第9部 その後の党運動

 (最新見直し2011.01.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 (その後の党史は全く不届き千万にも未だ明らかにされていない。れんだいこが分かる範囲で記せば次のような歩みを見せている)

 多数派が壊滅させられた後、わずかに残存した多数派党員隅山四郎、種村本近、岡谷要蔵らは関西に移り、沢田平八郎、吉見光風らと連絡をつけることに成功した。爾来大阪を拠点に活動を開始することとなった。このことで注意を要することがある。どういうことかというと、この時以来、関西での党運動が東京の中央のそれに一定自立した作風が植え付けられ、はるか今日まで続いているように見えることである。これはれんだいこが漠然とそう思うという程度のことではあるが。但し、12月以来運動方針に意見の対立を生じしめ紛糾したため、関西組織が伸びることはなかった。この間、コミンテルンより野坂の批判的指導が為され、10月上旬に多数派の解体決定、10.20日に解体声明書が発表されると言う逆境に陥った。

 この動きに付いて「特高月報」(1941.4月号)が概要次のように述べている。
 「昭和8(1933)年末より昭和9(1934)年初頭にかけての日本共産党内リンチ事件及びこれに内因して発生せる党内分派『日本共産党中央奪還全国代表者会議準備会(略称、多数派)と中央委員会派(袴田里見一派)との闘争は、その渦中に投じ得ざる共産主義者群、例えば刑務所または警察署より釈放せられ、まだ組織との連絡回復せざりし者等をして、困惑懐疑の結果、真に信頼し得る身近の同士のみをもって小グループを形成し、『党との連絡なき共産主義者』として相応の活動を為すを余儀なくなからしめたり」。

 驚くべきことであろう、特高のほうが事態を極めて冷静的確に捉えており、当の党及び党員等のほうが皆目党運動の全体を掌握し得ていないということであろう。これが我が国の左派運動の今日まで続く宿あではなかろうか。


 これより前はその後の袴田党中央の動きと公判の様子


1935(昭和10)年の動き

 その後全国各地で小グループによる党再建運動が展開され、その都度弾圧が見舞われた。

 1934.10月、多数派の中で検挙を逃れた隅山四郎、種村本近、国谷要蔵らは大阪で生き残っていた澤田平八郎、吉見光らと協力して、関西地方の同志を糾合して日本共産党関西地方委員会を構成し、再建活動に入った。


 1935(昭和10).3.18日、岩本巌、沢田平八郎らが検挙された。1936(昭和11).1.12日の一斉検挙へと続き、こうして大阪の党組織も壊滅させられた。残されたのは、大阪労働学校校友会を主体とする芦田種三郎、桑原録郎、福本美代治らのグループと日本労農救援会大阪支部の消費組合グループであった。前者は、党関西地方再建準備会を組織したが次第に活動が鈍くなった。後者は、1937年(昭和12年)3、4月頃より活動を強め、5月上旬には党関西地方委員会署名の下に「統一戦線樹立の為に」と題するパンフレットを、下旬には「日本における民衆戦線の為に」と題するパンフレットを発行してこれを全国的に配布している。


 党関西地方再建準備会と党関西地方委員会は互いに相手をスパイと見て連絡をせず、独自の活動を進めていくことになった。そのうち、党関西地方再建準備会は振るわず、党関西地方委員会に吸収されることになった。6月「現在の如くファシズム勢力の進出著しき時は速やかに党を再建し、人民戦線運動を行わなければならぬ、東京において中央部を構成せざる以上大阪においてこれを構成すべし」となし党関西地方委員会を主体として党再建準備委員会を結成した。7月上旬「労働者階級の反ファッショ統一戦線の為に」を発行し、8月上旬に「夏期の好飲料」題字で全国一斉に配布している。10月下旬には「労働組合統一の為に」を「処世訓話生きる力」題字で、11月には「反ファッショ闘争と人民戦線」を「黎明に戦う」題字で配布している。


 増山太助ら京大生による、戦争反対・反ファシズム統一戦線運動を通じて党を再建しようという運動があり、京都河原町のあさひ会館に、末川博を招いて決起したが、あえなく検挙されている(京大ケルン事件)。


 この間、和田四三四、宮本喜久雄、奥村秀松、藤井英男らは交互に東京、名古屋、京都、神戸、岡山に潜行し、これら各地における党運動を組織している。然し、8.15日、藤井、11.30日、奥村、宮本、12.2日、和田が検挙され、12.5日、一斉検挙で関係者全員が検挙され、党再建活動が壊滅させられている。


 他方、多数派以外の動きはどうであったか。35年(昭和10年)3月袴田が逮捕され党中央は消滅したことは既述した通りである。その後党運動は中央機関を持たぬまま各地で非合法グループを生み出していくことになった。この傾向は昭和10年の5、6月に始まり、翌昭和11年に及び活発になった。昭和11年3.4月以降に愛媛の石運幸らのプロカル運動、熊本の人吉機関庫、同転向者団体更生会支部、同消費組合、新協劇団熊本後援会、大分の中村誠一、前田鉄太、後藤千秋らそれぞれのグループ、6月名古屋の石川友右衛門らを中心とする名古屋合同労働組合グループが結成され、8月同組合桑名支部の結成、岐阜の朝鮮人団体清和会、富山の朝鮮人団体親愛会がその流れに属する。8月に神戸全評書記局グループが組織されている。同じ頃高知で竹村悌三郎らが中心のグループ、10月広島に清水秀夫らを中心とするグループが組織されている。


 プロレタリア文化運動の中心であった日本プロレタリア文化連盟は、昭和9年1月以降急速に崩壊ししていたが、これにより個々のグループが四散することになった。これらの活動家に拠り同人雑誌、各種団体が組織され、昭和11年2月以降毎月7、8団体が組織され、12月末現在で130団体、加盟人員7270名、サークル員1万強に達している。これらの団体中東京の労働雑誌社、日本政治経済研究所、新仏教青年同盟、愛知、京都、大阪、神戸、鳥取等のプロエス運動が比較的組織だっていた。いずれも内容において頒布禁止にならないよう意を用いつつ党的運動を宣伝していたようである。


 4月、伊藤律が、懲役2年、執行猶予3年の判決を受けて出獄している。


 5月、佐藤秀一、神山兄弟、寺田貢らが全協再建準備中逮捕。神山は偽装転向し、12.2月執行猶予付きで保釈。


 この頃、岡部隆司、長谷川浩、伊藤律、小野義彦らによる党再建委員会が活動している。後の絡みから伊藤律について触れておくと、次のような概略となる。要約概要「伊藤律は岐阜県土岐村に生まれ、幼少の頃から神童の名が高く、1930年に中学4年修了で一高の文科甲類に入学した。直ちに『共青』に加盟、『超秀才』ぶりと指導能力が秀でていたことにより『一高に咲いた左翼の華』と称せられた。当時の活動仲間にあっても群を抜いて別格扱い受けるほどの優秀さぷりが語られている。3年になって遂に放校処分に処された。その後の伊藤律が結集したのが岡部隆司、長谷川浩らによる党再建委員会であった」、 「一高に伊藤律あり、八高に都留重人あり」といわれるくらいずば抜けた秀才でありリーダーといわれていた、と同時期の清水慎三(六高)が私に語ったことがあった」(増山太助「戦後期左翼人士群像」)。 

 7月、モスクワで開かれたコミンテルン第7回大会で、ディミトロフの提唱した人民戦線戦術の新運動方針採用が決定され、路線上の戦術的大転換となった。それまでのコミンテルンの方針は、社会主義革命の障害物として、社会民主主義者との闘争を重視して「エセ左翼」、「社会ファシスト」批判をしてきていたが、この頃台頭しつつあったファシズムとの対抗上、あらゆる民主的・革新的勢力と手を結ぶことが先決となり、反ファッショ統一戦線への方向転換が図られることになった。同大会には山本懸蔵と野坂参三が出席している。概要は、「マルクス主義運動通史」に記す。


 秋、大阪地方労農無産団体協議会(略称「団協」)が、全評、大阪市電従、自従、大阪木材、全水、全農、大阪消費、労救、全泉労働などで結成され、府県会議員の地方選挙に取り組む。社大党支持を打ち出し、その候補者・松田喜一を応援した。8.8日、「団協」が無産政治戦線統一近畿地方懇談会を開き、これに松阪無産「団協」、名古屋合同など15団体、150名が参加。全国水平社の果たした役割が大きく、松阪から上田音市が参加している。

 10.20日、細々と活動していた多数派に対し、デリーウォーカー、国際通信などの海外通信が、「日本で多数派の運動を展開することは党勢力を分裂する分派行動である」と批判が為され、多数派残党は多数派を解散し、党本線に合流すると発表した。


 12月、飯島喜美が栃木刑務所で獄死。紡績女工となって「党大衆化」の先頭を切って実践していた彼女は、共青神奈川県地方組織再建活動中に逮捕検挙されていた。


 1935年より、共産党と労農派の本格的な論戦が開始された。これは、日本における労働者階級の戦略の土台を構築するものでるからはげしい論争であった。しかし、一九三七(昭和三)年一ニ月、いわゆる「人民戦線事件」で労農派がいっせいに検挙されることによって、このいわゆる「資本主義論争」は、いわば緒戦をまじえただけで、ファシズムに圧殺されてしまった。 
1936(昭和11)年の動き

 昭和11年1月下旬、春日庄次郎は8年の刑を終えて非転向のまま出所。昭和11年2.11日吉見光弘、国谷要蔵、小倉温自ら検挙される。


 2月、総選挙で、「団協」が支援した社大党が18議席、62万票を獲得し、無産派全体として23議席へと躍進した。大阪では、1区・田万清臣、3区・塚本重蔵、4区・河村保太郎、5区・杉山元治郎の4名が当選した。
 この時代以降は、この人民戦線戦術との関わりの元に運動が進められていくことになった。つまり、党再建グループの活動家は、戦略としての「32年テーゼ」、戦術としての「人民戦線戦術」の間を、模索しつつ潜行活動を続けていくことになったということである。
 3.24日、内務省がメーデーを全面的に禁止。日本労働組合会議などが抗議するが、4月、メーデー中止を決定。しかし、全評、東交はメーデー決行を打ち出す。
 5.28日、「思想犯保護観察法」が公布された。
 「団協」が、社大党への加盟運動、その「門戸開放」運動を展開し、組織加盟している。但し、西尾らは明白な左派の入党を認めなかった。

 7月頃、コミンテルン岡野.田中連名の「日本共産主義者への手紙」が送られてきている。野坂発行のアメリカ共産党日本人部の機関紙「国際通信第3巻第5号」がアメリカで印刷されアメリカ経由で送られてきた。「祖国よりの便り」として掲載されていた。他にも太平洋労働書記局機関紙「太平洋労働者」、海上労働者への宣伝紙「海上労働」などにより、日本内地の共産主義者、自由主義者、社会民主主義者や団体へ続々と送付されてきた。

 「手紙」は、指令的性格を帯びつつ日本に於ける人民戦線運動の展開の仕方を理論的且つ具体的に説明していた。当時の党の一般的見解を復唱したあと、現段階の重要戦術として、概要「我々は、革命の基本的スローガンの抽象的宣伝にあまんずるような宗派主義的誤謬に陥るきらいがあった」として、「反戦反ファシズムのための全人民の人民戦線の結成である。その為には、左翼、農村はもとより自由主義、進歩主義の団体より進んで官製組織、青年団、在郷軍人会にまで潜入し、幹部を孤立せしめ大衆を獲得しなければならぬ。その際、合法場面の利用、偽装に努めるとともにアジプロ活動は高度な観念的なるものを排し、時と場合に応じ大衆生活に即したものを取り上げ、常にこれを戦争反対、ファシズム反対に結合するを要する」と指示していた。ここも注意を要するところであるが、野坂の指示は、要するに左翼用語を使いながら「投降型の運動」を指針させたということである。

 7月、毛利特高課長兼第一係長は、警視庁特高部特高課第二課長に転じている(第一係長兼任)。この頃、既に共産党が壊滅状態にあり、第二課の右翼運動の取り締まりに重点を移した。毛利の辣腕が期待され、託された。
 9月、コミンテルンの指示でモスクワから小林陽之助が帰国。伝令を伝えるが、岡部隆司、風早八十二、長谷川浩、伊藤律、井汲卓一など結集するも、動けず。
 11月、毛利が、特高第二課長から転じ、初代の東京保護観察所保護司(専任)となった。毛利はこの時、「俺は短期間に、一生の仕事をやった。もう60歳でやる分ぐらいの仕事をした。もう俺の一生の仕事は終わった。随分共産党を刑務所に送ったから、これからは罪滅ぼしで保護司をやろう。この法律(保護司制度)は、俺の為につくられたようなものだな」(「スパイM」)と語っている。
 12月、思想検事の大物・平田勲が大審院検事から転じ、東京保護観察所長に就任している。

 昭和11年12.5日、15府県において一斉検挙が行われ、633名が検挙された。この検挙に拠り、和田四三四、奥村秀松、宮木喜久雄ら党中央再建準備委員会委員が逮捕され、党の再建運動は痛撃をこうむった。奥田宗太郎、久留島義忠、小岩井浄、川上貫一らも検挙されている。


1937(昭和12)年の動き

 2月、遠山景弘、中村欣吾ら党中央再建準備委員会の残留同志検挙される。


 4月、総選挙で、社大党が、36名の衆議院議員を当選させる。


 7月、徳島、三浦正、岡山、本田鴻輔ら検挙される。


 8月頃から、伊藤律が長谷川浩に協力して党再建活動に参加した。


 10月、京都の世界文化の人々及び小林陽之助(コミンテルン最後の派遣者)ら検挙される。


 秋頃、企画院属官の芝寛(10代)が活動。


 11月、毛利が内務省理事官に出世し、内務省警保局外事課勤務となっている。


 12月頃、出獄したばかりの春日(庄)が団長になって高江州重正や竹中恒三郎、松本惣一郎、安賀君子らを中心に、「共産主義者団」が結団された。「共産主義者団」は、党再建準備委員会を名乗り、反戦闘争に取り組んだ。「党建設者」、「嵐に抗して」、「人民の声」を秘密出版し、西日本の労働者学生に一定の影響を与えていった。

 概要「党再建の努力を怠り、合法主義に陥り、却って『人民戦線戦術』を口実として非合法組織のための努力を嘲笑する者が多い。真剣な共産主義者の任務は何であるか。何よりもまず党再建の中核的組織として集団を結成せねばならぬ。真のボルシェヴィキとは、革命の波が高頂に達した時に党に入った人ではない。革命の波が沈滞し、革命の進行がのろいときにも、真のボルシェヴィキ的党を建設することを心得ている人である」と「コミンテルン諸党のボルシェヴィキ化についてのテーゼ」を宣明し、竹中や寺村大治朗らが京大への働きかけを強めた。

 再建活動の中心となった春日のこの頃の回顧録があり、次のように記されている。
 「極度にまでスパイに対する恐怖心があり、同志相互が全く信頼せず相互に孤立しているという状態であった。更に、彼等を一様に支配している気持ちは、敗北的で党の再建などということは全く問題にならず、同志お互いが秘密のグループを持つというようなことは、全く足に錘をつけて水に飛び込むような冒険であり、単にその当事者が犠牲となるのみならず、それが運動一般に悪影響を及ぼすものとして、秘密組織、秘密文書は一切合財疫病神のように怖れられていた。またある者は、今日の時代は人民戦線の時代である、合法的活動の時代である、共産党ではなく大衆的無党派的いわゆる人民戦線党の時代である、コミンテルンの方針がこれである。共産党の再建というようなことは今日の状勢の下では不可能であるし間違っている−というのであった」(前衛20号春日「嵐をついて」)。

 12.15日、「人民戦線事件」が発生。概要「日本無産党ならびにこれを支持する日本労働組合評議会、雑誌『労農』グループの中心分子に対し全国的一斉検挙が断行された。3府15道県、検挙者372名に上る大検挙となり、従来いわゆる合法左翼として社大党に対立、反ファッショ、人民戦線結成をスローガンンに合法舞台に活発な運動を展開し、とくに日無党の理論的指導グループたる労農派は、日共と先鋭に対立してきたものだが、内務省当局ではこれらの運動を以って合法の仮面に隠れたる共産主義運動とみなし、非検挙者のうちには加藤勘十(日無)、黒田寿男(社大)両代議士をはじめ、社会運動の元老・山川均氏以下著名な論壇の花形をことごとく網羅している」(読売新聞12.23日付け)。


1938(昭和13)年の動き

 2月には「人民戦線事件」に連座して「東に佐々木更三、西に江田三郎」ら農民運動指導者が逮捕された。この時労農派教授グループ(大内兵衛、有沢広己、美濃部亮吉、脇村義太郎、宇野弘蔵ら)も含めて38名が逮捕された。


 春頃、春日庄次郎、竹中恒三郎らが「共産主義者団」を結党、京大学内の左翼組織に浸透を図った。

 春から佐藤.神山グループが「君主制に対する理論」を配布。8月春日の妻安賀君子獄死。9月、春日庄次郎検挙。


 3月、芝寛が京浜グループ組織、唯研の古在由重などの指導を仰ぎつつ活動。


 9.13日、春日(庄)ら共産主義者団約157名が一斉検挙される。特に京大グループが根こそぎ検挙された。共産主義者団の壊滅は、西日本に於ける戦時中の組織活動が終止符を打ったことを意味する。


 日中戦争が始まると、社大党が大きく右旋回し、総同盟もスト絶滅宣言を発し、産業報告会運動が始まる。


1939(昭和14)年の動き

 大阪で、春日庄次郎らによる「共産主義団」の結成が企てられたが、いずれも端緒において鎮圧された。

 1939(昭和14).8.1日、伊藤律が、全国購買組合勤務を経て、満鉄東京支社調査室の嘱託に採用されている。その2ヶ月前に尾崎秀実も高級嘱託として入社しており、同郷ということもあって交友を深めている。この頃満鉄調査部は、松岡洋右総裁の「置き土産」のような形で拡充され、国家の意思決定に重要な提言を為し得る能力を獲得しつつあった。こうした事情から左翼の転向組がこの前後にドッと採用され、伊藤律もその一人であったということになる。石堂清倫、西沢富夫、堀江邑一、海江田久孝らもその一人である。

 左翼の転向組が登用された事情について、石堂氏は次のように書き記している。

 「調査部を拡充するとはいっても、優秀な調査マンは、そうはいなかった。そこで目をつけられたのが転向者で、彼らは語学もできるし、マルクス経済学を勉強した人が多かったから、全体を見る眼があるし、調査・資料収集、分析をやらせても役に立つ。調査部と強い関係にあった関東軍なども、赤でも黒でも役に立つやつは、どんどん使え、邪魔になれば追い出せばいいのだから、と公言していた。実際、いろんなところに軍が入ってきて、指示・命令をしていたが、そういう大きなアミの中では、実に自由に泳ぐことができた。調査部は、一種の独立王国みたいな感じがあって、当時、内地では手に入れることの出来なかったマルク主義関係の本も、自由に読めたし、外国の資料も使えた。満鉄の雑誌にも、平気でいろんなことが書けた。人事面でも、思想犯として引っ張られたことのある『前歴者』が採用され、ある意味で、ルーズな面があった」。

 伊藤律は、満鉄でも農村・農業調査を研究テーマに選び、関西、四国、中国地方の農村事情を調査している。ところが、入社3ヶ月にしかならない11.11日二度目の検挙となった。この時はほぼ1年間獄中の身となっている。担当警部補は伊藤猛虎、特高一課第二係長宮下弘。この時「手記」を書かされている。

 宮下は、伊藤の様子を次のように伝えている。

 「警察では調べがある程度進むと、本人に『手記』を書かせる。この『手記』と、取調官が訊問してつくる『聴取書(ききとりがき)』、それに『意見書』をつけて検事局に送るのが、その頃の手続きで、ほとんど例外なく、治安維持法違反の被疑者は『手記』を書いた。彼は例によって要領がよく、こちらが知っていることはしゃべっても、階級的立場は譲らなかった」。
(私論.私見)
 ところで、この宮下の伝によれば、宮顕は必須の「手記」さえ書くことなくとうとうと「暗黒法廷」で正義の陳述を為しえたと言う不思議なことになる。

 11月、伊藤律が、共産党再建グループとして検挙される(40年8月一時釈放、41年9月再検挙)。


1940(昭和15)年の動き

 春頃、野坂参三が突如延安に現われ、反軍活動に取り組み始めた。追って中共軍と連絡が取れ、日本人捕虜の政治教育の任に当たった。野坂は林鉄または岡野進と名乗り、洞窟内に「日本農民労働学校」を開き、反戦同盟の工作機関とした。


 5.4.16日、山代吉宗、春日正一、元全農全会派の加藤四海、クートベ出で4.16連座の酒井定吉、山代巴、板谷敬らが検挙される。加藤は、取調べに一言も答えず、目黒署の二階から飛び降り自殺。


 6.25−7.3日、池田勇作、長谷川浩、岡部隆司、新井静子、青柳喜久代、松本キミら党再建グループ一斉検挙。


 この頃、伊藤律が、党再建運動について自供、のち北林トモのことにも触れ、この北林トモの調査がゾルゲ事件の糸口となったとされている。宮下の取り調べに北村トモの名を挙げたことが、41年のゾルゲ事件検挙の端緒となったといわれる。

 これについては、当時の特高担当宮下弘氏が貴重発言している。

 「(後の「ウィロビー報告」を見て)何だ、オレが書いた報告と同じ内容じゃないか、と思いましたよ。内務省に報告していますからね。また「特高月報」にも伊藤の供述と書いてありますよ。これは伊藤に(我々の側の)スパイという疑いがあるというどころじゃなく、スパイじゃないからあからさまに名前が出たんですよ。律が我々のスパイだったら。律の名前なんか内務省への報告などに書いたりしませんよ」(「伊藤律陰の昭和史」)。

 同書の中で、宮下弘氏次のようにも云っている。伊藤律を取り調べた経歴を持つ宮下氏は、宮顕共産党中央による「この頃既に伊藤律スパイ説」に異を唱え、伊藤律をよく知る者として史実の偽造にがまんならず真実の伊藤律像を伝えている。何の利益もないことであるからして、大いに価値がある。

 「(1933年、伊藤律が一高中退で共産青年同盟の事務局長をしていた時捕まった最初の逮捕・取調べの際に)大崎警察署に留置されていましたが、如才無く立ち回り、取調べに対し、(警察に)分かってしまったことは仕方がないから、としゃべり、分かっていないことは絶対に言わない、といった具合に非常に明確なんです」。
 「(1940年、ゾルゲ事件の発端となったと言われている時の取調べの様子として)伊藤が再建準備委員会の中心にいることが分かった。みんなわかっちゃったですね。長谷川もしゃべつたんですよ。伊藤が新井の後に結婚した東京交通組合の婦人部長であった松本きみも、既に逮捕されていた。それなのに、伊藤は黙って頑張っているんですね。そこで、私は伊藤猛虎に、もう全部分かっているんだと云ってやれ、といって取り調べさせたのです」。
 「(宮下になら話すから呼んでくれと云われて出向いた宮下は)そこで私は会ったんです。そして云ったんです。こちらが分かっていることについては、(供述に)ウソは無いようだが、それだけで君を帰すような手品は出来ない。前だって、転向する、と言って約束し、まじめにやっていると葉書までくれたが、結局は(私が)だまされたんじゃないか。帰してやると、上司に報告できないよも、と跳ねつけたんですよ、そんなことが二、三回あり、また頼む、といって来たんです」。
 「そこで、一つだけ活路を与えてやろうと思った。我々が知らないことで、君の階級的意識に恥じないこと、君が階級的意識に恥じることは言えない人間であることは分かるが、積極的には階級的意識に恥じないで、警察が知らないであろうこと、しかも重要な話をすれば、考えてもいい、と言ったんですね。そうしたら『そんなものはない』と云うんで、『無ければ駄目だよ。君に扉を開けてやる鍵はやれない』と突っぱねたんです。そして数日後、話したのが北林トモのことです。『アメリカのスパイがいる、調べて御覧なさい』というんですね。−−−」。
 「(結果として、伊藤律がゾルゲ事件を引き出すことになってしまったことについて)端緒になってしまったことは確かです。伊藤律にしても、心外なことではなかったか。満鉄に就職したのも、岐阜の同郷で一高の先輩でもある尾崎秀実に世話になった。−−−尾崎が捕まるような、そんな馬鹿なことを言いますか。イモヅル式というか、神風が吹いたようなもので、ゾルゲ事件の発覚は全く不思議なくらいでしたね」。

 「確かに人間的な面ではもろいところもあったが、階級的な闘士としては弱くない。強靭で、粘着力が強く、ポキポキ折れるのではなく、押されれば引っ込むが、別の場所で起き上がるんですね。例えば、僕に好意を持っているような様子を見せるが、僕は好意を持っているようには思わなかった。転向していないから、仕方がないが僕を利用してやるという気持ちが、そこにあると思った」。


 8.末、伊藤律、病気のため警察拘留の一時停止で釈放(書類送検へ)。概要「このまま放り込まれていては体が持たない。逃げはしない。転向するから釈放してくれと頼み、警察医が診察した結果、『監獄の病院に送るか、釈放するしかない。このまま獄中においたのできは生命の危険がある』と診断の結果、警察拘留の一時停止で釈放された」とある。この時の調書と思われるが次のように記載されている。

 概要「伊藤律(当時29歳満鉄東京支社調査部)は、俊敏にして共産主義に対する信念堅固なるものあり。検挙後数ヶ月にして、警視庁の峻烈なる一面、温情ある取調べに対し、遂に翻然転向を決意し、漸次の犯行を自供するに至れり」(内務省警保局編「社会運動の状況」昭和16年)。

 10月頃、満鉄東京支社調査室ら復職。この時「日本における農家経済の最近の動向」を書き上げ、「満鉄調査月報」や「時事資料月報」に発表されている。この論文はかなり好評で、後にゾルゲ事件で逮捕される尾崎秀実に高く評価された。これが機縁となり、「何度か彼の私宅に呼ばれ、いろいろ話し合った」とある。


1941(昭和16)年の動き

 2.1日、神山派(委員長格・神山、書記長格・佐藤秀一)による共産党再建運動のメンバーが一斉摘発され、2〜5月にかけて、学生運動出身者も含む約70余名が逮捕された。2月下旬、佐藤秀一が検挙され獄死する。5.1日、神山がハウスキーパー小山内芳子と共に検挙された。神山は、「赤旗で歓迎される日の近きを堅く信ずる」と豪語して下獄したと伝えられている。


 3.7日、国防保安法公布。


 3.10日、治安維持法が全面的に改定され公布された。旧法の7か条から65か条に法改悪された。この結果、自由主義者や宗教団体まで弾圧適用され、予防拘禁制度が新設追加された。1928年の法改悪以前の検挙者の満期出獄が近づいていたが、これを予防拘禁という名目で更に獄につなげることになった。概要「徳田、志賀らを出獄させるのは、虎を野に放つごときものだ」という論法で通過した。5月、予防拘禁所制度が出来上がる。


 6月、伊藤律が三度目の検挙で投獄されている。


 6.22日、独ソ開戦。


 9.28日、北林トモ検挙、宮城与徳の件自供。


 9.29日、伊藤律、起訴のため久松署に再収容。10.1日、満鉄退社。


 10.10日、宮城与徳検挙、自殺未遂の後ゾルゲ機関のことを自供。


 10.15日、尾崎秀実検挙。


 10.18日、ゾルゲ、クラウゼン、ブーケリッチら一斉検挙(「対日赤色スパイ団摘発事件」通称「ゾルゲ事件」)。小概要は「ゾルゲ事件」に記す。ゾルゲは、同盟国ドイツの駐日大使オットー(陸軍武官)の私設秘書で、尾崎秀実は、時の近衛文麿首相のブレーンであった。「ゾルゲの悲劇性というのは、失敗したスパイというよりも、成功したスパイであるにも関わらず、その成果が祖国ソ連でほとんど生かされなかった、という悲劇性だと思うんですよ」(ソビエト史専門東大助教授・菊池昌典)。

 志賀の「日本共産党史覚え書」に拠れば、「ゾルゲは傑出した理論的・政治的能力を持ち、また接触した人々を信服させる人物であった。彼がゾンターという名で発表した『ドイツ帝国主義論』は、その当時の第一等の水準のものであった」と述べている。「ゾルゲは、マルクス・エンゲルスの友人であったリヒャルト・ゾルゲの甥の子であったようである。


 12.8日、日米開戦。


 12.9日、金子健太、宮本百合子、守屋典郎ら396人一斉検挙。


 12月、被検挙者、1000人以上.(94年党史年表)


1942(昭和17)年の動き

 6月、中西功.西里龍夫らの満鉄コミュニストグループ検挙。


 6.4日、伊藤律の予審終結、公判へ。6.28日保釈出所。「著述と翻訳で暮らしを立てる」ことになった。


 9月、満鉄の高級嘱託細川嘉六が、共産主義を宣伝する論文を書いたとして逮捕された。掘江邑一、具島兼三郎、野々村一雄らも検挙された。


 11月、伊藤律が証人として東京地方裁判所に呼び出されている。


 12.28日、伊藤律が東京地裁の第一審判決で懲役4年の実刑判決。上告。(長谷川浩は懲役6年、岡部隆司は死去)。


1943(昭和18)年の動き

 この頃多数派の宮内勇が刑期を終えて出所。「新経済」の社長、編集長が土直谷雄高。


 3.17日、国領伍一郎氏が堺の刑務所で獄中死。梅原正紀氏の「ほんみち」191Pは次のように記している。

 中山秀雄は、戦前共産党の闘士で、京都の労働運動を指導し、党の中央委員にまでなった国領伍一郎と、後に堺の大阪刑務所で、ともに服役することになった。国領は網走刑務所から奈良刑務所を経て大阪刑務所に移されたのだが、もうその頃には健康を破壊され、重い胃潰瘍と肝臓炎を患っていた。だが、気持ちだけは張り詰めており、看守が年老いた囚人をいじめたりすると、怒鳴りつけて注意したという。病弱の身でありながら、弱い立場、恵まれない者の立場に常に身を置いていこうとする国領の壮烈な生き様に、思想信条は違うが、中山は感動を覚えたと云う。また国領も、ほんみち信徒の信念の強さを尊敬していたという。

 昭和18.3月、国領は誰一人看病する者の居ない病舎で獄死した。ベッドから、はいおりて便器にまでたどりつこうとしたのだが、その途中で力尽きて倒れたのである。現在の日本共産党員の人間像からは想像もできないラディカルな生き様であった

 5月、満鉄調査部の平館利雄が突如神奈川県特高に検挙された。いわゆる横浜事件として知られる思想・言論弾圧事件の一環であった。


 5.15日、コミンテルン解散。第二次世界大戦の最中、ソ連の対外政策の妨げになるという理由で解散した。概要は、「マルクス主義運動通史」に記す。コミンテルンには日本共産党代表として片山潜、野坂参三、山本懸蔵らが活躍していたが、片山潜は1933年病没しており、「山懸」の愛称で敬愛されていた山本は消息を断っていた。粛清されたとの風説が生まれていたが永らく「真偽不明」となっていた。ソ連邦の解体後の機密資料の漏洩で、野坂の密告により犠牲となったことが判明する。内妻関まつの晩年の悲惨な様子も明らかとなった。

 野坂は、解散直後、中国共産党の立て籠もる北支延安に向かい、日本軍兵士の投降宣伝戦に着手している。延安で、「解放日報」の記者と会見し、コミンテルン解散の意義を次のような語っている。
 「コミンテルンの解体は最も時宜に適したものである。日本共産党は創立以来コミンテルンの援助により成長し、国内で確固たる基礎を築いたが、政治警察の強化と地理的条件などの制限のため、コミンテルンとの連絡円滑ならず独力で活動した。このことは日本共産党がコミンテルンの援助無くとも活動が可能であり、コミンテルンの解散は日本の革命運動に些かの影響をも及ぼすものではない。却って日本共産党は今回の措置により活気づけられ、マルクス=レーニン主義の民族化運動、反戦反ファッショ人民戦線運動が積極的に推進されるであろう。又現下の世界情勢並びに地理的関係より推して、日華両国共産党は今後互助精神に則り合作を強化し、東方民族の人民戦線運動を更に積極的に展開せねばならない。日本共産党の当面の任務は軍部打倒と戦争の即時終結とである云々」。

 6月、満鉄の伊藤武雄、石堂清倫らが検挙。


 6.29日、伊藤律、大審院の上告棄却で原判決破棄、差し戻し(弁護士資格に問題)。東京高裁へ。


 11.11日、伊藤律に東京地裁で懲役3年の実刑判決。12.20日、東京拘置所に服役。翌春、豊多摩刑務所に移る。思想犯は第5舎と呼ばれる特別の建物の独房に入れられ、当初は封筒張りの仕事をさせられている。この時西沢隆司と相方になり、糊付けをしたようである。そのときの荷造り屋が大泉兼蔵であった。その後農業班に卸され、2、3ヶ月で教務課の図書係(雑役)に代わった。


1944(昭和19)年の動き

 1月、ゾルゲ・尾崎の死刑確定。
 秋、延安にアメリカ政府のオブザーバーがやってきて野坂と会談。
 ドイツ降伏後、延安で、中国共産党第7回大会開催。毛沢東議長が政治報告、中国共産軍総司令朱徳が軍事報告。野坂が演説。


15.6 90余名
15.9 60余名
16   934名検挙、156名起訴
17   329    、145





(私論.私見)