第5部の2 | 補足・小畑の死亡原因考 |
(最新見直し2011.01.06日)
題名 | |
小畑の死亡原因の推定考 | |
小畑査問致死事件がどのように伝えられたか考 |
【小畑の死亡原因の推定考】 | |||||||||||||||||
以上の様子から考えると小畑の死因は様々に考えられる。少なくとも関係者の突発性対応による「致死」事件であることには相違ない。この経過からすれば、直接原因は、
ということにな るであろう。5の当事者全員の暴行による「脳しんとう死」はもっとも考えにくいが、最初の「村上・宮永鑑定書」が「脳しんとう死」の可能性を中心に据えて詮議したことにより、不自然なことに小畑の死因は「脳しんとう死」でありや否やをめぐって争われることになった。
ところが、宮顕は、戦後になってこれらの原因説を一蹴して、6・「異常体質性ショック死」という死人に口なし説を主張し始めた。 この捉え方に近いものとして7・「自然死−心臓麻痺死」も出てくる。8・宮顕が「梅毒死」の可能性にまで言及していたことは既に指摘したところである。9・袴田は「脂肪による心臓肥大ショック死」も推定して見せている。以上、小畑の死因については上記9説が考えられることになる。このうち宮顕の6.7.8説、袴田の9説は、表記5説までと大きく性格を異にした大変不自然、狡猾な説ではあるが、当事者の弁明であるから無視することはできない。
「宮本公判判決文」にかく記されているからには、宮顕はそのように主張していたのであろう。が、判決では次のように却下している。
「党内問題説」としては次のように主張している。
「宮本公判判決文」にかく記されているからには、宮顕はそのように主張していたのであろう。が、判決では次のように却下している。
ところが、戦後になって宮顕は、「月刊読売」(昭和21.3月号)に、「赤色リンチ事件の真相」という見出しの元に「スパイ挑発との闘争」を発表し、小畑の死因について、あれは「異常体質によるショック死だった」と発表するところとなった。次のように主張している。
この主張の欺瞞性は、「再鑑定による古畑鑑定書」が、「脳しんとう死説」を否定して(ここはまぁ合ってる−私の注)、むしろ「ショック死説」と推定すべきであるとした(ここが詐術である。注意深く単に「ショック死説」としている。−私の注)と言う言い回しにある。
と、わざわざ「小畑の殺された前後の経緯」部分につき「事実と相違したことを申しだてたかも知れません」とウソ陳述であることを自ら認め、「もし間違ったことがあってもご寛恕を願います」と結んでいる。つまり、云うに云えない裏事情があり、その辺りの忖度を頼むという構図になっている。 れんだいこは次のように考えている。まだまだ明らかにされていない調書があるとは思うが、おおよそにおいては小畑の死亡経過はここに記したようなドラマ通りであったものと思うので、突発性対応型の暴行致死とみる。肝心な点は、「食事を給せずして監禁を継続」というこの間5食分食事が与えられていないことと、長時間査問による体力消耗の極致にあったところへ、最後の死力を尽くして逃げ出しを図ったところを集団で押さえ込まれたことによる、「突発性急性疲労・過労ショック性暴行致死」ではなかったかと思う。こういう場合、医学的に正式にはどう言うのであろうか。 なお、暴行のうち誰の暴行が決定的要因であったのかを特定することにどれだけ意味があるのかは判らないが、考えられるとすれば、逸見による窒息死か宮顕による圧殺死であるように思われる。但し、逸見による窒息死の場合は、喉を締めたのか背中側の頸を締めたのかが多少問題となるが、どうやら袴田の指摘する通り後者のようである。ということは、袴田の 「生涯を通じて、これだけは云うまいと思い続けてきた」告白こそ真相を吐露しているのではないかということになる。 ところで、小畑に暴行が加えられていたことさえ否定しようとする見方が今なお根強くあって議論されている。そういう方たちに参考までにお伝えしておくと、内務省警保局保安課刊行の極秘文書〈特高月報〉昭和9年1月分は、「小畑達夫惨殺事件」、「大泉・熊沢惨殺未遂事件」とタイトルを付けている。否定論者は、警察が意識的にフレームアップしようとしてこういう表題を付けていると窺うのであろうが、私の考えでは、これは内部通信でもある点を考えるとフレームアップ視は少々穿ちすぎではないかと思わせていただく。惨殺とまではいかないまでも結果的には暴行致死事件であったことは疑いないように思っている。 |
【小畑査問致死事件がどのように伝えられたか考】 | |||
ところで、この査問による小畑の死亡が当時どのように伝えられていたかについての貴重な資料がある。1946(昭和21)年2.15日発行の人民社から出版された「日本革命運動小史」が刊行されている。これは佐和慶太郎氏、芝寛、松本健二らが主催する人民社が、1944年8月に在中国日本人解放同盟の機関紙に載った「日本革命運動小史」論文を英語から翻訳して出版したものである。「日本革命運動小史」は、延安に結集していた野坂らが中心となって、その機関員等の手で「ソ同盟共産党史」にならってわが国の革命運動の歴史を概括したものであった。主として鹿地亘の手によってまとめられていたと伝えられている。 この小冊子には、最後の方に宮顕らのリンチ事件が取り上げられていて、次のように記述されている。
明らかに宮顕らをおとし込めようとしているのではなく、逆にそのスパイ摘発闘争支援の左派的観点で記述されていることが分かる。これが「査問事件」に対する当時の党員間での一般的な了解の仕方であったように思われる。 但し、これには後日談があり、 同年4.23日アカハタで「党声明」として、「人民者発行『革命運動小史』/ゆるしえぬ誤謬/即時発売停止を要求す」という小見出しの記事が掲載されている。宮顕のイニシアチブによるものと推定できる。佐和は党本部に呼びつけられて、長文の自己批判書を書かされることになった。こうして、人民社は「党声明」に応えて絶版にすることにしたという。この経過は、宮顕の出版妨害事件の最初の事例となっており、結果として、宮顕のイニシアチブは一出版社の生殺与奪に関与したことになる。 が、実際には在庫品に修正の貼り紙をつけるという方法で改訂したようである。その改訂版では次のように記述されていた。
ここでもトリックが使われていることが分かる。小畑は当時4名しかいなかった中で、宮顕の先輩格の中央委員であったが、その立場が消され、「党のごく近くにいたスパイ」、「その男」と貶められている。事情を知らない者がこの話法を聞かされるとなるほどと思わせられるであろう。これも宮顕の常套手段であるが、相手を徹底的に無知なままにしておき、得意の文章術で如何様にでも言い含めるという遣りかたの一例としても、この出版差し止め事件には値打ちがある。 もう一つここで触れておくことがある。栗原幸夫氏の貴重な証言がある。逸見は予審調書で小畑死亡時の宮顕の関与ぶりをあからさまに語ったが、戦後再会することになった逸見に見せた宮顕の態度が次のようなものであったということである。栗原幸夫氏が著書「戦前日本共産党史の一帰結」)の中で、次のような貴重証言している。
もう一つ。宮顕の異常体質性ショック死論法が特高の拷問死の発表の仕方とよく似ていることを確認しておこうと思う。「特高警察黒書.124P」以下を参照した。党中央委員岩田義道は、1932.10.30日に検挙され11.3日に警察病院で絶命したとされている。拷問死は歴然であったが、警察病院は、「肺結核を患い、脚気衝心で死んだ」という死亡届を出した。記事解禁後の新聞報道も、「岩田は肺結核の上に脚気を患っており、逮捕以来連日暴れ狂ったのが原因」(東京日々新聞号外)と、警視庁特高課の発表そのまま書いている。だがしかし、遺体を引き取った者の証言によれば、概要「大腿部は恐ろしく腫れ上がって暗紫色を呈しており、目も当てられぬ様になっていた。特殊の拷問用具によって圧殺したものと思われる。足と手には肉に食い入った鎖の後が残っており、胸部に打撲様の内出血が見られ致命的なものである」と伝えられていることは衆知のところである。 著名なプロレタリア作家小林多喜二は、33.2.20日検挙され即日死亡したが、警視庁は「心臓麻痺による急死」 と発表し、遺体の解剖さえ妨害した。事実は即日なぶり殺しの拷問死であった。毛利特高課長は、「調べてみると、決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げ回るうち、心臓に急変をきたしたもので、警察の処置に落ち度はなかった」と述べている。今日遺体写真が残っているので死因の真相について私が敢えてのべるまでもないが、おおよそ心臓麻痺説を単に信じる者はおめでたい人というべきであろう。 宮顕の「異常体質性ショック死」論がこの特高の口上と如何によく似ていることだろうか、と思う。宮顕の言うことを真に受けるあたりのとこまではその人の勝手であろうが、それを人に吹聴するなどは余程の赤面士であることを自認していただかねばなるまい。 |
(私論.私見)