「1935年(昭和10年)の12月も暮れ近くなってからわれわれはにわかに北海道へ送られることになった。志賀君だけは函館刑務所、われわれは−−市川君と国領君とわたしとは網走刑務所ということにきまった。護送自動車で上野駅までもっていかれ、上野から汽車にのせられて、網走についたのは、年の瀬もおしせまった12月の27日だった。北海道は、見渡すかぎり一面の雪にうずまっていた。
網走は、なにぶんにもあの寒さだから、監獄のようすも、よそにくらべるとだいぶかわっている。屋根はぐっとひくいし、外気にふれるところはすっかりめばりがしてある。
監獄の領地のなかに、水田が十三町歩、畑をあわせると四百五、六町歩もの耕地があって、米はいくらもとれないが、カボチャやジャガイモがいやというほどできる。もし寒くさえなければ、網走の監獄はわりと暮らしよいといえる。
ただ、寒かった。骨のずいにしみとおるあの言語に絶する寒さは、6年間の網走生活の記憶をいまもなおつめたく凍りつかせている。
真冬には、零下30度に下がることもめずらしくなかった。そんなときには、暖房のはいった監獄のなかでも零下8度とか9度とかをしめす。はいた息が壁にあたると、みるまに凍りついて、無数のこんぺい糖ができる。こんぺい糖は壁にだけできるとはかぎらない。うっかりすると、眉毛のさきや鼻のあたまにもできる。しょっちゅう鼻をもんでいないと火傷のようにどろどろになって腐ってしまう。
夜は、例のあかいつるつるてんの作業衣を寝巻に着かえて寝るのだが、着かえるまえには、必ず氷を割って、全身に冷水摩擦をしなければならない。これをおこたって零下何度の寒さでかちかちに冷えきった寝巻を、そのまま肌に着ようものなら、たちまち風邪を引いて肺炎をおこす。寝るときは、必ずふとんのなかに、頭ごとすっぽりもぐりこまねばならない。
監獄のなかでは、自殺のおそれがあるというので、ふとんにもぐって寝ることは禁ぜられているが、そんな規則などかまっていられない。もし、ふとんから顔をだして寝たりしようものなら、寝ているうちに、自分のはく息で、口のまわりがすっかり凍傷にやられてしまう。
とにかく、猛烈な寒さだった。わたしは、網走へいった翌々年、忘れもしないそれは2月11日紀元節の朝だったが、目が覚めて起きようとしても、どうしても起きられない。全身に神経痛がおこって、ぎりぎりと錐をもみこまれるようで、足も腰もたたない。部屋のなかのすぐそこにおいてある便器のところまでも行けないのだ。人に助けてもらってやっと用をすませ、かつがれて病室へいって、手足に注射をしてもらって、やっと用をすませ、それから一週間ほど動けないまま寝ていた。そのときいらい、神経痛は私の持病の一つになった。
それから一年半ほどたって、今度は右の手くびが動かなくなった。肩のつけねから指先まで、じーんとしびれたきりで、右手ぜんたいが自由にならない。
一年ほどこの状態がつづいて、今にいたるも完全には直らない。網走生活の記念となっている」。
「このながめは、とりわけ春が美しかった。ながい、さむい冬があけると、春はまず木の芽におとずれる。そこここの木々の枝に、まぶしいほどのあざやかさで、若芽がめぐむ。あのあざやかな緑は、本州ではけっして見られない。本州の画家にはとてもこの色は出せまいと、見るたびにわたしはおもったものだ」、「タンポポは背はひくいけれども、一面に黄いろい花をひらいて、じつにみごとだ。タンポポのむこうでは、マツバボタンが、もうせんをしきつめたように、原っぱをはっている。あかいのもあれば、黄いろのも紫いろのもある。そして、このような色とりどりの草のあいだに、監獄で飼っているウサギが、まっしろい背をまるくして、そこここに遊んでいる。まったくそれは、ちょっと監獄ばなれのした美しさだった」。
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