戦前日共史その10、袴田執行部時代 |
(最新見直し2006.5.22日)
これより前は、「戦前日共史(九)「小畑中央委員査問リンチ致死事件」
投稿 | 題名 |
24 | 袴田執行部「党中央」の動きについて |
25 | 袴田執行部による『経歴書提出、党員の再審査』問題について |
26 | 袴田執行部による『全協解体策動』問題について |
27 | 袴田執行部と多数派との抗争について |
28 | 袴田逮捕、関係者の公判の様子について |
題名/ 袴田執行部のスパイ摘発闘争呼号について | ||
こうして我々は「査問事件」における小畑死亡を見てきた。宮顕の逮捕も見てきた。驚くことに、この後査問は中止されるどころか
一層拍車をかけて進められたという史実がある。つまり、小畑の死亡は「不幸な事件」であったのではなく、党内労働者派もしくは残存する戦闘的活動家駆逐の狼煙となったということが分かる。
第10幕目のワンショット。既述したように12.24日の赤旗号外は、 「革命的憤怒に依って大衆的に断罪せよ」なる題下で、断固としたスパイ摘発の推進を指令していた。これを指導したのが袴田であり、実行したのが木島ラインであった。 1934.1.10付けの赤旗は、 萩野がスパイ容疑で党から除名されたことを告げ、 国際共産党日本支部日本共産党中央委員会の署名付きで、次のような激越字句を以てさらなる党内スパイ摘発の続行を煽っている。
これ以降の赤旗は、こうした論調で全協批判と追及が全紙面の半分を埋めていった。 |
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この紙面から汲み取る教訓は、「決起せよ!」、「追撃し、清掃するために闘え!」、「戦慄せしめよ!」などと仰々しくも「戦闘的ポーズ」が云われても、言葉に踊らされてはならないということであろう。もう一つの教訓は、敵方内通派の特徴として、外向きは穏和路線を志向し、内向きには強面(こわもて)路線を敷くのを得意とするということである。この点はいわばいつの時代にも表れる特徴として認識し得るように思われる。 もう一つの教訓は、この直ぐ後に野坂論文に触れるが、長文饒舌を得意として煙巻き話法を得意とするということもある。簡潔に要点を指示するのではなく、玉虫色に右から左の見解を散りばめ、読む者をして判断をしにくくし、結局「党中央の云うことはその通り」式に指導するという特徴もあるように思われる。 |
題名/ 野坂のコミンテルンからの指示による袴田執行部支援について | ||
1.17日付けの赤旗は、モスクワ在住の岡野こと野坂参三の長大な「スパイ摘発支援論文」を掲載している。次のように系統的な摘発闘争の必要性を教示している。
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今日野坂の胡散臭さは既に醜悪さが暴露され、白日の下に晒されているが、この時点ではコミンテルン指導部の権威を持つ最高指示者であった。この時の野坂の「スパイ摘発支援論文」は、「胡散臭い者は胡散臭い指導を常とする」好例であろう。ちなみに、この論文は、大泉が警察に駆け込んだのが1.15日、小畑の死体発見が大々的に報道されたのが1.16日、その翌日の掲載文ということになる。付言すれば、この野坂論文が、奇妙にほどにスパイ摘発に狂奔する宮顕路線と軌を一にしていることも知られるであろう。つまり、戦前も戦後も野坂―宮顕間には奥深いところで連携があったことが証左される。 |
題名/ 袴田執行部のその後の「スパイ」摘発について | |||||||||||
現物を手にしていないので受け売りになるが、加周義也氏の「リンチ事件の研究」では、同じく1.17日付けの赤旗は、東京市委員会書記局の名で「中央委員会による片野・古川断罪への革命的挨拶」と題する33.12.27日付けの小文を載せているとある。その中の文句は次のように記されている。
1.24日付けの赤旗は、「激」文を掲載し、スパイに対する処分基準を決定している。簡略要約すると、スパイは党外に放逐され、大衆的断罪に附せられるべきである。追随者、不平分子、無責任者は除名ないし資格停止、譴責に附せられるであろう云々。 こうして前年末の荻野査問未遂事件、翌34年(昭和9年)大沢武男査問事件(1.12〜2.17日)、波多然査問事件(1.17〜 2.17日)などが引き起こされることになった。これらの事件解明の意義は、当時の党内査問の続発の様子が知られることと査問時のテロの様子が判明することにある。査問時のテロの様子の判明は、自ずと小畑リンチ致死の疑いを濃くするという関係にある。 「大沢テロ事件」発生。大沢氏は党中央財政部員であり、生前の財政部長・小畑から絶対の信服を受けていた有能党員であった。その大沢が査問されることになる。査問は1.12日より木島と富士谷真之介を中心として行なわれた。5日余り拷問にかけ厳しく査問したが、自白が得られなかった。根気負けした木島は、「俺たちは党の上部からの命令でやっているのだ。お前がスパイであることを自白したことにしなければ困る。君もその辺は理解して欲しい。上部にはお前が吐いたので顔に焼け火箸でスパイと書いて釈放したことにするから、そのつもりで謝罪文だけ書け」と云って、謝罪文を書かせて2.17日朝、釈放した。この時、冨士谷は財政部員大沢が持っていた現金300円を奪っている。 「波多然テロ事件」発生。波多氏は、党東京市委員会江東地区委員であり、反帝同盟組織部長・久保健二の推薦で、その地位に就いていた。系列的には小畑派の有能党員であった。その久保が小畑派であったことから「推薦者が裏切り者なら、被推薦者も裏切り者である」との論法で、査問が決定されている。査問は木島と加藤亮、金季錫を中心として行なわれた。この頃波多が「小畑は殺られたんだろうか」と疑心を吐露していたのが原因となったとも云われている。 大沢・波多事件の場合いずれも激しい暴力が行使されている。袴田は次のように証言している。
この査問が如何にいい加減なものであったかにつき、袴田は次のように証言している。
ところで、ここでも加藤亮の暗躍が知れるが、この人物に対する詮議も為されねばならない気がする。どなたか教えていただけたら有難い。 この後「全協」責任者小高保の査問が計画されていたが、その途中で木島が逮捕されたので中止のやむなきにいたった。全協フラク責任者の小高については、「査問は中止されたもののスパイ嫌疑濃厚だったので除名しました」(袴田第3回公判調書)とある。こうなると滅茶苦茶であるがこれが史実である。 ここで、木島は「査問事件」に関わる貴重な陳述を している。
つまり、木島は、「小畑・大泉の査問事件」を手本として大沢と波多然の査問をやった、その際「小畑の場合、あれ程のテロをやり、小畑を殺してしまった」やり方を真似たと言っていることになる。この文節から逆に、「(小畑が)あれ程のテロにより、殺されてしまった」ことが知れるであろう。 ちなみに、党の査問テロの凄まじさについて当事者であった波多然は次の様に証言している。手記「リンチ共産党事件について」(経済往来昭和51年5月号)でリンチの様子を次のように明らかにしている。
「宮地氏HP」では、宮内勇著『1930年代日本共産党私史』(三一書房、P.183)に次のように書かれていますとして以下紹介している。
波多然自身「火花」という雑誌の昭和42年8月15日号に、当時を回想して次のようにのべている。
「宮地氏HP」は更に続けて次のように述べている。
なお、当時の内務省警保局がまとめた「社会運動の状況(1934年度)」によれば、次のように記されている。
冷静に分析されているのか、揶揄されているのか、勝利の凱歌であるのかまでは分からないが、この記述自体は正確であろうと思われる。してみれば、「小畑・大泉の査問事件」は、こういう党史的背景において捉えられねばならないということになる。栗原幸夫氏は著書「戦前日本共産党の一帰結」の中で次のように指摘している。
栗原氏の指摘は史実を的確に踏まえた提言であると云えよう。 |
題名/ 木島の離反について | |
なお、この査問前後の頃からと思われるが、木島と袴田との折り合いが悪くなっているようである。袴田は次のように証言している。
つまり、これら一連の経過を見たとき、党内査問の黒幕に宮顕が位置し、袴田を矢表てに立て、木島を特攻隊隊長として利用していた様が見えてくる。既述したが、宮顕が中央委員に登場して以来「査問事件」が党内に発生してきており、「査問事件」以前以降に宮顕ラインの影が見えており、党内の戦闘的活動家に照準を合わして遂行された気配があるということも又見えてくる。なお、党内査問についてはもう一つのラインも見えているが本筋から外れるので割愛する。 こうして、この時代、「党地下組織内の『極度の疑心暗鬼の横行』」(宮内勇「ある時代の手記・1930年代日本共産党私史」)となり、党内は大混乱に陥った。 |
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次のショット。袴田の動きは意図的か結果的にかは別にして至る所変調にしてアヤシイ。袴田は次のように証言している。
党内の清掃事業としての査問事件と並行して彼が手がけたのは、「党員の再審査及び党員の細胞への再編成」(袴田15回調書)であった。袴田は次のように証言している。
党員の再審査、再登録とは、全党員に可及的急速に経歴書を再提出せしめるということであり、当時の情勢からしてこれが官憲に奪取される危険を思えば無神経極まりない提議であったことになる。袴田が「私の提案に基づき」と言いなしてはいるが、「党内査問の強化」とこの「経歴書提出」が宮顕の指示であったことは既述した通りである。 ところで、この「経歴書提出」は、当時の状況からしてあまりにも無謀な方針であったにも関わらず強権的に発動され、袴田執行部に対する信任の踏み絵的に取り扱われたようでもある。これを裏付ける次の様な袴田陳述がなされている。
これが本人陳述の史実であることをしっかり銘記せねばならない。 つまり、袴田執行部は、一方で公然とスパイ清掃事業と称する「踏み絵運動」を遂行しつつ、他方で特高直通の機密漏洩になりかねない背信行為に血眼になっていたということになる。 とはいえ、当時の党員がこれに無条件に従った訳ではない。小畑.大泉系の全会フラクは全員これに反対していた。これにどう対処しようとしていたか当時の貴重な記録がある。宮内勇・氏の「ある時代の手記・1930年代日本共産党私史」は次のように記している。
こうして、「経歴書提出」はさすがに党内の抵抗があってうまく運ばなかったようである。後日押収を考えると危険極まりないこととされ、会議の席上逸見・ 袴田・秋笹3名立ち会いの上焼却廃棄処分として粉塵に帰した模様である。この間機密が漏洩されていた可能性は充分考えられる。 神山茂夫は獄中手記の中で、賢くも次のように述べている。
神山についても胡散臭いところが多々あるが、「小畑リンチ致死事件」に付きまとう胡散臭さの指摘と経歴書提出問題の項に関する限り的を得ているように思われる。 |
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次のショット。1月上旬頃、袴田執行部と「全農」(又は「全会」とも表記する) との会合が持たれ、「査問事件」の経過について説明の会合が持たれた模様である。「全農」は小畑・大泉系の農民運動組織であったから無関心ではおれなかったということであろう。袴田と秋笹・逸見の3名は、党のフラクションであった「全農」の責任者宮内勇と日本消費者組合連盟の元書記長であった山本秋と会見している。この二人は、その場では納得したようであったが、後日分派的動きを始めることになる。つまり、実際には納得しなかったというのが実際であろう。 袴田がここでも貴重な証言をしている。
会談の結果、宮内・山本らが納得せず、大いに不満を覚え党中央と袂を分かつことになった、連絡線として唯一逸見のラインだけを残したと読みとれる。 ちなみに、山本秋(1904〜89年)については次のように紹介されている一文があったので参考に引用しておく。協同社会研究会・樋口篤三「労働運動と生協運動の再生と発展」を参照する。
宮顕論の本筋からは外れるが、この年2月末、伊藤律が共青中央事務局長になっている。同時に正式に入党している。この伊藤律の入党は、宮顕による実質的な党中央解体以降の党運動上白眉な出来事であり、俊才としての予想通り宮顕−袴田系に簒奪された党中央の動きとは別個に党の再建に向かっていくことになる。がしかし、その動きも又当局に筒抜けであり、否応無く尾崎・ゾルゲ事件に巻き込まれていくことになる。その汚点を宮顕−袴田系が伊藤律落としに徹底利用していくことになる。この流れは別章で考察する予定である。 戻る |
【野呂栄太郎(1900〜1934)獄中死】 |
2.19日、昨年11月に逮捕されていた党中央委員長・野呂栄太郎(1900〜1934)が拷問による病状悪化で死亡(亨年33歳)。同氏は、当時の日本の資本主義分析に貢を為しており当代一流の経済学者であったが、1930年ころ入党、弾圧で破壊された党の再建に尽力した。 |
題名/袴田執行部による「全協解体策動問題」について |
次のショット。2月頃宮顕のもう一つの指示であった「全協」解体が策動されている。この背景には、党中央と「全協」中央との激しい対立があった。2.17日赤旗は、「全協内における挑発者の存在を大胆に確認し、彼らに対する断固たる公然の闘争を開始せよ」と呼びかけている。 3.8日、赤旗は、「全協フラク責任者オッチャン事小高保は全協内の挑発者の元凶で、小畑・大泉の告白によれば、全協関係一切の報告、公文書等を秘密警察に渡しているスパイ」だとして除名広告を出した。「全協と東京市部協議会とが対立しておりましたので、党中央部としては東京市部協議会を中心として全協を再建し関東地方協議会を結成し、更にこれを全国協議会に迄発展せしめんとする方針を決定したのです」(袴田3回公判調書)とあり、東京市委員会川内唯彦、 江東地区委員古川らにこれを命じたという。 ことここに至って袴田ら党中央は、前述の如く第二全協をでっちあげ「再建」に乗りだそうとしたということである。当時の状況として全協が大衆団体としての最後の闘う砦であった。この全協に党中央が指揮して第二組合をつくろうとしたということであり、労働組合に対する党の介入というレベルを越した完全なる分裂策動であったことになる。 小畑がこの「全協」出身であったことは既に見てきた通りである。ちなみに、ここで云われている小高保は、小畑が中央委員引き受けに当たって懇願して呼び寄せた信頼厚き同士であった。これに対して「全協」側は、「労新」で、党の方こそ「全協」分裂を策す挑発者だと反論している。以降互いを挑発者呼ばわりするキャンペーン合戦が続けられた。 この袴田党中央の動きと連動して、他方で、この間「全協」に対する当局の弾圧が苛酷さを増して、1月から4月までの間に専門部員がほぼ全滅、5月には小高委員長を始め残りの中央委員が検挙されて、壊滅状態となった。内から外から「全協」つぶしがなされたことが歴然であろう。 次のショット。木島(昭和9.2.17日)、逸見(同2.27日)、秋笹(4.2日)が検挙された。 戻る |
題名/袴田執行部と多数派との抗争について | |||
次のショット。秋笹が検挙される前後の頃、「宮内勇・山本秋らが中心となっていわゆる『日本共産党中央奪還全国代表者会議準備会』なるものを結成して、党中央部に対立し分派活動に出ている」(袴田16回調書)。 山本勝之助、有田満穂共著「日本共産主義運動史」には、次のように記されている。
3.20日、「最近における一連のテロルに関連し『党中央委員会』の指導に対する我々の態度に付き声明す」と題する印刷物を作成し、各方面に発送している。「党員諸君、全同志諸君」に訴える形式で、次のように声明している。
5.1日、「テロルの事実と『中央委員会』の正体をバクロし、進んで、党再建の組織的見透しにつき提唱す」を再発送している。当時の党員の多くがこれを支持し、5.20日に「日本共産党中央奪還全国代表者会議準備会」が結成され、5.25日に発表されている。同準備会の連絡指導機関紙として「多数派」第一号を発刊し、全国各地の同志に呼びかけた。日本無産者消費組合連盟の党フラクション・山本秋、党江東地区細胞会議、党関西地方委員会(平葦信行、沢田平八郎)らが取りまとめ役となっていた。 檄文は数次にわたって発行され、次第に組織化され始めることとなった。党員再登録問題、大泉逃亡問題、大会開催問題等について、党中央の指導上の責任と党の体質である「セクト的極左主義」、「官僚主義」を「党発展の最大の障害物」として批判し、全国大会開催によって党中央をスパイ袴田里見から奪還し、「党の性格転換」を遂げるべきであると訴えていた。機関紙「多数派(ボリシェヴィキ)」を創刊し、いわゆる多数派分派の結成に突き進んだ。 この動きは、機関紙名から通称「多数派」と呼ばれている。ちなみに「多数派」と命名した根拠は、「たった一人の中央委員会に対し、我々は圧倒的に党内多数派を形成しておる事実」(宮内勇「ある時代の手記・1930年代日本共産党私史」)に基づいていた。この伝に拠れば、当時の党員のその多くが、宮顕-袴田ラインによる党中央簒奪に非難の声を挙げており、にも関わらず形式的手続きながら党中央に進出した袴田がその権威を利用して、下部党員と敵対していたという構図になる。但し、批判派も宮顕-袴田ラインの強固な絆、実質的な黒幕としての宮顕の采配までは的確に認識できず、その限りで弱点を持っていたということになろう。 多数派の呼びかけに呼応し、党関西地方委員会が結成され、その後も茨城、仙台、青森等の全農全会派、東大の学生細胞等に支持者が生まれた。 これを袴田から見れば次のようになる。4月以降の袴田執行部時代は、この新たに形成されつつあった潮流との戦いが専らとなり、次のように証言している。
「党の鉄の規律蹂躙」、「挑発的分派的行動」、「党の機密事項を党外大衆に暴露」という非難を浴びせて封殺に血眼になり、「私の態度が正しいものであると信じて疑わない」(袴田17回調書)というのが袴田の癖でもあった。 6.20日、赤旗は、一.全農全会中央フラクション全部を党籍より除名す、二.消費組合フラク責任者本名**を党籍より除名す、三.江東地区深川居住3名に関する江東地区委員の除名を確認す、と発表している。 |
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もはや、 ほとんど吐き気がするが、宮顕−袴田ラインはこうして残存していた党内の戦闘的活動家と団体に対して、次から次と内から仮借無き闘争をしかけていたということになる。宮顕−袴田ラインの党内的な内向きの戦いにのみえらく戦闘的になるという戦前戦後の一貫した特徴の現れがここでも見て取れるであろう。 私には、この時の「日本共産党中央奪還全国代表者会議準備会」の主張には数々の評価点が認められるように思われる。宮顕を黒幕とする視点はなかったが、その系譜にして宮顕逮捕後の党中央を取り仕切る袴田こそ、「最後に残った大物スパイ」とみなしていた視点が貴重であるように思われる。仮に「党中央奪還派」とするが、的確にも 「(査問事件とは、)大泉・小畑の査問当時から党中央部に巣くっていた挑発者一味が組織せるテロであるに違いない」(袴田17回調書)、「党中央部はプロパガートルによって占領せられ、それが為に不祥なる査問事件を惹起し、現在その中央委員として残留せる袴田もスパイである」(袴田18回調書)と指摘し、袴田党中央の要請する党員資格の再登録拒否と党のセクト性の改善を要求していたようである。 |
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この「党中央奪還派」の主張が次第に支持を増していき、この時期「通称多数派(以下、単に多数派と記す)」となった模様である。全農全会、日消連、江東地区、関協フラク、関西地方委、中国地方オルグなどの機関が呼応したようである。袴田は次のように証言している。
つまり、「党中央奪還派」の方が次第に支持の環を拡げて行き、遂には 「多数派」になりつつあったということである。この当時の残存活動家の多くが 「党中央奪還派」の主張の方を支持していたという事実が饒舌家袴田自身の口から明かされていることになる。多数派は、「故に、我々多数派は現在党に中央部が存在するもこれを信頼することが出来ない」、概略「もし、仮に健全なる中央部が存在するとすれば、次の5項目に付き政治的回答を与えよ。…その2番目は『査問真相』の発表である云々」(袴田17回調書)と袴田執行部を詰問していくこととなった。 ここは特に注意を要するところである。多数派の主張は、「小畑被リンチ死事件」を廻って、宮顕−袴田ラインが党内スパイを摘発したのではなく、党内スパイラ インによって小畑がテロられたのではないかとみなしていることが判る。そしてこの見方が支持を広げって言ったが故に次第に多数派になっていったということになる。このような声明は約4回にわたって発表されたということである。 |
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この経過は極めて重要な史実であるように思われるが、今日の宮顕系執行部は党史上この流れを一切抹殺しており、従って本稿の記述はかなり出色な部分として受け止めて欲しいところである。この部分は、戦後直後の党を指導した徳球時代にも解明されておらず、従って戦後党運動はこの流れを用心深く伏せたまま経過していることが知られねばならない。 1955年の「六全協」で宮顕王朝が確立されて以来今日まで、「小畑査問致死事件」を廻って、小畑はスパイであったと「勝てば官軍」論理を聞かされているが、この当時においてさえ党員の多くがそういう弁明を認めず、労働者畑出身のエース小畑が「袴田−木島の党内スパイラインによってテロられた」と認識していたということになる。 但し、多数派も見誤っていたことがあるように思われる。宮顕がいち早く逮捕されていたことにより、袴田−木島ラインの頭目に位置していた宮顕そのものを疑う視点を持ち得なかったという限界を持っていた。真実は既に何度も解明してきているように、黒幕宮顕の踊り子として袴田−木島ラインが突撃していたというのが実相ではなかったか。残念ながら、この後党は壊滅させられ、この時の史実を受け継ぐ者が誰もいなくなってしまって今日に至っている。 |
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こうしてこの時期の共産党内は、お互いが挑発者呼ばわりすることとなった。袴田は次のような妙な陳述をしている。
つまり、それを言うなら宮顕に言え、私だけを挑発者呼ばわりしないでくれと言っていることになるが、検討に値する。 袴田はこうも言う。
つまり、たとえ「意見が全く正当なりとすれども」、規約を守って手順を踏んで欲しいということのようである。
つまり、そういう手順を踏まずに ビラを撒いた行為がいけない、そうした行為は「党の権威・中央の信頼を傷つけるものである」というのである。どこかで耳にたこができるほど今も聞かされているセリフの様な気がするではないか。 この間、 3月に日本プロレタリア文化連盟(コップ)の大弾圧・検挙が為され、中野重治をはじめ、窪川鶴次郎、村山知義、壷井繁治、中条百合子、山田清三郎ら多くのプロ文学者が逮捕された。赤旗4.23日号は、杉浦啓一、田中清玄、佐野博、風間丈吉、岩尾家定、川崎堅雄、田井為七、児玉静子の除名を発表している。後は際限が無いので取りやめている。 |
題名/野坂の引き続いてのコミンテルンからの指示による袴田執行部支援について | |||
次のショット。この時期この多数派の動きを止めようとするかの如くに、昭和9年7月頃、コミンテルンにいた野坂より、党の分裂状態に対する折衷案として、いかにも野坂らしいコメントが送られてきている。袴田が次のように証言している。
野坂は、日本のブル新の報道により材料を得たのであるがと前書きした上で、「かような事が分派的闘争であるならば誤りである。党に分派は許されぬ」(袴田3回公判調書)という立場から、コミンテルンの権威をもって「党中央奪還多数派」の動きの封殺に乗り出していることが知れる。 |
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今日、この時点で既に野坂がスパイであったことが明らかになっている。ということは、このような一見和睦的なのらくら仲裁案こそが、そうしたスパイ野坂にとって好ましい解決の仕方であったことが知れることになる。それにしても野坂は、肝心かなめな時に限って出張ってきて、阿漕(あこぎ)な役割を果たしていることが分かる。 | |||
それはともかく、袴田は次のように証言している。
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心しておかねばならない。このように最初は中立を装いながら介入し、時間を稼ぎながら反対派封殺を画策し、相手の動きを止めたところで 除名処分他の極統制的な動きでとどめを刺しにくるということだ。事実、野坂コメントは多数派と袴田系党中央を相打ちにさせ、この時期の党活動を却って壊滅に導いていく役割を果たした。 | |||
後日談であるが、戦後の党運動再建に当たって、社会運動通信社を主催していた宮内は、この時の黒白の決着をつけるべく、「意見書」を当時の党本部であった自立会に持ち込んだようである。が、返事が為されずのままうやむやにされたとのことである。意見書の内容は、次のようなものであった。
増山太助氏は、著書「戦後期左翼人士群像」の中で次のように述べている。
話を戻して、多数派の命運は次のようになった。「昭和9年9月頃多数派に下った弾圧と共に多数派も全くその勢力を失墜し、その本体を関西地方に移すに至ったのであります」(袴田18回調書)とあるように、多数派による党中央奪還運動が全国的な広がりをみせつつ、宮内らが近く全国代表者会議を招集し、党中央部を旗揚げせんとしていた矢先の10.2日に山本が、10.3日に宮内が検挙された。続いて仙台、神奈川、青森、秋田、茨城等の組織も弾圧を受け殆ど壊滅させられることになった。こうして「党中央奪還多数派」もまた内から外から弾圧され、解体を余儀された。 全協弾圧の動きもこれにほぼ連動している。昭和8年の9、10、11月にかけて全協中央常任委員の山口近治、平井羊三、千葉成夫、古閑健介、吉成一郎らが次から次へと検挙された。その為後再建目指して活動してきたのが小畑−小高保ラインであったが、リンチ事件で小畑が消され、小高も翌昭和10年3.8日除名公告が赤旗に掲載され、5月末検挙されている。これを契機に全協は一挙に崩壊していくことになった。 その後の袴田は、妻と若い女性同士の3人で、世田谷区代田の借家で「赤貧洗うが如き」生活を送りながら、赤旗の発行配布を党活動の生命線として細々と維持していくことになった。このことは袴田の寂寥を物語るが、関東の党員がほぼ壊滅されてしまったことと、離反していたことを証左している。 この一連の経過に対して、しまねきよし氏は次のように述べている(「日本共産党論序論-その一」1976・9「情況」9月号の「日本共産党批判」)。
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題名/多数派、全協のその後について | ||
話を戻して、多数派の命運は次のようになった。多数派による党中央奪還運動が全国的な広がりをみせつつ、宮内らが近く全国代表者会議を招集し、党中央部を旗揚げせんとしていた矢先の10.2日に山本が、10.3日に宮内が検挙された。続いて仙台、神奈川、青森、秋田、茨城等の組織も弾圧を受け殆ど壊滅させられることになった。こうして「党中央奪還多数派」もまた内から外から弾圧され、解体を余儀された。 袴田が次のように証言している。
全協弾圧の動きもこれにほぼ連動している。昭和8年の9、10、11月にかけて全協中央常任委員の山口近治、平井羊三、千葉成夫、古閑健介、吉成一郎らが次から次へと検挙された。その為後再建目指して活動してきたのが小畑−小高保ラインであったが、リンチ事件で小畑が消され、小高も翌昭和10年3.8日除名公告が赤旗に掲載され、5月末検挙されている。これを契機に全協は一挙に崩壊していくことになった。 その後の袴田は、妻と若い女性同士の3人で、世田谷区代田の借家で「赤貧洗うが如き」生活を送りながら、赤旗の発行配布を党活動の生命線として細々と維持していくことになった。このことは袴田の寂寥を物語るが、関東の党員がほぼ壊滅されてしまったことと、離反していたことを証左している。 この一連の経過に対して、しまねきよし氏は次のように述べている(「日本共産党論序論-その一」1976・9「情況」9月号の「日本共産党批判」)。
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題名/ 袴田逮捕時の様子について | ||||
ここで、袴田の経歴を見ておくことにする。1904(明治5)年青森県上北郡の農家の次男として生まれ、高等小学校卒業後上京、次第に労働運動に取り組んでいくことになった。1924(大正13)年20歳のとき、当時非合法の共産党の指導者であった渡辺政之輔に認められ、東京合同労組のオルグになった。1925(大正14)年21歳のとき、渡辺の推薦でモスクワのクートベ(東京勤労者大学)に送られ、1928(昭和3)年24歳のときまで滞在、その間1927(昭和2)年23歳の時にソ連共産党に入党。日本共産党には帰国後に転籍入党となる。
驚くことに、袴田は拷問の憂き目に遭っていない。このことを次のように証言している。
袴田は、逮捕後二週間ほど、中野署の婦人用保護室で送り、その後一般用の留置場に入っているようである。婦人用保護室の意味するところは、そこだけは畳敷きであり、板敷きの豚箱とは、ドヤ街のベッドハウスと高級ホテルほどの違いがあるということである。「経験」のあるものには、切実な差異として理解できる違いである。こうした袴田の優遇されブリは何を語って居るのだろうか。
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ここまで見て判ることは、何と袴田の動きが特高の意向通りに誘導されていたかと言うことである。詳細は別途の機会に譲るが、戦前の袴田の党活動の経過とは、共青、全農をつぶして、党中央をつぶして、全協、ナップをつぶして、多数派をつぶして後入獄していくこ
とになった。 してみれば袴田が検挙後拷問に会わなかった不自然さは不思議でも何でもなく、特高からの感謝状勲一等に値していたということになろう。こうして考えると、袴田の予審調書と公判調書での饒舌は、事件の真相を隠蔽し、袴田の語るが如き「宮顕−袴田的正義」のプロパガンダを党内に浸透させんがために、袴田と特高のあうんの呼吸で合作されたものではないのかという構図が見えてくることになる。手の込んだ罠と言える。 ただし、袴田という人物をそういうセンテンスでばかり読みとることもないようにも思われる。期せずしてか袴田の陳述が「査問事件」ばかりか当時の党の動きを克明に語った第一級の歴史的文書となっているという点で重要な功績を果たしている。宮顕流の予審調書一つ取らせなかった式の対応ではこうした意義が生まれないことを考え合わせると、袴田がいればこそ今日私式のアプローチが可能となったということから見ても、袴田という人物の奇態な面白さがレリーフされてくることになる。 ある意味で袴田を最大限善意に評価した場合、意図しての結果かどうかは別にして権力側の謀略に身を委ねることにより、そうした権力側のシナリオを後世に残すため党が放った逆諜報者と言えるかもしれない。それが証拠に宮顕の懐の中に入り込むことにより、時々の宮顕の生態を適宜に伝えている節がある。歴史の摩訶不思議なところと言えよう。 |
題名/ 袴田の獄中闘争の様子について | ||||
なお、袴田逮捕よりほぼ20日後、一通りの取調べが終わっていよいよ査問事件に対する袴田流饒舌が開陳されていくことになったこの時期の3.25日、熊沢光子が市ヶ谷刑務所の独房で、手記を残して首吊り自殺している。既に、小畑死亡後の監禁中にも大泉との抱き合わせの偽装心中が画策されていたことは見てきたところである。この度は単独自殺でとうとうその数奇な生を終えた。熊沢は、「党中央委員間の査問及び小畑致死事件」の貴重な生き証人であった。特に小畑急死時に、「騒ぎに驚いて押入れの中から飛び出し、その現場を目撃」している点で、事件の解明のためには欠かせない人物である。貴重なその彼女の訊問調書は今日なお明らかにされていない。当然のことながら自殺であったのか、強要された自殺であったのか、他殺であったのかの真偽も不明である。私は胡散臭いと見ている。
まわりくどい言い方で、袴田の予審調書での饒舌事情を縷縷説明している。しかし、史実は違う。昭和10.7.9日付け深川平野警察署で特高の片岡刑事補に陳述した「袴田第10回聴取書」を見れば、「述べられません」を随時織り交ぜて、「認める点認めて詳細に陳述し、応えたくない点は明快に答弁を否定し、反論すべきは強硬に反論している」(松本明重「日共リンチ殺人事件」185P)様子をはっきり残している。「スパイ挑発との闘争と私の態度」での袴田の弁明は、恐らく宮顕に指示されソツのない論理でまぶしているが、事情を知る者には徒労でしかない。
この言い回しから我々は逆に次のことを理解することができる。転向者つまり逸見・秋笹・木島らは、「小畑のスパイ容疑の根拠が薄弱だった」、「宮本や袴田には殺意が有ったかもしれぬ」と述べていたということを知ることができる。
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つまり、袴田は、この秘密を守る事により宮顕との一蓮托生となっていたこと、このことが党内における袴田の然るべき地位を確保させていたことを語っていることになる。ところが恐らく、この盟約の重みを知らなかった宮顕秘書軍団と不破らはあさはかにも袴田を用捨てにした。袴田は除名される憂き目に遭うや、それまでの宮顕を罪科から救うという観点をかなぐり捨て、事件の積極的陳述と弁明闘争を仕掛けていった。上述の下りは、豹変した袴田の真骨頂を見せている陳述箇所である。この袴田声明を真実と受け止めるか、虚偽と見なすか見解が分かれようが、これまでれんだいこが解析してきたようにズバリこれは本当のことであると受け取るのが相当であろう。 |
題名/ 3.15事件、4.16事件組の公判と被告のその後について |
この頃、3.15事件、4.16事件の各被告の第二審公判が始まっている。このたびは、佐野・鍋山らの転向派と徳球・市川・国領・志賀らの非転向派とに分かれて裁判が開始された。10.17日、判決が下され、徳球は禁固10年、未決通算40日を宣告された。徳球・市川・国領は網走刑務所、志賀は函館刑務所へ服役させられている。徳球らは、運動時間などの少しの機会を捉えて身振り手振りで交信しあっていたことが伝えられている。 |
題名/ リンチ事件組の公判と被告のその後について | ||||
ところで、「査問事件」は党の信用あるいはまた、その権威を失墜させんがために大々的に喧伝されたこともあって、被告人たちのその後の動きも注目されることになった。すでに用済みとして闇に葬るわけにもいかなかったのであろう、延長戦として法廷の場での審判もまた世間に晒さねばならないこととなった。この経過を調査した資料が手元にないので伝聞調でお伝えさせていただくことにする(現在、宮本顕治著「公判記録」を入手したので、新たに第8章を設け検討している)。
なお、逸見氏につき次のようにも語られている。
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お読み頂いた方には改めて御礼申し上げます。字句の訂正個所等々目に付いておりますが、いずれ訂正したいと思います。このドラマ構成の責任は当然私にありますが、見てきたような嘘と言われても困る面もあります。もし内容において記述間違いが指摘されれば検討にはやぶさかでありません。
ということがあったと伝えている。このような二人の対立が延々と「50年問題について」まで続いていったというのがもう一つの党史でもあったのではないでしょうか。 |
これより後は、「戦前日共史(11)獄中共産党時代」
(私論.私見)