経歴(概括) 「宮顕のはるかなる変態長征総史」

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).7.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 見よ!この宮顕の変態長征の歴史を。まだまだ十分でなく、取り込めなかったり整理しきれてないが、これを読んで宮顕をまだ弁護する左派人士がいたとしたら、れんだいこはそういう者とは意思疎通をしたくない。白黒付けねばならないところと、つけてはならないところと、つけるに及ばないところとの仕分けが肝心だ。ここは、白黒つけるところであるからして十分に精読して思案して欲しい。

 但し、このサイトでは極力簡略にし、通史としてひと目で追えるよう心掛けた。やや詳しくは、別サイトのそれぞれの項を参照されたし。掲載しているのは氷山の一角で、まだまだ漏れているところがあるのですが纏めきれない。参考情報及び資料のご紹介をお願いいたします。

 2006.5.30日再編集 れんだいこ拝


【「宮顕のはるかなる変態長征総史」各章】
 宮顕の活動履歴を如何に仕切るか。れんだいこは、次のように識別し、それぞれの時期の活動を素描することにした。ここでは、これを一括で概括し、それぞれの章ではもう少し詳しく見ることにする。
戦前編 党活動の端緒から釈放まで(「経歴(1)」)
戦後前半 戦後直後から「六全協」まで(「経歴(2)」)
戦後中半 党中央簒奪から宮顕独裁完了まで(「経歴(3)」)
戦後後半 左派運動鎮圧から盟友袴田の除名まで(「経歴(4)」)
戦後終盤 最後の国策奉仕から引退まで(「経歴(5)」)

 
2006.6.8日 れんだいこ拝

1、戦前編・党活動の端緒から釈放まで(「経歴(1)」)

 【「敗北の文学」に見る排他性疑惑】
 1929年(昭和4).8月、この年の総合誌「改造」の懸賞論文で一等当選。宮顕はこの名声をもって当時のプロレタリア文学運動の隊列に加わっていくことになり、以降「戦旗」に働き場所を見つけた。
(私論.私見) 
 芥川文学を評するに「それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」などと述べ、早くも「排除の強権論理」を垣間見せている。なお、松高時代の文芸仲間の文章の盗作の疑いがあるとの指摘が為されている。詳細は、「『敗北の文学』の論評」に記す。

 【入党疑惑】
 1931年(昭和6).5月、入党。相前後してプロレタリア作家同盟に加入した。32年の春より地下活動に入った。
(私論.私見) 
 れんだいこは、宮顕の胡散臭さは入党時点から既に始まっていると観る。入党オルグは同郷の文芸評論家の手塚とされているが、もっと詳しく洗わねばなるまい。

 【スパイMとの関係疑惑】
 同10.6日、大森銀行ギャング事件が引き起こされた。同10.30日に「熱海事件」が引き起こされた。どちらの事件にもスパイMが暗躍している。その後スパイMは忽然と消え、特高資料においても痕跡さえ消されている。
(私論.私見) 
 スパイMの退場は何を意味しているのだろうか。れんだいこは、特高がスパイMの替わりになる手駒の配置を終えたことを意味していると推理する。ならば、スパイMの後釜は誰かということになるが、それが宮顕であったと見るべきではなかろうか。れんだいこは、宮顕とスパイMが同じ指揮系統で繋がっていたと推理している。

 【その後の宮顕の暗躍振り疑惑】
 1932(昭和7)年、宮顕は、入党後は主に文芸部門に関わり、蔵原式プロレタリア文学理論を踏襲した。芸術.文化運動のボルシェヴィキ化」、「唯物弁証法的創作方法」、「社会主義リアリズム論」を前面に押し立てての「政治の優位性理論」によりブロレタリア文学運動に影響を与えていった。
(私論.私見)
 日本プロレタリア文学運動に於ける蔵原ー宮顕ラインの果たした役割こそ胡散臭い。彼らは、口先では最も尖鋭なブロレタリア文学理論を唱えるが、実践的には却って有害無益な観点を押し付けていった。この点での検証がまだ不足している。

 【小林多喜二逮捕に関する疑惑】
 1933年(昭和8).2.20日、小林多喜二は特高に捕まり即日拷問の末虐殺された。東京市委員長三船留吉の手引きによるとされている。
(私論.私見)
 小林多喜二は三船留吉に売られたとされているが、当時小林多喜二と連絡線を保っていたのはプロレタリア文学運動の理論的指導者宮顕ー蔵原ラインではなかったか。れんだいこは、三船にすりかえられている可能性が強いと疑惑している。

 【中央委員昇格時の推薦人疑惑】
 宮顕は、野呂委員長の下で中央委員会に抜擢されている。この時宮顕は若干25才の登竜であった。具体的にどのような批判であったのかは明らかにされていないが、この当時既に宮顕登用に反対する党内意見があったとの資料が遺されている。
(私論.私見)
 宮顕が中央委員として登用された際の推薦人が誰なのか記録がない。この当時中央委員になるためには既中央委員の推挙が必要とされ、しかる後全中央委員の承認が必要であった筈である。この肝心なところが抹消されている。宮顕にはこの種の胡散臭さが限りなくある。

 【東京市委員会に転出してからの悪巧み疑惑】
 宮顕は東京市委員会に転出させられ、スパイ三船留吉の後任となった。袴田は組織部会の部長であり、その部員に木島隆明がいた。ここで、「宮顕−袴田−木島ラインが形成」され、後述の小畑中央委員査問死事件を引き起こしていくことになる。
(私論.私見)
 ここに宮顕派が結成された。以降、この宮顕派が党中央を簒奪していくことになる。

 【党内査問運動に見る黒幕性疑惑】
 宮顕が党中央に進出した頃から査問事件が頻出し始めている
(私論.私見)
 一連の「査問事件」が宮顕の党中央委員進出以降の出来事であることと、これらの査問に宮顕の影が見えていることを思えば、黒幕を窺わせるに足りると推定し得る。

 【大泉.小畑中央委員査問、小畑致死事件疑惑】
 12.23日、「党中央委員大泉.小畑両名査問事件、小畑査問致死事件」が発生した。
(私論.私見)
 この事件解明の意義は、これまで黒幕に位置してきていた宮顕が小畑の逃げ出し行為という突発的事態の発生で直接の下手人として手を染めさせられたということにある。宮顕は今日に至るまで、この事実を伏せようとしてデタラメの弁明を行ってきている。まさに、宮顕にとって、小畑の奮戦死は致命的な打撃を与えることになった。

 【宮顕が党中央簒奪】
 小畑死亡直後、小畑の死体を前にして平然と協議が行われ、宮顕が党中央のトップに座った。宮顕は、小畑の死体の前で平然と新人事を発令している。これが「まさに血塗られた党中央の戦前最後の中央委員としての宮顕−袴田コンビ誕生秘話」である。
(私論.私見)
 戦後党活動の再建に当たって、「党中央の戦前最後の中央委員」であるという肩書きを宮顕−袴田コンビが吹聴してまわることになるが、その実体はこのような状況下で決議された資格だったということを知っておく必要がある。

 【宮顕指示内容の変調さ】
 この会議で、宮顕が為した指示は、スパイ摘発闘争の徹底と、当局に漏洩されたら取り返しのつかない党員の経歴書再提出ほかであった。
(私論.私見)
 宮顕は党中央を簒奪するや早くも本性を表わした。「党員の経歴書再提出」は最も避けなければならないのに敢えて指示している。リンチ査問者の対象が全協及び党内に残存する戦闘的活動家に対してタ−ゲットされていたことも胡散臭さを示している。その「指導の変調さ」ははかりしれない。

 【小畑の死体処理責任取らず】
 秋笹と木島が小畑の死体を床下に埋めたが、宮顕は、この時死体遺棄に関与しておらず、「あれは秋笹・木島が勝手にやった」と公判で陳述している。
(私論.私見)
 「責任を下部の者になすりつける」典型的な物言いをしている。世に「卑怯者」という罵詈方があるが、宮顕のこの云いざまこそ相応しい。この処世法は、宮顕の終生に亘る悪癖である。

 【東京市委員会キャップ荻野査問指令の様子疑惑】
 続いて、東京市委員会キャップの荻野の査問を指令している。この時荻野に浴びせたぞんざいな態度が伝えられている。
(私論.私見)
 「萩野査問指令」の史的意味は、宮顕が、小畑致死事件の反省なぞ微塵もなく、更に党内反宮顕派の追撃に向かおうとしていたことを示している点で重要である。

 【宮顕の手帳疑惑】
 宮顕は、荻野をスパイに仕立て上げる為に「手帳疑惑」をその根拠に持ち出している。「手帳所持」に対して、宮顕は次のように批判している。
 概要「党の最高指導機関の指導者が、いつ、どこで不審尋問に会うか判らない。この手帳を見たら、非合法活動をやっている共産党員だということがいっぺんにわかってしまう。当人は勿論逮捕されるが、同時に連絡場所にくるものも片っ端からやられる危険な行為であり、党員は手帳を持たないというのが鉄則である」。
(私論.私見)
 宮顕は、荻野の「手帳疑惑」を問い詰めながら、自身が手帳を持ち歩いていたことが判明している。宮顕なら所持しても良いということにはならないであろうが、荻野をスパイにさせる為にはつじつまが合わなくても構わないらしい。それともこの御仁の癖の一つであるが、「自身には例外が許され、相手には徹底して厳しくという作法の常用」なのであろうか。 

 【逮捕時の変調疑惑】
 宮顕は、査問されようとしていることをキャッチした荻野が警視庁に自首し、その情報に基づき逮捕された。袴田の話によると、袴田も宮顕も、かねがね荻野は怪しいと気づき、疑い監視していたという。検挙される当日も、宮顕に危ういという意見を言う者も居たが、「いや、今日が最後だ」と言って出かけたと伝えられている。
(私論.私見)
 宮顕は、「疑いの強い」荻野にわざわざ会いに行っている必然性が見えてこない。「いや、今日が最後だ」というもの言いが意味深だ。

 【取調べの際の不自然弁明疑惑】
 宮顕は、逮捕されたときの様子を、後日の公判の冒頭陳述で次のように述べている。
 「大体私が麹町警察署に検挙された時に、私を調べんとした山懸警部は鈴木警部等とテーブルを囲んで曰く『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た。然し自分はテロに依る訊問の為警察に於ては陳述を拒否してきた」。
(私論.私見)
 逮捕時の様子を伝えた宮顕の回顧録の内容に重大な疑惑がある。宮顕の弁明によれば、「宮顕の逮捕時に特高が既に小畑 のリンチ死を知っていた」というということになる。しかし待てよ、宮顕が逮捕され麹町警察署に検挙された時には当局はまだ事件を確認し得ていない筈である。当局が確認したのは、翌昭和9年1月15日の大泉兼蔵が逃亡した直後のことである。おかしなことになる。しかしこれが真相の可能性がある。

 【拷問の様子の不自然弁明】
 宮顕は、麹町署に検挙され、彼が毛利特高課長、山県為三特高警部らから、失神しそうになるほど拷問をされ、獄中にあって麹町警察と留置場において拷問を受けたと本人が明記している。「なお、この時の取調べで『こいつには何を言っても無駄だ』と特高をあきらめさせたと宮顕は得意げに語っている。
(私論.私見)
 宮顕証言に対し、山県警部は、「宮本なる人物には一面識もなく、拷問したなどと言い張るのはまことにもって名誉毀損」と憤慨している。特高をして、「こいつには何を言っても無駄だ」と取調べを諦めさせたというのもウソ丸出しである。この当時の特高の取調べは史上最も凶悪であった時であり、多くの中央委員他幹部が虐殺させられている時である。ましてや、宮顕の云うように宮顕が当局スパイを摘発する戦闘的人士であればあるほどいわば特高との利害対立が先鋭化するのであって、拷問が倍化こそすれそれをあきらめさせる理由は更にないことになるであろう。

 【獄中下病状時期の不自然疑惑】
 宮顕は獄中で度々重病に陥ったとされている。
(私論.私見)
 妙なことに、宮顕の病気中の様子は少しも明らかにされておらず、病状発生時期も他の被告との統一公判が要請されていた時期と符合している。怪訝なことは、宮本百合子の面会がそれまで幾度となく為されているにも関わらず、この時期に限り面会謝絶されている。「宮顕危篤説は統一公判を避けるための仮病であった」としてしか考えられない。その後の宮顕の「健康回復振り」から勘案してみても充分そう考えられる。

 【予審終結決定の不自然】
 38.10.10日、予審終結決定しているが、何の陳述も得られないまま予審終結決定書が出され、公判に移ることとなったとされている。
(私論.私見)
 この間獄中の訊問調書につきこれを一切取らせなかったのか、「口を割らず、空白が多かった」のか、他の被告同様拷問が為された事実があるのか、恐らくないと思われるがヴェールに包まれている。

 【公判で、「正義の単独陳述」】
 宮顕の公判は、「40年4月から7月まで6回、宮本重病のため 一時中断した後、44年6月から11月まで15回行なわれた。11.30日最終陳述」(党史要約)という記述がなされている。44.11.25日結審、12.5日東京刑事地方裁判所第6部で判決。無期懲役刑が宣告された。直ちに上告したが、翌45.5.4日大審院で上告棄却、刑が確定した。
(私論.私見)
 おかしなことであるが、宮顕の公判日について諸説有り一定していない。公判についても、官吏と看守の他は弁護士と傍聴者として百合子のみという奇妙な法廷で、「正義の単独陳述」が滔々と為された出来レースぶりであった。

 【獄中闘争とはいうものの豪奢な獄中生活の様子疑惑】
 「宮顕の獄中生活は、他の同志のそれと比較してみた場合『奇異なまでに豪奢な生活』であった」。宮顕の場合、百合子の度々の面会と往復書簡も為しえている。
(私論.私見)
 百合子の差し入れる弁当により、同じ獄中にある共産主義者もうらやむ上等な食事をとることができたとも、他の獄中闘士の薄着とは違うラクダ毛のシャツや厚いどてらを着ていたと伝えられている。

 【拷問されていない様子が判明】
 「宮本は、11年間過ごした巣鴨について、そこでは収容者を殴ることを日課のようにしていた看守たちから、彼自身は殴られたことはなかった」と伝えられている。屋外運動の時には党員同志顔をあわすこともあったものと思われるが、この辺りの回想も伝えられていない。
(私論.私見)
 宮顕の獄中時代の様子が開示されておらず、奇妙なことである。

 【百合子調書を読んでいる不自然さ】
 この間宮本百合子も検挙・拘留を繰り返しているが、偶然かも知れぬが担当主事は特高課長毛利基であったようである。
(私論.私見)
 平林たい子「宮本百合子236 P」によれば、宮顕は獄中で、百合子の予審調書を手に入れて読んでいる節があるとのことである。後になって、百合子がよく闘ったところや、守るべきとき守れなかったところを指摘している、ということである。宮顕は、どうして百合子の予審調書にまで目を通しえたのだろう。

 【杉本.岡田二人のシベリア越境への無責任教唆】
 「杉本良吉・岡田嘉子の越境事件」は「恋の逃避行」として知られているが、この事件と宮顕が深いつながりがあることが判明している。岡田嘉子の証言によると、杉本良吉は、1937年12月の越境直前に獄中の宮顕に面会に行った、と述べたという(『心に残る人びと』)。それは、本当だろうか、あるいは、なんらかのかたちで事前に杉本良吉からの伝言が宮顕にあったのだろうか?。

 
岡田嘉子の回想によると、宮顕は、戦後にモスクワで岡田嘉子と会ったさい、「あの時、ぼくがマンダート―指令書に代る紙片でも渡せたら」と述べたという(『心に残る人びと』)。
(私論.私見)
 宮顕の、「宮本のマンダート=信認状があれば1938年の杉本良吉・岡田嘉子は助かった」という言い回しも胡散臭い。これが獄中下の者の発想し得ることであろうか。これらが事実とすれば、宮顕は獄中にあって党活動していたということになり、ことは極めて奇怪なことになる。この事実は、宮顕の獄中活動の実態が再精査されねばならないことを発信している。

 【いわゆる網走時代疑惑】
 網走刑務所に送られたのは45.6.16日であり、6.17日入獄している。敗戦によりGHQの政治犯釈放指令がなされるまでの4ヶ月間をここで服した。この間宮顕は獄中11年10ヶ月を完全黙秘、非転向を貫いたとされ、「非転向党員のうち、最も頑強だったのは宮本顕治」であるという「非転向タフガイ神話」が作りだされている。
(私論.私見)
 いわゆる宮顕の「網走ご苦労説」については、6月から10月までの割合と過ごしやすい4ヶ月の間であることを正確に理解する必要がある。流布されている「網走獄中12年」というものでは決して無い。宮顕の「唯一非転向タフガイ神話」もオオウソの可能盛大で、再精査されねばならないであろう。

 【敗戦後の一日早い出獄日の疑惑】
 1945年.10.9日午後4時、網走刑務所を出所した。
(私論.私見)
 この一日早い9日出所も謎である。政治犯の一斉釈放は10.10日であり、宮顕の場合は袴田同様に治安維持法は撤廃されたけども、一般刑事犯罪との併合で起訴されているので、その取り扱いが微妙であったにも関わらず他の被告より一足早い出所をしているということになる。

 【敗戦後の出獄事由申し立て疑惑】
 宮顕や袴田らは併合罪であり、GHQ指令による政治犯釈放には該当しなかった。宮顕らの取り扱いに関して『併合罪があるので出せない』という通達が司法省から出されていた。これを生命危篤を理由として出所している。 
(私論.私見)
 宮顕が緊急事由で釈放された不自然さは今も解明されていない。

 【出獄後の足取りの変調さ、GHQの調査を受けていない変調さ】
 百合子は「9ヒデタソチラヘカエルケンジ」という電報を受け取った。釈放後東京の宮本百合子宅に戻ったのは10.19日。
(私論.私見)
 この十日間の宮顕の消息も闇に包まれている。同時期にあちこちの刑務所から解放された徳球、志賀ら指導者の面々は例外なく幾度にもわたってGHQの調査を受けているが、宮顕にはその痕跡さえ明かされていない。これも不思議なことである。

 2、戦後前半・戦後直後から「六全協」まで(「経歴(2)」)

 【戦後党指導部の主導権争いに見せた態度】
 1945(昭和20).12.1日から開かれた「第4回党大会」は、戦後最初の記念すべき党大会となった。この大会での新執行部の選出の際に当然のごとく徳球と志賀義雄がその地位に就こうとしていたが、これに宮顕−袴田ラインは異を唱えている節が有る。
(私論.私見)
 宮顕の変調活動は戦前も戦後も終始一貫しており、尋常では無い。何とかして党中央を簒奪せんとしていることが見えてくる。

 【査問事件当事者の逸見旧中央委員を排斥する】
 宮顕は「戦前の査問仲間逸見の排斥を策動」している。査問仲間の逸見は、宮顕の強硬な異議によって釈放後の党運動から排除された。
(私論.私見)
 宮顕の述べるような急性ポックリ死因によって小畑が死亡したのであれば、貴重な事件関係者に対するこのような対応が果たして自然であろうか。よしんば逸見が宮顕の関与をあからさまに語り宮顕を不利な立場に立たせたにせよ、身に覚えのないことであれば堂々と対応すれば良いではないか。少なくとも、後に党最高指導者となる人物の器量ではなかろう。

 【徳球執行部に対するあからさまな内部撹乱活動にいそしみ続ける】
 宮顕は、徳球執行部時代に於いては主流から外され、文芸部門と学生運動部門を管掌することになった。その後の党の歩みにおいて「徳球グループと宮顕グループは陰から次第に陽へとあからさまに対立を見せていく」ことになる。
(私論.私見)
 緊迫する社会情勢と党の歴史的任務達成課題そっちのけで最終的に非妥協的な抗争へと発展していくことになる。結果的に徳球グループが解体され、宮顕グループが党内を制圧していくことになった。これが現執行部の系譜である点も踏まえておく必要がある。

 【当時の民主戦線結成の動きに対するポンプ運動】
 1946(昭和21)年、野坂の歓迎集会が社共両党及び労働組合を含めた「左翼統一戦線」式で行われ、その機運を高めていた時期、宮顕は、社会党が呑めない「天皇制撤廃基準の堅持」を強硬に主張することで左派ぶった。
(私論.私見)
 戦後最初の左翼統一戦線の動きに冷や水を浴びせ続けた行状が認められる。急進主義的青年は、宮顕の左派ぶりに幻惑され、「唯一非転向タフガイ神話」と相まって宮顕に篭絡されていった。

 【「第5回党大会」での伊藤律登用に対する異議の申し立て】
 2.24日より第5回党大会が開催されたが、新執行部に新たに伊藤律.水谷孝らの若手が登用された。これは、徳球書記長による戦後型の新有能幹部の登用方針によってもたらされたものであったが、宮顕.袴田.神山らは幹部採用に厳重な審査を要求しこれに抵抗した。徳球.志賀らは新進気鋭幹部の登用は執行部権限であるとして取り合わなかったと伝えられている。
(私論.私見)
 伊藤律の登用以降、伊藤律ないしそのグループと宮顕派が非和解的に覇を争っていくことになる。

 【「ナベツネ問題」に関する態度の曖昧さ、黒幕性】
 1948(昭和23)年、渡辺恒雄(ナベツネ、後の読売新聞社長)は、46.10月入党し、2.1ゼネスト後の民主化同盟の動きと歩調を合わせるかのように右派系運動を手がけようとしていた。青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける共産党中央の方針に反対し、47.9月以降、東大新人会の「再建」を始めた。
(私論.私見)
 この頃よりナベツネと宮顕が裏でつながっている節が有る。この当時宮顕は文化運動と学生運動を担当する中央委員であり、渡辺ら「新人会再建」運動を知らなかったとは考えにくい。その後のこととして、宮顕が「六全協」以降党中央に君臨するようになるや、出版、記事、スクープ等で陰に陽にナベツネとの親密さが表に出てきていることを考えると、この時の黒幕として宮顕がいたことの方が濃い線となる。

【 「コミンフォルム論評」に飛びつき、徳球党中央攻撃に奮戦する】
 1950(昭和25).1.11日、「コミンフォルム論評」が出るや否や宮顕.志賀がいち早くこれを支持した。党内は大きく混乱を見せ、以降分裂していくことになる。1.18日、急遽「第十八回拡大中央委員会」が開かれたが、会議は激しく紛糾し、戦後党史上最大級の党内対立となった。以降宮顕は「六全協」で宮廷革命に成功する日まで国際派の頭目として頑強に徳球系と公然抗争していくことになる。
(私論.私見)
 宮顕は後に自主独立路線を主張していくことになるが、この時自主独立的であったのは徳球系の党中央であり、宮顕は典型的な事大主義を見せている。

 【党内分裂時における国際派頭目として暗躍】
 「50年分裂」と云われるこの頃、反党中央を標榜する分派組織が公然と名乗りを挙げた。その中でも宮顕が指揮する「全国統一委員会」が最大反党グループとなり、「中央委員会の解体および一切の解党主義反対」などを掲げ、「朝鮮動乱.講和問題等重要案件が政治日程化している最中に最も頑強に分裂を策動し続けている」。
(私論.私見)
 この経過に対して、臨中派は、「統一委員会スパイと結び党破壊のために行った策動の全てが永久に闇に葬られることはさせない」としており、つまり「臨中派は宮顕グループをスパイ視していることが伺える」。

 【党統一後すぐに別の分派組織「全国統一会議」を旗上し執拗に党の分裂を策動する】
 10.30日、「全国統一委員会」は、「党の統一促進のためにわれわれは進んで原則に返る−全国統一委員会の解消に際して−」声明を発し、「統一委員会」を解消した。「こうして党の団結が回復され統一委員会は結成後2ヶ月に満たない歴史となったが、その直後から宮顕は新たな分派グループの立ち上げを画策していったという史実がある」。宮顕らの国際派は今度は「全国統一会議」を結成し、再び公然と党中央に反旗を翻すこととなった。
(私論.私見)
 宮顕派のこの執拗な反徳球運動を見よ。

 【「全国統一会議」の潤沢な資金についての疑惑】
 1951(昭和26).宮顕を頭目とする「全国統一会議」は、この年1.1日付けで「解放戦線」第1号、1.20日付けで「党活動」第1号を発刊している。それぞれ党中央側の「内外評論」、「党活動指針」に対応していた。宮顕の手になるものと思われる綱領的文書「新しい情勢と日本共産党の任務」が「解放戦線」第1号に掲載された。3.1日理論機関誌「理論戦線」が発刊された。ここに独自の指導機関.機関誌.綱領的方針をもつれっきとした分派組織が生まれた。
(私論.私見)
 この時の潤沢な資金の出所について詮索されていないが奇妙なことである。

 【宮本百合子死去における疑惑】
 1.21日、宮本百合子が死去した(享年51才)。
(私論.私見)
 この時百合子の死因に不自然さと不自然な病名変更が為されており、疑惑が残されている。当初の死亡診断書には急性紫斑病であるとされていたと伝えられている。この時かっての無二の親友湯浅女史が駆けつけてきたが、死に顔を見させなかったという非情さを見せている。

 【宮本百合子葬儀における疑惑】
 この頃党の公然活動は厳しく禁止されていたが、百合子葬はかなり盛大に為されている。
(私論.私見)
 かなり盛大な百合子葬は、徳球党中央系の文化運動団体の催しが全面禁止されている中で、異常に寛容であったことになる。つまり、徳球系党中央の集会が禁止されている中、宮顕系で取り仕切られた宮本百合子葬は公然と認可されていたということになるが、宮顕にはこういう当局側の優遇策が講じられるケースが多い。

 【「四全協」で党中央が宮顕グループをスパイ集団と論難】
 2.23日より「四全協」が開催され、大会は、党結党以来初めて軍事方針を打ち出した。この時の「分派主義者に関する決議」では、国際派らの反対派をスパイ.挑発者.売国奴.民族の敵として「スパイ分派の粉砕」を強調している。
(私論.私見)
 詳細は不明であるが、ここに明確に宮顕グループらの国際派をスパイグループ呼ばわりしていることが注目される。単に反対派に対する罵詈雑言であるのか、一定の根拠を持っていたのかが詮索を要するところと思われる。

 【「二つの共産党」による選挙戦】
 4.23日、第2回一斉地方選挙が行われた。党は、この選挙戦で分裂選挙を余儀なくされた。徳球系執行部は社会党の候補を一方的に社共の「統一候補」として推薦するという選挙方針をとり、東京都知事に加藤勘十を、大阪府知事に杉山元治郎を推した。これに対し、宮顕が指導する「統一会議」派は、独自候補として東京都知事に哲学者の出隆、大阪府知事に関西地方統一委員会議長の山田六左衛門を出馬させた。

 こうして戦前戦後通じて初めて「二つの共産党」が別々の選挙戦を戦うという珍事態が現出した。特に宮顕系の「統一会議」派は、党中央「臨中」派の地方選挙方針を激しく批判しつつ、独自候補運動の正当化を喧伝した。選挙戦を通じて、大衆の面前で党中央「臨中」派と「統一会議」派とが抗争を展開し、相互悪罵戦の泥仕合を演じている。党外大衆の困惑は不信と失望へと向かった。投票結果はそれぞれ惨敗となった。
 
(私論.私見)
 党を愛する者の所業ではなかろう。後に宮顕派が党中央を掌握した時の党規約では、かような分派活動が容認されるのだろうか。

 【主流派内の「自己批判」騒動に対する頑強な態度】
 3月から5月にかけて徳球党中央側の相次ぐ自己批判声明が発生した。これが党統一の絶好機会となり、反主流派各グループもこれに呼応し、何とかして不正常な党の分裂事態を解消しようとしたが、宮顕派は、党中央のこうした自己批判をまやかしであり、徳球派が呑めない条件に拘泥しあくまで「統一会議」派こそ正統であると主張し続け、「党の分裂固定化を更に煽った」
(私論.私見)
 宮顕派のこの執拗な反徳球運動を見よ。

 【宮顕と春日(庄)派の対立発生】
 それまで宮顕派と行動を共にしてきた「統一会議」派の春日(庄)派は、宮顕派の分裂志向に辟易し党の再統一を目指したが、宮顕派は自己批判の仕方が足りないとして執拗に分裂化を策動させた。ここに春日(庄)派と宮顕派の対立が発生し、両派は深刻な様相を見せていくことになった。

 この時の春日(庄)の宮顕非難が注目される。宮顕派の態度を「形式的正統主義」と激しく非難し、前年来の宮顕の「セクト的策謀」ぶりを暴露しつつ次のように述べている。
 「宮顕派が、人民大衆の現実の闘争も全国同志のさんたんたる統一への努力をかえりみようとせずに、ただ形式的に正規の中央回復と正統主義を口先でとなえる『サロン的グループに堕落している』と攻撃した。『統一委員会を解体すると称しながら、実は裏でケルンと称する全国的組織を持つ』腹背的態度こそ、人もおのれも欺くものだ」
(私論.私見)
 春日(庄)の宮顕非難はよほどまっとうなものである。

 【スターリン裁定で、批判される】
 8.12日、前後日本共産党の分裂問題について『スターリン裁定』が為され、「統一会議」派が分派と断定批判された。「統一会議」派は、この「論評」を契機として総崩れとなり組織を解体した。足掛け9ヶ月で党内二党並立時代に終止符が打たれた。こうして、宮顕を頭目とする分派活動は封じられた。
(私論.私見)
 この経過で最大の問題点は、この時期朝鮮戦争の勃発から講和会議の準備に至る戦後史の重大な転換期であり、こうした際に党が党内闘争に明け暮れたことにある。これが偶然なのか宮顕を頭目とするグループによる意識的策動なのかが詮索されねばならない。

 【「五全協」開催、但し現行党史で抹殺】
 10.16日より「五全協」が開かれ、51年綱領とこれに基づく武装闘争方針を採択。暴力革命を盛り込んだ「新綱領」を採択している。ところが、現在の党史では、「徳田らは(四全協につづいて)10月には五全協を開いた。この会議も四全協と同じく党の分裂状態のもとでの会議であり、統一した党の正規の会議ではなかった」と総括されている。

 これについて神山茂夫は次のように云っている。
 「この四全協.五全協について、宮本君などは、それがあったことさえも認めない。その理由は、六全協で従来の文書は破棄するという決定をしたから、四全協も五全協も認めないと云うのだ。これでは極端ないい方をすれば、文書によって、党の歴史上から過去の文書を消し去り、実際にあったことさえ消してしまうことになる。それは出来ない相談である」(神山茂夫「日本共産党とは何であるか」)。
(私論.私見)
 「五全協」の史実抹殺なぞ有り得て良いことだろうか。

 【「国際派東大細胞内の査問・リンチ事件」に見せた宮顕らしからぬ曖昧な態度】
 1952(昭和27)年、国際派東大細胞内に査問・リンチ事件が発生した。指導的メンバーであった戸塚・不破・高沢(都学連委員長)の3名がスパイ容疑で2ヶ月間にわたって監禁査問されるという事件であったが、宮顕が奇妙な救出に動いている。この事例は、これより先の1948年時の東大新人会運動の顛末で、宮顕が後の読売新聞社長渡辺恒雄を頭目とするナベツネグループを規律違反処分する際に見せた寛容さと類似している。
(私論.私見)
 果たして戸塚・不破・高沢がスパイであったのか無かったのか、全員怪しかったのか例えば戸塚例えば不破が怪しかったのか、このような査問形式が適切であったのかどうか、その後の不破の登用は如何なる因果関係なのか、重要なこれらのことについて何ら解明されていない。 

 【トラック部隊の暗躍と宮顕派の影】
 1953年前後、党の財政活動の一環として、「トラック部隊の各企業は独占企業に打撃を与え、その最大利潤を奪取する。これを革命の為の資金に転化する任務を要する。これによって各企業は資本主義機構の中の一企業たるところから転化して前社会主義的企業に転化する」なる「革命大義」のためと称して中小企業の乗っ取りや取り込み詐欺、計画倒産などで後は野となれ山となれ式の悪稼ぎによる莫大な資金調達事件を引き起こしている。亀山幸三は、「六全協以降もトラックは形態を変えて現在の党へと引き継がれている」と指摘している。詳細は「トラック部隊考」に記す。この問題の重大性は、「トラック部隊の暗躍」の解明が為されていないので詳細は分からないが、宮顕系と重なることにある。
(私論.私見)
 「トラック部隊の暗躍」を指揮していたのが宮顕系だったとしたらどうなるのか。お笑いでは済まされまい。

 【伊藤律幽閉とその黒幕宮顕】
 1953(昭和28).9.15日、伊藤律が除名された。伊藤律は裏切り者=特高のスパイと断定された上で除名処分されていた。今日では野坂の暗躍で進行したことが確認されている。この時徳球書記長は回復見込みの無い病状を呈しており、知る由もなかった。国内の同志に対して、徳球も参加の上での査問結果であるかのように偽装されていた。10.14日、徳球書記長が客死した(59才)。後ろ盾を失った伊藤律は、野坂と西沢の巧妙な画策に拠り、異国の監獄に放り込まれた(39歳)。
(私論.私見)
 伊藤律をスパイとして糾弾しぬいた宮顕が本物のスパイであったとしたらどうなるか。お笑いではあるがお笑いでは済まされない悲劇である。

 【新日本文学界編集長花田清輝の更迭事件の黒幕】
 1954(昭和29).7月中旬、第7回大会を10月に予定していた新日本文学界は、2年三ヶ月勤めていた花田清輝の編集長を更迭した。後釜に中島健蔵が据わった。この時賛否が真っ二つに分かれ、大騒動となった。この時の事を井上光晴は次のように伝えている。
 「そしてこの微妙な後味の悪さはねもっとはっきりした形で新日本文学第7回大会の最終日、新幹事選出にあたって為された宮本顕治の発言と重なっている。それは武井昭夫、井上光晴、関根弘その他が新幹事に加えて推薦された時、その推薦拒否を目的としてなされたものであった」。
(私論.私見)
 つまり、「新日本文学界の主導権をめぐって宮顕が陰に陽に介入した」ということである。その結果どうなったかというと、花田編集長の更迭と共に新日本文学はその溌剌清新な批判精神を失い、すっかり追随的、時代主義的になった。この経過は、徳球時代が終焉したこの時点より宮顕が公然と台頭してきたことを証左する事件として貴重である。

 【 「六全協」開催で宮顕復権する】
 1955(昭和30).7.27日より「六全協」が開催され、50年以来の党分裂に対し党の再統一が為し遂げられる歴史的大会となった。 この大会人事で野坂−宮顕体制が確立された。現在の党史では、「党の混乱と不統一を克服し、党の政治的.組織的統一と団結の基礎を築いた」とされているが、以降「野坂−宮顕体制は宮顕を機軸としながら党内純化を遂げていくことになる」。

 「日本共産党の65年」は、この過程を次のように記述している。
 「党が、50年以来の混乱を根本的に解決し、正しい政治路線を確立し、真に党的な団結を回復する為には、六全協で選ばれた党中央の一定の団結を足がかりに、新しい大会−第7回党大会を準備する、その後3年間にわたった全党的な努力が必要であった」。
(私論.私見)
 実際に行われたことは徳球系党員に対する無慈悲なまでの排斥であった。しかし、反徳球で共同戦線してきた各派は、これに沈黙した。

 【 宮顕式現状規定論で『対米従属』論を踏襲し、更に右傾理論化させる】
  「六全協」声明において認識された情勢分析は次のようなものであった。
 「単独講和条約の締結と占領体制の形式的な廃止は日本民族の独立を回復しなかった。我が国はあいかわらずアメリカ軍の占領下にある」。
 「日本は発達した資本主義国であるが、アメリカ一国に占領され独立を失っている従属国である」 。
 「( アメリカ帝国主義者は、)我が国を再軍備させ、日本人をかれらの傭い兵とし、わが民族を侵略的な原子戦争の犠牲にしようとしている」。
(私論.私見)
 かくて、講和後にも関わらず国家の「従属」規定が採用された。この認識がその後の党の闘争戦略の骨格を形成したという意味で、今日においても罪深いものとなっている。

 3、戦後中半・党中央簒奪から宮顕独裁完了まで(「経歴(3)」)

 【志田重男.椎野悦郎旧指導部責任追及される】
 1955(昭和30)年、六全協以降の動きは、党の再統一が為されたのではなくて、宮顕系による党中央簒奪劇の発端に過ぎないことが明らかとなる。志田のお詫び行脚が始まり、旧指導部を代表して頭を下げてまわされる役目を負わされた。そうこうしているうち、「六全協」で中央委員の一員として選出されていた志田重男と椎野悦郎らに集中した旧指導部のスキャンダルが暴露された。党分裂の地下生活時代の党生活の上で幹部としてあるまじき堕落行為を行っていたことが明るみにされた。財政上の疑い、女性関係におけるスキャンダルや待合い生活による頽廃が暴露された。
(私論.私見)
 この「スキャンダル暴露による政敵追放」も宮顕の常套手段である。

 【志田重男が突然失踪】
 1956(昭和31).1.日、中央常任幹部会員で書記局員でもある志田重男が突然失踪した。党中央は、「常任幹部会と書記局の一員たる任務から解任」した。公表は6.6日付けの常任幹部会の「志田重男君同志についての発表」なる文書で公にされた。
(私論.私見)
 志田も胡散臭い人物であるが、用済みにされたということになる。志田追放が党内反宮顕派清掃第1弾となる。

 【徳球書記長が客死、以降黒幕宮顕の公然台頭が進む】
 55年の「六全協」後、袴田が再査問で伊藤律を幽閉先に訪ねている。この時、袴田は次のように述べたことが、伊藤律によって明らかにされている。
 「命が惜しかったら、一行でいいからスパイでしたと書け。そしたら命を助けてやるだけでなく、元のポストに戻してやる。自分がそうでなければ、長谷川など他の幹部のことでもいい。君の才能を惜しむことにかけては、宮本も俺も徳田に劣らない。今だから云ってやるが、ソ.中両党に手を廻し、君にこうした処置をとらせたのは、この我々だ」。

 伊藤律は、「この取引を私は即座に拒否した」と証言している。
(私論.私見)
 この文言から、黒幕としての宮顕の存在を引き出すことはさほど難しいことではないであろう。

 【スターリン批判とこの時の宮顕の対応】
 2.14日より「ソ連共産党第20回大会」が開催され、「スターリン批判」が為された。この時宮顕党中央は、わが国では「六全協」で「解決済みであるとして安心立命的に居直り」さえした。そればかりか、「スターリン批判」究明の動きを「自由主義」・「清算主義」・「規律違反」等の名目で押さえていき、引き続き「徳球時代のそれよりはるかにひどい狂気の自己批判運動」を展開させていった。
(私論.私見)
 ここに統制主義者としての本質を曝け出している。

 【「白鳥事件」関係者の強制密航指示】
 1956.3月、1952.1月に札幌で現職警部が殺害された「白鳥事件」当時の日本共産党北海道委員会の軍事部門幹部だった川口孝夫(かわぐち・よしお)氏が、党中央の命令で中国へ密出国させられている。 中国に着いた川口氏を待ち受けていたのは党の査問であった。

 後に川口氏はこの時の経過を告発することになる。宮顕は、北京機関や「自由放送」などについては「党が分裂していた時期のことであり、徳球派のやったことで我々には関係がない」、と言って逃げていたが、川口氏は、川口氏を偽りの口上で中国に追放したのは、六全協で党が統一を回復したのち(56.3月)の出来事であり、「少なくとも私の追放については関係がないとは言わせない」と厳しく責任を追及している。次のように批判している。
 「この時期は、党が統一して既に一年が経ち、志田重男氏も中央からいなくなっており、明らかに党中央の実権は宮顕に握られていた。つまり当時、党内で私をペテンにかけ中国へ追放することのできた人間は、志田氏でも誰でもない宮顕以外にいないのである」。
 「宮本のように、彼の都合で歴史的事実をねじ曲げたり、まして切り捨てたり覆い隠したりすることは党と人民に対する許しがたい犯罪である。歴史は必ずそのような歪曲を正し、真実の姿を白日の下に明らかにするであろう」。
(私論.私見)
 宮顕の悪事は止まらない。

 【椎野罷免処分される】
 志田追放に続いて、かっての「臨中」議長で徳球派最高幹部の一人であった椎野が除名された。こうして志田重男と椎野悦郎が相次いで失脚させられた。志田の離党も確認された。11.20日付け「常任幹部会」の「椎野問題に対する経過」という文書で椎野の罷免が発表された。
(私論.私見)
 椎野追放が党内反宮顕派清掃第2弾となった。ここに、50年分裂後の徳球系主流派の最高指導部にあった三人の幹部伊藤.志田.椎野という全党に威力をふるった指導分子が揃いも揃って失脚させられたことになる。

 【「第2回東京都党会議」開催、紛糾する 】
 1957(昭和32)3.9日より「第2回東京都党会議」が開かれた。「六全協」以後の党中央=野坂−宮顕体制の党指導に対する批判と追求の場に転じた。この時党中央を代表して出席していた野坂.宮顕.春日(正)らは壇上で立ち往生させられた。この時の都委員会選挙で宮顕の強引な介入が為されたが、これを排して反宮顕に転じていた武井昭夫を始め批判派が執行部を制し、決議案も党指導部への批判や官僚主義への反対を強く打ち出した。ところが、この時宮顕は、「中央の認めない決議は無効だ」として以降強力に人事介入していくことになる。
(私論.私見)
 「中央の認めない決議は無効だ」なる論法に注目せよ。

 【「宮顕起草党章草案」反対派駆逐 】
 10月、東京都委員会は、発表された「党章草案」に対し噛みついた。これをきっかけに全党に「党章草案」をめぐる論争が展開された。反対派の牙城になりつつあった東京都委員会に弾圧が見舞われた。
(私論.私見)
 宮顕が党中央を簒奪して以来、党中央専制政治が始まった。しかし、徳球時代にあれほど家父長制政治を批判したのに比べ、宮顕専制に対しては意外にも沈黙させられている。

 【「50年問題について」発表され、採択される】
 11.5日、「50年問題」についての総括文書「50年問題について」が発表された。「党の分裂問題」に対して、その責任を「徳田前書記長の家父長的指導とその派閥的指導体制にあった」と宣告し、「徳球のこの問題における誤りは大きく、決定的である」と断定した。他方で、従来分派として扱われてきた旧反対派(国際派.国際派以外の中委少数派.その他)の方こそ正統であったという逆転裁定が為され、分派の汚名を旧主流派に返上し「名誉回復」が行われた。特に宮顕派が一貫して原則的且つ正統の立場であったという改竄が為された。こうして「勝てば官軍論理の見本で『50年問題』が総括された」。なお、「四全協」−「五全協」−「六全協」までの徳球系主流派による党の歴史を規約違反の「適法ならざる歴史」として実質的に抹殺し、これらの大会も正式なものでないとして否定し、党史から抹殺した。

 こうして、「50年問題について」は、「50年問題」の解決を徳球系主流派の責任の確定という時点にとどめ、単なる正統派争い.本家争いで処理することになった。それを越えた党全体の主体的な在り方の問題、「スターリン批判」が各国の運動組織に突きつけた根本問題には一切のほおかむりですませようとする態度が取られた。これらにつき大衆的討議が必要であったが「スターリン批判」も「ハンガリー問題」もついに党内で論議を起こさず過ぎた。
(私論.私見)
 党史の改竄歪曲がこの時より始まる。





(私論.私見)