第8部の1 通説(宮顕説)の疑問疑惑点列挙

 (最新見直し2009.5.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、リンチ事件に対する宮顕弁明を確認する。「スパイ挑発との闘争」、「公判記録」、「われらは抗議す-天皇制権力の復権拒否に対して-」等々を挙げる。私は、最近古本屋で手に入れた。これにより判明することは、リンチ事件の問題性は、事件のみならず事件に関する当事者としての宮顕弁明の異常性格性にもあることが判明する。世の識者はこのように問わないが、れんだいこは解せない。

 宮顕弁明から見えて来るのは、氏が事件責任を何から何まで他の被告に転嫁し居直っている姿である。あるいは死んだ小畑その人に責任を求めたりしている。先に異常性格と指摘したが、もう一つどう見ても社会主義共産主義者ではないということである。宮顕の異邦人性を指摘する所以である。宮顕を批判する者も、こういうところの事情については知らぬ者が多い。為に宮顕批判の舌鋒が湿っている面がある。本来の真っ当な批判に向かわしめる為にも、ここで健筆を振るうことにする。

 2009.5.13日再編集 れんだいこ拝


【1、「スパイ挑発との闘争」(「公判記録」対するれんだいこの吟味】

 1、「スパイ挑発との闘争」を確認する。これは、「公判記録」の巻頭文として「月刊読売.1946(昭和21)年3月号」に掲載された論文である。この論文は、民社党の春日委員長の批判に答える形で、1974.6.30日赤旗に再録された。「公判記録」は、1976.10.10日付けで新日本出版社より再版されている。れんだいこが、これを吟味する。

ページ  記載内容と疑問点
 「党は、白色テロル調査委員会を設定して、党組織の被害状況と原因調査を強力に促進することにした」
 (疑惑)

 
「白色テロル」という表記の仕方は如何なものだろう。戦後の何時頃からかはっきりしないが「赤色テロル」と変更されている。宮顕には基本的知識に於いてこういう欠けるところがある。
 「調査委員会の構成は、逸見重雄が責任者であり、同志袴田里見、秋笹正之輔などがその委員であった」
 (疑惑)

 
「逸見重雄が責任者」などとどの口から言えるのだろう。全員一致して宮顕が責任者であったと語っている。逸見からすれば、濡れ衣の言われ方であろう。度を越した卑怯な云い方である。
 「(スパイ)の摘発を中央部に要望する報告書を、いくつも提出してきた。その中にあって、大泉兼蔵と小畑達夫に対するスパイ容疑がもっとも数多く語られているのである」
 (疑惑)

 
大泉に対するスパイ容疑の上申書が為されていたことは史実である。小畑に対してのそれにつき私は聞知していない。では、当時の上申書につき誰々が容疑されていたのか明らかにせよ、それをせぬままのかような書き方は云い得の一方的誹謗ではないのか。
 「同志野呂は、大泉などに連絡するために外出した途上でやられたということも明白になった」
 (疑惑)

 野呂委員長の検挙の手引きを大泉が為したとは今日も確認されていない、当人も頑強に否定している筈である。こういうところを、宮顕はどういう根拠で明言し得るのだろう。知らないものを真に受けさせる悪質論法である。ちなみに、野呂逮捕の後、宮顕が不自然な格好と様子で家宅捜査に来ていることが証言されている。この疑惑の方こそ詮索されるべきであろう。
10  「もっと重大な問題は、両名は党中央委員であったが、その担当する組織や専門部はもっとも系統的に破壊されると言う事実であった」
 (疑惑)

 
こういう事実歪曲を鵜呑みにしてしまうと丸め込まれてしまう。史実はあべこべであり、大泉.小畑が担当していた全農や全協こそ闘う最後の砦となっていた。宮顕の関与したコップや東京市委員会こそ系統的に破壊されていたのではないのか。宮顕は、こういうウソを平気でつく芸当の持ち主であることを踏まえねばならない。
10  「すなわち、両名を除く、党中央委員並びに候補者を加えた党拡大中央委員会を開催し、そこで正式に決定したのである。査問委員会は拡大中央委員会の出席者によって構成された」
 (疑惑)

 
宮顕は、なぜこうもぎょうぎょうしい物言いを得意とするのだろう。当時、党中央委員といおうが党拡大中央委員会といおうが体を為しておらず、要するに党中央委員は逸見と宮顕、拡大すれば袴田と秋笹だけのことである。この4名に木島を入れて査問に当たったというだけのことである。何をものものしくいっているのだろう。察するに、事情を知らない者をかような表現で目くらましさせようとの下司な魂胆しか見えてこない。もう一つ、陰謀性を隠蔽するための小細工的な言い回しと受け取るべきであろう。
10  概要「査問会は開かれた。当日、大泉.小畑両名はそこへ導かれた。大泉兼蔵は私と一緒にその家に入ったのであるが云々」
 (疑惑)

 
これはたまげた。宮顕が連れて入ったのは小畑の方であるというのが当事者の一致した供述である。連れて入った順序も、小畑が先であり大泉がその後になる。こういう事実からして歪曲が為されている。しかし、宮顕は何の為にウソをつくのだろうか。察するに、こたびの査問が小畑にこそあったことをごまかす為のロジックであろう。
10  「身体検査をすると、手帳と三百円余在中の財布が出てきた。手帳には党員との連絡場所が明記されていた。地下に置かれていた党の条件と規律は、他の党員に塁を及ぼす恐れの有るそういう記入を禁じていたのである」
 (疑惑)

 
手帳嫌疑については、荻野スパイ論の際に、宮顕も同じく手帳を取られてシマッタと思ったという宮顕自身が明らかにしている下りが有る。どう整合的に説明するのだろう。
11  「かれらに対する訊問には、査問委員会の協議に従って、私が直接あたった」
 (疑惑)

 
ここでは宮顕本人が「私が直接あたった」と明記していることを覚えておこう。後で、これと違う言い方をしている下りに会う筈である。
10 11  「大泉に対してはかねて用意された訊問予定表に従って、聞いていった」
 (疑惑)

 
ここも当事者の供述と違っている。最初に訊問されたのは小畑の方である。なぜ、かような間違いが生まれているのだろう。私には、宮顕の作為しか考えられない。察するに、小畑査問粛清の魂胆をぼかすためのロジックであろう。
11 11  概要「小畑に対しても、予定の訊問を進めたが、現住居に一ヵ年以上もいつづけていたという新事実が暴露した」
 (疑惑)

 
住所移転には金もかかる。当時の党の財政状態も考慮せねばならない。それと小畑にそういう嫌疑をかけるのなら、査問側の宮顕、袴田、逸見、秋笹らは一ヵ年以上はいつづけなかったのか反証せねば不公平というものだろう。
12 12  「ここで彼(小畑)が何ら官憲の逮捕を恐れる事情にいなかったという事情が明らかとなった」
 (疑惑)

 
思わせぶりな意図的な書き方であるが、ならば問う。宮顕こそ査問されてみたら、「何ら官憲の逮捕を恐れる事情にいなかったという事情が明らかとなった」であろう。
13 13  「査問開始以来、まったく心禁阻喪して、極度におびえきり、日頃の官僚的な尊大ぶりはどこへやら、ひたすら哀願的態度によって終始し、かりにも無辜の党員がスパイ嫌疑を受けた場合に、自己の潔白を主張する場合、必然的にとられる決然とした態度がごう末も見られなかったことである」
 (疑惑)

 
この言い回しだけを読むとすっかりその気にさせられるであろうが、事実は、「騒ぐと得策ではない」と十分に言い聞かせていたのではなかったのか。為にする批判にもほどがあるというべきだろう。あるいは大泉の態度を小畑に言い換えているとも思える。
14 13  「小畑は、全協の日本通信労働組合の中央委員在任中検挙されると転向を誓い釈放されたが、その時知った万世橋署の高橋警部からその後映画をおごられ、党及び全協の情報を提供し、それに対して金銭の報酬を受けていたということを自白するに至った」
 (疑惑)

 
この言い回しも同じくここだけを読むとすっかりその気にさせられる、小畑のこの自白について他の当事者からの陳述がないところである。つまり本当にこのように自白したのかどうか分からない。ちなみに、「立花研究」によると、調査してみて「万世橋署の高橋警部」なるものは当時存在しなかったとのことである。存在しない者を根拠にして小畑スパイ説を裏付ける宮顕の嫌らしさをこそ窺うべきであろう。
15 14  概要「みると、小畑が拘束されていた手足の紐をたちきって、窓際に近寄ろうとしているのに、同志袴田と逸見が気がついて小畑にとりつこうとしている。私も飛び起きて木島と共に小畑の傍へよった」
 (疑惑)

 
小畑死亡時の大事な陳述場面であるが、この本人の言い回しによると、宮顕の小畑掣肘は木島と共に最後の場面で関わったことになる。しかし、逸見陳述では袴田に続いて宮顕も取り押さえにかかったとされている。どちらの陳述が正しいのだろうか。
16 15  「ただちに秋笹が脈を取り、人工呼吸をはじめ、さらに私が続いて、柔道の『活』をこころみ、それを反復したが、小畑の意識はついに回復しなかった」
 (疑惑)

 
袴田陳述によると、蘇生に協力した様子が述べられている。皆それぞれが蘇生協力者として自身の立場を評価している胡散臭い部分である。なお、「ただちに」蘇生活動に入ったのではなく、秋笹と宮顕の言い合いが為されたという陳述もある。
17 15  「この突発事のために査問は休止された形となり、査問委員は木島を会場に残して階下の一室に集まって、今後の方針について協議した」
 (疑惑) 

 
後に木島の役割について関係することになるが、宮顕はかく木島が査問部屋に居たことをここで認めていることに注意を喚起しておくことにする。確か、後で木島の関与を矮小化することになる記述に出くわす筈である。
18 15  「警察においては定式どおり彼らに都合の良い不当陳述強要の拷問が加えられた。私はそれに対して一切応じなかった」
 (疑惑)

 
当時の特高の拷問は一番激しさを加えていた時期である。「それに対して一切応ぜずに」よくも生き延びられた幸運を疑惑したいと思う。ましてや、宮顕の謂いによれば、小畑はスパイであるからして、準仲間を殺された警察の恨みは昂ぶるが普通だろうに。
19 16  「私は、予審の秘密暗黒訊問に対しても一切応じなかった」
 (疑惑)

 
前記同様「タフガイ宮顕」伝説となっている部分であるが、そういう態度の貫徹が本当に可能であっただろうか。他の被虐殺党員の事例との比較において私はどうも眉唾せざるを得ない。むしろ、有り得ない事と確認すべきではなかろうか。
20 17  「小畑の死因を、最初の鑑定書は、脳震盪であるとしたが、彼が暴れだした時、なにびとも脳震盪を引き起こすような打撃を加えていないのである」
 (疑惑)

 
宮顕論法の典型であるが、なるほど「彼が暴れだした時」には、「なにびとも脳震盪を引き起こすような打撃を加えていない」のは事実のようである。問題は、「彼が暴れていない時の査問中」にも、「打撃を加えている」かどうかで当事者の陳述に隔たりがあることである。宮顕は、終始一貫静かな査問であったと主張している。追って、その虚実を明らかにして行きたいと思う。
21 17  「そうして再鑑定書は、脳震盪とみなすような重大な損傷は身体のどこにもないこと、むしろショック死(特異体質者が一般人にはこたえない軽微の刺激によって急死する場合法医学上、普通ショック死という)と推定すべきであるとした」
 (疑惑)

 ここで、この記述全体が大嘘であることを確認しておきたい。再鑑定書には、前段の「脳震盪とみなすような重大な損傷は身体のどこにもない」などとはどこにも書いていないし、後段の「むしろショック死と推定すべきであるとした」とも書いていない。再鑑定書を読めば一目瞭然であるが、恐らく再鑑定書を読んでいない者を相手に丸め込もうとしているのだろう。それにしても、すぐ分かる嘘をこうも述べ得る宮顕なるものは一体どういう人格をしているのだろう。
22 17  「そして、裁判所もついにこの事件を殺人及び殺人未遂事件として捏造することが不可能となった」
 (疑惑)

 
ここも宮顕の神経を疑うべき言い回しのところである。当該裁判で、起訴され、判決も「治安維持法違反、殺人、同未遂、不法監禁、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反」を認定している。「不可能となった」というのはどういう意味なんだろう。もっとも、正確には暴行致死罪を問われるべきであったであろうが、「殺人、同未遂」となっているようである。未遂ではなく既遂であるが。
23 17  「防衛の為に大泉.小畑などの身体を拘束し、査問を遂行して彼らの正体を明らかにすることは、正当防衛である。従って、不法監禁致死も成立し得ない」
 (疑惑)

 
ここで堂々と「正当防衛論」を展開していることを銘記しておきたい。問題は、「身体の拘束の仕方」がどうであったかというこにも関係してくるであろう。それにしても酷い居直りである。
24 18  「大泉.小畑等に対する手ひどい計画的私刑がなされたというようなことは、まったくの妄見である。小畑の身体にあったという軽微な損傷というものが事実とすれば、」
 (疑惑)

 前述「正当防衛論」の下りで述べていることであるが、「小畑の身体にあったという軽微な損傷」とはどういうことだろう。鑑定書には、両鑑定書ともそのような記述はない。むしろ爪剥ぎまで含めた凄惨なリンチを推定している。宮顕は、こういう重要なところをどうして堂々と詐術し得るのだろう。私には許せないウソツキないしは異常人格としてしか解せない。
25 18  「それは大部分彼が逃亡を試みて頭そのほかで壁に穴をあけようと努力した自傷行為とみなされる」
 (疑惑)

 
これが、日本共産党のかっての最高権力者の云い条である。暴行致死せしめたのみならず、このような言い条で死者を冒涜し居直る宮顕をどうして許せよう。この言葉自体にも嘘が見破られる。宮顕が云うがごとく静かな査問であったとしたら、小畑はなぜ逃亡を試みたのだろう。
26 18  「後日、会場付近の人々が、きわめて会場が静かであったと一様に証言しているのは、我々が査問の円滑な進行の為に極力騒擾と混乱とを避けていた実情を立証するものである。傷害致死の認定も不当である」
 (疑惑)

 
この近隣の人の証言内容について疑義がある。仮に、査問アジト自体が特高との打ち合わせの中で為されていたとしたら、近隣の者の証言というそのものが胡散臭いことになる。これは今後解明してみたいところである。後段で「傷害致死の認定も不当である」としているが、宮顕は一貫して「静かな査問」であったとしていることに拠っている。その虚実についておいおい明らかにして行きたい。
27 18  「二通の死体鑑定書自体が、学問的に見てきわめて杜撰、不備であり」
 (疑惑)

 
このように云い為す宮顕の恥知らずをこそ思う。特に当初の「村上」鑑定書は、日本共産党最高幹部の変死事件であるがゆえに、よほど留意しつつ精密な遺体鑑定をしている。実際に目を通せば分かる事を、この御仁はどうして平気で嘘をつけるだろう。私には異常人格者としてしか考えられない。
28 18  「小畑の体質から見て、心臓死を予想し得るにも関わらず、その点には全然盲目である」
 (疑惑)

 
ここで私は気が付いた。宮顕著作「公判記録」は1976年10月初本である。宮顕は、この時点で、まさか関係者の予審調書、公判調書が世に明かされるとは考えていなかったのではなかろうか。真実を知らぬ者を前提に云いたい放題で弁論している風がある。ひどい話だが、そう思えばいろいろ事実と相違していることを平気で言えてることが不思議でなくなる。この下りの「心臓麻痺ショック死」推定なぞ自らしているのも噴飯ものである。小畑が地下から化けて出るのではないかと思われる。
29 18  「小畑の死体を遺棄すべく協議決定したことは無く、また遺棄したこともない」
 (疑惑)

 
こういう居直り、他に責任なすりつけ論理を、党の最高幹部たる者が為すことではなかろう。追って、その実際を見ていくことになるであろう。
30 18  「防衛の為に拳銃を護身用として検挙に対するのは、緊急避難として正当である」
 (疑惑)

 
この下りは、査問時に宮顕が拳銃を保持していたことの弁明である。何と、査問の脅しに使ったのではなく、官憲の検挙に対する抵抗用として所持していたと言っている。ものはいいようではあるが、減らず口もいい加減にさせたいと思う。拳銃の出所も気になるところである。誰か調べてみたら良かろう。

【2、「昭和15年(1940年)公判」の概観批評】
 2、「昭和15年(1940年)公判」を概観批評する。「公判記録」より読み取る。1930(昭和15).4.18日より同年7.20日までの6回にわたる公判が開かれている。これを解析する。
ページ  記載内容と疑問点
23  第1回公判陳述
 1930(昭和15).4.18日午前10時、於東京地方裁判所刑事第5号法廷。宮顕の初公判が開かれている。公判には、裁判長、検事、栗林弁護人(宮顕担当)、島田弁護人(逸見.木島担当)、吉田弁護人(袴田、秋笹のどちらを担当したのか判然しない)、宮顕、袴田、秋笹、(木島)の面々であった。袴田、秋笹のどちらかの弁護人がもう一人いたと思われるが、発言が無く登場しない。逸見が欠席している。
 (疑惑)

 読了後の感想は、宮顕という男の饒舌ぶりである。午前中二時間ぶっ通しで、正午前後休憩の後午後1時半よりまたとうとうと独演会している。奇異なことは、今日口を極めて戦前の暗黒裁判ぶりをなじっているにも関わらず、当の本人が得々と共産主義運動の歴史と現在について弁舌し得ている不思議さである。全ては、裁判長、検察の前でかような発言が認可されつつ為されていることの方こそ訝ってしまう。それが望ましいとは思う。問題は、同様に検挙されてきた以前以降の他の被告達にも認められたであろうか、こういう機会が与えられていたのであろうかと思う訝りである。

 もう一つ、訝りたいことが有る。ここでも他の被告の予審調書に目を通している様が本人より陳述されている。逸見のそれに対しては、批判しつつ意見を述べ、熊沢のそれに対しては、都合の良いところを借用している。袴田、秋笹、木島、大泉らのそれにも目を通している。ところで、こんなことが有りえるだろうか。本人は一切調書を取らせなかったと自慢している。その上で他の被告のそれらには目を通している。オカシナコトデアル。

 次にあきれることがある。スパイ摘発が如何に当時の党の基本政策であったかを、コミンテルンの指導文書あるいは当時の党の基本文書を孫引きしながらとうとうと読んで聞かせている。恐らく、後世の者に正義の弁舌の様を聞かせたかったのであろうが、そういう文書をどのようにして手にし得たかも気に掛かることである。こうして、宮顕グループによる党の奪権闘争ではなかったことをくどいほど説いて聞かせてくれる。私にはウンザリだ。
62 第2回公判陳述
 昭和15年5.4日、於東京地方裁判所刑事第5号法廷。宮顕の第2回公判が開かれている。公判には、裁判長、検事、栗林弁護人(宮本担当)、島田弁護人(逸見担当)、吉田弁護人(袴田、秋笹のどちらを担当したのか判然しない)、宮顕、袴田、秋笹の面々が臨んでいる。袴田、秋笹のどちらかの弁護人がもう一人いたと思われるが、発言が無く登場しない。
 (疑惑)

 このたびは宮顕単独の陳述はなく、逸見と木島が併合しない非を宮顕と袴田、秋笹の3名で責めつけている。問題は、裁判長とも馴れ合った遣り取りが為されており、如何に宮顕らが併合審理を望んでおり、逸見がそれを避けようとしているのかを印象付けようとしているように思われる。私には田舎芝居のやらせと映る。

 実際に逸見が出ようとしていなかったのかどうか、その理由について明確なことは明らかにされていない。勘ぐれば、裁判長以下の訴訟指揮で、逸見を招かず、正義が宮顕らにあることを印象付けようとした公判であったともみなし得る。
77  第3回公判陳述
 昭和15年5.18日、於東京地方裁判所刑事第5号法廷。宮顕の第3回公判が開かれている。このたびの公判は、宮顕の単独陳述となっており、他の被告の出席有無が分からない。午前11時半開廷、午後零時30分閉廷。推測するに、事前に清書された原稿の棒読みとなっている模様である。
 (疑惑)

 この原稿が宮顕の手になるものかゴーストライターがいるものか不明であるが、広範多岐な関心から見て別に書き手がいることが推測可能である。全体に云っていることは、共産主義者としての当時の世界情勢、国内政策の客観的条件の解明である。結構なことを云っているが、査問事件の前提条件として、これだけの陳述を当時の法廷が許容し、プロパガンダせしめていることの奇異さこそしみてくる。それにしても、当人の主張している心臓麻痺ショック死を解明する査問事件の陳述をするのに、かくも前置きをせねばならぬ必然性がどこにあるのだろう、そのことこそが訝られる。
90  第4回公判陳述
 昭和15年5.28日、於東京地方裁判所刑事第5号法廷。宮顕の第4回公判が開かれている。このたびの公判も、宮顕の単独陳述となっており、他の被告の出席有無が分からない。午前10.30分開廷、閉廷につき未記載。第3回公判と同様、事前に清書された原稿の棒読みとなっている模様である。
 (疑惑)

 これも同様にゴーストライターがいるように推測し得る。今度は一転して日本の歴史の陳述に移っており、原始共産制社会から封建制、明治維新、当時の軍政社会まで説き起こしている。そこから共産主義者の現在的方針と強固な党組織の必要性へと論を導いており、前公判同様結構なことを云っているが、査問事件の前提条件として、これだけの陳述を当時の法廷が許容し、プロパガンダせしめていることの奇異さこそしみてくる。
104  第5回公判陳述
 昭和15年7.2日、於東京地方裁判所刑事第5号法廷。宮本の第5回公判が開かれている。このたびの公判も、宮顕の単独陳述となっており、他の被告の出席有無が分からない。午前10.30分開廷、午後零時10分閉廷。第3回、4回公判と同様、事前に清書された原稿の棒読みとなっている模様であるが、今回はこなれた宮顕らしい論調になる。
 (疑惑)

 これもゴーストライターとの合作ではないかと推測し得る。今度は一転してスパイ挑発の歴史的経過と手口につき詳細な弁論を為している。むしろ、この当時においてここまでの認識を獲得し得ていたということの方に驚かされる。個々の事例については再検証が必要であるが、史実的な意味でむしろ資料的価値さえあるであろう。今回の公判陳述も同様に、査問事件の前提条件として、これだけの陳述を当時の法廷が許容し、プロパガンダせしめていることの奇異さこそしみてくる。依然として肝心の小畑死亡時の言及がない。えらい悠長な訴訟指揮をする裁判長であったと感心させられる。
121  第6回公判陳述
 1930(昭和15).7.20日、於東京地方裁判所刑事第5号法廷。宮顕の第6回公判が開かれている。このたびの公判も、宮顕の単独陳述となっており、他の被告の出席有無が分からない。午前10.30分開廷、閉廷につき未記載。これまでと同様原稿もあると思われるが、その淀みないところからして自作の独演会の観がある。ここでいよいよなぜ大泉、小畑を査問に付せねばならなかったかについての運動論的根拠について解明している。当時の赤旗の各号における対スパイ闘争の呼び掛けを詳述している。
 (疑惑)

 驚くことに、スパイに仕立て上げられるケースの詳述をしているが、特高の手口に対してさえ博学振りをみせている。もっともらしい饒舌を聞かせてくれるが、云えば云うほど墓穴を掘っている観がある。しかし、それにしても、今回の公判陳述も同様に、査問事件の前提条件として、これだけの陳述を当時の法廷が許容し、プロパガンダせしめていることの奇異さこそしみてくる。

 ところで、何とこれだけの云いたい放題の独演陳述したものの、一向に小畑死亡時の様子を明らかにせぬまま公判が中断されている。体調不良という理由であろうが、解せないことである。結局、この公判は、何ら事件の具体的解明に入らないまま宮顕正義論をとうとうと聞かされて終わったことになる。

 公判が再開されるのは、4年後の昭和19年6月になってである。この間他の被告全員の公判が終わり、結審されている。この後秋笹は発狂し獄死する。再開された公判では、もはや併合審理の要ない単独公判となる。私は、この経過に奇異を覚えるが、如何であろうか。もし、宮顕の云うごとく小畑が心臓麻痺的ショック死であったとすれば、いち早くその状況を陳述することか先決で、このたび独演会で述べたような背景事情はその後からでもいつでもできるであろうに。

【3、「昭和19年(1944年)公判」の概観批評】

 3、「昭和19年(1944年)公判」を概観批評する。「公判記録」より読み取る。1934(昭和19).6.13日より同年11.30日までの15回にわたる公判が開かれている。これを解析する。

ページ 記載内容と疑問点
149  第1回公判陳述
 1934(昭和19).6.13日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮顕の再開初公判が開かれている。公判には、裁判長、判事、書記、検事、栗林敏夫.森長英三郎弁護人(宮顕担当)の面々であった。従来の事公判との違いとして「被告人は公判廷において身体の拘束を受けず」とある。検事と宮顕の間で訊問が為されている。ここで査問の適宜性と査問内容の動機の解明に対する質疑が行われている。こうしていよいよ実質審理に入った。このたびは宮顕の単独陳述となっている。
154  第2回公判陳述
 昭和19年6.24日午後1時、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮本の再開第2回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者が臨席している。「被告人は公判廷において身体の拘束を受けず」とある。
 (疑惑)

 又も小畑死亡時の具体的解明に向かわず、「当時の社会情勢と党の方針」についてとうとうと述べ始めている。「昭和15年(1940年)公判」の第3回、4回公判陳述内容の引き写しないし要約となっている。しかし、再開公判であったとしても、こんな馬鹿な審理が許容せられていること自体やらせ臭い。いつになったら実質審理に入るのだろう。読み進めながらあきれてしまう。
161 第3回公判陳述
 昭和19年7.8日午後1時、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮顕の再開第3回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者が臨席しているが、弁護人は森長氏一人のようである。「被告人は公判廷において身体の拘束を受けず」とある。
 (疑惑)

 このたびも宮顕の単独陳述となっているが、又も小畑死亡時の具体的解明に向かわず、「当時のスパイ挑発に対する党の方針」についてとうとうと述べ始めている。「昭和15年(1940年)公判」の第5回公判陳述内容の引き写しないし要約となっている。
170  第4回公判陳述
 昭和19年9.2日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮顕の再開第4回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者が臨席しているが、弁護人は再び栗林氏と森長氏二人のようである。「被告人は公判廷において身体の拘束を受けず」とある。
 (疑惑)

 もはやこれ以上具体的な陳述なしの引き伸ばしが出来ずと見え、「本日は小畑、大泉両名に対するスパイ査問の経過に付き申し述べます」から始まっている。が、前口上で小畑、大泉が如何にスパイであったからとうとうと述べ始めている。次にいよいよ査問前の打ち合わせ、当日の捕捉状況、査問の様子について弁明を始めている。

 何と、「月刊読売.1946年3月号」の「スパイ挑発との闘争」内容と明らかに異なる陳述が為されている。
この時の弁明のほうがより事実に近いと思われる。ということは、「スパイ挑発との闘争」は宮顕の立場を更に補強せんとしてかなり改竄されていることになる。しかし、本公判における宮顕の陳述内容こそ査問事件に見せる宮顕の全態度を凝縮しており貴重である。

 なお、この宮顕の陳述と他の被告との違いに付き、検事ないし裁判長が問うことをしない。通常の訴訟指揮からして不自然なことである。他の被告の公判の時には結構突っ込まれているというのに。
186  第5回公判陳述
 昭和19年9.14日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮本の再開第5回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者が臨席している。
 (疑惑)

 前回の陳述に続いて査問事件の実質審議に入っており、小畑の死因について言及している。必然的に村上鑑定書、古畑鑑定書の内容の検証に入らざるを得ないが、文意をねじ曲げた上で批判ないし同意する等典型的な悪質話法を繰り広げている。両鑑定書の間違いないし不十分さを指摘し、死因を自ら特定し、小畑の特異体質によるショック死が妥当とする論を主張し、鑑定人真っ青の見解を披瀝している。後半で荻野問題を述べ、荻野陳述に対する批判を為している。一連の宮顕の云い条によれば、宮顕一人正しいとする天動説理論を繰り広げているのが分かる。
198  第6回公判陳述
 昭和19年9.21日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮本の再開第6回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者が臨席している。弁護人は森長氏のみのようである。
 (疑惑)

 このたびは、これまでの公判調書の補正を為したいという陳述で始まり、予審訊問書中で「陳述する点はありません」と答えているとあるところを、一切発言しなかったと書き換えるよう訂正を要求している。かようなことに拘る真意が不明であるが、恐らく後世の者に申し開く際にその方が良いと考えての緻密な知恵の廻しのように窺える。

 次に、ここまでの公判調書に対して訂正、挿入、削除について以下述べているようであるが、内容略とされておるので分からない。しかし、余程手の込んだことをする御仁であることが分かる。それと疑問は、公判調書のこのような改竄要求は一般に許容されるのであろうか、疑問としたい。
201  第7回公判陳述
 昭和19年9.26日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮顕の再開第7回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者が臨席している。弁護人は栗林氏のみのようである。
 (疑惑)

 「今日は三船の査問に関する大泉の陳述を検討したい」とある。大泉、逸見による三船の査問の様子について陳述している内容が宮顕関与の様を語っているのに対し、関与していないことと三船を殺すとの謀議が為されていたことを否定している。しかし、云えば云うほど尻尾を出しているのがむしろ滑稽である。
205  第8回公判陳述
 昭和19年10.5日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮本の再開第8回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者が臨席している。弁護人は森長氏のみのようである。つまり、交替ででていることが分かる。
 (疑惑)

 「今日は大泉、木島、逸見等の陳述を検討します」とある。読み進めていくうちに分かることは、驚くべきことに宮顕は関係者の全調書に目を通し得ていることである。のみならず獄中での様子まで掌握している節がある。大泉、木島、逸見の順に批判的解説をしているが、凡そ悪態面罵のそれであり、微塵も旧同志に対する配慮はない。恐るべき唯我独尊の天動説論的立場に孤高している。興味深いことは、宮顕の反証を通じて被告間の争点が逆に知れることである。宮顕の否定に関わらずその再否定により真相が知れることになる。
222  第9回公判陳述
 昭和19年10.14日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮本の再開第9回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者が臨席している。弁護人は森長氏のみのようである。この日の公判では、秋笹、袴田の陳述に関し検討を加えている。

その後、大串査問に関する西沢陳述の検討を加えている。次に、菊地甚一の鑑定書に対して検討を加えている。菊地鑑定書の内容については研究がないので私も分からないが、病気中の宮顕の病状ないし精神鑑定をしているそれであると思われる。これらを経て、本裁判に対する宮顕の態度の弁明に移っている。
 (疑惑)

 従って、このたびの陳述は長大なものとなっている。総論を述べたあと、宮顕の不利益な個所に付き逐条的に弁明している。本公判における宮顕の陳述内容も又査問事件に見せる宮顕の全態度を凝縮しており貴重である。
10 239  第10回公判陳述
 昭和19年10.24日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮顕の再開第10回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者及び弁護人は栗林、森長両名とも出席している。このたびの公判は、「本件事件の経過」、「その時の情状の観察」を述べると始めており、弁護人も両名ついていることからかなり突っ込んだ陳述が為される雲行きである。
 (疑惑)

 弁明は、前回の公判のそれに続き査問事件の争点逐条を宮顕流に解明している。既判決に対する見解も披瀝している。こうして縦横無尽の勢いさえ見せている。もっとも宮顕の饒舌により云えば云うほどつじつまを合わなくしている様が奇態でもあるが、当人はそんなことには構っておられないのだろう。それにしても独演会が続くが、検事の質疑訊問はなされないのだろうか、気になってきた。
11 250  第11回公判陳述
 昭和19年10.31日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮顕の再開第11回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者及び弁護人は栗林、森長両名とも出席している。既に弁明は言い足りたのか、このたびは治安維持法の不当性と共産主義者の世界観の披瀝から陳述を始めている。注目すべきは、一通りの弁明後、事件の内容に関する訊問が初めて裁判長より為されている。裁判長はまず大串事件と宮顕との関係を尋ねている。次にピストルの所持の様子を尋ねている。次に事件の証拠品を次々と示し、宮顕の見解を尋ねている。このあと検事が宮顕の無期懲役を相当としたい旨請求し、弁護人が次回に審理を続行されたしと述べ閉廷している。いよいよ大詰めに来ている様子が分かる。
 (疑惑)

 しかし、奇異なことは、検事の質疑、裁判長の指揮による被告人相互の供述違いの解明が為されぬまま単独陳述に終始してえり、やがてこのまま判決にいたろうとしている様である。他の被告の公判の様子と比較してみて胡散臭い。宮顕が非転向であればあるほどいじめられるのが普通だろうに、野放しとはこれ如何に。
12 265  第12回公判陳述
 昭和19年11.14日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮顕の再開第12回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者及び弁護人は栗林、森長両名とも出席している。この公判で初めて弁護人の弁論が為されている。その内容たるや、事件は特殊な組織内犯罪であり且つ宮顕の場合確信犯であり一般裁判には馴染まないこと及びその他諸般の事情を酌量せられ寛大なる判決を願うとしている。
 (疑惑)

 「その他諸般の事情を酌量せられ」とは何なんだろう却って気になる。
13
268  第13回公判陳述
 昭和19年11.21日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮顕の再開第13回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者及び弁護人は森長氏が出席している。この公判で、宮顕は最終陳述を行っている。もはや新しい論点はなく、自身の弁明こそが真実であるという強調、小畑殺害の意志はなかったこと、他の被告の陳述は迎合的もしくは不十分であることを指摘して終えている。次回にも公判が開かれることになったようでもある。
 (疑惑)

 ここまで追跡してみて、この御仁の尋常でない性格の強さとまるで対等に裁判長、検事らと渡り合っている様、むしろ判決を誘導しようとしている様さえ見えてくる。何ともはや驚異ですらある、私には。
14 278  第14回公判陳述
 昭和19年11.25日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮顕の再開第14回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者及び弁護人は森長氏が出席している。
 (疑惑)

 この公判で、宮顕は自身に課せられようとしている嫌疑に付き、逐条反論している。恐るべきは小畑の死に対する一片の哀悼もないことである。極論すれば無罪の主張をしている観がある。この見地から両鑑定書の杜撰さを指摘し、傷害致死にも当たらないと陳述している。既に私は唖然とさせられているのでこれ以上の論評が出来ない。
15 285  第15回公判陳述
 1934(昭和19).11.30日、於東京地方裁判所刑事第六部法廷。宮顕の再開第15回公判が開かれている。公判には、前回同様の関係者及び弁護人は森長氏が出席している。いよいよこれが最後の法廷となった。
 (疑惑)

 何とここで宮顕が弁明したのは、量刑の不当性であり、逸見のそれに対していちゃもんをつけている浅ましさである。次に弁明しているのが、自身がいかに元々体制従順な人間であるかを幼少より説き起こし、共産主義思想も何ら危険なそれではなく合法的に認められ抑圧されるべきではないと主張している。最後に無期懲役での加罰が重刑過ぎるとの陳述で終えている。補足して大串査問事件の訂正をしている。やや意味不明であるが、この事件との無関係性方向へ修正したようである。判決が12.5日に為されることが確認されて閉廷している。

【4、「われらは抗議す-天皇制権力の復権拒否に対して-」に対する吟味】

 4、1946.1.2、1.8日付け「アカハタ」再刊第10号に「われらは抗議す-天皇制権力の復権拒否に対して-」が発表されている。これを吟味しておく。

 宮顕のこの論文は、唾棄されるべき黒を白と言い含める転倒論理の珠玉である。宮顕が堂々と何をどう言っているのか知ることだけでも意味がある。凡そ「査問事件」の各被告の調書が世に出ることなぞないだろうとの目論見で、真相が知られることの無いことを前提にして吐き気を覚えるような捻じ曲げを随所にしていることが判る。解説も不要と思われるので簡略にコメントしておく。

 「彼等(天皇制政府)が我々に対して今日も諸種の理由を構えてこのような復権拒否の措置に出ているのは、民主主義陣営ならば一員でもできる限りその政治的活動を封じたいというのがその本志なのである」、「彼らは種々勝手な罪名を一面的にくつつけて、我々を迫害する手段とするのである」。
 (疑問反論)

 史実は、宮顕を救済しようにも法律的な整合性ができず、苦慮していたことが判明している。
 「第一、彼らは1933年12月日本共産党がたたかったスパイ挑発に対する闘争を根本的に歪曲捏造した。彼らはその使用したスパイ挑発者が我々の手によって正体を暴露されるに至ったので、疑心暗鬼による党内の派閥的相克の結果党員が殺害されるにいたったとまったく虚偽の宣伝をした」。
 (疑問反論)

 「彼らはその使用したスパイ挑発者が我々の手によって正体を暴露されるに至った」とするのは宮顕論法に過ぎず、そういうからには小畑のスパイ性を論証せねばなるまい。
 「スパイ大泉・小畑は党の査問に対して警視庁特高課の手先であることを自白した」。
 (疑問反論)

 大泉は認めた。小畑は頑として認めず、大泉とは叉別のスパイラインである宮顕派の査問のワナから抜け出そうとして逃亡を図り圧死叉は絞殺された。これが真相であろう。
 「第二、彼らは我々を殺人及び殺人未遂などの罪名で検事の聴取書さえない状態で起訴したが、これらの起訴罪名がまた完全なデマ罪名であることが、事態の経過によって如実に証明された」。
 (疑問反論)

 現に小畑が死亡し床下から遺体が発見された以上、デマ罪名ではなかろう。
 「当時の党中央委員会並びに査問委員会はスパイに対する党の処分は除名追放であると決定し、それを赤旗においても声明した。そして大泉・小畑に対して何らの殺害意図も行為も必要としなかった」
 (疑問反論)

 ならば、査問の実態を明らかにすれば良かろう。各被告の証言の食い違いを精査すれば良かろう。
 「小畑の死亡はわれわれ査問委員会のまったく予期しないところであった。小畑の死が何ら殺害によるものではないということは共産党に対する悪意に満ちている天皇制裁判ですら結局認めざるをえなかったのである」
 (疑問反論)

 宮顕は何を根拠にこう述べているのだろう。実際に殺人罪が判決されているというのに。
 「小畑は査問委員の隙をうかがって査問会場より逃亡しようとして暴れているうちに突如急変状態におちいったのであるが、我々はそれを発見するとともに人工呼吸や、活を入れて彼の蘇生の為に努力をしたのである」
 (疑問反論)

 「暴れているうちに突如急変状態におちいった」と認めるのなら、なぜ暴れたのか、なぜ突如急変状態におちいったのか証言すれば良かろう。
 「小畑にその際何らの打撃も加えられなかったことは明白であった」。
 (疑問反論)

 確かに打撲死ではないが、圧殺叉は同時的絞殺死という線が濃厚である。ついでにこちらも否定すれば良かろうに。
 「小畑の死は心臓麻痺かショック死かいずれかであるが、いずれのばあいにしても小畑の体質の特殊性に死因がみいだされるのである」
 (疑問反論)

 宮顕がかく述べていることを銘記しておこう。
 「大泉・小畑は警視庁特高課の指示の元に党内において党の方針に反して、金銭拐帯、破廉恥行為を教唆し、党員を天皇制権力の新しい迫害の対象にしようとしたのである。彼らのスパイ等の行為はあきらから党員大衆に対する急迫不正の侵害行為にほかならない。我々は放置しておくことは出来なかった」
 (疑問反論)

 スパイラインが意図的にかく立ち働いていたことは客観表記としては正しい。問題は、小畑がそう立ち働いていたのか宮顕がそうであったのか精査せねばなるまい。
 「我々が彼らの正体を究明するために彼らを一定場所に抑留するのは当然の正当防衛行為にほかならないのみならず、大泉・小畑等は入党にさいして党の決定の無条件的遂行を誓い、さらに査問開始にあたっては抑留されることをあらためて十分承諾したのである」。
 (疑問反論) 

 宮顕がこういう論理を持っていることを銘記しておこう。
 「これらの点からみて、彼らの査問処置はなんら不法監禁でなかったことは明瞭である。従って、これを不法監禁致死をもって律しようとすることもあきらかに妄断である」
 (疑問反論) 

 かの時の査問をして不法監禁でなかったと云い為すならば、凡そ不法監禁の全てが免責されよう。
 「官憲は我々に死体遺棄なる罪名を付したが、これまた根本的に破棄されなければならない。我々は小畑の死体を遺棄すべきことを意図したことも遺棄したこともない」
 (疑問反論)

 こう云うからにはなぜ小畑の死体が床下から発見されたのか。これを否定せねばなるまい。
 「小畑を公然と埋葬することができないので一応屋内に仮埋葬したと聞いたのはそのあとのことであった。そうすることによって当時の状況において死者に対して我々がとりうる最善の常識的措置をとつたものであり、何ら死体を遺棄したものではなかった」
 (疑問反論)

 何と、床下遺棄が仮埋葬だったとまで居直っている。れんだいこには狂人の謂いとしか思えない。世間ではこれを俗に「往生情際が悪い」と云う。
 「彼らは我々が正当な理由なくして拳銃を所持したとするのである。しかしながら我々は当時正当なる理由を持っていた」、「こういう不法暴虐に対して自己を防衛するのは正当な権利である。我々の拳銃所持は支配権力のかかる致命的不法暴虐行為を防衛するための護身用のためであり、明らかに正当な理由があるものである」。
 (疑問反論)

 問題は、スパイ派が拳銃を所持し、労働者派の小畑がその威圧の下で査問テロされたということにある。これを正当化できないので、宮顕派=革命派と描いているに過ぎない。

【5、「申請理由」(1947.1.20日)に対する吟味】

 5、「申請理由」(1947.1.20日)に対する吟味。





(私論.私見)