死去前の百合子と宮顕との不仲考

 (最新見直し2012.08.18日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ネット畏兄・宮地健一氏の「プロレタリア・ヒューマニズムとは何か−宮本顕治氏の所説について−志保田行」と「不実の文学 −宮本顕治氏の文学について 志保田行」は、「死去前の百合子と宮顕との不仲」に言及している。これは貴重価値情報であると思われるので、本サイトで確認しておく。

 「死去前の百合子と宮顕との不仲」につき、志保田氏が初めてこの事実を具体的に明記した。それは、「宮本顕治が言ったことと、やってきたたことは違う。それを証明する具体的な行為の一つとして書いた」との思いから為したとのことである。これに対し、下半身行状指摘批判論は卑怯なりとの立場から逆批判する向きもあったようであるが、れんだいこが思うに一概には言えない。「小泉首相の人格と資質を問う」問題にも通底しているが、これを為さねばならないこともある。なぜなら、一般に、組織の長たる者はその責任の重さ故に、あらゆる角度からその長の指導能力あるいは指導傾向が検証されるべきであろう。この場合、政治的能力及び指導がその長の人格識見、下半身行状に密接な関係があると認められる以上、検証を客観化させるためにも長の人格識見論、下半身行状探査は必要と云えよう。

 ましてや宮顕の場合、百合子死後に「多喜二・百合子賞」を創設し、あたかもプロレタリア作家としての百合子の地位を持ち上げているかのように装いつつ、その実は徹頭徹尾「百合子死して後までの政治利用」に過ぎない行為を権力的に為しているからである。我々は、「百合子死して後までの政治利用」を許さないためにも、「死去前の百合子と宮顕との不仲」を検討し、「百合子自身が著作権印税の党への寄付」を申し出ており、「宮顕に死後まで政治利用されることを嫌悪していた」史実を明らかにし、宮顕の暴挙に掣肘を加えねばならないと思うからである。「死去前の百合子と宮顕との不仲考」、「百合子の著作権収入考」はそのことを判明させる意味で価値が高い。ここでは「死去前の百合子と宮顕との不仲」を考察する。

 2005.5.8日 れんだいこ拝


【宮顕と百合子秘書との親密考】

 志保田氏の労作により「宮顕と百合子の秘書との親密さ」が明らかになった。この二人の親密ぶりは、百合子臨終の際に、宮顕は百合子の秘書大森寿恵子宅へ行っており、当然臨終の立ち会いができていないほど非礼のものとなっていたことも明らかになった。その百合子の死因をめぐって死亡診断書が書き換えられていることも明らかとなった。ここでは、「宮顕と百合子秘書との親密」を検証する。

 大森寿恵子氏は当時30才にして、「百合子の内弟子として秘書兼お手伝いとして同居」とある。しかし、「百合子の内弟子として秘書兼お手伝い」までは認められるとしても、「同居」とあるのは如何なものだろうか。日共党中央系の記述には、こういうところに用意周到に練られたイカガワシサがある。

 寺尾五郎氏は、百合子と大森寿恵子氏の初期の関係を次のように述べている。

 「大森寿恵子さんはお百合さんの秘書で、じつはSという若者と一緒になる話になっていて、私はいいことだと思っていた。Sは私の早稲田の後輩の早稲田細胞の一員だった。寿恵子さんは才媛であり、感性の豊かな、感じのよい人だった。寿恵子さんは、お百合さんの文学関係の秘書で、資料集めや、出版社との連絡で、一日おきくらいに中条邸を訪ね、お百合さんと打合せをしていた。お百合さんも寿恵子さんのことを『いい子ねえ』と賞めていた」。

 寺尾五郎氏は、宮顕と大森の仲について次のように述べている。
 「私は一九四七年の二・一ストの前に、四国地方に派遣され、東京から離れたのだが、私の感じでは宮顕と寿恵子はその頃から関係があったように思う」、「宮顕、お百合、寿恵子の関係を私たちがうすうす知ったときも、そのままうまくきりぬけることが望ましいと思っていた。宮顕が寿恵子にグラグラッとなびいたのも、寿恵子が宮顕に飛びついたのも自然のことだ。そのことに私は大した反感を覚えなかった。仕方がないと思っていた。当時は、私も宮君も、まだ宮顕を大いに尊敬していた。しかし、いまさらお百合さんを袖にすることは断じてまかりならぬ、と私たちは考えていた」。

 百合子の大森寿恵子氏への好意はその後、大森寿恵子氏が宮顕と親密になることで嫌悪へと転換している。米沢鐵志氏(当時62歳、宮本顕治秘書K氏の友人)は次のように証言している。

 概要「いま日本共産党幹部会員のK氏と私とは、彼が広島高等師範学校に在学し、私が中学一年生くらいの時からの知り合いだ。K氏は一九五〇年の末ころ、共産党中国地方委員会から派遣されて、宮本氏の秘書になった。(後になって)K氏は他に訴えるところがないためか、東京時代の思い出を語るなかで、折にふれて、昔からの知り合いである私にもらしたことがある。それは百合子さんが死ぬ前に大森寿恵子さんを嫌っていた、ということだ。宮本顕治氏を含めたこの三人の複雑な関係が、当時一七、八歳の私にも感じとれた」。

 次の証言もある。

 「ちなみに、今宮本顕治氏夫人になっている大森寿恵子氏の人柄を物語るエピソードがある。寿恵子氏は党員の娘ということで、戦後、百合子氏の秘書になったが、百合子氏は非常に嫌っていたという。顕治氏が公職を追放され、非公然活動に入らねばならぬ頃、『もし何かのことで捕まって、警察に連れていかれて、顕治さんに引会わされたとき、あなたは最後までこの人を知らないといいなさいよ』、百合子氏がまさかの折りに備えて教えたところ、寿恵子氏は『おほゝ』と笑い、『まあ、そんな馬鹿なこと』と答えたという」。


【宮顕の不義密通批判言説について】

 百合子氏死去よりわずか三、四年前の1947年、顕治氏は「共産主義とモラル」という評論を発表しているが、映画「シベリア物語」をあげ、文中で次のように書いている。

 「こうゆう作品がスターリン賞をうけ、国際コンクールで一等になっているのです。そこで出てくる恋愛のモラルは、三角関係とか姦通を当然とは考えていない。ブルジョワ社会では古典的なともいえる貞節の感情。これは恋愛にあらわれるソビエト社会の一つの相であります。ソビエトの人がすべてこういう健康な恋愛をしているのだとはいえませんが、しかし、そういうものが基調的に肯定されて、それが一つの美しい物語として展開されるのであります」。

 「ソヴェトで、コロンタイの恋愛論が一時問題になりました。それによると、たとえばここに夫婦がいる。夫は任務を帯びて、一人でひじょうに遠い地方で働いている、もしその場合、性的衝動があれば抑制する必要はない、ということをいうわけです。これはやはり、そうではなくて、夫婦が互いに相手に対して貞潔を守りあう感情で貫くべきです。そういう問題に対しては、自分は動物ではなく、人間社会におけるいろいろな規準のなかで生きているという立場から、そういった衝動的な感情を抑制する必要があります」。


 宮顕は、1992年の赤旗まつりでも次のように述べている。
 「仲間の人が困っているときにこそ世話するのが、人間を大切にする第一歩であり、同志愛のある党生活であります。プロレタリア・ヒューマニズムが大事だといわれているのもそのことです」。

 宮顕のかような言説は断続的に説き継がれてきており、枚挙にいとまないので割愛する。
(私論.私見) 「宮顕の不義密通批判言説」について

 「宮顕と百合子の秘書との親密化の成り行き」はよしんば有り得ることかも知れない。然しながら、当事者の宮顕自身がかような言説を為していたとしたらどうだろう。通念的には、持論を撤回するか、持論通りにするかの二つに一つを選ばねばならないところ、何食わぬ素振りで自身は持論に背き、人には持論を強制して恥じないまま教説し続け今日まで経過している。かような党最高指導者など有り得て良いことだろうか。一般に、「下半身の行状問題」についてはそれを難しいことだと弁えるところ、宮顕は強面(こわもて)の道徳倫理論を説教していることになる。その弟子の不破も又道理論を好む。こういう場合、まずは己の身を正しうしてから為すべきだろうが、己らはフリーハンドであるから余計にケシカランことになる

 2005.5.8日 れんだいこ拝


【死去前の百合子と宮顕との不仲考】

 百合子の「風知草」は既に、宮顕を重吉の名で登場させながらその非共産主義的、家父長的権威主義の実態を暴露していた。抑制された筆致ではあるが、顕治氏との確執をも記している。この振幅はその後強まりこそすれ逆にはならなかった。 

 岩田英一氏は次のように証言している。

 「それは、一九五〇年一月のコミンフォルムによる日本共産党批判の後、同年六月のマッカーサーによる共産党中央委員全員に対する公職追放の前だと思うので、たしか同年四、五月ごろだったのではないか、共産党本部での立ち話だった。当時、私は党本部内で選挙闘争関係の仕事をしており、宮本百合子はまだたしか党の婦人部長をしていて、党本部内で顔を合わせる機会はおおかった。そのとき、宮本百合子は私にこういう趣旨のことを言った。『顕治さんは困ったものです。うちの秘書とできているみたいです。未決拘留の一〇年間は毎月のように面会に行き、食べ物や本の差し入れをし、汚れた衣類の交換をして尽くしてきたのに、それがこのように冷たくされるとは予想もしなかった』。涙を目に溜め、溢れんばかりだった。私は同情して、『百合子さんも大変だなあ。今になってそういう仕打ちをするのはひどい。しかし、あんたの方が一〇歳も年上だから無理もないなあ。生理的にいっても難しいんじゃないの』と意見をいい、『考えた方がいいですよ』と暗に離婚も考慮のうちに入ることを示唆した」。

 藤本功氏も次のように証言している。

 「百合子さんが亡くなる直前、神山茂夫氏が訪ねたとき、彼女は髪の毛を振り乱し、むしった髪の毛がテーブルの上に落ちていた。怒って気が動転していた。それは顕治氏と意見が合わぬことのようだった。私は神山氏に多くは聞かなかったが、女の問題だけでなく、政治方針にも反対だったのではないだろうか。これは百合子さんが死んだ後、神山茂夫氏と東京のどこかで会ったとき聞いた。神山氏は百合子さんと親しく、人間に思いやりがあったから、ちょいちょい彼女を家に訪ねたらしい」。
(私論.私見) 「百合子の不審死考」
 以上のことから次のことが判明する。「百合子と宮顕との不仲」の間接的経緯は、百合子の宮顕に対する不審から発している。直接的経緯は、宮顕が秘書大森女史と不義密通関係に入ったことによりもたらされた。その百合子が、当初の死亡診断書では「急性紫斑病」で急死する。これ以上の推測は控えるが、宮顕にはこの種の事が異常に多いということ知られねばならないだろう。

 2005.5.8日 れんだいこ拝

【宮顕の獄中生活不審考】

 「獄中生活」につき、宮顕にはこの種の逸話が皆無であることも解せない。百合子との間のやり取りにもかような部分が皆無であることに気づかされる。検閲がそうさせたというのであろうが、文芸作家ともなればいかようにも工夫はなしえたのでなかろうか、と思うけど。二人が語り合うのは、専ら宮顕の歴史法則的世界観における確固不動の信念の披瀝と相互の古今東西の文芸論の知識のひけらかしばかりである。残りの部分は、 それぞれの家族の現況と専ら宮顕からする山口の実家に対して百合子が嫁としての孝行を尽くすようにという下りである。

 なお、この往復書簡集につき、それ以前の問題としてこのような書簡やり取りが他の政治犯に許容されていたかどうかの疑問もある。袴田「獄中日記1945年.232Pほか」によると、市川.袴田らの「ノートを使わせない、ペンを持たせない」ことに対する獄中闘争の様子が明かされている。あるいはそういう人権無視が常態ではなかったか、にも関わらず宮顕夫婦合作の書簡集とは一体どういう規制の下で往復を為しえたのであろうか、という疑問を禁じ得ない。

 これについて、除名後の袴田は、「昨日の友宮本顕治へ」の中で次のように云っている。

 「私も獄中生活中、百合子から四季の草花を3回、寺田寅彦の本と法医学の書物を差し入れてもらっているので、その好意については多とする。しかし私の場合、妻はもとより、友人知人も二度差し入れにくると、必ず警察に引っ張られた。私の体験からすれば、百合子がどうやって宮本にあれほどの差し入れをすることができたのか、その謎はいまもって解けない」。

 もう一つ気になることがある。 「査問事件」の真相をめぐって二人の間には箝口令が敷かれていたのかと思うほど触れられていない。二人とも時事社会問題に関心の強い文芸作家である。当然の事ながら宮顕が関与した事件の真相をお互いに伝え合うことに何のためらいがいるであろうか。なぜ百合子は尋ねていないのだろう。百合子は法廷にも出ているわけだから確かめることは多々あったと思われるのに。これも検閲のなせる制限であったのだろうか。

 宮顕と百合子が唯一衝突した場面が記されている。宮顕は、百合子38才記念の贈り物として、第一の贈り物は堅固な耐久力ある万年筆、第二の贈り物はマルクス・エンゲルス二巻全集(獄中の身でこれらをどうやって送り得たのかは判らない!)を贈呈している。この時併せて中条の名前で小説を発表するのを止め、今後は宮本姓にしてはどうかと最大のプレゼントをしたようである。宮顕の大変な自信家というかいやはや何とも言えないものがあるが、この時初めて百合子は抵抗を見せている。百合子は「中条百合子」に愛着を示したのである。宮本百合子は「十二年の手紙の時代」の中で次のように反発している。

 「名のこと、私は昨夜もいろいろ考えたけど、まだはっきり心がきまりません。単なるジャーナリズムの習慣でしょうか?---そのことでは率直に言って大変悔しかった。そして何だか腹立たしかった。私の生活の土台!」。
 「あなたはご自分の姓名を愛し、誇りを持っていらっしゃるでしょう。業績との結合で、女にそれがないとだけ言えるでしょうか。妻以前のものの力が十分の自確固としていてこそはじめて比類無き妻であり得ると信じます。良人にしても、私たちは、少なくともそういう一対として生きているのではないでしょうか。同じ一人の良人、一人の妻という結合にしろ、私は新しいその質でエポックをつくる、一つの新しい充実した美をこの世の歴史に加えようと暮らしております」。

 結局、宮顕は、百合子の反対の前にこの提案を取り下げた。が、8ヶ月後に百合子は自分から宮本姓を名乗ることを公にした。既述したように戸籍上だけの姓の変更はすでになしていたが、この度ペンネームもまた中条から宮本へと改めることにしたということである。百合子の無期囚の夫に対する思いやりであった。10.17日、始めて宮本百合子名で作品発表する。

 以降彼女の身辺も忙しく、検挙・拘留を繰り返す。最終的に保護観察処分に附されるが、担当主事は特高課長毛利基であったようである。偶然かも知れぬが、こうして宮顕も百合子も毛利氏の掌中に入れられることになった。ここでも不思議なことが明らかにされている。前掲の平林たい子「宮本百合子236P」によれば、宮顕は獄中で、百合子の予審調書を手に入れて読んでいる節があるとのことである。後になって、百合子がよく闘ったところや、守るべきとき守れなかったところを指摘している、ということである。宮顕は、どうして百合子の予審調書にまで目を通しえたのだろう。

 なお、百合子に関しての疑惑もここに書いておくことにする。女流作家平林たい子も検挙されたあと病床にあったが、その病床を見舞った知人が、百合子が満州国大使館の招待した婦人作家の集まりに出席していたことを知らせている。「私には信じられなかった。が、その人は自分の目で見たことを力説した」とある(平林たいこ「宮本百合子」238P)。これが事実とすると、百合子も転向していたことになる。確かに、著作「風知草」には、文学報告会の作品集に小説を出そうとしたことについて、ひろ子(百合子)と重吉(顕治)との会話が綴られている。「いわゆる『時局に目覚めた』転向はごく彼女の身辺近くまで及んでいたのである」と平林は控えめに書いている。

 この間百合子は可能な限り面会に出向きまたは手紙を書き上げており、宮顕の健康を案じて言われるまでもなく差し入れ弁当を業者手配で届けており、冬着・夏着・布団と時期に応じて届けている様もうかがえる。言われるままに幾百冊の本と薬と栄養剤を届けてもいる。家計の心配をほとんどすることなく、 百合子に注文することができたということであったように思われる。

 宮顕の読書量については、自身が次のように述べている。
 「(刑務所生活では、)基礎的勉強に眼目を置き、自分で読書部門を六部門(一)現代についての具体的知識、(二)社会経済史、(三)マルクス主義の三つの源泉と云われる近代部門、(四)文学.芸術、(五)語学、(六)軍事科学等に分けて始めたコースで、初年度は約170冊読んだ」(「私の読書遍歴」)。その具体的著作は「十二年の手紙(1934.12.13日、市ヶ谷刑務所)」に記されている。

 その具体的著作は「十二年の手紙(1934.12.13日、市ヶ谷刑務所)」に記されている。

 この宮顕の読書の認可について疑問がある。他の共産党員被告の場合、「囚人に許される読書は、その種類も冊数も、極めて限られたものであった。その頃の規定では、一ヶ月に雑居房では3冊、独居房では4冊しか読むことができなかったし、内容も、政治経済や時事問題にわたるものは禁じられていた。結局、許されるものは、古典や宗教書や、独にも薬にもならない修養書や、自然科学書などに過ぎなかった」(杉森久英「徳田球一」)のが通り相場なのではなかったか。こう云う面から宮顕についてはおかしなところがあり過ぎる。

 実家の面倒を見ろ云々も半端なものではない。病める体を無理して顕治の要求するままに顕治の実家へ何度も出向かせ、親孝行させるのみならず親戚中にも金払いを良くさせてもいる。こうした百合子が宮顕の実家で見せる心配りは封建的賢婦の鏡を彷彿とさせるものがある。書籍に対してあれを探せ、これを送れも次から次ぎの注文であり「甘え」というレベルのものではない。実際に確かめられたら良いかと思う。どうやら百合子の父の財源が頼りにされていた節がある。時に躊躇を見せた百合子に送った手紙の文面は、「金の具合はどうなのか。ユリのゼスチュアはいつもピーピーらしいから−今月はないとか、不定期にしたり、少なくしたり−無理は頼みたくないから本当のところを知らして欲しい云々」というものであった。嫌らしい婉曲話法で百合子の躊躇を叱咤しているように窺うのは穿ちすぎだろうか。

 こうした獄中生活は、他の同志のそれと比較してみた場合いかほど奇異な 豪奢な生活であったか、と私は思う。他の共産主義者たちは検挙されたその日から我が身に仮借無い拷問が浴びせられ、残った家族の生活を苦慮していたのではないのか。面会人が訪れることもなくあったとしても世間体を憚りながらの僅かにあるかなしかの身の者が通常であったことを思えば、宮顕はいかほど幸せ者であったことであろうか。

 ちなみに、宮顕は百合子の差し入れる弁当により、同じ獄中にある共産主義者もうらやむ上等な食事をとることができたとも、「他方で、宮本は、11年間過ごした巣鴨について、そこでは収容者を殴ることを日課のようにしていた看守たちから、彼自身は殴られたことはなかったと書いている。宮本が巣鴨刑務所に服役中、隣の房に入れられていた運動家が証言しているところによると、宮本はいつも上等の差し入れ弁当を食っていた、という。官給のモッソオメシと云われた臭い飯しか食ったことのない者からすれば羨ましい限りであったとも云われている」(中村勝範「宮本顕治論」217P)とも書かれている。

 この宮顕に関する飯談議では次のような話もある。

 「寺尾と何処で結びついたか確かな記憶はないが、彼(寺尾五郎のこと−れんだいこ注)は戦争中、神山茂夫の獄中闘争を間近に見て痛く敬意の念を持ち深く傾倒していた。そんなことが底流にあって、少年の頃から神山に指導され戦後も身近にいた私と党本部で出会って直ぐに心置きなく話し合える仲になったのだと思う。当時、彼は宮本顕治の秘書のようなことをしていた。私は党の都委員会のオルグで城南地区の主に国鉄を担当していた。当時は戦後の食糧難で外食などする所は無く、党本部で働く人達は皆貧しい弁当を持ってきた。弁当を持ってこない者もいて、その連中が昼になると『昼めしにしよう』と呼びかけて他人の弁当箱の蓋を持ち上げて少しずつ分けてもらって食べていた。まさに共産党らしい頬笑ましい雰囲気であった。そんな時、私が幹部室に入っていくと、真白いご飯が目一杯つまったアルミの弁当を周囲に関係なく悠々と食べている男がいた。宮本顕治だった。そのことを寺尾に尋ねると、『いやーあ、あの弁当を毎日持たせるのに苦労しているのだ』と言っていた。宮本と同じ刑務所に入っていた労働者出身の活動家が、戦後『宮本の方には絶えず差し入れがあるのに自分の方は女房が生活に困るから離婚してくれと面会にきている。同じ運動に参加しているのにこれ程の差があるのか』という話をきいていたので、周囲におかまいなく一人弁当を食べている宮本の姿を複雑な思いで眺めたものだ」(新井吉生「若き日の寺尾五郎」1999.9.19)。

 ここに貴重な証言がある。前掲の「偽りの烙印」(渡部富哉.五月書房282 P)によると、「尾崎と4、5房先に神山茂夫がいた。この二人は顔が利くので、めったに買えない獄内売りのあめだまを手に入れられた。神山は時折房を出て勝手に廊下をよぎり、私の房の扉を開け、『おい、伊藤律がんばれ』とあめだまをくれたりした。その丁度真上に当たる二階の独房に宮本顕治がいた。三度とも差し入れの弁当を食べ、牛乳を飲み、尾崎の薄着とは違いラクダ毛のシャツや厚いどてらを着ていた」とある。

 屋外運動の時には党員同志顔をあわすこともあったものと思われるが、この辺りの回想も伝えられていない。奇妙なことである。なお、この当時の神山の奇妙な言い回しが伝えられている。参考までに以下記す。

 「拘置所の幹部に、ここに宮本とおれが居るかぎり絶対に空襲は受けないよ、といってあったので、焼け残った後、獄中におけるぼくの威信はますます上がった」(「現代の理論」71.6月号、「一共産主義者の半世紀」)。

 この神山の物言いに対して、高知聡氏は著者「日本共産党粛清史」の中で、「夜郎自大な狂気の言」と嘲笑している。が、私はそうは受け取らない。不思議なことに当時の獄中下党員で宮顕と神山は別好待遇を受けている形跡がある。神山のこの言い回しには何らかの背景が有るのではないかと私は見なしている。ついでに記しておけば西沢隆二も何か変な気がしている。

 いわゆる宮顕の「網走ご苦労説」も正確に理解する必要があろう。宮顕が網走刑務所に服役したのは、6月から10月までの割合と過ごしやすい4ヶ月の間である。この頃の様子については、宮顕自身の次のような回想録がある。

 「網走はそう長くないんです。戦争が終わる年の6月に行って、10月に出ましたから、一番気候がいい時期にいた訳です」(「宮本顕治対談集」116P)。
 「(網走には春、夏、秋と一番いい気候のときにおった)網走というのは農園刑務所と云いましてね。農作物を作る刑務所なんですよ。ここでジャガイモがうんととれる。東京の刑務所ではおみおつけの実が何もない、薄いおつゆでしたが、網走ではジャガイモがゴ ロゴロしていて、ジャガイモの上に汁をかけるようで、食料条件がよかった訳です。(中略)それで体重が60キロぐらいになったんですよ。60キロというのが 私の若い頃の標準でね。(中略)そういう訳でむしろ健康を回復したんですね」 (「宮本顕治対談集」376P)。

 なお、宮顕は次のようにも述べている。

 概要「網走の方が巣鴨よりまだはるかに衛生的だった。第一、入浴はまだ週2回あったし、しらみや南京虫も衣類や房にいなかった。こちらは、食事がほぼ定量つめられていて、ひどい空腹感はなかった。」(「網走の覚書」)。

 「網走の覚書」には、「網走刑務所は、看守のテロの点では、巣鴨よりもっと野蛮だった」と次のように記されている。

 「“捜検”といって、毎日、監房の検査を係りの看守がやって回るが、何か部屋の整頓が悪いとか掃除が不十分ということでも気まぐれにパンパンという高い音のする殴打を加えた。私が入って間もなく、私の房の番号を呼んでこの“捜検”の看守が扉を開けた。私は返事して立ち上がって房外に出たが、いきなりピシャリと平手が飛んできた。『殴るとは何だ---』と私が詰問すると、『その返事は何か』とどなりつけてきた。房から出る時私が『ハイ』とはっきり答えず、オイという風に聞こえたのがけしからぬというのである。そして私の名札を見てそれ以上は言わず行ってしまった。私は早速看守長に面会を申し出て、その暴行を詰問したが、『それは悪かった。よく注意しておく』という回答だった」。

 当人はかくも威風堂々さ、看守のみならずその長まで詫びさせる獄中闘争の様子を得々と語っているつもりのようである。わたしは、公判陳述の大嘘からしてこのあたりのそれも信用しない。信用したとしても、この程度のことに対して「看守のテロ」とは何と大袈裟なことかと思う。それと、「私は早速看守長に面会を申し出て、その暴行を詰問した」もおかしな記述である。宮顕の抗議を看守が聞き分け、看守長に伝わり、面会が出来て、暴行を詰問し得たということになるが、何と聞き分けの良い網走刑務所であることよ。時期は異なるが、徳球、市川正一元委員長らも厳寒の網走刑務所に居た筈であるが、その時の様子といずれ比較させて見たい。

 私は、宮顕に対する「看守のテロ」は当初よりなかったとみなしている。その裏づけは、宮顕自身が次のように記している。貴重な自己証言である。

 「(1933.12月の検挙間もなく)麹町の留置場でも看守から真冬に寝具もくれず、手枷足枷をかけて持久戦的拷問をやられた。しかし拷問の効き目がないと考えたのか、その後は警察の一年間、そうした肉体的拷問は受けなかった。市ヶ谷.巣鴨の11年間でも、収容者をなぐる蹴ることを何とも思っていず、日課のように繰り返している看守たちからは、直接なぐられたことはなかった」(「網走の覚書」)。

 当人はこの後に続けて獄内待遇改善闘争の「札付き」になっていたが、「それらの闘争の中でも、正規懲罰を加える口実と隙はつかまれなかった」(「網走の覚書」)からであるとしているが、うそ臭い。どういう理由付けしようとも、殴られることがなかったことは確かなようである。とすれば、「網走刑務所は、看守のテロの点では、巣鴨よりもっと野蛮だった」も、宮顕自身に対しては嘘になるし、真実とすれば逆に巣鴨生活がいかに大甘なものであったかを逆証左することになろう。

 1945年(昭和20年)10.9日午後4時、宮顕は網走刑務所を出所した。宮顕37才、百合子46才の時であった。ところで、この9日出所も謎である。政治犯の一斉釈放は10.10日であり、宮顕の場合は袴田同様に「治安維持法は撤廃されたけども、一般刑事犯罪との併合で起訴されているので、その取り扱いが微妙であった時期」の一足早い出所ということになる。この一日早い出所というのも問題にされていないが、考えてみれば不自然ではある。

 これについては、袴田の貴重な証言が為されている。

 「朝早くに所長がきて、『僕の責任で出すから出ていってくれ、『司法省に使いを出したけれども、その返事は待っておられない、君はハンストなんか宣言して、その体でどうするのだ。その責任まで負わされたらたまらない』と云って、これは彼の英断だったかも知れませんけどもね。宮本顕治同志が既に網走の刑務所から出所していたので、僕はそのことも云ったのです。『同じ罪名で無期懲役の宮本君が出ているのに、なぜ僕がここに閉じこめられていなければならないのか、君たち所長の責任だ』というものですから、彼は板挟みになって、『確かに治安維持法は撤廃されたけれども、その他の罪名は取り消しになっていない。従って併合罪があるので出せない』という通達が司法省からきているわけです。それで残していたんですね」。

 暫し黙して考えてみるに値するであろう。

 百合子は「9ヒデタソチラヘカエルケンジ」という電報を受け取った。釈放後東京の宮本百合子宅に戻ったのは10.19日。この十日間の宮顕の消息も闇に包まれている。同時期にあちこちの刑務所から開放された徳球、志賀ら指導者の面々は例外なく幾度にもわたって「GHQ」の調査を受けているが、宮顕にはその痕跡さえ明かされていない。これも不思議なことである。宮顕については「潔癖神話」ができるようにできるように作為されていると思う私は穿ち過ぎだろうか。

 こうして宮顕は百合子の元へ帰ってきた。国分寺の自立会を訪れたのは10.21日と言われている。すでに全国から党員が参集し始めており、再刊赤旗の一号を背負って全国に飛び立っていたあわただしい頃であった。百合子はこの頃、宮顕に「後家の頑張りみたいなところができているんじゃないか」と言われたようである。これが百合子の12年にわたる心労に報いた宮顕の言葉であったらしい。





(私論.私見)