第4部 査問事件1、査問開始

 (最新見直し2011.01.02日)

山崎氏の「ホロコーストを否定する人々」について 2004/07/18
 れんだいこは本日、宮顕論の「査問事件/査問開始」の項目に次の一文を書き付けた。 miyamotoron/miyamotoron_4.htm

 いよいよ宮顕の「戦前日共党中央委員小畑氏のリンチ致死事件」の解明に入る。れんだいこは、議論しやすいようにこの事件を日時順に追跡した。且つ極力関係者の調書に基づき史実を構成し再現ドラマとした。この手法に則れば、異論者はどの項目のどの部分に一言申すと疑義を提示し易いだろう。凡そ、世の議論の種になっているものについては先行者はこういう風に書き付けるべきではなかろうか。そういう意味で以下のれんだいこの記述の仕方は手本になっていると自負している。

 南京大虐殺事件、ホロコースト事件考等々についてもそのように試論が提供されるべきであるのに、これが為されていないので永遠に不毛な罵詈雑言的泥試合が続いている。全体の流れを明らかにせぬまま部分的なところを論い、お互いがお互いをウソツキ呼ばわりして得心している。こうなると文章レトリックの差が意味を持ち出してくる。れんだいこはそういう議論を好まない。能うる限り史実の流れの中に据えて位置を確認しつつ、その上で行為・事象の是非が検証されるべきであると考える。れんだいこは、以下そのように書き付けている。心して読んで欲しい。

 なぜこういう一文を設けたか。山崎氏の「ホロコーストを否定する人々」を読み出して気づいたからである。あれだけページ数を設けて説くのなら、ホロコースト事件通史をまず提供すべきではないのか。それを為さぬままやれ木村氏が西岡氏が西欧のネオナチがいかにいかがわしいのか、部分部分を取り上げて論証しようとしても、読む方は疲れるだけのことである。

 あのサイト、皆様方本当に読まれているのでせうか。かなりの量のようで、れんだいこは、修辞的な文言を削除して中身だけ抽出しようとしているのだけれども、らっきょうの皮みたいなものでなかなか本筋に到達しない。こういうなのって誠実な書き方だろうか。持論を広めたいのなら、素人が食いついてきた時に彼もまた自前見解が生み出しやすいように分かりやすく書き上げておかねばならない。内容的に難しい場面もあろうが、その場合でも極力噛み砕いておらねばならない。本筋と枝葉の話と仕分けして書いておらねばならない。

 そういうことを考えると、かなりな悪文という気もします。ちなみに宮顕−不破がこういう悪文を得手としております。多くのものは読みきる前に辟易して「仰せの通り」という満場一致の世界へ誘われてしまう。元々それが狙いだったりして。ならばとれんだいこが自前文を書き付けてみたいところだが、原文が独、英語の世界に入っていくのは至難の業で、そこまで意欲がない。どなたかに譲りたい。とにかく日時順のホロコースト史が提起され、いついつどこそこでどういうことがあった、と記しておくべきだ。それからの議論にせねば不毛だ。


投稿 題名
査問事件直前の動きその1、謀議
査問事件直前の動きその2、逸見の取り込み
査問事件直前の動きその3、予行演習
査問事件直前の動きその4、査問アジトの確保
査問事件発生その1、事件関係者の位置関係考
査問事件発生その2、大泉・小畑捕縛
査問事件発生その3、査問開始
査問当初の様子その1、小畑篇
査問当初の様子その2、大泉篇
査問当初の様子その3、交互査問篇
査問当初の様子その4、小休憩篇

【査問事件直前の動きその1、謀議】

 まず、第一幕のワンショット。袴田の大泉疑惑は1933(昭和8).9月頃既に発生しているとのことである。袴田が宮顕にうち明けている。次のように陳述している。

 「私が宮本に会ったときこの事を話すと、同人の意見は完全に私の意見と合致したのでありますが、野呂は大泉を信頼しておるし、又党の重要な地位にある大泉をスパイと断言する事は軽々しくは出来ぬ故、ここしばらく様子を見ていようではないかと云うことになったのであります」(袴田第2回公判調書)。

 他方、小畑疑惑も同様この時期に発生しているとのことである。しかし、れんだいこが思うに、「袴田が宮顕にうち明ける」とあるが、これは袴田が宮顕を庇うレトリックであり、真相は宮顕の方から党内出世絡みで持ちかけたことが十分に考えられる。

 次のワンショット。袴田が秋笹にうち明けている。

 「小金井の組織部会の後、秋笹にこの間の組織部会の時の小畑の態度をどう思うかと云うと、同人も小畑はスパイだなどと云っておりました」。
 「(なお、秋笹は、)このことについては宮本には話して呉れるな。宮本は西沢隆二を信用しているが、同人は小畑の下についている男でしかも挑発者の疑いのある男だからうっかり宮本に話すと却って宮本がひどい目に遭うかも知れぬという趣旨のことを云っておりました」(袴田第2回公判調書)。

 この弁の重要なことは、秋笹が宮顕に対して配慮を見せるほど宮顕寄りにシフトしていることが窺えるところである。

 さて、ここで気になることがある。「査問事件」は袴田の発議で始まったことになっているが、本当にそうであったのだろうか。昭和8.9月頃と云えば、宮顕が東京市委員会の責任者として配置されてきていた頃であり、この二人ともかって中央委員への抜擢を大泉に阻止された経験を持っている同士で宮顕−袴田ラインの形成期であった。袴田が秋笹に小畑スパイ疑惑を相談するにつき、左様な重大な疑惑を宮顕との相談抜きになしたとは思いにくい。通説の「査問事件」に対する疑問の指摘の第3点としておきたい。

 私の推測ではあるが、宮顕が東京市委員会の責任者としてやってきて企図したことは、袴田の機会主義者的性格を嗅ぎ付け、党中央に対する不満を焚き付け、党中央委員昇格とからめて小畑査問の謀議を凝らしたのではなかっただろうか。これに袴田が呼応したことにより密約が成立し、以降宮顕−袴田連合によるどす黒い党中央簒奪劇が開始されることになったのではないか。同様に木島が取り込まれ、こうして「ドン.宮顕−切込み隊長.袴田−特高隊員.木島」という三者提携関係が成立したと思えば、以降の流れが自然に理解できるところとなる。しかし、この黒幕としての宮顕の位置が伏せられて以下のような流れとして脚色されることになる。


 次のショット。党中央内にこうした亀裂を走らせつつあった最中の11.28日、野呂委員長が検挙されている。ここで貴重な証言が残されている。野呂検挙の後連絡をとった寺尾としは次のように伝えている。

 「野呂に代わって連絡に出てきたのは着物に角帯をしめた容貌魁偉な男で、どこかの大番頭風のように見えた。私には一度も見たことのない顔であったから、このような幹部もいるのかと印象が深かった。私たち下っ端党員の窮状を訴えたのであるが、一向にピンと来ない様子で私はガッカリした。生活に困ったことのない人を思わせる彼は誰であろうと思っていたところ、間もなく赤色リンチ事件と云われる事件が起こり、大々的に新聞に載った記事と共に、大きく彼の写真が出て、はじめてそれが宮本顕治であることを知った」(寺尾「伝説の時代」)。

 何気なく見過ごされがちであるが、野呂検挙後の連絡線として直ちにやってきたのが宮顕であるということと、その時の様子が愛党的な立場からてきぱきと指導をするのではなく、調査物色にでも来たかのような対応に終始していることが伝えられているということである。もう一つ、「着物に角帯をしめた」姿とは非合法時代のカムフラージュとしてそのような悠長な出で立ちだったのだろうか。私にはそうは思えない。それにしても何をしに宮顕は出向いているのだろう。

 なお、野呂委員長検挙を受けて小畑、大泉らがどのように対応しようとしていたのか明確には伝えられていない。確かコミンテルンとの連絡線の回復とお墨付けを取ろうとして通称「馬」氏を上海に送ろうとしていたようである。この動きは極秘に進められていたが、査問時に糾されることからして宮顕ラインに漏れていたことが判明する。宮顕ラインの情報収集能力の凄さが分かるが、当局筋から教えられたと推測すると合点が行く。

 こうして、野呂逮捕後の中央委員会は、大泉、小畑、宮顕、逸見ら中央委員、袴田、秋笹の中央委員候補の6人体制で構成されることになった。しかし、疑心暗鬼の支配する党内はこの頃既に中央委員間においても内訌が生じていた。大泉.小畑、松尾茂樹ら労農グループと宮顕.袴田ら東京市委員会グループの二派の対立が溶解せず、むしろ労農グループが宮顕を徹底して忌避して亀裂を一層深めていくことになった。リンチ事件を紐解くときこの観点が重要である。
 

 次のショット。他方、宮顕−袴田−秋笹ラインは一刻も猶予ならずとして、「小畑・大泉が怪しいのではないか、スパイではないのかと煽りつつ、査問にかけよう」とひた走っていくことになる。最初に発案したのは、当時中央委員候補であった袴田と秋笹両名の謀議からであったとされている。二人は、概要「査問をやるなら小畑、大泉両名を同時にやらねばならない。一人でやれば他の一人がそれに気づき我々にどんな仕返しをするかも判らぬから、査問するならば二人同時に査問しようと云う事になり」云々(袴田第2回公判調書)と話し合った。 しかし、下級機関の者が最上級機関の、時の先輩格でもある中央委員両名を査問にかけるという意味は重大過ぎることでもあり、残りの中央委員宮顕と逸見の承認と慎重な審議が必要であった。袴田が宮顕を、 秋笹が逸見を説得することにした。

 さて、ここで押さえておきたいことがある。ここで二人同時の査問を理由づけているが、袴田らが口裏合わせてどう取り繕おうとしてみても、このたびの実体は小畑の査問こそ主眼であり、その実行を首尾良く完遂せんがために大泉が利用されたのであって、そういう理由で二人の同時査問になったのではないか、という観点である。事実「査問事件」の経過を見れば、小畑の方に重点が置かれていた様子を見て取ることができる。もっともこれは闇の部分であり、私はかく洞察しているということだ。通説の「査問事件」の不可解な面に関する私の指摘の第4点としたい。


【査問事件直前の動きその2、逸見の取り込み】

 次のショット。そこで、袴田が宮顕に相談したところ、当たり前のことではあろうが、宮顕は一も二もなく 直ちに同意した。「同人も小畑・大泉はスパイと云う意見を持っておりました」 (袴田第2回公判調書)。他方秋笹が逸見に相談したところ、逸見はなかなか賛成しなかった。小畑はともかくも大泉は信用できると答えて話に乗ってこない。これについて、逆ではないかと思われるが、実際にそう述べたのか入れ替えられているのかは判らない。訊問調書、公判調書にはこういうトリックが為されている可能性も考慮せねばならない、と私は考える。

 そこで、宮本・袴田・秋笹の3人掛かりで逸見を説得することになった。袴田は次のように陳述している。

 「宮本・袴田・秋笹の3名は、正式に彼ら両名を査問しなくともその罪状は明らかであると確信していました。しかし、中央委員たる右両名を査問し、党中央部のスパイ対策を決定し、これを党員等に発表して党の防衛を完全にしむるためには、中央委員会として正式に右両名に対する査問を決定しなければならない必要があった」(袴田第10回調書)。

 何のことはない、 結論先にありきで、形式上党中央の全員を巻き込んだ体裁での査問が必要であったというのである。そのためには、「中央部員の一人でも右査問に反対する者があっては党中央部としての威信にも関わるので」(袴田第10回調書)、逸見を取り込むことがどうしても必要であったというのである。つまり、宮顕私党による党中央簒奪劇を隠すために、逸見を味方に付けるのが突破せねばならない最初の難関であったということである。

 こうして、3名が手を替え品を替えて逸見の説得に当たったが、逸見は次のような態度を示したと袴田が陳述している。

 「従来の関係から大泉・小畑両名に相当な信頼をかけていたため、この査問に対し消極的であった」(袴田第10回調書)。
 「最初の会合の時は、各自意見を述べ合った結果、宮本・秋笹及び私の3人は大泉・小畑の二人をスパイと認めて査問すべきであると云う意見に一致したのでありますが、逸見のみは彼らの行動に非難すべき点があるとしてもスパイとは認めがたいと云う意見であったのです」(袴田第2回公判調書)。

 この時の逸見は、「両名の連絡網を断ち切って党外に放逐すれば良く、中央委員ともあろう者を軽々しく査問までする必要はないではないか」と主張した形跡がある。ちなみに、私論で云えば、これは極めて真っ当な見解であったと思われる。事実、戦後の党運動でこの時のことが問題となった際に、当時の徳球書記長もそのように主張しているところとなる。

 ところが、次のような論調に押し切られることになった模様である。

 「逸見の云うが如く彼らと連絡のみを切って放逐するだけでは彼らは策動し、我々と対抗する組織を作るかも知れぬと云うことは充分考えられます。よって彼らを一時監禁し査問して彼らの罪状を摘発し、党並びにその指導下にある大衆団体を突き止めることにより、スパイに対する党の防衛手段を決定して初めてここに党の安全を確保することができるのであって、これが同人等の査問の目的であります」 (袴田第2回公判調書)。

 「もっとも、逸見は、小畑に対する査問には割り方容易に賛成したのでありますが、大泉に対する査問には容易に賛成せず」(袴田第10回調書)という反応を示した。ここも同様、小畑と大泉が取り替えられている節があるところである。「それが為査問の必要に迫られながらも、逸見説得の為相当な時間を費やしたので、その為に査問開始を私たちが予定したよりも遅延した訳であります」(袴田第10回調書)とある。結果的にこうなったと、袴田が次のように陳述している。

 概要「それで宮本や私らは、逸見に対し極力説得に努め、その結果遂に逸見も両名をスパイとして査問することを承認したので、ここに全員一致で査問を決行することを決定したのであります」 (袴田第10回調書、第2回公判調書)。

 とはいえ、逸見の態度は相変わらず煮え切らないものであったようで、袴田は次のように陳述している。

 「2回目の時も逸見の態度は変わらずだったのでありますが、大泉・小畑等の嫌疑事実を一々具体的に話し、これでも彼らがスパイであると云う疑いを持てぬかと云いますと、逸見は自身でも小畑について彼が逸見に対し俺が中央委員でなければ一仕事金儲けが出来るのだと云ったことや、又党に於いては最重要な地位にある組織部長を逸見に押しつけて自分自身は比較的重要性の軽い財政部長となった事などを述べ、怪しいと思えばかようなことも疑えると云っておりました。かような訳で逸見の考えは前回より幾分我々の考えに近寄って来て結局査問しようと云うことになったのであります」(袴田第2回公判調書)。

 この文意からすれば、逸見がそれまで小畑をスパイ視していなかったことが逆に窺える。先に、逸見が、小畑の査問に同意し大泉には同意しなかったという袴田供述で、小畑と大泉が取り替えられている可能性があると指摘したが、このたびの袴田陳述がそれを裏付けていることになる。

 次のショット。こうして、大泉・小畑両名をスパイ嫌疑者として査問することが決定された。4名で日を改めること数度この問題を検討した結果、逸見もやっと渋々同意することになったということのようである。この時点の逸見の同意は、二人を査問すれば真偽が明らかになるであろうという消極的同意であったかも知れない。この経過は、「大泉・小畑両名を除く中央委員会メンバーが一所に於いてしばしば会合し、慎重に審議した結果、彼らをスパイ嫌疑者として査問することになり」云々(袴田第19回調書)と陳述されている。

 具体的には、少なくとも第1回目が昭和8.12.3日、2回目が5日、第3回目が7日、第4回目が10日の順でそれぞれ場所を変えつつ会議が持たれた模様である。この日付から見てかなり性急に事が進められたことが分かる。第1回目と2回目が逸見取り込みに要した会議となり、第3回目及び第4回目の会合はいずれも査問の手順方法や準備等に付き協議決定した会議となったようである。なお、これは宮顕・逸見・袴田・秋笹の4名全員が寄った会議という意味であり、この間宮顕−袴田の打ち合わせは頻繁であったものと思われる。

 この経過で踏まえておくべき大事なことは、こうして嫌がる逸見を宮顕と袴田が手を変え品を変え査問に巻き込んだという経過である。なぜこの峻別が重要かというと、宮顕は公判、手記で今に至るも一貫して、「逸見が責任者であり、宮本の方が事件に巻き込まれた」と立場を逆転させた主張をしていくからである。宮顕は手を替え品を替え次のように主張している。

 「調査委員会の構成は、逸見重雄が責任者であり、同志袴田里見、秋笹正之輔などがその委員であった」(月刊読売.1946年3月号「スパイ挑発との闘争」)。
 「又逸見は宮本に引っ張られてやむなくやったと述べておるが、これも違う。左様なことはない。逸見が査問に反対したようなことはなかった。むしろ、小畑に対する査問を積極的に主張していた」(再開公判第4回)。
 「彼は上申書等では自己を結局傍観者的なものとして強調しているが、彼自身白テロ調査委員会の委員長であり、その位置はスパイ挑発に対する最重要部署にいた人間であり、組織的には問題提起の責任者であるのみならず、予審の彼の陳述でも判る如く、総会においては彼が査問の開催を提議しておるというのであるから、如何なる意味においても彼を傍観者的なものと見ることはできないのであるから彼の陳述は公正とは云えない。徒に真相を歪曲するに役立つのみである」(再開公判第8回)。
 「彼(逸見)の本件における立場の特徴は、彼は白テロ調査委員会の責任者であり、その組織部部会において小畑に嫌疑をかけ秋笹らと相談はしたが、私には何ら諮る事なく党中央部の総会において小畑査問の為の査問委員会の開催を求めた」(再開公判第15回)。

 つまり、宮顕のほうが巻き込まれたと縷々主張を重ねている。私は、宮顕のクロをシロとごう然と言い換えるこの性格は殆ど病的と見なす。少なくとも共産党中央の指導的立場に立つ資格はこの点だけでも欠損しているであろう。現在でも宮顕を評価する党員が少なくないが、そういう者達に尋ねてみたい。査問謀議経過の袴田供述は信用ならず、宮顕のこの云いを信じるのか君達は。


【査問事件直前の動きその3、予行演習】

 次のショット。こうして種々談合の結果いよいよ謀議の大詰めとなり、査問嫌疑事項の確認を終えると後は各自の役割分担を取り決めて行くことになった。 この頃のことと思われるが、次のような興味深い陳述がなされている。予審判事の「袴田は、宮顕、逸見等に、『大泉や小畑を連絡に連れだしてどこかに行って後ろからガンとやっつけてしまってはどうだろう』と提議したことがあるか」という訊問に、一応否定したものの「もっとも、確かに当時冗談に『後ろからガンとやってしまえば世話はない』という様な軽いことを云った事はあるかも知れません」(袴田第14回調書)と陳述している。

 この陳述は、このたびの査問が小畑・大泉を葬る口実でしかなかったということを証左している点で重要である。もう一つのそれは、「九段坂の牛肉屋での会合の時だったかその会合で、宮本が主として査問に当たることに決まったので、私が『それじゃ俺がテロ係か』と冗談に云ったことはあります云々」(袴田第2回公判調書)と云う会話がなされたことを陳述している。おおよそ愚劣な同志意識が感じられる査問側の「正義」ではないか。


 次のショット。一応の手筈を次のように取り決めた。12.16日に査問を決行する、家屋の借り入れは秋笹、警備隊の動員は宮顕と袴田、当事者の連行は宮顕と逸見とが担当することにした。そして、査問当日の手順について打ち合わせをした。査問方法も確認したが、大綱の取り決めであった。こうして謀議が終結し、個々に任務を持って散会した。

 次のショット。袴田は、警備隊の動員を引き受けたので、12月中旬「かねて信用していた」木島隆明に大泉・小畑両名の査問することに至った経過と中央委員会決定を伝え、これの警備役を命じたところ、木島は即座にこれを承諾した。こうして木島ラインに警備一切の責任を任すことにした。

 なお、木島に査問道具の調達も命じた。被疑者を縛る針金、細引き、威嚇のための斧、出刃包丁等必要と思われる物品の支度を命じた。木島は次のように陳述している。

 「その時の袴田の話で、私は宮本や袴田が党中央委員会のスパイを査問して殺して仕舞うのだなと感じましたが、当時私は党員であって、スパイを極度に憎んで居った際であったから、宮本や袴田等が党中央委員会のスパイを査問して殺すのは当然だと思って居りましたので、前述の如く凶器を買う依頼を承諾しました」(木島訊問調書)。

 木島は、リモコン的な部下2・3名を行動隊(警備隊員)として動員することにした。

 ここで触れておきたいことがある。威嚇のためとはいえ、調達が予定されていた査問道具を顧慮すれば、宮顕−袴田−木島ラインには、この度の査問が同志的な尋問方式によって行われるようとしているのではなく、監禁捕縛の上の強権的な査問方式で執り行われることが予め了解されていたということになる。その様子は追って知れることになるが、査問テロはなかったと主張する者は、こうした経過で査問道具の調達がなされたことまで否定するのか肯定するのかにつきはっきりさせねばならない。宮顕信者達は、木島もまた虚偽なことを証言しているとでも云うのだろうか。

 次のショット。家屋の借り入れは秋笹の担当であったが、いつの間にか宮顕が選定することになった。数日後宮顕が家屋の借り入れが出来た旨伝えてきた。代々木山谷の一軒家であった。家の間取り図から付近図まで掌握され、 査問決行日が決められ全員支度に入った。立花氏は、「日本共産党の研究三.40P」で次のように述べている。どの資料によったのか分からないが、かなり角度の高い推定であるように思われる。

 「朝8時木島はピストルを洋服のポケットに、出刃包丁と薪割を風呂敷包みにして持ち、かねての打ち合わせ通り江戸川橋近くの餅菓子屋三好野で宮本と最後の打ち合わせの為の連絡をとった。宮本は、『全部揃ったか』と尋ね、木島は『揃った』と答えた。宮本は 円タクを止め、木島と共に乗り込み、車中で、それから2時間後の午前10時に京王線初台停留所付近に行動隊を引き連れてくるように命じると、春日町付近で円タクを止めて下車した」。

 こうして当日午前10時頃袴田と木島、行動隊他が要所に配置され準備万端整えていたところ、実際に借り入れ交渉に当たっていた某が直前になって家主に怪しまれ断られたという報告にやって来た。ところで、この某が誰であったのか詮索されていないが、私は少々気になっている。こういう事件の伏線を明らかにするのに何の憚りがあるのだろう、それともこの経過も又作り話とでも言うのだろうか。袴田は次のように陳述している。

 「いったん家主は貸すことを承諾したのですが、借り主の身元を調べたところそれが借りに行った者の云った事と違っていたとかで怪しみ貸さなかったとのことであります」(袴田第2回公判調書)。

 そこへ逸見・秋笹・宮顕がやって来た、事情を知らされて結局この日の査問は中止となり他日を期して解散することとなった。こうして未遂におわることになるが、不思議なことに、この時の大泉・小畑の呼び出しの様子が誰からも明らかにされて居ない。その点を考えると、慎重癖の宮顕の為せる打ち合わせの予行演習的芝居であったのかも知れない。


【査問事件直前の動きその4、査問アジトの確保】
 次のショット。その翌日、宮顕・逸見・袴田・秋笹4名が集まり、査問の件について更に協議を行った。各自のアジトが官憲に分かっているようだから至急移転することと新たに査問アジトを探すことになった。秋笹が査問アジトの借り入れを引き受けることを言い出したとされているが、言い出しっぺであったかどうかは別にしてみんながこれに同意し、秋笹のハウスキーパー木俣鈴子がその直接の役に就くこととなった。

 次のショット。2、3日後、秋笹が、東京都渋谷区幡ヶ谷にあった都心では珍しい閑静な場所で広さが格好の一軒空き家を見つけてきた。玉川上水路から北に5,60メートル入ったところにあった。ここが実際の査問場所となった。この空き家を見付け出した経過も伝えられていない。借り入れの契約は秋笹とハウスキーパーで為したことは確定しているが、果たして秋笹が2、3日後という短時日にどうやって格好の物件を見つけ出したものかやや疑問が残る。

 私は宮顕の裏画策により提供されたと推理している。もう一つ疑問がある。当初は「少し大きな一軒家で。(隣家から)離れた家」を要件として借りようとしていた筈であるが、このたびのアジトは「隣家の窓が手を出せば届くような小家屋の密集地帯の狭い借家」(宮顕伝)だった。これは謎である。後日、これだけ隣接する隣家から特段の苦情が為されていないということから、このたびの査問は静粛に行われたとの根拠として宮顕が主張することになるが、その証言を得るためにわざわざこのたびのようなアジトを手当てしたとは思いにくい。

 ここはまったくの闇の部分であるが、この隣家がどのような人であったのかを詮索する必要があるように思われる。「犬は吠えても歴史は進む」で、「隣家の堀川マスは、男女の声を聞き分け、人数まで正確に言い当てた」とあるが、堀川マスが何者であるのかということや、隣接隣家の全体の配置図が明らかにされていない。不思議なことである。一つの推定であるが、隣家の一つでは特高が固唾を飲んで成り行きを見守っていた可能性さえあると思われる。私はそこまで考えている。そうなれば苦情もある筈もない。私は宮顕こそ特高の回し者と見なしているから、このたびのリンチ事件は特高監視の中で行われたと推定している。しかし、かようなことが露見すべくもなかろうからして闇の部分ににらざるを得ない。この立場からすると、隣家証言は全くナンセンスということになる。

 次のショット。12.22日の夕方、秋笹の案内で宮顕・逸見・袴田が下見した。2階に8畳間がありここを査問場所とすることにした。家の全体の間取り・付近の状況を確認し、 翌12.23日査問決行を決議した。各自の任務分担と手筈を再確認し別れた。この間、木島は宮顕と19日、21日、22日と続けて街頭連絡をとっていた、とのことである。 ここまで見て判ることは、この査問事件の立案企画者が宮顕であり、その実行計画の芯の部分のほとんども彼またはそのラインのリードでなされているということである。以下もそういう彼の能動的役割が見えるが繰り返さないことにする。

 ここで「査問事件」に登場する主要人物の年齢を記すと、被査問側大泉兼蔵は34歳、そのハウスキーパー熊沢光子は23歳、小畑達夫は28歳。査問側の宮本顕治は25歳、袴田里美は29歳、木島隆明は26歳、秋笹正之輔は32歳、逸見重雄は36歳の面々であった。

【査問事件発生その1、事件関係者の位置関係考】
 なお、以下かなり長文化するので、ここで「査問事件」のその後の展開についてコメントしておく。「査問事件」は事件以降隠蔽され続けようとしてきた。しかし、現に小畑が死亡せしめられているわけだから、事件そのものまでなかったことにするのはさすがに難しい。では、どういう風に隠蔽されたのかということになる。

 それは、二つの系流で行われた。一つは、宮顕によって、小畑・大泉はスパイであったのであり、党内の当然の査問過程で小畑の「異常体質による急性ショック死」に起因して自ら死んだものであり、査問側の責任は一切免責されると云う論調でなされた。宮顕は、こうして死因の解明を避けつつそういう事態に党を追い込んだ責任として当時の暗黒的政治支配体制の方に目を向けさせる作戦に出た。公判では専らこの方面での批判を滔々となすことにより一種独演舞台を演出し、こうして事件そのものを矮小化させた。他方で袴田は、小畑・大泉はスパイであったのであり、当時の査問側には査問的正義があったとする観点から査問の経過を饒舌に語るという論調で補強しようとした。これを党内問題とみなすことを要求し、ブルジョア法廷で階級的裁判されるにはなじまないとする作戦に出た。これが二人のあうんの呼吸であった。

 但し、この論調を貫徹させるためには他の当事者を沈黙させる必要が生じ た。最重要人物は秋笹であった。査問発端以来の経過を熟知していることから、秋笹の存在は都合の悪いものであった。そうした事情によってか、秋笹は発狂の末獄死させられるところとなった。かなり執拗に拷問を受けていたとも伝えられている。その過程で、面会人にも法廷でも「スパイだ、スパイだ」と叫んでいたと言われている。誰のことを「スパイだ」と告げていたのか伏せられたまま伝えられているが、れんだいこは「宮本はスパイである」と叫んでいたと推定している。


 
次の人物は木島である。しかし木島の場合、もともと宮顕の私兵的な存在であり、査問用具の調達から暴力行為の先兵的下手人的な役割を深く果たしていることもあり、事件の隠蔽に同意させるのはさほど困難ではなかった。

 次に逸見の存在が不気味となったが、逸見自身は深い謀議も知らず単に巻き込まれただけのことを特高側も知っており、且つ秋笹に続いて逸見まで抹殺するのは却って怪しまれるという事情から葬る訳にはいかなかったのではないか、と私は推測している。逸見は無事戦後まで生き延び出獄した。しかし、不気味なまでに沈黙を守り通したまま世を去っている。

 大泉は、恐らく宮顕達とは指揮系統の違う当局のスパイであり、指示されるままに当局のシナリオ通りに従った。

 真相を明らかにするためには統一公判が必要であったが遂に実現していない。誰が拒否したのだろう。当局もまたなぜ統一公判を避けたのだろう。


 こうして、「査問事件」全体がヴェールにつつまれることになった。その解明が進むことになったのは随分後年になってからである。立花氏による「日本共産党の研究」での「リンチ事件」の概要解明が発端となった。続いて「秘匿しておく価値が減じた」という理由で平野氏の手元に保管されていた袴田・大泉調書の全容漏洩によって一挙明るみに出されることになった。これがなければ、宮顕の云うが如く永遠に小畑がスパイであり、その死は異常体質による急死であったという説がまことしやかに信じられていたことであろう。もっとも、このたびの「袴田・大泉調書の全容漏洩」によっても特段の波紋が起こっていないというここまでの奇妙な経過がある。

 私は、党内事大主義の極致化と党内外評論員の阿諛追従劇の完成こそを知らされている。あるいは又「袴田・大泉調書の全容漏洩の重み」をそれとして理解できない左翼人士の現況にあきれてもいる。両書が徳球時代に暴露されていたとしたら、宮顕は手厳しく自己批判を迫られ、ウンもスンもなく党外へ放逐されたであろう。残念ながら徳球時代には秘匿され続けてきた経過がある。

【査問事件発生その2、大泉・小畑捕縛】
 第二幕目のワンショット。当日の状況を再現する。1933(唱和8).12.23日、いよいよ手筈通りに事が進められていくことになった。この日は皇太子が誕生した日であった。路傍の電柱には、新聞紙に墨で書かれた「祝す・皇太子殿下誕生」の文字が躍っていた。袴田はそういう光景に出会いつつ不退転の決意で査問会場へ向かった。午前8時頃、木島と出会い、いよいよ査問が決行されること、査問場所に関する地理等を伝え、警備に関する手筈を打ち合わせ、先に現場に行っているよう言いつけた。木島は、 「かねての宮本の指図に従い林鐘年・金秀錫両名を伴い」(木島調書)、現場 ピケ(見張り)に向かった。

 この二人の朝鮮人は江東地区の土建労働者であった。いきさつが判明しないが、この当時朝鮮人がこうした査問ピケや拷問役等々の汚れ役に上手に使われていることが知れる。ここは別途考察を要するところである。

 袴田はその後で宮顕と打ち合わせしたように思うがはっきりしないと言っている。これを裏面から読めば「宮顕と打ち合わせした」ということである。袴田はその後9時頃、現場へ向かった。現場へ到着した時刻ははっきりしないが、査問1時間程前だった。アジトへ着くと木島が既に来ており1階にいた。防衛警備に木島の手の者複数が配備されていた。秋笹のハウスキーパー木俣鈴子も1階にいた。袴田は直ぐに査問予定の二階の8畳間へ上がると既に秋笹がいた。部屋には、木島が用意した斧2挺、出刃包丁2挺、硫酸1瓶、細引き、針金等査問用器具が押入脇の壁の前に置かれていた。部屋の真ん中位の所に瀬戸の火鉢1個、床の前に布団を被せた行火(あんか)1個、床の窓側に謄写版が置かれていた。査問予定時間まで間があったので、袴田と秋笹は火鉢の所に座ってそれまでいろいろ雑談を交わして待った。時刻が近づいて来るに連れて段々緊張して待ち構えた。


 次のショット。大泉は「16回調書」で概要次のように語っている。この日9時10分頃、「中央委員会を持とう」という逸見の誘い出しにより事前の待ち合わせ場所に行ったところ、逸見と思いがけなくも宮顕がやって来た。ここで「思いがけなくも」という意味は、この当時大泉.小畑派と宮顕の折り合いが悪く、宮顕が忌避されていたのに「思いがけなくもやって来た」という意味に解すのが至当である。

 9時40分頃が予定時間であったので3人はタクシーに乗って打ち合わせ場所に出向いた。小畑が既に来て待っており、こうして4人が揃った。すると、宮顕が、実は逸見がアジトを用意しており議案がいろいろ溜まっていることでもあり、一つそのアジトで協議しようではないかと提議した。既に述べたように野呂検挙以降「その後しばしば会合を持たねばならなかったが、アジトと金がないので延期になって居ました」(大泉16回調書)という事情にあり、懸案事項が溜まりに溜まっていることは事実であった。大泉は、日頃より宮顕には無条件で信頼することができなかったのでいろいろ質したところ、信用している逸見までが安全だから行こうよと誘うので同意することにした。逸見の取り込みが如何に重要であったかがここで分かる。続いて小畑も同意した。

 次のショット。一同はタクシーを拾うことにしたが、宮顕は一つ車に乗ろうと提議し、小畑は虫の知らせであったか、「否、年末で敵の警戒が厳重であるから二つに分乗しよう」と言い、小畑と大泉で一つ車に乗ろうと した。この陳述は重要である。小畑の対特高警戒心が伝えられており、果たしてスパイがその様な警戒を要するであろうか。なお併せて、小畑の宮顕に対する不信が見て取れるであろう。宮顕と逸見は、「否、それは不経済であるし、君たちばかりではアジトの場所が判らないだろう」と言うので、仕方なく4人が一つ車に乗って向かうことになった。現場近くまで来た途中で宮顕の「危険を避けるため」と云う提議に従い二手に分かれ、宮顕が小畑を、逸見が大泉を連れて歩いてアジトに向かうことになった。大泉は逸見に連れられてアジトに向かうことになったが、道を間違ったとか言いながら時間をつぶされた。後で考えると宮顕らが小畑を処分する時間稼ぎであったことになる。


 次のショット。こうして待ち受ける中、午前10時から11時頃にかけての間と思われるが、先ず宮顕が小畑を連れてやって来た。二人は何か話をしながら階段を上ってきた。袴田は、それと察し用意してきた実弾装填のピストルを片手に細引きをもう一つの手に身構えた。秋笹も立ち上がって待ち構えた。宮顕は小畑を先導させつつ二階へ誘導した。宮顕は、小畑が部屋へ入るなり後ろから首を羽交い締めする格好で小畑の動きを制止し、「これからお前をスパイの容疑で査問する。神妙にせよ」、「絶対に大声を立てたり暴れたりしないよう」と力を入れた。袴田、秋笹も、「大きな声を出すな、大声を立てるととんでもないことになるぞ。決して得策ではない」等同様のことを言い渡した。かく「スパイの嫌疑で査問する」旨を宣言したようである。

 すると、小畑は、「蒼白な顔色になり」、非常に驚くと同時に事態を察知した。「何でも訊(き)いてくれ」と言って、「尻餅を着くようにへたばってしまい」、「ああ、よしよし絶対暴れなんかしない」と言っておとなしくなった。小畑のこの動きは、誤解を解けばよいと安易に受け取ったものと思われる。この時、小畑が大立ち回れしておけば未遂で終わったものかどうなったものかはわからないが、少なくともリンチ査問の末の無惨な死はなかったであろう。

 実際は、不承不承ながら小畑は応じることになった。3名は、小畑を部屋の奥の方へ引っ張り込んで、手筈通りに小畑の外着を脱がせた上で細紐で両足首と両手を後ろ手に縛り付けた。身体検査も行った。所持金、名刺入れ、時計等が押収された。この後直ぐ大泉が来る予定になっていたので、小畑の両耳に飯粒を詰め込み、手ぬぐいで猿ぐつわをして押入に監禁した。この時、宮顕は懐中にピストル一挺を忍ばせていたことが公判で確認されている。但し、護身用であって査問の威嚇の為のものではなかったと強弁している。


 次のショット。約20分後、逸見が大泉を連れてやってきた。ここのところについて大泉の調書では、概要「大泉が査問アジトの二階へ上がるや否や、木島・秋笹・袴田の3名が飛びかかってきて、各ピストルやドスを突きつけて私を取り巻き、『これから貴様を査問する』、『声を出すと殺す』と脅かした」、「『シマッタ。これは最後だ』と直感しました」と述べている。袴田は、殺人罪に問われることを避けようとしてか、そういう言い方ではなく、「『騒ぐとどうなるか判らないぞ』と脅かした様に思う」(袴田18回調書)と、言い方はもっと穏和であったと述べている。なお、木島はいなかった筈であるとも指摘している。いた可能性もないわけではないが、木島本人の陳述では午後から参加したことになっている。

 この場面、更に補足して大泉は、「部屋に入ると宮本が左手にピストルを持ち、右手で私のオーバーの左襟をつかみ引き倒そうとしました。逸見は階段を私の後ろから追うようにして上がって来ました」(大泉16回調書)と述べている。この陳述の意味は、小畑同様の手順で部屋に入った大泉の後方から逸見が首締めを行ったのではなく、宮顕がピストルを構え同時に柔道技でつかみ倒そうとしたということにある。いずれにせよ協同して大泉の自由を奪ったことには違いないが、大泉陳述は宮顕の能動性を証左していることになる。


 
袴田調書によると、「スパイ嫌疑で査問するからじたばたするな」と口々に言い渡すと、大泉は、このものものしさに大層びっくりして「小畑以上に驚いて蒼白な顔色になり」、「尻餅をついてへたばり、『何でも言うから 手荒な事はしてくれるな』と云っておとなしくなりましたので、それ以上脅かした様なことはなかったと記憶しております」(袴田18回調書)とある。大泉の16回調書では、「否、騒ぐと君の方も損だから静かにやろうではないか」と言い返したとあり、その後続いて概要「連中は先ず私のオーバーを洋服を全部剥ぎ身体検査を為し、所持品全部を調べ、その後ワイシャツ一枚にせられ、 主として木島・袴田によって針金で手足を縛られました。足は股、膝下、足首の三カ所を縛り、膝下を後ろに回しその針金の続きで後ろ手に縛った針金と結び合わせられ、逸見がご飯粒を錬ったものを耳に入れて詰め込み、手ぬぐいその他で目隠しし、それから猿ぐつわをはめました。次いで一同は私を押入の下段に入れました」と、この時の様子を明らかにしている。この大泉の陳述通りとすれば、小畑もほぼ同様の格好で捕縛されていたと考えられる。身体検査の結果所持金、名刺入れ、手帖、時計等が押収された。

 ところで、査問テロはなかったと主張する者は、小畑・大泉のこの捕縛経過についても異論があるのだろうか、ここまでは大凡その通りであったかも知れないとしているのだろうかにつき、はっきりさせてもらいたい。大泉の捕縛された時の状況説明はなかなかリアルであるが、過剰な表現なのかどうか分析していただきたい。それとも何か、このたびの査問はお互いにテーブルを挟んで査問会議の形式で行われたとでもいうのであろうか。当然ながら小畑には陳述できない。

【査問事件発生その3、査問開始】
 次のショット。こうして両名の査問が始まった。以降査問は23日と24日の両日にわたって行なわれることになる。注意すべきは、取り調べ状況が第一日目と二日目では大きく様変わりしていくことになり、第一日目は比較的「大泉等に対して査問中暴行脅迫を加えたことは間違いありません。大泉に対しても又小畑に対してもあまりひどい事はせず」(袴田14回調書)とあるように、散発的に暴力が振るわれる程度で、比較的大人しく推移したと云う。ところが、打ち合わせのないままに第一日目の深夜も査問が続行された模様であり、二日目の査問では「前日より厳しく追及し、従ってそれが為に暴行脅迫の程度も前日に増 しておりました」(袴田14回調書)という具合にかなり激しくなされたようである。但し、ここのところの区別について大泉の調書では明瞭でなく、当初より概要「殴られたり蹴られたり手荒い事をされたために意識を失った」とか「包丁で腹を切られた」と陳述している。この大泉陳述は、袴田により「とか申しておりますが、それなんかは全くのデタラメであります」(袴田18回調書)と否定されている。

 注意すべきは、「逸見を除く3人は最初から大泉・小畑両名のスパイなりと確信してから決行したのであります」(袴田10回調書)というように、逸見を除く3名と逸見との間には姿勢の違いがあったことである。更に注意すべきは、概要「最初から彼らを殺すと云う事を目的として査問した訳ではない」、 「査問委員たる4名はそんな極端な考えは持っておりませんでした」(袴田13回調書)とは云うものの、予審判事により、「木島をリーダーとする行動隊の中には当初から殺害意思があったのではないのか」と訊ねられた際に、「木島或いはその他の者の中には、いやしくも中央委員たる者がスパイである事が判れば、これに対し死刑を以て臨まねばならないと云う極端な考えを持っていたかも知れません」 (袴田13回調書)と陳述していることである。つまり、部下の責任においていつでも殺させることができる体制を敷いていたということになる。

 なお、査問後の二人の処置について、「(査問打ち合わせのどの時点においても)査問の結果スパイたる事実が確定すれば彼らを殺すとかどうするとか云うことは論議しませんでした」(袴田10回調書)とも陳述している。この受け答えは、査問する側の無責任無能力ふざけぶりを語っているではないか。この査問中ピストルで脅しながら訊問したかどうかは不明である。袴田は、査問中床の間付近に置いてあったと証言している。次のように陳述している。
 「ピストルは大泉・小畑両名に威嚇の為とアジトが警官等に襲撃された場合のアジト並びに同志の防衛の為に用意し、出刃包丁等は右両名に対する威嚇の為でした」(袴田13回調書)。

 さらに興味深い陳述がなされている。予審判事の「査問中大泉・小畑両名に 食事を与えたのか」という訊問に対して、「与えなかったように思います」(袴田14回調書)と答えている。何とも無惨無慈悲なことをしてくれるではないか。 用足しの記述もない。大泉が押入に小便を二度漏らしたというぐらいで小畑については記述がない。

 更に重大な陳述がなされている。「前回小畑の査問中彼の頭にオーバーが被せてなかった様に述べたが、それは誤りで大泉には被せなかったが、小畑には被せたまま査問したのです」(袴田3回公判調書)という既陳述の訂正が為されている。これは、第3回公判冒頭での「前回まで被告人が述べた事につき訂正する点はないか」という判事の定例の問いに対して、袴田が敢えて訂正をなしたものである。袴田にとっては何の益もない訂正であるから、この証言は恐らく事実と思われる。

 既に何度も指摘しているが、この陳述は、このたびの査問が小畑にこそ主眼が向けられていたということの裏付けになるであろう。但し、この陳述を精査していくと、小畑には途中からオーバーが被せられ通しであったということと、大泉の場合スパイを自認してからは除されていた。つまり、スパイを自認すれば小畑も又苦しさから解放されるぞという誘導の意図もあって頭にオーバーが被せ続けられていたというのが実際のようである。

【査問当初の様子その1、小畑篇】

 次のショット。袴田は、宮顕が査問委員長であったとして次のように陳述している。

 「小畑・大泉を順次束縛した後、宮本顕治が査問委員長の格で、これを逸見や私が補助し、秋笹が査問の書記局を勤めることにして、先ず小畑から査問を開始することになりました」(袴田11回調書)。

 これにより、小畑の方から査問するということがあらかじめ決められていたことが分かる。但し、宮顕の公判陳述によれば、「まず大泉から予定表に従い訊問を開始した」(宮本4回公判調書)となる。私には、このたびの査問が小畑にこそ向けられていたことを隠蔽しようとする宮顕の明白な偽証のように思われる。世事まま記憶が薄れることがあるにしても、このような記憶間違いは起こりにくいことを考えると、この査問事件に対する宮顕の陳述が一貫して詐術的であることをこの件からしても窺うべきかと思われる。付言すれば、悪意なき者には無用な詐術である。

 査問が開始されたのは、午前11時過ぎ頃から12時頃までの間であった(逸見の調書によると午後1時頃となっている)。「この小畑の査問中は同人の両手を後ろに廻し針金と縄で縛りたるままにて実行したるものなり」(逸見調書)。「彼らが査問を破壊する行動に出るかも知れぬので、査問を平和裡に行うには仕方ない」(宮本4回公判調書)ことだったようである。押入から小畑が引き出され、替わりに大泉が押入に入れられた。

 こうして査問が始められた。小畑を取り囲むようにして車座になった。まず、宮顕が、小畑に対して、「これからお前をスパイとして査問を開始する」旨を言い渡した。小畑は、「よく調べてくれ」と素直に応えた。逸見調書には次のように記されている。

 「へき頭宮本は、小畑に対し、『君たちの査問はもっと早くやる筈であったが、延び延びになって今日からやることになった。今度は1週間くらい監禁して徹底的に調べるからそのつもりでおれ。今度は君たちばかりでなく他にも数名同様に査問を進めて居るからデタラメな事を云っても直ぐ判るぞ』と嚇し、袴田は『何遍も同じ事は聞かないから嘘を云って後で取り消す様なことがあると承知しない』と云って訊問に入りたり」。

 宮顕の「今度は君たちばかりでなく他にも数名同様に査問を進めて居る」は意味深である。

 この時の袴田の感想によれば、要約「いやしくも党の中央委員がスパイ嫌疑の下に査問されようとしているのだからこれを重大な侮辱と受け止め、反抗的態度を取るべきところに拘わらず、却って我々の機嫌をなるだけ損ねまいとする態度を装ったので、ますますスパイの嫌疑を深めた」(袴田11回調書)ようである。先に小畑を捕捉した際に、「大きな声を出すな、決して得策ではない」と言い聞かせていたことを考えると何をかいわんやではないか。


 さて、いよいよ査問に入った。宮本4回公判調書によれば、「身上関係、家賃三ヶ月の滞納の件、連絡関係、闘争履歴、入党事情などを質したるあと、 前述の嫌疑事項で申し述べた事項に関し、逐次尋問したところ云々」とある。 こうして査問側はあらかじめ打ち合わせてあった不審嫌疑事項に基づき小畑を一問一答式に訊問していったところ、小畑は訊ねられたところだけを簡潔に述べたという。事項の一つ一つは立花の「日本共産党の研究三.50P」を参照されたし。

 要するに、小畑は、査問者側の口車には容易には乗せられなかったということになろう。この間、誤解を招いた諸点については「悪かった」と謝罪している。次に直接的なスパイ嫌疑事項に関して訊問がなされていった。この時小畑は 「答弁が曖昧」で、「曖昧な言辞を弄して我々の満足する様な返答ができず」、「そんな行動をとったことは非党員的で悪かったと申しておりました」(袴田11回調書)。

 興味深いことは、「党内に於けるインテリ分子と労働者出身との離間策を盛んに行ったこと、例えば、自分が労働者出身たることを吹聴し、野呂、 宮本等インテリ分子を故意に悪評して、聞く者をしてインテリを蔑視せしむるが如き態度を執った」理由について訊ねていることである。語るに落ちる話であって、小畑と宮顕との党内対立があったことを如実に物語っていよう。尋問調書でも、公判陳述でも、宮顕、袴田は一貫してこのような対立があったことを否定してスパイ摘発であったと居直っているが、ならばこの質疑はなぜ為されているのだろうか、整合的に説明して貰いたいところである。これに小畑がどう応えたかというと、「自分を故意に偉く見せようとして宮本等をけなし、それによって離間策を行おうとしたのではないが、そういう事実があったとすれば、それは非同志的行動で悪かったと謝罪した」(袴田11回調書)とのことである。

 補足すれば、小畑が「野呂、 宮本等インテリ分子を故意に悪評」していたことはなく、小畑と野呂は深い信頼関係にあったので、あくまで宮顕個人に対して「インテリ分子」的表現でけなしていたと解するのが相当である。意識的に野呂を挿入することにより小畑対宮顕の確執を曖昧化させていると解することができる。従って、実際には特命での「なぜ宮本に対して故意に悪評したのか」と問いただしたと推定しうる。

 続いて、更に興味深い訊問がなされている。査問側は、「小畑が野呂の後がまを狙って野呂を官憲に売ったのではないか」と追及したようであるが、これに対し小畑は、「そういう事実はない」と突っぱねている。それはそうであろう、野呂は、当時の小畑.大泉対宮顕.袴田対立にあってどちらかといえば小畑派であったことからして、小畑が野呂を売る必然性は些かもない。この問答も語るに落ちる話であって、小畑が野呂の後がまを狙って官憲に売ったという意識の醸成側こそ、そういうことをやらかす可能性があるように思われる。

 なお、通称「馬」を上海に独断で派遣した事実について、「党として重要な仕事を他の中央部員にも相談せず、独断で行った事は誤りであると云って陳謝しました」(袴田11回調書)という。「馬」の上海派遣は超極秘で為されていたことであるが、宮顕側には筒抜けであったということになるが、宮顕のこの地獄耳はどこから由来しているのだろう。

 この時の訊問かこの後の再査問の時かまでは判然とさせられないが、次のような事項のやり取りがなされたようである。昭和8年に大阪出張を命ぜられたにも関わらず出張していない事実を質された際には、小畑は、様々な口実を述べた後で、「結局涙を流して実は郷里の母に会いに行ったと申しました」(袴田11回調書)。「かような重大な使命を与えられながらそれを遂行しないのがスパイ的行為ではないかと云って、この時は一同から拳固で散々殴られました」(袴田2回公判調書)。

 次々と「手厳しい査問の結果」、小畑は次のように述べたと袴田が陳述している。

 「めそめそ泣いておりますので、『大の男が何を泣くのだ』と云いながらなおも追及すると、自分は党員としての訓練が足りなかったので申し訳ないと云って云々」 (袴田2回公判調書)。
 「自分が政治的水準が低いのと能力がない為、客観的には自分が従来やって来た言動は反党的非ボルシェビキー的で、客観的にはプロパカートル(超スパイ)であることは自認しましたが、決して意識的なスパイではないと弁明しました」。

 組織部長を逸見に押しつけ自分は財政部長になったことを訊ねると、「別に他意はない」。万世橋署に検挙されて後容易に釈放されたことに対しては、「転向を誓って許された」と弁明したようである。大体以上の様な経過で1時間ばかり取り調べられた。こうして査問側と被査問側の息詰まる応酬がなされたが、小畑がいろいろ釈明して決定的なスパイ告白はしなかったことになる。この査問は、「この間宮本が主として訊尋したのですが、予め手筈が定めてあったわけではなく、他の者も各自思い思いに訊問したのであります」(袴田2回公判調書)とある。

 ちなみに、宮顕は以上のような経過を自己流に次のように纏めている。

 「(小畑)の答えはだいたい大泉と同様で、党が破壊された被害に関係はない。スパイを推薦したことは、自分の政治的無能力によるものである。要するにスパイといわれても仕方ないといい、なお大阪行きの件はいろいろ弁明したが、結局その時は郷里へ帰ったことが判り、また初め宿所は相当替えて居るといっていたが、一年間も同一場所に住んでいた事実が判明した」(宮本4回公判調書)。

 この宮顕陳述は、党内対立の様子を窺わせる遣り取り部分を故意に欠落させている。何と恣意的な語りであろうか。なお、ここで補足すれば、小畑が「一年間も同一場所に住んでいた事実が判明した」とその非が責められているが、では、査問側の宮顕、袴田らはこの当時宿所を頻繁に変えていたのかという反対尋問をしてみたい。

 この時の小畑の態度を要約すれば次のような様子であったようである。小畑の不審行動の詮索が始められ、謀議されていた一つ一つ過去の行動に対 して詰問が始まった。何時のあのとき何をしたか、あれは党規違反である。自己批判せよ的調子でめいめいから罵声が浴びせられた。次第にスパイであることを認めよと激高していくことになった。しかし、小畑の答えは自己の非は認めるもののスパイであるということについては強く否定し続けた。つまり、査問側からすれば何一つ確証を得なかった。


【査問当初の様子その2、大泉篇】

 次のショット。「これ以上の訊問はらちがあかず、ここで一応小畑に対する査問を打ち切り、同人を束縛のまま押入に入れ、代わって大泉を押入から出して 小畑同様な順で査問を開始しました」(袴田11回調書)。「同人も同様針金縄等を以て手足を縛りたるまま訊問したり。大泉の訊問中木島が来たり、爾後同人も査問に参加するに至りたり」(逸見調書)とある。

 ところで、査問テロはなかったと主張する者は、査問時のこうした小畑、大泉の捕縛状況についても否定するのだろうか。ここまでは大よそその通りであったかもしれないとしているのだろうか、につきはっきりして貰いたい。それとも何か、繰り返すがこのたびの査問はお互いにテーブルを挟んで査問会議の形式で行われたとでもいうのであろうか。


 大泉の嫌疑事項には小畑のそれとの大きな違いがあることに気づかされる。その一つは、「中央委員ともある者が自分の連絡を一々手帖に記載しておかなければ覚えておらないと云うことは党員の資格のないことであり、又スパイ の証拠ではないか」と訊問されていることである。逆に推測すれば、小畑にはこのようなお粗末さは見られなかったということになる。

 これに対して、大泉は、「自分は頭が悪いから一々書かないと活動ができない」と答えた。「更に連絡相手のペンネーム、連絡場所、時間等を巨細に書いてあるのはどういう訳かと追及すると、彼は返答に窮して只謝罪するばかりでした」(袴田11回調書)。又、嫌疑事項に対する返答においても小畑とは違いが見られた。袴田は次のように陳述している。

 概要「客観的にはスパイ的行動で誠に済まなかったと陳謝しました。具体的事実について質問すると彼は答弁もしどろもどろで、答弁に窮し只陳謝するばかりで辻褄の合った返答もできず、この査問を通じて大泉の態度は小畑以上に迎合的であり、また追従的であり、なるだけ寛大な処分をして貰いたいと見える様な哀願的醜態でありました」(袴田11回調書)。

 つまり、大泉のしどろもどろ性と哀願的態度が伝えられているが、これを逆に云えば、小畑の場合には聞かれた事に対する簡潔な受け答えが為されていたということになる。

 「この大泉の査問中木島が二階に上がってきて査問を聞いておりましたが、時たま大泉が返答に窮したときには、『この野郎』と云って、大泉を殴ったり側から口を出したりしていました」(袴田11回調書)。この間、大泉・小畑の査問のいずれかの際にか両方の際にか不明であるが、「脅したり、頭、顔、胸等を査問委員の者が平手あるいは手拳を以て殴ったり又は足で蹴ったりしました。木島も時々脅し文句を言ったりしてゴツンゴツン大泉・小畑を殴ったりして居りました」(袴田14回調書)と陳述している。つまり、本来、木島は警備隊の役割で参加しており、このたびの査問委員ではなかったにも拘わらず、いつの間にか特攻隊的な役目で暴力リード係をつとめていたことが伺える。


 この時の査問の様子は次のようであったと大泉は陳述している。

 概要「目隠 し猿ぐつわのまま、宮本が主となって査問が始められました。金の出所の説明、党員除名の承認、スパイ行為の承認、ハウスキーパーの詮議が為された。彼らは査問すると云うより私に発言の機会を与えず計画的に私をスパイだと云って拷問するのであります。訊問事項を訊ねる度に主として宮本・木島・ 袴田が私を殴ったり蹴ったりします。私は苦しいのでただ首を頷いたり横に振ったりしたので彼らは一層私の態度を曖昧だと言ってテロを加えます」(大泉16回調書)。

 この証言で、「主として宮本・木島・ 袴田が私を殴ったり蹴ったりします」とあるところが重要である。

 大泉は、更に次のように陳述している。

 「遂に錐であったか斧の峯の方で私の口の辺りを殴った為に前歯一本・奥歯一本が折れ、又斧の峯で頭を殴られた為に血が私の顔を伝って落ちるのを覚えました。又私の背中を斧で殴られたので気絶したように思いますが判然しません」(大泉16回調書)。

 但し、歯が折れたという部分は他の者の陳述にはないので、この部分前後の大泉の陳述の真偽が問題になる。査問の動き全体は、査問当日直後は比較的おとなしく、(当夜と)翌日の午前からエスカレートしたというのが当事者のほぼ一致した陳述であり、この最初の査問時より殴る蹴る的査問が行なわれていたのかどうか判断が難しい。前歯と奥歯一本宛が折れていたというのであれば大泉の逮捕後の診断所見ではどうなっているのだろうかと見れば記述がない。

 私としては、推測ではあるがその真の理由は後で述べるとして、大泉の査問風景の陳述は参考に留めることとする。かたや査問側4名、かたや被査問側1名の言い分であり、もう一人の当事者は死亡しているのでどうしても大泉一人の陳述は分が悪いということと、大泉の陳述全体に前後の混乱が見受けられる部分があることによる。可能性の一つとしては、頭被せの例を見ても判るように、主な暴行が小畑にこそ向けられていたことを隠蔽するために、大泉にも相当程度の暴行が為されていたとの過剰陳述が為されていることも考えられる。


【査問当初の様子その3、交互査問篇】

 次のショット。この間小畑と大泉の査問が交互に行われたようである。査問第一日目のこの時は小畑査問の時は大泉は押入に入れられ、大泉査問の時は小畑が入れられるという具合で交互に入れ替えられたようである。一体に言って、大泉はしどろもどろの答弁になり、小畑の場合は簡潔に受け答えがなされたようである。

 再査問の頃から査問側に次第にあせりが生じ、余裕が失われていき、「嘘を着くな」、「素直に白状しろ」の言辞を暴力的に行なっていくことになった。後ろから首を絞めるようにしながら「白状しろ」と迫ると、小畑は、苦しさからか、「わかった。云うから待ってくれ」と応えたので緩め、「では白状しろ」 と迫ると、一見自分の非を認めながら、部分の非は認めても全体としてスパイではないと云う結論に辿り着く。査問側は業をにやした。こうして、どこまでいっても理詰めでは小畑のスパイ性を明らかにすることが困難であったようである。

 この時の査問は平穏を基調にして行なわれたとはいうものの、次のような陳述がなされている。但し翌日にも同じようなことが行なわれているのでこの時のことかどうか不明である。

 「午後二時頃自分はタドンを火箸にて挟み、小畑の踵(かかと)の辺りに 一回押しつけると小畑は慌てて足を引っ込めることあり」(秋笹13回調書)。

 この様子につき、袴田は次のように陳述している。

 「秋笹は、小畑の足の甲辺りに火鉢の炭団(タドン)の火を持って来てくっつけました。すると小畑は『熱い、熱い』と云って足を蹴り上げました」(袴田14回調書)。

 逸見調書は次のように記している。

 「訊問中小畑の供述に前後撞着する如き場合には、『何故最初から本当のことを云わぬか』と難詰し、宮本・袴田・秋笹の3名は小畑を打ったりなぐったり蹴ったりし、又秋笹は、『何故嘘を云うのか』と云いて薪割用の小さき斧にて頭をコツンと叩きたることあり」(逸見調書)。

 ここで気づくことは、「宮本・袴田・秋笹の3名は小畑を打ったりなぐったり蹴ったりし」とあることで、逸見の対小畑に対する暴力が為されていないことである。

 次のショット。この時点の頃と思われるが憤りを覚えざるをえない次のような木島の調書がある。

 「暫くすると二階から宮本と秋笹が降りてきた。宮本は立ちながら両手を洋服のズボンのポケットに突っ込んで、私に対して、『ヤァご苦労だった』と云い、更に言葉を続けて『未だ奴らはスパイとして本音は吐かないが奴らのスパイである事は疑いない事実である。何しろ愉快なことがある。今朝まで彼奴らは我々に対して中央委員会を我が物顔で威張っており、物言い方などもまるで子供にでも対するような態度であったが、我々が彼らを家に連れ込むなり『党中央委員会としてお前達に嫌疑があるから今日査問を行うから神妙にせよ』と云ったところ、彼奴らはブルブル震えだし今朝までの横柄な態度は何処へやらまるで狼の前の羊の様な態度になり下がりへいへいして居った。スパイでなければかかる急変な態度にはならないものだ。その態度たるや実に愉快なものであった』と申して宮本は大笑いしました」(木島予審調書)。

 その他宮顕が木島に、「とにかくこの査問会は党空前の画期的闘争だ。こんな素晴らしい闘争に君が労働者として参加できたことは実に光栄だよ」と言うので、木島は「光栄です」と答えたと云う。

 何と嫌らしい下部党員のあしらい方だろう。併せて、こうした場で「大笑い」できるなぞは宮顕の異常性格さえ窺えるに足る話ではなかろうか。同じ様な趣旨を秋笹も言い、木島は「力の限り党のために働きます」と答えた、という。そのうち宮顕が、「どうだ君二回に上がって奴らのざまを見ないか、実に滑稽なものだよ」と言うので、木島は二人について二階に上がった。木島は目の前にいるスパイを見て興奮し、「この野郎太い野郎だ」と言って大泉を殴ったり蹴ったりした、とある。この時点からどうやら木島は査問に参加したようである。これによれば、宮顕が木島を査問部屋へ引き上げたことが見て取れる。


【査問当初の様子その4、小休憩篇】

 次のショット。こうして査問していくうちに全員相談の結果、両名の住居の捜査を行なうことに決定した。両名に住居の略図を書かせ、なお大泉にはハウスキーパーがいたため、同女に宛てた簡単な手紙を書かせた上、木島に命じて直ちに捜査に向かうよう指示した。手紙の文面は、概要「急に大阪に出発することになったから党関係の重要な書類や株券等を使いの者に持たせてよこしてくれ、なおお前も一緒に来る様に云々」というものであったようである。「出発に当たり宮本・秋笹より大泉の妻を同伴し来るべきことを注意せられたり。自分はスパイの家へ一人で行くは危険と思い、加藤亮に同行を求め同人と二人にて云々」(木島予審調書)。加藤亮については突然触れられているので、何者なのか査問に参加していたのかどうかよくは分からない。「リンチ事件」の総数にはこういう未解明な点が依然多い。

 こうして査問が続けられていくうち、いつしか外はもう暗くなっていた。午後4時頃という陳述もあるが恐らく午後6時から7時頃であったようである。各査問者はそれぞれ連絡を持っていたため、一応両名の査問を打ち切ることにした。袴田は、これまでの査問の様子につき次のように陳述している。

 「かようにして両人の査問は午後4時頃終わったのでありますが、この間一同が平手或いは拳固で数回両人を殴りつけた事は事実ですが、器物で殴った様なことは一回もありません」(袴田2回公判調書)。

 この陳述はすでに見てきた様子と異なるが、私は袴田の責任回避の偽証とみなす。大泉、小畑両名を更に細引き、針金等で縛り直し、更に猿ぐつわ、目隠しを施して小畑を押入に入れ、大泉にも「再び私に目隠しを施してその上頭から何か被せてしまいました」(大泉16回調書)。そして、押入側の壁に背をもたせて放置し、特段の連絡を持っていなかった袴田が監視した。逸見、宮顕が連絡のため査問アジトを出ていった。

 次のショット。アジトを出た後のそれぞれの足取りが確認されていない。おかしなことだが予審判事が聞いていないようである。但し、この時の逸見の大体の足取りは割れている。どうやら、逸見は、この査問の経過を信頼できる筋に報告に出向いていたようであり、当時農民組合の党フラク・キャップであった宮内勇に次のように査問の様子を伝えている。この経過の貴重な証言が残されている。なお、この宮内は、翌年袴田執行部に反旗を翻し、党中央は袴田等のスパイにより乗っ取られたと見て、公然と「党内多数派」を結集する動きを見せていくことになる。それはさておき、この時逸見は、宮内に次のような感想を伝えたとのことである。

 「大泉にくらべると小畑の方がどうも大物らしい。小畑は松村直系のスパイかも知れない。奴はなかなか口を割らないので査問に手こずっている。大泉はすぐペラペラ白状 したところをみると案外小物かも知れぬ」。

 この宮内証言は貴重である。査問直後の逸見の口から、「(小畑が)なかなか口を割らないので査問に手こずっている」と明かされていることになる。これが実際であったのではなかろうか。ところが、この査問の報告を聞きながら、宮内は次のように考えたと云う。

 「問題は、(査問側の云うような事が事実だとすれば)つかまったらすぐスパイに転向するような奴が安易に中央委員にのし上がることができたというそういう党の組織と人事のデタラメさである。スパイが中央委員になったのではなくて、中央委員がスパイになったとすればそのことの方がもっと問題だ」
 「小畑達夫については、その人物乃至当時の状況判断からしてスパイであったかも しれないと思うが、さりとて彼をスパイであったと言い切る材料は私には全くない」。

 宮内のこの指摘は、宮顕に対する嫌疑へ至っていないという不十分さがあるが、なかなか的確で鋭く核心をついているように思える。

 ところで、宮顕のこの時の動きは本人が明らかにしていないようなので判らない。「私はちょっと外出して帰って」(宮本4回公判調書)と述べるにとどまっている。「ちょっと外出して」何をしたのか是非知りたいところだが、なぜ詮索されていないのだろう。いったん外出して党務で何々を為して帰ってきたとか具体的に述べ得ることであるのに、「ちょっと外出して帰って」とあるだけで事足りている。今日に至るも本人は触れておらず足取りが不明なままである。かようなところも宮顕の胡散臭く非常に疑惑が残るところといえる。れんだいこの推定は、党務関係で「ちょっと外出」したのではなく、固唾を飲んで見守っている特高機関へ状況の報告と今後の打ち合わせに出向いていたと見る。

 次のショット。木島は指令を受けるや直ちに出かけた後1・2時間して帰ってきた。木島は、最初小畑のアジトへ行ったが、同人の部屋に入ると下宿先の主婦が非常に不審そうな態度をとるので落ち着いて捜査することができなかった。小畑のトランク等には全部鍵がかかっていたので開けて見るわけにも持ってくるわけにもいかなかった。査問時の受け答えもそうであるが、アジトの管理においても小畑の見事な模範的党員ぶりのみが自然伝わってくるように思う。

 他方、大泉の方はごく有り体であったらしく、何事もなくトランク1つか二つ受け取ってきた。ハウスキーパー熊沢光子も連れてきて近所に待たせているとのことだった。木島の報告がなされた頃は既に午後9時半から10時頃であった模様で宮顕、逸見が外出した後だったので、この報告に接したのは袴田と秋笹だけであった。袴田は秋笹と相談した上で、袴田と木島の二人で熊沢に会いに行った。約20分ほどかけて熊沢を取り調べた。「私は熊沢に対し、実は大泉はスパイの嫌疑で調べられていると云う事を告げると、同女は大変驚いた様子でただ『そーですか』と云いました」(袴田2回公判調書)。

 袴田は、熊沢を査問アジトに連れていくよう木島に命令した後、巣鴨の自分のアジトに帰ったという。ところで、袴田の場合にも宮顕同様この時の足取りが追跡されていない。党務として何々を為したという記録もない。逸見の対応と比べてみて不真面目さしか見えてこない。通常刑事事件であれば裏取りされるところのように思うが予審判事も尋ねていない。直接は関係ないがこういう部分も調べられるのが捜査の常ではないのかと思われるのに怪訝なことである。従って本人が明かさない限り判らない。故人となってしまっては詮ないことでもある。





(私論.私見)