れんだいこの宮顕逝去考

 (最新見直し2009.9.9日)

Re:れんだいこのカンテラ時評311 れんだいこ 2007/07/1
 【宮顕訃報に際してのれんだいこ論評】

 1997年9月、宮顕は、第21回大会で欠席のまま引退し、「名誉議長」に退いた。2000年11月、第22回大会で「名誉役員」に選ばれる(「名誉議長」のポストは廃止された)。晩年は東京都多摩市の自宅で隠遁生活を送り、党職員や家政婦が世話をしていた。最晩年は体調不良により入退院を繰り返す日々であったが、2007年7月18日、老衰のため東京都渋谷区千駄ヶ谷の代々木病院で死去。享年98歳。

 葬儀は近親者による密葬で行われた。喪主は長男の宮本太郎。8月6日、日本共産党中央委員会幹部会委員長・志位和夫を葬儀委員長とする日本共産党党葬が行われ、衆議院議長河野洋平、自由民主党幹事長中川秀直、民主党幹事長鳩山由紀夫らを含む1200人が参列した。

 2007.7.18日付け日共赤旗は、「訃報 日本共産党元中央委員会議長 宮本顕治さん死去」と題して次のような記事を掲載している。(ttp://www.jcp.or.jp/include/20070718_fuhou.html)記事の責任主体は記されていない。本来なら幹部会声明とすべきだろうが、何やら事情があるのだろう。以下、れんだいこが概要整理し論評する。死者を鞭打つのは、れんだいこの好みではないが、こやつだけは断じて許し難いので当然そういう論調になる。

 日本共産党中央委員会名誉役員で元中央委員会議長の宮顕は、2007.7.18日午後2時33分、老衰のため東京都渋谷区の代々木病院で死去した(享年98歳)。喪主は長男の太郎。葬儀は宮本家の密葬とし、党としての葬儀は参院選後にとりおこなうとのことである。

 この後、履歴が記されているが、1933(昭和8)年、24歳の若さで党の中央委員になり、同年12月、「党に潜入していたスパイの手引きによって特高警察に検挙されます」とある。この記述は、その直前にスパイ摘発闘争で、僅か5名のうちの古参幹部小畑と大泉を査問し、小畑を査門致死させ、遺体を床下に埋葬させてた張本人である史実を意図的に記していない。

 れんだいこ史観によれば、小畑がスパイであったのではなく、スパイ容疑で査問致死させた宮顕-袴田ラインの方こそ正真正銘のスパイラインである。つまり、重要事件の場合には特に、プロパガンダされている史実は逆に報ぜられていることの方が多いということを物語っている。我々が下手に学ぶと余計に馬鹿になるのはその為である。

 赤旗は続いて、「特高警察は日本共産党の名誉を失墜させるため、さまざまな事件を仕立て上げ、デマ宣伝を繰り広げました。これにたいし、宮本氏は、獄中という困難な条件下で、日本共産党の名誉を将来にわたり守り抜くために全力をあげ、法廷では事実を解き明かして、デマ宣伝を打ち破りました。戦時下の暗黒裁判は、宮本氏にたいし、治安維持法違反を主とした無期懲役の判決を下しましたが、戦後、この判決は取り消されました」と報じている。

 れんだいこ史観によれば、この記述もデタラメである。宮顕は、孤軍奮闘の獄中闘争したのではなく、他の多くの党員が悲惨な拷問に遭っていたのに比して随分厚遇された豪奢な獄中生活していた形跡がある。獄中で公然と党活動していた形跡もある。法廷闘争も、リンチ事件の重要な検証の陳述局面に至ると決まって不思議に数次の病に冒され、他の被告との共同裁判を避け、「宮顕こそスパイの可能性がある」と云い始めた秋笹の変死後に単独公判が設営され、とうとうと弁述し、その陳述書がが空襲で焼けたにもかかわらず不思議と副本が用意されており、今日プロパガンダされている。そしてそれを鵜呑みにする者が居る。

 「治安維持法違反を主とした無期懲役の判決」とあるが、この書き方も詐術である。正しくは、殺人罪、不法監禁罪、死体遺棄罪等々一般刑法罪と治安維持法違反との併合罪である。赤旗記事の「治安維持法違反を主とした」なる表記は明らかに意図的な歪曲であり知らぬものをたぶらかす書き方である。「戦後、この判決は取り消されました」も妙な書き方である。宮顕の戦後の釈放は、重態危篤との病気理由による特異な釈放であり、その後の「復権証明書」も、「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」というものであり、政治的な超法規的解決でしかない。決して、犯罪が無かった、あるいは無罪とされた訳ではない。

 「宮本氏は戦後すぐ党再建活動に参加」もウソである。「すぐ」ではなく、徳球、志賀らに比べてかなり後れての参加である。宮顕がこの間何をしていたのか、その消息さえ定かではない。続いて「五〇年問題」に触れているが、戦後直後の共産党を指導した徳球党中央時代の宮顕の動静については何も語っていない。「五〇年問題」について、スターリン論評が為されるや、いち早くスターリンの指導に無条件に従えと述べて、徳球党中央に叛旗を翻した国際派史実も隠蔽している。

 ところが、スターリンは、「日共の五〇年分裂問題」に対して徳球系党中央を正統として裁定した。徳球系党中央はその恩義もあってスターリン指導に従い急転直下武装闘争に突入し破産する。赤旗はこれに対して、「徳田・野坂の分裂的行動に反対すると同時に、彼らが持ち込んだ武装闘争方針に真っ向から反対するたたかいの先頭に立ったのが宮本氏でした」と記している。これもご都合主義的書き方である。この文章は明らかに不破が書いていることを示している。

 赤旗は続いて、1955年の六全協に触れぬまま突如、「党はこのたたかいを通して統一を回復、党綱領と自主独立の確固とした路線を確立しました。宮本氏は五八年の第七回党大会で書記長に選ばれます」と記す。
よほど六全協で党中央に復権したことを記すことが嫌なようである。1958年の第7回党大会までの「排除の論理」を満展開させた当時の歩みに触れたくないらしい。

 その後の綱領論争について、次のように纏めている。「六一年の第八回党大会まで継続審議となった綱領問題の討議を発展させるための小委員会責任者として、粘り強い論議を組織しました。第八回党大会で採択された綱領は、当面の革命について、世界の発達した資本主義国の共産党の間でいわば常識とされていた社会主義革命論をとらず、民主主義革命の立場を打ち出しました。綱領はまた、武装闘争方針や強力革命の路線をしりぞけ、日本の社会と政治のどんな変革も、『国会で安定した過半数』を得て実現することをめざす、という立場を明らかにしました」。

 明らかに不破式の観点であり、ウソを公然と書き記して恥じない変調文である。と同時に、当時の綱領論争の真の狙いがかくも大胆に記されていることに驚かされよう。何と、論争を通じて「社会主義革命論を排斥し、民主主義革命論に依拠させた。暴力革命を退け議会闘争に転換させたというのだ。不破よ、確かにそうではあるが、そのように弁じたか君は。この弁は、長大饒舌玉虫色煙巻きを得意とする君の文章が意図的に作成されており、かような狙いを秘めていたことを物語っている。これはこれで吐いた唾が降りかかってこよう。

 この後、宮顕のその後の履歴が記されているが、同様の詐術と提灯で埋もれているので一々採りあげない。採りあげれば長くなるばかりなので、別の機会に論ずることにする。問題は、こういう宮顕を頭に頂いて50年余も続いているのが現下の日共党中央であり、我々はこれをいつまで許すのかということが問われているということである。この観点抜きに赤旗訃報記事を読んでソウカソウカ宮顕はかくも偉大だったのかとうなづく者にはつける薬が無いということである。

 してみれば日共は大いに歪んでいる。思えば、日本政治の歪みと通底している。そういう意味では、日共の在り方は現代政治の写し鏡でもあり、外の政治の改革と日共の改革は同時的なワンセットになっていると踏まえるべきだろう。れんだいこが日共問題に拘る理由がこの辺にあるということになる。

 最後に。つい最近不破は急遽入院した。退院後に宮顕の訃報である。恐らく、不破の入院は宮顕の非常事態に合わせた所要の準備の為のものであったということになろう。この赤旗記事を書き上げたのも不破である。本来なら、執筆者として記すべきだが、それをしない。不破らしい姑息なやり方である。そしてもっともらしく、不破と志位の追悼記事を挟んでいる。つまり一種のヤラセ記事であり、何から何まで姑息であり腐っている。

 2007.7.18日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評312 れんだいこ 2007/07/20
 【宮顕訃報に際してのれんだいこ論評その2】

 宮顕逝去から一夜明けて、新聞各社は一面に追悼記事を掲載した。そのこと自体は何ら問題ないのだが、記事内容に見逃せない点が数々有り、論評しておく。それにしても、れんだいこの知る限り宮顕逝去に関して左派圏からの論評が無い。失語症に陥っているという訳か。情けない極みである。

 まず、宮顕を「日本の共産主義運動の名指導者」、「反体制の不屈の闘士」だのと歯の浮くような論評をしている点にコメントしておく。表向きそう書かざるを得なかったというのであれば見逃すことが出来るが、メディアに巣食う自称インテリ評論士達は本気でそう考えている気配がある。それほど見識が低いということになる。

 れんだいこに云わせれば、宮顕は確かに逸材ではあった。しかし、その史的意義は、「日本の共産主義運動の名指導者」とか「反体制の不屈の闘士」とかにあったのではない。むしろ逆であり、「日本左派運動の名撲滅人」として獅子奮迅奮迅の活躍をしたことにある。日共に入り込み、党中央を乗っ取り、牛耳り、日共を人畜無害の組織に切り替え、これを成功させたことこそ宮顕の功績である。メディアがその性質上、宮顕を「日本左派運動の名撲滅人」として書くことができないことについては理解するが、宮顕を日本左派運動の名指導者として本気で記述するのは馬鹿げていよう。

 新聞各社は、宮顕の登竜門となった芥川龍之介論「『敗北』の文学」の雑誌改造懸賞文芸評論第一席入賞を誉めそやしている。それはそれで良いのだが、論文の中身がどのようなものであるのかについての解説は無い。記事スペースがなかったのならそれで良い。問題は、中身を懸賞文芸評論第一席を取るほど秀逸としていたなら、これまた馬鹿げていよう。れんだいこの評論するところによれば、中身は、後の宮顕の強権政治を髣髴とさせる無慈悲なまでの芥川断罪論を基調にした悪評論でしかない。本来は、同時代の他の凡庸な作家と違って、芥川が如何に良心的に社会主義イデーに接近し苦悶したかの軌跡を論ずるべきであろうに。つまり、評論の視座が転倒倒錯している異常性評論になっている。この時点で早くも、後のひながたとなる「排除の論理」を丸出ししていることが興味深い。

 これが、宮顕の芥川論の要諦である。作品評論について優れたところありとすれば、その部分は最近の研究によれば、松山高校時代の文芸同人の書評からの剽窃であるということが判明している。これについて次のように言及されている。

 「雑誌『改造』の懸賞論文に1位入選を果たした宮本顕治の論文『敗北の文学』。これと、そっくり同じ『敗北の文学』が、別人の作品としてそれ以前に旧制松山高等学校の文集『白亜』に載っていたというのだ。ところが、それが掲載されていた号だけ、国会図書館にもどこにも、紛失してないという。日本中から旧制松山高等学校の文集『白亜』特定の号を抹殺した日本共産党。それは、いつ、誰が、誰の命令によってなされたのか?」。

 これは事実かどうか確かめてみればよい。事実としたら由々しきことである。宮顕にはそういういかがわしさがいたるところについて回っている。党史歪曲、原文用語書き換え、違法の秘密会議、会議内容の非公開等々はその延長線上のものである。

 次に、中条百合子との獄中結婚を取り上げ、「12年の手紙」がやり取りされたことにつき好意的に評している。しかし、これも、「12年の手紙」の内容を見れば、同時代の左派人の共産主義的意識、精神とは無縁のむしろ逆に封建的家父長制的権威意識、精神を丸出ししている。更に、百合子の財力に甘え、あれ持ってこい、これ持ってこいの豪奢生活を吐露するものでしかない。他の獄中仲間がペン一つ融通されなかった折に、宮顕には獄中下で市民生活が許容されていた不思議さが見えてくる話でしかない。戦前の百合子は宮顕に私淑したが、戦後の目線は冷たい。風致草で語られる重吉の像は見事に宮顕の本質をさりげなく伝えている。

 次に、不屈の獄中闘争を各社各様に誉めそやしている。徳球についてどのように誉めそやしたのか比較したいが、資料が無いので分からない。恐らく、真正の獄中闘争を経由した徳球に対しては、こうは持ち上げなかったし、こうも記事に載せなかったのではなかろうか。宮顕の場合、果たして当時、宮顕の如く予審調書一つ採らせずのまま経緯することが許されたであろうか。当人は、「こいつには何を言ってもムダだ」と特高をして拷問をあきらめさせたと豪語しているが、本当に有り得た話だろうか。

 その後の裁判に於ける様子もいかがわしい。査問致死事件の裁判だというのに、党の正義を縷々語り続け、肝心の事件陳述の番になると病魔に冒され欠席する。そうこうするうち、事件のキーパーソン秋笹が変死する。それを経て、宮顕の単独公判の場が設営され、とうとうと弁論している。普通に考えれば分かるが、こういうことは当局の演出的作為なしに可能だっただろうか。その正義の単独陳述についても妙なことがある。今日宮顕自身が公開しているが、その内容を見るに、記憶だけでは陳述できない精緻な資料を駆使している。宮顕は、獄中下でそのような資料をどうやって入手し得たのだろうか。これは、読んでない者には分かるまいが。それと、獄中仲間の他の被告の陳述調書に目を通している形跡がある。おかしなことであろう。

 次に、「網走刑務所獄中12年説」を相変わらず説いている不勉強記事が多いので訂正を催促しておく。どの社の記事がそうであるかを記しても良いが、恥をかかせるので控えておくことにする。れんだいこ検証によれば、「獄中12年」はまま確かであるが、網走に居たのは最後のご苦労となる敗戦の年の春から夏までである。僅か半年しか居なかった網走刑務所生活でしかないのに「網走刑務所獄中12年」と表記するのはフェアではなかろう。「網走刑務所など」と書いても同様である。書くなら一番長期にわたって拘留されていた「巣鴨の東京拘置所など」とすべきであろう。市ヶ谷刑務所ならそう書くべきであろう。

 これらから浮かび上がることは、宮顕に限って、権力側からも頻りに宮顕の革命的英雄譚が創造されているということである。当局肝いりの虚飾の宮顕英雄譚がこしらえられている気がしてならない。そして、この虚像に対して、党内も党外も未だに目をくらませられている。れんだいこに云わせれば、感性と知能と理論の貧困以外の何ものでもあるまい。れんだいこのこの言の確かさを廻って、今後ますますの議論を要請したいが、語るに足りる者が居ない。

 従って、もっとも都合の悪い「50年分裂」時の、「スターリン指令に従え」として時の徳球系党中央に楯突いた史実を隠蔽している。メディアは後に宮顕が自主独立路線を打ち出したことに対して手放しで礼賛しているが、真っ当な論評をするなら、「50年分裂」発生時にスターリン指示に従うのが国際共産主義運動の責務として反徳球活動を繰り広げた宮顕の負の歴史に対して言及すべきであろう。宮顕の虚飾の権威を落とすことになることを配慮してか、各社一様に黙して語らない。

 メディアが自主独立路線を礼賛したいなら、それを最初に示した「50年分裂」時の徳球-伊藤律系党中央の対応に向けられるべきだろう。この当時、一部のメディアは、徳球をして「日本のチトー」と評している。こういう史実がある以上、宮顕の後日の自主独立路線に対して、ならばかの時の対応はどうだったのかと問う論評が為されてしかるべきだろう。この辺りを書かない宮顕ヨイショ記事が多過ぎてつまらない。

 次に、各社とも、宮顕の功績として「現実主義、柔軟路線への転換指導」を挙げている。いわゆる議会路線への傾斜であるが、それは確かに宮顕の功績である。れんだいこはそれは認めよう。だがしかし、その意図と内実がどのようなものであったのかについての考察をせねばなるまい。宮顕指導による現実主義、柔軟路線への転換は、日本左派運動に本当に資したのか、ここを問わねばなるまい。

 宮顕路線の成果は、現実主義、柔軟路線の導入、それに続く社共共闘路線、その延長戦上の民主連合政府構想の打ち出しまでがピークであった。しかし、実際に起こったことは、革命的あるいは人民的と冠しただけの議会専一路線であり、それは他の諸闘争、例えばデモや大衆団体運動、労働組合運動を議会運動に召還させる為の議会闘争であり、議会闘争以外の闘争能力をやせ細らせるものでしかなかった。

 社共共闘、民主連合政府構想も、運動としては是認されるべきものであるが、それ自身に本気意義を見出していたたものではない。当時燃え盛る新左翼系運動の牽制路線として、彼らの理論に対置するものとして提起されたものでしかない。それが証拠に、社共共闘、民主連合政府構想はそれが現実化を帯びるや自らの手で潰しに掛かったという史実がある。

 残ったものは議会主義路線だけとなった。それも党勢拡大し続けていたら問題は露見しないが、今日に於いては1970-80年代の地平から久しく後退し続けており、その都度言い訳で糊塗しているところまで腐敗している。それでもこの路線が認められているのは、今日機能している如く野党戦線を分裂させ、そういう意味で与党権力を裏から補完する役割を果たしているからに過ぎない。その仕掛けを見破られまいとして、重箱の隅を突つつくようにして正義を振りかざし、政権党や政敵のゴシップ、スキャンダルの類いを暴露して存在感をアピールしているに過ぎない。つまり、極めて変態化しており、その変態度を深めつつある。

 これらは、宮顕の総路線からもたらされたものである。現在、宮顕-不破-志位の直系ラインがこの党を牛耳り何と1955年の六全協から数えて50年有余を経ている。戦後政党の中で唯一不倒の長期政権となっている。そういう日共が、自民の長期政権の腐敗について饒舌するのは、全て我が身に降りかかってくると思わねばならない。そういうこともあって舌鋒が弱い。実は、自民党内タカ派系とは案外仲良しではなかろうか。こたび、中曽根が宮顕逝去に当たって提灯追悼していたが、これは偶然ではない。読売のナベツネとも通じている。こういうことは歴史を調べれば分かる。この連中は裏で繋がっていると読まねばなるまい。

 その他いろいろ検討したいことがあるが、れんだいこの宮顕論でしていることなので繰り返さない。関心のある者はそちらを見ればよい。結論として、宮顕履歴の諸々が、左派運動撲滅人、沈静料理人として凄腕であったことを示している。このことを確認すればよい。確かに、この方面での活躍に於いて、宮顕の右に出る者は居ない。

 それを思えば、メディアが「戦後日本政治史に不滅の足跡を残したことを否定する人はいないだろう」と云う時、我々はどういう視座でそう受け取るかが問われている。れんだいこが繰り返せば、革命家としてのそれでは断じてない。革命事業撲滅請負人としての偉業であることを踏まえるべきであろう。この差を分からず提灯する者が多過ぎる。現代メディアが、「日本の共産主義運動の名指導者」という見立てから「戦後日本政治史に不滅の足跡を残した」と評するなら、その評論氏の能力の痴愚ぶりを示して余りあると云うべきだろう。

 れんだいこが最後に論ずるとするならこういうことになる。宮顕は、数多くの左派活動家、指導者を放逐し掣肘した。その功績は、宮顕に放逐されたり掣肘されたりするに過ぎない能力の左派者に革命させてはならない、間違っても権力を握らせてはならないところにある。ここに宮顕の最大の功績があり、これを措いて以外には無い。そういうことになる。

 2007.7.20日 れんだいこ拝

【宮顕葬儀考】
 2007.8.6日午後、 故宮本顕治元共産党議長の党葬が東京・南青山の青山葬儀所で営まれ、志位・市田・不破らが賛美大合唱をした。志位和夫委員長が(葬儀委員長として挨拶し、不破哲三前議長が弔辞を述べた。河野洋平衆院議長、中川秀直自民党幹事長、鳩山由紀夫民主党幹事長、坂口力公明党副代表ら政界などから約1200名(広報部発表)が参列した。遺族を代表して長男で北海道大教授の宮本太郎氏があいさつし、「父の愛国心のシンボルは、日の丸・君が代ではなく富士山だった」と故人をしのんだ。
 志位委員長の挨拶は次の通り(「故宮本顕治元議長の葬儀での志位葬儀委員長あいさつ」)。
 本日は、公私ともにお忙しいところ、また猛暑のなか、各界の方々に多数ご参列いただき、まことにありがとうございます。元日本共産党中央委員会議長、故宮本顕治さんの葬儀にあたり、葬儀委員会を代表して、一言ごあいさつを申し上げます。

 宮本顕治さんは、五年前から脳梗塞(こうそく)などのため代々木病院に入院加療中でしたが、七月十八日、老衰のため、九十八年を超える波乱に満ちた生涯を終えられました。ここにあらためて、ご遺族、ご親せきのみなさま方に、つつしんで心からおくやみを申し上げます。

 私が、宮本さんの講演などに接するようになったのは、一九七〇年代の大学生のころですが、百戦錬磨の政治家・革命家としての洞察力にみちた政治論とともに、現代の若者がいかに生きるべきかをのべた人生論に、強く心を揺さぶられました。

 宮本さんは、戦前ともにたたかい、暗黒政治の弾圧に倒れた小林多喜二の生涯などにふれて、最も人間的な生き方とは何かと問いかけ、「生きることを大切にするとは、生きることに対して不当に妨害するものに対して、頭を下げない、自己の信念を裏切らない、これがもっとも気高い人間性の発揮」だと語りかけました。深い理性に裏付けられた宮本さんの不屈さ、剛毅(ごうき)さに、深く感動したことを思い起こします。

 一九九〇年代に、私は、党指導部の一員として宮本さんとともに活動することになりましたが、宮本さんから多くのものを学びました。宮本さんは、私たち後輩にたいして、きびしい中にも独特の優しさをもって対してくれました。はにかみをふくむような優しい笑顔が、いまでも目に鮮やかに思い起こされます。

 宮本さんの経歴および業績は、のちほど紹介されますが、戦前の暗黒政治のもとにあって反戦平和と国民主権を不屈につらぬいたこと、大国の干渉と勇敢にたたかい自主独立の路線を築き上げたこと、まず資本主義の枠内での民主主義的変革を探求するという綱領路線の確立、国民と草の根でむすびついた強く大きな党づくりなど、日本共産党発展の基礎をつくり、日本と世界の平和と社会進歩に貢献した偉大な先達の生涯に、私は心からの感謝と敬意をささげるものです。宮本さんから学んだ多くのものを心に刻み、二十一世紀の日本の政治変革の事業の発展に生かすために、全力をつくす決意であります。

 生前、故人に寄せられた党内外のみなさま方のご厚情、入院していた代々木病院の先生方、長期の看護につくしてくださったみなさま方に、心からお礼を申し上げます。

 本日ここに、日本共産党とともに生き、日本共産党の前進のために生涯をささげた宮本顕治さんを追悼するにふさわしい葬儀を、厳粛にとりおこないたいと存じます。みなさまのご協力をお願い申し上げ、ごあいさつといたします。

(私論.私見) 志位委員長コメント考
 一般的な挨拶ではあるが、「一九九〇年代に、私は、党指導部の一員として宮本さんとともに活動することになりましたが、宮本さんから多くのものを学びました」とある言葉の中に、志位委員長が宮顕直系子飼いラインとして列なっていることを知る必要がある。  

 2007.8.10日 れんだいこ拝
 日本共産党中央委員会を代表して不破哲三前議長がのべた弔辞は次の通り(「宮本顕治同志への告別の挨拶 日本共産党中央委員会を代表して 不破哲三」)。

 宮本顕治同志。私は、党中央委員会を代表し、また私自身の思いもこめて、あなたへのお別れのあいさつをのべるものです。

 宮本さんが日本共産党に入党したのは一九三一年。党が創立されてから九年目のことでした。それから七十六年間、平和と社会進歩の事業につくし、日本共産党の基盤をきずいた宮本顕治さんの生涯に、私は心からの敬意をささげるものです。

 〔一〕

 宮本さんは、入党後間もなく党中央に入り、党指導にあたりましたが、それは、日本共産党にとってもっとも苦難に満ちた時期でした。戦争への道をひた走っていた専制権力は、反戦平和の党、国民主権の党を根絶しようと、言語に絶する強圧をくわえたばかりか、日本共産党の道義的権威を破壊することをねらい、党指導部にスパイを送り込んで、党に凶悪な犯罪行為をおしつけるなど、謀略の限りをつくしました。宮本顕治さん自身も、その悪らつな集中攻撃の標的とされました。

 逮捕された宮本さんは、いかなる拷問にも屈せずに、反戦平和と民主主義日本の旗をまもりぬきました。宮本さんが、逮捕後、「裁判での公式の陳述はするが、密室での予審にはいっさい応じない」という原則をつらぬき、予審を完全黙秘で通したことは、戦後入党したばかりの若い私たちのあいだでもよく知られた語り草となっていました。その獄中で腸結核にかかり生命も危ぶまれたとき、やってきた検事が「沈黙したまま死んだら真実が残らなくなる、調書さえ取れば病院で死なせてやる」と説得したが、それも拒否したという話も聞きました。後年、私がその時の心境を尋ねたとき、返ってきた言葉は「後世を信じたよ」と、実に感動的な一言だったことを、強く覚えています。

 宮本さんは、一九四〇年から始まった延べ五年にわたる戦時下の法廷闘争で、道理と正義をつくした弁論を展開し、党にたいする権力側の偽りの攻撃のすべてを論破して、彼らの野望をうちくだきました。私は、七〇年代のはじめ、宮本さんの自宅の書類の山のなかでこの法廷闘争の「公判記録」をみつけ、はじめて宮本さんの法廷陳述を読んだのですが、そのとき、「人類の正義に立脚する歴史の法廷」は必ず弾圧者の誤りと自分たちの正しさを証明するだろう、と述べた宮本さんの最後の陳述に、心を打たれました。獄中十二年間、完全に世間から隔離され、裁判闘争も、四四年に再開された公判は、百合子さんの自筆年譜によれば、「被告宮本ただひとり、傍聴者は弁護士と妻と看守ばかりという法廷」で、いっさい報道されることのない孤独なたたかいでした。しかし、宮本さんの不屈の闘争の記録は、今日に生きて、幾度読みかえしても私たちを励ます無限の力をもっています。

 「九条の会」の呼びかけ人の一人である加藤周一さんは、「しんぶん赤旗」に寄せていただいた追悼の文章のなかで、「十五年戦争に反対を貫いた」宮本さんの態度をたたえ、「宮本さんは反戦によって日本人の名誉を救った」と書かれました。私は、そのこととあわせて、宮本さんの不屈の獄中・法廷闘争が、権力側の陰謀を根底からくつがえして、日本共産党の政治的名誉と道義的権威をまもりぬいたたたかいであり、戦前の先輩たちの苦難のたたかいを戦後の運動に継承させる歴史的な意義をもっていたことを、指摘したいのであります。

 〔二〕

 戦後、日本共産党ははじめて合法性を獲得し、民族主権と民主主義、平和と国民生活擁護の旗をかかげて公然とした活動を開始しましたが、その数年後に重大な危機的事態を経験しました。一九五〇年、アメリカ占領軍の不当な迫害で再び半ば非合法の状態を強要されたうえ、スターリンの指揮のもとソ連・中国の諸党から乱暴な干渉攻撃を受け、党中央委員会の解体、そして党の分裂をひきおこした分派を通じての外国仕込みの軍事闘争方針のもちこみ、そのことによる国民との結びつきの分断など、空前の危機に追い込まれたのでした。私たちは、これを「五〇年問題」と呼んでいますが、当時の干渉者たちの意図をふくめ、ことの全ぼうが明らかになったのは、それから四十年あまりたって、ソ連が崩壊し、流出したソ連共産党の秘密の関係文書を私たちが読むことができるようになってからでした。五〇年当時は、私は学生党支部の一員で、この事態の全体像などもちろん知るよしもありませんでしたが、党中央にあって問題に対処した宮本顕治さんにとっても、その時点では、全体像がわからないままの対応を余儀なくされたろうと思います。

 しかし、宮本さんがとった態度・活動は、そういう制約のなかでも、党の統一をまもる誠意とことの道理ある解決を追求する理性とを最大限に発揮したものでした。私は、最近、若い同志たちの特別党学校で党の歴史についてまとまった話をする機会があり、宮本さんたちが「五〇年問題」の当時、どんなに限られた情報のもとで、態度の選択をせまられていたかをあらためて振り返りました。いま私たちの活動のもっとも重要な原則となっている自主独立の立場――過去の革命でいかなる成果をおさめた党であろうと、外国の党の干渉は絶対に許さず、日本共産党の自主独立の態度を確固としてつらぬくという路線は、そこからひきだされた最大の教訓の一つです。「あの経験のなかから、よくもこれだけの路線を確信をもってひきだせたものか」と、若い生徒たちと感服しあったものでした。

 党が分裂の状態を脱して、統一回復への道を歩みだしたとき、この混迷の経験からひきだした教訓には、第一の自主独立の問題にくわえて、第二に、国民主権、議会制民主主義の政治制度が存在する日本で、運動に武力闘争をもちこむようなくわだては絶対に認めないこと、第三に、党内の民主主義の発展のうえに党の統一をまもりぬき、いかなる分派主義をも排除すること、などがあります。これらは、今日も、党の全活動の生きた指針となっていますが、「五〇年問題」からこれらの教訓をひきだし、それを全党の共通の意志とする活動でも、文字通りその先頭にたったのが宮本顕治さんでした。

 日本共産党は、統一を回復して後、第七回、第八回の二つの党大会を経て、党の綱領――民主主義革命を当面の目標とし、国会の多数を得て政権をめざすという綱領を採択しました。この綱領路線の確立は、日本共産党の戦後の運動の新しい出発点を画するものとなりました。日本共産党が「五〇年問題」という深刻重大な危機から抜け出し、その危機を新しい発展への転機に変えるという大転換をなしとげるうえで、宮本顕治さんが発揮した指導力には本当に大きなものがあったのです。

 〔三〕

 六〇年代には、日本共産党は、国際的な方面から新たな危機的状況を迎えました。ソ連および中国の毛沢東派という、二つの大国の共産党から、正面からの干渉と攻撃をうけたのです。私が、党中央委員会での活動をはじめたのは六四年からで、役職上の関係はさまざまでしたが、これ以後は、二つの干渉主義との闘争をはじめ、宮本さんと政治活動をともにすることが多くなりました。

 ソ連および中国・毛沢東派の干渉は、直接の動機はそれぞれにありましたが、どちらも根本は、日本共産党が自主独立の立場を堅持していることを敵視し、日本の革新・平和の運動を自分の支配下におさめることをねらった覇権主義の攻撃でした。私たちは、このたたかいについて、「党の存亡をかけた闘争」ということをよく口にしましたが、それは本当の実感でした。当時、わが党は、前進の過程にあったとはいっても、国政選挙の得票率は4%台、衆議院で四議席という力量でした。その党が、二つの大国の、しかもあらゆる手段を動員しての攻撃に直面したのですから、実際、そのきびしさは、どんな予測をもこえるものがありました。

 しかし、全党は、このきびしい試練に勇敢にたちむかい、干渉攻撃のすべてを打ち破りました。そして、その闘争のなかで党をきたえ、さらに大きくして、一九六九年、一九七二年と打ち続く総選挙で躍進をかちとったのでした。

 二つの干渉主義との闘争をふりかえるとき、私の頭にすぐ浮かぶ二つの場面があります。一つは、一九六六年三月、上海での毛沢東との会談が決裂に終わったあとで、帰国後の報告準備のため、広東で若干の日を過ごしたとき、夕暮れのなか、宿舎の庭の一角にじっと座り込んだ宮本さんが、沈痛な面持ちで熟慮にふけっていた情景です。私は、その表情に、前途の多難さへの深い思いとともに、なにものをも恐れずにわが党の立場をまもる決意がこめられていることを、痛感しました。

 もう一つは、その年の秋、第十回党大会での方針案を準備する最終段階でのことです。国際的な方針の部分は、二つの方面からの攻撃といかに闘うかが主要な内容となっていましたが、仕上げの最後の段階になって、宮本さんが、「闘争の方針だけでなく、党関係の本来のあり方についても書く必要がある」という問題を提起したのです。議論の結果、“重大な意見の相違のある党とのあいだでも、干渉を基本態度とする党でないかぎり、一致点にもとづいて共同する努力をする”という定式に到達しました。私は、これから本格的なたたかいが始まるという時に、干渉をうちやぶった先のことまで考えて、それに対応する基準まで確定しようとする深慮遠望に本当に感銘したものでした。

 実際、この定式は、七九年に、ソ連共産党が干渉の誤りを認めて、党関係を正常化したときにも、さらに、中国で、毛沢東派が起こした「文化大革命」の誤りが明らかにされ、九八年、中国共産党の新しい指導部とのあいだで歴史問題を解決して両党関係を正常化したときにも、私たちの側の対応の基準として、りっぱにその役割を果たしました。この方針は、同時に、今日、世界のより広い範囲で展開されている日本共産党の野党外交にとっても、生きた力となっています。

 〔四〕

 宮本顕治さんとともに活動した三十数年間、私が宮本さんから学んだこと、受けた影響は数多くありますが、私が宮本さんの革命的生涯を思うとき、まず頭に浮かぶのは、いまあげた三つの時期における宮本さんの活動です。

 それは、どれも、日本共産党にとって、きわめて重大な危機の時期でした。そして、どの場合にも、宮本さんは、不屈の意志と強固な理性的対応をつらぬいて、危機を打開するたたかいの先頭にたち、新たな発展への道を開いてきました。その活動は、それがなかったら、その後の党の歴史が変わっていたかもしれないと思われるほどに、大きな力を発揮したのでした。

 宮本顕治さんが生涯をその社会進歩と平和的発展のためにつくした国・日本は、いま、たいへんな激動のさなかにあります。宮本さんが去ったのは参院選のさなかでしたが、この選挙は、これまでの古い政治の枠組みをそのままにしておいたのでは日本に未来も前途もないこと、国民の願いにこたえる新しい政治がまさに切実に求められていることを、かつてない形で示すものとなりました。

 日本共産党が、日本の国民のため、社会進歩のため、そして世界の平和のために果たすべき役割は、いよいよ大きくなっています。その前途には、もちろん、幾多の困難が待ち受けているでしょう。私たちは、党の歴史そのものを通じて、困難を打開しつつ前進するのが歴史の弁証法であることを、よく知っています。どんな困難な時期にも、不屈の意志と理性的対応をつらぬく――宮本さんが生涯を通じて残したこの教訓をかたく胸にきざみながら、宮本顕治同志にささげる告別のあいさつの結びとするものです。

 二〇〇七年八月六日

(私論.私見) 不破議長コメント考
 不破は、弔辞の中で、ここでも稀代の詭弁士ぶりを発揮している。志位が宮顕ラインとしての孫なら不破は正統の息子に当たる。宮顕弁護も致し方ないのかも知れないが、問題はその話法にある。これを検証する。

 不破は、宮顕の戦前党中央委員小畑査問致死事件に対し、スパイ摘発闘争であったと弁護している。不破らしい意図的に要領を得ぬ煙巻き記述で糊塗して真相を逆に描いている。しかし、手前味噌になるが、れんだいこのリンチ事件考が世に出た以上、いつまでも小畑をスパイ視するのは通用しない。それこそ日頃道理を説く不破にすれば道理に合わない頑迷さである。本当は、党としての重大な自己批判、それも天地ひっくり返るほどの自己批判が要求される。不破の「スパイ摘発闘争論」は、それを為す意思がないことを物語っている。しかし、それはそれで、党中央委員であった小畑の不名誉を記し続ける訳で、小畑無いしその親族には耐え難いことであろうに。

 そういう不破であるからして、宮顕の獄中闘争に関しても完全黙秘貫徹者として称賛している。史実は、れんだいこがリンチ事件考で明らかにしたように、宮顕の完全黙秘説は虚偽である。そのような対応が、あの局面で有り得る訳が無い。小畑がスパイなら、そのスパイを宮顕には小林多喜二虐殺にも増して憎き取調べが為される筈で、「こいつには何を云ってもムダだ」とあきらめざるなどと云う芸当が出来るはずが無い。

 更に云えば、宮顕は、獄中面会の際に、「杉本.岡田の樺太越境事変」で知られる杉本良吉(演劇人)に樺太越境を指示してさえいる。つまり、党活動している形跡さえある。こういうことが、宮顕に限り何ゆえ有り得たのか。女優の岡田嘉子は、このことが気がかりで仕方なく、1972.11月の「初の里帰り」の際に、幾つかの事を宮顕に質疑している。宮顕は記者会見して、「杉本には、1932年、私からコミンテルンとの連絡をとるように指示した」と述べており、「党指導部による入露指令伝達」を為していた事実を認めている。我々は、獄中下の身でそのように指示できる宮顕とは何者か、これを疑うべきではないのか。

 今日各種資料が漏洩されており、宮顕の変な立ち回りと結果的な役割が至るところで確認できる。「現代のレーニン」などと嘯かれる不破が、それらの資料に目を通さ無いのは怠慢であり、恐らく承知している筈である。しかるに、承知の上で敢えてこのように云う不破とは何者か、こう疑うべきであろう。

 その不破は、宮顕の公判闘争に触れて、「私は、七〇年代のはじめ、宮本さんの自宅の書類の山のなかでこの法廷闘争の『公判記録』をみつけ、はじめて宮本さんの法廷陳述を読んだ」ことを明らかにしている。これによれば、不破は、「70年代の初め」にリンチ事件の概要に目を通していたことになる。これは初めての言及であるのでノートしておく。

 続いて単独公判を弁護しているが、当初合同公判であり、いよいよ査問事件の解明の段になるや宮顕が突如病気になり、合同公判が中止となり、事件検証のキーマンである秋笹の変死後に単独公判として公判が再開し、宮顕が滔々と正義の弁明をしたという経緯を知りながら、不破は宮顕の正義の弁明を絶賛していることになる。このように述べて恥じない不破の魂胆は何か。

 不破の「五〇年問題」の記述もデタラメである。スターリン論評が出た際に、逸早く同士スターリンの命令に服するよう国際主義的に立ち回った宮顕の履歴を隠匿し、その後の執拗な分派活動に触れず、「宮本さんがとった態度・活動は、そういう制約のなかでも、党の統一をまもる誠意とことの道理ある解決を追求する理性とを最大限に発揮したものでした」などと述べている。自主独立路線で言うならば、この時の徳球-伊藤律系党中央の立場こそ相応しいのに一言も触れず、「いま私たちの活動のもっとも重要な原則となっている自主独立の立場――過去の革命でいかなる成果をおさめた党であろうと、外国の党の干渉は絶対に許さず、日本共産党の自主独立の態度を確固としてつらぬくという路線は、そこからひきだされた最大の教訓の一つです」などと言い換える。言論ペテン師そのものである。

 「不破式五〇年問題論」は、事情を知らない者を誑かす独特の不破節を駆使して初めて可能になる。この弁舌を成立させる為に、日頃より党員に真実の党史に馴染ませないという飼育をしている。通りで、日共系の運動はなべて過去の運動史を隠匿する癖がある。当然日共党史も然りであり、昨今の党員は党史の素養さえ無い。知っているのは、宮顕-不破系党中央に都合良く書き換えられた党史の断片ばかりである。こうした作法を指導する宮顕、不破とはそも何ものぞ。、少なくとも、指導者としてトンデモなある種の性格異常ではないかと思われる。

 その後、宮顕-不破が二人三脚で為してきた党改造事業を礼賛している。忽ち1・武力闘争の放棄、2・暴力革命の否定、3・分派の排除を最重視し、続いて4・社会主義革命論の放棄、民主主義革命論への転換、それも5・国会内多数派革命の志向、6・体制論を政権論への矮小化、7・自主独立路線への誘導を自画自賛している。これが今日の日共総路線になっているものであるが、れんだいこに云わせれば、日共党中央を壟断し反革命に勤しんできたことの自己暴露でしかない。

 不破のこの言明の裏に如何にあるまじき悪事が肯定され、あるべき姿を曲げてきたことか、左派運動の燃え盛る炎の努めてきたかのの一切が隠されている。それを理論に拠って打ち破ったのではない。明るみにされれば顰蹙物のトンデモ締め付け、排除、追討によって敷設してきた総路線である。れんだいこは、これによってやられた側にも責任無しとはしないが、一番の問題は赤い心の変遷史ではないということである。元々の白い心の者が赤い心を装って為してきた変態的長征史でしかないということである。問題は、れんだいこがかく指摘しても馬耳東風な如くな無痛者ばかりが左派圏を構成している政治の貧困に有る。

 宮顕-不破-志位と続く宮顕系党中央三代により共産党は影も形も変えられてしまった。究極の右派路線により体制内化させられ、いわば重箱の隅を突くようなケチツケ批判、反対表明による責任アリバイ運動、政敵のゴシップ、スキャンダル暴露運動による議会専一運動、しかもその議会内に於いては「確かな野党論」による野党間分裂策動という誰も期待していないことに精出す変態共産党に変換させてしまった。

 今日、共産党と聞いて人が思うのは、本筋で無いところでいきがり、本筋で政権党に裏から手を貸す信用なら無い政党であるというもっとも好ましくない政党イメージである。れんだいこが更に補足すれば、やっていることと歴史観を総合すれば、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義とも云うべきネオ・シオニズムの左からの呼応スタイルも見て取れる。トンデモ派に乗っ取られ、消耗し続けている下部党員の哀れさが見て取れる。

 もとへ。不破は締めとして、「どんな困難な時期にも、不屈の意志と理性的対応をつらぬく――宮本さんが生涯を通じて残したこの教訓をかたく胸にきざみながら、宮本顕治同志にささげる告別のあいさつの結びとするものです」とある。これは、不破による頑なまでの宮顕路線の継承宣言である。

 れんだいこの結論として、今や我々は、50年にも及ぶこういう党中央との決別へと向かわねばならないということである。戦後党史である徳球-伊藤律系と宮顕-不破系党中央の功罪を俎上に乗せ、弁証法的に出藍した新党中央を創造すべきであろう。ここから変えないと何も変わらない、れんだいこはそう思う。 

 2007.8.10日 れんだいこ拝

 加藤周一氏の「<巨星、墜つ②>宮本さんは反戦によって日本人の名誉を救った 訃報に接して」(http://ameblo.jp/warm-heart/entry-10042366604.htmlから転載)を転載しておく。

 戦後すぐの時期に、宮本顕治さんと雑誌で対談したときの印象はいまでも鮮明に思い出す。宮本百台子が「歌声よ、おこれ」を書いた解放感が社会にみなぎっていた。顕治さんはその渦中の人であり、獄中で非転向を貫いた十二年があったから、ほかの人をはるかに超える解放感を感じたに違いない。それは高みの見物ではなく、一緒にやろうという未来への明るい希望に満ちた解放感だった。

 私の世代はよく知っているが、宮本夫妻の戦時下の往復書簡『十二年の手紙』は、日本のファシズムに対する抵抗の歌である。窒息しそうな空気の中で最後まで知性と人間性を守った記録である。

 歴史的記念碑ともいうべき宮本顕治さんの偉大さは十五年戦争に反対を貫いたことである。それができた人は、日本では例外中の例外だった。宮本顕治と百合子はあの時代にはっきりした反戦を表明し、そのために激しい弾圧を受けた。その経験なしには「歌声よ、おこれ」の解放感は生まれなかったろう。

 武者小路実篤は敗戦で虚脱状態に陥ったと言ったが、それは解放感とは逆方向のものである。宮本顕治・百合子夫妻とこの自樺派の人道作家の違いを表している。

 宮本顕治さんは反戦によって日本人の名誉を救った。戦争が終わり世界中が喜んでいるのに日本人だけが茫然(ぼうぜん)自失状態だった時に、宮本さんは世界の知識層と同じように反応することができた。

 私が対談したときの宮本さんは穏やかで礼儀正しい人だったが、表情は精かんで、修羅場をくぐってきた人の自信と安定感があふれていた。私がこれまで見たなかでもっとも美しい顔の一つだったと思う。

 それは不思議と東大寺戒壇院の四天王の顔に似ている。仏を守るためにはいつでもたたかおうとしている四天王のように、断固とした強い意志を秘めた顔だった。

 直接お目にかかったのはその時一度きりだったが、その後の日本共産党の指導者としての彼が強調したことは二つあったと思う。一つは国内的な問題で、暴カ革命の放棄である。先進資本主義国である日本の現状を分析した末に、武カによる権カ奪取が望ましい革命ではないと結論した。そこには理想主義だけではない現実主義者の一面があった。

 もう一つは国際的な問題で、平和とともに独立を強調したことである。それは最大の社会主義国であつたソ連と第二の強大な社会主義国の中国からの独立だった。これらの国と友好的な関係を持つためにも隷属するのでなく、独立を守ることが大事だという考えだった。福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」の考え方と似ている。

 死は誰にも必ず訪れるものだが、宮本顕治さんのような人が亡くなって思うのは、死は不合理だということだ。その死を正当化する理由は何もない。心から哀悼の意を表したい。(談)(評論家)

(私論.私見) 加藤周一コメント考

 加藤周一なる者がこれほどボンクラだとは思わなかった。「私が対談したときの宮本さんは穏やかで礼儀正しい人だったが、表情は精かんで、修羅場をくぐってきた人の自信と安定感があふれていた。私がこれまで見たなかでもっとも美しい顔の一つだったと思う」、「死は誰にも必ず訪れるものだが、宮本顕治さんのような人が亡くなって思うのは、死は不合理だということだ。その死を正当化する理由は何もない。心から哀悼の意を表したい」とまで提灯している。

 加藤周一がそう思うのは勝手だが、或る程度当たっていないと発言が自身に降りかかってくる。この場合はまさにその通りで、加藤のボンクラ度が一挙に表出したことになろう。馬鹿馬鹿しいので後は省略する。

 2007.8.10日 れんだいこ拝


【A氏コメント考】
 阿修羅政治40」の「 gataro氏の2007.8.13日付け投稿」で「すべての宮本顕治論のために(My Last Fight)」が全文転載されている。れんだいこがこれにコメントしておく。なぜなら、こういう耽美調の評論が宮顕に限っては特に臭いと思うからである。かなりな分量なのと全文転載するほどの値打ちが無いので、れんだいこが首肯し難い箇所にコメントする。

 文中冒頭で、宮顕訃報に接し、「私たち日本共産党員にとっては希望であった」と述べているので、この書き手(以降、仮にAとする)が日共党員であり、宮顕系党中央派の者である事が分かる。Aが、宮顕を「作家の小林多喜二さんが抱えていたものと同質の、この世界から戦争と貧困をなくしたいという理想の実現に、もっとも誠実で真剣だった日本共産党員の一人だった」などと追従するのは勝手だが、史実に対して度の過ぎる恣意的解釈について批判しておく。

 Aは、宮顕が芥川文学を愛し、その限界を乗り越えて理論と実践に乗り出したことを高く評価している。同時代の小林秀雄の批評眼に対して、マルクス主義的な観点を持ち合わせていない故に、それを持ち合わせて批評した宮顕の方に軍配を挙げている。れんだいこは、マルクス主義メガネで全てを独断し真理獲得調に染まる危険を説いた小林の批評眼の方に軍配を挙げるが、これは問うまい。

 Aは、戦前の党中央委員小畑査問致死事件に対し、スパイ摘発闘争であったとする観点から何の疑問も湧かさず追認している。具体的文章は省くが、れんだいこの研究によれば事態は逆である。当時、情況にもっとも相応しくないスパイ摘発闘争を敷設し、党員証の書き換えを迫った宮顕派こそスパイM以来のスパイ派であり、小畑は生粋の労働者派の代表であり、その代表がスパイの汚名を着せられてテロラレタというのが真相である。Aは、小畑及びその親族のやるかたない不満を考える力があるか。宮顕系運動が冤罪事件に形だけしか取り組まない原基がここある。あまり突けば、この問題に至るから取り組めないのだ。このことについて考えてみたことがあるか。

 Aは、「非転向を貫いた共産党員文化人が――野呂栄太郎さんが、小林多喜二さんが、杉本良吉さんが、今野大力さんが、今村恒夫さんらが、無残に殺された」と記しているが、ここに杉本良吉を入れているのはどういう訳か。そういう思い込みかも知れないが、史実に合わせて記さねばなるまい。

 昭和8年(1933年)、東京・築地署で逮捕後即日のうちに殺された作家・小林多喜二さんは、そのうちの一人であった。特高警察の激しい拷問を受けながら、なぜ、小林多喜二さんは、転向声明や敗北宣言を出さなかったのだろうか。林房雄さんのように、あるいは中野重治さんのように、あるいは……。

 小林多喜二さんの念頭には、そう遠くない日に「巨大な」日本帝国主義が音を立てて崩壊するという確信があった。資本主義社会を乗り越える新しい社会が到来することもまた社会科学的に疑いようがなかった。そうした信念は、実は、「偽装」転向声明によっても担保されるものだった。しかし、小林さんは転向しなかった、殺されることをのぞんだのだった。

 繰り返し問わなければならない、なぜ、小林多喜二さんは、転向声明を出さなかったのか? と。29歳の青年作家は、まだまだ小説を書きたかったはずだ。恋人や家族など、愛する人と別れたくなかったはずだ。淡い煙となって消えたくはなかったはずだ。この悲しくも素晴らしい世界との永遠の別れと引きかえに、彼はいったい何を守ろうとしたのか。

 小林多喜二さんを失ったプロレタリア作家同盟の書記長となった作家の鹿地亘さんの苦労は並ならぬものだった。その後の作家同盟の迷走と壊滅(かいめつ)は仕方がなかったように思われる。宮本さんは、戦前の共産党の未熟さやプロレタリア文学運動の方針上の誤りを率直に認めながら、苦しみ抜いた鹿地さんが戦後に書いた『自伝的な文学史』のなかから、次の一節を探し出している。

 「大切なことは誤らないことでも、敗北しないことでもない。それも大切かもちがいないが、もっとも大切なこと、決定的なことは、たたかいをやめないこと、どこまでも立ちなおり、全体とともにたたかい進むことである」

 レーニンは「誤りをおかさないものは、なにもしないものだけである」とのべたが、歴史の傍観者=「善悪の彼岸」に立つことを峻拒(しゅんきょ)した日本共産党員の残酷な宿命を言い当てた言葉でもある。

 3
 12年間におよぶ獄中生活のなかで宮本顕治さんの思考のほぼすべてを占めていたのは、どうすれば地下活動を強いられた日本共産党の組織を守り、発展させていくことができるか、ということだった。言い換えれば、スパイや挑発者が潜入できない指導部づくりと広範な国民との連帯づくりをどのように展望するのかという問題である。

 敗戦後に解放された宮本さんは、いち早く日本共産党の再建にかかわり、いわゆる「五〇年問題」(党の分裂問題)の解決に全力を尽くす。そして、議会の多数によって民主主義を徹底するという党綱領確定の先頭に立つ一方で、国際共産主義運動における日本の党の自主独立路線を確立していく。政党機関紙「赤旗」を基軸にすえた党活動の提唱など特筆すべきことは多々あるだろう。

 ただ、ここで注目したいのは、1983年に導入された参議院全国比例代表選挙における日本共産党のたたかいについてである。このとき、日本国民は歴史上初めて党名選挙というものを経験したのだが、実に400万人以上の国民が「日本共産党」という政党名を書いて投票し、改選議席を2名上回って「抜群の躍進」を勝ち取ったのだ。

 当時やんちゃな中学生だった私は、党支持者だった母親が「政党名を書くわけでしょう? 共産党に一票も入らなかったらどうしよう」とオロオロと父親にもらしていたことを覚えている(笑)。歴史をひもといてみると、いまから90年前の1917年、社会主義者の堺利彦さん(のちの党創立者の一人)が東京選挙区から立候補したときの得票がわずか25票だったということを考えると、以来約一世紀をへて、初めての政党選択選挙にのぞんだ日本共産党の歴史と力量は、他党の追随を許さない大きな蓄積を重ねてきたと言えるだろう。

 このときの選挙戦で、宮本議長(当時)が遊説先でテレビ討論会で新聞紙上で何度も何度も繰り返して強調したのは、日本共産党の戦前のたたかいの意義についてだった。この日本社会でねつ造された反共風土と反共偏見を打ち破る本格的なたたかいが開始されたのだった。本当のたたかいは、始まったばかりなのだった。
宮本顕治さんは、躍進した参院選挙のあと、党創立六十一周年記念招待会でのあいさつで、次のようにのべている。

 「小林多喜二の書いた『一九二八年三月十五日』という小説がございます。その最後に、三・一五事件で検挙された人たちが小樽から札幌の警察留置場に移された、からになった小樽の留置場の壁に『三月十五日を忘れるな!』、『日本共産党万歳』という文字があっちこっちに刻みこまれていたということを彼は書いています。ご承知のように、日本の社会の近代化が非常に遅れた状況のなかで、百年前は、日本共産党は、猛獣、毒蛇のたぐい、あるいは、コレラ菌に類するものというような主張を、当時の新聞――『東京曙新聞』とか、『朝野新聞』というのが書いていました。また、五十年前は、この猛獣、毒蛇のたぐいから、『人間』に入りましたが、それでも『非国民』、『国賊』ということで、激しい弾圧を受けました。こういう迫害を受けた日本共産党が今回、四百十六万という方がたの支持を受け、その党の名前を書いていただいたということは、私としてもかなり感慨があるものであります(拍手)。私はこの点をできるならば、小林多喜二とか、岩田義道とか、野呂栄太郎とか――私と一緒にたたかった僚友に告げたら、どんなにか喜ぶかということを、科学的ではありませんが、そういうふうに考えるわけであります(大きな拍手)。……」

4
 私は、ここまで、夜を徹して、尊敬する宮本顕治さんについて長々と書いてきたが、2007年7月27日早朝を迎えて、第21回参議院選挙の投票日までもう時間がないし、そろそろ仕事に行くタイムリミットがきてしまった(笑)。これ以上は、もう書けない。

 ただただ、小林多喜二さんが死を賭して守ろうとしたのは、文学の自由ではなかったか、と思う。それは、共産党員のみの言論の自由といった狭いものではなく、すべての国民と文学者たちの言論の自由の海だった。おそらく小林さんは、激しい拷問に耐えながら、自分の肉体が滅びても自分の言葉は残ると信じた。北海道・小樽へ文芸講演旅行にやってきた芥川龍之介さんの背中を追いかけた小林青年は、芥川さんの言葉「芸術は民衆の中に必ず種子を残している」を知らないわけがなかった。小林さんは、芥川さんが生きたくても生きられなかった人生を少しだけ生きたのだ。

 平成の時代の幕開けに、いち早く時代の閉塞状態を察知した文芸批評家の江藤淳さんは、矢継ぎ早に『日本よ、何処へ行くのか』『日本よ、滅びるのか』という名の政論集を出し、言葉をもてあそぶ保守政治家や知識人を批判し、そのような言語空間を成立させている日本社会そのものの起源を暴こうとしていた。彼のたたかいは、その疲労困憊(こんぱい)ぶりが読者に見えるほど激しいものだった。
かつて若い日、夏目漱石が残した作品の群れを自在に渉猟した江藤さんは、それらが結局のところ、「他者」への「愛」という行為が不可能であることを証明する小道具に過ぎないと覚った。

 「絶望的な断層の彼方にいる他人を愛そうと夢みながら、その孤独から脱出しようとするはなはだ人間的な努力を重ねて、『神』のいない国の住人の経験し得べき最も痛ましい苦悩の中に生きた孤立無援の男」(『夏目漱石』1956年)

 このように書き、やっと彫り上げた漱石の渋面は、実は、「他者」への接近をぎりぎりまで試みながら断念せざるをえなかった江藤さん自身の面ではなかっただろうか。江藤さんの評論は、小林秀雄さんが見向きもしなかった「他者」に真摯(しんし)に向き合い、彼らの内面に入り込もうとした点において、まさに革命的であった。しかし、問題は、その行為にさえ「絶望」が待ちかまえていたということなのだ!!

 自殺した江藤淳さんは、次のような言葉を残した。

 「国は滅びても言葉は残る。言葉によって生きる者は、国が滅び、国土が失われたのちでさえも、言葉を守って生き続けなければならない」

 私は、いま背広の袖を通しながら、江藤さん、あなたの憎んだ、日本共産党員であった宮本顕治さんや小林多喜二さんこそが、あなたの言葉通りの人生をまっとうしたのだと伝えたい。一度だけお会いした……、日に焼けた優しい笑顔の人だった江藤さん……、もう二度と会うことのない江藤さんに、日本共産党員であり続けている僕は、そう伝えたい、そう伝えたかったのだ。

【元首相・中曽根康弘のコメント考】
 元首相・中曽根康弘は、宮顕の訃報に接し、次のようにコメントした。

 戦争が終わってから、いろいろな困難や妨害にも遭遇しながら共産党の骨組みを作り、力を伸ばしていった。国会では野党として自民党内閣に一番厳しい態度を取ってこられた。考え方、政策は違うが、信念を貫いて堂々とおやりになる姿を見て敬意を表していた。私が首相になって間もなく国会で質問を受けたが、かなりよく準備された質問で論理的に攻めてきた。敵ながらあっぱれだと感じていた。

(私論.私見)

 中曽根の宮顕訃報コメントの裏意味を解する必要がある。それは、ナベツネを仲立ちとして、宮顕と中曽根は深い誼を通じていたことである。それは、ロッキード事件の際の田中角栄徹底追及、反作用としての中曽根浮上と絡んでおり、両者が地下で繫がっていたことを暗示している。

 2009.9.9日 れんだいこ拝




(私論.私見)