志位和夫の履歴は次の通り。1954年7月29日。千葉県印旛郡四街道町(現・四街道市)生まれ。千葉大学教育学部附属小学校、千葉大学教育学部附属中学校、千葉県立千葉高等学校、東京大学工学部物理工学科卒業。

 大学1年生の時、小選挙区制反対運動をきっかけに日本共産党に入党。宮本顕治の長男・宮本太郎の家庭教師を務める。大学卒業後、党東京都委員会に就職、早稲田大学などの青年学生運動を担当。1982年(昭和57年)から日本共産党中央委員会で勤務した。伊里一智事件での活躍を認められ、宮本顕治による抜擢で1987年(昭和62年)の第18回党大会で准中央委員に選出され、1988年(昭和63年)に書記局員に任命される。1989年(平成元年)に党中央委員に昇格し(日本共産党規約によれば、中央委員に欠員が出た場合は日本共産党中央委員会の決定で准中央委員を中央委員に昇格させることができる)、1990年(第19回党大会)で中央委員に再選され、第1回中央委員会総会で当時35歳の若さで党書記局長になる。この時以降、党幹部としてマスメディアに積極的に登場するようになった。議席を持たない非国会議員であったが、1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙に旧千葉1区より出馬して初当選して衆議院議員となった。以後、比例単独1位による連続当選。2000年(平成12年)の第22回党大会から不破哲三の後任として党委員長となった。2001年(平成13年)には党のTVCMに出演、ベルトを締めながら「身を引き締めて頑張ります!」と訴えた。2006年(平成18年)、日本共産党の委員長として初めて韓国を訪問。日本が韓国併合時代に政治犯を収容した西大門刑務所跡の歴史館を日本の政治家として初めて視察し、追悼碑に献花をした。その際、歴史館館長と会談をし、日本共産党は当時から朝鮮愛国者の独立の闘いに連帯しており、韓国とはこれまでいろいろな事情で交流できなかったが、歴史認識は同じであり、これからは交流をしていきたいと話した。2008年(平成20年)10月、ニコニコ動画に「志位和夫チャンネル」を開設[3]。2010年(平成22年)4月、歴代党委員長の中で初めて訪米した。

 非議員ながらも党幹部としてメディアに積極的に露出し、ソフトな風貌と口調、そして分かりやすく切れ味鋭いコメントで党内の人気を上げ、対外的にもソフトで開かれた党のイメージをアピールした。1993年に旧千葉1区より出馬して衆議院議員に初当選。選挙制度が小選挙区比例代表並立制に変わった後の1996年、2000年、2003年、2005年の総選挙では、いずれも比例代表南関東ブロック単独一位候補者として立候補し、当選している。不破哲三の後任として、2000年(第22回党大会)から幹部会委員長となる。平和・民主・革新の日本をめざす全国の会代表世話人の1人。衆議院議員(通算7期)。2007年5月、党首討論において民主党から共産党へ発言時間の配分することで志位和夫が出席することが見込まれていたが、公明党の反対により出席が中止になった。

 身長は180cm。血液型はO型。音楽は趣味を超えた「人生の一部」「生涯の一部」と語り、ピアノも演奏する。ロマン・ロランを愛読書とする。神崎武法(公明党元代表)とは同じ高校出身。

 実父は元・千葉県船橋市議会議員(日本共産党)の志位明義(1929年 - 2005年)であり、両親とも教員で日本共産党員であった。旧・大日本帝国陸軍中将志位正人(1889年10月22日 - 1945年5月6日)は祖父、第二次世界大戦終戦時の日本軍第3方面軍参謀(少佐)志位正二は伯父である。