百合子の宮顕との感情的齟齬史考、百合子「風知草」断片考

 (最新見直し2012.08.18日)

【百合子の宮顕との感情的齟齬史考1、戦前篇】
 「死去前の百合子と宮顕との不仲考」の補足として、「百合子の宮顕との感情的齟齬史」を整理しておく。

 まず、百合子と宮顕との出会い、その後の交際について記しておく。二人はナップで知り合い、二人と も他のプロレタリア文学及び文芸評論で、諸作家のプチブル性またはプロレタ リア的視点の半端性等々に対して公式論的立場から厳しい批評をなしたという共通項が見いだされる。この性癖の共通性が宮顕と百合子の絆となってか、二人は接近していく。

 この時、百合子からする宮顕像は畏敬の人であったと思われる。その一つは、百合子が高く評価する芥川龍之介文学を宮顕が「敗北の文学」で見事に斬って捨てた切り口の鮮やかさに対してであっただろう。百合子はこれに参った。次に、宮顕が百合子よりかなり年下ながら既に党員であったことに対する畏敬であろう。且つ宮顕は党内出世階段を登り龍していた。これらのことにより、百合子は宮顕を畏敬し、その分喜んで献身していく身になったのではなかろうか。

 他方、れんだいこが観るところ、宮顕の百合子に対する慕情はいつも冷静沈着である。出会いから交際過程での宮顕の求愛に何となく不審を感じている。もっと云えば、政略結婚の臭いさえするという思いがある。往復書簡集「12年の手紙.上下2巻」に於ける宮顕の百合子に対する愛情表現がいつも理知的であり過ぎる。その後の関係も然りである。そう思うのはれんだいこだけだろうか。この問題については折を見ながらであるが、各種資料を取り寄せ考証していく予定である。

 次に、「獄中結婚」について考察する。百合子は、獄中下の身になった宮顕の面倒を見る為、敢えて「獄中結婚」した。これは、当時の新聞紙面を大きく飾った。その結果、百合子は可能な限り面会に出向きまたは手紙を書き上げており、宮顕の健康を案じて言われるまでもなく差し入れ弁当を業者手配で届けており、冬着・夏着・布団と時期に応じて届けている。言われるままに幾百冊の本と薬と栄養剤を届けてもいる。宮顕にとって、家計の心配をすることなく、 あれこれ注文することができた百合子の存在はこの上なく貴重であったであろう。

 その百合子が、宮顕と初めて感情的齟齬した経緯が往復書簡集「12年の手紙.上下2巻」により判明する。宮顕は、百合子38才記念の贈り物として、第一の贈り物として堅固な耐久力ある万年筆、第二の贈り物としてマルクス・エンゲルス二巻全集を届けている。獄中の身でこれらをどうやって送り得たのかは判らない!が贈呈している。この時併せて中条の名前で小説を発表するのを止め、今後は宮本姓にしてはどうかと申し出ている。それは、宮顕からする貰った者が光栄であろう筈の「最大のプレゼント」であった。

 宮顕の大変な自信家というかいやはや何とも言えないものがあるが、この時初めて百合子は抵抗を見せている。百合子は、それまで使ってきた「中条百合子」に愛着を示したのである。次のように反発している。
 「名のこと、私は昨夜もいろいろ考えたけど、まだはっきり心がきまりません。単なるジャーナリズムの習慣でしょうか?---そのことでは率直に言って大変悔しかった。そして何だか腹立たしかった。私の生活の土台!」
 「あなたはご自分の姓名を愛し、誇りを持っていらっしゃるでしょう。業績との結合で、女にそれがないとだけ言えるでしょうか。妻以前のものの力が十分の自確固としていてこそはじめて比類無き妻であり得ると信じます」。

 結局、宮顕は、百合子の反対の前にこの提案を取り下げた。しかしそうなると今度は百合子方から受け入れ、8ヶ月後の10.17日、始めて宮本百合子名で作品発表する。既述したように戸籍上だけの姓の変更はすでになしていたが、この度ペンネームもまた中条から宮本へと改めることにしたということである。それは、百合子の無期囚の夫に対する思いやりであった。

 宮顕の獄中時代のその後の百合子と宮顕との感情的齟齬史は分からない。

 2005.5.9日 れんだいこ拝

【百合子の宮顕との感情的齟齬史考2、戦後直後篇、宮本百合子「風知草」断片考】
 戦後、宮顕が釈放され、ようやく共に暮らすことになる。その時の初っ端の感情的齟齬が「風知草」の下りとなる。実は、れんだいこは、百合子の「風知草」を読んでいない。近々読み上げ、感想を記そうと思っている。現時点でれんだいこが感応しているのは次の下りである。

 「獄中12年」を経て釈放された宮顕が百合子の下へ帰ってきた。「風知草」は、この時発した重吉こと宮顕の言葉を記している。何と、宮顕の「獄中闘争」の期間をひたむきに下支えし、その帰りを待ちわびていたひろ子こと百合子を労(ねぎら)って発した言葉が「後家の踏ん張り」だと。この言葉を投げかけた宮顕は文芸評論家であるからして言葉の一言一句については鋭敏である筈である。それを思えば何と残酷無比な言葉であっただろうか。


 「将門」の「宮顕と宮本百合子のことで(1992.09.26) 」も、「風知草」の百合子と宮顕の感情的齟齬の下りを取り上げている。それには次のように記されている。
 「『すっかり、考え直したんだ。何の気なく、してくれるとおりしてもらっていたんだが、俺も甘えていたんだ。−わるい亭主の見本だと思われていると思わなかった』。冗談よりほかの意味はありようもなく言った言葉が、重吉をそんなに傷つけたことが、ひろ子をおそれさせた。『御免なさい。わたしふざけて言ったのに−』。『しかし、ひろ子はしんではおそらくそう感じているところがあったんだ。……世間には良人のことは何でもよろこんでする細君もあるんだろうが。自分のことを自分でするのは当り前なんだから、もうすっかり自分でする。監獄じゃそうしてやって来たんだ』。『変よ、監獄じゃ、なんて!それは変よ!』。涙をあふらしながら、ひろ子は恐怖をもって感じた」。 (宮本百合子「風知草」)

 この下りをどう理解すべきか。サイト「将門」管理人の周・氏は、次のように記している。

 「これなんで言い合いしていると思います。宮本顕治が、ネクタイ結んだり、 カフスつけたり、ワイシャツ着たりすることが自分一人でできないからなので す。ひろ子(百合子)は顕治のひざにある、特高の拷問のあとをなでて納得します。拷問の痕を見て、それで彼が苦労したのを思って、ワイシャツを自分で 着ることもできない夫を、『しかたない』と考えてしまうのです。特高の拷問 と、そんなことも一人でできない夫のことは別な問題のはずです。こんな夫婦なんてありますか。それで思考停止になる夫婦なんて」。


 れんだいこは、周・氏のこの指摘に感応している。「風知草」を読み、れんだいこなりの感想を記そうと思っている。今思っていることは、この「感情的齟齬」を明記し世に発表した百合子はエライという気持ちである。この短い文章の中で、百合子は、宮顕の左派的人間資質としての異邦人性を表現しているのではなかろうか、萌芽的ではあるが。れんだいこはそう思っている。

 重要なことは、百合子が抱いた宮顕に対する「左派的人間資質としての異邦人性」はその後強まることがありこそすれ逆とはならなかったことを窺うべきである。それが、宮顕の百合子の秘書との密通に繋がり、百合子の急変死へと至る。その因果関係を立証することはできないが、れんだいこのアンテナにかかるのである。

 補足すれば、「風知草」では、百合子は宮顕のひざの傷を見て、「特高の拷問のあと傷」と看做し納得するが、れんだいこは宮顕のひざの傷が拷問の傷かどうかは不明と思っている。宮顕は元々柔道の猛者であり、この時代の傷である可能性もあるのではなかろうか。従って、とりあえず判明するのは、百合子がそう納得して、ワイシャツを自分で 着ることもできない宮顕に対し、「しかたない」と了解したということのみである。

 とりあえず以上記しておく。

 2005.5.9日 れんだいこ拝

【百合子の宮顕との感情的齟齬史考3、戦後篇】
 百合子は、「風知草」執筆後5年後に急死する。この間の百合子と宮顕との感情的齟齬史についてはおいおい考証していく予定である。

 2005.5.9日 れんだいこ拝




(私論.私見)