第6部の3 リンチ事件5、司法鑑定の推移と論争

 (最新見直し2011.01.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「小畑の遺体の発見と司法解剖鑑定」を確認する。鑑定書は「村上・宮永鑑定書」、「古畑種基鑑定書」、「中田鑑定書」の三鑑定書が存在する。
 
 2011.01.07日再編集 れんだいこ拝


投稿 題名
小畑の遺体の発見と司法解剖鑑定(「村上・宮永鑑定書」)結果について
再司法解剖鑑定(「古畑鑑定書」)結果について
両鑑定書に対する袴田と宮本の対応ぶりについて
補足 「査問中、食事を供していたのか」について
補足 中田鑑定書について
補足 両鑑定書に対するその他識者の見解について
補足 日共の本音の弱腰露見される

【小畑の遺体の発見と司法解剖鑑定(「村上・宮永鑑定書」)結果について】

 第9幕目のワンショット。こうして小畑の遺体が発掘されることになったが、その時の状況について次のように明らかにされている。小林五郎が書いた「特高警察秘録」(昭和27年7月に生活新社から出版)に次のように書かれているということである。

 「玄関の次の部屋の畳を上げて見ると、新しい釘が打ち付けてある。素人が慌てて打ったらしく、曲げて打たれている。ねだを上げたが土を掘るものがない。土は柔らかい。勝手元から木炭用の十能を見つけて少し掘ってみるとシャベルが出てきた。シャベルで三尺程掘ると、むき出しの人間の膝が先ず現れた」。

 当時の新聞報道第1報(1.16日)では、小畑の死因は「絞殺死」(窒息死)と断定されていたとのことである。現場で視認した警察医務官がそのように判断したということであったと思われる。ところが、翌1.17日新聞では、「撲殺」とある。不自然であるが、木俣鈴子が薪割りで小畑の頭部を殴りつけ、それが致命傷になったと書かれている。どういう事情で木俣が実行犯にされたのか定かでないが、ここも胡散臭いところである。翌1.18日、新聞は「脳震盪」と更に死因を変更している。この経過は、「絞殺死」(窒息死)ではないとする方向に誘導されていることが分かる。

 この時の小畑の遺体の検診書が残されている。「村上次男及び宮永学而協 同作成に係る小畑達夫に対する死体解剖検査記録並びに鑑定書」(以下、「村上・宮永鑑定書」と略す、昭和9年1.30日検診)がそれである。他に8年後の昭和17年6.3日に古畑種基作成の鑑定書(以下、「古畑鑑定書」と略す)が出されている。両鑑定書の医学的解説をする力は私にはないので、素人の私が判る範囲で大筋のところを整理してみる。

 ところで、「古畑鑑定書」の出された時期が秋笹第二審判決(昭和17年7.18日)直前であることは判るが、その他の被告人判決との絡みとか宮顕の公判の接近との絡みが今一つ解明できない。私の手元に資料がないということであるが、どなたかこのあたりの事情をお伝えしていただければ助かります。それと宮顕お気に入りの鑑定書も出されていると聞いていますので、内容付きで合わせてお伝えしていただければ助かります。(これは「中田鑑定書」であるが末尾に補足した)

 一応ここで私なりに「宮永、村上鑑定書」に目を通して見ることにする。判る範囲で両鑑定書の鑑定評価とそれぞれの特徴を解析することにする。ここをしっかり確認しておかないと、宮顕の弁論はいつも巧妙なので、概要「『宮永、村上鑑定書』は、小畑の死因についても『警察べったり』であり、『でたらめな 鑑定』であるとか、『私たちの反対尋問になんらまともな答えができなかった』 とか云われているものである」という語りを真に受けてしまうことになる。


 
この宮顕論法を踏襲して、宮顕のお茶坊主小林栄三が、「犬は吠えても、歴史は進む」文中で、宮永鑑定人に対して「この宮永は、かって15歳の少年の死体を警察の云うままに50歳の成人男子として鑑定したほど警察べったりの人物であった」と意図的に誹謗しており、その真意はそういう鑑定人によって作成された「村上・宮永鑑定書」の信頼性を毀損せしめようとしていることにあるものと察することができる。

 ところが、小林栄三のこの言説を追及した加周義也氏は、著書「リンチ事件の研究」で、これは1928年8.19日に東京千住で起きた「醤油屋一家殺し事件」を指しており、宮永鑑定人の鑑定に対する誹謗中傷であることを解明している。同書は、宮永鑑定人は「警察べったり」とか「でたらめな鑑定」をした訳ではなかったことを明らかにしている。ということは、宮顕やその意向を組む小林栄三らの件の発言は、極めて悪質得手勝手な人格中傷的名誉毀損的な問題発言であることが知られることになる。共産党中央の人士がかような人格レベルの者に牛耳られているということを確認する必要があるであろう。

 宮顕話法にかかっては、批判されている当のものを熟知していなかったらすっかりその気にさせられてしまうという、狡知術的な罠が敷かれているからして、先入観抜きに踏みいらねばならない。「日本共産党の研究三.285P」を参照する。
やはり聞くと見るとでは大違いであった。鑑定人の宮永学而と村上次男は、東京地方裁判所医務嘱託医師であったようで、同鑑定書は、昭和9年1.30日に非常に精密に小畑の遺体について書き記している。冒頭次のように記されている。

 「今日午前10時30分より、東京帝国大学医学部法医学教室解剖場に於いて、同予審判事裁判所書記渡部正志、検事戸沢重雄立ち会いの上、村上次男執刀、宮永学而補助これを解剖するに、その所見左の如し」。

 補足すれば、執刀者村上博士は、この時の所見に対し、次のように述べている。村上氏は後年東北大学医学部名誉教授となり、東北地方でのんびり余生を過ごしていた。その頃の述懐である。

 「私は永年にわたる大学生活の中で、警察や外部からの圧力によって、法医学者としての節を曲げたことなど、ただの一度もありません。この件についても、もちろん同じことです。云われるような特高の圧力など、一切ありませんでした」。

 私はこうした医学的且つ専門的な用語を理解する力がないので、「暴行」と「死因」に関する目についた理解し易いところを書き出してみることにする。同鑑定書はまず、小畑の遺体が死後20日以上(実際には24日)を経過しており、遺体に土砂が付着し汚染されており、体表面の一部にはかびが発生しており、皮膚の表皮のみならずその下部の真皮まで露出する等損傷が有り、そういう状態での鑑定であることを冒頭で明記している。つまり、「本屍の解剖の当時は死後変化がかなり顕著に現れていた」(古畑鑑定書)ということであり、暴行的損傷か腐敗的損傷かまでは判りにくい部分もあったということであろう。

 次に、体の頭部より下肢に至る部位ごとの解剖時の状態とその損傷、出血ないし血流の様子別に詳細に鑑定をしている。次に、体の内景鑑定に移り、頭蓋骨及び脳から各内臓器の解剖時の状態とその損傷、出血ないし血流の様子別に詳細に鑑定をしている(恐らく、当の鑑定が日本共産党の中枢幹部の奇異な変死事件であることを踏まえて、後日に問題を生じぬよう余程留意しつつ解剖し鑑定したのではないかと思われるほどの精密なものとなっている。

 そこまで留意しつつ鑑定しても「でたらめな鑑定」 呼ばわりされてしまったが。私のこの言い方が不審であれば、実際に目を通されるよう希望する)。以上を踏まえて、説明の項目にて暴力と死因に関係した内容を抽出し、最後に鑑定の項目で死因を特定するという、おおよそ模範的とも言える学問的手法で鑑定している。

 「宮永、村上鑑定書」の真の意義は、小畑の遺体に実際に接したのはこの両名の鑑定人のみであることによる小畑の遺体の具体的な所見部分にこそある。繰り返すが、余程優秀な医師でもあったのであろうが、後日の争いの元にならぬよう精密を極めた検査をしている。その内容を記したいがとてもではない専門的な分析であるということと、かなり長大なものであることにより紙数が足りなくなる。今日においても、この解剖検査記録のほうは、別に「特高の筋書きに従って」、「ない傷をあるとしたわけではなく」、袴田も「解剖の事実にはあまりウソを書いていない」、「解剖の調書にはどこの部分がどうなっているかということは明白に書いてある」と証言している当のものである。

 従って、詳細は「日本共産党の研究三.285P」に各自で目を通していただくとして、私なりに意外に論議されていないにも関わらず重要と思われる事項を抽出してみる。

 第一点、食物与えず査問
 概要「胃は、小にしてその襞厚く、内に食物残滓を含有せず」とある。
(私論.私見)

 つまり、小畑は腹ぺこ絶食状態に置かれていたことを指摘していることになる。「食事を供せず」の被告人陳述が具体的に裏付けられているということである。

 第二点、指先リンチ
 概要「左右の指爪及び跡爪は著しく深く煎断せられて、爪床面の前側を露出し、左右の拇指(おや指)端にありては淡赤色にして血液を滲潤す。かく状態は普通の場合多く見ざるところなり」とある他、人差し指、中指等にもほぼ同様の出血・変色・深く煎断した爪跡について記載されている。
(私論.私見)
 つまり、「指先リンチ」の可能性があると指摘しているということになる。事件関係者の誰からの陳述にも「指先リンチ」の指摘がなかったことを考えると、このたびの「査問事件」にはまだまだ隠されたリンチの様子があるのではないのかということになる。

 思うに、実際のリンチはもっと凄惨なものではなかったかとさえ思わせられる。仮に「指先リンチ」について陳述が為されていたとしたら、暴行があったいやなかったの応酬は無意味なことになる。こういう大事な陳述が予審判事によって引き出されていない作為をこそ見て取らねばならいように思う。他の部分にも同様な記述が見られるが、例え出血とか異常の有無の記載を転記してみても水掛け論にされてしまうであろうからこれら二点に注意を喚起しておくことにする。

 「宮永、村上鑑定書」はこうしたおおよそ詳細な鑑定に基づき、次のように鑑定した。

 概要「これら出血は、本死の生前の顔面前ひたい部及び頭部に鈍体の強く作用したる証拠とす」。
 「脳内損傷のあれこれは暴力の結果とす」。
 「心臓並びに大血管内の血液は流動性にして急死の像を呈す」。
 「かく暴力は、『脳しんとう』を惹起し、『急性死』に致すに足るものとす」。
 「首の鑑定については、外表所見のみにては判断し難し」。
 「胸部において約あずき大の淡紫色、腹部において約だいず大の淡赤色、変色部あり」。
 「その他背面部、指、下肢等にいずれも出血を伴なうを認める。すなわち、これらの表皮剥離並びに皮下出血もまた本屍の生前の鈍体によりて生じたるものとす」。
 「本屍の生前に布の類、紐の類をもって緊縛したるものと認める」。

 この詳細な「宮永、村上鑑定書」を受けて「古畑鑑定書」は次のように纏めている。

 「被害者小畑達夫の死体顔面前ひたい部、頭部、胸 部、上肢、下肢及びその他に大小多数の皮膚変色部、表皮剥脱、皮下出血、 筋肉間出血、骨膜下の出血等があり、又頭蓋腔内において約鶏卵2倍大、ク ルミ大薄層の硬脳膜下出血、約クルミ大、エン豆大各一個の軟脳膜下出血、 左右同頭蓋カに約クルミ大の部分にだいず大数個、左右○○骨岩様部にあずき大数個の骨質間出血があったよしである。又心臓並びに大血管内の血液は流動性であったと云う」。

 後の絡みでここで補足しておけば、以上のような鑑定所見に対して、宮顕は、「小畑の身体にあったという軽微な損傷というものが事実とすれば、それは大部分彼が逃亡をこころみて頭その他で壁に穴をあけようと努力した自傷行為とみなされる」とコメントしている。この「宮永、村上鑑定書」から「相当な暴行跡」を読みとるのか「軽微な損傷」と読みとるのか、 同じ文面を見て人は判断が違うということになるようである。

 こうなると法医学医師と国語の読解力の講師連合で説明して貰わねばなるまい。それと、仮に宮顕発言に従って小畑が自傷行為をしたとしても、小畑は手縄・足縄・猿ぐつわのままどうやって逃亡しうるのだろう、小畑はそれさえ判らずめくら滅法押入内で暴れたのだろうか。小畑殺害に関与したのみならず、こういう物言いで死人を更に愚弄しようとする宮顕って一体どういう御仁なんだろう。そういう詐術で我々を煙に巻こうとする物言い根性が不埒である、と私は思う。


 「宮永、村上鑑定書」は以上のように所見した上で、「本屍の死因は、頭部に加わりたる暴力による『脳しんとう』と認める」のが相当とした。これが最初の死因鑑定となった。こうして「宮永、村上鑑定書」は小畑の死因を「脳しんとう死」とする判定を法廷に提出するところとなった。

 この「脳しんとう死」をめぐって、袴田の第一審公判法廷で、鑑定人宮永と被告人らが鑑定結果をめぐって争ったようで、袴田は次のように陳述している。

 「デタラメな鑑定をした最初の鑑定人が法廷に出たとき、私が彼にたいして、そのデタラメさを指摘し、追及したときに、彼は最初からひじょうに興奮して共産党員なんかと口をきくものかといわんばかりの態度でした。かんで吐き出すように、一言二言いっただけで、あとはわたしのいうことに返事もしない態度でした」。

 「宮永が私たちの反対尋問になんらまともな答えができなかった」と袴田は記述している。この時の主張の真意は、概要「解剖の事実にはあまりウソを書いていないが、結論部分の『脳しんとう』鑑定が『木に竹をついだようなデタラメな結論』をくだしており、『思想検事や特高警察のいいなりになって書いたもの』であり、殺人罪として起訴しようとする不当なものである」と指摘したかったようである。


【再司法解剖鑑定(「古畑鑑定書」)結果について】

 次のワンショット。その後のつなぎの経過は良く判らないが、こうして、袴田ら被告人は、最初の鑑定結果から8年後に、新鑑定人として東京帝国大学医学部教授であり法医学教室主任であった古畑氏を登場せしめることに成功したようである。この古畑氏の登場は被告人側の法廷闘争の結果のそれであるというほど単純ではないと思うが、推測部分になるので差し控えることにする。

 その政治的意味は、殺人罪で起訴されることを結果する「宮永、村上鑑定書」 を到底容認できないという立場からの被告人による新たな鑑定要求が裁判長に受け入れられ、その結果新鑑定人として古畑氏に白羽の矢が当たり、これを裁判長が認めたということにある。(この新鑑定人の登場につき云えることは、「査問事件」に関して暴力はなかった説の者が得手として主張する「暗黒」法廷にしてはなかなか物わかりが良いではないか、と思う。一体どこまでが「暗黒」で司法の「健全さ」になるのだろう。暴力なかった派の人たちは、この辺りを解析して見せて欲しい)。

 話しが横滑りするが、「暗黒」に関しては私は次のように思う。戦前の法制度が全て「暗黒」であったとか、江戸時代が厳しい統制社会一色であったとかみなすのは少々漫画過ぎるのではないのか。いずれの当時にあっても「時代の器」の中で人は懸命賢明に仕事をしているのであって、やはりある種その人次第の裁量の部分もあって、「お上」といえども現場においては当時も今も仕事は仕事としてきっちりこなす人もいれば逆の人もおり、情実に弱い人もいれば当局におもねる人もいるというのが実際であって、それらの一切の最終結論が、この場合は予審判事・鑑定人であるが、実効部分について当局奥の院からの最高指示が出された場合、これには従わねばならないという政治的組織的解決傾向にあるというのが歴史の実際ではないかと思う。


 
言いたいことは、宮顕流の片や絶対善対片や絶対悪との対立という「二元的な暗黒」史観は、現場の実際を知らない者の単に御都合主義史観であって、マルクス主義的歴史観はそうは平板なものではないと思う。ところが、宮顕は自身の無罪を引き出すために公式的な暗黒史観を編み出すことを余儀なくされた。この観点が、宮顕の党中央簒奪によってますます強められ、はるか今日まで呪縛されることになった。共産党系のインテリ族による歴史観が薄っぺらな公式的批判主義であることが明白になりつつあるが、その端源がここから発しているとみなすことは牽強付会だろうか、必ずしもそうではないと私は思っている。「リンチ事件」の汚染現象として見直される必要があるのではなかろうか。

 さて、古畑鑑定人は、鑑定に当たってまずは法廷に登場したようでもある。 その際袴田から「共産党、共産党員にたいする先入観によらないで、あなたはあくまで学者として科学的にこれを検討して結論を出してもらいたい」との依頼を受け、それに対し古畑氏は、次のように返答している。

 概要「私の方に半ば向いて、たいへんに紳士らしい態度で聞き、あなたのいわれることはよくわかりました。わたしは先入観やそういうものでこういう問題を検討しようとするものではありません」。

 袴田はこの時の印象を次のように記している。

 概要「わたしはこの古畑氏と前の宮永鑑定人とくらべて、同じ学者でありながら、こうも態度がちがうものかと思いました。古畑氏のわたしの裁判の鑑定人としての態度は一審の鑑定人とくらべてひじょうに違った」。

 次のワンショット。こうして、古畑種基医師による再鑑定がおこなわれることになった。既に8年の月日が経過してはいるものの、「宮永、村上鑑定書」には詳細な解剖所見が記載されていたので再鑑定されるに充分なものであったということになる。袴田にも「少しもさしつかえなかった」と認知されている。古畑医師は、昭和17年4.30日鑑定に着手し、同年6.3日に終了し、約1ヶ月所要していわゆる「古畑鑑定書」を作成し法廷に提出することとなった。

 「古畑鑑定書」は冒頭で次のように述べている。

 概要「先の鑑定書が、本件被害者小畑達夫の死亡当時の状況に基づく点が弱かったので、これに留意しつつ許可せられたる鑑定資料を閲読して本件の概要を知るたる上、鑑定事項につきそれぞれ熟考按の上、本鑑定書を作成しました」。

 なるほど、「宮永、村上鑑定書」は、遺体発見時直後に解剖所見を出した関係で、「査問事件」の全貌が判らぬままに、遺体に痕跡している暴行的様子をそのまま直接的に死因に結びつけたという鑑定上の欠陥があったようにも思われる。しかし、このことは宮永、村上両医師が不誠実ないい加減な人物であったとは思えない。「査問事件」の経過も判らないままに解剖所見を出せと言われて無理矢理鑑定すれば、「脳しんとう死」を結論せざるをえないほどのおびただしい暴行の後があったというのが真相ではなかったかと、私は受け止めている。

 同時に、この時点では、当局奥の院の御都合が「日本共産党内党中央の凄惨なリンチ事件」を世間に喧伝することに重点があり、こうした鑑定結果は好ましいものでもあったということでもあろう。この点につき「古畑鑑定書」作成時には、ほぼ「査問事件」の全貌と小畑死亡時の調書が出されていた時点であったから、古畑鑑定人は遺体の痕跡に認められる暴行跡をそのまま小畑の死因に結びつける間違いは起こさなくて済んだという事情があったように思われる。同時に既に党中央壊滅後であったから「日本共産党内党中央の凄惨なリンチ事件」の喧伝に力を入れる必要もなくなった、という背景もあったものと思われる。

 こうして「古畑鑑定書」は、まず「宮永鑑定書」の損傷鑑定部分に対して、「上述の変化の大部分は同被害者の生前暴行を受けた結果生じたものと推測せられます」とした。続いて「ここに於いて小畑達夫の死因として、『脳しんとう 死』と『絞頸死』と『ショック死』が問題となって来ます」とした上で、「脳しんとう死」の可能性に対しては、「本件においては、頭部にかかる強大な鈍力が作用したと言う証拠がありませんから、本件被害者の死因としては『脳しんとう』 は適当しません」とした。「絞頸死」の可能性に対しては、「前記索溝を絞溝と確定するだけの確かな証拠が無く、且つ本屍には『絞殺死』に見られる病状が顕著に現れていません。よって本屍の死因を『絞頸死』と見るにはその根拠がかなり薄弱であります」とした。

 以上から考えられることとして次のように処断している。

 「本件に於いては、被害者は肉体的にいろいろの外力の作用を蒙って居たこと、空腹、渇きの状態にあった事、精神的苦悶(脅迫、暴行によって)を受けていたと思われる事、且つ死亡の直前に於いては、壮年の男子4名と必死の格闘を為し、その間絶えず大声を出していたと言う事により、肉体的にも精神的にも疲労困憊状態にあったと認められる事等は、『虚脱死』を起こすことを容易ならしめる様な状態にあったものと推測せられます。私は、本件の被害者小畑達夫の死は私たちの言うところの『虚脱死』であると考えます。但し、これは従来『外傷性ショック死』と称せられていたものと同義のものであります」。

 こうして 「古畑鑑定書」は、「外傷性ショック死」判定を行った。古畑鑑定によって「宮永、村上鑑定書」の「脳しんとう死」鑑定がくつがえされたことになった。この鑑定結果の違いは、はじめの「村上・宮永鑑 定書」の「脳しんとう死」判定は殺人罪につながり、「古畑鑑定書」の「外傷性ショック死(虚脱死)」の判定は傷害致死罪につながるという意味で大きな訴因事由の変更につながることを意味していた。

 この鑑定結果に対して、袴田は次のように述べている。

 「同僚ともいえる人の鑑定を否定する結論を出すわけですから、やはり勇気がいったと思います。しかも、戦争がひどくなり、日本が戦時体制にはいり、暗黒な反動の真最中におこなわれている日本共産党の幹部にたいする裁判で、その裁判の鑑定人に指定され、それを引き受けて、前の鑑定人とまったくちがう、学問的に良心的な鑑定書を書くということは、わたしにたいして公判廷であらわした態度ともあわせて考えてみて、ほんとうに学者として、良心的な人だと思います」。

 ここは非常に大事なセンテンスなので別段落で確認する。古畑鑑定は、概要「暴行、空腹、渇き、精神的苦悶、格闘」等の具体的事由を挙げて「外傷性ショック死」と鑑定しているということである。にも拘わらず、ここの部分が袴田、宮顕により、あたかも古畑鑑定が漠然とした「ショック死」を鑑定結果させていたかのような詐術が行われることになるので、あえて段落替えで明示した。次稿で、この新鑑定結果に対して、袴田と宮顕がどういう態度を取ったかを見ていくことにする。


両鑑定書に対する袴田と宮顕の対応ぶりについて

 この新鑑定結果に対して、袴田がどういう態度を取ったかを最初に見ることにする。簡略にまとめるとかく述べているようである。曰く、概要「 古畑鑑定書は全部がそうだというわけではないが、基本的には私の結論と同じものでした」と言う。つまり、この前半部分では「古畑鑑定書」に対して「基本的には私の結論と同じ」とこれを評価していることが判る。これが本来の袴田の了解の仕方であったものと思われる。

 ところが、この後から論調が急にカーブ し始める。曰く、概要「なぐって『脳しんとう』を起こさせたとすれば、それだけの傷痕が残っていなければならない。ところが小畑達夫の頭をしさいに解剖した調書を見ても、そういうものはない。だからこれは『脳しんとう』を起こして死んだのではない」と言う。かなり歪曲話法ではあるががまんして聞くことにする。 曰く、「心臓その他の臓器を調べてみると、心臓は肥大し、膵臓その他も厚い脂肪の層でとりかこまれているおり、心臓の内部にまで脂肪がはいりこんでいて、その結果、心臓肥大ということになっている。心臓や内臓に脂肪がはいりこんでいる、こういう状態は、酒を大量に飲む人のなかに見られる。また、病的に心臓肥大した結果としてそういうこともある。そういうことが再鑑定には書いてある。たしかにスパイの小畑というのは、大の酒くらいで太っていた。こういう心臓をもった人は、突然人からどなられたり、なにかで驚いたりすると、『ショ ック死』することもある。だから脂肪の原因は『ショック死』である、とそう書いてあるんです」とある。

 「脂肪の原因は『ショック死』である、とそう書いてあるんです」というこの表現は文章になっていない。これから訳の分からないことを言い繕うぞという兆しであろう。次のように続けている。

 「ですから、私たちが殺人とか傷害を加えて死亡にいたらしめたということは、まったく事実無根であることが証明されたわけです。こうして控訴の公判では殺人という罪名は消えた。殺人未遂というのも消えました。しかし、また傷害致死という不当な罪名をきせられ、一審より二年けずられたが、懲役13年という判決を受けました」。

 あららっ、「事実無根」で「傷害致死という不当な罪名」をきせられとでも受け取れるような調法な言い方で煙に巻かれてしまった。この論旨展開はどこかで聞いたことがある。ソウカ、宮顕さんの検閲を受けていたということだな。一目瞭然だよ。ただし、宮顕は同じセンテンスで「梅毒」を持ち出したが、袴田はそれは余りにもと思ったのだろう、「酒飲み特有の脂肪肥満」を要因とする「内因性ショック死」を暗示させるという違いを見せてはいる。

 さて、それではこれらの両鑑定書に対して宮顕はどう公判陳述をしたのかを見ていくことにする。その前に、この陳述には内容以前の不思議なことがあることを最初に指摘しておく。つまり、宮顕の陳述を聞けば、既述したところではあるが、自らの予審尋問調書一切を取らせなかったのに関わらず、逸見・袴田・秋笹ら皆なの調書一切に目を通しており、そればかりか袴田調書批判の中で「査問状況に関しては不正確な陳述がある。上告審までの間にかなり訂正のあとはみえるが、なお根本的に是正されていない」とあるように、逐一調書内容の訂正の動きまで把握していたようである。更にはこの稿で関係する両鑑定書のみならず関連した医学書にまで精通していることが自ずと知れることになる。一般に、被告人にもそういう機会が与えられることを私は肯定するが、 当時の裁判制度下にあっては珍奇な現象なのではなかったか、と思う。

 この点につき、袴田が、医学書につき宮本百合子の差し入れが重宝であったと何気なく書いている箇所に出くわしたので、そういうことであったのであろう。しかし、そういう該当著書の存在について宮顕は誰から知恵を得たのだろう。それと、氏名も告げぬ非転向党員に対して、当時の裁判所がそれほど寛容であったということ自体虚構なしにはあり得ないように思われる。宮顕を精査していけばいくほど、「暗黒警察・司法」であった筈の機関が宮顕に限りフリーハンドであった様が知られてくる。私が宮顕を胡散臭いと断定する所以のところである。

 小畑中央委員の変死事件に対して現場を再現することは裁判所の当然の責務である。これを廻って各被告の陳述が微妙に違っており、唯一人「一切の暴力は無く平穏に進めていたところ特異体質でショック死した」と他の被告とのそれと際立って異なる弁明をしている宮顕に限って、他の被告人とのやり取りにおいて、自分の手の内を明かさず相手の手の内を読みとれるとしたら、いかほどか優位に弁論することができよう。

 他の被告も同じ様な機会に恵まれていたのかという疑問と、一堂に会させて訊問すれば余程真実を明らかにしえたであろうに、なぜそうした統一公判式の法廷にならなかったのだろう(真実解明のためかどうか新鑑定人まで用意した裁判長がなぜそのように指揮しなかったんだろう、偶然かどうかこの時宮顕は持病により重態にあったとされており従って統一公判が為されていない、百合子の面会もこの局面に限って拒絶されているが不自然極まりない)、と疑惑を最初に述べておきたい。

 以下、宮顕が喋りすぎて思わずボロを出している様をうかがうことにする。もっとも蓋然性の高い「外傷性ショック死」について縷々述べれば良いと思うが、ひとしきり「脳しんとう死」の否定講釈を聞かされ、最後の方でやっと僅かに「外傷性ショック死」の否定論拠を聞かされるという姑息な論旨展開になっている。


 宮顕の「第五回公判調書」陳述を解析する。まず「宮永、村上鑑定書」に対 して次のように言う。曰く、概要「特に宮永鑑定人は、『脳しんとう』による死亡と断定し、斧かなんかで殴ったのであると斧を推定し、『脳しんとう』以外の死因については考える必要がない」と述べたと断定的に言いなす。実際に宮永鑑定人が法廷でそのようにいっているのかどうか私の調べはできていない。「『脳しんと う』以外の死因については考える必要がない」とまで本当に言い切っているのであろうか。「宮永、村上鑑定書」中にはそのような記述はない。お得意の詐術ではないか、と私は思っている。

 こうして、宮顕は、この「脳しんとう死」所見に対して、当時の情況を自己流に説明しながら、曰く、「宮永鑑定人は、その当時の状況を全然しらないのでだいたい想像に基づいて鑑定したものであると考える」、「全体的に宮永、村上両鑑定人の鑑定は頭から『脳しんとう』の予断をもって鑑定し、小畑の体質につき詳細な検討をしていない」、「宮永鑑定人の断定は疎漏である」と反論する。

 このような結論を出す経過の文章は、どちらが医師かわからぬ程の専門用語を駆使しながら知識を弄ぶ。別にそれを悪いというのではないが、一体独房にあって文芸畑の宮顕がどうしてこのような博識な知識をえたんだろうか、とその方にこそ関心が向いてしまう。百合子による差し入れ医学書によって知識を得たにせよ、背後の知恵者の存在を窺うのは穿ちすぎであろうか。実際の言い様を紹介したいが煩雑になるので略す。ご不審があれば各自でお調べいただきたいと思う。


 次に古畑鑑定人の鑑定について、宮顕は次のように云う。曰く、概要「『古畑鑑定書』は『宮永鑑定書』にくらべると是正され真実にちかく、結論として『ショック死』を断定している」。新鑑定が「脳しんとう死」その他殺人罪が問われることになりかねない死因を退けて、傷害致死罪に繋がる「ショック死」を考慮したことが偉いと言う。既述したところであるが、古畑鑑定書は文中で確かに 「ショック死」の学問的吟味をしている。その後でこの度の小畑の死因としては 「外傷性ショック死」を鑑定しているというのが実際である。それをわざわざ単に「ショック死」との記述部分だけを取り出してお得意の歪曲すり替え話法へと誘おうとする。こうした下地を準備した後に、曰く、「政治犯人に何等の好意を持たない鑑定医さえ、『脳しんとう』を起こすような損傷も打撃もないと証明して 『ショック死』と推定した」のだと言い切る。

 事実はこうだ。古畑鑑定人は、「良心」に従い殺人罪につながる「脳しんとう死」を否定した。同時に同じ「良心」に従い傷害致死罪につながる「外傷性ショック死」を鑑定した。ここまでが被告人達の意向に歩み寄れる氏の「学者的良心」の精一杯のところであった、と私は推定する。


 結局のところ、「古畑鑑定書」もこれ以上の意味役割を果たさなかったから、 こうなってしまっては宮顕は自力で冤罪説の構築に向かわなければならないことになった。曰く、「一応前者の鑑定の曖昧な点が是正されているが、後者の鑑定についても考察すべき問題がある」として、傷害致死罪をもたらすような鑑定もまだ本人の意に添わないという。そうして次のように所見している。

 「その鑑定書を読んでみると小畑は 『ショック死』を起こしやすい体質であるということがよくわかる。すなわち、実質性臓器に脂肪沈着あり胸腺残存しおり、『ショック死』をおこしやすい体質であることが同鑑定書の16,17,19,24の記載で明らかである。また小畑の心臓に粟粒大の肥厚斑数個あるとの記載があるが、これは梅毒性体質の特徴で『脳しんとう』類似の症状によって急死することがあると法医学者も説いている。しかるにその点をよく考察せず、当時新聞で騒ぎ立て事件を誇大に報道した雰囲気に押され、学者的冷静と忠実を失ってしまったと思う」。

 宮顕の手に掛かってはとうとう古畑鑑定人も「学者的冷静と忠実を失ってしまった」 御用人物にされてしまった。宮顕のような御仁に気に入ってもらうためには、言いなりにならない限りいかようにも叩かれることが判る。

 曰く、「『傷害致死』という罪名について見るに…とくに重大な損傷のなかったことは鑑定書さえ証明したのであるから、この罪名も結局、変節者の陳述によって推定的に加えられたものに過ぎない」、曰く、概要「『ショック死』とは、死にいたるような特別の病変なくして突然心臓の停止にいたるもので、軽微な原因でも容易に死にいたることも考えられ、特異の体質の者が『ショック死』をおこすことは大いにありえるのである」と言う。小南又一郎著『実用法医学』、三田定則著『法医学』の当該箇所を参照してもこの点明白であると言う。「古畑鑑定人は神経過敏の者とか、不安定の者は『ショック死』をおこしやすいといっている」ではないかと言う。

 宮顕は、こうして、学者に対しては学者の権威をぶつけながら「内因性ショック死」の可能性を頻りに説いて聞かせる。とはいえ、 古畑鑑定人の鑑定の都合の良いところの「ショック死」という言葉だけを上手に引き出しただけであることが容易に見て取れるしろものでしかない。


 以上ひとしきり煙幕を張ってから、何を言おうとしているのかと見ていくと次のように述べている。

 概要「古畑鑑定の説明にはまだ充分でないところがあり、具体的にとくに小畑の体質について検討をおこたっている点は、宮永鑑定人と同様であり、ただ 一般の場合として左様な体質を有する者は先天的に『虚脱死』をおこしやすい素因をもっているというにとどまり、その結果説明の主点を疲労や精神的苦痛においている」。

 つまり、「古畑鑑定書」が「ショック死」を推測したのは良いが、その要因として「疲労」や「苦痛」という具体的要因を挙げているのがけしからんというわけである。結局ここに戻らざるをえないと言うことでもあろう。しかし宮顕もさすがの人である。「疲労」や「苦痛」という具体的要因が存在しなかったという論証に自ら向かおうとする。並の精神の人ではできない。これをどのように言いなすかみてみよう。いかにも宮顕らしい話法が聞こえてくる。

 曰く、概要「小畑の場合には、苦悶らしい声も出さず」(ボソボソ)猿ぐつわでどうやって声を出すのだ。「のみならずその間隙をみて逃亡さえ計画する余裕をもっていたのである」(ボソボソ)ものはいいようだなぁとつくづく思う。「査問は交互にやったので、押入にいる間は横になれて休息を得られたと思われる」(ボソボソ)マジで言っているんだろうか。「したがって古畑鑑定人のいう著しい疲労困憊はありえない」、「また精神的の苦痛もない」、「暴行脅迫をしたこともないから、それに基づく精神的苦痛もない」、「しいていえば、小畑はスパイたることを暴露されたので、それが苦痛であったと思われるくらいのものである」 (ボソボソ)この言い方が気持ちが悪い私には。こんな言いようがどうして許されようか。

 それはそれとして、古畑鑑定書も指摘した「飢えと渇き」については言い繕いができなかったのかダンマリを決め込んでいる。「外傷性ショック死」を否定するのであれば、この「絶食査問」についてこそその当否を語らねばならないキー事項なのではないのか。これについては、次項の「査問中、食事を供していたのか」で再確認する。

 なお、宮顕は、小畑の傷は本人が押し入れ内で暴れて自損した傷だろうとも言いなして次のように述べている。

 概要「(押入で自損傷していることに触れずに『古畑鑑定書』が)軽率に外傷即暴行としている点は前鑑定者の傾向を踏襲している。査問は静粛に行ない、暴力の使用は極力注意した。手足を縛ったままで彼らを押入から出入りしたから若干の影響は手足に残ったかもしれぬが、特に傷らしいものは見ていないし、また予審終結決定に記載されてあるような暴行は加えていない。したがって外傷を加えられた暴行という鑑定は妥当ではない」。

 こいういう物言いを詐術と言わずして何と言えばよいのであろう。

 しかしそれでは何が原因なんだということになるが、宮顕は毅然として以下のように逆推定する。「体質性ショック死」ないしは「持病性心臓麻痺死」ではないかと自ら結論を用意する。「体質性ショック死」については、「法医学によると『ショック死』は激論しただけでも、またちょっと指なんかでさわっただけでも特異体質のものには起こる場合があるというから、『ショック死』であるとすれば死因は体質に置くべきである」と説明する。「持病性心臓麻痺死」については、「小畑の場合は心臓は人並みより大きく、また心臓に脂肪沈着が多くまた心臓に肥厚斑があったという点から『内因性急死として心臓死』も考えられる」、「古畑鑑定人は、『ショック死』と断定したからほかの死については考察の必要がないというが、宮永鑑定人の鑑定書の内臓に関する記載を前提としてみても『心臓死』と考えることは不自然ではない」と説明する。

 「結論として、小畑の死因は、同人の体質の特異性に主因を置くべきであって、自分は小畑の体質の脆弱が死因なりと考える」、「われわれは、むしろ『心臓麻痺』と推定する方が妥当だと公判廷で主張したのである」。ここでも宮顕は、「古畑鑑定人は、『ショック死』と断定したからほかの死については考察の必要がないと云っている」と言いなしているが、法廷陳述でそう言ったというならともかく鑑定書中にはそのような記述はない。「宮永、村上鑑定書」もこの話法でやり込められていたことは既に見たところである。


 こうしていつのまにか小畑の死因は「梅毒」か「心臓麻痺」か「異常体質性ショック死」にされてしまった。「『ショック死』は激論しただけでも、またちょっと指なんかでさわっただけでも特異体質のものには起こる場合がある」とわざわざ指摘していることを考えると、宮顕はひょっとして「ちょっと指でさわった」ので小畑が死んだとでも言いたかったのだろうか。そこまでは言ってないにしても、 小畑は自分の体質の責任で偶然にもポックリ死んでしまったというのが真相だという程度には言っていることになる。もはや、私は言葉を失う。

 この宮顕の論調が党史に反映している。「日本共産党の五十年」の「党防衛の闘争、弾圧による党中央委員会の破壊」の項で次のように述べられている。

 「スパイの手引きによる一連の弾圧に対して、調査委員会を組織して党組織の被害状況とその原因を調査し、党中央委員会に潜入していた大泉兼蔵、小畑達夫をはじめ、重要なスパイの一群を摘発することができた。摘発されたスパイに対しては、最高の処分は党籍からの除名であり、これを『赤旗』で公表することによって、ふたたびその潜入を許さない措置をとった。この摘発の途上で、33年12月、宮本顕治が逮捕された。警察当局は、自分たちのスパイ、挑発政策が暴露されたてことへの報復として、査問の途中で起った小畑の急死の事実をとらえて、これを共産党の計画的な殺害事件だとするデマ宣伝を大々的に行い、共産党非難の世論をつくりあげようとした。しかし、その後の公判においても、小畑の死亡が特異体質によるショック死であることが法医学的にも指摘され、警察当局のデマ宣伝は打ち破られた」。

 こういう歪曲に対して、我々はどう待遇すべきだろうか。 


【補足・「査問中、食事を供していたのか」について】
 宮顕の弁論に対して、大井広介氏は、「独裁的民主主義」の中で次のような疑問を提起している。
 「いわんや小畑は前日午前10時頃から飲食物を与えられていない。心臓麻痺だろうと、袴田説のように脳溢血だろうと、ショック死だろうと、正常なコンディションを奪われたのが作用した。外傷性ショック死を甘受すべきで、異常体質ショック死などといい紛らわそうとするのは、正常なコンディションを奪った側の言い分にしては、聞き苦しい」。
(私論.私見) 「査問中、食事を供していたのか」について
 この「査問中、食事を供していたのか」は、宮顕及びその言説のシンパに対する致命的な質問になる。宮顕は一貫してこの質問に答えていない。れんだいこが目を通した調書に拠ると、査問側の食事の記述は出てくる。しかし、被査問側に食事を供したとの記述には出くわさない。こうなると、食事を与えなかったと受け取るべきだろう。宮顕擁護派は、これに関してなべてダンマリを決め込んでいる。なぜなら、宮顕の発言にない事を述べる訳にはいかないからであろう。しかしそれは、被査問側に食事を出さなかったことを認めていることになろう。そうなると、そういう査問が対等平穏なものでありえたのかどうか推して知るべしだろうに、そこまでは智恵が廻らないようだ。  

 2005.7.1日再編集 れんだいこみ拝

【補足・中田鑑定書について】
 事件後40年以上経って、宮本は、代々木病院副院長の医師中田友也に「小畑の死因に関する新たな鑑定書」づくりを命じた。第一審の「村上・宮永鑑定書」が「頭部に加わりたる暴力による脳震盪」を原因と為し、これを否定した第二審の「古畑鑑定書」がなお「外傷性ショック死」と認定していたのにも満足せず、何とかその死を自分には責任の無い「特異体質によるショック死」にしたがった。

 宮顕は、中田医師を本来の医務業務から離れさせて、ひたすらこの新鑑定に没頭させた。この結果が、「小畑達夫は外傷性ショック死ではない」、「特異体質による単なるショック死か、または急性心臓死であると推定されます」との新鑑定書=中田鑑定書となった。
(私論.私見) 「日共お抱え病院のお抱え医師による新鑑定書」について
 何と宮顕は、最後の切り札として「日共お抱え病院のお抱え医師による新鑑定書」を持ち込んだ。普通は、こういうヤラセは信に値しないと評されるものだが、何と日共盲者はこの新鑑定書を担いで宮顕弁護に乗り出している。持ち込む方も持ち込む方だが、担ぐ方も担ぐ方だろう。

 2005.7.1日再編集 れんだいこ拝

【補足・両鑑定書に対するその他識者の見解について】
 松本明重氏の「日共リンチ殺人事件」で貴重な記述が為されている。京都大学名誉教授・医学博士高松英雄氏の「解剖所見にみる私の鑑定と推理」という次のような一文が掲載されている。
 意訳概要「村上氏の小畑遺体鑑定書は正確で信用でき、その鑑定どおりであるとすると、これらの出血の状態はまったくひどいもので、紫斑病のような『内因性出血』によるものとは異なり、一見して打撲のような外力によるものであることが判る。死因の鑑定については、村上鑑定も、古畑鑑定もどちらも有りえると考えるが、同時に、また絞頚死もしくは扼死で有りえると推理することも出来る。その理由は、小畑の心臓や大血管中の血液の流動性は、これは急死にみるもので、窒息死である可能性があるからである。

 纏めとして次のように述べている。
 脳震盪・ショック死・絞頚死・扼死の可能性を様々な角度から検討した結果、死因を一つに求めてその他の要因は死因ではないとは簡単には言えないが、何れの鑑定であれ、またこの私の推理であっても共通して言いえることは、すなわち、他殺である。
(私論.私見) 高松英雄氏の「解剖所見にみる私の鑑定と推理」について
 高松英雄氏の「解剖所見にみる私の鑑定と推理」こそ京都大学名誉教授の見識であろう。「何れの鑑定であれ、またこの私の推理であっても共通して言いえることは、すなわち、他殺である」の重みを知るべきだろう。

 2005.7.1日 れんだいこ拝 

【補足・日共の本音の弱腰露見される】
 木村愛二氏の「憎まれ口」の「日本共産党犯罪記録」の2005.7.1日付「偽の友代表格・日本共産党のカリスマ『宮本顕治"獄中12年の嘘"』」に貴重情報が書き込まれていたので要約整理しておく。

 それによると、月刊誌「WiLL」の2005年8月号に、立花隆と兵本達吉特別対談「宮本顕治"獄中12年の嘘"」が掲載されていると云う。内容については、れんだいこが記しているものの域をでないので繰り返さないが、末尾のところの次の情報が貴重である。これを転載する。

 日本共産党が「暗黒裁判」とか「判決はデッチ上げ」とか、しきりにいいふらすので、ロッキード事件で活躍した法務省の安原刑事局長が怒り、「再審請求すればいいじゃないか、再審請求で無罪になった吉田厳窟王もいる。国会でそれを言うぞ」と言ったら、日本共産党はびっくり、正森弁護士を法務省に飛んで行かせて、「もう今後デッチ上げってことは言わない。だから国会で再審請求しろと言わないでほしい」と頼み、以後、日本共産党は、「デッチ上げとは言わなくなった」というのである。

 私は、『マルコポーロ』廃刊事件以来の旧知の花田編集長に、電話で、「面白かった」と感想を述べ、今後の調査を求めた。私個人では、そこまで調べる余力のない「スクープ種」である。ミヤケンが世間に売る出した「出世作」の芥川論、「敗北の文学」は、松山高校時代の同人誌、『白亜紀』の別人の論文の盗作だという同窓生の説があるのである。しかし、どこかの図書館にあるのは、肝心の頁が切り抜かれており、内容の比較ができないというのである。同人誌を保持している同窓生を捜し当てることができれば、「盗作の証拠出現!」となるのである。

(私論.私見) 「日共の本音の弱腰」について
 ロッキード事件で活躍した法務省の安原刑事局長が、「再審請求すればいいじゃないか、再審請求で無罪になった吉田厳窟王もいる。国会でそれを言うぞ」と言ったら、日本共産党はびっくり、正森弁護士を法務省に飛んで行かせて、「もう今後デッチ上げってことは言わない。だから国会で再審請求しろと言わないでほしい」と頼み込み、以後、日本共産党は、「デッチ上げとは言わなくなった」という。これこそが日共の本音であることを確認すべきであろう。

 2005.7.1日 れんだいこ拝




(私論.私見)