百合子の履歴

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7).1.30日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「百合子の履歴」を確認しておく。宮本(中条)百合子の生涯は非常に面白く興味深い。

 2021.9.5日、佐藤太郎(仮)「
宮本百合子』その1」。2021/09/05、佐藤太郎(仮)『宮本百合子』その2 、中村智子著「宮本百合子」その他参照。

 2005.5.5日 れんだいこ拝


【誕生】

 1899(明治32)年2.13日、宮本百合子は東京で生まれた。本名中條ユリ。

 父は中条精一郎。米沢藩の家老で後に福島県下で開拓の事業にあたった人の子として生まれ、東大を卒業し文部省技官になるというエリートであったが、官尊民卑の強かったこの時代に退官して建築家に転身し、後に「日本有数の建築家」となる。母は佐倉藩の重役で明治時代の有名な学者であり、日本弘道会の創設者で貴族院議員も務めた西村茂樹の娘で、華族女学院を優等で卒業した才媛である。


【幼少期】
 百合子は経済的に恵まれたアッパーミドルとしての生活を享受して長女として育った。百合子四歳の時、父がロンドン留学に旅立ち、四年間母子で過ごしている。百合子はこう書いている。
「二十七八歳であった母は、五つの私を頭に三人の子供を育てながら、父が帰朝して子供らを無事にわたしたらそれで死んでもいいという心持で、その日その日をがんばって暮らしていたのであった」。
 本郷誠之小学校、お茶の水高等学校に学んだ。彼女は女学校に入学した11歳の年にすでに小説を書きはじめ、女学校時代にすでに多くの詩、小説、戯 曲、評論を書いている。

【17歳の時、「貧しき人々の群」で文壇デビュ−】

 百合子は日本女子大英文科に入学する。但し、日本女子大を「一学期行っただけで中退」する。17歳の時、「貧しき人々の群」を発表しセンセーションを巻き起こしている。「貧しき人々の群」は父方の祖父政恒が開拓を行った福島県の村をモデルにしている。難事業を実現した政恒及び中条家は彼の地で絶大な威信を誇り、政恒が官を退くと開成山の人びとは、村の恩人を土地に迎えたいと衆議一決し、「中条閣下宛の開成山への転住請願状」を連名で送って懇願した。そして「村を見晴らす高台に中条邸が建てられ」ると、「その頃開成山に住んでいた小学生の久米正雄は、「村の王なる中条家」のために村びとは尊敬をもって働き、「其の白壁が村の入り口に輝くのを、一種の誇りにさへ感じ」たと記している」。

 百合子は村人が祖父を恩人のごとく感謝しているにも関わらず、村人の生活は依然として貧しく厳しいままであるのを冷静な目で記録している。トルストイなどからの影響の強いヒューマニズムに基づくもので、十代後半で、祖父が名士として崇められている村にこの批評眼を発揮するのはその才能を示している。

 「貧しき人々の群」は文壇だけでなく、社会的な事件として、新聞の大きな記事になった。「天才文学少女忽然と現る」という大見出しがつけられ、百合子の可憐な写真が各紙をにぎわした」。皮肉な批評家として知られた堺利彦まで激賞した。一方で、推薦者である坪内逍遥が「手を入れた」、あるいは「母親の葭江女史が娘の名前で書いたのだらう、なんていふあらぬ陰口さへ叩く者があつた」。この中傷を招いたのにはそれなりに理由もあった。父が紹介者をもっていた関係から逍遥に原稿を見てもらうことができたのだが、「おそらく葭江が熱心にうごいて、約束をとりつけたのであろう」。


【久米正雄との交友】

 百合子より8歳年長の久米は「十代の百合子がつきあった男性の一人」だった。17歳の百合子は日記に「久米氏が徴兵検査を受けに行くそうだ。どうか当たらないように」と書いている。翌年の正月、「久米さんが来たそうだ。かえる一寸前まで居たそうだのに、会いたかった。大変会いたかった」と記している。雛まつりの日に久米が芥川龍之介をつれて訪問したときには、かなり冷淡な批評を下している。百合子は「久米氏にはかなり久しぶりであったが、違って居る。どちらかと云えば少しみじめに変って居る」とし、わずか二カ月の間に「冷淡」になっている。一方初対面の、この直前に「鼻」などで鮮烈なデビューを飾っていた芥川については、「芥川と云う人は久米より頭のきくと云う風の人で、正直な純なところは少し少ない。……顔はかなりいい方だが、凄い」と評している。この頃、「久米に夏目漱石の長女・筆子との有名な恋愛=失恋事件があったのはその前後のこと」で、百合子も噂で何か聞き及んでいたのかもしれない。


【百合子検挙、母の葭江との面会問答】
 「百合子がはじめて検挙されたときに葭江は面会にきて、「国体というものを一体お前はどう思っているのかい?」などと議論している。百合子は「起る顫えるような憎悪を抑制して苦々しく笑った」(「刻々」)。葭江の遺稿集『葭の影』の「日記抄」には、左翼全盛時代からの百合子の左傾を憂慮し、反撥し、拘留されたのちは地獄の苦しみにもだえる母の姿が投影されている。葭江の没後に書かれた「」で、百合子は母の保守思想を憎みながらも、母の全生涯を回想し、愛情の沁みとおったふかい理解を述べている。
「母はめずらしく強烈な性格の女性であり、人間としての規模も少なくなかった。母の属した社会の羈絆がそれを圧しつけて萎えさせたり、歪めさせたりさえしなかったら、鍛錬を経て花咲くべき才能を持っていたと思う。母は、今の世の中のしきたりにおとなしく屈従して暮らすには強く、しかし強く社会的に何事かを貫徹して生きるためにはまだ弱かった」。

 娘が左傾化し、検挙されるにいたって、「地獄の苦しみにもだえた」。

【「風に乗って来るコロポックル」執筆】
 「貧しき人々の群」で一躍デビューした十八歳の百合子は次に「民族的滅亡に追いこまれているアイヌのことを書きたい」と北海道で取材し、没後に発表されることになる「風に乗って来るコロポックル」を書いた(発表されたのは没後)。 

【渡米、荒木茂と結婚、離婚】
 仕事で札幌に来ていた父と合流しその帰途、「来月アメリカに出かけるが、ついてこないか」と言われ、渡米し、ニューヨークでコロンビア大学の聴講生となる。コロンビア大学で古代ペルシャ語の研究をしていた荒木茂と出会い結婚する。百合子の代表作でもっとも広くよまれている自伝的小説『伸子』はこの頃を振り返ってのものだが、失敗に終わることになる結婚生活については詳しく述べてはいない。

【湯浅芳子との出会い】
 再び独身に戻ろうとしていた頃に百合子は尊敬する作家の野上彌生子から、編集者でロシア文学にも通じている湯浅芳子を紹介される。『伸子』の最終章にこの出合いが描かれ、同居を始めた二人の生活について戦後に『二つの庭』、『道標』で書いている。『二つの庭』で「湯浅芳子をモデルとした素子は、『青鞜』時代の女性解放運動が生んだ一つの典型「女であることをことさら否定して、男のようにふるまうことで同権を主張する女性」としてえがきだされている。
「百合子と湯浅芳子との共同生活は、世間から同性愛という特殊な興味でみられていたが、百合子はこの作品で、そういう世間の誤解を解こうとする意図もみえる。つまり、素子は異常なのではなく、男性への反撥としてことさら自らを男っぽく表現し、それを押し出すことで自己を支えているにすぎないというのである」。

 『二つの庭』には、記者あがりの男性が遊びに来て、「我々男性には大いに興味があるんですがね、一体、どういう風にやっているんだろうかと思って」と言われるという場面がある。「女の友達で、私達にこんなことをいったひとはいなくてよ」と「伸子が激しく」言うと、素子は「かすれの伴ったもち前の声で皮肉に落ちついて」こう言った。「まあ心配してくれなくてもようござんすよ。わたしは、ともかく、男が女に惚れるように、女に惚れるんだから……」。男が帰ると素子はこう言って怒った。「なんだい、ぶこちゃん、どうして夫婦のように暮らしているのによけいな世話をやくなっていってやらないんだ、体裁屋! ああいう奴には、ざっぷり冷や水をあびせるに限るんだよ。二人が暮らしている以上、いいたいことはいわしとく位の実意がなくてどうするのだ」。

【湯浅芳子とソ連、ヨーロッパへの三年に渡る長期滞在】
 芳子との出合いは百合子を大きく変えることになる。その最大のものが芳子と共に行ったソ連、ヨーロッパへの三年に渡る長期滞在であった。この生活については『道標』で書いているが、「わがままで、敏感で、感情の不安定な素子は、伸子にむかってしばしば癇癪をぶつけている」。芳子は『いっぴき狼』において、「伸子ばかりがいい子で、あなたにも言いぶんがあるでしょう」と何人もの人が慰めようとしたが、「あれは小説ですよ、小説には抗議できませんから」としつつ、こう続けている。「しかし全体としてわたしはあの小説で損をするよりずっとトクをしている。あの小説をよんで素子を嫌いだと言ったひとはいない。それにくらべて伸子は先へゆくほど大分評判がわるくなりだした。独りよがりが過ぎたのであろうか」。

【百合子が中条家の人々とヨーロッパで合流、芳子も同行】
 百合子は中条家の人々とヨーロッパで合流し、それに芳子も同行した。『道標』には、ベルリンで千田是也をモデルにした川瀬勇から「同性愛の女ばかりのカフェーに」案内されたときのことが描かれている。「伸子は、突然、目がさめたように自分がワンピースを着ていて、素子の着ているのはスーツだ、という事実を発見した。……ここに集っている倒錯的な女たちには互いの倒錯を見つけ合う一つの目じるしとなっている身なりだということに気づいたのだった」。同性愛と見られるのを否定しようとする百合子/伸子の保守性をあげつらうのは時代を考えれば酷というものだろう。二人を結びつけた野上彌生子は、『鬼女山房紀』に収録した日記で、「少なくとも中条さんが以後恋をしないとは考えられない。その時から離別が彼らに生ずるわけだ。そうしてその時一番辛い役目を引き受けるのは湯浅さんだと思う。しかし、まあ、水の流れは黙って、じっと見ているほかに仕方ない」と、俯瞰して冷静に分析しており、この通りのことが二人に起こることになる。瀬戸内寂聴は湯浅について『孤高の人』を書き、また沢部ひとみの『百合子、ダスヴィダーニヤ 湯浅芳子の青春』を原作に、2011年(つまり百合子没後60年)には『百合子、ダスヴィダーニヤ』が映画化されている。

【帰国後の社会主義者活動】
 1930年11月、百合子と芳子は三年間のソ連、ヨーロッパ滞在を終え日本に帰ってくる。百合子は熱烈な社会主義者になっていた。二人を出迎えた野上彌生子は、「百合子たちがイキな断髪で一等車から颯爽と降りてきたと証言している」。1930年といえば、この二年前には張作林爆殺事件が起こり治安維持法で最高刑が死刑となっており、この一年後には満州事変が起こる。大正デモクラシーから軍事国家への端境期であったとしていい。

 百合子は徐々に左傾化していった。百合子たちがソ連を訪れた頃、レーニンの死後の権力抗争が落ちつき、政情は比較的安定していた。スターリンによる粛清が始まるのはまだ先のことだ。百合子は『
新しきシベリアを横切る』にこう書いている。「ソヴェト同盟における三年間の滞在は、実に多くのものを教えた。階級的にどう生きるべきかということを自分に教えたのも、この三年間の見聞の結果だ。自分は本からの理屈でなく、体でそれを学んだ」。36年にソ連を訪れたジッドはスターリニズムの暗い影を感じこれを批判する。百合子はこれに対し反論しジッドを非難している。もし百合子があと数年前か数年後にソ連を訪れていたら、その考えはいささか異なったものになっていたのかもしれない。帰国後百合子はプロレタリア作家となり、左翼知識人として積極的に評論などを書きまくった。官憲の警戒も増大していく。

【宮本顕治と結婚】
 1932年2月、百合子は9歳年下の宮本顕治と結婚する。顕治が自ら書いたところによると、百合子と芳子は目白の一軒家に同居していたが、百合子に芳子のことについて聞くと、「結婚が妨げられる間柄ではない」と答えたとしている。そして「二人の結婚の話をきくと湯浅は非常に怒って、百合子が外出しようとしても、宮本に会いに行くのだろうと、靴や着るものをかくしてしまう」ことさえあり、百合子は裸足で外へ出るとタクシーで実家によって妹の服をかりて顕治の家を訪れ、「目白の家には帰れない」と訴えたという。

 これに対し芳子の回想はまったく異なっている。「顕治と手塚英孝が湯浅からロシア語を習うために通ってきていたが、百合子は顕治と親しくなると、湯浅の留守に女中を使いにだし、顕治を家へ連れこんだ。それを湯浅にかくしてやるので裏切られたと怒った」、という。百合子の母の葭江は「顕治をみて、文芸評論をかく人だというので、もっと文士のようかと思ったら、スポーツマンのようだね」と言っている。父の精一郎は娘夫妻に「二人でスウェーデンに行かないか、旅費その他を援助してやると提案した。スウェーデンは民度がたかく、共産主義思想発生の余地が少ないというのが、当時の保守的世論であった」。両親ともに娘の「赤」との結婚に不安を持ちながらも、縁を切ることはなかった。中条家の人々は弟妹も含め百合子と思想を共にすることはなかったが、良好な関係を保ち続けた。

【百合子も宮顕も投獄される】
 幸せに満ちた新婚生活に、突然、嵐が襲った。二人の結婚直後に「コップ暴圧」があり、中野重治らが検挙された。「百合子は当時、塩尻、下諏訪などの製糸工場の文学サークルの仕事で長野に行っており、新聞でそのニュースを知った。顕治もそのときは検挙をまぬがれた。二人は、東京をはなれて二、三日、国府津の海岸にある父の別荘へ行くことにした」。このときのことについて顕治は「二十年前のこと」で「美しくえがいている」。精一郎は当時国府津から東京に通っていたが、二人がついた時は不在だった。「その夜父が帰ってきた。父はわたしたちの来たことをひどくよろこんだ。以前から一緒に国府津にでも遊びにこいと伝言していたからである。まず父は、どうして暖炉に火をたかないのかとききながら、自分で薪を入れた。そして君たちは二人づれだから暖炉がなくても暖かいだろうが、年寄りには寒くてねと私たちをからかった」。精一郎は二人を引き留めようとしたが、東京で人に会う約束があったため戻ることにし、顕治は約束通り人に会いに行った。百合子は実家に戻ったところ特高に検挙され、顕治は地下にもぐった。以後十三年間、二人の生活はひき裂かれた。新婚生活は二カ月で終わった。顕治は翌年に逮捕され敗戦まで獄中で過ごすことになり、百合子は繰り返し身柄を拘束されるようになる。1935年に葭江と精一郎は相次いで亡くなるが、百合子は両親の死をいずれも獄中でむかえた。百合子と顕治が法的に正式な結婚をしたのは1934年12月のことで、これは当時「獄中結婚」などと話題になった。百合子としては結婚直後の弾圧のためにおくれていた入籍手続きをしたにすぎなかった。また法律上の配偶者でないことを口実に、面会や差入れを妨げられたためでもあった。

【中条百合子から宮本百合子に改名】
 1937年の秋、百合子が筆名を中条百合子から宮本百合子に改めた。「顕治の誕生日への贈り物とした」とあるように、獄中の顕治への百合子からの連帯のメッセージであった。筆名の変更は「その年の二月ごろ顕治の方から言いだされたが、はじめ百合子は賛成していない。百合子は逡巡した。この年の2月の顕治への手紙に次のように書いている。
「名のこと。私は昨夜もいろいろ考えたけれど、まだはっきり心がきまりません」。
「貴方は御自分の姓名を愛し、誇りをもっていらっしゃるでしょう。業績との結合で、女にそれがないとだけ云えるでしょうか。妻以前のものの力が十分の自立力をもち、確固としていてこそはじめて、比類なき妻であり得ると信じています。良人にしても。私たちは、少なくともそういう一対として生きているのではないでしょうか」。

 戦後、百合子の夫への愛を示すエピソードが『風知草』にえがかれている。百合子の分身であるひろ子が、顕治をモデルとする重吉の身支度を手伝いながら「自分でカフス・ボタンもつけられないなんて、わるい亭主の見本なのよ」と言うと、「遅刻しそうになっていた重吉は、口もきかずに出て行った」。重吉は夜に帰ってくると、「夕食の支度ができているのに、ひるの弁当があまっているのを鞄から出してまずそれを食べはじめた」と、なんとも嫌味っぽい行動を取る。重吉は「俺も甘えていたんだ。――わるい亭主の見本だと思われているとは思わなかった」と云う。これも反省の言葉というより嫌味にしか聞こえない。「自分のことは自分でするのがあたり前なんだから、もうすっかり自分でする――監獄じゃそうしてきたやって来たんだから」と言う。ひろ子は軽い気持ちで口にした冗談が重吉を傷つけたと狼狽し、謝罪して、重吉の表情がほぐれてきたのを見て「生きてかえって来た、生きてかえって来た」と「うれしさで、とんぼがえりを打ちたいよう」になって云々。

 平林たい子は1948年に行われた座談会で、「仮りにわたしのような女だったら、あんな亭主の面は、一つひっぱたいてやりますよ」と言っているように、顕治の態度(小説であるが、おそらくこれは事実に基づくものだろう)と百合子が「年下亭主のわがまま」をそのまま受け容れるのには当時でさえ違和感を持たれていた。この批判は百合子も承知しており、「封建的な女だと言われるんですけど、宮本は刑務所に十二年も入っていたでしょう」と弁明している。「刑務所ってところはね、看守が何もかもやってくれるんです。まあ「天皇」なんですね。……ですから、家へ帰ってからも刑務所の習慣がしばらく抜けないんですね。ドアーなんかの前に黙って立っているんです。それを私がちょこまか開けてやったりするもんだから、そう言うんでしょうけど、……いたわってあげなくちゃあ、十二年も刑務所にいるなんて!」。

【実家の宮本家とも良好な関係】
 百合子は中条家と良好な関係を保っただけでなく、顕治の実家の宮本家とも良好な関係を築いた。顕治の実家は「田舎の小さな米穀肥料商で、不況の波に煽られて破産し、当時も負債を負っていた。顕治は革命運動に入ったことには露ほどの悔いもなかったが、両親の苦労を現実にはなんら助けることができず、弟たちに重荷を負わせていることを考えると、胸中ふかく苦しんだ」。超エリートと考えられた東大に進んだ息子が左傾化したうえに検挙されたというのは両親にとっても堪えただろう。顕治の場合は「スパイ査問事件」もあり、治安維持法にひっかかっただけではなかった。百合子は宮本家から歓迎された。百合子は顕治の心をくんで、しじゅう贈り物を送ったり、父の病気見舞い、弟の出征・婚礼、父の葬式・法事と、なんども山口県下の顕治の生家に行き、顕治のために得意の描写力を発揮して島田の家の様子を詳細に伝えている。百合子の没後、顕治の母美代はこんな回想をしている。「リンチ事件」について、「誰が信用してくれなくともおばあちゃんとわたしだけが信用しましょう言うてくれるので、わたしも百合子さんが言うてくれるんだからと、どんなに心強かったか知れません。百合子さんが来ると家中陽気にしましてね。最初来たときも弟や従妹にゴムマリに目鼻つけたみたいだけど一しょに遊んでね言いよりました。わたしもね百合子さんは顔もとがようて色が白うて目もと鼻もともほんとにいいのじゃけど、も少し、おしりが細うならんかの言うて大笑いしょったんですよ」。美代はこの「嫁ごとしての百合子さん」でこうも述べている。「あれは昭和十年でしたか、わたしが紋つきの羽織きた百合子さんを連ろうて顕治の嫁ごですいうて近所まわりをしたもんですが、若いもんには若いもんのように年よりには年よりのように誰とでもよう話があうて、親切がこもるので、あんないい嫁ごはないと言われてます。書物するような人は細かいことはよくできんもんですに、百合子さんは島田に来ると私は嫁さんよ云うて襷(たすき)かけてご飯炊いたり、風呂水くんだり、自動車業でしたで弟たちが夜おそうなって帰ると、それはよう世話してやってくれますので、弟たちがねえさんはほんに気がねのない人だ。兄さんは仕合わせだといゆも言いよりました」。顕治の父は中風でほぼ寝たきりで、百合子は定期的に義父に栄養剤を送り続けた。百合子は自ら「嫁さん」を名乗っている。「女性に積極的な生き方を求める百合子は、「女らしさ」という言葉で若い女性ののびやかな自然を委縮させる旧い女性観を弾劾した」が、一方で自身としては「嫁」としての役割を果たさねばという意識に捉われていたところもあった。

 美代の言葉にあったように、百合子は太っていた。1942年は六十八年ぶりといわれた猛暑であった。身柄を拘束され、小さい窓から西日のはいる狭い監房内で、百合子は体じゅうあせもになり、ついに熱射病にかかった。百合子の友人の医師の佐藤俊次は百合子の弟妹に頼まれて夜中に巣鴨拘置所に駆けつけ、交渉してようやく翌朝の八時頃、昏睡状態の百合子を引きとる許可が下り、寝台車で林町の家に連れ帰った。佐藤はこの時をこう回想している。「百合子さんは全身浮腫のため平生の二倍にもなったと思われるくらいふくれていて、筋肉が弛緩しているせいか、大きなつきたての餅をころがしたようだった」。「こんな病気には素人とあまりかわらない」。

【戦後の党活動】
 戦後に共産党で「所感派」と「国際派」の抗争が生じると、顕治とともに国際派と見なされた百合子にも誹謗・中傷が集中した。「プチ・ブル文壇の寄生者」とされた百合子は目の敵にされ、こんな非難が加えられた。
「第一に彼女はブルジョワ出身であり、大きな家に住み(百合子は戦後ずっと焼けのこった実家に住んでいたが、戦後の住宅不足からその家には何世帯も同居していた)、ブルジョワ文壇で活躍し、そして太っていた(!)(白米ばかり食べているから白くて太っている」と悪口をいう者もあった)」。

 百合子の肌が白かったという証言が多い。この白い背中一面にあせもができた。壺井栄は次のように回想している。

「双肌ぬいだ百合子さんの背中を、特高たちの目から守るように私はそのうしろに立ち、水で薄めたアルコールでしぼったタオルで拭いてあげたながら、思わず涙がこぼれた。白い、きれいだった百合子さんの背中はびっしりとあせもでおおわれていて、しぼりかえる度にタオルは垢と脂でよごれてくるのだった」。

 武田泰淳は小説『風媒花』でこのあたりについて、ある登場人物にこう言わせている。

「『労働文芸』の指導者たちは、文学的業績から言ったら問題にならない。そりゃ『文学集団』連中にはかないっこないんだ。ただ、彼等はつけ元気でも元気はあるよ。日共の主流派の代弁者だからね。鼻いきの荒い彼等は国際派をしゃにむにやっつけるために、『文学集団』をやっつけようとしているだけだろ。宮本百合子のやっつけ方だって、まるで失敗している。あれじゃ反感をさそうだけだよ。政治主義の上にあぐらをかいて、文学を甘く見てるとも言えるな」。

 元左翼で戦後は進歩的文化人を批判した三好十郎は「赤貧の中に、深夜たゞ一人で、ひときれのパンを自分の涙でしめらせて食べたことの無い人間は、共に人生を語るにたりない」とし、「宮本百合子の生まれ育ったような邸宅の裏門のゴミ箱につかまって、苦しい息をはきながら、『こんな家の中に、食いふとって暮らしているヤツラは永遠に自分の敵だ』とつぶやいたこと事も二度や三度では無かった」としつつも、「やっぱりこの人はえらい。日本に、よくも、これだけの女が育った」とし、それでいながら「高度のブルジョワ気質」がやはり嫌いだと、屈折したことを書いている。福田恒存は「宮本百合子は近代的自我のコンプレックスと無縁な人間だと評する。驚くべきオプティミズム、いまだかつて自尊心を傷つけられたことのないお嬢様育ちの臆病、精神と肉体との対立・自我と他我との対立という近代的苦悩は、宮本百合子の幸福主義では絶対に歯がたたないとして、女子学生にかつて『伸子』を読むようすすめたが、百合子の文学は速く卒業してしまわなければならない、と言っている」。
 百合子が初めて検挙された際の、モスクワでも一緒だった「秋田雨雀の感想は、世間の意見を代表していたのだろう。百合子の父中条精一郎は日本有数の建築家であり、なに不自由なく暮らしていた。天才少女とさわがれて以来の閨秀作家が、恵まれた環境と恵まれた才能をすててプロレタリア陣営へ走り、監獄へまではいることはないではないか、というのが世間の常識であろう」。戦前戦中、戦後も所詮はブルジョワのお嬢さんという揶揄は左右双方からなされ、百合子本人にも当然このような見方は耳に入っていただろう。






(私論.私見)