第6部の2 査問事件5、宮顕逮捕、取調べの様子

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).4.3日

題名
宮顕検挙とその虚実について
逮捕直後の遣り取りに関する重大疑惑考
当時の過酷な取調べ状況について
宮顕一人、不屈の拷問潜り抜けの不思議について
赤旗のリンチ事件報告記事考
大泉脱出劇の不自然さについて
「大泉検診書」 の暴行的痕跡軽微の不思議について
事件露見、その壊滅的打撃考


【宮顕検挙とその虚実考】
 第7幕目のワンショット。宮顕は二日後の12.26日、逮捕検挙された。富士見町電停前の喫茶店に入ろうとして、張り込んでいた特高と格闘の挙げ句逮捕された、とされている。逮捕検挙されたのは史実であるが、この時「特高と格闘」したのかどうは分からない。そういう風に脚色されていることが大いに考えられる。

 党史では、次のように記述されている。
 「この摘発の途上で、1933年(昭和8年)12月、東京市委員会にもぐり 込んでいたスパイ荻野増治の手引きで宮本顕治が街頭連絡中を十数人の警官に包囲されて麹町署に検挙された」。

 「日本共産党の65年」73P)は、次のように追記している。
 「党中央は荻野にスパイの疑いを持っていだいていたが、宮本が最後の連絡ということで出かけたところを敵の手に売られたのであった」。

 このような記述によれば、宮顕の検挙は「スパイ荻野の手引き」による、党にとって「査問事件」後の重要な時期での痛い検挙であったように受け止められやすい。が、実際は大きく様子が違うようである。次のようなものであった。

 立花氏の「日本共産党の研究三.112P」を参照する。
 概要「前日アジトにやってきた宮本は、今度は東京市委員会キャップの荻野の査問をすることにしたと木島に告げ、それを『木島が責任を持って東京市委員会でやれ』と命じた。しかし木島は、『東京市委員会にはとてもその力がない』というと、宮本は、『では中央委員会でやるから、ついてはその準備が完了するまで、木島と荻野と連絡をとるようにしてくれ』と頼み、 木島は了承した。

 荻野は宮顕のおぼえがあまりめでたくなかったようで、同じ東京市委員会に居ながら大泉・小畑の査問に当たっては計画段階から外されていた。この間荻野が受け持っていた下部組織で連続検挙があり、それが原因で荻野は木島にその地位を譲らされていたという経過があり、党内から疑いの目で見られていたとのことである。12.24日つまり小畑が死んだ日には木島と街頭連絡の約束があったが、その場所に行ってみると木島は来ていなかった。実際には木島はリンチ事件で忙しくて連絡どころではなかったのだが、そうとは知らぬ荻野は一層不安になった。

 翌25日、逸見と連絡をとると、 逸見は大泉・小畑の査問の大要を話し、これから宮顕に会うようにと指示した。指定された場所に行って宮顕と会うと、宮顕はこれまで荻野に対して『あなた』とか『きみ』とか呼びかけていたのに、この日は始めから『貴様』呼ばわりをした。宮顕は、『大泉と小畑とを査問した結果、党の各機関に多数のスパイが潜入していることが判ったから、今後それらのスパイを徹底的に処断する』と云い、大泉・小畑の除名理由書のプリントを渡して、それを複製する仕事を命じた(この除名理由書の記載内容に興味があるが明らかにされていない −れんだいこ注)。

 さらに、『大泉・小畑がスパイであったことを認めるか』と聞くので、荻野は、 『大泉はスパイだと思うが、小畑はそうは思わない』と答えると、宮本は一瞬『ギクッ』としたようだったが、鼻先で『フン』と笑い、それから、荻野は『東京市委員会から解任され、今度はアジ・プロ部で働いて貰うことになった』と告げて、『そこで貴様をうんと叩き上げてやる』と云った」。

 ここは暫く黙そう。この時、宮顕は25才である筈であり、何とも超大物な口ぶりをするこの背景は一体何なんだろう。それと「ギクッとした」というのが何ともリアルな気がする。それはそうだろう、ここまでの解明で明らかにしてきたように、「大泉はスパイだと思うが、小畑はそうは思わない」こそ「小畑査問事件疑惑」の本質に迫った認識であり、当の宮顕だけには絶対漏らしてはいけない考え方であった訳だから。しかし、そこまで読みとれなかったからといって荻野の迂闊さを見るわけにもいかないであろうが。

 宮顕逮捕の様子は次のようなものであった。
 「荻野は、宮顕の口ぶりから、大泉・小畑は査問されて殺されたに違いないと判断し、これから他のスパイ容疑者にも査問が広がり、自分もその一人で殺されることになるかも知れないと考えた。この日の夜一晩考えたあげく、翌26日の朝、警視庁に自首して出た。荻野と宮顕は、前日別れるときに、この日の午後3時に連絡を取ることにしていた。宮顕はそこで荻野と会ったら、木島に任せて査問させようと考えていた節がある。自首した荻野は、この日の連絡を警察に告げた。予定通りやってきた宮顕は乱闘の末逮捕された」。

 宮顕検挙の真相は以上の通りということだ。荻野が宮顕を売ったことは明らかであるが、宮顕の逮捕は単純にスパイに売られたとかいうものではない異色のそれであることが判る。ちなみに、荻野は除名され、その除名広告によれば「31年(昭和6年)頃からスパイであった」とされた。そうであれば、ほぼ二年間一緒に活動していた同じ東京市委員会の宮顕−袴田−木島ラインを始め他の党幹部はそれまでになぜ売られなかったのかが不自然ではないだろうか。あらゆる視点を宮顕神話から見るからこういう不自然さが見えてこないことになる。

 なお、この宮顕検挙について不審な点がある。宮顕は、松本清張に次のように話しているということだ。何とかして荻野を落とし込めスパイに仕立て上げようとしていることが判る。
 概要「(前にも一度逮捕されそうになったことがあるとして)会合の為に三田のアパートへ行ったら、張り込んでいましてね。手帳を取られたんです。これは駄目だと思ったんで云々。後から思うと、私がやられたのは、通称“高橋亀”こと荻野っていうスパイに売られたのです」(「宮本顕治対談集」238P)。

 この話の珍奇なところは、「手帳を取られて、駄目だと思った」ことにある。ということは、宮顕が手帳を所持していたことと、その手帳には克明なメモがなされていたことを意味する。

 既に我々は、「査問事件」中大泉の手帳嫌疑を見てきた。宮顕自身が次のように述べている。「党の最高指導機関の指導者が、いつ、どこで不審尋問に会うか判らない。この手帳を見たら、非合法活動をやっている共産党員だということがいっぺんにわかってしまう。当人は勿論逮捕されるが、同時に連絡場所にくるものも片っ端からやられる」。それほど危険な行為として、当時党員は手帳を持たないというのが鉄則であったはずである。宮顕なら所持しても良いということにはならないであろう。それともこの御仁の癖の一つであるが、自分には例外が許され相手には厳しくという常用なのであろうか。そういえば、「空中浮揚」氏も自分は見るだけで信者に水中クンパカさせていたなぁ。


 ところで、この時宮顕が、こうした「疑いの強い」荻野にわざわざ会いに行っている必然性が見えてこない。袴田の話によると、袴田も宮顕も、かねがね荻野は怪しいと気づき、疑い監視していたという。検挙される当日も、宮顕に「危いから、よせ」と止めたが、「いや、今日が最後だ」と言って出かけたと伝えられている。

 
「いや、今日が最後だ」というもの言いが意味深だ。荻野が最後なのか宮顕が最後なのかはっきりしないが暫し黙して考えてみよう、あらかじめ自身の入獄を知っていたとも受け取れる実に謎めいた言葉ではないか。一仕事やり終えたという意味なのか…。袴田は云う。
 「文字通り『最後』の連絡になったわけだが、それにしても、宮本はどういう意味で『これが最後』などと私に云ったのか。考えれば考えるほど、意味深長ではないか」。

 袴田は、後になって気づいた不自然さをこのように伝えている。


 
ついでに付記すると、この時拳銃は所持していなかったようである。公判で、「査問事件」中拳銃所持の理由を問われ、所持の正当性を力説していた論理からすれば、既に怪しいということが噂されていた荻野に会いにいくのに所持しなかった理屈が見えてこない。これを思えば、「査問事件」時の拳銃所持はまさに威嚇のためであったということになろう。宮顕弁明を精査していくとこういう辻褄の合わないことが次から次へ判明してくる。

 
それはともかく、宮顕の逮捕により宮顕が職務分担として引き受けていた「赤旗」編集と東京市委員会の指導は袴田が引き受けることになった。つまり、「赤旗」編集と東京市委員会の指導権は宮顕系列で握って離さなかったということになる。

【逮捕直後の遣り取りに関する重大疑惑考】
 なお、この逮捕時の様子を伝えた宮顕の回顧録の内容に重大な疑惑があることも指摘しておかねばならない。宮顕は、昭和15年4.18日公判の冒頭陳述で次のように陳述している。
 「大体私が麹町警察署に検挙された時に、私を調べんとした山懸警部は、鈴木警部等とテーブルを囲んで曰く、『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って、非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た。然し自分はテロに依る訊問の為警察に於ては陳述を拒否してきた」 (文化評論昭和51年臨時増刊号、「リンチ共産党事件の思い出」87P)。

 これは宮顕自身の公言である。
これに対し、平野謙は貴重な疑惑を呈し、次のように述べている。
 概要「大体私が 麹町警察署に検挙された時は12.26日の筈であり、しかし昭和8年12.24 日に小畑は急死したが、その事実を当局が確認したのは、大泉兼蔵が逃亡した翌昭和9年1月15日直後のことである。宮本顕治の検挙された昭和8年12.26日から1.15日までの二十日間ほどのあいだに、宮本顕治の警察に対する根本態度が確立されたのではなかったか」。

 つまりそういうことになるが、「宮顕の逮捕時に特高が既に小畑のリンチ死を知っていた」との宮顕の公判冒頭陳述は一体どういうことなんだ、と云うことになる。もっとも、これが真相かも知れないし、或いは宮顕が拷問的虚実をデッチ上げんがために脚色した詐術かもしれない。ひょっとして両方の意味があるかもしれない。いずれにせよことは極めて奇っ怪なことになる。宮顕弁明を精査していくと、こういう辻褄の合わないことが次から次へ判明してくる。私が宮顕を胡散臭い人物だということの根拠の一つでもある。

 しかし、世の中にはいろんな見方があるもんだと思う。この特高発言がなされたのは小畑の遺体の検死が行われた直後の1934年(昭和9年)1月17日頃であり、宮顕の取り調べにあたっていた山県警部らは、麹町警察署の拷問部屋で宮顕にむかって「共産党をデマる絶好の材料だから、今後とも党と大衆を切り離すためにつかってやる」とうそぶく、という記事が「ウオッチ」論客の一人である土佐氏より紹介されている。

 この1.17日説の根拠は判らないが、この場合、昭和15年4.18日公判の宮顕の冒頭陳述での「大体私が麹町警察署に検挙された時に、 私を調べんとした山懸警部は云々」発言が確かになされているのかどうか調べればはっきりする。私は、「リンチ共産党事件の思い出」を参照しているだけであるので心細くなってしまう。しかし、平野氏が自分で掲載しておいて 「不自然だ」と言っているのだからあながち嘘ではないと思うけど。どなたかチェックしていただきたいと思う。

 現在、私は「宮本公判記録」を手に入れている。平野の指摘する通り、昭和15年4.18日公判の冒頭陳述で、宮顕がさように述べていることが確認された。ということは、宮顕の公判陳述冒頭の「山懸警部は、鈴木警部等とテーブルを囲んで曰く、『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って、非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た」陳述は極めて奇怪なことになる。事件が露見していない時点で、何故特高がそのようなセリフを吐いたのか、精査せねばならないことになる。「ウオッチ」論客の土佐氏は、何を根拠に「この特高発言がなされたのは小畑の遺体の検死が行われた直後の1934年(昭和9年)1月17日頃」説を振りまくのか弁明せねばならない。

 ちなみに、宮顕は、麹町署に検挙された際に、彼が毛利特高課長、山県為三特高警部らから失神しそうになるほど拷問をされ、獄中にあって麹町警察と留置場において拷問を受けたと自身が明記している。しかし、このように主張しているのは宮顕であって、山県警部は、「宮本なる人物には一面識もなく、拷問したなどと言い張るのはまことにもって名誉毀損」と憤慨しているとのことである。この発言の真偽もどなたか確認していただけたらありがたい。私でさえ、あまりに重大なことなので、にわかには信じられない。こうして見ると、宮顕の言には異常な脚色があちこちで見て取れることになる。

【当時の過酷な取調べ状況について】
 なお、ここでこの当時の通常の取り調べの水準がどの程度のものであったのかを見ておくことにする。これは「特高警察黒書」(新日本出版社)113Pの一節である。俳優の松本克平氏が自らの体験を語ったものである。松本氏は党員でもなかったがナップの連絡係をしていたようである。そういう者にさえこの程度の拷問がなされるのが普通であったことを例証したいため以下記す。
 概要「私は築地署へ引っ立てられ、激しい拷問を受けた。二人の訊問係りは交互に連続的に機関銃のように尋問する。即答しないと二人のテロ係りが間髪入れず竹刀と藤の太いステッキで私の太股を気違いのように殴りつけた。 反抗心と昂奮で最初はそれほど痛く感じなかった。だがいっぺん叩かれたところは既に内出血している。体をあちこちひっくり返されながらムシロのように2時間も叩かれると同じ箇所を三度四度と叩かれることになる。三度同じ所をやられると頭にキリを突き立てられたように痛く、体がピクピクして意識不明に陥る。唇はカラカラに乾いて声も出ない。私は43度の高熱に浮かされ1週間以上動けなかった。心臓の弱い人ならとっくに心臓麻痺で死んでいただろう」。

 続いて同書は作家の中本たか子氏の手記を載せている。彼女も当時は党員ではなかった。関連するところだけ抽出する。
 概要「鈴木警部がまず私に姓名、 住所から聞き始めた。私は答える必要がないので、口を開かなかった。特高どもは、見る見る顔色を変えて総立ちになった。『なめるなら、なめてみろ!』というなり、私の顔を殴り、髪の毛を手に巻いて引っ張り、足を上げて背中を蹴りつけた。なぐられっぱなしの私は頬がゆがみ、髪の毛はばりばと抜け、背筋の骨が痛む。竹刀を持ってきて私の頭を殴りつけた。三人の男どもはそれぞれに力を込めて、ふんだり、蹴ったり、殴りつけたりして、私を責め続けた。私は意識がくらんできた。(以下凌辱される下りがあるが略)。私は意識を失った。私が意識を取り戻すと、太股をこづき始めた。みるみるうちに、私の太股は赤くなり、はてはどすぐろくなって腫れ上がった。痛さに泣き叫ぶ私を面白そうに眺め、三人の特高は代わる代わる、三時間ぐらいこづき続けた。翌日もまた、同様の拷問を繰り返した。私は立ち上がることも、歩くことも出来なかった」。

 党員でなくてもこれぐらいの拷問がなされていたのであるとすれば、党員か朝鮮人活動家に対してなされた程度が想像されよう。小林多喜二の「1928. 3.15日」の文中はその実態を暴露した名著ではないのか。この当時皆なぶり殺しか気絶するまで激しい拷問がなされ続け、彼らの意に従うまで何日も続けられたというのが当時の関係者の一致して明らかにするところである。

 まして党の最高の地位にある中央委員ならどうなるか判りそうなものではないか。野呂の例を見てみよ う。野呂こそはと言うべきか最後まで調書を取らせなかったが、彼は明らかな肺炎性病弱を見せていたにも関わらず、各署をたらい廻しにされて厳しい取り調べを受けた。獄中で健康状態が急激に悪化し、流動食しか取ることができないため、看守にオートミルを作らせ、移動する時は他の者に担いで貰わなければならぬほどだった。34年2.19日、病状があまりに悪化したため、品川署から北品川病院に入院させるため運ばれたところで絶命した。32才の若さであった。

 もう一人、伊藤律の場合を見ておく。次のように記している。
 概要「私は逮捕され、東京・大崎署に連れて行かれてひどい拷問を受けた。部屋のカーテンを下ろして暗くし、頭の毛に麻縄を縛り付けて天井につるし、棍棒で殴った。さらに地面に倒し、靴のかかとで私の頭を踏みつけた。その時血が流れ、その血が目に入って、何も見えなくなった。その傷跡は今でも残っている。彼らの訊問は、まず第一に私の本姓本名を探り出すことだった。私は当時の党の規律に基づいて三日間は何も云わなかった。その日は激しい拷問を受けたため、立って歩くことができず、留置場に担ぎ込まれた」。

【宮顕一人、不屈の拷問潜り抜けの不思議について】
 宮顕は、この時の拷問の様子について次のように語っている。
 「特高課長毛利や特高警部の山県、中川らが来て、『世界一の警視庁の拷問を知らないか、知らしてやろうか』、『この間良い樫の棒があったからとってある』と云いながら、椅子の背に後ろ手にくくりつけ、腿を乱打する拷問を繰り返し、失神しそうになると水を掛けた。そして、『岩田や小林のように労農葬をやってもらいたいか』とうそぶきながら拷問を続けたが、私は一言もしゃべらなかった。歩けなくなった私を、看守が抱えて留置場に放りこんだ。12.26日で、監房の高い窓からは雪がしきりに吹き込んだ。一切の夜具もなく、拷問の痛みと寒さのため私は眠ることが出来なかった。

 その後も拷問は続けられたが、彼らは『長期戦でいくか』と言って、夜具も一切くれないで夜寝かせないという持久拷問に移った。外では皇太子誕生ということで提灯行列が続いていた。その頃、面会にきた母親が私の顔を見て『お前は変わったのう』とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問ではれあがって、昔の息子の面影とすっかり変わっていたからだった」(宮本「私の50年史」.「日本共産党の65年」73〜74P)。

 私には具体性の乏しい反面脚色性の強い非常に嘘っぽい文章であるように思うが、これ以上は控えることにする。

 この時のことを宮顕はこうも語っている。「追憶談」(週刊読売)で次のように述べている。
 「 (彼の追憶によると)はじめは、猛烈な拷問を加えられたが、そのうち向こうが、『こいにつは何をやっても無駄だ』とあきらめて、持久戦に入った。寒中でも夜具を与えず、寒さで眠らさないような悪どい拷問に出てきた」。
 「それも一年ほどして切り抜けると、府中警察に、足錠、手錠をかけたままの姿で、二ヶ月置かれた」。
 「警察にいる期間は、ほとんど風呂にも入れず、本も全く読ませないで、一年間ただ座らされていた」。

 宮顕は、これを称して「原始野蛮による人間への持久拷問」と言っており、この記者も「信念のない者ならたちまち拘禁ノイローゼにかかり、警察側の思い通りにされてしまったことであろう」と妙な感心の仕方で提灯している。これでは宮顕が受けたそれの方が虐殺拷問よりしんどいみたいに受け止めてしまうではないか。宮顕の場合、他の多くの党員になされた虐殺もありえた即日拷問を、なぜ持久戦にまで持ち込みえたのかその丁々発止の様?を問う方が自然ではないのか。提灯持ちは何人いても役に立たない。

 ちなみに、宮顕が「こいにつは何をやっても無駄だと特高をあきらめさせた」などという話しをまともに信じられる者は余ほどおめでたいと言うべきではなかろうか。この当時の取調べは史上極悪の官憲テロルが吹き荒れていた時代である。この当時取調べに屈した者は別にしても抵抗した者は例外なく岩田義道しかり、小林多喜二しかり虐殺された。「共産主義者は殺す一歩手前まで拷問して自白させ、共産党員としては生きていけない裏切り者に仕立て上げる」というのが特高の戦略戦術であった。宮顕がこのテロルから逃れ出られる機会なぞ万に一つもない。それをなぜ逃れえたのかを問う方が自然であるということを重ねて強調しておきたい。

 もう一つ加えておく。宮顕が云うように小畑がスパイだとして、ならば官憲側のスパイをリンチ致死させた宮顕に対する拷問はひたすら過酷なものになるのが予見できることではないか。それを「こいにつは何をやっても無駄だと特高をあきらめさせた」とは。冗談が過ぎよう。しかし、宮顕の弁明をそのままに受け取り、鋼鉄の意志を絶賛する者が後を絶たない。それも冗談が過ぎよう。

【赤旗のリンチ事件報告記事考】
 宮顕が逮捕されたのが12.26日で、その翌日の12.27日付け赤旗紙面に東京市委員会書記局署名の「中央委員会による片野・古川断罪への革命的挨拶」なる特報が掲載された。次のようにリンチ事件を党内報告している。
 「我が党のポルシェヴィキ的政策を歪曲し、大衆との遊離を企て、少なくとも長期間にわたり、人民革命の旗を阻止し、数十万の勤労大衆を飢餓状態に停止せしめたものは片野古川香川を始めとする一連のスパイどもだ。多くの優れた同志を売り渡し、同志岩田、上田、小林を虐殺に手引きしたのは奴等だ。奴等の為に数百の同志が白テロに肉体を破壊されている。諸君!我が東京市委員会は、同志岩田、上田、小林の名に於いて、数百のテロと苦闘せる同志の名に於いて、断乎階級的裁断を要求するものである。

 ロシア革命に於いて、ポルシェヴィキ党中央委員会に巣食うスパイ・マリノフスキーは、プロレタリアートの憤怒と階級的裁断に依り死刑に処せられた。スパイ片野古川は我が党の破壊を企てたのみならず、コミンテルンにまで天皇制スパイの魔手を伸ばさんとした。俺達は断の一字を以て要求する。革命的憤怒を以て要求する。『死刑だ』!」。
(私論.私見) 「中央委員会による片野・古川断罪への革命的挨拶」考
 ここに血祭りに挙げられている片野は大泉であり、古川は小畑のパーティーネームである。この文章が宮顕の手になるのかは不明であるが、この時既に革命的処刑をしていながら、後刻に予告文書を出すというアリバイ的発想は宮顕特有のものである。これを書き上げた後に当局の懐に入ったとも考えらられる。

 2006.5.22日 れんだいこ拝

【大泉脱出劇の不自然さについて】

 第8幕目のワンショット。もはや大泉の査問は中止されたも等しかった。12.25日の朝は、秋笹、木島、木俣の3人が二人ずつ交替でピストルを持って監視したようである。「大体二日に亘る取り調べの結果、我々の予期していた通りのスパイの確証を握り、警察のスパイ政策も大体に於いて聞知したので、これ以上大泉を追及する必要もなし、仮に追求しても党にとって必要な事実も新たに出ないと考え」(袴田16回調書)られたのである。

 私は、この点につき少々疑惑がある。この言いまわしに見られる悠長さは何なんだろう。この言い回しもまた、そもそもこのたびの査問が大泉には主たる目的がなく小畑の方にこそあったことを示唆しているのではなかろうかという疑惑である。故意か偶然かは別にして、小畑の殲滅がなされた以上、大泉はこの時点で厄介なお荷物になってしまったのではないかと推測する。

 それかどうか、大泉は、直ぐに放免するわけにもいかずという中途半端な状況に放置された。「ほとぼりが冷めて釈放しても党に被害がないと云う見極めが付いた頃釈放することにし、それまで暫くどこかに監禁することに方針を決定したのであります」(袴田16回調書)とある。呼び出されていたハウスキーパーの熊沢は、奉仕した相手がスパイであることを知らされ、我が身を恥じた。12.30日頃から専門のピケとして林鐘年がやって来た。

 次のショット。袴田は次のように証言している。

 「監禁中大泉夫婦が自殺を申し出たので、中央委員会で協議の結果、その申し出を採用して自殺せしめる事になったのであります」、「大泉が自殺して死ねば事件の後始末も好都合に運ぶし、それによって党が新たに被害を受けると云う危険もありませぬでしたから、自殺するなら自殺させようと云う気持ちで自殺させることに決定したのであります」、「(熊沢が)大泉に繋がる縁で自殺しようと云うならどうでも勝手にするが良いという気持ちで大泉と共に自殺させる事になったのであります」(袴田16回調書)。

 こうして、大泉夫婦は心中を試みようとし始め、査問者側もそれを期待し、偽装自殺の「遺書」 まで書かせられることとなった。大泉にとって小畑殺害におびえた窮余の一策だったことになる。秋笹らがいろいろ注文付けて書き直させている。この経過につき、袴田は次のように証言している。

 「監禁中大泉夫婦が自殺を申し出たので、中央委員会で協議の結果、その申し出を採用して自殺せしめる事になった」(袴田16回調書)。
 「(熊沢の方はスパイである確証はなかったが−要約)大泉に繋がる縁で自殺しようと言うならどうでも勝手にするが良いという気持ちで、大泉と共に自殺させる事になったのであります」(袴田16回調書)。
 「私は、大泉夫婦に自殺させる場所の選定、その方法等はすべて木島に一任してありました」(袴田16回調書)。

 次のショット。1.9日頃からアジトを他に移すことに決定したようである。こうして、木島が目黒方面に一戸建てを借り受け、その新しいアジトに大泉夫婦の身柄を移すことを取り決めた。1.13日、熊沢が大泉の髭を剃ったり、洋服の塵を払ったりした。1.15日夜、殺害することを取り決め、1.14日夜、目黒の木島宅に移動させた。二階6畳の間に監禁した。木島・横山・林鐘年の3名で監視した。「いよいよ同人等が自殺を決行すると云うのでその前夜一緒に寝かせてやったと云う報告を受けました」(袴田16回調書)。この日の夜、大泉と熊沢が逃亡の是非の相談をしていたことを明らかにしている(大泉17回調書)。ところが、熊沢が反対したためいよいよになると実行されなかった。

 翌1.15日午後、大泉は脱走に成功した。その経過はこうであった。袴田は次のように証言している。

 概要「木島も又見張り役として動員されていた林鐘年もアジトを出て居た留守に、大泉は木島のハウスキーパー横山操の監視の隙を窺い逃亡した。本来ならば当日木島は見張り役の林が所用の為外出する事を知って居り、木島自身も外出すれば後は当然横山一人となる事を知りながら外出してこの失態を惹起したのです」(袴田16回調書)。

 という不自然なものであった。この時木島と林はわざわざ大泉に聞こえるように出かけていくことを伝えており、仕組まれた芝居臭さがうかがえよう。この時か前の晩だったか木島のハウスキーパー横山操が大泉等に餞別の玉子丼をつくってご馳走している。

 この後大泉はトイレを口実に足縄を解かせ、結び直しの際に横山に組みつくことになる。横山を押さえ付けながら、大声で「人殺し」と数回叫んだ。熊沢が大泉の口を塞ごうとして逆に噛みつかれ傷つけられた。おおよ そ30分ほど横山とピストルの争奪戦を繰り広げた。この間、熊沢は呆然自失のていで傍観した。こうしているうちに巡査がやって来て横山を逮捕した。この後、タクシーを拾って麻布鳥居坂署に駆け込むことになった、という。こうしてみると、大泉のこの一連の脱走劇は仕組まれたような逃げ出し方であるとも言えるであろう。「この失敗によって、木俣鈴子、林鐘年、横山操、大泉兼蔵、熊沢光子等は一網打尽的に検挙」(袴田16回調書)されることになった。
 

 次のショット。麻布鳥居坂警察署に着いた大泉の行動について、17回調書は次のように明らかにしている。大泉は、署に着くなり概要「自分は警視庁の人間だ。共産党の殺人事件が有る。警視庁特高課長を呼んでくれ」と要求した。 間もなく警視庁から庵谷警部以下数名の者がやって来た。簡単に事件の経過を説明し、小畑の査問死を始めとする諸事実を暴露した。興味深いことは、 予審判事の「被告人はその後警視庁の毛利特高課長に会ったか」という問いに対して、「私はそれきり会いません」と述べている。わざわざの設問のようにも見えるし、実際だったとしたらどういう事情によるのか不明であるが不思議なことである。


【「大泉検診書」 の暴行的痕跡軽微の不思議について】

 次のショット。1.19日、麻布鳥居坂警察署に於いて警察医中村康が「検診書」(「中村検診書」.昭和9年1.19日付け)を作成している。この「検診書」 を一見して判ることは、小畑の遺体鑑定書に記載された内容に比して暴行的痕跡が妙に少ないことである。手足に縛創性痕跡がそれぞれ位置、径、長さ、特徴別に記されている。大泉は、「その通りか」と問う予審判事に対して、 「その通り間違いありません」と答えている。但し、補足として概要「傷を受けてから20日以上も経過しており、又秋笹等が傷のアルコール消毒をしてくれたこともあり、そのお医者さんに見て貰った頃には治癒しその後だけが残っていました。その後3年以上経過した今日なおいろいろ後遺症が出ている」と陳述している。秋笹第二審判決文では、「大泉の手足に数カ所の縛創を蒙らしめ」とある。

 そのまま受け取れば、査問によって蒙った暴行は相当程度回復していたため「検診書」に記載されるほどのものでなくなっており、わずかに縛り跡傷が残っていた程度であったということである。大泉の暴行ハイライトシーンである「遂に錐であったか斧の峯の方で私の口の辺りを殴った為に前歯一本、奥歯一本が折れ、又斧の峯で頭を殴られた為か私の顔を伝って落ちるのを覚えました。又私の背中を斧で殴られたので気絶した様に思いますが判然しません」(大泉19回調書)中の前歯、奥歯の毀損についての所見はない。 中村医師が検診しなかったのか、大泉陳述が過剰であったのか判明しない。いずれにしても妙なことである。

 私は次のように推定している。大泉のこの部分の被暴行陳述は大泉が小畑死亡時に失神していたことを説明する下りで述べられていることを考えると、このシーン全体が失神経過を作為するための過剰陳述であったのではないかという可能性が考えられる。ということになると、大泉に対する極端な暴行シーンはこの部分以外にはないことからして、今回の「査問事件」の遂行意図とリンチ的暴行は、小畑にこそ照準が合わされ集中していたのではないのかということになる。そういう観点から調書を読み直していくと、実際宮顕−袴田ライ ンの訊問、暴行が主として小畑に向けられていた様子が見えてくる。逆に逸見のそれはほぼ大泉に向かっており、秋笹、木島のそれは気まぐれに双方に向けられているという構図が見えてくる。


 大泉の「検診書」の記載内容から、このたびの「査問事件」に暴行が極力なかったことを推測させることが可能であろうか。私は次のように考える。そういう見方も理論的には成立するが、実際にはやはり難しい。なぜなら、この後で考察することになるが、小畑の遺体に痕跡されている多数の被暴行的損傷(医学的所見から見て腐敗の進行とは認められない多数の痕跡)と胃袋内に内容物がないという絶食査問とか、これは触れられず見過ごされているところであるが指爪にリンチ跡らしきものがあるとかを考えると、小畑に対する暴行もまた 大泉程度のものであったとみなすことは困難である。むしろ、真相は小畑にリンチが集中していたのではないのか、大泉にも殴る蹴るはなされたであろうがかなり加減されていたのではなかろうか、という可能性が高いということになる。

 と云うことは、査問リンチ事件の真相は、大泉に対する暴行の下りはほぼ脚色で実際にはリンチ暴力は小畑に集中されていたのではなかろうかとの仮説を生む。この真相を極力隠すようにして関係者の供述調書、陳述調書が作成されているのではなかろうか。「大泉検診書の暴行的痕跡軽微の不思議」は、こう理解することで不思議でなくなるのではなかろうか。念の為、「大泉検診書の暴行的痕跡軽微診断」をもって、こたびの査問に暴行性はなかっと論ずることはできない。なぜなら、小畑の遺体に痕跡されている多数の被暴行的損傷は消せないから。


【事件露見、その壊滅的打撃考】

 次のショット。大泉の駆け込みによって事件が明白となり、警視庁は直ちに捜査に入ることになった。同時に新聞発表され、各社は「赤色リンチ事件」として大々的に報道することになった。これにより、戦前日共運動が壊滅的打撃を受けることになった。(宮顕はこの当時「白テロ」と認識していたようであるが、どういう位置づけによって「白テロ」としていたのかは解せない)

 昭和9年1.16、17、18日にかけて、朝日新聞を初めとする各紙は一斉に共産党の赤色リンチ事件なるものを報道した。当時の朝日新聞は、1.16日に 「共産党の私刑暴露/裏切り者惨殺さる」という見出しでまず事件の輪郭を伝え、1.17日には「殺された小畑達夫」と「私刑された大泉兼蔵」と「大泉の妻熊沢光子」の顔写真と共に、「加害者秋笹正之輔」と「秋笹の妻木俣鈴子」の顔写真が掲げられ、リンチ事件の首謀者として宮本顕治、秋笹正之輔の名前が挙げられた。

 報道の基調は、「このリンチが党中央部の指導権を握るためインテリ分子が労働者出身の者を排撃したのである」というものであった。この時の袴田の心情が次のように語られている。

 「1.16日各新聞の朝刊に右査問事件が発覚し、党の残酷なリンチ事件として報道されていたので非常に驚きました」(袴田16回調書)。
 「この事件が全国一斉に諸新聞に報道されたのでありますが、そこに表れたものは日本共産党は相次ぐ党員の検挙により、党内には疑心暗鬼が生じ且つ少数のインテリ分子が党中央の指導権を掌握せんとして反対分子を殺害したものであると云うことでありました」(袴田1回公判調書)。
 「かく日本共産党は醜悪なる陰謀団体であると報道されたのを見たときは、私は例のブルジョワ新聞一流のデマと思っていたのであります」(袴田1回公判調書)。

 袴田がこの報道をデマと思う感性が頂けないが、「我々のやった事は決して個人的な野心からではなく日本共産党を真実プロレタリアートの前衛党とする為の不純分子の排撃であった」(袴田1回公判調書)として認識していた氏の事件が発覚した当日当時の様子が伝わってくる。袴田は、「その日の夕方木島と連絡した際に」前日の午後の大泉逃亡のあらましの報告を受けたという。

 こうして「小畑査問死事件」は、検挙された宮顕の取り調べの際に特高が、 「『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た」とあるように、そのような意図の下に大々的に喧伝されていくことになり、実際にその後の党運動にはかりしれない衝撃を与え大打撃を蒙らしめることになった。

 これに対し、袴田は、いやそうではないのだ、「日本共産党を真実プロレタリアートの前衛党とする為の不純分子の排撃」闘争であったのだと言う。そう思わねば自身が納得できないほどに深く手を染めたということであろうが、実際は仮称「東京市委員会宮顕グループ」によるどす黒い党中央簒奪劇であったのではなかろうか。


 補足資料。平野謙・氏の「粛清とはなにか」(1957年)は次のように記している(「【かもめ】ふんどし先生クリニック【ワンカップ】の投稿bR596」より)。

 「1933年の暮れのわがリンチ共産党事件は、私自身にとってはひとつの躓(つまづ)きの石だった。党中央に潜入していた小畑なにがしをスパイ容疑で査問委員会にかけている途中、リンチのため死にいたらしめたという当時の新聞発表は、私に電撃的な印象を与えた。当時、私は宮本顕治を文芸評論家としてもつとも高く評価していたが、その宮本ともあろう人が、たとえ切迫した査問委員会の席上だったとはいえ、リンチというような手段に訴えたことを到底私は是認することができなかった。私は新聞発表とともに小畑のスパイであったことをほとんど全く疑わなかった。しかし、それとは別に私はリンチという手段をどうしても是認する気に離れなかったのである。小畑の死がショック死だったことを知ったのは戦後しばらくたってからだった」。

 平野氏のこの指摘は、「当時の新聞発表は、私に電撃的な印象を与えた」、「たとえ切迫した査問委員会の席上だったとはいえ、リンチというような手段に訴えたことを到底私は是認することができなかった」という感性のまともさに値打ちがある。リンチ事件は本来この観点から把握されねばならない。

 つまり、戦前日共党運動に於ける壊滅的悪作用を蒙らしめた事件であったこと、それが宮顕派の仕業であったこと、何ら正当な手続きを踏まない姑息卑怯野蛮無慈悲な遣り口での党内査問により、党の最高指導者である僅か5名のうちの1人の党中央委員がリンチ致死せしめられたことに特質が認められる。これらの不義を告発せねばならない。これが事件総括の基本姿勢となるべきであろう。

 しかし、平野氏には事大主義が終生付き纏う。事件直後は宮顕派党中央による小畑スパイプロパガンダの虚実を疑っておらず、戦後は「小畑の死がショック死だったことを知ったのは戦後しばらくたってからだった」とあるように、又しても宮顕派党中央による小畑ショック死プロパガンダの虚実を疑っていないことに認められる。評論家の眼力としてはあまりにも暗愚であるが、こういう手合いが多過ぎる。





(私論.私見)