第4部 | 査問事件1、査問開始 |
(最新見直し2011.01.02日)
山崎氏の「ホロコーストを否定する人々」について 2004/07/18 | ||
れんだいこは本日、宮顕論の「査問事件/査問開始」の項目に次の一文を書き付けた。 miyamotoron/miyamotoron_4.htm いよいよ宮顕の「戦前日共党中央委員小畑氏のリンチ致死事件」の解明に入る。れんだいこは、議論しやすいようにこの事件を日時順に追跡した。且つ極力関係者の調書に基づき史実を構成し再現ドラマとした。この手法に則れば、異論者はどの項目のどの部分に一言申すと疑義を提示し易いだろう。凡そ、世の議論の種になっているものについては先行者はこういう風に書き付けるべきではなかろうか。そういう意味で以下のれんだいこの記述の仕方は手本になっていると自負している。 南京大虐殺事件、ホロコースト事件考等々についてもそのように試論が提供されるべきであるのに、これが為されていないので永遠に不毛な罵詈雑言的泥試合が続いている。全体の流れを明らかにせぬまま部分的なところを論い、お互いがお互いをウソツキ呼ばわりして得心している。こうなると文章レトリックの差が意味を持ち出してくる。れんだいこはそういう議論を好まない。能うる限り史実の流れの中に据えて位置を確認しつつ、その上で行為・事象の是非が検証されるべきであると考える。れんだいこは、以下そのように書き付けている。心して読んで欲しい。 なぜこういう一文を設けたか。山崎氏の「ホロコーストを否定する人々」を読み出して気づいたからである。あれだけページ数を設けて説くのなら、ホロコースト事件通史をまず提供すべきではないのか。それを為さぬままやれ木村氏が西岡氏が西欧のネオナチがいかにいかがわしいのか、部分部分を取り上げて論証しようとしても、読む方は疲れるだけのことである。 あのサイト、皆様方本当に読まれているのでせうか。かなりの量のようで、れんだいこは、修辞的な文言を削除して中身だけ抽出しようとしているのだけれども、らっきょうの皮みたいなものでなかなか本筋に到達しない。こういうなのって誠実な書き方だろうか。持論を広めたいのなら、素人が食いついてきた時に彼もまた自前見解が生み出しやすいように分かりやすく書き上げておかねばならない。内容的に難しい場面もあろうが、その場合でも極力噛み砕いておらねばならない。本筋と枝葉の話と仕分けして書いておらねばならない。 そういうことを考えると、かなりな悪文という気もします。ちなみに宮顕−不破がこういう悪文を得手としております。多くのものは読みきる前に辟易して「仰せの通り」という満場一致の世界へ誘われてしまう。元々それが狙いだったりして。ならばとれんだいこが自前文を書き付けてみたいところだが、原文が独、英語の世界に入っていくのは至難の業で、そこまで意欲がない。どなたかに譲りたい。とにかく日時順のホロコースト史が提起され、いついつどこそこでどういうことがあった、と記しておくべきだ。それからの議論にせねば不毛だ。 |
投稿 | 題名 |
査問事件直前の動きその1、謀議 | |
査問事件直前の動きその2、逸見の取り込み | |
査問事件直前の動きその3、予行演習 | |
査問事件直前の動きその4、査問アジトの確保 | |
査問事件発生その1、事件関係者の位置関係考 | |
査問事件発生その2、大泉・小畑捕縛 | |
査問事件発生その3、査問開始 | |
査問当初の様子その1、小畑篇 | |
査問当初の様子その2、大泉篇 | |
査問当初の様子その3、交互査問篇 | |
査問当初の様子その4、小休憩篇 |
【査問事件直前の動きその1、謀議】 | ||||
まず、第一幕のワンショット。袴田の大泉疑惑は1933(昭和8).9月頃既に発生しているとのことである。袴田が宮顕にうち明けている。次のように陳述している。
他方、小畑疑惑も同様この時期に発生しているとのことである。しかし、れんだいこが思うに、「袴田が宮顕にうち明ける」とあるが、これは袴田が宮顕を庇うレトリックであり、真相は宮顕の方から党内出世絡みで持ちかけたことが十分に考えられる。
この弁の重要なことは、秋笹が宮顕に対して配慮を見せるほど宮顕寄りにシフトしていることが窺えるところである。
何気なく見過ごされがちであるが、野呂検挙後の連絡線として直ちにやってきたのが宮顕であるということと、その時の様子が愛党的な立場からてきぱきと指導をするのではなく、調査物色にでも来たかのような対応に終始していることが伝えられているということである。もう一つ、「着物に角帯をしめた」姿とは非合法時代のカムフラージュとしてそのような悠長な出で立ちだったのだろうか。私にはそうは思えない。それにしても何をしに宮顕は出向いているのだろう。 |
【査問事件直前の動きその2、逸見の取り込み】 | ||||||||||
次のショット。そこで、袴田が宮顕に相談したところ、当たり前のことではあろうが、宮顕は一も二もなく 直ちに同意した。「同人も小畑・大泉はスパイと云う意見を持っておりました」
(袴田第2回公判調書)。他方秋笹が逸見に相談したところ、逸見はなかなか賛成しなかった。小畑はともかくも大泉は信用できると答えて話に乗ってこない。これについて、逆ではないかと思われるが、実際にそう述べたのか入れ替えられているのかは判らない。訊問調書、公判調書にはこういうトリックが為されている可能性も考慮せねばならない、と私は考える。
何のことはない、 結論先にありきで、形式上党中央の全員を巻き込んだ体裁での査問が必要であったというのである。そのためには、「中央部員の一人でも右査問に反対する者があっては党中央部としての威信にも関わるので」(袴田第10回調書)、逸見を取り込むことがどうしても必要であったというのである。つまり、宮顕私党による党中央簒奪劇を隠すために、逸見を味方に付けるのが突破せねばならない最初の難関であったということである。
この時の逸見は、「両名の連絡網を断ち切って党外に放逐すれば良く、中央委員ともあろう者を軽々しく査問までする必要はないではないか」と主張した形跡がある。ちなみに、私論で云えば、これは極めて真っ当な見解であったと思われる。事実、戦後の党運動でこの時のことが問題となった際に、当時の徳球書記長もそのように主張しているところとなる。
「もっとも、逸見は、小畑に対する査問には割り方容易に賛成したのでありますが、大泉に対する査問には容易に賛成せず」(袴田第10回調書)という反応を示した。ここも同様、小畑と大泉が取り替えられている節があるところである。「それが為査問の必要に迫られながらも、逸見説得の為相当な時間を費やしたので、その為に査問開始を私たちが予定したよりも遅延した訳であります」(袴田第10回調書)とある。結果的にこうなったと、袴田が次のように陳述している。
とはいえ、逸見の態度は相変わらず煮え切らないものであったようで、袴田は次のように陳述している。
この文意からすれば、逸見がそれまで小畑をスパイ視していなかったことが逆に窺える。先に、逸見が、小畑の査問に同意し大泉には同意しなかったという袴田供述で、小畑と大泉が取り替えられている可能性があると指摘したが、このたびの袴田陳述がそれを裏付けていることになる。
つまり、宮顕のほうが巻き込まれたと縷々主張を重ねている。私は、宮顕のクロをシロとごう然と言い換えるこの性格は殆ど病的と見なす。少なくとも共産党中央の指導的立場に立つ資格はこの点だけでも欠損しているであろう。現在でも宮顕を評価する党員が少なくないが、そういう者達に尋ねてみたい。査問謀議経過の袴田供述は信用ならず、宮顕のこの云いを信じるのか君達は。 |
【査問事件直前の動きその3、予行演習】 | |||
次のショット。こうして種々談合の結果いよいよ謀議の大詰めとなり、査問嫌疑事項の確認を終えると後は各自の役割分担を取り決めて行くことになった。
この頃のことと思われるが、次のような興味深い陳述がなされている。予審判事の「袴田は、宮顕、逸見等に、『大泉や小畑を連絡に連れだしてどこかに行って後ろからガンとやっつけてしまってはどうだろう』と提議したことがあるか」という訊問に、一応否定したものの「もっとも、確かに当時冗談に『後ろからガンとやってしまえば世話はない』という様な軽いことを云った事はあるかも知れません」(袴田第14回調書)と陳述している。
木島は、リモコン的な部下2・3名を行動隊(警備隊員)として動員することにした。
こうして当日午前10時頃袴田と木島、行動隊他が要所に配置され準備万端整えていたところ、実際に借り入れ交渉に当たっていた某が直前になって家主に怪しまれ断られたという報告にやって来た。ところで、この某が誰であったのか詮索されていないが、私は少々気になっている。こういう事件の伏線を明らかにするのに何の憚りがあるのだろう、それともこの経過も又作り話とでも言うのだろうか。袴田は次のように陳述している。
そこへ逸見・秋笹・宮顕がやって来た、事情を知らされて結局この日の査問は中止となり他日を期して解散することとなった。こうして未遂におわることになるが、不思議なことに、この時の大泉・小畑の呼び出しの様子が誰からも明らかにされて居ない。その点を考えると、慎重癖の宮顕の為せる打ち合わせの予行演習的芝居であったのかも知れない。 |
【査問事件直前の動きその4、査問アジトの確保】 |
次のショット。その翌日、宮顕・逸見・袴田・秋笹4名が集まり、査問の件について更に協議を行った。各自のアジトが官憲に分かっているようだから至急移転することと新たに査問アジトを探すことになった。秋笹が査問アジトの借り入れを引き受けることを言い出したとされているが、言い出しっぺであったかどうかは別にしてみんながこれに同意し、秋笹のハウスキーパー木俣鈴子がその直接の役に就くこととなった。 次のショット。2、3日後、秋笹が、東京都渋谷区幡ヶ谷にあった都心では珍しい閑静な場所で広さが格好の一軒空き家を見つけてきた。玉川上水路から北に5,60メートル入ったところにあった。ここが実際の査問場所となった。この空き家を見付け出した経過も伝えられていない。借り入れの契約は秋笹とハウスキーパーで為したことは確定しているが、果たして秋笹が2、3日後という短時日にどうやって格好の物件を見つけ出したものかやや疑問が残る。 私は宮顕の裏画策により提供されたと推理している。もう一つ疑問がある。当初は「少し大きな一軒家で。(隣家から)離れた家」を要件として借りようとしていた筈であるが、このたびのアジトは「隣家の窓が手を出せば届くような小家屋の密集地帯の狭い借家」(宮顕伝)だった。これは謎である。後日、これだけ隣接する隣家から特段の苦情が為されていないということから、このたびの査問は静粛に行われたとの根拠として宮顕が主張することになるが、その証言を得るためにわざわざこのたびのようなアジトを手当てしたとは思いにくい。 ここはまったくの闇の部分であるが、この隣家がどのような人であったのかを詮索する必要があるように思われる。「犬は吠えても歴史は進む」で、「隣家の堀川マスは、男女の声を聞き分け、人数まで正確に言い当てた」とあるが、堀川マスが何者であるのかということや、隣接隣家の全体の配置図が明らかにされていない。不思議なことである。一つの推定であるが、隣家の一つでは特高が固唾を飲んで成り行きを見守っていた可能性さえあると思われる。私はそこまで考えている。そうなれば苦情もある筈もない。私は宮顕こそ特高の回し者と見なしているから、このたびのリンチ事件は特高監視の中で行われたと推定している。しかし、かようなことが露見すべくもなかろうからして闇の部分ににらざるを得ない。この立場からすると、隣家証言は全くナンセンスということになる。 次のショット。12.22日の夕方、秋笹の案内で宮顕・逸見・袴田が下見した。2階に8畳間がありここを査問場所とすることにした。家の全体の間取り・付近の状況を確認し、 翌12.23日査問決行を決議した。各自の任務分担と手筈を再確認し別れた。この間、木島は宮顕と19日、21日、22日と続けて街頭連絡をとっていた、とのことである。 ここまで見て判ることは、この査問事件の立案企画者が宮顕であり、その実行計画の芯の部分のほとんども彼またはそのラインのリードでなされているということである。以下もそういう彼の能動的役割が見えるが繰り返さないことにする。 ここで「査問事件」に登場する主要人物の年齢を記すと、被査問側大泉兼蔵は34歳、そのハウスキーパー熊沢光子は23歳、小畑達夫は28歳。査問側の宮本顕治は25歳、袴田里美は29歳、木島隆明は26歳、秋笹正之輔は32歳、逸見重雄は36歳の面々であった。 |
【査問事件発生その1、事件関係者の位置関係考】 |
なお、以下かなり長文化するので、ここで「査問事件」のその後の展開についてコメントしておく。「査問事件」は事件以降隠蔽され続けようとしてきた。しかし、現に小畑が死亡せしめられているわけだから、事件そのものまでなかったことにするのはさすがに難しい。では、どういう風に隠蔽されたのかということになる。 それは、二つの系流で行われた。一つは、宮顕によって、小畑・大泉はスパイであったのであり、党内の当然の査問過程で小畑の「異常体質による急性ショック死」に起因して自ら死んだものであり、査問側の責任は一切免責されると云う論調でなされた。宮顕は、こうして死因の解明を避けつつそういう事態に党を追い込んだ責任として当時の暗黒的政治支配体制の方に目を向けさせる作戦に出た。公判では専らこの方面での批判を滔々となすことにより一種独演舞台を演出し、こうして事件そのものを矮小化させた。他方で袴田は、小畑・大泉はスパイであったのであり、当時の査問側には査問的正義があったとする観点から査問の経過を饒舌に語るという論調で補強しようとした。これを党内問題とみなすことを要求し、ブルジョア法廷で階級的裁判されるにはなじまないとする作戦に出た。これが二人のあうんの呼吸であった。 但し、この論調を貫徹させるためには他の当事者を沈黙させる必要が生じ た。最重要人物は秋笹であった。査問発端以来の経過を熟知していることから、秋笹の存在は都合の悪いものであった。そうした事情によってか、秋笹は発狂の末獄死させられるところとなった。かなり執拗に拷問を受けていたとも伝えられている。その過程で、面会人にも法廷でも「スパイだ、スパイだ」と叫んでいたと言われている。誰のことを「スパイだ」と告げていたのか伏せられたまま伝えられているが、れんだいこは「宮本はスパイである」と叫んでいたと推定している。 次の人物は木島である。しかし木島の場合、もともと宮顕の私兵的な存在であり、査問用具の調達から暴力行為の先兵的下手人的な役割を深く果たしていることもあり、事件の隠蔽に同意させるのはさほど困難ではなかった。 次に逸見の存在が不気味となったが、逸見自身は深い謀議も知らず単に巻き込まれただけのことを特高側も知っており、且つ秋笹に続いて逸見まで抹殺するのは却って怪しまれるという事情から葬る訳にはいかなかったのではないか、と私は推測している。逸見は無事戦後まで生き延び出獄した。しかし、不気味なまでに沈黙を守り通したまま世を去っている。 大泉は、恐らく宮顕達とは指揮系統の違う当局のスパイであり、指示されるままに当局のシナリオ通りに従った。 真相を明らかにするためには統一公判が必要であったが遂に実現していない。誰が拒否したのだろう。当局もまたなぜ統一公判を避けたのだろう。 こうして、「査問事件」全体がヴェールにつつまれることになった。その解明が進むことになったのは随分後年になってからである。立花氏による「日本共産党の研究」での「リンチ事件」の概要解明が発端となった。続いて「秘匿しておく価値が減じた」という理由で平野氏の手元に保管されていた袴田・大泉調書の全容漏洩によって一挙明るみに出されることになった。これがなければ、宮顕の云うが如く永遠に小畑がスパイであり、その死は異常体質による急死であったという説がまことしやかに信じられていたことであろう。もっとも、このたびの「袴田・大泉調書の全容漏洩」によっても特段の波紋が起こっていないというここまでの奇妙な経過がある。 私は、党内事大主義の極致化と党内外評論員の阿諛追従劇の完成こそを知らされている。あるいは又「袴田・大泉調書の全容漏洩の重み」をそれとして理解できない左翼人士の現況にあきれてもいる。両書が徳球時代に暴露されていたとしたら、宮顕は手厳しく自己批判を迫られ、ウンもスンもなく党外へ放逐されたであろう。残念ながら徳球時代には秘匿され続けてきた経過がある。 |
【査問事件発生その2、大泉・小畑捕縛】 |
第二幕目のワンショット。当日の状況を再現する。1933(唱和8).12.23日、いよいよ手筈通りに事が進められていくことになった。この日は皇太子が誕生した日であった。路傍の電柱には、新聞紙に墨で書かれた「祝す・皇太子殿下誕生」の文字が躍っていた。袴田はそういう光景に出会いつつ不退転の決意で査問会場へ向かった。午前8時頃、木島と出会い、いよいよ査問が決行されること、査問場所に関する地理等を伝え、警備に関する手筈を打ち合わせ、先に現場に行っているよう言いつけた。木島は、
「かねての宮本の指図に従い林鐘年・金秀錫両名を伴い」(木島調書)、現場 ピケ(見張り)に向かった。 この二人の朝鮮人は江東地区の土建労働者であった。いきさつが判明しないが、この当時朝鮮人がこうした査問ピケや拷問役等々の汚れ役に上手に使われていることが知れる。ここは別途考察を要するところである。 袴田はその後で宮顕と打ち合わせしたように思うがはっきりしないと言っている。これを裏面から読めば「宮顕と打ち合わせした」ということである。袴田はその後9時頃、現場へ向かった。現場へ到着した時刻ははっきりしないが、査問1時間程前だった。アジトへ着くと木島が既に来ており1階にいた。防衛警備に木島の手の者複数が配備されていた。秋笹のハウスキーパー木俣鈴子も1階にいた。袴田は直ぐに査問予定の二階の8畳間へ上がると既に秋笹がいた。部屋には、木島が用意した斧2挺、出刃包丁2挺、硫酸1瓶、細引き、針金等査問用器具が押入脇の壁の前に置かれていた。部屋の真ん中位の所に瀬戸の火鉢1個、床の前に布団を被せた行火(あんか)1個、床の窓側に謄写版が置かれていた。査問予定時間まで間があったので、袴田と秋笹は火鉢の所に座ってそれまでいろいろ雑談を交わして待った。時刻が近づいて来るに連れて段々緊張して待ち構えた。 次のショット。大泉は「16回調書」で概要次のように語っている。この日9時10分頃、「中央委員会を持とう」という逸見の誘い出しにより事前の待ち合わせ場所に行ったところ、逸見と思いがけなくも宮顕がやって来た。ここで「思いがけなくも」という意味は、この当時大泉.小畑派と宮顕の折り合いが悪く、宮顕が忌避されていたのに「思いがけなくもやって来た」という意味に解すのが至当である。 9時40分頃が予定時間であったので3人はタクシーに乗って打ち合わせ場所に出向いた。小畑が既に来て待っており、こうして4人が揃った。すると、宮顕が、実は逸見がアジトを用意しており議案がいろいろ溜まっていることでもあり、一つそのアジトで協議しようではないかと提議した。既に述べたように野呂検挙以降「その後しばしば会合を持たねばならなかったが、アジトと金がないので延期になって居ました」(大泉16回調書)という事情にあり、懸案事項が溜まりに溜まっていることは事実であった。大泉は、日頃より宮顕には無条件で信頼することができなかったのでいろいろ質したところ、信用している逸見までが安全だから行こうよと誘うので同意することにした。逸見の取り込みが如何に重要であったかがここで分かる。続いて小畑も同意した。 次のショット。一同はタクシーを拾うことにしたが、宮顕は一つ車に乗ろうと提議し、小畑は虫の知らせであったか、「否、年末で敵の警戒が厳重であるから二つに分乗しよう」と言い、小畑と大泉で一つ車に乗ろうと した。この陳述は重要である。小畑の対特高警戒心が伝えられており、果たしてスパイがその様な警戒を要するであろうか。なお併せて、小畑の宮顕に対する不信が見て取れるであろう。宮顕と逸見は、「否、それは不経済であるし、君たちばかりではアジトの場所が判らないだろう」と言うので、仕方なく4人が一つ車に乗って向かうことになった。現場近くまで来た途中で宮顕の「危険を避けるため」と云う提議に従い二手に分かれ、宮顕が小畑を、逸見が大泉を連れて歩いてアジトに向かうことになった。大泉は逸見に連れられてアジトに向かうことになったが、道を間違ったとか言いながら時間をつぶされた。後で考えると宮顕らが小畑を処分する時間稼ぎであったことになる。 次のショット。こうして待ち受ける中、午前10時から11時頃にかけての間と思われるが、先ず宮顕が小畑を連れてやって来た。二人は何か話をしながら階段を上ってきた。袴田は、それと察し用意してきた実弾装填のピストルを片手に細引きをもう一つの手に身構えた。秋笹も立ち上がって待ち構えた。宮顕は小畑を先導させつつ二階へ誘導した。宮顕は、小畑が部屋へ入るなり後ろから首を羽交い締めする格好で小畑の動きを制止し、「これからお前をスパイの容疑で査問する。神妙にせよ」、「絶対に大声を立てたり暴れたりしないよう」と力を入れた。袴田、秋笹も、「大きな声を出すな、大声を立てるととんでもないことになるぞ。決して得策ではない」等同様のことを言い渡した。かく「スパイの嫌疑で査問する」旨を宣言したようである。 すると、小畑は、「蒼白な顔色になり」、非常に驚くと同時に事態を察知した。「何でも訊(き)いてくれ」と言って、「尻餅を着くようにへたばってしまい」、「ああ、よしよし絶対暴れなんかしない」と言っておとなしくなった。小畑のこの動きは、誤解を解けばよいと安易に受け取ったものと思われる。この時、小畑が大立ち回れしておけば未遂で終わったものかどうなったものかはわからないが、少なくともリンチ査問の末の無惨な死はなかったであろう。 実際は、不承不承ながら小畑は応じることになった。3名は、小畑を部屋の奥の方へ引っ張り込んで、手筈通りに小畑の外着を脱がせた上で細紐で両足首と両手を後ろ手に縛り付けた。身体検査も行った。所持金、名刺入れ、時計等が押収された。この後直ぐ大泉が来る予定になっていたので、小畑の両耳に飯粒を詰め込み、手ぬぐいで猿ぐつわをして押入に監禁した。この時、宮顕は懐中にピストル一挺を忍ばせていたことが公判で確認されている。但し、護身用であって査問の威嚇の為のものではなかったと強弁している。 次のショット。約20分後、逸見が大泉を連れてやってきた。ここのところについて大泉の調書では、概要「大泉が査問アジトの二階へ上がるや否や、木島・秋笹・袴田の3名が飛びかかってきて、各ピストルやドスを突きつけて私を取り巻き、『これから貴様を査問する』、『声を出すと殺す』と脅かした」、「『シマッタ。これは最後だ』と直感しました」と述べている。袴田は、殺人罪に問われることを避けようとしてか、そういう言い方ではなく、「『騒ぐとどうなるか判らないぞ』と脅かした様に思う」(袴田18回調書)と、言い方はもっと穏和であったと述べている。なお、木島はいなかった筈であるとも指摘している。いた可能性もないわけではないが、木島本人の陳述では午後から参加したことになっている。 この場面、更に補足して大泉は、「部屋に入ると宮本が左手にピストルを持ち、右手で私のオーバーの左襟をつかみ引き倒そうとしました。逸見は階段を私の後ろから追うようにして上がって来ました」(大泉16回調書)と述べている。この陳述の意味は、小畑同様の手順で部屋に入った大泉の後方から逸見が首締めを行ったのではなく、宮顕がピストルを構え同時に柔道技でつかみ倒そうとしたということにある。いずれにせよ協同して大泉の自由を奪ったことには違いないが、大泉陳述は宮顕の能動性を証左していることになる。 袴田調書によると、「スパイ嫌疑で査問するからじたばたするな」と口々に言い渡すと、大泉は、このものものしさに大層びっくりして「小畑以上に驚いて蒼白な顔色になり」、「尻餅をついてへたばり、『何でも言うから 手荒な事はしてくれるな』と云っておとなしくなりましたので、それ以上脅かした様なことはなかったと記憶しております」(袴田18回調書)とある。大泉の16回調書では、「否、騒ぐと君の方も損だから静かにやろうではないか」と言い返したとあり、その後続いて概要「連中は先ず私のオーバーを洋服を全部剥ぎ身体検査を為し、所持品全部を調べ、その後ワイシャツ一枚にせられ、 主として木島・袴田によって針金で手足を縛られました。足は股、膝下、足首の三カ所を縛り、膝下を後ろに回しその針金の続きで後ろ手に縛った針金と結び合わせられ、逸見がご飯粒を錬ったものを耳に入れて詰め込み、手ぬぐいその他で目隠しし、それから猿ぐつわをはめました。次いで一同は私を押入の下段に入れました」と、この時の様子を明らかにしている。この大泉の陳述通りとすれば、小畑もほぼ同様の格好で捕縛されていたと考えられる。身体検査の結果所持金、名刺入れ、手帖、時計等が押収された。 ところで、査問テロはなかったと主張する者は、小畑・大泉のこの捕縛経過についても異論があるのだろうか、ここまでは大凡その通りであったかも知れないとしているのだろうかにつき、はっきりさせてもらいたい。大泉の捕縛された時の状況説明はなかなかリアルであるが、過剰な表現なのかどうか分析していただきたい。それとも何か、このたびの査問はお互いにテーブルを挟んで査問会議の形式で行われたとでもいうのであろうか。当然ながら小畑には陳述できない。 |
【査問事件発生その3、査問開始】 | |
次のショット。こうして両名の査問が始まった。以降査問は23日と24日の両日にわたって行なわれることになる。注意すべきは、取り調べ状況が第一日目と二日目では大きく様変わりしていくことになり、第一日目は比較的「大泉等に対して査問中暴行脅迫を加えたことは間違いありません。大泉に対しても又小畑に対してもあまりひどい事はせず」(袴田14回調書)とあるように、散発的に暴力が振るわれる程度で、比較的大人しく推移したと云う。ところが、打ち合わせのないままに第一日目の深夜も査問が続行された模様であり、二日目の査問では「前日より厳しく追及し、従ってそれが為に暴行脅迫の程度も前日に増
しておりました」(袴田14回調書)という具合にかなり激しくなされたようである。但し、ここのところの区別について大泉の調書では明瞭でなく、当初より概要「殴られたり蹴られたり手荒い事をされたために意識を失った」とか「包丁で腹を切られた」と陳述している。この大泉陳述は、袴田により「とか申しておりますが、それなんかは全くのデタラメであります」(袴田18回調書)と否定されている。 注意すべきは、「逸見を除く3人は最初から大泉・小畑両名のスパイなりと確信してから決行したのであります」(袴田10回調書)というように、逸見を除く3名と逸見との間には姿勢の違いがあったことである。更に注意すべきは、概要「最初から彼らを殺すと云う事を目的として査問した訳ではない」、 「査問委員たる4名はそんな極端な考えは持っておりませんでした」(袴田13回調書)とは云うものの、予審判事により、「木島をリーダーとする行動隊の中には当初から殺害意思があったのではないのか」と訊ねられた際に、「木島或いはその他の者の中には、いやしくも中央委員たる者がスパイである事が判れば、これに対し死刑を以て臨まねばならないと云う極端な考えを持っていたかも知れません」 (袴田13回調書)と陳述していることである。つまり、部下の責任においていつでも殺させることができる体制を敷いていたということになる。 なお、査問後の二人の処置について、「(査問打ち合わせのどの時点においても)査問の結果スパイたる事実が確定すれば彼らを殺すとかどうするとか云うことは論議しませんでした」(袴田10回調書)とも陳述している。この受け答えは、査問する側の無責任無能力ふざけぶりを語っているではないか。この査問中ピストルで脅しながら訊問したかどうかは不明である。袴田は、査問中床の間付近に置いてあったと証言している。次のように陳述している。
さらに興味深い陳述がなされている。予審判事の「査問中大泉・小畑両名に 食事を与えたのか」という訊問に対して、「与えなかったように思います」(袴田14回調書)と答えている。何とも無惨無慈悲なことをしてくれるではないか。 用足しの記述もない。大泉が押入に小便を二度漏らしたというぐらいで小畑については記述がない。 更に重大な陳述がなされている。「前回小畑の査問中彼の頭にオーバーが被せてなかった様に述べたが、それは誤りで大泉には被せなかったが、小畑には被せたまま査問したのです」(袴田3回公判調書)という既陳述の訂正が為されている。これは、第3回公判冒頭での「前回まで被告人が述べた事につき訂正する点はないか」という判事の定例の問いに対して、袴田が敢えて訂正をなしたものである。袴田にとっては何の益もない訂正であるから、この証言は恐らく事実と思われる。 既に何度も指摘しているが、この陳述は、このたびの査問が小畑にこそ主眼が向けられていたということの裏付けになるであろう。但し、この陳述を精査していくと、小畑には途中からオーバーが被せられ通しであったということと、大泉の場合スパイを自認してからは除されていた。つまり、スパイを自認すれば小畑も又苦しさから解放されるぞという誘導の意図もあって頭にオーバーが被せ続けられていたというのが実際のようである。 |
【査問当初の様子その1、小畑篇】 | |||||
次のショット。袴田は、宮顕が査問委員長であったとして次のように陳述している。
これにより、小畑の方から査問するということがあらかじめ決められていたことが分かる。但し、宮顕の公判陳述によれば、「まず大泉から予定表に従い訊問を開始した」(宮本4回公判調書)となる。私には、このたびの査問が小畑にこそ向けられていたことを隠蔽しようとする宮顕の明白な偽証のように思われる。世事まま記憶が薄れることがあるにしても、このような記憶間違いは起こりにくいことを考えると、この査問事件に対する宮顕の陳述が一貫して詐術的であることをこの件からしても窺うべきかと思われる。付言すれば、悪意なき者には無用な詐術である。
宮顕の「今度は君たちばかりでなく他にも数名同様に査問を進めて居る」は意味深である。
組織部長を逸見に押しつけ自分は財政部長になったことを訊ねると、「別に他意はない」。万世橋署に検挙されて後容易に釈放されたことに対しては、「転向を誓って許された」と弁明したようである。大体以上の様な経過で1時間ばかり取り調べられた。こうして査問側と被査問側の息詰まる応酬がなされたが、小畑がいろいろ釈明して決定的なスパイ告白はしなかったことになる。この査問は、「この間宮本が主として訊尋したのですが、予め手筈が定めてあったわけではなく、他の者も各自思い思いに訊問したのであります」(袴田2回公判調書)とある。
この宮顕陳述は、党内対立の様子を窺わせる遣り取り部分を故意に欠落させている。何と恣意的な語りであろうか。なお、ここで補足すれば、小畑が「一年間も同一場所に住んでいた事実が判明した」とその非が責められているが、では、査問側の宮顕、袴田らはこの当時宿所を頻繁に変えていたのかという反対尋問をしてみたい。 |
【査問当初の様子その2、大泉篇】 | |||
次のショット。「これ以上の訊問はらちがあかず、ここで一応小畑に対する査問を打ち切り、同人を束縛のまま押入に入れ、代わって大泉を押入から出して
小畑同様な順で査問を開始しました」(袴田11回調書)。「同人も同様針金縄等を以て手足を縛りたるまま訊問したり。大泉の訊問中木島が来たり、爾後同人も査問に参加するに至りたり」(逸見調書)とある。
つまり、大泉のしどろもどろ性と哀願的態度が伝えられているが、これを逆に云えば、小畑の場合には聞かれた事に対する簡潔な受け答えが為されていたということになる。
この証言で、「主として宮本・木島・ 袴田が私を殴ったり蹴ったりします」とあるところが重要である。
但し、歯が折れたという部分は他の者の陳述にはないので、この部分前後の大泉の陳述の真偽が問題になる。査問の動き全体は、査問当日直後は比較的おとなしく、(当夜と)翌日の午前からエスカレートしたというのが当事者のほぼ一致した陳述であり、この最初の査問時より殴る蹴る的査問が行なわれていたのかどうか判断が難しい。前歯と奥歯一本宛が折れていたというのであれば大泉の逮捕後の診断所見ではどうなっているのだろうかと見れば記述がない。 |
【査問当初の様子その3、交互査問篇】 | ||||
次のショット。この間小畑と大泉の査問が交互に行われたようである。査問第一日目のこの時は小畑査問の時は大泉は押入に入れられ、大泉査問の時は小畑が入れられるという具合で交互に入れ替えられたようである。一体に言って、大泉はしどろもどろの答弁になり、小畑の場合は簡潔に受け答えがなされたようである。
この様子につき、袴田は次のように陳述している。
逸見調書は次のように記している。
ここで気づくことは、「宮本・袴田・秋笹の3名は小畑を打ったりなぐったり蹴ったりし」とあることで、逸見の対小畑に対する暴力が為されていないことである。
その他宮顕が木島に、「とにかくこの査問会は党空前の画期的闘争だ。こんな素晴らしい闘争に君が労働者として参加できたことは実に光栄だよ」と言うので、木島は「光栄です」と答えたと云う。 |
【査問当初の様子その4、小休憩篇】 | ||||
次のショット。こうして査問していくうちに全員相談の結果、両名の住居の捜査を行なうことに決定した。両名に住居の略図を書かせ、なお大泉にはハウスキーパーがいたため、同女に宛てた簡単な手紙を書かせた上、木島に命じて直ちに捜査に向かうよう指示した。手紙の文面は、概要「急に大阪に出発することになったから党関係の重要な書類や株券等を使いの者に持たせてよこしてくれ、なおお前も一緒に来る様に云々」というものであったようである。「出発に当たり宮本・秋笹より大泉の妻を同伴し来るべきことを注意せられたり。自分はスパイの家へ一人で行くは危険と思い、加藤亮に同行を求め同人と二人にて云々」(木島予審調書)。加藤亮については突然触れられているので、何者なのか査問に参加していたのかどうかよくは分からない。「リンチ事件」の総数にはこういう未解明な点が依然多い。
この陳述はすでに見てきた様子と異なるが、私は袴田の責任回避の偽証とみなす。大泉、小畑両名を更に細引き、針金等で縛り直し、更に猿ぐつわ、目隠しを施して小畑を押入に入れ、大泉にも「再び私に目隠しを施してその上頭から何か被せてしまいました」(大泉16回調書)。そして、押入側の壁に背をもたせて放置し、特段の連絡を持っていなかった袴田が監視した。逸見、宮顕が連絡のため査問アジトを出ていった。
この宮内証言は貴重である。査問直後の逸見の口から、「(小畑が)なかなか口を割らないので査問に手こずっている」と明かされていることになる。これが実際であったのではなかろうか。ところが、この査問の報告を聞きながら、宮内は次のように考えたと云う。
宮内のこの指摘は、宮顕に対する嫌疑へ至っていないという不十分さがあるが、なかなか的確で鋭く核心をついているように思える。 |
(私論.私見)