死去前の百合子と宮顕との不仲考 |
(最新見直し2012.08.18日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ネット畏兄・宮地健一氏の「プロレタリア・ヒューマニズムとは何か−宮本顕治氏の所説について−志保田行」と「不実の文学 −宮本顕治氏の文学について 志保田行」は、「死去前の百合子と宮顕との不仲」に言及している。これは貴重価値情報であると思われるので、本サイトで確認しておく。
「死去前の百合子と宮顕との不仲」につき、志保田氏が初めてこの事実を具体的に明記した。それは、「宮本顕治が言ったことと、やってきたたことは違う。それを証明する具体的な行為の一つとして書いた」との思いから為したとのことである。これに対し、下半身行状指摘批判論は卑怯なりとの立場から逆批判する向きもあったようであるが、れんだいこが思うに一概には言えない。「小泉首相の人格と資質を問う」問題にも通底しているが、これを為さねばならないこともある。なぜなら、一般に、組織の長たる者はその責任の重さ故に、あらゆる角度からその長の指導能力あるいは指導傾向が検証されるべきであろう。この場合、政治的能力及び指導がその長の人格識見、下半身行状に密接な関係があると認められる以上、検証を客観化させるためにも長の人格識見論、下半身行状探査は必要と云えよう。 |
【宮顕と百合子秘書との親密考】 | ||||
志保田氏の労作により「宮顕と百合子の秘書との親密さ」が明らかになった。この二人の親密ぶりは、百合子臨終の際に、宮顕は百合子の秘書大森寿恵子宅へ行っており、当然臨終の立ち会いができていないほど非礼のものとなっていたことも明らかになった。その百合子の死因をめぐって死亡診断書が書き換えられていることも明らかとなった。ここでは、「宮顕と百合子秘書との親密」を検証する。
寺尾五郎氏は、宮顕と大森の仲について次のように述べている。
百合子の大森寿恵子氏への好意はその後、大森寿恵子氏が宮顕と親密になることで嫌悪へと転換している。米沢鐵志氏(当時62歳、宮本顕治秘書K氏の友人)は次のように証言している。
次の証言もある。
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【宮顕の不義密通批判言説について】 | |||
百合子氏死去よりわずか三、四年前の1947年、顕治氏は「共産主義とモラル」という評論を発表しているが、映画「シベリア物語」をあげ、文中で次のように書いている。
宮顕は、1992年の赤旗まつりでも次のように述べている。
宮顕のかような言説は断続的に説き継がれてきており、枚挙にいとまないので割愛する。 |
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「宮顕と百合子の秘書との親密化の成り行き」はよしんば有り得ることかも知れない。然しながら、当事者の宮顕自身がかような言説を為していたとしたらどうだろう。通念的には、持論を撤回するか、持論通りにするかの二つに一つを選ばねばならないところ、何食わぬ素振りで自身は持論に背き、人には持論を強制して恥じないまま教説し続け今日まで経過している。かような党最高指導者など有り得て良いことだろうか。一般に、「下半身の行状問題」についてはそれを難しいことだと弁えるところ、宮顕は強面(こわもて)の道徳倫理論を説教していることになる。その弟子の不破も又道理論を好む。こういう場合、まずは己の身を正しうしてから為すべきだろうが、己らはフリーハンドであるから余計にケシカランことになる。 |
【死去前の百合子と宮顕との不仲考】 | ||
百合子の「風知草」は既に、宮顕を重吉の名で登場させながらその非共産主義的、家父長的権威主義の実態を暴露していた。抑制された筆致ではあるが、顕治氏との確執をも記している。この振幅はその後強まりこそすれ逆にはならなかった。
藤本功氏も次のように証言している。
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以上のことから次のことが判明する。「百合子と宮顕との不仲」の間接的経緯は、百合子の宮顕に対する不審から発している。直接的経緯は、宮顕が秘書大森女史と不義密通関係に入ったことによりもたらされた。その百合子が、当初の死亡診断書では「急性紫斑病」で急死する。これ以上の推測は控えるが、宮顕にはこの種の事が異常に多いということ知られねばならないだろう。 2005.5.8日 れんだいこ拝 |
【宮顕の獄中生活不審考】 | ||||||||||||
「獄中生活」につき、宮顕にはこの種の逸話が皆無であることも解せない。百合子との間のやり取りにもかような部分が皆無であることに気づかされる。検閲がそうさせたというのであろうが、文芸作家ともなればいかようにも工夫はなしえたのでなかろうか、と思うけど。二人が語り合うのは、専ら宮顕の歴史法則的世界観における確固不動の信念の披瀝と相互の古今東西の文芸論の知識のひけらかしばかりである。残りの部分は、
それぞれの家族の現況と専ら宮顕からする山口の実家に対して百合子が嫁としての孝行を尽くすようにという下りである。
もう一つ気になることがある。
「査問事件」の真相をめぐって二人の間には箝口令が敷かれていたのかと思うほど触れられていない。二人とも時事社会問題に関心の強い文芸作家である。当然の事ながら宮顕が関与した事件の真相をお互いに伝え合うことに何のためらいがいるであろうか。なぜ百合子は尋ねていないのだろう。百合子は法廷にも出ているわけだから確かめることは多々あったと思われるのに。これも検閲のなせる制限であったのだろうか。
結局、宮顕は、百合子の反対の前にこの提案を取り下げた。が、8ヶ月後に百合子は自分から宮本姓を名乗ることを公にした。既述したように戸籍上だけの姓の変更はすでになしていたが、この度ペンネームもまた中条から宮本へと改めることにしたということである。百合子の無期囚の夫に対する思いやりであった。10.17日、始めて宮本百合子名で作品発表する。 以降彼女の身辺も忙しく、検挙・拘留を繰り返す。最終的に保護観察処分に附されるが、担当主事は特高課長毛利基であったようである。偶然かも知れぬが、こうして宮顕も百合子も毛利氏の掌中に入れられることになった。ここでも不思議なことが明らかにされている。前掲の平林たい子「宮本百合子236P」によれば、宮顕は獄中で、百合子の予審調書を手に入れて読んでいる節があるとのことである。後になって、百合子がよく闘ったところや、守るべきとき守れなかったところを指摘している、ということである。宮顕は、どうして百合子の予審調書にまで目を通しえたのだろう。 なお、百合子に関しての疑惑もここに書いておくことにする。女流作家平林たい子も検挙されたあと病床にあったが、その病床を見舞った知人が、百合子が満州国大使館の招待した婦人作家の集まりに出席していたことを知らせている。「私には信じられなかった。が、その人は自分の目で見たことを力説した」とある(平林たいこ「宮本百合子」238P)。これが事実とすると、百合子も転向していたことになる。確かに、著作「風知草」には、文学報告会の作品集に小説を出そうとしたことについて、ひろ子(百合子)と重吉(顕治)との会話が綴られている。「いわゆる『時局に目覚めた』転向はごく彼女の身辺近くまで及んでいたのである」と平林は控えめに書いている。 この間百合子は可能な限り面会に出向きまたは手紙を書き上げており、宮顕の健康を案じて言われるまでもなく差し入れ弁当を業者手配で届けており、冬着・夏着・布団と時期に応じて届けている様もうかがえる。言われるままに幾百冊の本と薬と栄養剤を届けてもいる。家計の心配をほとんどすることなく、 百合子に注文することができたということであったように思われる。 宮顕の読書量については、自身が次のように述べている。
その具体的著作は「十二年の手紙(1934.12.13日、市ヶ谷刑務所)」に記されている。
ここに貴重な証言がある。前掲の「偽りの烙印」(渡部富哉.五月書房282
P)によると、「尾崎と4、5房先に神山茂夫がいた。この二人は顔が利くので、めったに買えない獄内売りのあめだまを手に入れられた。神山は時折房を出て勝手に廊下をよぎり、私の房の扉を開け、『おい、伊藤律がんばれ』とあめだまをくれたりした。その丁度真上に当たる二階の独房に宮本顕治がいた。三度とも差し入れの弁当を食べ、牛乳を飲み、尾崎の薄着とは違いラクダ毛のシャツや厚いどてらを着ていた」とある。
この神山の物言いに対して、高知聡氏は著者「日本共産党粛清史」の中で、「夜郎自大な狂気の言」と嘲笑している。が、私はそうは受け取らない。不思議なことに当時の獄中下党員で宮顕と神山は別好待遇を受けている形跡がある。神山のこの言い回しには何らかの背景が有るのではないかと私は見なしている。ついでに記しておけば西沢隆二も何か変な気がしている。
なお、宮顕は次のようにも述べている。
「網走の覚書」には、「網走刑務所は、看守のテロの点では、巣鴨よりもっと野蛮だった」と次のように記されている。
当人はかくも威風堂々さ、看守のみならずその長まで詫びさせる獄中闘争の様子を得々と語っているつもりのようである。わたしは、公判陳述の大嘘からしてこのあたりのそれも信用しない。信用したとしても、この程度のことに対して「看守のテロ」とは何と大袈裟なことかと思う。それと、「私は早速看守長に面会を申し出て、その暴行を詰問した」もおかしな記述である。宮顕の抗議を看守が聞き分け、看守長に伝わり、面会が出来て、暴行を詰問し得たということになるが、何と聞き分けの良い網走刑務所であることよ。時期は異なるが、徳球、市川正一元委員長らも厳寒の網走刑務所に居た筈であるが、その時の様子といずれ比較させて見たい。
当人はこの後に続けて獄内待遇改善闘争の「札付き」になっていたが、「それらの闘争の中でも、正規懲罰を加える口実と隙はつかまれなかった」(「網走の覚書」)からであるとしているが、うそ臭い。どういう理由付けしようとも、殴られることがなかったことは確かなようである。とすれば、「網走刑務所は、看守のテロの点では、巣鴨よりもっと野蛮だった」も、宮顕自身に対しては嘘になるし、真実とすれば逆に巣鴨生活がいかに大甘なものであったかを逆証左することになろう。
暫し黙して考えてみるに値するであろう。 |
(私論.私見)