第4部の2 査問事件2、凄惨な査問の様子

 (最新見直し2010.01.05日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 これより査問が凄惨になる。その様を確認しておく。


投稿 題名
23日当夜の査問の様子
査問事件二日目その1、当初の様子
査問事件二日目その2、再査問の様子
査問事件二日目その3、小休憩

【23日当夜の査問の様子】
 第三幕目のショット。袴田が査問場所を去った頃、宮顕が用を済まして帰ってきた。従ってアジトには宮顕・秋笹・木島の3名が居合わせることになった。何とこの3名で深夜二時頃まで大泉・小畑の査問が続けられた形跡がある。木島は次のように陳述している。
 「午後5時より林・金の両名を帰し、自分は宮本の勧めによりその夜より査問に関与することと為りたり」(木島調書)。

 しかし、これが事実とすると、この3人の査問が行なわれたこと自体査問規律違反であったのではなかろうか。事は中央委員による他の中央委員の査問である。そういう重大性に鑑みて、このたびの査問は中央委員と同候補に限定して査問委員となしていたのではないのか。査問委員全員立ち会いの下でなされるべき重要なけじめが持たれるべきであり、恣意的になされることは大いなる越権であったのではないのか。特に宮顕、袴田は、へいぜいよりこうした形式にはこたわる質の者であるが、こういう重大な事柄に対してそういう者が自らてんとして恥じざる規律違反を率先するとは何ということだろう。あろうことか今日に至るも問題にされてさえいない。袴田は、「私は、同夜査問が続行されたという様なことは少しも知らなかったのであります」(袴田2回公判調書)と述べるだけで、私は知らない関知しなかった、で逃げている。
 

 この時の査問の様子は当事者4名がしゃべらない限り永久に不明となる。この時、饒舌男の袴田がいないため詳細が伝えられていないが、木島は次のように陳述している。
 「それより宮本・秋笹・自分にて大泉を査問したる結果、同人は『スパイ となりたる事情を一通り云うから命だけは助けてくれ』と前置きしてその事実を陳述したり。次いで、宮本・秋笹は協議の結果熊沢を二階の三尺の押入内に入れて置くことに決定し、同女をその押入に入れたり。この大泉の査問に当たっては、宮本等は指や拳固にて同人をこづき、又宮本は『告白すれば命だけは助けてやる』云々と申し向けおりたるも、蹴ったりなぐったりは致さざりき。その夜は午前2時頃に大泉の査問を中止し、自分は二階にて小畑・大泉を監視して夜を明かしたり」(木島調書)。

 この陳述の不自然なところは、宮顕が「蹴ったりなぐったりは致さざりき」とわざわざ取って付けたように強調して述べていることと、大泉の査問については語っているも、小畑のそれには黙していることにある。翌日、袴田、逸見がやって来たときの室内についての「雑然とした様子」と小畑が消耗しきった様子で座敷に放置されていた(大泉は押入に入れら れていた)ことを勘案すれば、小畑に対しても査問がなされていたことが歴然としていたのではないのか。なのに語らないのは不自然ではないかと思う。

 ここで見落としてはならないことが少なくとも二つある。一つは、査問者の宮顕は松山高校時代柔道の猛者であったということである。こういう者に素人の小畑が引きずり回されたらどういうダメージを受けるかという点である。私はそういうことがあったと推定している。もう一つは、この後二人は査問疲れもあって休息と仮眠しているが、当然この間食事もしている。問題は、ここでも大泉、 小畑には食事が与えられていないように思えることである。関係者のどの陳述からも食事を与えたという話がない! 翌朝も査問が続けられるが、この間絶食させ続けるとどうなるか。

 ところで、査問テロはなかったと主張する者は、この当夜のかなり厳しい査問が行なわれたように思われる経過についても否定するのだろうか。宮顕は何も語っていないので、宮顕が言っていない以上何もなかったと、ここでも宮顕の言う通りに信じるのだろうか。それとも大泉に対 してのみの査問がなされたとでも言うのだろうか。仮に両名への査問を肯定した場合には、逸見、袴田のいない席での査問は規定違反だとは思わないのだろうか。これらの点につきはっきりさせて貰いたい。

 なお、大泉の陳述には一貫性がないのでそのまま鵜呑みにはできないがこの時の査問の様子について次のように述べている。この時、大泉のれっきとしたスパイ性が暴かれたようである。大泉のアジトに行った際に、「荷物が着いた直ぐ来い」と書かれている電報が発見され、これは毛利特高課長の呼び出し暗号であったので弁明がしどろもどろになったと云う。その日付は11.28日になっており、野呂委員長が逮捕された日であった。これにつき、宮顕は次のように述べている。
 「元来、我々同志は皆それぞれ住所を隠しあっており、電報など打つ必要はない。従って、この電報の入ったこと自体が大問題で、この電報によって大泉がスパイであることの確証をつかんだのである」(宮本4回公判調書)。

 大泉はこれに弁明ができず、「ギャフンと参ってしまった」。補足すれば、宮顕のこういう事情通的嗅覚がどこから来ているのかも興味深い。宮顕のアジトへ行けばこういう電報が束になっている可能性さえあり得るのではなかろうか。

 次に、中央委員として一番古株の大泉が保管しておくことになっていた党の重要書類が保管されていないことも追及された。その書類中党の組織内容即ちどの工場には誰々の党員が居ると云ったようなものがある筈のところ、この部分の書類を毛利特高課長に提出していたので欠損しており怪しまれることとなった。こういう言い逃れの効かない事実を突きつけられるに及び、大泉は、次のように述べたと陳述している。
 概要「逃げることもどうすることもできず絶体絶命に追い込まれ、もう駄目だと思いました。苦しさのあまり『実は自分は警視庁のスパイだ』と云うと、彼らは非常に喜び、私の猿ぐつわを外してくれ、『如何なる手続きでスパイになったのか』と聞きました。私は、『共青の関係で検挙された際警視庁の宮下警部の要求に応じてスパイとなった。ただ大したことは やっていない』と答えました。次に、『スパイ網を明らかにせよ』 と言い寄られ、日頃大泉−小畑派と目されている連中の具体的な名前が挙げられスパイではないかと追及された。私は、共産党の全組織即ち全協・全会・ 財政部全員を壊し、ここで再組織さすために意識的に嘘を言い、『君たちの疑っている者は皆スパイと云ってよかろう云々』と云ってやりました」。

 奇しくもここに、宮顕等のスパイ摘発活動の照準が、当時の党活動の最後の砦ともなっていた全協、全会、財政部に合わされていたことが知れることになる。こうして大泉は、電報の件をきっかけに全面的に自供を始めたようである。大泉はこの査問が終わると再び猿ぐつわをはめられ押入に入れられた。 こうした査問は午前2時頃まで続いたらしい。

 この時の様子について秋笹は次のように陳述している。
 「その夜は小畑、大泉の査問を継続して行いたるが、自分は主として同室内にて『赤旗』の印刷を為しおりたるも時々は出かけていって有り合わせたる物にて大泉をこ突いた様な記憶有り。その時大泉は手足を縛られ、部屋の中に座らせられたるが、査問中は頭巾を取って居たと思う。なお、宮本か誰かが硫酸のビンを栓をしたるまま振り回し『付けるぞ付けるぞ』と脅かしたるはかなり効果有りたり。なお、小畑の査問中大泉の頭にオーバー或いは洋服の如きものを覆せありたるが、 その時大泉は『息が苦しいから頭の覆いを取ってくれ、命さえ助けてくれれば何でも云うよ』と申し、それよりスパイたる事実を陳述したり」(秋笹被告第二審判決文)。

 この秋笹の陳述も重要である。少なくとも「小畑の査問中」と小畑の査問が行われていたことを明示していることと、大泉の査問中か「宮本か誰かが硫酸のビンを栓をしたるまま振り回し」とあるようなかなり下劣な査問行為が為されていたことを問わず語りに明らかにしていることである。


 不自然なことは、こうして大泉の査問の様子は明かされているものの、秋笹陳述の漠然とした「小畑の査問中」表現以外に小畑に対する査問の様子がいずれの調書にも語られていない。既に見たように木島は、「(宮本は)蹴ったりなぐったりは致さざりき」とわざわざ取って付けたように強調しており、大泉の査問については語っているも小畑のそれには黙している。ではなかったのかというと、 後述するように袴田と逸見は翌日の小畑の消耗しきった様子を明確に語っており、私もまたかなり手厳しい査問があったと見る。ちなみに、「その場の様子から見て前晩小畑、大泉に対し相当手厳しい査問の行われたることを想像したり」(逸見調書)とある。

 しかし、ここを書けば言い逃れの効かない宮顕の直接的関与を示すことになるであろう。つまり、全体的に云って、各予審調書並びに公判調書は、不自然なまでに宮顕のこうした関与部分の痕跡を極力遺さないよう工夫しているように見受けられるということである。ここにも宮顕の胡散臭さを疑う根拠がある。

 一般に「リンチ事件」論議で、当事者の陳述は誘導尋問がなされているので信用ならないとする見方が為されているが、私の考えはこうだ。当然そのような面もある。特に、小畑死亡時の際のように重要な点でわざわざ当事者の陳述が齟齬をきたすよう仕組まれており、むしろ語らせることにより水掛け論でうやむやに為し得るよう誘導されている面も確かにある。しかし、この23日当夜の小畑査問に対する「不自然なまでの宮顕関与部分の削除」という誘導も為されていることを知らねばならない。

 つまり、誘導があったから信用ならない云々という誘導有無論は不毛であり、誘導尋問が為された方向と為されなかった方向の全てが、「宮顕の関与を極力薄める方向で為されている」というセンテンスで行われていることを知るべきと思う。ここのところを踏まえないと論議が噛み合わなくなる。本筋から離れるのでこれ以上述べないが、特高と司法当局奥の院が介入しているのは如何にして宮顕勢力を温存するかに傾注していることであった、ことを窺うべきだろう。

 宮顕の「小畑に関しては云々」の陳述があるにはあるが次のようなものでしかない。
 「居所問題、郷里へ帰ったこと、彼が万世橋署の高橋警部に活動写真をおごられた際、情報提供を約束し、その後金を貰い連絡をとっていたということ。小畑は大泉がスパイであるといい、大泉は小畑がスパイであると主張したことなどにより、同人がスパイたることもだいたい明らかになったのであるが、突如小畑の死という事件が起き、それ以上明瞭にすることが出来なかった」(宮本4回公判調書)。

 つまり、この時の当夜の査問を語っているのか、前日の査問の時のことなのか、翌日の査問の時のことなのかごっちゃに不明にしたままに意識的なすり替えを行っている。つまり、 23日当夜の査問についてまともに陳述していないということだ。

 ここで、宮顕が手足のように使う木島について触れておく。当夜においても翌朝よりの「査問事件」においても切り込み特攻隊員として便利に使われた木島であるが、事件後の公判廷で述べた宮顕の言いによれば、「元来彼は、政治的水準が低く、問題を根本的に把握出来ない男であり、かつ彼は単純で粗雑な性格である」、「結局木島は、基礎的な理論の把握がない」、「彼は党の方針は理解してない、又、機関紙も見ていない、昭和8年来、機関紙にスパイ挑発問題を、系統的組織的大衆的に処理するという事を発表してあるのに彼はそれを知らない」(「浩二99/11/10 13:55」を参照させて頂いた)とある。 実際の木島氏の人となりは分からないが、宮顕の対木島認識の根本は、この査問中も公判廷の際にも変わらないと思われるので、木島が如何にいいようにあしらわれ、使い捨てにされたかが判る。やがてそういう木島を小畑死亡直後に党中央委員候補に昇格させた様を伺うことになるが、ホント宮顕ってどういう性格の人なんだろう。今時こういう人の使い方をするのは同じ様な事件で捕まっている空中浮揚氏ぐらいしか見当がない。

【査問事件二日目その1、当初の様子】
 第四幕目のワンショット。ここは「日本共産党の研究三.100P」を引用する。 深夜の査問後、宮顕は階下に行って、徹夜で「赤旗」の原稿を書き、秋笹もちょっと原稿を書いてからアンカに入って仮眠をとった。午前7時頃、原稿を書き終わった宮顕が階下から上がってきた。秋笹も起き、皆なで木俣が作った朝食を摂った。木島は前夜木俣が切っていた原紙の「赤旗」号外を印刷した。この12.24日付け号外は、大泉・小畑両名のスパイ摘発に成功したことと、その除名放逐を伝える内容であったが、これに疑惑がある。何と!その原稿は事前に用意されていたもので、前夜の査問の結果を踏まえて書かれたものではない云々と明らかにしている。立花氏が各調書資料をつきあわせるとそういうことになるのだろう。

 その後、私は高知聡著「日本共産党粛清史」を手にした。55P以下でこの時の号外文が記載されている。実に長大文であり、何と!大泉、小畑両名に対する詳細な経歴と党活動の逐条が記載されている。まさに特高資料を横滑り的に記事化しており、記事自身が党内情勢の暴露でもあるという観さえある。査問前にこれほどの資料を整え、原稿をあらかじめ用意していたとは驚きである。付言すれば、後に宮顕が公判で陳述する内容とも照応している。しかし、査問前に!、自白してもいないのにしたとしてかくも予断的な弾劾文を書き上げていたとは酷過ぎる。どういうことなんだ! 怒りを覚えざるをえない。なお、その文体からして原稿は宮顕によって書かれたものと推定される。


 
この時の12.24日付け号外を見るに次のように記している。
 概要「彼(小畑)はわづかの期間の事務員としての体験を以って『俺は労働者だ』と口癖に吹聴し、エセ戦闘的言辞によって山師的にふるまい、インテリゲンチャ出身の同志達を殊更に軽蔑し、かって我が党中央委員候補であった時、地方から出てきた同志に『党の指導部はインテリの知り合いで固めている』等の全く恥知らずなデマを飛ばした」。
 「冒険主義的行動.同志間の離間中傷策.系統的なテロルの招来.極度の党方針の歪曲.その遂行のサボ.最悪の官僚主義‐‐‐これらは彼古川(小畑のこと)が我が党の指導部に意識的に潜入せる敵の代理人.挑発者スパイであることを確定させるものである」。

 但し、肝心のスパイ性の具体的根拠については明らかにしえずか、「諸君!査問によって片野(大泉のこと).古川の自白せる内容は続いて発表する」と公約したものの、大泉が最初からスパイだったという自供を紹介しただけで終わっている。


 嫌な話だが次のことを確認しておかねばなるまい。宮顕は、小畑に対して、「我が党の指導部に意識的に潜入せる敵の代理人.挑発者スパイである」と断罪している。心せよ、このように書く当の宮顕その人が「我が党の指導部に意識的に潜入せる敵の代理人.挑発者スパイである」胡散臭さが強い。してみれば、字面で振り回される人士はおぼこいということになる。何事も、口先言葉ではなく実際にやっていることを観ねばならない。併せて発言の主体者その人が信用できる人物であるかどうかの品定めが要るということである。これは世間では当たり前に為されていることであるが、どういう訳か左派人士間ではこの嗜みが欠落させられ、活字操作に弱いという欠点がある。批判精神を発達させない知識紳士の構造的欠陥面であり、宮顕の行くところどこでもこの文体にしてやられることになる。

 次のショット。前夜の様子は、翌24日の午前9時頃、代々木八幡町停留場付近で袴田と木島とが連絡を取った際、木島から大体の報告がなされたことにより、間接的に袴田も知るところとなった。袴田は、次のように陳述している。
 「それから二人で査問アジトへ行ったのですが、その途中同人から前夜宮本・秋笹・木島等が大泉・小畑の査問を実行した結果、遂にスパイたる事実を自白するに至ったと云う報告を聞きました」(袴田2回公判調書)。

 袴田は、木島の報告を受けた後二人で査問アジトへ行った。階下には木俣がいた。この途中で、木島は袴田に次のように言ったという。「もしあの二人をやっつけるつもりなら、あなた方は大事の体だから行動隊の連中にやらしてくれとその連中が申し出ている」。これに対して、袴田は、「自分たちは今彼ら二人を殺す事を問題としているのではないから君たちにそんな事を云う必要はないとたしなめました」(袴田12回調書)。「そんなことを君らが云う事はないではないかとたしなめると木島は何も云わず黙っていました」(袴田2回公判調書)とある。ただし、木島の調書によると、「左様なことを云ったのはこの時ではなく12月中旬に予定した第一回の査問が失敗に終わったその日の事である」と言っている。それが事実だとすると一層怪しからんことになる。もっとも 「それは木島の考え違いです」(袴田2回公判調書)と再否定している。否定しないと、この度の査問が殺人を前提にしていたことになるのだから大変であろう。どちらの言うことが本当かは判らないが、袴田が何とかして「殺すつもりはなかった」説を補強しようとしている様子が窺える。

 次のショット。こういうやり取りの後、袴田と木島は二階に上がって行った。 上がってみると次のような状態であったと、袴田は陳述している。
 概要「その8畳の部屋は乱雑に取り散らかされており、確か小畑だったと思いますが肌着とズボン下だけにされ、前日同様足首と両手を後手に縛られ、頭から大泉が来ていたオーバーを被せられ、その上を紐か何かぐるぐる巻きに縛られており、壁際に身体を折り曲げた様な格好でうなだれていた」(袴田12回調書)。

 前夜の相当激しい査問の後が歴然であり、そのことがうかがえる様子であった。次のような行動を執ったと陳述している。
 「私は今し方木島から小畑がスパイだったと云う事を聞いたりする故、部屋に入るなり同人に近寄り、拳固で同人の頭部を殴りつけてやりました」(袴田2回公判調書)。
 「その側に宮本と秋笹とが徹夜の査問で眼を充血させ、疲れた様子で寝転がって居りました」(袴田12回調書)。

 つまり、小畑は窮屈な姿勢で放置されており、宮顕と秋笹は査問疲れで休息していたというのである。この時、大泉は押入の中に居り、熊沢はその押入の仕切りの上のところに居た。

 次のショット。袴田と木島がやって来たのを知り、宮顕と秋笹も起きあがり、 前夜の査問の結果を次のように報告したと袴田が陳述している。
 「昨夜査問を続行したらかような事を自白したと云って要領を書き留めた紙片を見せられました」(袴田2回公判調書)。
 「それによると、大泉は未だ細目に亘っては具体的に述べないが、昭和8年9月共青の山本に売られてからスパイに為ったと自白し、小畑は大泉ほど具体的ではないが、大体スパイであったとのことを認めたということでした」。
 「何でも小畑は4.5年前万世橋警察署に検挙された際スパイなる約束をして釈放され、それ以来スパイになったとのだと云うような事であったと思います」、「大泉もまた今井に売られて以来スパイとなり、警視庁の宮下警部との連絡と毎月70円ずつ貰っていた事実を自白したと云うような報告だったと思います」 (袴田2回公判調書)。

 次のショット。それからまもなく逸見もやって来た(袴田と逸見のどちらが後先か判明しないが一応この順序とする)。この時の印象について、逸見は次のように記している。
 「二階に上がりたるが、その時の二階の様子は窓の所には全部黒い布を下げ、部屋の中は薄暗くなり居りたり」。
 「小畑は既に押入より引き出され、頭に黒布を覆い縛られ居りたるが、その場の様子から見て前晩小畑、大泉に対し相当手厳しい査問の行われたることを想像したり」(逸見調書)。

 この陳述も重要なことをメッセージしている。「二階の様子は窓の所には全部黒い布を下げ、部屋の中は薄暗くなり居りたり」と、前日の午後までの査問以降に黒布での目張りが為されたことを明らかにしている。用心癖の宮顕の指示で周到なリンチ場づくりが為されたということであろう。深夜に及ぶ査問続行を嗅ぎ付けられないよう、あるいは又余程見られて聞かれて悪いことをしようとしていたのではないかと勘ぐりたくなる。

 話を戻して、逸見も同様の報告を受けた。この時の様子のこととして逸見は次のように記している。
 「翌日自分が再び秋笹宅に至りたる時秋笹より聞きたるところによれば、自分が昨日秋笹方を去りたる後、宮本・秋笹に依りて大泉の査問を継続し、その結果大泉が『スパイ』の嫌疑事実を自白したりとの事なりき」。

 「報告を受けた逸見は、大泉を拳固で殴りつけて居ったのを見ました」(袴田2回公判調書)。ここで興味深いことは、袴田は木島から報告を受け小畑を殴りつけ、逸見は秋笹から報告を受け大泉を殴りつけていることである。それぞれの立場がうかがえるようである。

【査問事件二日目その2、再査問の様子】
 次のショット。こうして、全員が揃い査問が再開されることになった。午後10時頃であった。この査問開始の時より木島が部屋を出たり入ったりするようになったと陳述されているものもあるが、第一日目においても既に木島の暴力的行動が明らかにされていることを考えると、第一日目は時たま、この二日目からは主として入り浸りで査問に参加していたというのが実際であったのではなかろうか。謀議の過程で取り決めていた当初の査問の目的とか査問委員の選定とかがいかに建前に過ぎなかったかが知れるであろう。なお、この時の査問中秋笹は、「赤旗」の原稿を作ることが忙しく、合間合間に査問に加わったようである。査問の経過を「赤旗」に発表することは前から予定されていたようである。この二日目からの査問が激しさを増したことは既述通りである。

 この日も先ず、小畑から査問が開始された。この時までの小畑のスパイ疑惑は「(小畑の謝罪は査問者側の)意に満たざりし為――前記の手段による暴行のほか云々」(秋笹被告事件第二審判決文)とあるように、ここまで小畑は頑強にスパイ容疑を否認し続けていたと考えるのが相当と思われる。小畑が査問される間、大泉が押入に入れられた。

 この時の査問の様子は逸見によって次のように陳述されている。
 「始めのう ちは各自思い思いに小畑に向いて『白状しろ』の一点張りにて詰問し、袴田は撲りつけなと致したり。宮本は『警察の拷問はこんなものではない』と威嚇し、木島は(少々意味不明であるが―私の注)『明日になれば俺達の運命もこういう風になるのだ。自白さえすれば生命は助けるから云ってしまえ』と申したるところ、小畑は『いっそひと思いに殺してくれ』と叫びたり。秋笹は『共産主義者は嘘は云わぬから助けると云ったら助けるから云ってしまえ』と申したり。自分も小畑を二、三回蹴飛ばしたり」。

 ここは暫し黙したいが、小畑氏をして「いっそひと思いに殺してくれと叫びたり」と云わしめるほどのことをしてくれていたようである。なおこの時のことと思われるが、「その時私がやかんの水をこれは硫酸だと云って脅しながら、小畑の腹の上に振り掛けますと、同人は本当の硫酸をかけられたと感じて手で水を除けようとしました」 (袴田14回調書)というようなことも行なわれたようである。


 次のショット。こういう査問が一時間ほど続けられると大泉に替わり、これが交互に2回ずつなされたようである。この時の査問は一々具体的な問題について追及した。両名共通に追及されたことは、1.何時からスパイになったか。 2.警視庁との連絡関係。3.現在組織内にいるスパイは誰々であるか。4. 警察のスパイ政策に関する方針、5.スパイとしての具体的事実及び将来の方針の5項目であった。これらの訊問に対し、大泉は、ほぼ全面的にスパイを認めた上で詳細内容を語っている。その態度は、「我々の機嫌を取り、なるべく穏便な処分に出て貰おうとして極めて卑屈な哀願的な態度を採っておりました」(袴田12回調書)という風であった。

 ここで興味深い陳述がなされている。「私たちの様子がどの程度警察に判っているかと云って各自が質問すると、宮本、秋笹はすっかり知れている。逸見は本名は知れないが大体の事は判っていると答え、私のことについては、私が東京市委員に居ることやその他の行動も判っている」(袴田12回調書)とある。この時の大泉弁明の「宮本、秋笹はすっかり知れている」、「袴田が東京市委員に居ることやその他の行動も判っている」とはどういうことだろう、私は本当ではなかったかと推測している。

 他方、小畑は、過去の行動の部分的誤りは認めたがスパイであることを断固として認めなかった。嫌疑事項であった「昭和8年2月の全協中央部の検挙には全然関係がなかったと言い張りました」という風に大泉とは対照的な対応を見せた。組織内潜入スパイについても大泉は語り、小畑は寡黙に答えなかった。 袴田が深川平野署で自供したいわゆる「袴田自供書」は次のように述べている。
 「現在組織に潜入しているスパイについては小畑は全然云いませんでしたが、大泉兼蔵が次のような嫌疑者を指摘しました。一、全協中央委員長・オッチャンこと小高保、一、党東京市委員責任者・カメこと荻野増治、一、全協支部協責任者 某帝大出の男、一、党大阪市委員会責任者・井上こと重松鶴之助、一、党九州地方委員会責任者・元浦賀船ハリにいた男、一、党中央財政部員・荒木こと大沢武男、一共青中央委員・逃亡中の山本某、だいた以上の通りであったと記憶します」。

 この党内潜入スパイリストは、大泉の自ら進んでの指摘か誘導されての答弁かまでは分からないが、当時の僅かに残っていた有能にして戦闘的党員をピックアップして、スパイだと云わしめていることになる。

 少々説明すれば、小高保は小畑系の全協の有能なオルガナイザーであった。荻野増治は東京市委員会で宮顕の指導下にあったが、小畑系と通じた有能党員であった。荻野がスパイであるのかどうかは微妙なところがある。「全協支部協責任者 某帝大出の男」とは、古関健介のことで、熊本の五高から東大に入り、新人会のメンバーとして活動した履歴を持つ古い活動家で、戦前戦後を通じてスパイなどとはもってのほかの経歴を見せている。重松鶴之助は、愛媛県松山中学出身の絵画に才能のある党員で、一時は東京市委員会にもいたが、恐らく煙たがられて宮顕と袴田の指令で関西地方委員会の責任者となって大阪へ行かされ、昭和8年12月に逮捕され、7年の刑を受け堺刑務所に服役した。38.11.30日、出所を前にして飛び降り自殺している。「何のために自殺したのか、その原因は未だに不明なままである」(増山太助「戦後期左翼人士群像」)という変死で生を終えた非転向党員であった。

 「党九州地方委員会責任者・元浦賀船ハリにいた男」とは今も不明で誰のことか分からない。大沢武男については後で見ておくが、同氏にも凄惨なリンチが為されたことが判明する。当然スパイなぞとは無縁の革命的精神の旺盛な党員であった。結局、このリストの中で「共青中央委員・逃亡中の山本某」の今井嘉一郎だけがそれらしき蓋然性の高いスパイであった。何のことはない、当時の僅かな党員の中でも特に有能であり、宮顕−袴田系の党中央簒奪に障害となる人士を挙げ繕っているに過ぎない。


 次のショット。こうして査問が続けられるうちに次第に暴行がエスカレートしていったようである。
 「同日午後1時頃より査問経過中に於いて自分の知れる限り最も残酷なる査問が行われたり」(逸見調書)。

 まず大泉について見てみる。「自分はこの査問に当たりては、宮本等が自分に加えたる暴行の種類程度より観ても自分の殺されるはただ時間の問題だと思いたり」(大泉16回調書)。この間の査問者の暴行が次のように供述されている。「『コラッ本当のことを云わぬか』と云って」 (袴田2回公判調書)、「秋笹が用意してあった斧の背中で大泉の頭をゴツンと殴ると同人が頭から血が出た事を見受けました」(袴田14回調書)。大泉の頭から血が流れ、顔へ2・3滴血が流れたようである。「又誰かが錐の尖端で 大泉の臍の上の方をこずきましたら、大泉は痛いと云って悲鳴を挙げておりました」(袴田14回調書)。その全体的印象は、「我々の査問の態度が真剣で、 具体的事実についての取り調べが極めて峻烈であったので、大泉・小畑は相当な恐怖を感じ、生命の危険を感じたかも知れません」(袴田14回調書)という程のものであったということである。この査問中は頭被せを取り、査問が終わるとまた被せたようであるが、一時的にせよ頭被りを取り外したのは大泉に限りのようである。

 小畑に対する暴行は次のような為された。
 「先ず、宮本・袴田・木島秋笹が小畑の周囲を取り巻きガヤガヤ申して威嚇し居りたるところ、秋笹が小鉢の火を挟み来たりたる故自分はこれはやるんだなーと思い立ち上がり小畑の側に行きたり。この時足を投げ出して座り居りたる小畑の体を肩の付近を動かない様に宮本が押さえ付け、両脇には袴田と木島とが居りたるが、秋笹は火を小畑の両足の甲に載せたところ、小畑は『熱い』 と叫んで足を跳ねると火は付近に散乱して畳を焦がしたり。この間『どうだ白状するか、云うか』と云いて一同にて小畑を責めたり」。

 続いてと思われるが、袴田が地祇のように陳述している。
 「(先の袴田の行動)に暗示を得て、たぶん木島であったと思いますが、真物の硫酸を持って来て小畑の腹の上にかけました。すると段々硫酸がしみこんでくると見えて痛がって居りました」(袴田14回調書)。

 ここの部分は、逸見によるともっと具体的凄惨に陳述されている。
 「小畑を長く寝かせて押さえ付け、木島が小畑の胸部のところを掻き分けて腹部を露出し硫酸のビンを押しつけ、『ソラ硫酸を付けたぞ、流れるぞ』と云いて嚇かしたり。袴田は小畑の洋服のズボンを外してその股ひきを露出し、更に一同にて押さえ付けて締め付けたり撲ったりすると、小畑は『云うから待ってくれ』と申したので一同手を離して聞き込むと、 更にまとまった事を云わぬ故一同にて虐めると云う風に致したり。又この間、木島は硫酸のビンの栓を外し、小畑の下腹部に硫酸をタラタラと垂らし硫酸の付着したる部分は直ぐ一寸巾くらいに赤くなり、少しすると熱くなったと見え小畑は悶え始めたり。小畑はこの拷問威嚇にあい非常に疲労したるを以て一時小畑の査問を中止し、自分と袴田の二人にて大泉の査問に取りかかりたり」。

 ところで、査問テロはなかったと主張する者は、ここの部分の記述全体が偽証であるとしているようである。警察の取調目録に硫酸の瓶とか錐とかの物証が記録されていないこととか、小畑の検死上証明できないとかを根拠にしているようである。私は、それまでの記述との整合性から見て実際に行われたと見ている。この後で確認することができるが、物証のいくつかは後始末されたと陳述されているし、小畑の検死は死後20日を経過していることとか、追って述べる検死調書の内容などからそう推測している。逸見の場合、これらの陳述によって誰それを有利にするとかの偽証を敢えて拵えねばならない法的利益と必然性が見あたらないからである。

 水掛け論になる点であるが、否定派の方はこの点を否定するならば、逆にどこまでを真相とするのか基準を明らかにして貰いたい、と思う。調書全体を否定するなら、あたかもテーブル越しの査問会議であったという線まで後退させねば不自然になるのではなかろうか。これらの点につきはっきりさせて貰いたい。

 次のショット。この間片方が査問されるときには他方が押入に入れられたが、何度か繰り返すうちに煩わしくなったのか、両名居合わせで査問されるようになった模様である。あるいは内容によっての都合で成り行き上同時査問となったようである。その途中で、「大泉は小畑を、又小畑は大泉を互いにスパイだと云い争って居りました」(袴田12回調書)とある。この袴田陳述は貴重である。大泉と小畑とが互いをスパイ呼ばわりしたということは、この二人が連絡を取り合ったスパイ仲間ではないことを逆に証左していることになる。

 現下党中央は、大泉のスパイ性を根限り言い立てて、小畑も然りである論を為にしているが、この「互いのスパイ呼ばわり」は、小畑がスパイでなかったことの可能性を逆に裏付けることにもなる。亀山は、「代々木は歴史を偽造する」でこの点に触れて、「二人が共謀、共同したスパイでない以上、大泉がいくら『小畑はスパイである』といっても、それは大泉の発言であって、それ以上のものでは有り得ない」と指摘している。私が付け加えるとすれば、死亡したのは、当人も自認しているスパイである大泉の方ではなく、スパイでない可能性が強い小畑の方である。生き残った方の大泉のスパイ性を口を極めて説いたところで何の論拠になろう。

 この間、熊沢光子は押入中段に何らの拘束なく入れられていた。彼女は査問中は静かに押し入れの中に居て少しも騒ぐ様なことはなかった。この熊沢の陳述調書が知りたいところであるが漏洩されていない。「リンチ事件」は、肝心なこういうところが今なお伏せられている。なお、検挙後に獄中自殺を遂げることも追って見ていくことになる。

【査問事件二日目その3、小休憩】
 二人が互いをスパイ呼ばわりし合うということも含めた「以上の収穫を得て、 正午過ぎ頃一応査問を打ち切り、皆で替わり番こに食事を済ませたり、前夜からカットされていた原紙に依って同年12月24日付け赤旗号外を印刷したりしました」(袴田12回調書)。「時間も丁度正午頃になったので、昼食をしたり 又前夜徹夜で査問した者は疲労してもいるので休憩しようと云うことになったのです」(袴田2回公判調書)。この文章で明らかになることは、査問側は「替わり番この食事」をしたが、被査問者両名には食事が与えられていないと云うことである。これで都合少なくとも4食分が抜かされたことになるが、査問側のこういう無神経さって何なんだろう。

 ここで「赤旗」号外刷りについて言及したい。被査問者のスパイ告白がなされると同時に「赤旗」号外で大々的な党内宣伝がもくまれることになったようである。「秋笹が赤旗の原稿を原紙に書いておりました」という袴田の公判陳述がある。つまり、この査問の最中に同じ部屋の中で秋笹がガリ版を切っていたということになる。ちなみに、「日本共産党の研究二.72P」では、「赤旗」が活版印刷から謄写版印刷に後戻りして最初に出された「赤旗」が、大泉・小畑の査問と除名を伝える号外であったと明らかにしている。「外部の者から見ると 非常に激越な調子の文句例えば断罪とか云う字句を用いてあります」(袴田13回調書)と陳述されている弾劾文が印刷されたようである。

 実際に12.24 日付けの「赤旗」は、号外として、国際共産党日本支部日本共産党中央委員会の署名付きで、次のような激越字句をもって、いわゆる党のためスパイ摘発をなしたことを伝えているとのことである。
 「革命的憤怒に依って大衆的に断罪せよ」なる題下に、「諸君!挑発者、スパイの全系統を摘発する為に執拗に追撃せよ!彼らの一切を階級的制裁、大衆的断罪に依って戦慄せしめよ!血と汗のプロレタリアートの闘争を破壊せんとする最も憎むべき彼ら裏切り者を革命的プロレタリアートの鉄拳に依って叩きのめせ!」。

 こんな元気は当局の方に向ければ良く(かっての)仲間内に向けるのは如何なもんだろう。宮顕−袴田ラインの戦前戦後の共通項であるが、当局には至って恭順な二段階革命方式に基づく議会を通じての政権参加構想でソフトに関わろうとし、身内には激烈なる戦闘を仕掛け且つ統制好き傾向が見られる。私が辟易するというのも無理からぬではないか。

 次のショット。この後、徹夜で査問していた宮顕、秋笹、木島等は暫く睡眠をとることになり、行火(あんか)の置いてあるところで身体を横たえた。「誰が何処に寝ていたか判然しませんが、ともかく床の方を枕にして寝ていた事は間違いありませぬ」(袴田12回調書)。秋笹は、この休息の途中で「何時何の用事でか下に降りていた(袴田12回調書)とあるが、秋笹本人は「自分は用便のため階下に下り居るとまもなく二階にて云々」(秋笹被告第二審判決文)とあるからその通りであったのであろう。

 次のショット。宮顕等が行火(あんか)に入って横たわった後、袴田と逸見の二人がなお細かな点について大泉の査問を続けることになった。この時、小畑は部屋の中央部当たりの所に手足を細引きと針金で縛られ、頭からオーバーを着せその上を何かで縛ったまま座らせられていた。加周義也の「リンチ事件の研究」では、この時の小畑の頭被せの実際について考察している。これについては、宮顕は「風呂敷のようなもの」とか「風呂敷か外套」とか単に「風呂敷」とか云い為しており、微妙に表現が違っており一定していない。これにつき、加周氏は次のように指摘している。
 「風呂敷と外套とでは、まったく形状も用途も違うし、宮本らが自らの手で被せ、小畑の急死時にも取り除いて顔色を見たりしている事実からして、見間違いや記憶違いなど起こしようがない。明確にそれと認識していたはずだ」。

 その上で、宮顕が判然とさせないので、袴田の予審調書、公判陳述を参照にしながら次のように推測している。
 概要「宮本が風呂敷か外套といって曖昧にしているのは、実は風呂敷と外套という意味であり、前もって風呂敷で目隠し的に被せをし、その上に外套を被せ、紐でグルグル巻きにしていた」。

 小畑はこうして相当苦痛な「窒息責め」にあわされ続けていたことが判明する。まさに素人離れした手の込んだ手口による対小畑査問の様子が明らかとなる。次に述べる大泉の査問の緩やかさと対照的である。

 加周義也の「リンチ事件の研究」では、小畑のこの時の着衣が「毛糸のシャツ上下と夏用メリヤスの猿股を着けたのみ」であることに着目し〈査問二日目の小畑の様子の記述と遺体時の様子から推測している〉、「窒息責め」に加えて「寒冷責め」も為されていたのではないかと推測している。ちなみに気象庁の「中央気象台月報」は、査問当日23日の最低気温・氷点下2.7度、最高気温・10.3度、平均気温・3.3度。翌日の24日の最低気温・氷点下2.7度、最高気温・10.9度、平均気温・3.5度と発表されているとのことである。概要「このような寒い日に上着を剥ぎ取り、下着だけにしたのは、自白を容易にするための『寒冷責め』以外の何ものでもなく、衰弱を誘引していたであろう」と推定している。

 この時、大泉は肌着1枚にズボンをはいていた。そして足首と両手を後手に繋げるようにして細引きと針金で縛られ、背広の上着を頭から被せその上を紐か何かでぐるぐる巻きに縛られていたという。但し、既にスパイ自白後は大泉には頭被せしていなかったという陳述もあり、私はこの方が本当のように思うから、この時大泉は頭被せさせられていなかったと推測する。頭被せさせられていたというのは、この直後に起こる小畑死亡シーンの陳述を大泉にさせないためのトリックではないかと思っている。大泉は、「この時失神していてよく判らない」と陳述している。なぜなら、 失神していなければ視認していることになり、詳細な目撃陳述が促されるからである。予審調書はこうした肝心なところでの不明朗さを操作しているように思われる。

 さて、この時の査問の様子について、袴田は次のように陳述している。
 「その時私と逸見が大泉に訊ねたことは、大泉が既に自白した事実に対する補足的な事柄でした。そして、その時には大泉は既に平静を取り戻して居たし、私たちも前の訊問の時の様に無理する様な事もなく静かに大泉の言を聞いていたのであります」(袴田12回調書)。

 透けて見えて来ることは、大泉に対する穏和なあしらい、小畑に対する手厳しい査問の様子ばかりである。




(私論.私見)