干した。これで1000人の群衆は引き上げた。その後は、朝鮮人は貨物船に収容され、その後の難を逃れている。昭和27年、在日朝鮮人の人達は、大川のお墓(鶴見区東漸寺)の横に感謝の碑を建てた。

 (私見)関東大震災のときの朝鮮人迫害は、当時の日朝関係が最悪であったことの証明でもある。大川のように、日本人を諫め、朝鮮人を守ろうとした警察がいたとことは、暗闇に明かりを見る思いである。


【コミンテルン資料】
 この頃コミンテルンに向けて、次のような報告もしている。加藤哲郎氏の「第一次共産党のモスクワ報告書・上下」から引用する(カナをひらがな転換した)。
 共産主義インターナショナル執行委員会へ 1923年11月10日

 最近開かれた共産党の大会において、日本における今日の諸条件を考慮し、我々の全エネルギーを、「民主主義」の足場獲得の前夜にある大衆に我々が到達することを可能にする、合法キャンペーンの開始に集中することを決定した[in starting a legal campaign which would enable us to reach the masses which are on the eve of gaining a foothold i n "democracy"]。

 このようなキャンペーンはだいぶ前に開始されたが、しかし最近の政府の弾圧──6月の我が同志たちの一斉検挙──はこの領域での計画を大きく妨げ、最近の震災が我々の計画をさらにいっそう困難にした。

 しかしながら、このカタストロフは、我々がそれを共産主義闘争過程での奇貨とする機会を与えた、といいうるかもしれない。この大災害の最初の大衝撃の後に、政府の労働者への攻撃性に反対する大衆の目立った反応が現れた。大衆の民主主義精神が高揚し、政府は普通選挙権に賛成することを余儀なくされている。

 この大衆の民主主義的風潮を支持して、我々は、我々の計画を更なる解放へと向かうように実行しなければならず、出版物はこの目的を遂行する手段となっている。我々は日刊新聞を発行したい。しかし我々の最大限の財政能力に関わる今日の困難を考慮すると、それを実行することはあまりにも難しい。したがって、我々が今日の諸条件に適応する[原文はto adopt ourselves to だが to adapt ourselves to the present conditionsの誤りか?]唯一の他の方策は、雑誌を我々の支配下におくことであろう。

 たぶんあなた方もご存じの『解放』は、日本における最も進歩的な雑誌である。それはすでに創刊5年となり、2万部が発行されている。『改造』も同じく5年になるが、しかしながらその発行部数はずっと多い。しかし『解放』は、その共産主義的傾向によって、広く読まれている。同志山川、堺、佐野は主要な寄稿者であったし、同志佐野は編集長をつとめた。

 『解放』は震災で大きな被害をこうむり、全経営がいまや大きな困難に陥っている。この雑誌の経営が、全日本鉱夫総連合会代表理事の麻生久氏と著名な共産主義著述家である黒田礼二氏に対してもちかけられ、この二人は我々に、経営を引き継いでもよいと示唆している。

 『解放』の再建には5万円の資金が必要だが、我々は掛け値なしで2万円の資金で始めなければならない。我々による『解放』の経営は、共産主義闘争の最善の武器を提供するであろう。

 経営権は、完全に我々のコントロール下にある先の2人のいずれかに移されて、この雑誌の全般的経営計画を完成した。4人の編集者が任命されるが、そのうち2人は我々の仲間であり、1人は編集長たる力を持っている。財政面の管理は、我々の同志によって行われる。経営の全部門に同志がいるようになろう。著名な社会主義シンパである有能な出版者が、経営のトップにすわるだろう。したがって我々は、この雑誌を合法的なかたちで共産党の完全な支配下におくことができると保証する。

 前述のように、我々はその出発に2万円を必要とする。1万円は11月末までに、残りの1万円は12月末までに入金されたい。もしも1月までに刊行するためには、1923年12月2日までにその資金を調達しなければならない。

 同志よ、どうか我々の要請を軽視しないでほしい。この計画をすべて調査し、機会があり次第我々に回答してほしい。我々は、我々と共に同志ヴォイチンスキーがこの計画に協力しており、こうした条件についてよく知っていることを、付け加えておく。もしもコミンテルンが認めるならば、彼はこの問題で我々を可能な限り援助してくれると示唆している。

 もう一度お願いする。この天の賜りものを入手する絶好の機会を見逃すことなく、しっかり検討してほしい。我々は我々の資金要求の正当性が明らかになると確信している。同志よ、どうか急いで検討してほしい。同志ヴォイチンスキーがあなたがたの調査を助け、資金と指令は彼を通じて送られるであろう。できるだけ早くお答え頂くよう望んで、共産主義者の挨拶をもって、

             日本共産党執行委員会
          B・モトヤマ(総務幹事) [自著]
          P・ノダ(国際幹事)    [自著]
          J・ヤマダ         [自著]
          A・イシダ         [自著]
          G・アライ         [自著]
 1923.11.15日付日本語手書き報告書(#23-1923)、「野田」署名、執筆者とは別の字体で「1923,15/XI、救援金についての報告(野田律太[=佐野文雄?])」の上書き
 報告書

 同志  九月一日東京、横浜及び関東地方を襲った一大カタストロフが結果した日本に於ける社会的、政治的、経済的シチュエーションの変動には大なものがあった。茲では吾々の党が直接に蒙った悲劇的損失、十月二十二日の党大会、並びにそれ以後の党の活動に就いて報告するに止める。

 地震による工場及び住宅の倒壊並びに二日に亘る大火災のために吾々は幾多の同志を失い更に狂暴なるミリタリズム及びファシスト自警団の組織された暴力によってわれわれは数十名の精英を奪はれた。最もアクチヴなメンバーであった南葛労働組合の数名の幹部は軍隊と警官の共謀の上で秘密に虐殺されたことが暴露された。そして僅かに逮捕を免かれた同志の多数も或者は退去命令によって首都を放逐され或者は厳重なる監禁の下におかれた。このやうにしてその勢力の大部分を奪はれた党の活動は一時全く停止状態に陥るの余儀なきに到り、僅かに官憲の圧迫を受けること比較的に軽い党員によってソーシャル・デモクラチックな学者、思想家を動かすことによつて官憲の高圧政策(ハイ・ハンデッド・アクション)に抗議すること、罹災労働者の救済運動に尽力することが出来たのみであった。

 けれども監禁された同志の釈放──依然として監視の下には置かれてあるが──と共にわれわれの活動は平常に復帰しつつある。従来ともすれば綱規が紊れんとする恐れがあったから ビュウロウでは党員の整理、大淘汰をなさんとの意図があったが此度の大震災、大混乱期を以って正に絶好の機会であるとして党員を一々厳正なる篩にかけて大淘汰を断行した。かくて十月二十二日現在の党員数は左の如しである。
 東京及び横浜地方        一二七名 [七二を線で抹消]
 地方               七二名 [四二を線で抹消] 在監者   三六名           
  海外               二三名
 合計            二五八名 [一六二を線で抹消]

 このやうにしてわれわれの勢力は数に於て約半減したのである。併しながら残されたる党員は何れも粒選りの精英で、過般の悲劇が吾々の上に齎らしたる損失を恢復するに十分なる意志と情熱とを保持してゐる者である。そしてこの打撃そのものから吾々は更に新なる甦生の力を汲み取ることを知ってゐる。われわれには望多き幾多の有力なキャンディデートを有する。失はれたる勢力は一歩一歩その中から補充されるだらう。そして現に補充されつつある。

 大  会
 十月二十二日、厳重なる戒厳令下の東京の郊外に於いて党の大会が召集された。 六月の共産党事件以後の党の活動並びに震災及びクーデターと整理による党勢力の変化に関するGSの報告の後、大会は運動方針並びに党オルガニゼーションに関して討議し、次の諸項に就いて決定した。

 (一) 当面の運動方針

 九月一日の自然の齎らした悲惨事の結果せる一般的社会的状勢の変化により並びに六月事件が吾党の戦術の上に結果した諸々の教訓及び経験により当面の運動の方針に重要なる諸修正を加ふる必要があった。大会はアクション・プログラムに関し同志荒井[山川均?]の手になるThesesの大体を通過しその細部的完修を新たに選出さるる執行員に委任した。茲には極めて概略的に右の決議の主旨を報告する。
 ・ 組合にオルガナイズされた労働者が無産階級中の極めて小数の部分を占めてゐるに過ぎぬ現在日本の状態の下ではわれわれの任務は労働組合と協力して之等の労働大衆をオルガナイズすることを以って最も重要なる当面の急務としなければならぬ。従って組合の政策及び運動方法の上にも右の方針に適応した改訂を加へることは組合内に於ける共産主義者の任務である。
 ・ 工業労働者が人口の小数部分を占めてゐるに過ぎぬ現在の状態の下にあっては無産階級の階級闘争は中間階級の下層分子の向背によって大なる影響を受ける。従ってわれわれの運動は之等の中間階級下層分子を支配階級の反動主義の影響から引放して無産階級の影響の下に置き、もしくは少くとも両勢力に対して中立化せしむることによって反動勢力を殺ぐことは当面の急務である。
 ・ 故に当面のわれわれ党の運動は一般大衆の理解を得る範囲内において適切に其利害を代表し彼等の前に直接に社会主義を説き共産主義社会組織の建設を説く前に、先ず眼前の具体的な要求によって彼等の利害が実際にブルジョアジーと両立せずして革命的無産階級と一致してゐることを自覚せしめ彼等が直接の利害を感ずる当面の問題に就いて積極的の行動を取り彼等をして之に参加するに到らしねることに従来より以上のインポータンスを置かねばならぬ。
 ・ 政治的「デモクラシー」は吾々に決定的勝利をもたらす主要手段ではないこと勿論だが、或程度の政治的自由は無産階級の階級的成熟のための不可避的条件である。資本主義が変則的に発達しブルジョア・デモクラシーが殆んど発達を遂げてをらぬ日本の現状では 政治的自由の要求は無産階級の当面の要求の一たるべきである。故にわれわれは封建的遺制と闘ひ政治的自由を獲得する一切の運動に重要な任務を有する。
 ・ 無産階級中の小数的分子は絶えず一般大衆によって支持され、又一般大衆に向って訴へねばならぬ。しかしそのためには公然の運動でなければ不可能である。故にわれわれの党の運動を大衆的運動に進展せしめるため一般大衆の目前に彼等の拠るべき所を示す公然の運動をオルガナイズすることに特別のインポータンスをおかなければならぬ。

 右の一般的方針に基きわれわれの当面の任務は、
 ・ 政治運動においては、  無産階級の利益を代表し都市及び農村に於ける凡ゆる無産階級並びに准無産階級分子を包擁して独立せる一個の政治的勢力たらしむる政党組織の促進。
 ・ 組合運動においては、
 (a) 組織されざる労働大衆を組合に包含することに第一のインポータンスをおくこと。組合を如何に導くかの問題は右の事業の成功に伴ふて初めて意義を生ずる。
 (b) 既成組合の間に産業別合同及び全国的結合の機運の促進。共産主義対無政府主義、合同主義対自由連合主義の原則上の争ひの打切り。合同の不可能な場合にはその前提として連合の促進。
 (c) 組合の自足主義及びサンチカリズムの傾向を理論上からよりもむしろ主として実際上から打破すること。
 (d) 組合内に於ける政治的教育。労働者の利害を代表する政府の必要を自覚せしむること。
 (e) 従って当分の中日本に於ける赤色労働組合運動は 右の如き当面の事業を担任するリーガルな大衆運動たるべきものである。

 ・ 農村運動においては、 (a) 小作人組合の促進とその組織の改善。 (b) 小作人組合の地方的及び全国的組織の促進。 (c) 地方自治機関の獲得のための努力。 (d) 農村無産者の当面の利害を支持して農村ブルジョアとの間に政治的分裂を促す事。 (e) 農村中間階級下層分子の当面の利害を支持してブルジョアから引離す事。

 ・ 婦人運動においては、 (a) 労働婦人に関しては、・組合の必要を自覚せしむるための極めて初歩的な教育運動、・既成労働組合をして婦人労働者の組織により以上の注意を向けしめること、・職業婦人の組合組織の促進。 (b) 一般無産婦人に関しては無産階級の経済的要求と封建主義に対する政治的、法律的、社会的、教養的のあらゆる進歩的要求を以って無産婦人大衆と中間階級下層婦人とを社会的活動に参加せしむることに努力すること。

 ・ 青年運動においては、
 (a) 労働青年に関しては、・組合のための啓蒙的教育運動、・組合のために新組合を徴募する別働的機関となり、・組合と組合とが組合の公式の機関により交渉を保つ前に青年運動としての連絡接触を保つことにより組合間の連鎖を一層緊密にし かくして組合愛国主義の発生を防止し、組合の合同乃至連合の機運を促進すること、・[原文・]組合外の一般無産青年運動との連絡により組合運動と組合外の無産者運動との連絡を緊密ならしむること。

 (b) 一般青年運動は、・都会にあっては現在の状態では学生を主体とし封建的遺物と反動主義とに反対する一切の進歩的自由主義的分子を包含する青年大衆の運動、・地方にあっては都会の学生の場合に照応した運動から出発し、小作人社会運動の援護、監督官庁と旧来の自治機関とに対し小学教育の地位の擁護、教員組合の促進、・如何なる場合も青年大衆の理解する要求を掲げ 青年大衆を対象とした公然の運動の組織。

(二) 組織 党の組織に関しては、大会は次の諸項に就き改正を行った。
・ ビューローの廃止  六月事件以来の非常的ビューローを廃止し大会代議員の選出する六名を以って執行委員会を組織し内三名を常任委員とし、常任の中から一名を総幹事、一名を国際幹事、一名を財務幹事に互選する。尚ほ総幹事の任命により一名のセクレタリーを置く。

・ 細胞  党員勢力の変化に応じ細胞を再編制する。従来は変則的にビューローによって指令されて来た細胞代表者は 細胞内のメンバーによって選挙される。尚ほ各細胞に新たに一名宛の副代表を選出する。

・ セクション  従来の諸セクション中、その活動をデ・ファクトに停止し居るもの又は現在の運動方針及び形勢より見てその特別の設置の必要なきものを全廃し、運動の必要に応じて並びに運動の存続する期間に於てのみ、その都度セクションを設置する。

(三) 機関紙  従来の機関紙『階級戦』を廃止し、大会によって決議された新運動方針を象徴する党の機関を創立する。  尚ほ外に共産主義者養成のため共産主義の理論を教ふる一月刊雑誌を創立する。  [以下、大きな×印で削除?──『前衛同盟』及び『青年国際共産党』の存続又は廃止、又は代置等の点に就いては執行委員会の決定に委任する。]

(四)政党組織準備委員会 大会で決議された新運動方針に基きリーガルな労働者及び農民党を組織するために政党組織準備委員会を党内に設置しその組織のための準備に当たらしめる。

(五)執行委員の選出   大会で選挙の結果 左記六名が執行委員に当選した。同志荒井[山川?]は予め病気の故を以って執行委員に選出されることを辞任した結果 一票も投ぜられなかつた。    
 本山 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「ヨヘナ」] 、野田 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「山口GM(佐野文雄)」]     山田 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「赤松」] 、大井 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「北原」] 、田[モスクワで後に上書きされたと思われる注記「立田」] 、朝日 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「浅沼」] 互選の結果は本山、野田、山田が常任となり、同じく本山が総幹事、野田が国際幹事、山田が財務幹事に就任した。

(六) 執行委員会の活動 大会で選出された新執行委員会は左の諸項を決定実施した。 ・ 細胞の再編制。 ・ セクションの整理。 ・ 党員資格審査委員会を設置し、新党員の採用、党員の紀律に関する審査を行はしめることにした。 ・ 政党組織準備委員会の任命。即ち党内から十六名を委員として任命した。 ・ 党機関委員会の任命。

 大会に於て決議された(三)機関紙の事項を考究調査せしむるため委員を二通り任命した。 ・ 執行委員会は各方面に亘り各実行委員を任命して震災による諸種の事件を調査実行せしめた。(イ)亀井戸に於ける共産主義者虐殺事件に関しては自由法曹団(吾々がコントロールする急進弁護士団体)と共に事実を調査して東京及び大阪に於ける労働組合の連合をして軍閥並びに官憲にプロテストさせた。(ロ)朝鮮人虐殺事件に就ても特別委員を任命して事実を調査せしめ且つ本問題に対するプロテストの団体をオルガナイズさせた。(ハ)震災当時に於ける共産主義者及び社会主義者に対する官憲の迫害、不法監禁等の具体的事実は之をパンフレットにして官憲及び軍憲のアンチ・ソシアリスト・プロパガンダを打破するつもりで既に着手してゐる。(ニ)罹災労働者救済のため「罹災者救済思想団」なる一団を組織し救済資金及び物品を募集し十月二十四日、十一月四日の二回に渉って最も窮迫せる労働者に救済品を寄贈した。この団体をして尚ほ将来も引続き活動させる筈である。

    一九二三・十一・十五日      野田 P. Noda [自署 佐野文雄?]




(私論.私見)