第7部の4 補足袴田によるスパイ判別帳、重要証言

 (最新見直し2014.04.11日)

 いよいよ最後になった。袴田は、第7回調書で貴重な「袴田式スパイ判別閻魔帳」を開陳している。参考になると思われるので以下記す(要約)。スパイ判別には、「4つの基本方針」があると言う。「共産主義的人物道徳観」を聞かされるよりよっぽど為になるように思われる。主に小畑に対するスパイ性を意識して言ったものであり、袴田が言うのもどうかと滑稽な気もするが本人はマジで言っているようである。

その1  その人物が革命運動に対し熱烈な信念を持って行動しているかどうか。この信念を全然欠ける党員ありとすれば、それは不純な分子として先ず目星を付けなければならない。
その2  物事を誇張して言いふらすことや偽りを云う様なことはないか。軽い程度の範囲なら見逃すことができるが、これが特にひどい様な場合あるいは重要な事柄をしばしば偽って云う様な場合には常に警戒を要する。
その3  言行が一致しているかどうか。スパイはスパイの行動があまりにも明白な非党員的である場合には直ちに摘発されるからして彼らは時には最も真剣に働く者であるというような態度を採る。あるいは或る会場の席上に於いて優れた意見等を提出して他の同志の信頼を深めようとするけれども、いざ実行の段になると彼らはその席上に於いて述べた優れた意見通りに活動せず、且つその意見が他の同志等によって遂行されることを極力妨害したり或いはさぼったりすることは彼らの常套手段である。
その4  他の同志に対して同志的であるか或いは冷淡であるか。これはスパイを摘発する場合に重要な事柄であります。弾圧の激しい日本の革命運動の中に於いて活動する共産党員は相互に相扶け合うと云うことは絶対に必要なことであります。スパイは党組織の発展の為に身命を放擲して働く共産党員に対して同志的気持ちを持たない。そしてそのことが意識的に彼の党員に対する非常に冷淡な態度となって現れたのであります。
その5  袴田は「昨日の同志宮本顕治へ」で、次のようにも書いている。これも参考になると思われるから記す。「戦前の非合法時代の長い経験から、私は貴重な教訓を得ていた。スパイとか裏切り者と呼ばれる連中は、どんなに表面を立派につくろっても、必ず日常生活にウソがあるということだ」。

 最後に。一応ここで本稿終了となります。補足的な論考もいくつか可能ですが、そろそろ幕引きと致します。お読みいただいた方にまことに感謝申し上げます。言いたいことは、たかが人生、されど人生、何事も事実から出発させた英知によるブリッジ的な運動の積み重ねをしたいという気持ちばかりです。


 なお、袴田は後日除名されることになったが、以来袴田はそれまでの「宮本を庇うことが党のためになると信じて意図的に宮本に迎合してきた」宮顕擁護の姿勢を根本的に転換させ、次のような重大史実、見解を明らかにしている。既に取り上げた部分もあるので重複しない下りを以下記す。
その1  「宮本ご自慢の『完全黙秘』や『公判闘争』にしても、私に言わせれば、あれは自分の都合の悪いことに口をつぐみ、徹頭徹尾、自分の身だけを守ろうとしたものに過ぎない」。
その2  「最初は、私と宮本と秋笹の3人は合同裁判であった。今でも私の宮本に対する侮蔑の一つになっているのであるが、被告席に座らせられている我々に、裁判長が入廷すると、廷丁が『起立!』と号令をかける。すると宮本と秋笹は直立不動で起立する。なぜ、宮本は起立などしたのか。‐‐‐宮本との合同裁判は何回か続いたが、そのつど宮本が起立する光景は今でも忘れられない」。
その3  「宮本は第一審でしばらく私や秋笹と合同裁判を続けたあと、私に何の断りもなしに勝手に自分ひとりだけ分かれて、裁判を受けるようにした。いわゆる分離裁判である。そして、私と分離した宮本は、自慢の黙秘を続けたために裁判が一向にはかどらず、いたずらに時間を過ごした。宮本の場合、第一審の裁判官が拘置所にわざわざ出かけて、『早く裁判を進行させようではないか』と提案したにも関わらず、最後までウンともスンとも答えずに、黙秘を続けたのである。‐‐‐要するに彼は、裁判を引き伸ばして、いつまでも未決の状態にいたかったのだ」。
その4  「未決の間、彼だけ特別に二つの独房を開放してもらい、多くの差し入れを受けた。二つの独房のうちの一つは、本やいろいろな差し入れでいっぱいになっていた。刑務所のものではない特別の布団、特別の毛布、湯たんぽ、座布団、大島の着物の綿入れ、ラクダのシャツ、足袋。もちろん妻である作家の宮本百合子が差し入れたものであるが、よくもまあ、あの時代に非転向の共産党員がこんな拘置生活を送れたものである。ちなみにこの時代、二つの房の使用を許されたのは、宮本をおいては神山茂夫と中西功の二人しかいない」。
その5  「私の云っていることは、すべて真実である。小畑はうつ伏せになったまま、宮本の膝の強い圧迫と右腕の強いねじ上げにより、断末魔の叫び声を上げたまま息絶えた。小畑のあの叫び声は、40数年たった今でも、私の耳から離れない。たぶん宮本も、あの小畑の上にのせた膝から伝わる小畑のぬくもりやねじ上げの際に感じた抵抗感を、生涯忘れることはできないだろう。いや、忘れることが出来ないからこそ、殊更、仰向けにこだわり、私のことをウソツキ呼ばわりするのだろう」。

 さて、袴田のこの弁に偽りありや。

【袴田の「私は拷問されなかった証言」考】
 袴田は著書「党とともに歩んで」(新日本出版社)の中でもう一つ重要な証言をしている。これを確認する。
 「わたしの病気も相当ひどい状態だったし、そのまましばらく調べをやらなかったのです。 ですから、わたしは拷問されないままです」。

 これによると、袴田は拷問されなかったことを明らかにしている。宮顕は拷問の様子を述べているが、その内容たるや絵空事のようなもので実際はこの袴田証言の如く拷問されなかったのではなかろうかとの推理を生む。そういう意味で貴重な証言となっている。





(私論.私見)