宮顕のはるかなる変態長征総史その2 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).7.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
見よ!この宮顕の変態長征の歴史を。まだまだ十分でなく、取り込めなかったり整理しきれてないが、これを読んで宮顕をまだ弁護する左派人士がいたとしたら、れんだいこはそういう者とは意思疎通をしたくない。白黒付けねばならないところと、つけてはならないところと、つけるに及ばないところとの仕分けが肝心だ。ここは、白黒つけるところであるからして十分に精読して思案して欲しい。 但し、このサイトでは極力簡略にし、通史としてひと目で追えるよう心掛けた。やや詳しくは、別サイトのそれぞれの項を参照されたし。掲載しているのは氷山の一角で、まだまだ漏れているところがあるのですが纏めきれない。参考情報及び資料のご紹介をお願いいたします。 2006.5.30日再編集 れんだいこ拝 |
【全学連「代々木事件」又は「6.1事件」発生】 |
1958(昭和33).6.1日、「全学連第11回定期全国大会代議員グループ会議」が代々木の党本部で開かれところ、学生党員らの党中央批判が噴出し、党中央委員全員の罷免要求を決議するという異常事態となった。全学連指導部の公然たる党に対する反乱であった。宮顕は直ちに処分に乗り出し、香山健一全学連委員長.島成郎.森田実ら3人を党規約違反として除名。13人を党員権制限の厳格処分に附した。いわゆる「代々木事件」又は「6.1事件」と呼ばれる。年末までに72名が処分された。 |
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徳球時代には学生運動急進主義派を利用した挙句、党中央簒奪後は切り捨て、以降「跳ね上がりのトロツキスト」と罵倒し続けていくことになる。学生運動急進派追放が党内反宮顕派清掃第3弾となる。 |
【第七回党大会開催で「宮顕-袴田体制」が確立】 |
7.21日より第七回党大会が開催された。この時宮顕の指揮する党中央は会期中各代議員を分宿させて缶詰状態におき、横の連絡を不能にした。始めの2日間は、中央主催の予備会議として、あらかじめ大会の運営と役員についての腹案が練られた。大会の日程から議題の討議の方法までも事前に決められるという手法がここに確立されることになった。 大会で、「宮顕-袴田体制」が確立された。「六全協」時の徳田系とのバランスが一方的に崩れ去り、旧国際派勝利の大会となった。宮顕系の主流派閥化の形成と官僚主義に道を開いたが、春日(庄)・内藤グループとの確執が残った。この時 「5つの教訓」が定式化されている。要約すると、「党のとくに中央委員会の統一と団結」、②.「民主集中制と集団指導の原則」、③.「地方組織の党中央への服従」、④.「党の内部問題の党外持ち出しの禁止 」、⑤.「党の政治的、理論的水準を向上させることにより党中央の指導に服すること」という今日に牢として確立されている党中央絶対権力理論を確立している。 |
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第7回党大会で「宮顕-袴田体制」が確立された。この時より、いわゆる宮顕式党運営が定式される。但し、この時点では、春日(庄)グループが最大抵抗勢力として立ち向かう。 |
【第七回党大会開催で綱領論争に決着付かず】 |
「党章草案」の綱領部分に対して春日(庄)グループが反対意見を述べ続け決着がつかなかった。 国家の独立規定と当面の革命の性格方針をめぐって、宮顕らの「従属」規定と、「民族の完全独立と民主主義擁護の為の人民民主主義革命」論に対し、春日(庄)らは「自立」規定と、「構造改革のコースを通ずる社会主義革命」を主張した。論争は本会議で決着がつかず、綱領小委員会をもうけて検討された。ここでもまとまらず、綱領部分の採決はしないことにして、「引き続き討議すべき草案」として承認するにとどめて、その最終的決定は次の大会に持ち越した。 |
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要するに、宮顕派の綱領は右翼的なもので、それを強引に押し付けようとするところに問題が発生していた。 |
【戦前の元中央委員会委員長・山本正美、野田弥三郎の都委員資格を剥奪】 |
9.21、「第4回東京都党会議」で、都委員会に自己批判を迫り、突然、野田弥三郎と山本正美の2委員の都委員資格を剥奪した。 |
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山本正美は戦前の元中央委員会委員長である貴重な人士であったが、そのような配慮は微塵もないことが分かる。旧国際派の野田弥三郎、山本正美追放が党内反宮顕派清掃第4弾となった。 |
【宮顕体制への地固め、反対派の排除進む】 |
10.4日アカハタは2ページを費やして、武井.野田.片山らの規律違反なるものを攻撃する宮顕の長大論文を載せた(「党建設の問題に寄せて」)。春日(正)が都委員長に天下り統制を強めていくこととなった。 10月、東京都党会議の後、「第11回大阪府党会議」が開かれた。宮顕の意向を受けた松島が乗り込み、「独立闘争の」意義を協調して府委員会の報告草案を批判した。第10回神奈川県党会議でも、「独立の課題の過小評価」を指摘して、反対派分子を牽制した。京都府党会議では、府委員大屋史朗(西京司)に対する罷免カンパニアが組織され、旧所感派の河田賢治が後がまに座った。大屋はその後、革命的共産主義者同盟関西派の中心となった。千葉県党会議でも同じ様な反対派排除が行われた。並行的に年末にかけて学生党員の除名が進められた。 |
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【宮顕式党勢拡大、党建設方式の確定】 |
11.20日より「第3中総」を開いた。この会議で、党中央は、「党生活の確立と党勢拡大の運動」の決議を行い、一般の党員に対して、「①.細胞会議を定期的に開く、②.全党員がアカハタを読む、③.党費と党機関誌代を完納する」という三つの目標を掲げた。 |
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宮顕は、読売新聞の新聞拡張しごき教室と通底する「自己目的的な党勢拡大と中央への盲従の道」を定式化させた。「宮顕独特の党建設方式」が、この第3中総において確定された。 |
【ブント結成に対する粉砕決議】 |
12.10日、先に除名された全学連指導部の学生党員たち(全学連主流派)が「日本共産主義者同盟」(ブント)を結成した。その学生組織として「社会主義学生同盟」(「社学同」)が結成された。直後の12.25日、党は、幹部会声明で、「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と、全学連指導部の極左主義とトロツキズムに攻撃を加えた。こうして、党は、ブント「社学同」を排撃し、「民青同学生班」を強化していくこととなった。 |
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この「無慈悲さと『左』との闘争に最も戦闘的になる」のが宮顕の特徴である。 |
【党中央宮顕派と春日(庄)派の対立沸点化と統制の強化】 |
1959(昭和34).6.29日、「6中総」で、宮顕派と春日(庄)派が対立した。選挙総括、安保改定の評価、綱領問題、第8回大会の問題等々を廻って論争となった。「宮顕系党中央の徳球時代にまさる官僚主義的な党運営のやり方」に対する批判の声が挙がった。しかし、春日(庄)は、前衛8月号で選挙闘争総括論文において党の自己批判の必要を指摘したことに対する「全文取り消しを強要」され、7.9日付けアカハタ紙上に発表手続きの誤りについての自己批判と論文の取り消しとを発表させられている。 |
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これ以後、春日(庄)の論文は形式的な追悼文などのほかには党の機関誌から姿を消すことになった。 |
【雑誌「現代の理論」廃刊強制】 | |
「6中総」で、大月書店刊行の雑誌「現代の理論」を規律違反として摘発した。4月に刊行されたばかりのこの雑誌は、「現マル派」といわれる構造改革派系の党員理論家たちが結集しており、進歩的な党外の思想や非マルクス主義者との相互討論によってマルクス主義の創造的発展をはかろうとしていた。これに対して、宮顕は、「6中総」決議として、次のように述べ弾圧を指示している。
8.17日アカハタ主張において、「このような性質の刊行物を党員が出したり、又党員がこれに参加すること」を「即座に中止すべきである」との指示により、「現代の理論は9月第5号を最後に廃刊となった。 |
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雑誌「現代の理論」廃刊は、党中央の露骨不当な言論.出版抑圧であった。この履歴を持つ宮顕党中央が、後年公明党の出版圧迫を大きく取り上げていくことになる。事情通からすれば何をか況やではなかろうか。このマヌーバーが何とも宮顕らしいところとも云える。「現代の理論」派追放が党内反宮顕派清掃第5弾。 |
【狂気の「手紙カンパニア運動」始まる】 |
第8回大会を前にして、「党を拡大強化するために全党の同志に送る手紙」を採択し、これが大衆的前衛党を目指す党勢拡大運動の歴史的出発点になった。こうして保険の勧誘まがいの手紙カンパニアが組織された。春日(庄).内藤らはこの方針に反対した。まじめな批判的党員が嫌気がさして機関を離れたり、無活動に陥っていくものが増えていった。党勢倍加運動は、反対派勢力の排除と抑圧、新しい支持層をつくることによる党内基盤の強化に役だった。 |
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いずれにせよ、中央の権威を統制強化と絶対服従と無条件忠誠の強要によって確保しようとする強権統制主義が敷設されていった。 |
【在日朝鮮人の帰国事業に宮顕が加勢】 |
在日北朝鮮人の帰国事業が1959(昭和34)年より始まった。9万人余りの在日朝鮮人が、日本から朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ渡ることになるが、今日から見てその背景はイカガワシイ。元々、在日朝鮮人の帰国は日本政府の意図していたところであり、これと金日成政権が呼応し、朝鮮総連(議長・韓徳銖)の指揮の下で全国津々浦々で帰国協力運動が巻き起った。 この時宮顕は、この帰国事業を極めて熱心に煽っている。凡そ帰国事業が一段落するまで金日成政権を誉めそやし、その後は手のひらを返して口を拭っている。 |
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在日朝鮮人の帰国事業に関しても、宮顕は当局の意向を挺して立ち働いている。 |
【港地区問題勃発】 |
中央に制圧された都委員会の中にあって港地区代議員が反対派を結集していた。この港地区には、国鉄品川.全電通.その他の公労協や民間大企業の拠点経営細胞が多く、9月下旬の第4回港地区党会議において、中央批判組が新地区委員会と都党会議代議員の多数を制した。都委員会は、地区党会議の無効と山崎.田川.冬木の3地区委員の資格剥奪を決定し、別に地区委員長を定めた。この渦中で浜武司が「功績」を挙げた。 |
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港地区党委員会弾圧は、権力的手法そのもので行われたことを確認する必要がある。港地区党委員会追放が党内反宮顕派清掃第6弾。 |
【全学連に対する「トロツキスト集団」非難強める】 |
11. 27日、第8次統一行動の国会デモで、全学連学生らによる「国会乱入事件」が発生している。党中央は、翌日のアカハタ号外で突入デモ隊を非難し、これを専ら反共・極左冒険のトロツキストの挑発行動とみなして、ただちに事件を非難する声明を発した。常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し全都にばらまいた。こうして連日「トロツキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。 この声明に対して、共産党港地区委員会は中央に抗議声明を発し、27日の全学連デモを支持した。都議員団はじめ多くの党組織から全学連事務所に激励のメッセージが寄せられた。 |
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以降、対権力闘争には幅広整然穏和運動を志向させ、極左・トロツキストに対しては戦闘的に粉砕せよと呼号する変調運動が満展開されていくことになる。 |
【岸首相渡米阻止闘争に対する敵対】 | |
1960(昭和35).1.16日、岸首相の渡米阻止の為の大衆運動計画が立てられるや、党中央はこれに猛然と反対を唱え、全都委員.地区委員を動員して、組合の切り崩しをはかった。この時、党中央は、次のような妙ちくりんな言辞を弄している。
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アカハタのこの言辞は何ぞ。「人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」と如何にも闘うようなポーズを示すが、何のことは無い「代表団を秩序整然と羽田空港に送り」と方が本音で、要するに平穏見送り論でしかない。宮顕にはこういう論法が多い。 |
【「トロツキスト集団全学連」の非難更に強める】 |
全学連が独自行動にでて、約700人が羽田空港ロビーを占拠するという羽田事件がおこるや、再びトロツキストの挑発行動として大々的に非難した。知識人によって羽田事件の犠牲者の救援運動が始められるや、当中央は発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかった。関根.竹内.大西.山田.渋谷などの人々が発揮人をとりさげざるを得なくされた。これらの知識人は後々党中央に対する激しい批判者となった。 |
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当然の救援運動にかくも水さす指導をしている。これが万事宮顕流である。 |
【「小畑査問致死事件に対する検閲姿勢】 |
6.19日、安保改定阻止闘争の最中、平野謙が手塚英孝(宮顕の入党時の推薦人であるという同郷昵懇の文芸作家)と会った時のエピソードが伝えられている。手塚が「査問事件」に関する作品発表をなそうとしていた事に関して、平野が「進んでいるか」と尋ねたところ、大要「実は宮本の検閲に引っかかりましてね。作品発表を見合わせました」(「リンチ共産党事件の思い出」68P)という返事がなされたことを明らかにしている。従って、手塚の5年後の発表作品「予審秘密通報」(文化評論.昭和40年12月号)は、宮顕の検閲を通過した作品であることが逆に知れることになる。 してみれば、袴田の著作「党とともに歩んで」のこの部分の記述も、当然検閲通過させられていることが想像されることになる。ということは、いわずもがなではあるが、「党ととも に歩んで」中の「査問事件」の記述もこのセンテンスで読まねばならないということだ。袴田が後日党と袂を分かったことを見てこれを正確視する向きもあるが随分曖昧化されていることを知っておくべきであろう。 |
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宮顕が査問事件に対する解明を妨害している史実が浮き上がってくる。 |
【安保闘争に対する右翼的方針指導】 |
4月から波状的な国会請願デモが開始された安保闘争が昂揚していくことになるが、この時期の宮顕の指導は、安保闘争全体を民族闘争の枠に限定付け、岸政府打倒闘争を避ける方向へリードしている。しかも、その闘争戦術の基準をできるだけ広範な人民層の参加という幅広主義と、諸勢力との調整の必要という点から最低次元の統一行動に規制していこうとする整然方式にすえ何とかして穏和化へ戻そうとさえしている。 |
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党の国会請願デモに対して、全学連指導部により葬式デモの痛罵が浴びせられることになった。 |
【樺美智子事件発生と余波】 |
6.15日、全国580万人の参加で第二次全国ストが遂行された。東京では、15万人の国会デモがかけられ、ブント.社学同の学生たちを中心に数千人の国会突入が為された。この最中に樺美智子が死亡する事件が起こった。樺美智子事件の衝撃でアイク米大統領らの訪日は中止となり、国会デモはその後更に33万という史上最大の動員数を示した。この時党は、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」と声明して怒りを買っている。6.23日、樺美智子追悼葬の夜、全学連主流派学生250人が憤激して、党本部に抗議デモをかけた。 |
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党は、この一連の経過で、戦闘化した大衆から前衛失格.前衛不在の罵声を浴びることになった。安保闘争は、戦後反体制運動の画期的事件となったが、日共は「乗り越えられた前衛」と評され、この言葉は革新ジャーナリズムの流行語となった。但し、スパイに則られた党中央という認識までには至らず、その分宮顕の悪事を許すことになる。 |
【民青同盟6回大会に対する穏和化干渉】 |
安保闘争終息後の6.27日、民青同盟第6回全国大会が開かれ、同盟の新しい性格と任務を決定した。宮顕は、民青同の右派化を策していたが、同盟6回大会で、宮顕の修正個所が批判を浴びて、当初同盟中央が決定したように「労働者階級の立場に立って、人民の民主主義的課題のために闘う」と明確に改めた。宮顕は、同盟中央が作成したよびかけ、規約を自身の筆入れによる穏和路線へ再修正させた。 |
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宮顕は、何のために青年運動にかくまで目を光らすのだろうか。「宮顕スパイ論」を媒介せずば解けず、媒介させれば容易に解ける。 |
【「81カ国共産党会議」に独断代表派遣】 |
12.7日、モスクワにおける「81カ国共産党.労働者党会議の声明」が発表された。宮顕と袴田が参加していた。モスクワ会議への代表派遣という重大問題について中委総会にはからず、単に全員でない幹部会をもっただけで勝手に決めている。結局自分らの派閥だけで代表を決定した。 |
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宮顕の規約重視がいかにご都合論理であるかが見て取れる。 |
【「宮本綱領」の採択】 |
1961(昭和36).3.1日より「第16中総」が開かれた。この「第16中総」に「綱領草案」が提出されたが大激論を生み結局満場一致とならず、中央役員44名中、4分の1に近い10名が反対又は保留した。2年半の討議を経てもなお難産であったということになる。この時、大会議案に反対と保留の中央委員は、自らの意見を下部の機関や組織で述べてはならず、400字詰原稿用紙25枚以内にまとめた意見書を、希望によって党報に発表することが出来る、と決められたが、この最低限とも云える約束さえ反故にされた。以後中央主流による綱領反対派に対する統制.抑制.官僚的圧迫が強化されることになり、予備工作が進行した。 |
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「宮顕綱領」の本質は、無茶苦茶な右派綱領というところに本質がある。それを無理矢理採択させたところに政治的意味がある。凡庸な者はそこが見抜けず、綱領を絶対視させられてしまった。 |
【「新日本文学会」系の第一次弾圧】 |
4.12日アカハタは、「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人としての責を問われた関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)の処分をページ全面に発表した。続いて4.17日アカハタはこのアピールに賛成して中央の説得に従わなかった数名の同志が、規律違反の処分を受けた顛末を報じた。数名の同志とは、主に「新日本文学会」に属する小林勝.柾木.岡本.大西.小林祥らの作家.評論家たちであった。 |
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関根弘、武井昭夫処分が党内反宮顕派清掃第7弾。 |
【長谷川浩除名】 |
この頃伊藤律と最も親しい党歴を持っていた徳球系残存指導幹部であった長谷川浩が除名されている。除名された長谷川はその後「労働運動研究」誌に拠り、清貧のうちに晩節を全うした。 |
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徳球系残存指導幹部の長谷川浩処分が党内反宮顕派清掃第8弾。 |
【「第8回党大会」に向けての強権発動】 | |
5.6日より都道府県委員長会議が開かれ、中央から綱領討議に対する厳重な規制が指示された。以後7月にかけての都道県党会議において、党内反対派への抑圧を強化し、排除が強行されて行った。6.12日アカハタは、次のような語るにおちる党官僚の放言を掲載した。
「宮顕秘書グループが暗躍」し、反対分子の多いと見られる地方組織に主流派幹部を派遣して、党会議を統制し、締め付けをはかった。草案反対者は機関として推薦できないとして、あらかじめ代議員候補のリストからはずすといった規約蹂躙の工作が全国的に展開されていくこととなった。野坂.宮顕.袴田.志賀.松島.聴濤.土岐.川上らが手分けして各県の党会議に乗り込んで反対意見を封殺していった。 この間、先の16中総の申し合わせで春日(庄)以下10名から提出された意見書の内容は党報へ掲載される権利が留保されていたが、「16中総」の決定をゆがめて伝える恐れがあるという理由で、党報への掲載が中止されることとなった。大会直前に発効された前衛8月号には、志賀.袴田.松島.米原らの草案支持の論文をずらり揃えた上で、内藤.内野(壮).波多の反対意見書を投稿扱いで載せた。 府県から地区に至る党会議や委員会総会は、すべて草案を踏み絵として党員を点検する「検察の場」と化し、大会代議員の選出は、選考委員会によって推薦名簿の段階で厳重にふるいにかけられ、批判意見を持つ代議員候補者は、ほとんど故意に落とされた。「中央は絶対に正しい」、「中央に忠実な機関は又正しい」とする組織体質が定着化していった。この結果、7月上旬までに全国にわたってほぼ終了した大会代議員の選出では、綱領反対派又は反中央分子とみられるものは、完全に近く排除されていた。 |
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党中央による露骨な規約蹂躙、これが民主集中制の本質であることが分かる。 |
【春日(庄)グループ除名、離党】 | |
春日(庄)を「反党分子」として除名した。これにより春日(庄)ら構造改革派グループが集団離党した。7.8日、中央統制監査委員会議長春日(庄)は離党届けを出し、同日夜記者団に次のように声明した。党大会を前にして現職の党幹部が離党し、公然と中央批判したことは前代未聞であった。
山田.西川.亀山.内藤.内野.原の中央少数派が連名で、「党の危機に際して全党の同志に訴う」声明を発表した。これに対し、党中央は、春日.山田六左衛門等7名を除名にし、この前後多数の地方機関役員その他を処分し反対派への大々的カンパニアを展開した。「反党的行為、裏切り分子、分派主義者、党破壊の策謀、修正主義者、悪質日和見主義等々の大々的非難か攻撃キャンペーン」を開始した。 7.20日、「第18中総」で、党中央は春日等7名の除名を規約を無視して決定した。この時、波多は綱領草案に対する反対意見を、神山は保留の態度をそれぞれ撤回した。7.24日、武井、9.2日、大西、9.6日、針生.安部らを除名。党大会までに発表された被告処分者は、除名28名.党員権制限9名で、被除名者には中央委員7名.中央部員2名.元都委員8名.県委員1名.理論家及び編集者グループ10名が含まれていた。その他地方組織において、府県委員以下の離党又は処分が大量に見られた。 |
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春日(庄)派処分が党内反宮顕派清掃第9弾。 |
【「新日本文学会」グループ除名、離党】 |
春日(庄)派の反乱に続いて「新日本文学会」の党員作家.評論家グループが、中央委員会あてに、「中央は綱領草案の民主的討議を妨げたから、大会を延期せよ」とする意見書を提出した。有力会員14名が連名していた。中野は意見書を勧めながら、連名しなかった。続いて、7.22日、「新日本文学会」の党員グループ21名連署で党の内外に宮本派指導部非難のアピールを重ねて発した。「今日の党の危機は、中央委員会幹部会を牛耳る宮本.袴田.松島らによる党の私物化がもたらしたものである」として、彼ら派閥指導部の指導の誤りと独裁的支配、規約の蹂躙と党組織の破壊の事実を挙げ、言葉激しく非難した。その後、除名ないし自ら離党していくことになる。 |
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「新日本文学会」グループ処分が党内反宮顕派清掃第10弾。 |
【旧東京都委員会グループ除名、離党】 |
7.23日、野田.増田.山本.芝.西尾.武井ら6名の旧東京都委員会グループが、「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊に対する抗議」と題する声明を発表した。7.24日、増田.片山等が連署で離党声明を公表した。こうして、各地方の反対派の離党声明や中央攻撃声明など続々と発表された。大会を前にして党主流の派閥支配に対する怒りと不満が爆発して党の分裂状況が生まれた。 |
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旧東京都委員会グループ処分が党内反宮顕派清掃第11弾。 |
【第八回党大会で、宮顕-袴田体制継続】 |
7.25日より第八回党大会が開かれた。 大会の眼目は新綱領の採択にあったが、反対派がことごとく排除されていた為議案は全てしゃんしゃんの全員一致で採択された。万一綱領反対者が発言しないかと恐れた中央は、大会運営の厳重な統制をはかり、大会発言者には全て事前に発言の要旨を文書で提出させ、綿密に審査した後大会幹部団の指名によって発言を許可するということにした。大会討議においては反対意見は姿を消し、綱領草案についてもこれの実践的検証を誓う没理論的発言か、草案反対派との闘争を手柄話にする「お茶坊主発言」が相次いだ。神山.中野.波多らは綱領草案支持を表明し、かって反独占社会主義革命を主張した中西.鈴木らも、自己批判して草案支持を明らかにした。志賀は、会期中発言らしい発言を一度もしなかった。「春日庄次郎一派の反党的、反階級的裏切り行為の粉砕にかんする決議」を全員一致で採択した。 この時の人事で引き続き宮顕-袴田体制が継続された。野坂.志賀は実質上棚上げされた。宮顕.袴田という戦前の党の最終中央コンビが磐石の態勢で指導権を握った。 |
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【第八回党大会で、規約改悪】 |
この時規約改正が行われたが反動的に改悪された。党大会の召集の延期、下級組織の委員の移動と配置、 地方における中委の代表機関の設置、党員の多い工場や経営の危機に対する中委指導に必要な措置等々これら全てが新たに中央委員会で出来るようになった。中央の権限強化だけでなく、幹部会は必要な場合常任幹部会を置くことが出来、幹部会は中央統制監査委員会 に出席することが出来るようになって、今や中委-幹部会-常任幹部会と、少数独裁制への移行の保証が与えられるに至った。他方、規律違反で審議中の者は6ヶ月の枠で党員権利を停止されることとなった。 |
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限りない右派路線へのひた走りと規約改悪こそが宮顕系党史の流れである。 |
【民青同のベルト化指導】 |
党は、この頃民青同盟を共産党のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置に替えた。 |
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【春日(庄)派系学生グループ「青学革新会議」)の結成とそれへの攻撃】 |
党8回大会前後春日(庄)派が離党したが、これに呼応した民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心として9月青年学生運動革新会議(「青学革新会議」)が結成されたが、宮顕は、アカハタ紙上で執拗にその攻撃を指示し続けた。 |
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【「4つの旗」の定式化による宮顕路線の党内徹底】 |
1962(昭和37).7.13日、「第3中総」で、「日本共産党創立40周年にあたって」を採択。「4つの旗」を定めた。「4つの旗」とは、 ①.反帝反独占の人民の民主主義革命の旗、 ②.祖国の真の独立と人民の勝利の保障である民族民主統一戦線の旗、 ③.政治的思想的組織的に強固な強大な日本共産党の建設の旗、 ④.アメリカを先頭とする帝国主義に反対する民族解放と平和の国際統一戦線の旗として定式化し、「宮顕式綱領路線の普及と徹底化」をはかっている。 |
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【機関紙中心の党活動の定式化による宮顕路線の党内徹底】 |
10.5日、「第4中総」。機関紙活動の重要性について、党の総路線-4つの旗を実現する活動全体を結びつける党の動脈であると強調。機関紙中心の党活動を定式化、正しい党風を呼びかけた。 この時党の労働組合政策の基本方向を明らかにし、総評依存主義の誤りを指摘。報告と決議で社会党.総評を「社民」と規定し、強硬路線を打ち出す。綱領路線を基準とする民族民主統一戦線を押し出し、総評依存主義からの脱皮と独自の組合=大衆活動を志向する。 |
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以後あらゆる大衆運動に「二つの敵論」を持ち込む。 |
【波多然とそのグループが脱党声明発表】 | |
1963(昭和38).3.8日、佐賀県の前中央委員波多然とそのグループが次のような脱党声明を発表した。
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波多然とそのグループ処分が党内反宮顕派清掃第12弾。 |
【「自主独立の立場」登場】 |
9.23日、宮顕は、NHK教育テレビで初めて「自主独立の立場」の言葉を使う。 |
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「自主独立の立場」そのものは結構な立場であり、宮顕の唯一の功績である。しかし、これを語るなら党史上初めて「自主独立の立場」に立った徳球党中央を国際派の観点から批判していた過去について自己批判せねばなるまい。そのことには何ら触れないご都合主義でしかなかった。且つ、国際主義的共同の在り方について貧弱すぎる観点を見せているので、実践的には有害な役割しか果たさなかった。胡散臭い連中は何をやらせても胡散臭いものになるという好例である。 |
【野坂疑惑の隠蔽】(有田HP.投稿者:志賀義雄.投稿日2000.11.14日より) | |
野坂スパイ説は一部でではあるが既にこの頃指摘されていた。後に袴田が唱えるより早く、高谷覚蔵氏(戦前のソ連クトーベ帰りの人)の「革命は一夜にしてなった」(昭和38年)の110頁に以下の記載がある。
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つまり、この当時においても山本懸蔵夫妻の所在を求める声が党内から挙がっていたことになり、その真実究明を時の党中央幹部たちが恐れていたことになる。 |
【「4.17ゼネスト」をめぐって】 |
1964(昭和39)年、この年の春闘で総評.公労協が大ゼネストを企画していたところ、この時党は、突如「4.8声明」を発布し、単に日本共産党の名義のままの幹部会でも中央委員会名でもない声明文で、4.17ゼネスト消極論を主張した。この奇怪な党指導の経路と経過は今日まだ解明し得ていない謎である。何らかの強力な指示と圧力があって、幹部会全体を無視し乗り越えていったことだけが確かである。この中央指示の誤りを批判し拒否した数少ない動きに山口県党、名古屋の中郵細胞があったが、いずれも制裁を受けている。 公労協を始めとする総評は、党に対し「組合破壊分子」.「スト破り」という一斉攻撃を浴びせ、「4.8声明は政治主義にたった誤りであり、特にスト直前に統一を乱したことは間違いである。党の決定を優先させ、組合機関の決定に従わない組合員は厳重に統制処分する。共産党が右のような態度を続ける限り、総評は重大決意をもって対決する」という方針を確認した。こうして「共産党員労働者が労働組合から処分されていくという事態となった。党の権威は大きく失墜し、組合運動.大衆運動への影響力を大幅に後退させる結果となった」。 この時党の最高幹部がどう対応したか。宮顕と袴田はこの時中国にいた。宮顕は帰国して、まず聴濤を統制違反で処分し、「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走によるもの」と公労協に詫びを入れ一件落着にしている。 |
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「4.17ゼネスト敵対」は、宮顕系党中央の政治的役割を露呈した。「中央の決定は絶対正しい。その無条件実行は又正しい」 という中央盲従、服従ぶり、下部機関.一般党員のあやつり人形ぶりが露呈した。党の独善的な一枚岩的組織体質、上意下達運営方式の官僚主義を定着させた。 |
【志賀義雄造反、除名】 |
「部分核停条約問題」で、志賀が党の決定に背いて賛成票を投じ造反した。本会議解散後、志賀は、報道陣を前に「みなさんに訴える」の声明文を配り、記者会見した。鈴木市蔵、中野重治がこれに同調した。これに対し、党中央は、袴田主導で志賀の党所属国会議員としての権利を停止する処分を発表した。同時に「志賀義雄同志の党に反対する行動について」を決定
した。中国で療養中の宮本は、志賀問題の知らせを聞くや予定を切り上げて帰国し、「第8中総」で志賀.鈴木を党規約破壊.裏切り者と罵った。出席中央委員57名中53名の賛成で、二人を最高処分である除名を決定した。秋に予定される
第9回大会で正式決定にすることにした。神山は態度を保留した。 この日志賀義雄著「マルクス・エンゲルス・レーニン・日本論」が絶版にされた。宮顕が幹部会も開かず、中央委員会にも諮らずに書記局の専断で決定した。「宮顕版焚書」と言える。 この間「党内での自由な論議が一切禁止」され、党員が外部は勿論党機関紙誌においても賛否の意見を発表することは許されなかった。党内の反対意見や少数意見は、それ自体が分派的だと決めつけられる根拠となり理由となった。「分派は人民の敵であるから、これを殲滅するにはどんな手段をとってもよい」とするスターリン的論理が堂々とまかり通った。志賀問題は波及し、朝倉.出.国分一太郎.佐多稲子.佐藤.野間宏.本郷.丸木位里.俊子夫妻.宮島.山田.渡部らが造反した。 |
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親ソ共派志賀グループ処分が党内反宮顕派清掃第13弾。獄中18年の指導者同志志賀は一夜にして党と人民への裏切り者と化 した。「政治的意見の対立の処理に限度を越えた糾弾と抹殺方式が採用」され、語るに落ちる党の到達段階を示していた。 |
【神山.中野問題発生する】 | |
「8中総」のあと、神山は、日朝協会.原水協.平和委員会などの役職を次々とはずされた。7.7日、神山は中委あてに意見書を提出した。そこで彼は、「8中総」前後の中央の決議.決定の発表方法や内容についての意見を述べ次のように批判している。
7.13-15日、「第9中総」が開かれ、会議の冒頭で、宮顕書記長から、動議でも提案でも意見でもない奇妙な形式の報告が為された。長野県における神山グループの分派的行動と、新日本文学大会、その他での中野の規律違反が言及された。袴田.川上.金子.多田などから神山.中野への攻撃的発言が為された。野坂からも、幹部会.中委総会.大会などの秘密が公安調査庁に筒抜けになっていて、「8中総」の議事も80パーセントまで公安情報に出ていると報告があり、これを受けて西沢隆二らから、二人がいては秘密をばらす恐れがある、二人を加えておいて党の秘密が保てるのかなど、攻撃が浴びせられ神山と中野は、これら一連に抗議した。 |
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【党が「4.17スト対応」自己批判する】 |
党は、この総会で「4.17スト」反対への誤りを認め自己批判した。この時党の最高幹部がどう対応したか。宮顕と袴田はこの時中国にいた。宮顕は帰国して、まず直接の指導責任者であった聴濤を統制違反で処分し幹部会員から解任した。竹内七郎を書記局員.労働組合部長から解任した。「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走による者」と公労協に詫びを入れ一件落着にしている。聴濤は、4.17スト中止指令は党の最高幹部による合議であっただけにショックを受け、翌日から党に出てこなくなり、翌年怪死を遂げている。死因は急性心機能不全と記録されている。 |
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竹内七郎.聴濤処分が党内反宮顕派清掃第14弾。 |
【神山.中野除名される】 |
8.23-27日「第10中総」で神山.中野の党員権を停止。神山等中央批判の文書を出し、党中央と論争する。原潜寄港問題で決議採択。党勢拡大月間を決定。9.25日-30日「第11中総」で神山.中野を除名する。 |
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神山.中野グループ処分が党内反宮顕派清掃第15弾。 |
【第9回党大会】 |
11.24日より第9回大会が開かれた。既に確立された宮顕体制の追認大会となった。 ソ連共産党の大国主義と現代修正主義批判、教条主義批判を新たに押しだし、自主独立論を中共路線上に名目的に確立する。党員15万人に達し、中央役員で宮顕体制を一層強化する。人事は引き続き宮顕-袴田体制の継続が確認された。中央委員候補に上田耕一郎.不破哲三.工藤晃が登場していることが注目される。上田・不破兄弟の登用が次第に袴田と確執していくことになる。 |
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上田耕一郎.不破哲三の登用がやがて宮顕-袴田体制を突き崩すことになる。 |
【中共との蜜月で病気療養】 |
1965(昭和40).1.18~3.7日、宮顕は中共詣で病気療養をしている。しかし、この時伊藤律が幽閉されていたにも関わらず折衝が為されていない。 |
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宮顕が、伊藤律幽閉を知らなかったならば許されようが、そういうことは経緯から観て有り得ない。 |
【ソ連共産党との論争】 |
この頃ソ連共産党との論争が為された。この時イデオローグとして活躍したのが不破哲三であった。 |
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【中国共産党との論争】 |
1966(昭和41).1.1日、宮顕は新春インタビューで「新しい年の展望と日本人民の責務」をアカハタに発表。自主独立路線の志向を明確にさせた。2.9-4.4日、宮本党代表団は中国.北ベトナム.北朝鮮の訪問を終えて帰国した。この時中国共産党毛沢東指導部と反帝統一戦線問題及び日本革命の進め方をめぐって大きく対立し、以降抜き差しなら無い反目を深めていくことになった。 |
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ソ共に続いて中共との対立に向ったが、問題は、どういう理論及び論法で自主独立化し得たからである。 |
【山口県党(中国派)の除名相次ぐ】 |
8月、原水爆禁止大会以後中共の日共路線への批判が強まり、山口県党は中共路線の立場から中央を批判する。これに対し、党中央は、西沢隆二、党山口県委員会の福田正義ら5名、原田長司、日中友好協会の大塚らを除名する。被処分者は100名を越えた。福田ら被除名組は「山口県委員会革命的左派」を結成し、機関紙「革命戦士」を発刊する。 |
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親中共派グループ処分が党内反宮顕派清掃第16弾。この中共派弾圧でもって理論闘争的面を含んだ党内反対派追討を終える。これ以降は弾圧ないしは闘う団体に対する敵対の面が強まるのでパラノイア反革命所業と受け止め、「パラノイア反革命」として記すことにする。 |
4、戦後中盤・左派運動鎮圧から盟友袴田の除名まで(「経歴(4)」) |
【第10回党大会開催】 |
1966(昭和41).10.24日より第10回党大会を開く。統一行動、統一戦線を発展させるための教訓と方針、数十万の大衆的前衛党を建設する意義と任務、その方策、戦後の党発展の歴史的教訓。自主独立路線宣言し、自主独立の立場と二つの戦線での闘争の重要性などを示す。 |
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【中共との関係更に悪化】 |
1967(昭和42)年、北京に党中央委員会代表として駐在していた砂間一良幹部会員候補と紺野純一赤旗特派員に、北京空港で集団リンチが加えられた。 |
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【「善隣学生会館事件」発生】 | |||
3.2日、善隣学生会館事件が発生している。「寺尾五郎氏のレポート」は次のように述べている。
この日だけで重軽傷20数名という犠牲者(午后四時の大襲撃の前後の小競り合いによるものをふくむ)がでた。被害者である中国人学生の側が急拠発行したパンフレット・善隣学生会館中国留日学生後楽寮自治会発行「日共修正主義グループの華僑青年学生に対する襲撃事件の真相」は次のように記している。
問題は、この事実に対して赤旗がとった態度にある。この明白な事実に対し、全く逆な見方をし、全くさかさまな言い方をした。単なる報道記事ではなく、赤旗はその3.4日付「主張」で次のように述べている。
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こうなると、互いに、相手側を襲撃者といい、互いに、自分が被害者だと主張しているわけで、ここでも「真相が逆転」させられている。これは宮顕得意の論法であるが、これが罷り通ってきたのが宮顕党中央指揮下の日共であることを見据えねばならない。中共系日中友好協会に対する敵対がパラノイア反革命第1弾。 |
【愛知県「五月問題」発生】 |
5月、愛知県党委員会内に指導幹部批判の内紛が発生したところ、宮顕が直接乗り出し、批判派の“監禁”査問が為されるに至った。批判派の中心人物宮地氏に対しては21日間の“監禁”査問が為されたことが本人によって明らかにされている(「私の21日間の“監禁”『査問』体験」)。 |
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宮顕の行くところ『いつでも、どこでも査問が待ち受けている』という好例である。愛知県党委員会内の批判派排除がパラノイア反革命第2弾。 |
【全共闘運動の盛り上がりとポンプ化】 |
1968(昭和43)年頃、ノンセクト・ラディカルが生まれ、反代々木系セクト8派と提携し、全共闘運動及び反戦青年委員会運動を生みだしていくことになった。この運動に対し宮顕は、「政府・自民党に泳がされたトロッキスト、ニセ左翼暴力集団を孤立」させようとして全面的に敵対していくことになった。 この時宮顕は、民青同を武装化させ、躍起となって全共闘運動つぶしを直接指導した。「突破者」の著者キツネ目の男宮崎氏が明らかにしているあかつき行動隊は誇張でも何でもない。今日この時の闘争を指導した川上氏や宮崎氏によって、この時民青同が、「宮本氏の直接指令!」により、共産党提供資金で、全 国から1万人の民青・学生を動員し、1万本の鉄パイプ、ヘルメットを用意し、 いわゆる“ゲバ民”(鉄パイプ、ゲバ棒で武装したゲバルト民青)を組織し、68 年から69年にかけて全国の大学で闘われた全共闘運動に対してゲバルトで対抗した史実がある。この時の論理は解明されねばならない課題として残されているように思われる。 |
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「60年安保闘争、4.17スト、このたびの全共闘運動等々に対する敵対を見れば、宮顕執行部による党運動は、平時においては運動の必要を説き、いざ実際に運動が昂揚し始めると 運動の盛り揚げに党が指導力を発揮するのではなく、左から闘争の鎮静化に乗り出すという癖があると云えるのではなかろうか。全共闘に対する敵対がパラノイア反革命第3弾。 |
【べ平連運動に対する敵対】 |
1969(昭和44)年、70年安保闘争のクライマックスに向かいつつあった。恒例の10.21全国反戦デーが社共総評主催で開かれようとしていたが、10.4日、宮顕は「10.21集会には両原水禁組織とべ平連は入れるべきではない」と発言している。 |
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この御仁の「排除の強権論理の新展開」でもあった。市民団体系に対しても党内論理を適用させようとしており、その非が咎められない左翼の貧困を見て取ることは難しくない。べ平連に対する敵対がパラノイア反革命第4弾。 |
【第11回党大会】 |
1970(昭和45)年、第11回党大会を開く。 |
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【愛知県県委員U氏専従解任事件】 |
1971(昭和46)年春頃、宮顕は、典型的な規律違反でっち上げ手口として、「愛知県県委員U氏専従解任事件」を強行している。1967年にも「愛知県五月問題」が発生していたが、その余波と云える。党中央から送り込まれていた井田愛知県委員長に対して、県委員のU氏を先頭に批判発言が強まった。党中央は、U氏ら2名に対し自己批判を要求し、査問された。2人は、正当な発言であるとして自己批判書提出を拒否した。再び宮顕の直接指示に基づき、U氏は「自己批判書を書かなければ専従解任する」と通告された。U氏は生活の糧を失う事態に直面し、やむなく自己批判書を提出した。他の一人は党専従でないので、自己批判そのものも拒否し続けた。U氏が自己批判書を提出したところ、党中央は、とだまし討ち解任を指令した。彼を専従解任措置だけで、規約上の処分にしなかったことは、これが規律違反ねつ造脅迫の宮本式反党行為であることを証明している。
数日後、井田愛知県委員長は、党中央の指示に基づき、県勤務員全員を緊急招集して数十人の県勤務員全員を前に、U氏専従解任報告とともに、幹部会方針であるとして「党中央批判は一般党員には許されるが、専従者には一切許されない」と脅迫通告をした。(「私の21日間の“監禁”『査問』体験」)。 |
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この通告が、幹部会会議から帰った直後になされたことは、これが宮顕指示により全党的な党中央批判専従粛清方針として決定されたことを示している。こうして、U氏ら2人への査問は、なんの規律違反もないのに、上田耕一郎密告(?)⇒宮顕指令で強行された。この宮顕式「党中央批判専従の排除手法」は、宮顕と側近グループの思いのままになるコミンテルン型“一枚岩の党”を作り上げ、“満場一致型党大会”を継続させる荒療治であり、その温床である。愛知県党委員会内の批判派幹部排除がパラノイア反革命第5弾。 |
【宮顕委員長が家移り】 |
1972(昭和47)年.2月、宮顕委員長が家移り。東京都杉並区上高井戸から東京都多摩市連光寺に移転した。敷地約200坪、周囲を高いブロック塀で囲い、家族の他防衛隊員が常駐。以降毎週一回、党本部で開かれる党中央常任幹部会会議の前日には、上田、不破、榊、岡本博之、小林栄三、若林ら私設秘書幹部も含めて謀議を凝らして行くことになった。 |
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【新日和見主義者処分】 |
宮顕は、70年代初頭に党-民青同盟-民青同系全学連の一部に現れていた戦闘的傾向に対し、宮顕の直接指示の下で摘発に乗り出した。1971.12月、第6回中委を開き、 合理的な理由もないままに突如「民青の対象年齢引き下げ」を決定し、その押しつけを民青同に迫っていくことになった。党中央は、これを「踏み絵」にしつつ反対派を浮き彫りにさせていった。1972.5.7日民青同幹部の党員会議は当然のように紛糾した。党中央は、会議直後用意周到に準備させた査問者リストの手筈に従い一斉に「査問」に着手した。民青同系全学連初代委員長川上徹氏始め有数の幹部達が補足され、分派活動をしていたという理由づけで一網打尽的に処分を受けることとなった。民青を宮本忠誠派に差し替える600人査問、100人処分の一大冤罪粛清事件となった。これを新日和見主義事件と云う。 |
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新日和見主義事件は、今日の党を実質的に支配する二重構造を改めて露呈させているということにおいて考察に値打ちが認められる。党の二重構造とは、背後に君臨するのが宮顕式の治安維持法的陰険狡猾な統制秩序であり、これに依拠しつつ表舞台で活躍するのが不破式スマイルによるソフト路線であり、この両者はあうんの呼吸で一対をなしていることを指す。新日和見主義事件は、この裏の構造が出っ張った事件となった。 宮顕の音頭取りで直接の指揮の下直伝の「査問」が行なわれたが、この経過から見えてくるものは、宮顕が戦前の「大泉・小畑両中央委員査問・小畑致死事件」に何らの反省をしていないばかりか、引き続きここ一番の常套手法にしている様が見えてくるということである。同時に氏が次代を担う青年組織に用意周到に常に警察的な目を光らせている様が自ずと見えてくることにもなる。民青同盟-民青同系全学連内左派弾圧がパラノイア反革命第6弾。 |
5、戦後後半・最後の国策奉仕から引退まで(「経歴(5)」) |
【細川隆元発言に対する変調抗議】 |
1973(昭和48).1.14日、TBS日曜日8.30の定例番組で、コメンテーター細川氏は、宮本委員長を番組のゲストとして迎えようとしていたが出向いてこなかったいきさつに対し、「恐らく宮本は、批判されるのを怖れて、出席を避けたのだろう」風に発言したところ、共産党がこれに噛み付き、赤旗で批判しただけでなく、TBSにそのような発言を許したことが怪しからぬと抗議し、番組責任者に謝罪させている。 |
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言論の自由に対する抑圧ではないかとの考察の余地がある。細川隆元発言に対するTBS抗議がパラノイア反革命第7弾。 |
【第12回党大会】 |
11月、第12回党大会「民主連合政府綱領案」提案。決定。上田耕一郎。 |
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【「教師=聖職論」論争】 | |
1974(昭和49).4.16日、赤旗に、「教師は労働者であるが、教育の専門家として『聖職性』の側面を持つ」との主張を掲載した。以降、教師聖職論争が展開された。党中央は次のように述べている。
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党中央の教師聖職論の政治的意味は、「教師の労働基本権や組合活動、政治活動の制限を是認する」側に立つことになったことにある。共産党中央の「聖職論」は自民党に歓迎され、これをきっかけにして公明党も「使命職論」を、民社党が「勤労者の性格を持った聖職論」を発表していくことになった。社会党中央は反発し、機関紙・社会新報で批判していくことになった。当然日教組大会の争点となってくことになった。当時共産党中央は、部落解放同盟との対立の際に「教育の中立性論」をいい始めており、このたびの教師聖職論と教育の中立論が両輪となってその後の運動の性格を規定させていくこととなった。日教組に対する敵対がパラノイア反革命第8弾。 |
【大阪で「日共糾弾共闘会議」結成される】 | |
8.10日、大阪で、「日共糾弾共闘会議」(「日本共産党の労働組合支配介入糾弾共闘会議」)が結成される。労働時事通信は、「主要組合が機関決定を踏まえて公然と共闘会議を結成し、『日共糾弾』を唯一の闘争目標にすえ運動化を決意したことは、日本の労働運動史にも例がなく、今後の動向は国内はもとより国際的にも注目されると思われる」と記事紹介している。 会議は、田口全逓大阪地本委員長の司会で、林動力車労組大阪地本委員長を議長に選出し、林氏が次のように経過報告を行った。
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そういう事実があったということだろう。「日共糾弾共闘会議」に対する敵対がパラノイア反革命第9弾。 |
【立花隆「田中角栄-その金脈と人脈」発表、田中角栄政界追放の狼煙上がる】 |
10月、雑誌「文芸春秋」11月号で、立花隆「田中角栄-その金脈と人脈」が掲載された。これが以降の田中政界追放の狼煙となった。11.26日、田中退陣表明。在任期間2年4ヶ月で終わった。後継総裁選びが難航したが、副総裁の椎名悦三郎の裁定で三木が指名された。12.9日、三木内閣発足。 |
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宮顕党中央の角栄訴追運動は尋常でないボルテージで取り組まれた史実がある。田中角栄政治訴追運動がパラノイア反革命第10弾。 |
【「八鹿事件」が発生】 |
11.18日、兵庫県養父郡八鹿で、八鹿高校での同和教育を発端とする「八鹿事件」が発生した。同事件は、部落解放同盟が日共系の部落研に対して新たに解放研を作ろうとしたところ、日共系教員がこれに反対し全面衝突に至ったものである。11.22日、前日城崎温泉で一泊して会議を開いた教師団は貸しきりバスで出勤してきた。示し合わせた通り「本日の授業は中止する」と宣言して、図書館に集まった。午前9時半、ハンスト中の生徒たちに目もくれず、約50名の教師が集団で下校し始めた。ハンストを心配して詰め掛けていた解放同盟員や共闘会議のメンバーは、教師達の下校を阻止しようとし始めた。実力連れ戻し行使が発生し、もみ合いとなり、双方に負傷者が出た。日共は、赤旗キャンペーンで、「逆吊り」、「血の海と化す流血の場」なるものがおどろおどろしく報じられることになった。国会でも大きく取り上げ、部落解放同盟批判キャンペーンが展開された。 |
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宮顕系日共党中央の反部落解放同盟も又尋常でない。左派間の見解の相違という構図ではなく、敵として位置づけて主導権を争っているが、何の利益がもたらされたのであろうか。部落解放同盟に対する敵対がパラノイア反革命第11弾。 |
【統一労組懇結成】 |
12月、共産党系の労組20単産を結集しての統一労組懇結成。 |
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統一労組懇結成も何の利益があったであろうか。統一労組懇結成による総評に対する敵対がパラノイア反革命第12弾。 |
【共産党と創価学会の間で「十年創共協定」調印される】 |
12.28日、共産党と創価学会の間で「十年協定」調印。 |
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「十年創共協定」を手掛けたものの、その瞬間に壊した。「十年創共協定」に対する敵対がパラノイア反革命第13弾。 |
【狭山事件の弁護活動からの撤退指令】 | |
1976(昭和51).1.10日、赤旗は、「一般『刑事事件』と民主的救援運動」を発表し、次のように述べている。
かく見解表明し、狭山闘争からの離脱を鮮明にした。2.23日、日共系弁護士は弁護人を辞めた。 |
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党中央のこの見解は、司法・検察側と全く同一の論理であって、それまで冤罪事件として一定の弁護・支援活動をしてきた行動を否定したことになる。明らかな弁護方針の転換となった。狭山闘争に対する敵対がパラノイア反革命第14弾。 |
【立花隆『日本共産党の研究』連載開始と反撃キャンペーン】 |
1月、立花隆「日本共産党の研究」が1976.1月から1977.12月まで21回にわたり雑誌「文芸春秋」に連載された。査問関係者6名の調書内容が公表され始め、6月、平野謙著「リンチ共産党事件の思い出」(三一書房)が出版され、袴田調書の全文が添付された。この頃宮地氏の「意見書」も党中央に提出されている。 これに対し、6.24日、袴田批判の長文の赤旗解説記事「正義の闘争の光は消せない―袴田調書を悪用する策謀にたいして」が出され、並行して宮顕は、自ら赤旗で自己讃美を行い、「特集、宮本委員長獄中闘争物語」連載を開始し、その月だけで7回も載せた。さらに、9月、「文化評論9月号」で、小林栄三中央委員・元宮本秘書が、「スパイの問題をめぐる平野謙の『政治と文学』」という長大な袴田批判論文を発表した。 |
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「小林論文」は、袴田陳述内容を全否定し、ウソと詭弁を満展開していた。この論文は、宮顕と小林の共同執筆、あるいは宮顕原文を共同で練り、元秘書名義で発表したとも推測できる。その理由は、この論文では事件当事者の宮顕でないとわからないような査問開始2日間での細部の状況が、微妙な歪曲とウソをともなって随所に挿入されていることにある。しかし云えば云うほど辻褄の合わなくなるウソ・詭弁があまりにえげつないものとなっている。宮顕は自分が直接批判されると、自己執筆反論文や記事を自ら名乗らずに他幹部名で発表してウソをつき通すという卑怯なくせがあり、「小林論文」も同類と思われる。 |
【第13回臨時党大会】 |
7月、第13回臨時党大会「自由と民主主義宣言」。 |
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【袴田里見叛旗騒動勃発】 |
この頃宮顕と袴田の折り合いが悪くなっており、袴田は6.10日、「自己批判論文」を書かされていた。が、1976年12月、総選挙直後袴田は、常任幹部会で総選挙惨敗結果での宮顕、不破への批判、個人責任追及発言をした。宮顕、不破、小林らは、報復に着手し直後に開催予定されていた幹部会、中央委員会総会での同種の袴田発言の口封じのため、即座に袴田氏への査問通告をして、査問期間中の党員権(会議出席権、発言権)を剥奪した。その査問は、1977.10月の第14回大会まで10ヶ月間継続された。 |
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袴田がこの時点で切れたことになる。その背後に、リンチ事件を廻る対応差があったことが歴然である。 |
【田中角栄の政界追放に最も戦闘的に乗り出す】 |
7.27日、田中が為替法違反、受託収賄罪で東京地検特捜部に逮捕された。この経過でいつになく最も戦闘的に角栄批判運動を指導したのが宮顕であった。 |
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この時の宮顕の出張り方は尋常でなかった。今日、角栄失脚謀略説も流布されてきつつあるが、この絡みはどうなるのであろう。 |
【第14回党大会】 |
1977(昭和52)年、上田副委員長。 |
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【「犬は吠えても歴史は進む」立花批判キャンペーン】 |
8.8日、「犬は吠えても歴史は進む」の立花隆批判の大キャンペーンに乗り出すこととなった。ところが、内容はといえば宮顕論理の丸写しであり、真相解明そっちのけで政治主義的な乗り切りを策したものでしかなかった。 |
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【袴田里美除名】 |
10月、第14回党大会で袴田の政治的殺人儀式が執り行われた。この大会で宮顕は、袴田の副委員長、常任幹部会員、中央委員という党内の一切の役職を党大会役員人事“非推薦”という形で剥奪した。その“非推薦”理由について党大会で何の報告もなく、一つの質問も出なかった。「日本共産党の六十五年」は、「袴田が中央委員として不適格であることが明確なので、彼を中央委員に選出しなかった」とある。袴田は、それまでの経過とこの政治的殺人儀式に反逆して、マスコミに公表し、1978.1月に除名された。 |
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袴田失脚追い込みが党内弾圧第3弾。パラノイア反革命第15弾。 |
【宮地氏「専従解任不当」の民事裁判を提訴し、除名される】 |
第14回党大会で宮地氏の「上訴」が出されていたが、採決なしの30秒で却下された。上田耕一郎党大会議長は、採決を取ろうともせず、「異議ありませんか」と問いかけ、約1000人の党大会代議員が「異議なーし!」と唱和し、上田氏の「それでは統制委員会の報告は承認されたものと確認いたします」で片付けられた。「党大会で発言させよ」という宮地氏の要望は無視された。 宮地氏は、泣き寝入りすることを拒否して、名古屋地方裁判所に「専従解任不当」の民事裁判を提訴した。直ちに除名されている。裁判提訴後の共産党による連日の、一ヶ月間にわたる尾行、張り込みが為された。いわゆる『愛知県五月問題』の経過とその後の展開に宮顕じきじきの関与が為されている。その詳細は同氏のホームページに詳述されている。2月20日、民事裁判仮処分申請の第1回審訊冒頭で、裁判長を前にして、「共産党員が共産党中央を提訴するなど、国際共産主義運動史上一度もない! 前代未聞のこと! すぐ却下せよ!」と、門前払いを大声で叫んで怒り狂ったことが明かされている。 |
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かくて、党中央は、党員によって告発されるという痴態を招いた。宮地氏除名がパラノイア反革命第16弾。 |
【ネオマルクス主義系党員学者の排除】 |
1978(昭和53)年、国際共産主義運動内に台頭してきたユーロコミュニズムの影響を受けて、学者党員たちの間に、スターリン問題研究、ユーロコミュニズ研究の共同作業が活発になった。田口富久治名古屋大学教授、藤井一行富山大学教授、中野徹三札幌学院大学教授、水田洋名古屋大学教授その他多くのマルクス主義者が、雑誌「現代と思想」等での共同研究に参加し、論文、著書を発表した。党中央内でも、上田耕一郎が先進国革命路線のあり方、新しい党組織論について、論文、著書を発表した。党中央機関内にも、多元的社会主義論、民主主義的中央集権制の見直し論などの影響が大きく現われてきた。それらの著書のいくつかは、当時、大月書店勤務の加藤哲郎が、編集・出版を担当していた。 宮顕は、双葉の芽を摘むべく「宮本秘書団」を手駒にして圧殺に掛かった。「民主集中制の規律の強調」をし始め、不破が多元的社会主義を提唱する「田口富久治理論批判大キャンペーン」を開始した。 |
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ユーロコミュニズムに対する宮顕の対応を見よ。「いつでも、どこでも査問と排斥」である。田口富久治、藤井一行、中野徹三、水田洋、加藤哲郎ら日共系党員学者の排除がパラノイア反革命第17弾。 |
【「日本共産党への手紙」(有田芳生編集)の弾圧】 |
1990.6月、「日本共産党への手紙」が教育史料出版会から出版され、大きな反響を呼んだ。宮顕は、掲載された中で加藤哲郎論文と藤井一行論文に激怒して報復をしていく。編集を担当した有田芳生を査問し、除籍した。党員である出版社社長・橋本氏を査問し、除籍した。事件との絡みは分からないがこの頃、同社の編集者であった「後の党中央委員・元衆議院議員・石井郁子」の夫が査問され、除名処分を受けている。 |
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有田氏除名がパラノイア反革命第18弾。 |
【徳球記念碑建立への敵対】 |
59歳で北京で死去した徳田球一の遺骨や遺品類が徳球の故郷である名護市に遺贈されることになった。1980年初頭、名護市は市公報で、「郷土の英雄」、「国際的政治家」として、北京の追悼集会の写真など徳田球一特集号を出した。社会党の戸口市長が徳球記念碑をつくることを発案(三鷹事件の喜屋武由放の働きかけもあって)したが、自民、公明、社会党などは賛成したが共産党議員は賛成も反対もせず(客観的には反対を意味する)の対応を採った。岸本市長の時に完成した記念式典では、市の長老党員が他の人々とともにあいさつしたが、共産党の市委員会の代表はしなかった。 |
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この冷えた対応が、宮顕の意向を反映していたことは疑いない。徳球記念碑建立への敵対がパラノイア反革命第19弾。 |
【党名誉議長就任】 |
1982(昭和57)年、党名誉議長就任。 |
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【「民主主義文学同盟」粛清】 |
1983(昭和58)年、宮顕は、「民主文学四月号問題」でも対民主主義文学同盟クーデターを発動した。文学運動とまるで関係のなかった元宮本国会秘書・宇野三郎常任幹部会員を粛清担当につけた。その発端は、小田実寄稿文であった。「野間宏を団長として、中国訪問した」記述が“3行半”あり、編集後記に中野健二編集長の寄稿謝辞が“一言”あった。党中央5人が、民主主義文学同盟常幹グループ会議を招集し、自己批判を迫った。批判趣旨は、中国共産党批判の基本方針から逸脱し、思想を風化させた、編集長は個人責任をとれ、とするものであった。明白な「文学運動に対する党の優位性論」の押し付けであった。 1983.5月、民主主義文学同盟第10回大会が開かれた。常幹の一定の自己批判報告をめぐって、大会では、党中央側常幹発言内容への反発、批判意見も噴出し、報告は採択されなかった。それに対して、宇野・宮顕は、赤旗で「自己批判報告を大会は採択した」と故意に虚偽報道させた。常幹は22人いた。宇野・宮顕は、大会後も、中野編集長の個人責任を追及し、更迭を強要した。それをあくまで押し通すために、グループ会議だけでなく、常幹一人一人に「宮顕方針」を飲むように、説得工作を執拗に展開した。常幹22人中、「宮顕・宇野」忠誠派と異論派メンバーの色分けを炙り出し、異論派メンバーに対して陰湿な精神的拷問システムが採られた。 その拷問システムの結果、常幹22人中、12人は屈服した。「宮顕・宇野方針」は誤っている、受け入れられないとして、霜多正次議長、中野健二編集長、山根献事務局長ら10人が辞任した。“常幹辞任を強要”された10人は、いずれも、当時、『民主文学』『文化評論』『赤旗』で活躍し、民主主義文学同盟の中心的活動家だった。そのうち、かなりが除籍になった。10人粛清後の、“残存した”現民主主義文学同盟は、見事なほどに「スターリン式・政治の優位性」を認める、従順な文学組織に変質させられた。 宮顕は、宇野三郎・元宮顕参議院議員国会秘書が、10人を放逐した手腕にいたく満足した。そこで、宇野・元秘書を常任幹部会員に抜擢するだけでなく、「社会科学研究所所長」「党史資料室責任者」にも大抜擢した。宇野・宮顕コンビは、1988年「日本共産党の六十五年」、1994年「日本共産党の七十年」で、“宮顕賛美を文学的に粉飾、改ざん”するための緊密なチームプレイを発揮した。宇野・元秘書は、宮顕側近グループの一人として、“文学作品「宮本史観党史」を創作”する上で大いに貢献した。 |
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「民主主義文学同盟」粛清がパラノイア反革命第20弾。 |
【原水協古参幹部粛清事件】(参考文献)「原水協で何がおこったか」(長崎肇.日中出版) |
1984(昭和59)年、原水協に大鉈が振るわれ、幹部が大粛清された。代表幹事吉田嘉清.草野信男追放。江口朴郎.小笠原英三郎.古在由重ら党歴30数年の学者党員たちを「党中央の指示に従わぬ」という理由で、除名されるという「原水協事件」 が発生している。この経過は、党より為す大衆団体への人事に対する公然たる介入であり、ここでも宮顕の号令一下の音頭取りが見られ、胡散臭さが付き纏っている。 |
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吉田嘉清氏は戦後初期の学生運動の闘士であり、共産党学生党員として早稲田大学細胞のキャップであった。1955(昭和30)年に原水協が設立されると同時にこれに取り組み、以来代表理事として平和運動の先頭で精力的に戦ってきていた。このたびその座を解任されるという事件が起こったが、70年代初頭の新日和見主義事件同様に戦闘的大衆団体としての「双葉の芽」を持っていたが故に、摘まれた事件であったのではなかろうか。原水協幹部大粛清がパラノイア反革命第21弾。 |
【出版妨害事件とその余波】 |
8.9日、日中出版社が「原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る」を緊急出版した。金子・宮顕らは、その出版を阻止しようと、様々な出版妨害活動を展開した。しかしその工作は、妨害事実を日中出版社柳瀬宣久社長が、マスコミに公表したことにより、失敗した。党中央は、その出版は反党行為であると断定し、1985年、柳瀬社長と社員3人を査問し、全員を除名した。9月26日、吉田嘉清が反党行為をしたとして、査問し、除名した。10月、金子・宮顕らは、古在由重が提出した「離党届」の受け取りを拒否した。その上で、彼が「厳密にいえば分派活動」の規律違反を犯したとして、査問し、除籍した。 |
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創価学会の言論・出版妨害事件とまったく同じ性質の出版妨害を、日本共産党が行なったことになる。日中出版社弾圧がパラノイア反革命第22弾。 |
【雑誌『葦牙(あしかび)』批判キャンペーン】 |
民主主義文学同盟辞任メンバーは雑誌「葦牙(あしかび)」を創刊して抵抗した。宮顕私的分派・側近グループは、1985.4月以降、徹底した「葦牙(あしかび)」批判キャンペーンを民主文学.文化評論.赤旗で行った。霜多正次は、「ちゅらかさ―民主主義文学運動と私」を発行し、そこで「4月号問題」とその経過を克明に分析、発表した。中里喜昭は、「葦牙(あしかび)」誌上で反論・批判文を書いた。武藤功は、キャンペーンへの反論文だけでなく、宮本顕治論を発行し、そこで宮顕の「あとがき」内容を詳細に分析、批判した。山根献は、「葦牙(あしかび)」の「丸山真男追悼集」で、「政治の優位性」論への批判を、丸山の見解と対比しつつ、緻密に展開している。 |
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民主主義文学同盟辞任メンバーその後の「葦牙(あしかび)」グループ弾圧がパラノイア反革命第23弾。 |
【東大院生支部の『宮本解任決議案』問題発生】 |
1985(昭和60)年、東大院生支部の「宮顕解任決議」騒動が発生している。支部指導部が、11月開催の第17回大会に向けて「宮顕解任決議案」を東京都委員会に提出した。宮顕解任理由は、党中央委員会、とくに宮顕議長は、1977年第14回大会後から誤りを犯し、国政選挙10年来停滞の指導責任がある、敗北主義・分散主義等党員にたいする様々な「思想批判大キャンペーン」をする誤りの責任があること等を問うものであった。その根底には、第14回大会以降の「民主集中制の規律強化」.「自由主義、分散主義との全党的闘争」を推し進め、ユーロコミュニズム・先進国革命とは逆方向に向かう宮顕路線への、東大以外も含めた学者党員、学生党員の党中央批判の感情、意見が反映されていた。 9月、党中央は、支部にたいして、「1・大会議案は提出できる、2.提案は支部でなく、代議員個人」と正式回答した。10月、東大大学院全学支部総会が開かれた。都党会議の代議員枠2人に対して4人が立候補した。結果は、宮顕勇退推進派1人、党中央派1人で、党中央の勇退推進派落選工作は失敗した。投票内容は、宮顕勇退推進派23票、伊里一智13票の60%獲得にたいして、中央支持派は17票と7票で40%しかなかった。先に党中央は、「個人なら、規約上提案できる」と回答していたので、選出された都党会議の代議員Y氏は「代議員個人」として、まず都党会議で「宮顕解任決議案」を出す雲行きとなった。 非常事態を迎え宮顕がこれに如何に対処したか。宮顕はこの動きを断じて認めなかった。宮顕は、かなる卑劣な「規約違反」手段を採ろうとも、Yの「代議員権」を剥奪することを決意し指令した。東京都常任委員会は、11月5日、「決議案は、当初5人の連名である。それは多数派工作によるものであり、分派活動である」とでっちあげ、直ちにその5人を査問し、権利停止6カ月処分にした。さらに、査問中、権利停止中であることを理由として、Y氏の「代議員権」を剥奪した。11.11日、都党会議が開かれた。上田が党中央を代表して、「Yと伊里一智一派の分派活動なるもの」を40分間にわたって批判する大演説をした。上田は宮顕忠誠派の本質を曝け出し、以後“上耕人気”は急速に低落することとなった。 |
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東大院生支部弾圧がパラノイア反革命第24弾。 |
【志位.河邑の大活躍と大抜擢】 |
この粛清で、志位和夫と河邑重光幹部会委員・赤旗記者が大活躍した。この時志位は、5人の査問.権利停止処分と、Y氏の代議員権剥奪を直接担当し、粛清の先頭に立った。宮顕との直通ルートでひんぱんに連絡し、指示を受けた。そして、宮顕勇退勧告派の動きを、「分派の自由を要求する解党主義、田口富久治理論のむしかえし」と決め付けた。 河邑は、伊里一智批判の大キャンペーンで、「負け犬」、「ビラまき男」とする“宮顕が大喜びする”ようなレッテルを彼に貼った。宮顕直伝手法により、伊里一智の思想的・人格的低劣さをねつ造する記事を“大量生産”して一躍名を挙げた。宮顕は、志位を論功行賞で、次回の第18回大会で「最年少の准中央委員(33歳)」にした。さらに、第19回大会では「中央委員、新書記局長(35歳)」に“超・超・大抜擢”した。志位は、宮顕から、宮顕擁護とあらば、いかなる卑劣なでっちあげも平然と行い、それに基く粛清をも手がけ、「汚れた手」になるのも、いとわない、最も党派性(=自分への盲従性)の高いヤングマンとの「お墨付き」を頂戴した。第20回大会では、河邑が「常任幹部会委員」に抜擢された。 |
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これが「宮顕―不破―志位の重層的指導体制」誕生秘話である。戦前のリンチ仲間宮顕-袴田コンビのそれに劣らない。 |
【「伊里一智」事件発生】 |
11.19日、第17回大会会場入口で、伊里一智は、東大院生支部の「宮本解任決議案」問題の経過を書いたビラを配った。1986.1月、党中央は、伊里一智を査問し除名した。 「伊里一智」に対し党中央側のキャンペーンを河邑記者が行った。河邑は、それらのキャンペーン記事によって、東大全学60%における宮顕逆路線批判共同意志問題を隠蔽し、伊里一智一人だけの、気狂いじみた「ビラまき男」問題に矮小化させた。1977年第14回大会以来の宮顕逆路線を批判する、最初の組織行動という、この問題の性格は、志位と河邑の宮顕直接指令を受けた大奮闘によって、「負け犬の、ビラまき男による党大会会場入口事件」にすり替えられ、一人の気狂い党員の行動として、葬り去られた。東大大学院支部粛清の“葬送カルテット”の騒音に怒って、多数の党員が離党した。 |
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伊里一智氏除名がパラノイア反革命第25弾。 |
【「新日和見主義事件関係者15年ぶりの集いの会」弾圧】 | |
1987(昭和62).4月上旬、「新日和見事件」 から15年後のこの日、元民青同中央常任委員・小山晃は、同事件の被処分者にあて、「5.30日、15年ぶりの会」と銘打って再会の呼びかけを発した。党中央は直ちに全国的な調査を開始した。「とにかく党員は『会』に行くべ
きでないというのが党の見解です」と言いながら、何とかして会を中止させようと介入した。査問された小山は、次のように述べた後離党した。
当日、党の妨害を乗り越えて「15年ぶりの会」が開催された。党中央は、この会を認めず、会終了後判明した参加者に対して、下部組織を使って「参加者の氏名や会の模様を文書で報告せよ、党事務所に出頭せよ」などと執拗に要求してきた。それは不参加者や元中央委員でない者にまで及んだ。追求はこの年いっぱい続いた。 |
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無茶苦茶ではないか。新日和見主義事件関係者に対する最終弾圧がパラノイア反革命第26弾。 |
【兵本達吉「宮本独裁30年」事件】 |
事件当時、共産党の国会議員の秘書であった兵本達吉氏が、1990年の信頼のおける友人3人への年賀状に「宮本独裁30年」と書いた。これが密告され、共産党本部の書記局から呼び出しがあり、「兵本氏は一連の東欧の社会主義の崩壊を目撃して非常にショックを受けたために、年賀状を書いた時は精神が動揺して精神的にも不安定だった」とされ、共産党系病院の総本山である代々木病院の精神科での診察、精神鑑定を強要された云々。 |
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ごく当り前の「宮本独裁30年」と書いただけの年賀状を問題化させ、「代々木病院の精神科での診察、精神鑑定を強要」するとは。パラノイア反革命第27弾。 |
【「自由と民主主義の宣言」に関し、ルーマニア共産党が提灯声明を発表】 |
1990(平成2).2.14日、総選挙戦のさなかに出したアピールのなかで、共産党が1979年に発表した「自由と民主主義の宣言」に関し、ルーマニア共産党機関紙「スクンテイア」の後継紙「アデバル」の幹部が、概要「現在の東欧諸国の直面する諸問題を基本的に解明したもので、先駆的意義をもつ」と語ったことを材料に、「わが党はこの『宣言』を日本での展望として発表したもので、世界のモデルとしたものではないが、東欧の人々がこれを、そのように受け取っていることは興味ぶかい」と、例によって「先見性」、「先駆性」を自画自賛する為に利用していた。ここで、「興味深い」のは、このアピールの載った同じ15日付「赤旗」外信面に、ブカレスト13日発特派員電で「先駆的意義をもつ『自由と民主主義の宣言』ルーマニア紙副編集長語る」という記事が同時掲載されていることである。宮顕は、これをアピールの裏づけとしたつもりだろうが、世間では、こういうのは「やらせ」としかいわない。 |
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【古在由重の死去報道せず黙殺する】 |
3月、古在由重の死去で、「赤旗」は完全黙殺した。それへの党内外からの批判が高まり、共産党本部や「赤旗」編集局に抗議が殺到し、かなりの人が「赤旗」購読をやめた。すると、金子・宮顕らは、5.23日付「赤旗」で、「古在由重氏の死亡の報道に関して――金子書記局長の報告の要点」を掲載した。わざわざ「原水禁運動をめぐっての1984.10月の除籍にいたる日本共産党との関係」に触れ、「厳密にいえば分派活動規律違反行為」を指摘し、“死者に鞭打った”。 |
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古在由重氏逝去無報道がパラノイア反革命第28弾。 |
【「ルーマニア問題」での宮顕の対応】 | |
「赤旗」ハノイ特派員、外信部副部長、ブカレスト特派員などを勤めてきた厳名康得(いわなやすのり)氏は、1984年7月15日、離党届を提出。1985年1月25日、除籍されている。その厳名氏 が、1989.12月のチャウシェスク政権崩壊に見せた「ルーマニア問題」での宮顕の対応を非難し、「サンデー毎日(1990.3.4号)」に手記を寄せ、「宮本顕治議長よ、誤りを認めよ」を発表した。手記は、この間チャウシェスク政権との蜜月時代を謳歌し、同政権崩壊後その責任をとろうとしない宮顕共産党の姿勢に対して、党員、国民を愚弄していないかと、「歴史に立ち遅れた日本共産党を徹底批判する」論調で批判した。
これに対し、宮顕は、緒方靖夫氏(国際部長)の署名記事で、赤旗2.27日付の「変節した『元特派員』の日本共産党攻撃」を書かせ反撃したが、いつもの人格攻撃を異様なまでに加えたレッテルを貼り、社会的に批判を封殺するという伝統的習慣をここでも見せた。 |
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「赤旗」ハノイ特派員、外信部副部長、ブカレスト特派員などを勤めてきた厳名康得(いわなやすのり)氏が「ルーマニア問題」で事実を発信したことに対する除籍と赤旗での批判がパラノイア反革命第29弾。 |
【「ルーマニア問題」に対する木村愛二氏の意見書封殺】 |
いわな氏の告発に対して、党中央を代表して緒方靖夫氏(国際部長)が反論し、更にこれをいわな氏が反論するというなりゆきをみせていた。この一連の経過に対して、党員ジャーナリスト・木村愛二氏(その後離党)が参戦する。双方の主張を聞き分けてみていわな氏の方に分があるので、要旨「党中央は早めに反省謝罪文を発表すべき」意見書を提出した。 ところが、この「木村意見書」は封殺され、逆にこの意見書を提出したことにより木村氏は中央委員会から代々木の本部への出頭を求められた。「そこで経験したのは、それ以前の私の想像を上回る官僚主義の壁の厚さであった」と木村氏は伝えている。(関連サイト「ルーマニア問題考」) |
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党員ジャーナリスト・木村愛二氏の「ルーマニア問題に関する木村意見書」封殺がパラノイア反革命第30弾。 |
【「古在由重先生を偲ぶつどい会」運動弾圧】 |
9.14日、川上徹が、藤田省三らとともに、「古在由重先生を偲ぶつどい」の企画、事務局側の一人となった。呼びかけ人には、家永三郎、久野収、加藤周一、遠山茂樹、川本信正らが名を連ねた。川上徹は、1400人の参加者のまえで「つどいの経過報告」をした。党中央は、それを、“除籍した者を偲んだ”規律違反として、川上徹を査問し、除籍した。 |
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日共系全学連初代委員長の履歴を持つ川上徹・氏の査問、除籍がパラノイア反革命第31弾。 |
【各都道府県平和委員会・原水協役員党員数十人の役員解任、党除籍】 |
この間、各都道府県レベルの平和委員会・原水協役員である党員数十人の役員解任をし、党から除籍をした。これらの反核平和運動内党員活動家にたいする金子・宮本式大粛清に怒って、草野信男代表委員をはじめ、多くの平和運動活動家が離党した。 |
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金子・宮顕は、これら大粛清シリーズによって、「原水爆禁止運動の本流としての原水協」の私物化を完成させた。宮顕の出向くところ「いつでも、どこでも」粛清の剣が振り降ろされる。各都道府県レベルの平和委員会・原水協役員である党員数十人の役員解任、党除籍がパラノイア反革命第32弾。 |
【野坂名誉議長解任時の杜撰】 | ||
1992(平成4)年、ソ連崩壊1年後、ソ連共産党・コミンテルン秘密資料や、「野坂ファイル」を発掘・分析した小林俊一・加藤昭らにより野坂のスパイ性や山本懸蔵同志を密告(=銃殺)していたことが判明した。翌93年、「闇の男・野坂参三の百年」(文芸春秋社)が出版されている。こうした動かぬ事実が突きつけられるに及び、9.17日党創立70周年の式典が終わってまもなく、党中央委員会は野坂氏の名誉議長解任を決定、12.27日、除名処分を決議した。 ここで容易に問題となることは、先の袴田査問の過程で、「野坂議長をスパイとしておとしいれる陰謀を、1970年から7年間にわたって、日系米人ジェームズ・小田なるあやしげな人物(元米軍情報部員)と組んですすめてきた事実」を指摘し、規律違反容疑に挙げていたことである。結局袴田の指摘が正しかったことになるが、これに対する責任については口拭いしたままである。 12.27日付の「野坂参三にかんする調査結果と措置について」という第8回中央委員会総会決議では次のように断罪している。
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野坂を除名処分にしたが、野坂の胡散臭さはこの程度のものではなかろう。「総括ならぬ総括」に過ぎない。野坂の過去の指導理論や政治的立場が与えた影響又は役割、宮顕との連携プレーに関する宮顕の責任問題等々についての解明を行なっていない。この方面に対する総括無しに除名で済ましている現状は大いに問題が有るというべきであろう。野坂名誉議長に対する遅すぎる解任と真相隠蔽がパラノイア反革命第33弾。 |
【細川連立政権に対する敵対】 |
1993(平成5)年、衆院選挙前、自民党の羽田.小沢派の43名が離脱、新生党を結成。竹村正義ら10名も自民党を離党して新党さきがけを旗揚げ。8月細川連立政権が成立したが、この新政権崩壊に向けて語調を強めている。 |
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細川政権に対する敵対がパラノイア反革命第34弾。 |
【丸山眞男批判】 | |||
1994(平成6)年、新春インタビュー赤旗1.1日号、赤旗(日曜版)1.16日号で、東大政治学教授丸山眞男批判論文が掲載され、「丸山理論」への本格的批判キャンペーンが始まった。政治学研究の第一人者として著名な丸山氏は、戦前日本共産党の党活動が封殺された負の側面も含め真摯に総括することの必要性をコメントしていたが、赤旗はこれに噛み付いた。同氏の論調を捻じ曲げ、批判しやすいように歪曲し、「丸山眞男氏の『戦争責任』論の論理とその陥穽」論文で批判した。以降、丸山眞男批判論文が相次いだ。 これに対し、宮地氏の批判は次の通り。
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丸山眞男批判キャンペーンがパラノイア反革命第35弾。 |
【「ネオ・マルクス主義学者粛清」】 |
高橋彦博法政大学教授が「左翼知識人の理論責任」を出版したのにたいして、「その内容には、党への誹謗中傷が数箇所ある」といいがかりをつけて、1994.5月、査問し、除籍した。それ以外にも、ネオ・マルクス主義学者らの研究・出版活動に圧力をかけ、または除籍した。党中央・県役員2人が、自宅に乗り込んで詰問し、恫喝している。 これらの経過が一般に「ネオ・マル粛清」と呼ばれているものであるが、現下党中央の常幹メンバー総ぐるみで為されていることと、こうした宮顕式脅迫に遭ってかなりの学者党員があまり抵抗せずに、“党中央の思惑どおり”異論発表を止めるか、あるいは黙って離党したことに特徴がある。高橋彦博のように、自分の除籍経緯を公表するなどは、異例である。 |
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高橋彦博法政大学教授ら「ネオ・マル粛清」がパラノイア反革命第36弾。 |
【自社連合復権に口先批判だけで見過ごす】 |
6月、村山内閣成立。7.20日、村山首相が衆院本会議で自衛隊は合憲と答弁。この流れに対して、細川新政権に激しく対決した様子からはトーンの低いおざなり批判に終始した。この落差を凝視せねばならない。 |
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【下里赤旗記者査問、除名と作家森村誠一氏の日本共産党との絶縁事件】 |
10月、「日本の暗黒」赤旗連載の突然中止をめぐって下里赤旗記者他2名の査問、除名、作家森村誠一氏の日本共産党との絶縁が発生した。下里氏は赤旗記者を解雇され。この経過を公表し除名処分になった。 「日本の暗黒」赤旗連載の企画は、もともと国会での浜田幸一議員の「小畑査問死事件」に対する質問をテレビで見た作家・森村誠一氏が、「この問題を徹底的に明らかにしたらどうか」と赤旗編集局に進言し、それがきっかけで連載企画が進行したものであった。党の内部で集団的に長時間をかけて検討し、何度もの会議と決済文書を積み重ね、「日本の暗黒」の第一の柱として「スパイ査問事件」を取り上げることが決まり、これを元に、党外作家と赤旗編集局長の合意が成立し、1989年に連載が始まった。 上級の集団的チェックを受けた原稿によって、多くの読者を獲得して進んでいたものが、いよいよ同事件に筆が進みそうになった直前の1991.6月の時点で、突然中断となった。何の問題もなく、万事順調に進んでいた連載が、なぜ突然中断になったのか。この背後には、宮顕のこの事件に対する徹底した隠蔽体質があるとしか考えられない。 |
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下里赤旗記者他2名の査問、除名がパラノイア反革命第37弾。 |
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(私論.私見)