生涯の概略履歴

 (最新見直し2005.11.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 福本和夫は、日本左派運動史上、幸徳秋水、大杉栄に続く功績者であるように思われる。この観点に立たない日本左派運動論が種々叙述されているけれども、役に立たない。れんだいこは、福本イズムは日本左派運動が生んだ白眉と考えているので、この観点からの日本左派運動史をここで綴ってみたい。これまでいろんな角度からそれなりに書き込んでいるが、福本の生涯履歴と合わせた左派運動史を書き上げてみたい。

 毛沢東の弁に「マルキシズムの勉強は、日本のほうが早かった」というのがある。この弁の真意はつまり、中共のマルクス主義運動は、日本マルクス主義の理論から学んでいた時期があるということでもある。れんだいこが思うに、福本イズムもすぐさま輸入していたのではなかろうか。あぁ歴史とはまことに不思議な廻り合わせをさせるものか。

 そのマルクス主義運動は日中で対照的な結果を見せていくことになる。中国は少なくとも建国革命に勝利した。それによりそれまでの植民地的後進国から脱皮し、はるけき今日までの礎を築いている。他方、我が日本は完膚なきまでに敗北し、たまさか戦後冷戦構造の谷間で戦後民主主義を与えられたものの、その僥倖を生かしきれず、今日では頭は戦前並の治安維持法的統制社会へ、胴体は世界金融資本の植民地へと誘われつつある。

 それやこれやを思うとき、福本和夫を知ることはとても有意義と思う次第である。

 2004.12.17日 れんだいこ拝


只今書きなぐり状態でこれから毎日書き換えられます。

 1894年、福本和夫が鳥取県に生まれる。倉吉中学卒。一高英法科卒。東大法学部卒。

 この時代の主要な出来事を見ると次の通りである。

 1910年、大逆事件で幸徳秋水が処刑される。(アナ・ボル両派のイニシアチブ争い参照)。1917(大正6)年、ロシア10月革命が勃発している。1918(大正7)年、米騒動が勃発している。1919(大正8).3.2日―6日、コミンテルンの結成大会が開催されている。(日本共産党の創立前までの流れ参照)。

 1920(大正9)年、福本が東京大学政治学科卒業。松江高等学校教授を経て、1922年、文部省派遣留学生となりで英独仏に留学。フランスでは、カルチェ・ラタン(フランス中世からのソルボンヌ大学を中心とする学生区)の下宿の一室を借り、研究に打ち込む。

 海外留学中にマルクスの原典を学びマルクス主義の研究に取り組み、「社会の構成並に変革の過程」、「経済学批判の方法論」、「党組織論の研究の」三草稿を纏める。

 この時代の主要な出来事を見ると次の通りである(党創立考(創立時の動き)参照)。19227.15日、第一次共産党が結成されている。8月、第一次共産党の指導者の一人であった山川が、「前衛」誌上に「無産階級運動の方向転換」を発表する。1923(大正12).6.5日、第一次日共が弾圧される(第一次共産党事件参照)。これにより創立されたばかりの共産党はほとんど壊滅状態に陥った。9.1日、関東大震災が発生し、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕憲兵大尉に殺害された(「関東大震災事件(大杉栄事件)」参照)。

 当局の苛酷な弾圧政策と関東大震災の混乱に乗じた大虐殺に動揺し、第一次解党運動が発生する(「第一次日共解党される」参照)」)。1924(大正13).3月、第一次共産党が正式に解党され、1年8ヶ月の短命を終えた。以降1926年の再建までほぼ2年間、日本共産党は存在しなくなる。再建されたのは、1926(大正15).12.4日、山形県五色温泉での党再建大会であり、この間2年半経過している。この間「ビューロー時代」となる。


 党は徳球らを通して、解党決議をコミンテルンに報告。だが、コミンテルンは「とんでもないことだ」と怒り、解党決議を受けつけずに直ちに党の再建を指令した。徳田球一、渡辺政之輔、市川正一らが中心となって再建運動に向う。


 他方、解党派の山川派は「無産階級運動の方向転換」を掲げ、合法的無産政党運動を目指し、体制転覆的革命的闘争よりも労働者の日常的経済闘争を支援する党運動へ向っていき、労農派マルクス主義の流れを生み出す。5月、山川派は、雑誌「マルクス主義」(主筆・山川、志賀、西雅雄、林房雄らが編集手伝い)を創刊する。

 こういう局面の中の1924.8月末、福本はマルセイユから帰路の旅に立ち、各地に停泊しながら帰国する。船中、宇野弘蔵夫妻と同船する。ここから日本左派運動が急展開する(「福本イズムの席捲、第二次共産党再建される」参照))。帰国後の福本は、文部省派遣留学生であったため帰国後一定期間を教授義務を負っていた。京都大学大学院を希望したが受け入れられず、山口高商教授としてに勤務する。 
 福本は、「マルクス主義」12月号に最初の論文「経済学批判のうちにおける資本論の範囲を論ず」を発表し左翼論壇にデビューした。翌1925.1(2)月号に「河上博士の経験批判論(マッハ主義)を批判す」を発表。以来、後に福本イズムと呼ばれる見地からのマルクス主義理論、革命の戦略、戦術、組織論を毎号論文を発表し続ける。1926年には一世を風靡し、初期三部作、「社会の構成並びに変革の過程」、「無産階級の方向転換」、「経済学批判の方法論」を刊行した。帰国した福本は、非合法組織のコンミュニスト・グループと連結しつつも、暫くは雑誌マルクス主義の寄稿家としてとどまり、すぐに実践活動には飛び込まなかった。
 福本は、「山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず」論文を発表するや熱狂的に支持された。山川派の合法主義運動に対し、これを組合主義・折衷主義、日向ぼっこ論として批判排撃し、非合法をも辞さぬ前衛党としての共産党活動の意義を説き、共産党再建を主張した。原典に基づく理論闘争を開始し分離結合論を唱えた。この両面で学生らに支持され、福本の名を高め、のちに「福本イズム」と呼ばれるようになる。
 こうしてこの頃、福本和夫による精力的なマルクス主義理論活動が展開されていった。「それは主にドイツのカール・コルシュやジョルジュ・ルカーチらの影響ないし息吹を日本に輸入した」(栗木安延「福本和夫のドイツ留学と日本マルクス主義」)とあるが、福本の以降2年余の精力的活動は日本左派運動史上稀有なるマルクス主義の創造的な時代で有り得ていたように思われる。
 林房雄の「文学的回想−狂信時代」に次のように記されている。「読んでみて、私はびっくりした。引用されている文は、私などは一度も読んだことの無い重大な章句ばかりだ。堺利彦も山川均も猪俣津南雄も佐野学も佐野文夫も青野季吉も、引用してくれたことはない。日本のマルクス主義者がいかに無学であったかを、いやでも思い知らせる新鮮な内容を持っている。−少なくとも学生理論家の私には、そう思われた。完全に圧倒された形で、私は無条件で発表するように西雅雄に薦めた。福本和夫の論文は、それから毎月続けて発表された。そして次第にセンセーションを巻き起こした。最初は研究論文だと思っていたら、3回目当たりから政治論文であることがわかった。引用文ばかりでありながら、それがそのまま山川均をはじめとする古い指導者に対しての痛烈きわまる批判になっている」。
 1925(大正14).1月、コミンテルン極東ビューロー(上海)は、党の再建を強力に推進すべきことをうたった「上海テーゼ」を作成し、この命を徳球、渡政が日本に持ち帰った。徳田球一が書記長に就任(組織部長兼務)、指導権を確立する。
 4.22日、田中義一(軍閥)内閣が、治安維持法を制定して反体制運動の徹底的に弾圧に乗りだす。12.1日、京大学連事件が発生し、全国の学生38名が検挙された。治安維持法違反の初適用であった。
 1926(大正15).2月、「社会の構成並に変革の過程」を処女出版。次いで「唯物史観と中間派史観」を発表4月、「無産階級の方向転換論」。6月、「経済学批判の方法論」を出版。福本は、日本共産主義運動の理論的指導者の地歩を固めていく。この福本イズムの創造により、共産党再建活動が担われていくことになった。
 3月末、山口高商辞職。上京。菊富士ホテルに下宿。4−5月頃、コミュニスト・グループに正式に加盟。すぐにビューローの一員として働くことになり、組織的活動に入る。福本が佐野文夫、渡辺政之輔と3名で党再建活動を指導する。佐野文夫が委員長。渡辺が組織と財政。
 1926(大正15).12.4日、五色温泉で日本共産党再建大会が開かれ、第二次共産党が誕生する。委員長・佐野文夫、政治部長・福本、組織部長・渡辺。福本は、第二次共産党の中央政治部長となり、本格的に実践運動に身を投ずる。

 この過程を指導した福本イズムは、22年テーゼを次のように転換させていた。1、日本資本主義急速没落論を否定し、上向論。2、22年テーゼの漸次式二段階革命論を急速転化二段階革命論へと深化。3、山川イズム的合法主義運動を批判し、前衛的組織論の下でのボルシェヴィズム運動論を指針。

 山川イズムで解党した共産党は「福本イズム」で再建された。通説運動史においては福本のこの面での功績がないがしろにされているが、強調してもし過ぎる事は無い。ところが、通説運動史は次のように評している。概要「これはそのセクト主義、最後通諜主義で純化された理論で、組織論では山川の対極に位置する内容をもっていた。こうして日本共産党はその出発の数年間において、組織方針の右翼路線をとって自ら解党し、次いで、その対極の極左路線をとって、極度のセクト主義で再結集するというジグザグを描くのである。「解党主義に対する勝利の反動として福本和夫の『左』翼教条主義が支配することになった」。


 この時、山川派はこの動きと決別しており、ここに日本左派運動マルクス主義派に二潮流が生み出されたことになる。
 この頃、第一次共産党事件で検挙された幹部が刑期を終えて次々と出獄してきた。「佐野学、市川正一、徳田球一らの諸君に、それぞれ個別に佐文、福本、渡政の3人が会見して、決定内容を文書で示し、十分に時間をかけて討議した」(福本和夫「革命回想第一部非合法時代の思い出」)。

 徳田君は積極的に賛意を表明したが、ただ委員長でないのがすこぶる不満らしく渡政君との間に醜いもつれを演じたので、佐文君が委員長を引いて、彼に譲ることになった。(福本和夫「革命回想第一部非合法時代の思い出」)。
 1927(昭和2).2月、モスクワ行きの代表委員として徳球、佐文、渡辺、福本、中尾、河合の6名が選ばれ、それぞれモスクワに向った。福本は、徳田とウラジオスクで落ち合い、列車で共にモスクワに句かう。「ウラジオからモスクワまで、汽車は11日かかった。汽車で11日ぶっつけの旅は、私にはこれが初めての経験だったが、幸いに、私は少しも退屈しなかった」。

 モスクワに来着。福本は、ブハーリンと会見。片山潜の訪問を受け種々話す。「私の部屋には、特に二度もこっそり一人で、わざわざ訪ねてこられて、親しく色々と打ちとけたお話も聞いたが、そのうちで、スターリンについて、『スターリンは無学だからね、困ったもんだ』と、長嘆息されて、吐かれた言葉が、今も猶私の耳に残っている。恐らく一生忘れないであろう」。一行は連れ立って赤の広場とレーニン廟を詣でている。

 コミンテルンの第一回小委員会が開かれ、日本の革命闘争の進め方について議論が始まった。席上、山川イズムと福本イズムが槍玉に挙げられ、激烈な批判の場となった。福本イズムで党を再建した指導部は臆したか、福本イズムを擁護する者無く、福本も次第に口を重くしていった。コミンテルンのヤンソン、コミンテルン議長・ブハーリン、高橋が福本イズムの絶対君主制論、急速転化の二段革命論、セクト主義の誤りを指弾し、「同志黒木(福本)の分離結合論は非常な誤りであって、速やかに克服されなければならない」と断罪した。

 福本イズムがコミンテルンに批判され、渡航した指導部がこぞって同調したことにより、福本は党中央の舞台から去ることになった。こうして、 共産党は路線転換を行い、渡政が実権を握ることになった。こうして、コミンテルン事大主義下の日共運動は自ら福本イズムを排斥して行くことになったが、福本主義の2年余の活動は日本左派運動史上の金の卵であり、その卵を自ら潰したことになる。日本左派運動はこの時より「理論軽視」の負の歴史がついて廻ることになる。

 7.15日、半年にわたる熱烈な議論の末、モスクワでコミンテルン第7回施行委員会総会が開かれ、徳田球一、片山潜、渡辺政之輔らが代表として出席し、マーフィー→ブハーリンを主査とする委員会作製の「日本問題に関する決議」、いわゆる「27年テーゼ(ブハーリン・テーゼ)」が採択される。

 この「テーゼ」は、日本を半封建社会と位置づけ、「天皇制と結びついた封建社会残存物を一掃する民主主義革命からはじめなければならない」とし、「共産党を前衛として指導の中心に立てるとともに、統一戦線戦術によって、労働組合および大衆政党を内部から占領していかねばならない。かくしてブルジョア民主主義革命から適時、社会主義革命へと転化していくことが必要である」と、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命へ急速転化という「二段階革命戦略」を明示した。

 同年秋、「27年テーゼ」が日本に持ち込まれ、党幹部全員一致で意思統一した。

 その後、マルクス主義的日本左派運動は、労農派、共産党中央、福本イズムの対立を見せつつ独自に発展していくことになった。革命戦略論において、労農派は、日本はすでに不完全ながらブルジョアジ−に権力が渡った資本主義国である」として、社会主義革命を主張。共産党は、日本は天皇制絶対主義」との見方からブルジョア民主主義革命−社会主義革命の2段階革命論を主張した。この論争は理論的には明治維新をどう位置づけるかという点に集中し「日本資本主義論争」と呼ばれた。

 1927(昭和2)年、堺利彦や荒畑寒村らと雑誌「労農」を創刊して共同戦線党論を展開。

 「3.15事件」、「4.16事件」で第二次共産党が壊滅される(第二次日共と大弾圧考参照)。

 1928(昭和3).3.15日、田中義一(軍閥)内閣が、治安維持法に基いて日本共産党に対する大弾圧を行った(「3.15事件」)。多くの幹部が逮捕されたが、渡辺政之輔、鍋山貞親、福本和夫らが逮捕を免れた。

 福本は、 6.28日、モスクワ帰りの袴田里美の連絡により大阪野田駅で待ち合わせしていたところを、検挙される。この時、袴田は既に検挙されており、袴田の自供による検挙が推定される。それにしても、人目に付きやすい「大阪野田駅での待ち合わせ」も疑わしい。福本は以来、14年間の獄中生活をおくる。その後の党運動に就いては、「不屈の再建史考」以下に記す。

 1929.3.15事件、1929.4.16事件の両弾圧で、第二次共産党の指導幹部が根こそぎ検挙され、同年10.25日、295人が起訴された。

 1931年、31年テーゼが発表され、獄中に届けられた。31年テーゼは、直接的にプロレタリア革命志向し、ブルジョア民主主義革命はその進行中に達成されるとしていた。獄中の市川、徳球、鍋山、志賀、高橋らが同調したが、福本は賛辞せず。
 1932(昭和7).5月、「32年テーゼ」が発表された。この「32年テーゼ」が、昭和26年の「51年綱領」までの日本共産党の指導テーゼとなる。しかし、「31年テーゼ草案」と「32年テーゼ」の差し替えが獄中内外の党員を動揺させた。これが転向への伏線となっていく。31年テーゼ草案と32年テーゼの相違に就いては、戦前党綱領及びテーゼの変遷考(「27年T」、「31年T」、「32年T」考)で概述する。
 1932(昭和7).6.25日、この日から3.15と4.16事件の被告の統一公判が始められた。裁判長は宮城実判事、立会い検事は平田勲、戸沢重雄、主任弁護人・布施辰治であった。

 この時裁判長は、それぞれの罪状が関連しあっていたことから、被告達が法廷委員会を設け互いの陳述を練り合わせすることを許可している。こうして市川、佐野、鍋山、杉浦、国領、徳田、志賀、高橋貞樹、中尾勝男の9名が委員に選ばれ、協議することになった。裁判史上前例が無く被告を甘やかすという批判もあったが、宮城裁判長はそのように指揮した。こうして法廷委員に選出された被告が代わる代わる代表陳述していった。新聞はこの裁判の進行状況を報道し、法廷にも多数の傍聴人が詰め掛け耳を澄ました。希望者が多すぎて傍聴件が発行され前夜から列ができるほどであった。トップは佐野が務め、徳田の陳述は型破りで人気があったと伝えられている。


 しかし、31年テーゼ草案から32年テーゼへの転換が、獄中党員を大きく動揺させた。獄中党員は、まず、27年テーゼの時にはそれを是とし、明らかに異質な31年テーゼ草案が出されるとそれを是とし、それを否定する32年テーゼが出されると又それを是とするという曲芸を強いられることになったからである。
 1932.7.5日、3.15事件獄中被告28名、獄外被告68名が求刑された。三田村死刑、佐野学.鍋山.市川の3名は無期懲役、間庭10年。3年10月検挙組の国領15年、高橋貞樹15年、相馬一郎.砂間一良12年。福本和夫.河田賢治.杉浦啓一.中尾勝男.志賀義雄.徳田球一.松尾直義.唐沢清八.片山峰登らは10年。赤旗は「求刑年数1023年、外に死刑1名、無期3名」。
 1932(昭和7).10.30日、3.15、4.16事件統一公判組への判決が下された。3.15事件被告に十年懲役、4.16事件被告に無期懲役。3.15事件被告の未決通算は400日しか算定せず、実質16年懲役となった。

 佐野学、三田村四郎、鍋山貞親、市川正一の4名が無期懲役、高橋貞樹、国領伍一郎の2名が懲役15年、砂間一郎、徳田球一、志賀義雄、中尾勝男、相馬一郎、福本和夫、唐沢清八以下150名が懲役12年から6年までの実刑となった。
 1933(昭和8).6.9日、佐野学、鍋山貞親が「転向声明」発表。世界の革命運動史上にもまれな転向運動が発生する。当時の司法省の発表によれば一ヶ月のうちに未決囚の30%、既決囚の36%もの共産党員が転向を上申した。3年後には治安維持法の被逮捕者の74%もの人が転向した。
 1936(昭和11)年、日独伊防共協定。
 1936(昭和11)年、流刑の地釧路獄中下で、「日本ルネッサンス史論」を着想。
 1937(昭和12)年、労農派マルクス主義の中心人物・山川が年に人民戦線事件で投獄される。
 1937(昭和12)年、中国本土に対する侵略戦争開始。
 1940(昭和15).2.11日、紀元2600年祝賀による恩赦令で、1年10ヶ月減刑される。
 1941(昭和16).12.8日、太平洋戦争開始。
 1942(昭和17)年、福本が出獄。その後は執筆活動に専念する。代表的著作『日本ルネッサンス史論』などがある。
 1945(昭和20).8.15日、敗戦。
 1945.10.10日、獄中共産党員が出獄する。徳田球一は獄中18年から帰ってきた。
 11月、日本社会党は結成された。結成のヘゲモニーは右翼社民が握り、西尾末広、水谷長三郎、平野力三らが指導権をとっていた。労農派を含む左派は少数派として結党に参加した。

 結党大会では、賀川豊彦が国体の護持を訴え、浅沼稲次郎が閉会で“天皇陛下万才”三唱の音頭をとった。結党時の社会党はそういう党であり、そういう状況を反映する党であった。共産党がアメリカ占領軍を「解放軍」と規定したことは、その後の左翼運動で物笑いのタネになったが、社会党は権力の規定とも縁のない存在なのであったから、誤ることもなかったわけである。社会党は共産党を笑えないのである。しかし、共産党が徳田以下、GHQの前で「解放軍万才!」を叫び、社会党の方が結党大会の閉会で「天皇陛下万才!」を叫んだという歴史のエピソードはいまでこそ笑いながら語れるが、当時の労働者、人民にとっては生死をかけた闘争にかかわることであったのである。こういう指導部のもとでは日本の労働者、人民は救われないのも当然であろう。

 結党のとき社会党は「政治上は民主主義、経済上は社会主義、外交上は平和主義」という法三章にもならぬ御都合主義の語呂合せを「綱領」にして、敗戦後の革命的激動のなかに船出するのであるが、結党のいきさつをみると「綱領が党をつくる」という党建設論の対極にたったきわめてブルジョア的結集であったことをわれわれは忘れてはなるまい。

 12.1日―3日、日本共産党第4回大会開催。徳田球一らによって東京で初めて合法的に大会が開かれた。徳田球一は政治報告を行い、書記長(党首)に選出された。こうして党は再組織された。
 1946.2.24日―3.6日、日本共産党第5回大会開催。「コミンテルンと延安」の立場だとして野坂参三がもちこんだ平和革命論が一時的に採択された。徳田らはそれを尊重し、実践と行動の中で克服する方向を取った。書記長は徳田球一。
 戦後、1946年、山川均はいちはやく人民戦線の結成を主張したが、社会党右派と共産党の対立が激化し成功しなかった。1947年、向坂逸郎が平和革命論を提起。社会党が左右に分裂。
 1946年、「獄中14年」記す。
 1947.2.1日、二・一ゼネスト。
 4月、選挙では社会党を第一党におしあげた。右派指導部は組閣工作に入り、自由党、民主党、国民協同党のブルジョア三党を連立の対象とした。連立三条件は極左・極右に反対する、重要機密はもらさない、社会不安を招く行動に反対する、という内容でこれはブルジョア政党からの要求を社会党が呑んだのである。さらに自由党は連立したいなら社会党左派を切り捨てろと右派に迫ったが、左派の党員を入閣させないことで妥協が成立した。左派は連立を認め、鈴木茂三郎、加藤勘十の二人の左派指導部は共産党との絶縁を声明して、片山政府は中道連立政府として成立するのである。

 片山のあとを継いだのは芦田であるが、この芦田政府も片山政府と同じブルジョア中道路線の政府で、芦田政府の任務は資本主義の再建のため、外資導入や賃金抑止をすすめるところにあった。GHQは労働攻勢の主力をなしていた官公労労働者のスト権を奪うことによって労働攻勢を抑圧しようと意図して、芦田政府に政令二〇一号の公布を命じたのである。これを担当したのは社会党左派で芦田内閣に参加した加藤勘十労相であった。GHQ内のキレン労働課長はニューディラーとして政令二〇一号に反対して抗議の辞職をしたが、加藤労相は一言の反対すら表明することなくこの政令を公布し、官公労のスト権は剥奪された。

 日本資本主義はようやく拡大再生産過程に入り政策転換したGHQの抑止力で労働攻勢を押えてもらった日本ブルジョアジーは敗戦処理から生産再建の過程で自信をとりもどし政治的には中道路線をお払い箱にしてブルジョア政権の“純化”をはかろうと中道政府を倒すことを決定した。そのために疑獄事件のワナが仕掛けられ、いとも簡単に芦田政府は崩壊し、社会党は致命的打撃をうけた。書記長・西尾が逮捕れた社会党はまさに存亡の危機に直面した。

 1947.12.21日―23日、日本共産党第6回大会開催。野坂の平和革命論が敗北し、徳田球一の革命的綱領が勝利した。アメリカ帝国主義と日本占領軍に対する対決へと明確な路線を策定した。連合軍はアメリカの単独占領へと転化していた。
 1949年、「日本近世の文化革命」出版。「日本ルネッサンス史論」の要約。
 1950.1.6日、コミンフォルムの野坂批判により「50年問題」が発生。コミンフォルム(ヨーロッパ共産党情報局)機関紙が「野坂理論」はマルクス主義とは縁もゆかりもないと出し抜けに批判。党中央を与る徳球−伊藤律系執行部の面目が潰れ、反主流派の志賀義雄、宮本顕治らが責任追及を開始する。党内は、主流所感派と反主流国際派に真っ二つに分かれ、以降5年間凄惨な対立を見せていくことになる。
 1950年、福本が再び党活動に加わる。スターリン主義、徳球主義克服の為の理論闘争、続いて野坂−宮顕路線を廻る闘いに入る。
 1951.10.16―17日、日本共産党第5回全国協議会開催、「51年綱領」採択。徳田球一の指導のもと、革命的綱領が採択された。全党の統一も実現、国際共産主義運動も高く評価、ついに宮顕、志賀ラインはほぼ壊滅、いっせいに解散を声明、宮顕や志賀は徳田球一のもとに自己批判書を提出した。こうして党内分裂は一度は解決した。
 1951年、東大教授大内兵衛、九大教授向坂逸郎らと共に山川派が社会主義協会を結成、代表に就任した。左派の理論的主柱として左派綱領を生み出す。1958年、死去(享年78歳)。女性運動家・評論家の山川菊栄は妻。
 1952年、福本が「革命は楽しからずや」刊行。「回顧録霧笛篇」

 1953.10.14日、徳田球一は毛沢東の手厚い保護を受けたが、ついに療養中の中華人民共和国・北京にて死去。


 1954.6月、「日本の山林地主」。1955.6月、「新・旧山林大地主の実態」。
 1955.7.27日―29日、日本共産党第6回全国協議会開催。徳球が死亡するや宮顕・志賀ラインは党中央の指導権を奪い取ってしまった。プロレタリア幹部は「六全協」に反対して闘ったが、その多くは指導機関から排除されてしまった。
 1957.10月、雑誌「農民懇話会」発刊。
 1958.3.23日、山川が死去も。77歳
 1958.6.9日、「マルクス主義公論」発刊。
 1958.7.21日―8.1日、日本共産党第7回大会開催。大武議長は最後の闘いとして指導機関の推薦をうけることなく大会代議員に立候補し当選、第7回大会に出席した。大会議長団に「50年問題」に関する文書を提出、宮本・志賀ラインこそ分派であり、彼らは完全に右翼日和見主義であると非難、大会がこの問題を討議するよう求めた。彼らはこの文書を排除、そのまま50年問題委員会の名によって送り返してきた。
 1958年、福本が一方的に除名処分を受ける。
 1959.10月、「日本農業における資本家的経営発展の略図」を発表し、「日本農村の階級区分」を論ず。
 1960年前後に「構造改革論」が輸入されると社会主義協会はこれに反対し、あくまで平和革命を主張した。
 1962年、福本が「革命運動裸像−非合法時代の思い出」刊行。
 1967年、「日本ルネッサンス史論ー日本ルネッサンスの総合・比較研究・総論編」刊行。
 1969年、福本が「自主性・人間性の回復を目指して45年」刊行。「日本ルネッサンス史論続篇15章」。
 1972年、「日本ルネッサンス史論から見た幸田露伴」刊行。
 1975年、「老子・孫子と太史公」。
 1976年、福本が「革命回想 上中下3巻」刊行。
 1983年没。享年89歳。
 著書は、「日本ルネッサンス史論」のほか「フクロウ」、「捕鯨」、「浮世絵」など幅広い研究にとり組んだ異色の革命家。革命運動における自主性、人間性喪失の病原を求め、著述活動に向う。

 2004年、「革命運動裸像−非合法時代の思い出」(こぶし書房)、「革命は楽しからずや−回顧録」(こぶし書房)が発刊された。

 革命運動裸像−非合法時代の思い出」の紹介文は「批判的革命的精神の喪失、権威追随・無思考―スターリン主義の害毒におかされた中毒症患者たちの裸像=生体の病源を、福本和夫が外科的・内科的に診断し解剖する」。「革命は楽しからずや−回顧録」の紹介文は、「戦前の治安維持法下に、五カ所の刑務所をたらい回しにされ十四年間の独房生活をおくった著者は、しかし獄寒の釧路刑務所の窮境にあっても、あらゆる愚昧にたちむかい、密かに理知的な笑いを笑うことができた。思わず微笑みをさそう、ユーモア溢れる『鉄窓文学』」とある。

 「テーゼの矛盾を衝き、一貫して自主性を主張する福本イズムは、右顧左眄する主流の中で、故意に無視され、あるいは論難される」とも評されている。

石堂清倫

『わが異端の昭和史』『続 わが異端の昭和史』『20世紀の意味』

についての若干の感想

 「福本理論となると、……たとえ一時期にせよ、あれほどの影響力をもったのは、それなりの根拠があったにちがいない。何といっても、日本のマルクス主義が、説明の学であって行動の学でないという歴史的負い目がある」(76頁)と述べた後、この間の経緯について、石堂さんは次のように説明しています。

 「だからといって、われわれはすぐさま福本主義に移行したのではない。それどころか多くの会員は大なり小なり福本主義に抵抗した。いわば懸命に抵抗したうえ、力つきて福本氏の軍門に降ったところさえある。その最大の力は目新しい弁証法的思考ということであろう……福本はわれわれよりもはやくルカーチもコルシュも知っていた。われわれのまずしい哲学的教養は、『カントに帰れ』の新カント派的なもので、ヘーゲルはマルクスをつうじてしか知らなかったから、ルカーチの魅力に惹かれるばかりで、それを批判するほどの目はもたなかった。コルシュ理論と福本理論の親近性は、福本の声価をたかめることになった。社会の構成と変革を一元的にとらえる論法は魅力でさえあった。」(77頁)

 「これまでの指導者たちが触れるのを避けてきた問題を福本氏が大胆にとりあげたというのがわれわれのうけた印象である。福本の真意がどこにあるかを十分に考えることなしに、レーニンを(ママ)『分離結合』の理論にオーバーさせて福本の本を読んだのである。福本主義には革命的弁証法があり、それは革命党の組織論として、また革命戦略として現われると私たちは信じた。そして、福本理論に日本の社会と経済、文化と国家の具体的分析があるかないかを反省するいとまもなく、それに傾倒していった。」(77〜78頁)

 「山川批判であるならば、理論としての福本主義は支持しにくくとも政治的に支持したくなる空気があった。何かといえば大逆事件の二の舞は避けよという事なかれ主義、受動と待機の山川主義よりも、能動と敢為の福本主義のほうが頼もしい感じがした」(78頁)

 「共産党指導部が福本の論理に便乗したのは、それしか山川主義を超克する手段がなかったからだという説もある。とにかく、組織活動や党活動の経験がなく、したがって労苦をともにした戦闘の中での同志ももたず、日本の社会経済についてそれほど具体的知識があるとも見えない福本を党に迎え、いきなり最高のイデオロギー指導を託したのであるから、大変な冒険である。だから、福本その人よりも、これを迎え、これを利用した人々に『福本主義』の最大の責任があろう。」(79頁)
 こういう局面の中の1924.8月末、福本はマルセイユから帰路の旅に立ち、各地に停泊しながら帰国する。船中、宇野弘蔵夫妻と同船する。ここから日本左派運動が急展開する(「福本イズムの席捲、第二次共産党再建される」参照))。帰国後の福本は、文部省派遣留学生であったため帰国後一定期間を教授義務を負っていた。京都大学大学院を希望したが受け入れられず、山口高商教授としてに勤務する。 


 福本は、「マルクス主義」12月号に最初の論文「経済学批判のうちにおける資本論の範囲を論ず」を発表し左翼論壇にデビューした。翌1925.1(2)月号に「河上博士の経験批判論(マッハ主義)を批判す」を発表。以来、後に福本イズムと呼ばれる見地からのマルクス主義理論、革命の戦略、戦術、組織論を毎号論文を発表し続ける。1926年には一世を風靡し、初期三部作、「社会の構成並びに変革の過程」、「無産階級の方向転換」、「経済学批判の方法論」を刊行した。帰国した福本は、非合法組織のコンミュニスト・グループと連結しつつも、暫くは雑誌マルクス主義の寄稿家としてとどまり、すぐに実践活動には飛び込まなかった。
 福本は、「山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず」論文を発表するや熱狂的に支持された。山川派の合法主義運動に対し、これを組合主義・折衷主義、日向ぼっこ論として批判排撃し、非合法をも辞さぬ前衛党としての共産党活動の意義を説き、共産党再建を主張した。原典に基づく理論闘争を開始し分離結合論を唱えた。この両面で学生らに支持され、福本の名を高め、のちに「福本イズム」と呼ばれるようになる。
 こうしてこの頃、福本和夫による精力的なマルクス主義理論活動が展開されていった。「それは主にドイツのカール・コルシュやジョルジュ・ルカーチらの影響ないし息吹を日本に輸入した」(栗木安延「福本和夫のドイツ留学と日本マルクス主義」)とあるが、福本の以降2年余の精力的活動は日本左派運動史上稀有なるマルクス主義の創造的な時代で有り得ていたように思われる。
 林房雄の「文学的回想−狂信時代」に次のように記されている。「読んでみて、私はびっくりした。引用されている文は、私などは一度も読んだことの無い重大な章句ばかりだ。堺利彦も山川均も猪俣津南雄も佐野学も佐野文夫も青野季吉も、引用してくれたことはない。日本のマルクス主義者がいかに無学であったかを、いやでも思い知らせる新鮮な内容を持っている。−少なくとも学生理論家の私には、そう思われた。完全に圧倒された形で、私は無条件で発表するように西雅雄に薦めた。福本和夫の論文は、それから毎月続けて発表された。そして次第にセンセーションを巻き起こした。最初は研究論文だと思っていたら、3回目当たりから政治論文であることがわかった。引用文ばかりでありながら、それがそのまま山川均をはじめとする古い指導者に対しての痛烈きわまる批判になっている」。




(私論.私見)


「主体性」論争のなかで
「フォイエルバッハ・テーゼ」の回想


 哲学的な主体性論が登場するのは、文学的な主体性論より一年の後だったが、田中吉六、武谷三男、三浦つとむらを起用した花田清輝の雑誌『綜合文化』をのぞいては、不思議なことに哲学者からの文学者への呼びかけも、文学者からのそちらへのアプローチもほとんどなかったように思う。哲学的な主体性論の第一声であった「唯物論と人間」において、梅本克己がマルクス主義に残っている「空隙」についてのべたとき、その問題意識は本多秋五がかれの自由と必然論で体験的に語った問題とほとんど重なっていた。しかし両者の間に交流も討論もうまれなかった。「理論」にひきまわされたプロレタリア文学運動の記憶が、「近代文学」派の文学者たちを理屈嫌いにしていたのかもしれない。

「フォイエルバッハ・テーゼ」の解釈史をたどる余裕もその能力も私にはないが、いまふりかえってみてはっきり言えるのは、ヘーゲル左派はもちろんフォイエルバッハもシュティルナーもろくに読まずに論じられた結果の弱点である。良知力や廣松渉によるヘーゲル左派の研究やその文献が翻訳・紹介されるのは一九七〇年代に入ってからである。その結果、私たちは科学主義にたいする人間主義という図式におちこみ、アルチュセールや廣松が主張した認識論的切断やマルクス主義の地平について、本来「テーゼ」がもっている意味を十分に読みえなかったと思う。


石堂清倫

『わが異端の昭和史』『続 わが異端の昭和史』『20世紀の意味』

についての若干の感想


 1961年8月に石堂清倫離党届を出し(62年11月に除名)、

 「スターリンの引用するレーニンは、『帝国主義論』や『国家と革命』とちがって、われわれのあまり知らない党史の解釈であって、それに自信のないわれわれ読者には疑問を公言することができなかった。学生の代表的理論家である是枝恭二あたりが断固としてスターリンを支持すると、われわれは不承不承のうちに受けいれた。何しろボリシェヴィキ党の書記長の説である。わからないのはわれわれに至らないところがあるせいだろう。それに、単純化され教条化された超歴史的戦略命題をひけらかすと初心者は大抵恐れいるのであった。こうした命題が何にでもあてはまるように見える反面、具体的適用の場合には一向に役だたないことには、ながらく気がつかなかった。せいぜいロシア革命の経験の解釈命題であって、新しい情勢の分析と行動基準の決定には、まったく無力であることを、うすうす感じた人がなかったとは断言できない。そうした留保をもちながら、結局スターリンが指導精神になったのは、党的権威主義にすぎないはずである。第二次世界戦争までの時期の日本の共産主義運動は、コミンテルンに対する心情的憑依さえあればよいのであり、マルクス主義の創造的発展の機会はなかったのだろうと思われる。」(『わが異端の昭和史』76頁)

 この石堂さんの回想記を読んで、いろいろなことを考えました。たとえば、「天皇制打倒」のスローガンについてです。
 第1次共産党がこのスローガンを掲げていたのかいなかったのか、という点での論争があります。山川指導部の下でそれが可能だったのかという問題もあるでしょう。
 もう一つ考えなければならないのは、当時のような大衆の意識状況の下で、「天皇制打倒」というスローガンをむき出しの形で掲げることが正しかったかどうかということです。もしこのようなスローガンを掲げるのであれば、どのように打倒するのか、そのための具体的な戦術構想についても考えておくべきだったという石堂さんの指摘は重要でしょう。

中国共産党のように、組織的に「偽装転向」を指示して重要幹部の出獄を促す。

 ついでに、コミンテルン第3回大会での戦術転換についても、一言コメントしておきましょう。これについて、石堂さんは次のように述べています。
 「1921年3月のドイツ革命は世界革命の第2幕として期待されたにもかかわらず失敗した。レーニンはそのことを反省して、これまで社会民主党とその『日和見主義』を攻撃した戦術を一変させ、昨日の敵の社会民主党と手をにぎり、これと統一戦線を結び、ふかく大衆のあいだ(ママ)根を下すことなしに革命など考えられないと判断した。しかしコミンテルン内には、まず大衆のあいだに陣地をつくったりする必要はなく、これまでの攻勢作戦をつづければ、大衆はついてくると言ってレーニンに従わない勢力があった。そこでレーニンは『攻勢主義者』の代表を自室に集め、これから共産主義者はより思慮ふかく、より右よりに、『より日和見主義的に』なったと大衆の前で公言しなければならないと説得したのである。……この『日和見主義』談話はいまでも気のつかない人が多いように思われる。」(182〜183頁)

 ここで石堂さんが「3月のドイツ革命」と呼んでいるのは、3月19日から始まったドイツ中部地域でのゼネストと武装闘争のことで、「3月行動」と言われるものです。これは当局の挑発によって引き起こされましたが、当時、ドイツ共産党も進んで実力闘争に突入するという「極左的」方針をとりました。
 それは、当時のドイツ共産党において、彼我の力関係を顧慮することなく常に攻勢戦術を採らなければならないとする「攻勢理論」が有力だったからです。このドイツの「3月行動」の総括と「攻勢理論」の問題は、「コミンテルン第3回世界大会の中心課題」(前掲拙稿、139頁)となりました。
 結局、レーニンの介入によってこの攻勢理論は克服されます。そして、大会の最後に、石堂さんの言う「日和見主義」談話がレーニンによって行われたわけです。
 これについて、私は次のように書いています。

 「レーニンの2回の演説によって、攻勢理論は急速にその勢いを失い、もはや大会の帰趨は明らかだった。7月9日、戦術テーゼは全員一致で採択された。これによってコミンテルンは、情勢の転換に自己の戦術を適応させ、新たな大衆政策の礎を築いたのである。
 大会終了の前日、7月11日、招待された各国代表団を前にレーニンは、次のように断言した。
 『今日のわれわれのただ一つの戦略は、もっと強力になるということ……もっと賢明に、もっと考えぶかく、「いっそう日和見主義的に」なることである。』『(いっそうよく跳ぶには、うしろへ下がらなければならない)……われわれは新しい戦術を適用しており、この方法で大衆を獲得するであろうと、全ヨーロッパでわれわれはみな一致して言明するであろう。』」(142〜143頁)

 このように、石堂さんが「いまでも気のつかない人が多いように思われる」という、レーニンの「日和見主義」談話に、私は気が付いていました。また、コミンテルン第4回大会と「戦術テーゼ」についても、私は「コミンテルン初期における革命的戦略・戦術の頂点をなすものであり、統一戦線戦術と労働者政府論をその構成内容とする統一戦線政策形成の初期における到達点をも画するもの」(188頁)と評価しています。
 しかし、私が「自慢」できるのはここまでで、この転換の意味をどれほど深く認識していたかというと、はなはだ怪しいものです。
 というのは、「戦略・戦術」とは書いてありますが、ここでの私の認識はコミンテルンの転換はあくまでも「戦術」や「政策」レベルのものだという捉え方になっていたからです。まして、グラムシの「陣地戦」理論との関連については、ほとんど意識していませんでした。

 他方、石堂さんは、「1921年のコミンテルンの3回大会、翌年の4回大会の転換とグラムシを結びつけることができないかと考えてみた」わけです。その結果、「レーニンは1921年のドイツ革命の失敗の原因が、ロシアの経験を西欧にあてはめようとしたところにあると反省したことと、グラムシが東の世界の『運動戦』と西の世界の『陣地戦』を構想したこととのあいだに対応関係がありそうだと思った」(182頁)といいます。
 つまり、この時の転換は、グラムシが言うところの「運動戦」(機動戦)から「陣地戦」への転換を意味していたのではないかというわけです。この点で、「グラムシはレーニンの構想を理論的に高め、世界戦略の転換として理解した」(212〜213頁)というのが、石堂さんの解釈です。
 もちろん、当時の私はグラムシの名前は知っていましたし、「陣地戦」論と統一戦線論の親和性についても気が付いていたと思います。しかし、これが「世界戦略の転換」であるという捉え方はしていませんでした。
 統一戦線政策にしても、コミンテルン第4回大会の時点では「原基形態としての一応の『成立』をみた」(前掲拙稿、190頁)というものでした。それはやがて、コミンテルン第7回大会で復活し、完成するという展望の下での評価にすぎなかったわけです。
 私は、「統一戦線政策」という点では、コミンテルン第3回大会や第4回大会よりも第7回大会の方を重視していました。今から考えれば、第3回大会におけるレーニンの介入が持った意味について、十分評価しきれていなかったということになります。

 この時の「レーニンの転換提唱」が「社会主義運動史上きわめて大きな意味をもつ」ことを十分に理解しなかったのは、私だけではありません。コミンテルン自身がそうでした。
 レーニンの提唱は生かされず、陣地戦方式への転換はなされませんでした。時代に適合しない「機動戦方式で運営されたコミンテルン運動のもとで、社会主義革命が不発に終わったことは、それだけの理由があった」(石堂清倫『20世紀の意味』平凡社、2001年、34頁)というのが、石堂さんの判断です。

 ところで、この1921年から始まった「陣地戦」の時代(フォーディズム)はいつまで続くのでしょうか。それは1968年まで続くというのが、石堂説です。この年に転期が訪れます。
 「68年を転期とするのには多くの人が賛成している。そうすれば名称はまちまちなのは大したことではない。後期資本主義(Spatkapitalismus)、世紀末資本主義、社会資本主義(中国学者)など、便宜的ではあるが、ポスト・フォーディズムとさまざまになっている。」(続、202頁)
 ここで、5月に出席した歴史学研究会現代史部会のテーマとの接合が生じます。転換点としての68年説です。

 もし、68年が転換点であるとすれば、「陣地戦」はどう変わるのでしょうか。ここで加藤さんが登場することになります。これついて、詳しくは次回に回すことにしましょう。
 ただここでは、石堂さんが「『知っている者』が少数にとどまっている状態から、多くのものが『知りうる』状態への変化が情報化社会に入って現れている」(298頁)と指摘し、「ヨーロッパ諸国はエレクトロニックス革命、コンピュータ革命、情報革命を自分たちの体制に合わせて危機を脱出した」(329頁)と書いていることを紹介しておきましょう。
 キータームは「情報化社会」であり、「エレクトロニックス革命、コンピュータ革命、情報革命」です。

 さて今日は、石堂清倫『20世紀の意味』(平凡社、2001年)について、コメントすることにしましょう。戦前の共産党の活動に関連する部分など一部の論点については、すでに正続2冊の『わが異端の昭和史』に関連して言及したところもあります。
 この本は、5つの章からなっています。あらかじめ、その構成を示せば、?T「20世紀の意味−『永続革命』から『市民的ヘゲモニー』へ」、?U「転換を果たせなかった世紀」、?V「『転向』再論−中野重治の場合」、?W「ヘゲモニー思想と変革への道」、?X「日本の軍部」です。
 第1章が総論的な位置にあり、第2章以下が各論的な内容になっているという印象です。第1章に登場している論点が、さらに敷衍されて第2章以下に出てくるからです。
 もとより、ここで展開されているすべての論点について論評する力も余裕もありません。本書を読んで、私が気づいたいくつかの点を取り上げるということにさせていただきます。

 この本は、「スターリン主義の責任」という表題から始まっています。それは、『スターリン全集』の翻訳と普及など、「私もその一人として、スターリン主義のすべてのマイナス面についての大きな責任を持つ」という自覚に基づくものです。
 「その責任の一端を報告としてお話しできるかと思います」(15頁)ということで、生活クラブ生協で行った講演が、第1章の内容です。
 以下、マルクス主義理論運動と共産党の革命運動における「20世紀の意味」を考える上で、検討されるべき重要な論点が、数多く提起されています。たとえば、スターリン主義の受容と追随については以下のように……。

 「長い間、実際はスターリン主義であるものを、『マルクス・レーニン主義』と言ってきました。」(15頁)
 「わが日本では……、すでに確立していたドイツ社会民主党の思想やロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派の教義をとりいれました。それを一つひとつ具体的体験によって確かめる時間がなく、無上の真理として、批判抜きに受け入れた形があります。」(18頁)
 「日本の共産主義者は、ロシア社会では止むをえなかった現象をあやまって原理としたと言われても仕方のないような道をたどりました。」(22頁)
 「なにもスターリンがわれわれを欺したのではありません。スターリンを信じたのはわれわれ自身の責任です。われわれ自身に、スターリン主義に随従する体質的な弱点があったところに問題があったのではないでしょうか。」(24頁)

 グラムシと『獄中ノート』については、次のような指摘があります。
 「私が時々グラムシを持ち出すのは、グラムシの『獄中ノート』の大半は、ソヴィエト共産主義に対する理論および政策上の批判だったと思うからです。」(29頁)
 「グラムシ理論はコミンテルン方式にたいする根本的批判の書として受け取ってもよろしいと思います。」(30頁)
 「……1870年以来、時代は新しい段階に入ります。
 新しい社会勢力が登場し、議会活動、産業組織、民主主義、自由主義等々のそれぞれ重要性のあるもの、グラムシの指摘によれば、『労働組合現象』が支配的になると、もはや『永続革命』方式は資本主義の周辺部にしか意味をもたず、中心部では、有効性を失った教条に変わっていきます。永続革命の1848年定式にかわって『市民的ヘゲモニー』の定式があらわてきます。一言でいえば、1870年を境にゼネストや市街戦などの正面攻撃に帰着する機動戦方式は、『今や敗北の原因でしかない』新時代に入っています。遅れて起こった1917年革命は、この機動戦からの転化として、市民社会におけるヘゲモニーをうち立てる諸方策を検討する段階に入ったのであり、1921年の転換が遅ればせにそれを示したのでした。」(32〜33)

 以上に引用した最後の部分が、石堂さんの最も言いたかったことだと思われます。この章の表題が本書の書名となっており、その副題が「『永続革命』から『市民的ヘゲモニー』へ」となっているからです。
 ここで言う「永続革命」は、武装蜂起型の「1848年定式」です。グラムシが言うところの「機動戦」です。
 これに代わる「市民的ヘゲモニー」は1870年以降の「労働組合現象」が支配的になった「新しい段階」での革命方式です。それはグラムシが「陣地戦」と呼んだものです。
 つまり、1870年から「機動戦」はすでに時代遅れになっていたにもかかわらず、ゼラチン状で未だ市民社会が十分に発達していなかったためにロシアで成功し、それが誤って一般化され、スターリンやコミンテルンによって押しつけられてしまったというわけです。レーニンは、1921年3月に、このことに気がつき「日和見主義」演説を行ったものの、国際共産主義運動全体の路線を転換させるだけの時間的余裕を持ちませんでした。
 他方、イタリアのファシストによって捉えられていたグラムシは、獄中でそのことに気づいてノートに書きつづったものの、それが広く人の目に触れて関心を呼ぶようになるのは第2次世界大戦後になってからでした。

 ところで、ここで言う「市民的ヘゲモニー」とは、何を意味しているのでしょうか。これは第4章の「ヘゲモニー思想と変革への道」で、詳しく展開されています。
 石堂さん自身の言葉で言えば、それは「道徳的・倫理的同意形成の政治理論」(126頁)であり、それは「勤労者が全体として重みを加えたから民主的な方法で階級間矛盾の解決にあたることが可能になった」というものです。

 「エンゲルスが、バリケード戦闘よりも投票用紙がより強力な手段になったと説いてから1世紀を経過している。その間の階級間関係に大きな変化が生じ、それを表示する政治が力から倫理へと移動している。政治−力から政治−倫理への動きは、必然の世界から自由の世界への飛躍をあらわすものと言えないであろうか。」(136頁)

 94歳とは思われない、若々しく瑞々しい思考であり、文章だと思いませんか。すごいですね。爪の垢でも煎じていただいて、長生きの仕方と思考の方法を教えていただくんでした。
 私流の理解で言えば、ヘゲモニーとは主導性ということです。政治的な争いや競争において、主導権を確保して相手より優位に立つことだといっても良いでしょう。
 この優位性は、倫理的・道徳的なものであり、説得力によって得られるものでなければなりません。このような倫理的・道徳的優位性の確保と説得力によって市民社会を変え、それを政治を変える力に転化していくというのが「市民的ヘゲモニー」の戦略だというのが、私の理解です。

 石堂さんは、グラムシの説いた「分子運動」「小さな波の重要性」(132頁)にも注目しています。これは「ヘゲモニー運動」の「基盤における妥協と改良の表現」だというわけです。
 「革命」と「改良」といえば、これまで「改良」の方が一段低いものと位置づけられるのが通例でした。「革命」を遠ざけるために「改良」を積み重ねようとする試みは、「改良主義」として非難の対象になりました。このような捉え方も、再考の余地あり、ということになるでしょう。
 ヘゲモニーの争奪戦によって生ずる「小さな波」は、市民社会内における「分子運動」を生みだし、支配の安定を維持するための譲歩を支配階級から引き出します。このような譲歩が「妥協と改良」にあたるものでしょう。
 そして、このような形で譲歩を迫られ、支配のあり方自体も徐々に変化していきます。これが「受動的革命」ということになりますが、これについては、加藤哲郎さんの本を取り上げるとき、もう一度ふれることになるかもしれません。

 このようなヘゲモニー運動は、国内だけにとどまりません。石堂さんは、ゴルバチョフの「新しい思考」を「国際関係を律する道徳的・倫理的規範」(137頁)として、高く評価しています。
 そればかりではありません。「アメリカへの対抗ヘゲモニー」という問題を、次のように提起しています。

 「戦後日本は日米安保条約に包摂されアメリカのヘゲモニーに従属している。だがこのヘゲモニー支配から脱出する道は、ひところ一部の人が考えたような運動戦(民族独立戦争)をつうずるものでありえない。それには対抗ヘゲモニーを実現するほかはないであろう。
 アメリカの対日優位はもちろん武力にもあるが、それだけではない。今日の世界では武力の果たす歴史的意義は減退しつつある。彼の優位にはわれわれよりも深い社会的・経済的・文化的『革命』を経過しているところもある。それならば日本は社会的・経済的・文化的な対抗ヘゲモニーを実現すべきである。それに成功しなければわれわれはなお『受動的革命』に沈潜していなければならない、これが一つの歴史的課題である。」(160〜161頁)

 この言葉は、今日の日米関係というより、小泉−ブッシュ関係において、とりわけ重要な意味を持つように思われます。ブッシュのアメリカは、「悪の枢軸」論と「単独行動主義」によって倫理的・道徳的優位性を失いかけており、もし、イラクへの何らかの攻撃が始まれば、それは決定的なものとなるでしょう。
 小泉首相がブッシュの誤りを批判し、アメリカの身勝手を是正させることができれば、日本の倫理的・道徳的優位性を一気に高めることができるはずです。現状は、「アメリカへの対抗ヘゲモニー」を確立できるかもしれない絶好のチャンスです。

 しかし、小泉首相はブッシュのアメリカを批判しないばかりか、積極的に追随し支えようとしています。「対抗ヘゲモニー」を実現しようとする意志のかけらもありません。
 小泉首相は、アメリカの要請に基づいて、平和主義という憲法規範に反する「軍事化」を押し進め、国際社会において戦後日本が蓄積してきた平和国家としての倫理的・道徳的優位性を投げ捨てようとしています。これは、数少ないヘゲモニーさえうち捨てる愚行であり、「受動的革命」への沈潜というよりも、「受動的反革命」の試みだと言うべきでしょう。

 ということで、グラムシの理論に関わる部分についての紹介と感想を書きました。長くなってしまいましたので、この続きはまた……。

 これについて、石堂さんは、「日本にとって非常に不幸なことは、国内矛盾の解決を、社会改革の方法によって解決することを怠ったことで、その隙間に支配階級、とくにそのなかの軍部が国内の議論を対外に転化させる、海外侵略に点火することに成功したのです」(48頁)と指摘し、次のような事実を紹介しています。

 「軍部は演説会を全国で1866回もやり、165万5千人の聴衆を組織できたと出ています。だとすれば東京でも200回近くの演説会をやっただろう。その時の講演のマニュアルが、陸軍省から『国防思想普及参考資料』として出ています。……これを書いているのは陸軍省や参謀本部の課長クラスです。これを数万部全国にばらまいて、それをタネ本にして、だいたい少佐と中佐の佐官クラスですが、将校たちが全国的に大宣伝をやっていたのです。」(50〜51頁)

 つまり、「満州事変は、軍部の陰謀として突然起こったのではなく、ちゃんと世論を形成するという努力を一年間続けて、だいたい世論の形成に成功したという時に行動を起こしたことにな」(52頁)ります。このような「軍部の世論形成」工作はあまり知られていませんが、これは基本的に成功しました。
 このような「世論形成」工作によって軍部は国民を説得し、侵略に向けてのヘゲモニーを確立したということになります。

 しかし、これは事柄の一面にすぎません。他面では、中国などの植民地で民衆の人心収攬に失敗し、軍部はヘゲモニーを握ることができませんでした。
 「日本は計算不能な巨大な敵対勢力をつくっていた。1920年代中期から始まった中国の国民革命運動は、半植民地状態から脱却し、統一した独立の祖国をつくりだす、正当でありまた進歩的なものであった。植民地化する恐れのあった幕末から明治初年の経験をもつ日本人は、中国人のこの運動を理解し、同情し、協力すべきであった。ところが国民革命軍が北上するのを、日本は軍事力で阻止できると判断したのは致命的な誤算であった。」(177〜178頁)


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