第4部の3 補足・「予審調書・公判調書の信頼性」について

 (最新見直し2010.01.06日)

投稿 題名
補足 れんだいじさんへ
補足 浩二さんへ
「予審調書・公判調書の信頼性」について
補足 「田中清玄氏の「清玄血風録・赤色太平記」


【「浩二」氏との遣り取り】
 「さざなみ通信」投稿中のれんだいこ文に対して、「日本共産党ウォッチ」で「宮顕リンチ事件」考察の論客として鳴らしていた「浩二」氏より「れんだいじさんへ」と題する次のレスが為された。これを転載しておく。
 11月10日付、れんだいじさんの投稿「その4、23日当夜の査問再現ドラマ」 に関して、ひとつだけ質問します。 「全体的に云って各予審調書並びに公判調書は不自然なまでに宮本の関与部分の記述を極力避けようとしているように見える。誘導尋問がなされたのはこのセンテンスにおいてであり、 逆ではない。ここのところを踏まえないと論議が噛み合わなくなる。本筋から離れるのでこれ以上述べないが、特高と司法当局 奥の院が介入しているのは如何にして宮本勢力を温存するかに傾注していることであったことを知るべきだろう」

 これはどういうことでしょう? 「如何にして宮本勢力を温存するかに」? 何 のことでしょう? なぜ「特高と司法当局奥の院」は「宮本勢力を温存する」必要があるのでしょう? これには何か確たる証拠というか、資料があるのですか? それとも、れんだいじさんの想像ですか? まさか……(以下、あまりに もこわいので略)。 PS:私の方も以後、れんだいじさんの投稿を堂々と引用することにします (^-^;)。

 このレスに対して、「浩二さんへ」と題して次のように返答した。
 浩二さん、はじめまして。ウオッチでの奮闘ぶり拝見させて頂いております。 大変でしょうが、引き続き座持ちのほどよろしく。こちらからエールをお送りいたします。それと貴重な資料の開示も引き続きしていただれば助かります。すでに使わせていただきましたが、浩二さんなら無断拝借とは失礼なとは言わないであろうと勝手に思いこみ利用させていただきました。当然のことですが、 私の投稿で使える部分がありましたらどうぞご利用下さい。事件の真実の解明に手分けしてやって参りましょう。それと、これを機会に浩二さん風の物言いも使わせて下さい。例えば、「ボソッ」とか云う表現、気に入っていますので。

 さて、「それとも、れんだいじさんの想像ですか? まさか……(以下、あまり にもこわいので略)」についてですが、結論から言えば、「想像」の類です。しかし、この「想像」には根拠がありすぎるというのが私の認識です。その根拠については、「査問事件」一つ取ってみてもこれからもおいおい明らかにしていくつもりです。したがいましてせめて「推測」ということにして下さい。なぜこのような「推測」に辿り着いたかというと、遠因としては私の学生時代の運動経験から始まっていると言えます。以来30年来のブツブツを経て、このたび「さざ波通信」との出会いがきっかけとなり、投稿上の責任を感じたところから党の戦後史からの見直しを始めたことを通じて今や「確信」に近いものになっております。長年のもやもやが晴れたような思いをしております。要は、婉曲的に言って「宮本無謬論」は、単に何も知らされていないことが原因になっているということです。だから、今もっと知ろうとしているわけです。もっとも、この「確信」 については、せんだって吉野さんから強くお叱りを受けました。しかし、私がためにする批判をしようとしているのではない点については、吉野さんも編集部の方にもきっと手応えで感じていただけているものと勝手ながら思わさせていただいております。

 なぜ「確信」にまで辿り着いているかというと、一つには現況の党のあり方に対しての強い不満があります。先だっても党首会談が行なわれましたが、不破氏は原子力の問題についてあれこれ重箱をつついた様ですが、普通は党の代表が真っ先にせねばならないことは現下の経済不況に伴う大衆の呻吟を伝えることでしょう。あるいはまた経済活性化への道筋の提言などもされても良いでしょう。が、そのような発言はなかったように思っております。こうした不自然さの根は深く、はるか「50年問題」まで遡らねば解けないというのが私の考えです。この時徳田執行部から宮本執行部への「宮廷革命」がなされ、党中央を簒奪した宮本執行部的なあり方の帰結が今日の党の非共産党的状況を生み出しているとみなしています。ところが、そうした「宮廷革命」の「正義」的事実さえ党内的に正確には認識されていないという変りくりんが幅をきかせているように思っています。もっとも私も知らなかったわけですから誰を責めるというものでもありませんが。したがって、情報の閉鎖に対する戦いが今求められているということになります。ひょっとして「しんぶん赤旗」の愚にもつかない長論文は、そこでへとへとにさせてしまう政略かも知れないとさえ思ったりしています(もう、やめとこ、ボソッ)。

 問題をそのように嗅ぎつければ、勢い次の問題は宮本氏その人がどういう人なのかという解析になります。つまり、宮本氏の人物的観察から始めねば 宮本執行部をトータルで把握できないのではないかという認識が生まれるわけです。そういう観点から自伝的なものを捜しましたがめっきり少ないということでした。そこで、彼の登竜門をなした「敗北の文学」の解析から論を起こすことにしました。そして今「査問事件」の解析へと踏み込んでいます。今気づきつつあることは、戦後の「宮廷革命」時の原型がこの「査問事件」の前後の経過にほぼ出尽くしているように思えることです。戦後徳田執行部の連中がまんまとやられてしまったのもむべなるかなという思いがしています。話がどんどん長くなってしまいますので、ひとまずこれで失礼させて下さい。

 「浩二」氏はその後プッツリと消えている。身辺に何事か起きていなければ良いのだがと心配している。

 2011.1.6日再編集 れんだいこ拝

【「予審調書・公判調書の信頼性」について】

 いよいよ「小畑死亡」の経過と様子について再現ドラマするところまできたが、ここら辺りで「予審調書・公判調書の信頼性」について検討してみたい。それらを如何に正確に読みとろうとしても、「予審調書・公判調書の信頼性」自体を否定し、あらかじめ結論ありきでこの事件に対する宮顕の冤罪性を確信する者には役に立たないと気づいたからである。

 宮顕は今日系の日本共産党執行部の創立者であり、その宮顕の党活動を否定することは現日本共産党の執行部の信頼性を損なわしめることになるのは致し方ない。そういう観点からであろうが、何とかして宮顕の無実性に拘ろうとする気持ちは分かる。しかし、ここで考えてもみよう。当時の野呂執行部下の党内分裂状況にあって、宮顕一派が小畑派を駆逐するにも一定の左翼的ルールというものがあるべきではなかったのか。当時党内が深くスパイによって汚染されていたにせよ、既に数少なくなっていた戦闘的党員を誰彼構わずスパイ呼ばわりして党内清掃に狂奔していたのは宮顕一派ではなかったのか。この事実は隠蔽できないであろう。

 小畑派は、同じ現象を前にして、党内の信頼できる線を探りひたすらに構築しようとしていた。当時の戦闘的活動家に残された手段はそういう方法しかなかったのである。つまり、小畑派は、党内清掃に狂奔する宮顕派の動きを苦々しく見ていたということになる。

 肝心なことは、宮顕派のそういう動きが真に党を愛し、党活動の隆盛に向けてなされていたのなら単に方針の違いで済まされたであろうが、実際には当時の当局特高の狙いに相呼応するかのごとく、スパイ摘発闘争という名目で内から党中央と全協の最終的解体に向けて瓦解活動が展開されていったということにある。事実、「査問事件」によりほぼ党中央は解体され、以降敷かれた宮顕路線に沿って袴田執行部により全協つぶしにいそしまれることになった。これは史実であるから、嫌も応もなく銘々が調べればよい。くれぐれも「赤旗」だけを頼りにしてはならない。

 小畑は、実質的に見て戦前最後の労働畑出身の党中央委員であった。不運にもスパイの汚名を今日まで着せ続けられているが、この「査問事件」の査問経過によってもスパイであることが明らかにならぬまま、本人も強く否定したまま最後を遂げた。しかも警察権力の拷問によっでもなく内部の白色テロによって。「査問事件」にはこうした意味の重大性が今日尚まとわりついているのではないのか。この見方を否定するなら、今からでも遅くはない小畑のスパイ性を明らかにしなければならない。ここの詰めをなさずに今日まで経過して封印されていること自体異常なのではないのか、と思う。


 最大の争点は、宮顕一人獄中で非転向を貫いたという神話に依拠した氏の権威をどう見るかになってくる。多くの党員が、宮顕に対するそういう絶対評価から、あらゆる事実を宮顕の無謬を引きだす方向に努力しているように見える。毎日毎日「赤旗」論調に慣らされるとそうなるのかも知れない。私は全く逆に見ている。なぜ、宮顕一人が予審調書一つ取らせず、獄中12年を無事経過し得たのかと疑惑する。言うまでもないが宮顕が虐殺されるべきだったというのではない、他の有名無名の活動家の多くが虐殺ないし仮死状態の拷問に追い込まれていた中で、なぜ宮顕は持久戦に持ち込むことができたのかが判らないし、むしろ不自然であるということが言いたい訳だ。

 宮顕の獄中下の様子についてもおいおい述べることになると思うが、中条百合子との往復書簡を見ても、その他同時期の獄中党員によっても宮顕の獄中生活の奇異な様子が知らされることになる。この場合、奇異とは豪奢なと言い換えてもよい。普通自分一人がぬくぬくと獄中におれるという神経は並ではない。

 それより何より、宮顕の公判調書を見れば、自分は何一つ調書取らせずいて他の逸見・秋笹・袴田・大泉等のそれには存分に目を通して反論している様がうかがえる。弁論をいかにもっともらしくなしえたとしても、自分は手の内を晒さず相手の手の内を全部知ることができる宮顕の状況こそ変ではないのか。遺体鑑定書もその他関連医学書も実に自由に閲覧していた風が知れる。他の逸見・秋笹・袴田・大泉等の訊問の様子からうかがえることは、食い違い箇所について、他の者の調書を予審判事が読み聞かせた上で陳述を催促されていることである。何と大きな違いであろうか。宮顕の暗黒裁判、政治批判にせよ、それが当の「暗黒」法廷で滔々となされているという事自体変ではないのか。

 こういう観点から見れば、「査問事件」当時の査問状況も極めてオカシイ。なぜ、先輩格の中央委員ともあろう者を拉致監禁した上で査問せねばならなかったのか。なぜ普通に同志的議論でもって大泉・小畑に対して相対し得なかったのか。大泉、小畑らがそれまで他の同志達をリンチ査問する等凶暴であったというのならまぁ判らないでもない。事実は逆ではないのか。

 この点について、大泉公判に関連して証人として陳述した中央委員・松尾茂樹は、昭和13年4.7日次のように述べている。貴重な証言である故に別枠で表示する。

 「宮本等は、田井を全然知らない会ったこともないし且つ労働組合方面の知識は全くない男であります。それにも関わらず、単に三田村が云うたとか部会を開かなかったとか云うことを根拠としてスパイ呼ばわりするのは、彼らの軽挙極まるプチブル性を暴露したセクト的行動であります」
 「宮本や秋笹の如きは、根も葉もないことを根拠として同志をスパイ呼ばわりする常習犯であります」
 「なお、大泉.小畑の査問に際し、 彼らが取った態度も私には全然不可解であります。すなわち、彼らの云うが如きスパイの理由が明白ならば、なぜ小畑だけを殺して弱点の多い大泉を残したのか甚だなっていない処置であります」
 「しかも、後になって殺す心組はなかったと云うが如きは非常に卑怯な態度で、もしスパイであることが明らかならば、プロレタリア的断罪としてこれに犯罪をもって望むのが当然であります」
 「小畑だけを殺したところに宮本等の意図を窺われるのであって、自己の政治的闘争相手たる小畑を倒し無能な大泉を故意に残したのであります」。

 偶然ながら、私はこの松尾氏の観点にほぼ全面的に近い。それにしても松尾氏はよくぞ云ってくれた。氏の宮顕観は、「労働組合方面の知識は全くない男」であり、「セクト的行動」であり、「同志をスパイ呼ばわりする常習犯」であり、概要「甚だなっていない処置をする、非常に卑怯な態度」の持主であるということだ。現下党員は、この悲痛な叫びを肝に銘じるが良い。なお、この松尾氏はこの証言後獄死させられている。これも変ではないか。

 この時点では党籍上同志でもあり中央委員でもある査問相手を、手縄・足縄・ 猿ぐつわにして食事を供せずという行為だけでも既に許されざる査問形式ではないのか。それがショック死であろうが心臓麻痺であろうが、それ以前においてさえ弁解不能の行為をしているのではないのか。恐らく後一、二日経緯しておれば実際に体力消耗的なショック死をさせられていたと思う。

 事実は、小畑は果敢に査問の罠から逃れようと格闘し、一身をあがなうことで今日貴重なメ ッセージを残すこととなった。恐らく小畑の最後の革命家魂がそうさせたのだと受け止めている。実際、こんな査問が許されるなら、私も含めて庶民大衆は党に近寄ることさえ憚ってしまうべきではないのか。単に除名する、一時拘束するというのが党中央の一致した見解だったなどと強弁するのはいい加減にして貰いたい。

 それが治安維持法下の特殊情勢で起こったことであるからという特殊事情理論も嘘臭い。治安維持法下の困難な最中であればこそ数少ない活動家はお互い大事にされねばならないのであるし、そういう最中を活動している者に対してスパイ容疑の査問をするのであればなおさらルールが必要であるのだし、ましてこのたびの査問において小畑のスパイ性は非明白にこそなりつつあったのではないのか。

 スパイであったとして(宮顕は、この査問の過程で小畑の明白なスパイ性の根拠として高橋警部の存在を指摘し、小畑を手引きしていたと言い繕ったが、立花氏の「日本共産党の研究」によれば、高橋警部なる者は所轄にも本庁にもいないということである。これも大変な事実が明らかにされていることになる。宮顕冤罪論者は、この点も弁明する必要がある)も、逸見が当初言っていたように党から放逐し連絡線を切ればよいのではないのか。小畑等が反党運動を起こす恐れあると危惧するという姿勢は、党の利益よりも宮顕派のセクト的利益を上に置こうとする論理であり、何よりそういうスパイに攪乱される程当時の党員の意識が低いという認識を前提にしていることになり、全く失礼というものであろう。一体全体、この宮顕−袴田ラインの思考様式こそ一から問題にされねばならないところが多すぎる、というのが私の考えである。

 この投稿文の最後に言っておきたいことは、この「査問事件」が反共攻撃に利用され続けるとするならば、これを問題にする方の不当性をなじるよりは、早急に全面的解明を行い党内的に総括しておく方向に向かおうとするのが尋常な思考態度ではないのかということである。

 肝心の「予審調書・公判調書の信頼性」について言及することを忘れてしまった。とりあえず法的には次のように理解するのが相当のようである。時間がないのでそのままお借りする。「スパイ挑発との闘争と私の態度(袴田里見)」 (「赤旗」1976年6月10日付け)を拝借させて頂いた。

 「戦前の刑事訴訟手続きでは、警察の取調べの記録である聴取書をもとに裁判所の予審がなされ、その予審調書を基礎に公判が進められた。また、裁判官人事も司法省が握るなど、事実上裁判の独立もなく、予審判事らは特高警察や思想検事の判断に依拠した。警察の聴取書は、一般的には、拷問、脅迫、長期の警察拘留による精神的肉体的衰弱につけこんで、被疑者や『共犯者』なるものに『自白』させ、それらをもとに警察が、どういう事件として送検するか、なにをその被疑者の『犯罪事実』とするかについての“構想”をまとめてから、それに合わせた尋問をして作られていく」。
 「裁判所の予審では、予審判事が聴取書をもとに尋問し、裁判所書記に調書を書かせていく。警察の取調べはもちろん、予審尋問でも、弁護人はつかず、『共犯者』なるものや証人を出席させて被告人からの反対尋問にさらすこともなく、予審判事が自分の都合に応じて、“だれそれはこういっているがどうか”といった質問をするだけである。当時は公判も、 予審調書をもとに裁判長が被告人を尋問する形ですすめられ、被告人の陳述もどうしても予審調書によって制約される。その結果、特高が作った事件の構想にもとづく尋問の内容の記録が、訴訟全体の出発点となり、また、密室の審理である予審の調書が、決定的意味をもった。こういう密室の審理では、取調べ側の主張が全体の基調となり、取調べ側の主張の矛盾の追及とか被告人に有利な事実や主張の解明とかはほとんど不可能である。その暗黒性は、 治安維持法裁判ではとくにはなはだしい。査問状況にかんする私の不正確な陳述は、警察の取調べや予審という密室の審理のもとで生まれたものである」。

 で、こういう刑事事件的なものについても暗黒政治的圧力が働き、つまりは 「査問事件」関係者の調書もあてにならないというのが言いたいのだろう。しかし、痩せても枯れても予審判事は予審判事であり、独立性のかけらもなかったとみなすのは実際にはどうだったのだろう。司法の出先機関は警察とグルであり、予審判事は特高のシナリオ通りに下働きさせられるモルモット的存在に過ぎないということになるが、こうなると予審判事論の範疇になりそうなので法曹関係者により是非解明して貰いたいところだ。

 それと、「査問事件」の場合、 当時の関係者全員がこちらも痩せても枯れても一応党の最高幹部である中央委員ないしその候補者たる者が聴取されたのであり、予審判事との(この陳述時には拷問はなかろうと思われるが)やり取りに全く没主体的に誘導されたとしたら、その方が問題ではないのか。同志かつ自らの党の中央委員たる者をそうは愚頓扱いしない方がよいように思われるけど。そういう御都合論理を称して天に唾すると言わないのかなぁ。


【「予審調書・公判調書」について】

 二村一夫著作集刑事記録の資料的価値に、戦前の予審訊問調書制度に対する考察が為されている。れんだいこ風に整理し直してみることにする。

 戦前の取調べは、次のように制度化されていた。まず、検挙された被疑者は、警察官ないし刑事、特高警察によって取調べがおこなわれ、警察官聴取書が作成される。この場合、思想犯の場合特に、拷問手法による虐待ないし取調べが常態化していた。

 次に、検事による取調べが行われ、検事聴取書が作成された。この段階に於いても拷問手法による虐待ないし取調べが常態化していた。

 次に、旧刑事訴訟法においては予審訊問調書制度があり、判事による取調べが行われた。判事の取調べ段階では、拷問手法による虐待は常態化しておらず、政治犯の場合専ら思想問答が行われていた形跡がある。

 同法第295条第1項には「(予審は)被告事件ヲ公判ニ付スヘキカ否ヲ決スル為必要ナル事項ヲ取調フルヲ以テ其ノ目的トス」とあり、同第2項には「予審判事ハ公判ニ於テ取調へ難シト思料スル事項ニ付亦取調ヲ為スヘシ」と記されている。この規定により、被告は、公判廷に先立って予審で取調べがおこなわれた。


 警察、検事の取調べが比較的短期間でおこなわれたのに対し、予審では長い時間をかけ、弱い被告から攻め落し、その調書を他の被告を攻める材料に用いるという方法が執られた。あるいは、主義者として信ずるところの所信を積極的に披瀝することの理を諭され、当初の徹底した黙否戦術を撤回し、むしろ積極的な供述(陳述)へ向うことになったケースが多い。この手法は最終的にかなりの効果をあげた。皮肉なことに、今日、戦前の党活動の全貌がこの時作成された調書によって判明している。「予審調書の信頼度はかなり高いと考えられ」、そういう意味で貴重な資料となっている。

 予審調書は、形式上一問一答式に作成されている。これは、速記録ではなく、予審判事と被告の口述遣り取りを予審判事がメモしたものを、書記が予審判事の言う通りに書きつけるという手法で作成されたとのことである。その記載された事実に対して訂正を要求するについては、認められる場合もあるしられない場合もあったようである。最終的に調印を強いられている。

 予審調書は数回ないし数十回の面談毎に作成されており、最終的に予審終結決定書が作成される。こうして予審を終えた後に「被告事件ヲ公判ニ付スル」か「免訴」あるいは「公判ヲ棄却」するかが決定される。「公判ニ付スル」場合には、「罪ト為ルヘキ事実及法令ノ適用」を示すことが必要であった(刑事訴訟法第312条)。

 このため、予審終結決定には、被告人1人1人について、「罪ト為ルへキ事実」として入党の年月日、勧誘者、主要な会議への出席などの「事実」が列挙されている。「事実」認定の根拠が示されていないので限界はあるが、厖大な予審調査書の索引として利用することができる。


【補足・「田中清玄氏の「清玄血風録・赤色太平記」】

 戦前の検事・判事の実態に対する貴重な手記が見つかった。田中清玄氏の「清玄血風録・赤色太平記6」(『現代』76.6月号)である。加周義也氏の「リンチ事件の研究」より引用した。当時の司法制度の全体像を把握したものではないが、宮顕論理の「ひたすら暗黒裁判」説の虚構を崩すには十分である。「自伝」での該当個所も参考にしてれんだいこ風にまとめる。

 概要「我々思想犯は、平田勲と戸沢重雄の二人を頂点とした検事陣によって取調べを受けた。この二人とも『思想犯に死刑無し』を旨としていた。皇室を守る為に共産党員を死刑にするというのでは、真に皇室を守ることにはならないというのが持論だった。この姿勢が、思想犯を転向させた本当の理由である。共産党が大げさに宣伝している戦前戦中のいわゆる『暗黒裁判』は、誰一人として公開裁判法廷において死刑を宣告しなかった。誰が『治安維持法違反の犯人、つまり日本共産党員から一人の死刑をも出さない』という最高方針を決めたさせたのであるか。すなわち当然『人』が吾々を死刑から救ってくれたのだ。当時の東京地方検事局検事・平田勲氏であり、戸沢重雄検事、吉江検事ら自由主義的かつ国際的視野と知識を持った中堅・若手の検事団であったのである。このグループの上に、当時東京控訴院検事長宮城長五郎氏がドカッと乗っていた。1929年当時、政友会田中義一首相や鈴木喜三郎らが、佐野・鍋山・三田村、それから小生、風間丈吉らを死刑にせよと迫るのを、天皇陛下の検事という建前からことごとく峻拒し去った。

 次に、満州事件=日中戦争の勃発につれ、軍部が強大化して行く勢力を背景に、陸軍の政治干渉好きのいわゆる革新将校が、軍の意向として検事局に共産党員の大量処刑を国体護持の立場から、再三再四強硬に申し入れてきた。いわゆる右翼は、軍部の尻馬に乗ってこの申し入れを推進した。しかし、検事一体の法則として『治安維持法違反者から一人の死刑も出さぬ』と決定した以上は、絶対に軍部に検察上の問題に容喙(ようかい)させぬとの建て前を堅持し続けたのも以上の検事諸氏であった。

 いやそればかりではない。司法権の独立を絶対化する若手判事団の一群、宮城実判事(宮城長五郎検事長の甥)、尾後貫荘太郎判事、山口民治判事、等幾多の人格的にも、知的にも勝れた判事の一段が断固として、軍部の不法干渉から裁判の独立性を守った。

 まず当時の検事長宮城長五郎、この人は自由主義に徹底していた。司法の自由を守ることを部下に叩き込んでいた。その甥の宮城実判事、あるいは尾後貫荘太郎判事が我々共産党員の裁判にあたった。ことに宮城実判事は統一裁判の裁判長であったが、この人は、マルクス・レーニンの全集を通読して佐野=鍋山の統一裁判に臨み、日本共産党の誤謬やマルクス・レーニン主義の矛盾を鋭く指摘し、また極右翼の非難や中傷を拒み続けてやリ抜いた。尾後貫荘太郎判事は、右翼の連中を裁判するとき、法廷で本を読んでいたので、右翼から『赤い裁判長』と不当な指弾さえ受けたくらいの人物である

 日本共産党員にとっても忘れ得ぬ検事がいるはずである。少なくとも、平田・戸沢・吉井の三検事は忘れられないであろう。一例を挙げれば、平田検事である。戸沢・吉井両検事とともに日共党員を取り調べるにあたり、マルクス・レーニズムを徹底的に研究し、その歴史的背景や発展の仕方、特にスターリン主義まで知悉していたのである。そして、前にも述べたように、『天皇制を崩壊させる』という一項をはずしさえすれば、日本共産党は合法化しても良い、という見識さえ持つに至っている。

 平田検事は、検事総長への出世コースを約束されていた人物であったにも関わらず、自己の信念を貫き、軍部と対立したために、満州国最高検の次席に飛ばされ、退官したのである。それからは、自分が在任中に造り出した思想犯保護観察所のために努力され、退職金の全てを共産党『前科者』の更生に注いだのである。そしてそのために膨大な借金まで背負ったのである。この人の世話で就職した元党員・現党員は数え切れぬほどいるのである。

 これまで上梓された共産党関係の書物には、検察側の人物はすべて『犬』か『悪者』の扱いを受けている。暗く、陰惨なイメージの中に閉じ込められている。このような、人間の資質を無視し、蹂躙した記録は有害だ。もちろん警察官、検事、判事の中にも、軍部や政党勢力に迎合して、ナチス張りの報復主義的重刑を主張する連中も多くいたのであるが」。

 立花氏の「日本共産党の研究19」によると、思想検事・戸沢重雄氏自身が次のようにコメントしている。

 「司法当局内部で、判事も検事も一致して、治安維持法では死刑を出さないという合意ができていた。だから転向が重要な意味を持っていたんだ」(「文芸春秋」77.10月号)。




(私論.私見)