戦前日共史その2、第一次共産党事件 |
あらまっ、サイトが飛んでいる。仕方ないまた作るか。困った。インターネットは本と違って、手違いで消えることがあるから怖い。天を仰いでふぅっと嘆息しております。 2004.12.1日 れんだいこ拝 |
大正12年初め頃、野坂入党。
【6月事件(第一次共産党一斉検挙事件)】 |
1923(大正12).5.10日、早稲田大学で白川義則陸軍次官を迎えて軍事研究団の発会式を行ない、学生の軍事教練の必要を提唱し始めたことに対し、これに反対する左派系教授・学生と学内で衝突が起き流血の事態となった。反対運動の先頭に立った講師・佐野学は、当局の捜索があるものと判断して、研究室に保管していた共産党関係の書類を、顧問をしていた関係から鉱夫総連合の組合員・渋谷杢次郎(坂口義治の弟)に預けたが、渋谷は警察のスパイであった、と云われている。党中央は事態を察知し、事前に佐野、高津、近藤、荒畑の4名をソ連に亡命させた。 佐野はコミンテルン代議員として活躍する。 |
警視庁官房主事・正力松太郎が全警察網の総元締めとしてこれを指揮している。
この検挙により、初めて共産党の存在が世間に知られ、政府はこれを「第2の大逆事件」と宣伝、結局29名が起訴され、治安警察法違反で公判に付され、1925(大正14)年8月20日に第1審判決が行われた。翌年4月28日に第2審判決が、また同年8月4日大審院が被告人らの上告を棄却して山川と田代常二を除く全員の有罪が確定した。
【第一次共産党壊滅】 |
創立されたばかりの共産党はほとんど壊滅状態に陥いり、党員の意気阻喪も甚だしかった。当局のスパイ及び挑発政策を正視すべきであったが、スパイ・挑発に対する戦いの重要性が認識されることなく推移していくことになる。他面、「6月事件」によって、大衆は初めて党の存在を知り、革命的人民大衆の拠点としての党を求めて後続していくことになった。 |
「6月事件」のその後、検挙を免れていた党員・北原龍雄、河合義虎らが留守委員会を構成し、党の灯を護った。
(私論.私見)