第7部の3 補足・徳球・志賀・市川らの獄中闘争

 (最新見直し2005.5.12日)

投稿 題名
浜本氏の徳球、志賀の獄中闘争紹介考
「網走の覚書」(昭和59年、宮本顕治)考
兵本氏の「日本共産党の戦後秘史 」考


【浜本氏の徳球、志賀の獄中闘争紹介考】

 2002.11月号産経新聞社発行の月刊「正論」は、共産主義研究家・兵本達吉氏の「日本共産党の戦後秘史徳田球一・宮本顕治 確執の原点 第1回 」を掲載している。れんだいこは、この論文の中の「徳球・志賀の獄中闘争」の項に興味を覚え、宮顕の獄中闘争との比較を際立たせる意味でここに引用することにする。

 宮顕の網走生活は春から秋の僅か6ヶ月間に過ぎなかったが、それにも関わらず巷間では獄中12年をあたかも網走で過ごしたかの様子で語り継がれているがその欺瞞はさておくとして、徳球の網走生活がどのようなものであったのかはっきりさせておこうと思う。

 兵本達吉氏は、「日本共産党の歴史とは、まさに投獄の歴史であった。徳田球一と志賀義雄は有名な『獄中十八年』のなかで、それぞれ自分の獄中体験を次のように書いている」として次のように紹介している。 

網走−−氷のコンペイ糖 徳田球一】(『徳田球一伝』・昭和27
 徳田球一は、昭和九年(一九三四)から、昭和十五年(一九四〇)までの6年間を網走刑務所に収容されていた。 

 「1935年(昭和10年)の12月も暮れ近くなってからわれわれはにわかに北海道へ送られることになった。志賀君だけは函館刑務所、われわれは−−市川君と国領君とわたしとは網走刑務所ということにきまった。護送自動車で上野駅までもっていかれ、上野から汽車にのせられて、網走についたのは、年の瀬もおしせまった12月の27日だった。北海道は、見渡すかぎり一面の雪にうずまっていた。

 網走は、なにぶんにもあの寒さだから、監獄のようすも、よそにくらべるとだいぶかわっている。屋根はぐっとひくいし、外気にふれるところはすっかりめばりがしてある。

 監獄の領地のなかに、水田が十三町歩、畑をあわせると四百五、六町歩もの耕地があって、米はいくらもとれないが、カボチャやジャガイモがいやというほどできる。もし寒くさえなければ、網走の監獄はわりと暮らしよいといえる。

 ただ、寒かった。骨のずいにしみとおるあの言語に絶する寒さは、6年間の網走生活の記憶をいまもなおつめたく凍りつかせている。

 真冬には、零下30度に下がることもめずらしくなかった。そんなときには、暖房のはいった監獄のなかでも零下8度とか9度とかをしめす。はいた息が壁にあたると、みるまに凍りついて、無数のこんぺい糖ができる。こんぺい糖は壁にだけできるとはかぎらない。うっかりすると、眉毛のさきや鼻のあたまにもできる。しょっちゅう鼻をもんでいないと火傷のようにどろどろになって腐ってしまう。

 夜は、例のあかいつるつるてんの作業衣を寝巻に着かえて寝るのだが、着かえるまえには、必ず氷を割って、全身に冷水摩擦をしなければならない。これをおこたって零下何度の寒さでかちかちに冷えきった寝巻を、そのまま肌に着ようものなら、たちまち風邪を引いて肺炎をおこす。寝るときは、必ずふとんのなかに、頭ごとすっぽりもぐりこまねばならない。

 監獄のなかでは、自殺のおそれがあるというので、ふとんにもぐって寝ることは禁ぜられているが、そんな規則などかまっていられない。もし、ふとんから顔をだして寝たりしようものなら、寝ているうちに、自分のはく息で、口のまわりがすっかり凍傷にやられてしまう。

 とにかく、猛烈な寒さだった。わたしは、網走へいった翌々年、忘れもしないそれは2月11日紀元節の朝だったが、目が覚めて起きようとしても、どうしても起きられない。全身に神経痛がおこって、ぎりぎりと錐をもみこまれるようで、足も腰もたたない。部屋のなかのすぐそこにおいてある便器のところまでも行けないのだ。人に助けてもらってやっと用をすませ、かつがれて病室へいって、手足に注射をしてもらって、やっと用をすませ、それから一週間ほど動けないまま寝ていた。そのときいらい、神経痛は私の持病の一つになった。

 それから一年半ほどたって、今度は右の手くびが動かなくなった。肩のつけねから指先まで、じーんとしびれたきりで、右手ぜんたいが自由にならない。

 一年ほどこの状態がつづいて、今にいたるも完全には直らない。網走生活の記念となっている」。

 
「このながめは、とりわけ春が美しかった。ながい、さむい冬があけると、春はまず木の芽におとずれる。そこここの木々の枝に、まぶしいほどのあざやかさで、若芽がめぐむ。あのあざやかな緑は、本州ではけっして見られない。本州の画家にはとてもこの色は出せまいと、見るたびにわたしはおもったものだ」、「タンポポは背はひくいけれども、一面に黄いろい花をひらいて、じつにみごとだ。タンポポのむこうでは、マツバボタンが、もうせんをしきつめたように、原っぱをはっている。あかいのもあれば、黄いろのも紫いろのもある。そして、このような色とりどりの草のあいだに、監獄で飼っているウサギが、まっしろい背をまるくして、そこここに遊んでいる。まったくそれは、ちょっと監獄ばなれのした美しさだった」。

 浜本氏は、徳球の獄中生活を以上のように紹介しながら、次のように徳球見解を披瀝している。
 「徳田球一は、日本共産党の戦後史をかざる最も輝かしい指導者である。徳田が生きていたころ、宮本顕治などは、せいぜいワンオブゼムだったが、宮本が党の指導権を握るや、その『輝かしい革命的業績』はすべて抹殺されて、日本共産党史には、なんと徳田の『誤り』だけが記述されている。スパイ・リンチ事件で、同志の小畑達夫をあまりにも残虐なやり方で殺したとしてひんしゅくをかい、党本部の片隅で小さくなっていた宮本が、一貫して党の主流を歩み、党内から他の追随を許さぬ圧倒的な支持を得ていた徳田が、こともあろうに、党内の「分派」にすぎなかった人物として描きだされている」。

 徳田球一の履歴は次の通り。

 1894(明治27)年、沖縄県の名護で生まれた。青年時代には、上京し、日大夜学に学んで苦学し、弁護士資格を取得。1922年(大正2年)28歳のとき、日本共産党の創立に参加した古参党員。上海・モスクワなどにもわたって、国際的にも活躍。1928年(昭和3年)三・一五事件で検挙され、以後獄中18年。1945年終戦と同時に出獄し、七面八臂の活躍をして、1953年(昭和28年)北京で客死。


氷のなかで 志賀義雄

 「1934年10月17日に判決があり、懲役十年の刑を課せられることになった。そして、その年の12月われわれはにわかに北海道へ送られることになった。徳田・市川・国領の諸君は網走へ、わたしは函館へ送られた。上野駅から、網笠、手錠姿で汽車に乗せられ、まっすぐに函館にむかった。北海道はちょうど吹雪のさなかだった。すべてをひっさらってゆくようなはげしい吹雪が函館の街じゅうを吹き荒れていた。

 函館というところは、網走などとくらべると夏と冬の温度差がすくなく、北海道ではしのぎやすいとされているが、函館刑務所の建設を設計した技師が、内地の頭で設計したものだから、鉄筋コンクリートづくりになっていて、北海道の気候にあわない。

 コンクリートには雪解けの水がしみこむが、それが夜中に凍結してコンクリートに大ひびをいれる。もともと世のどん底である監獄の暮らしの、住みよかろうはずもないが、なかでも、冬の寒さは一番からだにこたえて苦しかった。

 寒くなると役人はストーブをたくが、むろんわれわれには、真冬でも炭火一かけらも与えられない。コンクリートの壁は、わずかに外を吹く風をさえぎってくれるだけで、その壁のわれめからは、ようしゃなく水気がしみてくる。零下十五度にもなると、わるい監房では部屋中がばりばりと凍りついてしまう。電気のコードがつららになる。

 日が暮れて電灯がともると、そのかすかなぬくもりでつららがとけ、ぽたり、ぽたりと露がたれる。その露が、ふとんの上に子どものおしっこのようなしみをつくり、そのしみがだんだんひろがってゆく。このようにして、6、7年というものを冬は氷のなかで寝た。

 きものは、大寒にはいると増衣(ましぎ)というものをくれるが、それまでは監獄着のあわせとももひきが一枚きりだ。ふとんは一年を通して同じなのが一枚きりだ。

 わたしは函館へうつされたのが12月で、いくとすぐにリウマチス性の神経痛をおこした。ふしぶしがさされるようにいたんで、一分間と仰向けに寝ていられない。ところが、うかつに横になると、肩から風がはいってこごえつきそうになる。

『木曽殿と背中あわせの寒さかな』どころではない。こういう状態が三年間もつづいた。みのむしのように、一枚のふとんをしっかりからだにまきつけて、それでもまんじりともできずに、いたさとさむさをしのびなから夜明けを待ったこともしばしばだった。『神曲』で、地獄のどんぞこに氷地獄をおいたダンテは、人間の苦しみのもっともひどいものが寒さであることを、さすがによく知っていたものだと感心したことであった」。 


 浜本氏は、志賀の獄中生活を以上のように紹介しながら、次のように志賀見解を披瀝している。
 「志賀義雄も、徳田や野坂参三とならんで、戦後日本の代表的な革命家であった。志賀もご多聞にもれずのちに、ソ連に対する盲従分子・裏切り者として、党から除名された。その略歴を書いておこう。志賀義雄は、一九〇一年(明治三十四年)に福岡県門司市(現在の北九州市)で生まれた。一高・東大で、とりわけ東大の新人会でマルクス主義の洗礼をうけ、学生運動、労働運動で活躍、徳田らと「無産新聞」の編集にあたる。三・一五事件で検挙され、懲役十年の刑をうけ、以後終戦まで、徳田らと共に獄中生活をおくり、戦後国会議員として活躍した。日本共産党が中ソ論争のなかで、分裂したときに、宮本ら中国派によって、党から追放された」。

 以上を踏まえて、宮顕に対して次のように論じている。
 「戦前の共産党が、いつ政党として消滅したとみるかについては、定説はない。宮本顕治は、最後の中央委員たる『オレ』が、獄中で非転向で頑張っていたのだから、党は獄中で存続していたと主張している。しかし、このような見解は、宮本イコール党だと考えることのできる人だけが支持できる見解である」。

 概要「一九三三年(昭和八年)の大弾圧、そして、党内でのリンチ事件の頻発、小林多喜二、野呂栄太郎らの検挙と獄死、宮本・袴田らのスパイ査問事件と逮捕があって、戦前の活動家で、昭和八年に党は壊滅したと考える人が多い。(しかしながら、この対比されるべき『徳球・志賀対宮顕の獄中闘争の様子』の差にも関わらず、)終戦当時獄中にいた約三千名の党員のうち、本当に非転向を貫いたのは数人以下だといわれている。宮本顕治が、『非転向の同志は、何人くらいだと思う?』と質問されて、『オレとあと一人か二人だなあ』とこたえている。山辺健太郎と春日庄次郎の二人のことだといわれているという『不義なる伝説』が一人歩きしていくことになる。

 浜本氏は、次のようなエピソードを紹介している。戦前の獄中党員の弁護人を引き受けていた青柳盛雄が「わたしの知るかぎり、非転向を貫いたのは一人だけだ」というので、私がそれはだれですか?とたずねると、『宮本顕治だ』という。私が、『やはり、宮本顕治というひとは相当な人物ですね』というと、『いや宮本君も転向できなかっただけだ』という。青柳盛雄の説明では、治安維持法違反一本で投獄された者は転向を誓うと、半年ほどの観察期間を経て仮出獄がみとめられた。ところが、宮本顕治のように、治安維持法違反の他に、不法監禁致死罪のような破廉恥罪の罪名がついていると転向しようとしても、制度的に転向できないのである。殺人や強盗の罪を犯して監獄に入っている者が転向しましたといって出獄できないのと同じである。

 このエピソードは、宮顕の非転向説の裏舞台を暴いている点で意味があるが、れんだいこには、宮顕の非転向そのものが史実であったかどうかの疑惑へ至っていない面でまだ不十分に見える。

 それはともかくとして、宮顕はかようにイカガワシイ「唯一非転向完黙人士」の聖像を党内威圧のために徹底的に利用していくことになる。次のように述べている。
 「宮本顕治は、非転向を鼻にかけて威張りちらし、転向者(たとえば、中野重治)をいためつけいじめ抜きながら、非転向の勲章をぶらさげて共産党の階段をトップまでよじ登ったが、実際には転向しようとしても制度的に出来ない立場にあったにすぎない。宮本顕治の、生涯のキーワードは、『災い転じて福となる』である。彼は傷害致死罪という罪名のお陰で転向できなかった。そして、同志を査問にかけ、リンチで殺してしまったにすぎなかったのに、治安維持法違反という罪名を検事がつけてくれたお陰で共産党のトップにまで登りつめ、四十年の永きにわたって、共産党の指導者として独裁・君臨することができた」。

 以上から云えることは次のことではなかろうか。れんだいこはこう思う。我々はいつまで宮顕の虚像に騙され続けるべきであるか。過去の人のことを取り上げてももはや意味を為さないという論は「正論」たり得るだろうか。もしその論が成り立つとすれば、そういうイカガワシイ宮顕の敷いた総路線の影響から免れている場合のみではなかろうか。事実は如何に? この答えは銘々が述べれば良かろう。

 2002.11.19日れんだいこ拝
兵本達吉氏 昭和十三年(一九三八年)、奈良市生まれ。京都大学在学中、日本共産党入党。五十三年、党国会議員秘書に。ロッキードやリクルート事件、北朝鮮による日本人拉致事件の真相解明に努めたが、平成十年、党を除名された。最近はマルクス主義やソ連崩壊の研究に打ち込んでいる。


【「網走の覚書」(昭和59年、宮本顕治)考 】
 東京拘置所で11年間を送った宮顕は、1945(昭和20).6月、無期懲役の刑が確定し、網走送りとなった。宮顕は、1984(昭和59)年、「網走の覚書」を著し、12年目の監獄生活を記録している。それには次のような文面が記されている。

 巣鴨の東京拘置所から網走刑務所への移動時の様子を次のように伝えている。(格好文を手当てする予定)
 「一九四五年の六月十六日の午後、私は巣鴨の東京拘置所の正門から、網走刑務所から私の身柄をうけとりにきた三人の看守につれられて池袋の駅へ歩きはじめた」。

 網走刑務所へ着いた時知った網走刑務所のの様子を次のように伝えている。(格好文を手当てする予定)
 「小一時間ばかり歩くと(駅から)濠をめぐらした刑務所の塀が現われた。小橋を渡ると、大きな鉄の正門。刑務所独特の広い陰気な建物が山裾に沈んでいた。その夜、刑務所の暗い廊下に突きあたった一番左の端の監房に私は入れられたが、一応『近代的』な鉄筋コンクリートの巣鴨にくらべると、これは、いかにも明治年代にできたままの牢屋の感じだった。畳もなく、うすべが敷いてあるきりで、窓は高く、便器が片隅にあり、廊下に面した側は、太い角材の柱がすいたまま並んでいた。例によって、小さい薄い敷きぶとんと、一枚の綿の堅い掛けぶとんが片隅においてあった」。

 宮顕の網走刑務所での生活を次のように伝えている。(格好文を手当てする予定)
 「日が落ちるにしたがって、細長くまだらに重なった雲の色の変化は多彩を極めた。私は今でも、この北端の町の夕焼雲ほど印象に残る空のながめを見たことがない」。
 「午前中、オホーツク海に面したこの地方はよく『ガス』がたちこめて、独特の冷気がせまった。監獄の山やそのなかに開墾された畑も、ガスが出ると窓から見えなくなって、灰色のモヤが空気に充満してくる。そんな日、六月下旬というのに、寒さで軽いしもやけができたことがある」。

 ポツダム宣言受諾による敗戦を聞いた時の様子を次のように伝えている。(格好文を手当てする予定)
 「八月十五日の午後三時ごろ、窓の外を囚人をつれて通っている若い看守が、防空壕を指さして、『これも二十世紀の遺物か』と言っているのが、ふと、耳にはいった」。 宮顕は戦争終結かとハッとする。
 「やがて夕方、雑役がポツダム宣言受諾と通知してくれた。私はまだポツダム宣言のくわしい内容は知っていなかったが、無条件降伏であることはおぼろ気に分かっていた。二、三日たって、天皇の勅語のことが正式に所内マイクで独居房の私たちに知らされた」。

兵本氏の「日本共産党の戦後秘史 」考 れんだいこ 2002/11/19
 2002.11月号産経新聞社発行の月刊「正論」は、共産主義研究家・兵本達吉氏の「日本共産党の戦後秘史徳田球一・宮本顕治 確執の原点 第1回 」を掲載している。

 久しぶりの党史論であるが、れんだいこは、この論文の中の「徳球・志賀の獄中闘争」の項に興味を覚え、宮顕の獄中闘争との比較を際立たせる意味でここに引用することにする。miyamotoron/miyamotoron_7_22.htm

 宮顕の網走生活は、どうして終戦間際のかの時期に網走へ移送されたのか今もって不明であるが、凌ぎやすい春から秋の僅か6ヶ月間に過ぎなかった。が、それにも関わらず巷間では獄中12年をあたかも網走で過ごしたかの様子で語り継がれている。その欺瞞はさておくとして、徳球の網走生活がどのようなものであったのかはっきりさせておこうと思う。

 (以下、内容は月刊「正論」をお読みください)

 浜本氏は、徳球の獄中生活を以上のように紹介しながら、次のように徳球見解を披瀝している。「徳田球一は、日本共産党の戦後史をかざる最も輝かしい指導者である。徳田が生きていたころ、宮本顕治などは、せいぜいワンオブゼムだったが、宮本が党の指導権を握るや、その『輝かしい革命的業績』はすべて抹殺されて、日本共産党史には、なんと徳田の『誤り』だけが記述されている。スパイ・リンチ事件で、同志の小畑達夫をあまりにも残虐なやり方で殺したとしてひんしゅくをかい、党本部の片隅で小さくなっていた宮本が、一貫して党の主流を歩み、党内から他の追随を許さぬ圧倒的な支持を得ていた徳田が、こともあろうに、党内の「分派」にすぎなかった人物として描きだされている」。

 浜本氏は、志賀の獄中生活を以上のように紹介しながら、次のように志賀見解を披瀝している。「志賀義雄も、徳田や野坂参三とならんで、戦後日本の代表的な革命家であった。志賀もご多聞にもれずのちに、ソ連に対する盲従分子・裏切り者として、党から除名された」。

 れんだいこが付言すれば、ゾルゲ事件の被告者達の獄中生活は同時期であり、いずれも苛酷であった。してみれば、「12年の手紙」その他から推測し得る宮顕の特殊豪奢な「獄中生活の様子」こそ疑惑されねばならないのではなかろうか。

 しかし、なぜだかこの見解に辿りつかない。今ではごく普通に悟性を働かせば出来ることを頑なに拒む精神は何を意味しているのだろうか。いわゆる新左翼系も沈黙する不思議さがここにある。こうなると、理論以前の感性の世界でもあろう。

 浜本氏は以上を踏まえて、宮顕に対して次のように論じている。「戦前の共産党が、いつ政党として消滅したとみるかについては、定説はない。宮本顕治は、最後の中央委員たる『オレ』が、獄中で非転向で頑張っていたのだから、党は獄中で存続していたと主張している。しかし、このような見解は、宮本イコール党だと考えることのできる人だけが支持できる見解である」。

(この対比されるべき「徳球・志賀対宮顕の獄中闘争の様子」の差にも関わらず)「終戦当時獄中にいた約三千名の党員のうち、本当に非転向を貫いたのは数人以下だといわれている。宮本顕治が、『非転向の同志は、何人くらいだと思う?』と質問されて『オレとあと一人か二人だなあ』とこたえている。山辺健太郎と春日庄次郎の二人のことだといわれている」、という「不義なる伝説」が一人歩きしていくことになる。

 浜本氏は、次のようなエピソードを紹介している。戦前の獄中党員の弁護人を引き受けていた青柳盛雄が「わたしの知るかぎり、非転向を貫いたのは一人だけだ」というので、私がそれはだれですか?とたずねると、「宮本顕治だ」という。私が、「やはり、宮本顕治というひとは相当な人物ですね」というと、「いや宮本君も転向できなかっただけだ」という。青柳盛雄の説明では、治安維持法違反一本で投獄された者は転向を誓うと、半年ほどの観察期間を経て仮出獄がみとめられた。ところが、宮本顕治のように、治安維持法違反の他に、不法監禁致死罪のような破廉恥罪の罪名がついていると転向しようとしても、制度的に転向できないのである。殺人や強盗の罪を犯して監獄に入っている者が転向しましたといって出獄できないのと同じである。

 このエピソードは、宮顕の非転向説の裏舞台を暴いている点で意味があるが、れんだいこには、宮顕の非転向そのものが史実であったかどうかの疑惑へ至っていない面でまだ不十分に見える。

 それはともかくとして、宮顕はかようにイカガワシイ「唯一非転向完黙人士」の聖像を党内威圧のために徹底的に利用していくことになる。次のように述べられている。「宮本顕治は、非転向を鼻にかけて威張りちらし、転向者(たとえば、中野重治)をいためつけいじめ抜きながら、非転向の勲章をぶらさげて共産党の階段をトップまでよじ登ったが、実際には転向しようとしても制度的に出来ない立場にあったにすぎない。宮本顕治の、生涯のキーワードは、『災い転じて福となる』である。彼は傷害致死罪という罪名のお陰で転向できなかった。そして、同志を査問にかけ、リンチで殺してしまったにすぎなかったのに、治安維持法違反という罪名を検事がつけてくれたお陰で共産党のトップにまで登りつめ、四十年の永きにわたって、共産党の指導者として独裁・君臨することができた」。

 以上から云えることは次のことではなかろうか。れんだいこはこう思う。我々はいつまで宮顕の虚像に騙され続けるべきであるか。過去の人のことを取り上げてももはや意味を為さないという論は「正論」たり得るだろうか。もしその論が成り立つとすれば、そういうイカガワシイ宮顕の敷いた総路線の影響から免れている場合のみではなかろうか。事実は如何に? この答えは銘々が述べれば良かろう。

 2002.11.19日れんだいこ拝




(私論.私見)