第六幕目のワンショット。何となく査問の打ち切り模様になった。袴田は次のように証言している。
「小畑が死んだ刹那から私共はそれまで続いていた極度の厳粛な緊張感から一時に解放されてホットした気分となり、彼らに対する査問も一段落ついたと思ったのであります」(袴田16回調書)。 |
この「ホットした気分」の考察に注意を要する。今回の査問の主目的が小畑の査問であり、大泉は刺身のつまのようなものであったことを証左しているのではなかろうか。そういうセンテンスでここを読みとる必要がある。単に小畑の死亡により当惑したというのではなく、「とうとうヤッテシマッタ」という気分があふれている雰囲気を読みとる方が正確と思われる。
次のショット。逸見が次のように証言している。
概要「自分は狼狽して、『もう査問会は中止だ』と独り言のように云い部屋の取り片付けを為し他の者もザワザワ致し居る中、この後袴田は急に階下に降り、畳を上げ床板を上げかかり居るにより、自分は同人に対し『昼中かようなことする必要なし』とて押し止め、二階に上がりて一同と前後の処置を考えることと為りたり」(逸見調書)。 |
次のショット。上述で査問会が打ち切られ模様になったことを述べたがその前後のどの時点かが特定できないが、大泉の措置が次のように為されている。小畑の死亡が確認された後、大泉が査問されることになった。袴田は次のように証言している。
「大泉に対する私たちの峻厳な態度も幾分か緩和される結果を生じたので、大泉もホットしたのではないかと思います。それで、私共は今後の方針を聞くと、大泉は『どうか命だけはお助け下さい』」と繰り返し、『田舎へでも帰って百姓でもして平和に暮らしたい』とか、『これからは警察について活動しないのは勿論組織について運動もしないからこれで勘弁してくれ』と頻りに哀願していたのであります。それで私たちも今暫くほとぼりが冷めたら釈放する旨申し渡して大泉も大分安心した様に思います」(袴田16回調書)。 |
この時、「その目の前で宮本が小畑の死体を足で蹴ったら『ウウウと微かな声を立てた』といっておりますが、 之も言語道断のデタラメであります」(袴田18回調書)という陳述が為されている。大泉調書では、「宮本がその時私に『貴様は幸福なのだ見ろ』と云って其処に長くなっていた小畑を蹴ると、『ウーン』と幽かな声を立てました」(大泉16回調書)と述べていることに照応している。真相は判らない。宮顕はそこまでやるのかという思いもある。
ここで、この二日間に亘った査問における査問者の役割と行動に関して印象を述べた大泉の陳述があるので紹介しておきたい。
概要「この査問の二日間私は人間的に一番恐怖を感じたのは木島でした。木島が一番行動的でありました」、「ここに最も同情すべき人物は木島でありましょう。彼は党に盲目的に忠実で何も判らず彼らの命令通り行動したのではないかと思われます」、「(このたびのリンチは誰が一番首魁であったか、という予審判事の問いに対して)それは勿論宮本が首魁でありました。彼の指図により木島以下の他の連中が私にテロを加えたのでありました。しかし宮本は卑怯な奴で云々」、「秋笹は宮本より余計に臆病で云々」、「袴田も臆病なところがあり云々、決定的の場合には責任を他に転嫁して逃げる卑怯者です」、「逸見は一番人間が善く凡そリンチとは縁遠い部類の人間ですが、恐らく宮本等の行動に参加せねば私と同様な運命に置かれることを恐れ、半脅迫された形でこのたびのリンチに加わったのではないかと思います」(大泉16回調書)。 |
私は、大泉のこの陳述はこれでも随分控えめに言っているようにさえ受け止めている。
大泉が放置されることになったいきさつについて、1934.1.17日付け赤旗で明らかにされている。大泉の手記の「附記」として書き添えられている。文体と文意の嫌らしさからして宮顕の手になる文章と思われるが、この時宮顕は獄中にあるからして解せないが、このことはともかく見てみることにする。
「『人の将に死なんとするやその言やよし』。スパイ片野の最後の告白の態度は、終始悲鳴を以って一命を乞うた彼としては、あまりに大出来である。但し、彼としてはかくの如き観念の臍を固めることは却々容易にできなかった。例えば、彼が最初にものした手記には『私の罪こそ実に断罪に処せられるべきでありますのに、日本共産党中央委員会のプロレタリア的な情けにより一切を自白いたしました上は、命だけはお許し下さるとの言葉に接し、実に感涙にむせぶ次第であります。私は党より除名されてはじめて党の道徳的情けを痛感するものであります。以後は一切のスパイ警察関係の者とは会見その他の交渉をいたしません。そして誓って一切の天皇制反動と手を切ります』とばかりに、唯々腐れ果てた身を守ることに汲々としていた。彼の『心境の変化』は、彼を監視した英雄的同志達の献身的態度に動かされたのであるか、それとも最後の一芝居であったかを知らない。今我々は彼がいかなる運命を辿っているかを知らない。ただ同志レーニンと岡野の次の如き教訓を書く。『我々はスパイ挑発者を時としては死刑にすることがもちろん絶対に必要である。だがそれを原則とすることは極めて不都合であり、誤りである』。英雄的同志諸君!革命的労働者諸君!全勤労者諸君!今こそこの教訓を充分に理解せねばならぬ」。 |
読んで分かるように、得々として査問側のお代官的お情けを饒舌しているが、いかに凄惨な査問であったかが自ずと知れるという辻褄になっている。
次のショット。こうして善後策が協議されることになった。この会議は小畑が死亡しているその部屋で行われたようである。その後、階下で食事をしながら話
し合いがなされたということである。袴田は次のように証言している。
「我々としては、大泉・小畑が一日や二日の査問でスパイの事実を自白するとはもとより予期しないところであったので、
又我々が下部組織の全部と連絡をつける為にも少なくとも一週間くらい拘禁する必要を感じていたのであるから、査問を始めてわずか二日ばかりで突然小畑の死に直面したということは、我々としては意想外の事実の発生に少なからず驚いた訳で、これ以上査問を延引していて又不慮の出来事を起こしてはと思い、大泉の自白にも未だ多分に疑わしい点はあったのではあるが、とにかく
自白を得たのであるから査問はこれで中止しようという気持ちになったのです」(袴田3回公判調書)。 |
この陳述で注意を要するのは、「少なくとも一週間くらい拘禁する必要を感じていた」という部分である。少なくとも一週間飲ませず食わせずしたら一体どうなるのだろう。恐らく、小畑は少し触れられただけでホ
ントに「異常体質性ショック死」で自死したことであろう。どうやら宮顕−袴田ラインは直接的暴力の加圧によらず自死することを願っていたのではなかろうか、と思われる。従って、小畑の逃亡行為はそのシナリオを察知した奇しくも偶然な氏の最後の革命精神の発揮であったということになるであろう。
袴田は次のように証言している。
「小畑がいよいよ死んだとすれば、もうこのアジトにも長くいる訳にも行かなくなり、
又残った大泉夫婦の処分の問題もありますので、暫く小畑をそのままにしておいて、木島をその席から外させて、宮本、秋笹、逸見、私の4名で会合を持ちました」。 |
「そして、大泉夫婦の処置については、至急にどこか他に適当な場所を借り受け、誰かそこに住み込み、大泉夫婦を暫く監視して、同人等が自首しないと見極めがついた時に釈放することにして、その監視は木島が引き受ける事に決定しました」。 |
「小畑の死体の処分については、正式に協議にかけた訳ではありませんが、この時誰しも死体を外へ持っていって埋める訳にも行かないので、アジト内部に埋める処置しかないことはもちろんのこととしておりましたので、従来のアジトの関係上秋笹が死体の処置を引き受ける様な形となったのであります」(袴田12回調書)。 |
この時かそれ以前かこの後の中央委員昇格決議の後のことか不明であるが、袴田自身が、「死体を埋める為に床下を見ようと思って階下に降り、8畳の間の畳を1枚か2枚上げた事は事実であります」(袴田12回調書)と陳述している。袴田のこの時の動きが袴田らしい。一階の畳を取り外して床下を覗く行為をしているが、特段の指示はしていない。
「別に誰の口からもどうしようと云う話は出たわけではないが、死体をそのまま放っておく訳にも行かぬ故、床下にでも埋めねばならぬと考え、床下を見ようと思い階下8畳の部屋の畳を一枚か二枚取って見ました。口にこそ出さぬが一同の考えも自分と同じだった事と思います」(袴田3回公判調書)。 |
ここの部分につき、逸見第19回予審調書では次のように供述されている。
「階下にて宮本、秋笹、袴田、自分らにて善後策の協議の結果、秋笹及び木俣が暫くこの家を引っ越さずに居残ることになり、又死体の処置については、袴田があれは埋めるより外に仕方がないだろうと言いたるだけにて他の者は何も言わず、結局秋笹にその処置を一任したる形となりたり」。 |
|