第3部 査問に至るまでの予備知識

 (最新見直し2011.01.05日)

投稿 題名
いわゆる「査問事件」をどう読むべきか(序論)
補足 あまりにもひどい言いがかり>れんだいじ氏へ 吉野傍
補足 吉野さんへ、取り急ぎご返信
「査問事件」発生当時の「党内スパイ対策」について
査問史1、全協中央委員・松原リンチ事件
査問史2、朝鮮人活動家・尹基協射殺事件
査問史3、大串雅美査問事件
相次ぐ査問事件の奇怪考
「数ある査問事件証言」のうち誰の陳述を重視すべきかについて
「査問事件」の総括の現代的意義について
小畑のスパイ性の根拠と冤罪問題
大泉のスパイ性の根拠とその評価問題
補足 スパイ考


【いわゆる「査問事件」をどう読むべきか(序論)】

 今まで「日本共産党の65年」を戦後のくだりから読み進めてきた。もっとも、 60年代を経過したところで、その記述のあまりな馬鹿らしさが嫌になって読み止めてしまっている。このたびは「査問事件」に言及しようとする必要から関連する戦前の章を、特に宮顕への記述を中心に読んでみた。感想は、ここでもよくもマァこんな記述ができるもんだとあきれさせられている。恐らく党員の大方はこの記述通りだと了解しているのだろうから、そういう観点の党員の意識と私の以下の分析が噛み合うことはまず不可能としたもんだろう。

 しかし、私は書かねばならない。疑問を押さえる訳にいかないから。突き動かす衝動の奥にあるものは何かはわからない。一つの理由は、こんな記述では虐殺された党員が可哀想だと思うことにある。なぜなら、宮顕が生き残ったのは俺は根性がきつかったからと読めるような「党史」中の次のような記述が許せないからである。
 

その1  「その後も拷問は続けられたが、私が一切口をきかないので、彼らは『長期戦でいくか』と言って、夜具も一切くれないで夜寝かせないという持久拷問に移った」(74頁)。
その2  「そのころ、面会に来た母親が私の顔を見て『お前も変わったのう』 とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問ではれあがって、昔の面影とすっかり変わっていたからだった」(74頁)。
その3  「宮本顕治は、警察から予審を経て公判開始までの七年近くを完全黙秘でたたかい抜き、公判でも原則的にたたかった」(85頁)。
その4  「袴田は、非転向ではあったが、密室での審理に応じ、かれのスパイの査問状況などにかんする不正確な供述は当局に利用された」(85頁)。
その5  「宮本は、1940年4月から公判廷にたったが獄中で発病し、公判が中断していたが、その後、単独で、戦時下の法廷闘争をつづけた。宮本は、あらゆる困難に屈せず、事実にもとづいて天皇制警察の卑劣な謀略を暴露 し、党のスパイ.挑発者との闘争の正当性を立証しただけでなく、日本共産党の存在とその活動が、日本国民の利益と社会、人類の進歩にたった正義の事業であることを、全面的に解明した」(85頁)。

 こうした記述を見て、信じやすい者は宮顕天晴れと思うであろう。そういう人の脳天気さに万歳だ。私は、とてもでないが提灯記事と見る。とりあえず少しだけコメントしてみよう。

 その1の「長期戦でいくか」について。この当時「特高」(以下、単に特高と記す)の取り調べは苛烈を極めていた筈である。党中央委員ともなれば、上田茂樹、岩田義道、小林多喜二を見ても判るようにほぼ即日虐殺されている。直前の野呂委員長も病弱の体に拘わらずひどい取り調べがもとで命を落としている。その他無名の数多くの党員も同様な目に遭わされていた時期である。

 そういう時期に逮捕されたにも関わらず宮顕が虐殺を免れた根拠として、「こいつには何を言っても駄目だ」とあきらめさせる強さがあったからというのであれば、虐殺された人はどうなる。強さがなかったというのか。殴打するうちに供述するであろう弱さが見えたから殴打し続けられ、その結果虐殺に至らしめされたとでも言うのか。私はそういう嘘が嫌なのだ。何も宮顕の虐殺を望んでいるのではない。「長期戦でいくか」を望まなくて言っているのではない。持久拷問化に向かったいきさつと、氏のその後の健在を説明するに足りる言い訳としてはオカシイ理屈であるということが指摘したいのだ。

 ましてや、宮顕の弁によれば、リンチ致死した小畑は当局の回し者であったことになる。ならば、当局はその小畑を致死せしめた宮顕に対しては報復的取調べがあってもよいところである。そういうことを踏まえると、「持久拷問に移った」ことの不自然さのほうが詮索されるべきであろう。


 その2の「母親が私の顔を見て『お前も変わったのう』とつぶやいた」について。その理由が顔の腫れ具合にあったというのもオカシイ。こういう場合、母親は涙を流し可哀想にとは思っても、自分のせいでない原因で膨らんだほおを見て「変わった」とは普通言わない。皆さんはそうは思われないですか。私には宮顕も又拷問を受けたという状況を言い繕わんが為の下手な証拠挙げとしか思えない。

 実際、この母親証言の裏はとれているのだろうか、疑問に思う。他の党員の場合、息絶え絶えで運び込まれた様子やその後遺症も含めて房仲間の裏づけが取れる場合が多いのに比して、 宮顕に対する拷問状況または拷問後の被害状況についての裏取りが妙に為されていない。供述も少ない。私が知らないだけかも知れないので、あれば教えて欲しい。できるだけ多い方がよい。一応可能な限り全部知っておきたいという関心がある。


 その3の「完全黙秘でたたかい抜いた」ということについて。何も宮顕を落とし込めようとして言いたいのではないが、当時虐殺の目に遭わずして完全黙秘を貫くことが本当にできたのか、私は疑っている。完全黙秘で貫くことを皆な願った。ほとんどの者が貫く過程で虐殺され、または同然の身にされたのではないのか。

 警察調書、予審調書がないということには三つの理由が考えられる。 一つは本当にない。この場合、黙秘権の認められていない時のことであり極めて分の悪い戦いとなる。特高が激情することは目に見えている。それを完全黙秘で応じ、持久戦に持ち込んだという「宮顕タフガイ神話」が私は信じられない。他にそのような者がいるのかいないのか、いるとすればどういう種類の者であったのかに興味が持たれる。調書がないという意味では、「熱海事件」をリードした「超大物スパイMこと松村」以外に私は知らない。警察調書がない別な理由としては、そもそも不要とされたか未だに隠されているかどちらかの理由しか考えられない。そう考えるのが自然ではないのか。


 その4の袴田が供述したことを咎めていることについて。袴田の場合、独特の個性があっていわば得意然として予審調書、公判陳述に応じている。 その是非はともかく、今日当時の党活動の貴重な一級資料になっていることは歴史の皮肉と言える。宮顕の場合、警察調書を取らせなかったというのであればまだしも理解しうる。しかし、予審調書であれば、少なくとも「査問事件」に対する供述であれば、宮顕が後に明らかにしている「心臓麻痺」論拠によれば、 むしろ具体的状況事実について明らかにすることは必要であったのではないのか。

 「査問事件」は刑事事件として問われようとしていた向きもあり、宮顕の言うように小畑死亡の原因が「非暴力的な急性ショック死」であるというのであれば、冤罪的に免責される可能性もあるのだから、誰彼に罪を被せるというのではなく具体的状況を明らかにすることに何の非があるのだろう。「急性ショック死」を覆い隠すのに革命的精神を発揮せねばならない意味と必要があったのか、疑問としたい。

 党の機密事項の秘匿に黙秘を貫くことは賞賛されるであろうが、ことは刑事事件的な対応が要求されているのであり、完全黙秘の必然性が見えてこない。袴田の場合、確かに自身の立場を考慮しつつ状況的事実を得々と語っているが、党の対スパイ対応としての「査問側の正義」の経過を明らかにしているのであって、その陳述は宮顕を庇おうとして饒舌している節があり、果たしてそれ程非難されることであろうか。むしろ、私には宮顕の「完黙」といいハーモニーしているように見える。

 調書を取らせなかったことを最も善意に拡大解釈してみた場合、「リンチ事件」はあくまで党内問題であり、党内的に総括されることが望ましいという建前に拘ったということであろうが、私は、そういう観点からにせよ鬼神のごとく完全黙秘を貫きえたという宮顕の言い分をこそ畏怖するものがある。それなら戦後自由な身になった時点で、この事件に対して党内的な解明へと向かえば良いではないか。漏れ伝わってくることは、「リンチ事件」解明に関する検閲的態度に終始する氏の姿ではないか。


 その5の宮顕が「あらゆる困難に屈せず」闘い抜いたという表現について。大人げない言葉尻の指摘かも知れないが、では聞こう。虐殺されたり獄死させられた党員は困難に屈した末の獄中死であったというのか。ためにする提灯記事にしても同志愛のない表現のような気がするのは私だけだろうか。

 こんなことばかり書いて党員の皆さんのご機嫌を損ねてしまうことは許して貰いたい。視点が変わればかくも見方が異なることになるということだ。私の論の是非はそのうち歴史が明らかにするだろう。一つの見方として参考にしていただけたら良い。この方面に関して言及しようとすれば私は100頁だって書 くことができる。しかし、宮顕を落とし込めようとするのが本意ではない。こう いう胡散臭いところの多すぎる宮顕に依拠した党史とか現在の党の活動方針の見直しに役立ちたいというところに本音がある。

 野坂の場合も同様である。今日では野坂が根っからのスパイであったことが明らかにされているのであるから、党史での彼に関連した記述は全面的に書き改められねばならないであろう。しかし、彼にまつわる記述を書き改めるとしたらどう書き改めればよいのだろう。読んでみて更正不可能な記述になっているように私には思われる。現執行部サイドの党史論作成過程に彼がそれほど利害一致的に関与しているということであり、それほど深く提灯記事されているということだ。是非ご一読なされてご判別されるようお願い申しあげる。


 原稿はまだ書き上げていないが、上述のような観点から以下宮本顕治論を 継続していくつもりである。興味のある者は読み進められればよいし、目に毒だと思う方は控えた方が良いかもしれない。あらかじめお断り申し上げておく。

 「査問事件」に関する論議は「JCPウオッチ」でも継続的になされているが、 私は、「査問事件」の全体像を浮き彫りにする方向で論議を提供しようと思う。 全体としての粗筋が判明せぬまま「急性ショック死」の部分的詮議をしても水掛け論に終わってしまうような気がするから。やはり、誰かが全体像をまとめなければいけないと思う。そこから部分と全体にわたる論議を積み上げる方が生産的ではないかと思う。以下、そういう視点も含めてこの事件のドラマを再現させて見ようと思う。

 参考文献は、「リンチ共産党事件の思いで」(平野謙、 三一書房)、「リンチ事件とスパイ問題」(竹村一、三一書房)、「日本共産党の研究」(立花隆.講談社文庫)他を参照した。不思議なことに、松本清張氏の昭和史発掘シリーズの中にこの事件の著作が見あたらない。松本氏の関心はどうやら伊藤律の方に向かい「革命を売る男・伊藤律」を著している。私と疑惑の向け先が丁度反対のようである。


 私は、本投稿で、あたかも見てきたかのようなドラマを私論的に綴りたいと思う。なぜなら、この事件をめぐって関係者の供述が一定しておらぬため、甲乙丙丁論に右顧左眄すれば永遠の堂々めぐりに逢着せざるをえないからである。その結果事件そのものがうやむやにされてしまうことが一番変な結果であると思う。

 我々はこの世の出来事のほとんどに対して直接見聞することはできない。かといって、直接見聞きしていないから判断できないとしたら、この世のほとんどが闇の中の出来事となる。人はその器量に応じて万事闇に灯りをともすべく乏しい資料とカンを頼りに判断しつつ進まざるを得ない。例え、その判断が後に修正されることになろうとも、その時は真剣に全体重をかけてなしたものであれば、それがその人の人となりというものであろう。

 参考文献に挙げている立花氏、平野氏、栗原氏の各論究は今一つ釈然としない。むしろ、宮顕の正体解明という本筋から外そうとするかのような論理誘導が気になっている。そういう問題意識を持って査問事件の全貌を私流に解くことにする。手に触れることができる範囲の当時の関係者の警察調書、訊問調書、公判陳述、戦後になっての回想録等々を、眼光紙背に徹しつつ解読してみたい。以下、「査問事件」の発生前の状況と事件そのものの経過とその後の経過という三部構成で再整理して見たい。時間と能力が私に備わるように祈るばかりだ。


 題名/ あまりにもひどい言いがかり>れんだいじ氏へ   吉野傍
 吉野氏は、れんだいじの「いわゆる査問事件をどう読むか」に対して次のような反論「あまりにもひどい言いがかり>れんだいじ氏へ」を為した。これを確認しておく。
 れんだいじ氏の最新の投稿を読みました。これまでのれんだいじ氏の投稿 については、多々異論はありつつも、それなりに論理的な展開と、れんだいじ氏らしいユニークな観点とがミックスされて、非常に勉強にもなり、楽しみながら読んでいましたが、10月25日付投稿は、ちょっとあまりにもひどいと感じました。まさに、宮本憎しで目も思考もすっかり混濁してしまっていると思います。

 宮本顕治が過酷な拷問に耐えられたのは、その強靭な肉体のおかげでもあるのは、客観的事実です(それと同時に、宮本がそれほど重要な幹部ではなかったということも一因としてあるでしょう)。しかし、どうしてこのことの指摘が、拷問で死んだ同志たちに対する非難というふうに解釈されるのでしょう。どうして「殴打するうちに供述するであろう弱さが見えたから殴打し続けられ、その結果虐殺に至らしめされたとでも言うのか」などという議論になるのでしょ う。無茶苦茶ですよ。そんなこと誰も言っていないでしょう。たとえば、私は体も弱いし、根性もないので、拷問されたら簡単に死ぬだろうし、屈服するかもしれません。しかし、だからといって、私が死んだのは体力がなかったからだと言って非難する人がいるでしょうか? どこまでも責任は拷問した側、つまり当時にあっては特高警察と天皇制政府にあるのは自明ではないですか。そんなことは言わずもがなですよ。れんだいじ氏のような解釈は、とんでもない言いがかり以外のなにものでもなく、むしろ、私はれんだいじ氏のような理屈に、スタ ーリニスト的なものを感じます。まさに罪のでっち上げです。

 さらに、れんだいじ氏は次のように言っています。 「『母親が私の顔を見て「お前も変わったのう」とつぶやいた』その理由が顔の腫れ具合にあったというのもオカシイ。こういう場合、母親は涙を流し可哀想にとは思っても、自分のせいでない 原因で膨らんだほおを見て「変わった」とは普通言わない。皆さんはそうは思われないですか。私には宮本氏も又拷問を受けたという状況を言い繕わんが為の下手な証拠挙げとしか思えない。実際、この母親証言の裏はとれているのだろうか、疑問に思う。他の党員の場合後遺症も含めて房仲間の裏づけが取れる場合が多いのに比して、宮本氏に対する拷問状況または 拷問後の被害状況についての供述とその裏取りが妙に少ない」。

 引用するだけでも怒りをおぼえるような文章です。当時の面会は、警察の監視下で行なわれたんです。そういう状況においては、「可哀想」とか、「ひどい目に会ったな」というような、警察を非難していると解釈される可能性のあるこ とは言えないわけです。どうしてそんなことがわからないんです。このとき母親が「お前も変わったのう」と言ったのは、まさにそういう形でしか息子の状態について触れることができなかったからです。そして、このような言い方がなされたということは、当時の具体的な状況でしか出てこない言葉であり、この証言の信憑性を物語っています。れんだいじ氏は、あろうことか、この母親の言葉を宮本の下手なでっち上げとみなして、宮本はそもそも拷問されなかったのではないかとさえ示唆してい ます。他の党員については裏づけがあるのに宮本にはないという言い分には驚かされます。れんだいじさん、いったい何人の党員が拷問されたと思っているんです。その全員についてあなたは裏づけを持っているとでも言うんですか? 宮本だけ、自分の証言しかないとでも言うんですか? 宮本は独房に入れられていたのだから、房仲間の証言がないのは当たり前。そして当時にあっては、共産党員が特高警察によって拷問されるのは当たり前。拷問されたとみなすのが普通であり、それをあえて否定するのだとしたら、むしろその積極的な証拠を出すべきです。密室で行なわれた拷問を、本人以外の証言がないなどといって、拷問がなかったかのように匂わせるのは、まさに特高警察を免罪する許しがたい議論です。

 あなたの議論を聞いていると、自由主義史観を標榜する連中の論法を思い 出します。強制連行され、強制的に兵士のセックスの相手をさせられた従軍慰安婦たちに対し、彼らは、本人の証言しかないのだから、嘘を言っているに違いない、従軍慰安婦は慰安所で楽しく過ごしていたのだ、と言っています。 あなたの議論はこれと本質的に同じです。れんだいじ氏のひどい議論はその後も延々と続いているし、その一つ一つについて反論可能ですが、あまりにも馬鹿げているので、やめておきます。れんだいじ氏は一つ前の投稿で、芥川に対する青年宮本の厳しすぎる批判に難癖をつけながら、宮本顕治自身を評価する段になると、ここまでひどい言いがかりをつけてまで貶めるとは、本当に驚きです。れんだいじ氏が、このような、犯罪者を免罪し被害者を貶めるような議論を今後とも続けるのなら、私は今後、れんだいじさんをまともな議論相手とは認めません。本当に残念です。

 この時、れんだいこは敢えてレスをつけなかった。吉野氏は今もこの一文をその通りと思っているのだろうか。今読み直して見てそう気にかかる。

 2011.1.5日 れんだいこ拝

【「査問事件」発生当時の「党内スパイ対策」について】 
 「査問事件」のドラマ化に入る前に、「査問事件」の背景にあったもう一つの 動きとしての「党内スパイ対策」を検討しておく必要がある。この頃特高側の一層の暴力的エスカレートに対応させて、党の方からもスパイ対策が積極的に講じられていくことになった。このこと自体は党側からの対応として当然の措置であったであろう。

 但し、これから見ていくことになるが、宮顕グループがこの美名の下でいかに理不尽な「党内スパイ摘発闘争」を仕掛けて、僅かばかりの有能人士、組織に限ってこれを標的にし解体せしめていったかという無惨さが刻まれている。この当時、共産党員として在り続けることは治安維持法で「死刑又は無期懲役」に相当する国事犯であり、それに馴化された日本社会そのものを敵に廻すような非合法下にあった。その宝のような貴重な人士に無慈悲な蛮勇が振るわれていったことをここに銘記しておかねばならない。

 この時期に於ける宮顕派による「党内スパイ摘発闘争」の果たした客観的役割は、党内の疑心暗鬼の瀰漫による大混乱であり、党解体へ向けての一瀉千里作用でしかなかった。こうして、この頃党内はスパイ対策をめぐって「食うか食われるかの切迫した鍔ぜりあいの状態」に突入することを余儀なくされた。この事情は、広津和郎の「風雨強かるべし」(昭和9年7月.改造社刊行)で次のように記されている。
 「左翼の運動がだんだん神経質になり、興奮性を帯び、何か落ち着いた、板に付いた感じがなくなって来ているのが感ぜられる。恐らく烈しい弾圧のためだろうが、同志が互いに猜疑の目で見合って、落ち着いた気持ちがなくなって行っているのが感ぜられる」

 以下、宮顕グループのその悪事の軌跡を見ていくことにする。宮顕は、石村重吉の名で、後述する「松原スパイ問題」に関連させて、33年(昭和8年)6.1日の赤旗第140号「プロヴァカートル(スパイ・挑発者)に対する処置として」の中で次のように警告している。
 「我々は日常的政治生活において、こうした意味で疑惑のある者を発見したならば、相手構わずいいふらすのではなく、その疑惑者が自分の上の者であろうとためらうことなく党中央委員会書記局宛ての密封上申書を信頼できる線(例えば、赤旗の配布線)を通じて提供すべきである。その上申書において、疑惑についての具体的事実と意見をはっきり書くことだ」。
 「(スパイを見つけたら)ためらうことなく党中央委員会書記局あての密封上申書を信頼できる線を通じて提出すべきである」。

 
この論文のおかしなところは、宮顕の弁明の如く不幸にもこの時既に党中央にスパイが潜入しているとしたら、密封上申書がどういう意味を持つかということにある。「査問事件」の理由づけとしてなされた宮顕らの言い分に従えば、この時点で既に党内の最高機関に二人もスパイが潜入していることになるのだからへんてこなことになる。それと、これは何のことはない「密告の勧め」ではないか。こうして寄せられた情報を宮顕が握ったとしたら、それは政敵駆逐に使う際大層重宝な情報になるであろう。加えて宮顕こそがスパイ系列の頭目であるとしたら、どういうことになるだろうか。

 また、「この一年を通じて党がかかる状態に置かれたということは、党を愛しその発展をねがう幾多の党員をして全党の清掃とボリセビキー化の必要を痛感せしめ、それらの同志の組織革新に関する上申書は幾通となく中央部に提出されたのであります」(袴田第7回調書)とも明らかにされている。 ちなみに、大泉非難の上申書が何回となく提出されていたようである。


 袴田は、この問題に関して、「党の清掃問題は、党のボルシェビキー化の問題と共に指導的同志の間には古くから考えられておった事で、その根源は遠く、ただ野呂の検挙を契機として表面化したに過ぎないのであります」(袴田第19回調書)と陳述している。この時点で既に、ここで論究しようとしている12.23日発生の「査問事件」前年あたりから翌34年(昭和9年)の凡そ二年間にかけて、スパイ対策と称する「査問」が共産党の裏方の中心的な活動方針となっていたというのが事実であるようである。このような状況が前提として確認されなければ本稿で扱おうとしている「査問事件」の構図が見えてこない。

【査問史1、全協中央委員・松原リンチ事件】 
 査問史を一連の経過で見れば、早くも1932年(昭和6年)5月頃、有能な全協中央委員であった松原リンチ事件が発生している。続いて、全協の有能な朝鮮人活動家・尹基協射殺事件が発生している。これらの経過で不審なことは、全協の戦闘的活動家または党内の戦闘的有能党員が意識的に狙われている風があることである。

 松原事件の場合、立花氏の「日本共産党の研究」ではじめて明らかにされているようであるが、松原氏(本名は宮上則武)は、全協内の戦闘的活動家で地下鉄争議の指導者ではあったが非党員ということである。他にこの件に関しての論究を知らないので立花氏の受け売りにならざるをえないが、少しみておくことにする。

 「赤旗」でのスパイの除名広告はいくつも見られるが、これほど大きなものは類例がないほどの実に4ページにわたる長大な「プロヴァカートル(超スパイ)松原を除名す」(32年6.1日付け)が広告された。先に挙げた「プロヴァカートル(スパイ・挑発者)に対する処置として」と同一文なのかどうか良く分からないが、除名広告は全部で十章からなり、これを読めばなるほどこの男はスパイだったのだなと思わせられるほど手が込んでいるらしい。

 この事件がなぜ重要な政治的意味を帯びているかというと、「この松原問題で注目すべきなのは、除名広告が出る前に、松原がリンチされ殺されようとしていたことである」(同書271P)、「いわば、この松原事件が、その後のスパイリンチ事件の原点になるわけである」(同書273P)ということの他に、この松原事件について後日宮顕がわざわざ自らの公判陳述の中で触れて、「その後スパイの歴史の中で有名なのは、いわゆる全協に忍び込んだスパイ松原…この男はスパイとしてかなり手腕家であって、単に一つの階級的組織に打撃を与えるに止まらず、大衆団体と共産党との対立を政策的に惹起せしめようとする方針を目論んだのであります」と述べていることにある。

 驚くことに、こうした歴史的重要な役割を持つ事件の当事者松原氏は党員でもなくましてやスパイでも何でもなかった、ということが今日明らかにされている。詳細は同書に譲るが、これは大変なことではなかろうか。今日「さざ波通信」で熱烈党支持を投稿する党員の方は、少なくともこの問題に対して党中央に見解を仰ぐ必要があるように思われる。

 立花氏は延々4ヶ月にわたる取材で当人と関係者との取材をし、当事者の討論まで行わせ語り合わせた結果、松原氏の冤罪に双方が合意したとある。「まあ、私は45年間、本当に苦しんだですよ。 実際、夫婦で自殺することさえ考えたこともあるくらい(松原夫人も全協の活動家だった)命を懸けて苦しんだですよ」(同書275P)とある。私には、こんな重大なことがほおかぶりさせられていることが到底理解できない。

 私は、立花氏とは政治的立場を大いに異にする者であるが、氏に対して浴びせられている「犬が吠えても歴史は進む」などという党の露骨な居直り論理を畏怖せざるを得ない。実際、「犬が吠える」とかの発想はどういう意識からネーミングされるのだろう。卑しさしか感ぜられないのは私だけなのでしょうか。それと、長大文章で松原氏の除名広告をなした執筆者の責任はどうなるのだろう。この当時「プロヴァカートル」的表現で査問をけしかけていた者が誰か想像に難くないが軽断は差し控えることにする。

【査問史2、朝鮮人活動家・尹基協射殺事件−村上多喜雄の悲劇 
 1933(昭和7).8.14日(「壊滅 赤旗地下配布委員の記録」では1932.8.15日とある)、有能な朝鮮人活動家・尹基協射殺事件が発生しているが、尹基協は当時「全協」(革命的労働組合・全日本労働組合協議会)土建本部の委員として積極的な活動をしており、全協員の30%を超える朝鮮人労働者の中で最も信望の厚い党員であった。

 この当時、「全協」内では、32年テーゼの「天皇制打倒」を労働組合でも掲げるべきかを廻って対立が生じていた。「高安らは猛反対したが、中央委員会は一票差で強行可決」されたとある。その半年後、特高は大弾圧に乗り出し、1年間に4千5百人が検挙され全協は壊滅的打撃をこうむる。つまり、その良し悪し是非は別として「全協」は当時の精鋭的な革命的労働組合であり、尹基協はその闘士であった。ここに尹基協射殺事件の背景がある。

 この尹基協がスパイMの発議に踊らされたスパイだと断定され、5月上旬処分が決定され、共青員東京キャップの村上多喜雄が右処分を担当した。党中央委員の紺野与次郎が射殺命令とピストルを渡して実行させたとされている。しかし、紺野にそのような権限があったのかどうか。その紺野に命令を下した者が誰なのか今日においても明らかにされていない。「尹をスパイと断定して、射殺させたのは、なんと党史上最大のほんもののスパイM―党内では松村、本命は飯塚盈延―であったという」(増山太助の「戦後期左翼人士群像」150P)とある。
 
 この村上多喜雄について、梅本竹馬太氏の「壊滅 赤旗地下配布委員の記録」で実像が明らかにされている。それによると、信州上諏訪の出身で、生前中の岩田義道が深く信頼していた人物で将来を嘱望されていた。当時の地下活動時代の要のような活動をしており、未遂に終わったが「佐野・鍋山その他獄中同士の奪還計画」の行動隊キャップであった。

 1932.8.15日に尹基協射殺事件で逮捕される。村上は捕らえられた獄中で事件の闇を探り、「尹は絶対にスパイではない」、「自分は取り返しのつかない誤りを冒した」、「党中央にはスパイがいるに違いない」と確信して煩悶し、「死を賭した叫び」を紺野に伝えるが反応なし、と伝えられている。


 
広瀬東氏の貴重証言として次の発言が遺されている。
 「(同士が面会に出向いた際に)自分のことはどうであってもよい。しかしどう考えてもこれは組織上の欠陥というより、もっともっと大きな謀略の中に動かされていたような気がする。そういう意味のことを彼は初めて口にして、私の眼をじっと見つめるのです。わが身を俎の上にのせて、この謀略の正体を解明する緒ぐちにしてほしい」。

 村上は事情やむなく二審で転向声明し、1940.5.21日、超結核で死亡している(享年31歳)。

 増山太助の「戦後期左翼人士群像」によれば、戦後中央委員・政治局員となった白川晴一は次のような感慨を遺している。
 概要「村上も尹も誠実な立派な党員であった。全く惜しい人物を失った、と二人のことを思い出すたびに胸をつまらせ、涙をためていた」。
 概要「(紺野を死ぬまで蛇蠍(だかつ)の如く嫌い、)尹基協射殺事件の際、紺野の執った態度に憤慨し、ああいう人間は金輪際信用できないと、何かにつけて紺野のことを非難し、蛇蝎のように嫌っていた」。

 補足すれば、紺野の党活動には胡散臭さが纏っている。戦後の党活動を通じて徳球執行部から宮顕執行部へのクーデタの経過を、他の徳球系幹部が放逐されたり冷や飯組みにされた中をうまく立ち回り、政治局・書記局中枢に棲息し続けている。ちなみに60年ブント発生の直接の原因になった1958.6月の全学連大会代議員グループ会議で、学生たちに殴られたのがこの紺野である。

 社会評論社の「検証内ゲバ」の栗木安延「内ゲバの主要因−新旧左翼の唯一前衛党論」に、この尹基協に関する次のような記述が為されている。
 概要「尹基協という在日朝鮮人の優れた活動家が『帝国主義は必然的に倒れるとあるが、それならば我々は何もしなくても良いのではないのか』という疑問を提起したのに対して、それ以降『彼の意見はおかしい、スパイではないか』と不信の対象とされ、党幹部TMが『あいつはまだ生きているのか』という発言を殺せとの示唆と解釈した村上多喜雄が上野で射殺した事件である(「永山正昭に聞く」)。「やがて尹がスパイではないことが判明し村上は獄中で自殺した」。

 栗木氏のこの証言は貴重であるが、尹基協テロル事件を村上の早とちりによる為せる技としている点で軽薄にさせていよう。栗木氏に悪意はなかろうが、この種の事件は裏の闇に関心を向けねばならず、個人的な資質問題に還元させるのは如何かと思う。

【査問史3、大串雅美査問事件】 
 更に注意すべきは、12.21日、大串雅美査問事件であろう。私の知る限りこの件についてもまともに考察されていないが、本件もまた極めて重要なメッセージを発信している。大串雅美は、当時党中央印刷局の局員で副責任者であった。事件の概要はこうである。

 12.2日頃、宮顕は、印刷局責任者西沢隆二、同局員高橋善次郎と共謀の上、大串雅美を査問しようと企てて、12.21日午後3時頃党の秘密鉛版所であった赤坂の東工大助手田中実邸地下に連れ込み、手足を縛り上げ殴る蹴るを加えながら地下室において約3時間にわたって査問した。付言すれば、巧妙なことに宮顕は教唆だけしておいて本人は加わっていない。なぜ黒幕であったことが判明するのかというと、西沢その他関係者の弁によって露見する。話を戻して、翌日も査問しようとして大串の手足を麻縄にて縛り監禁していたが、翌22日午前2時頃、大串は逃走し、深夜の街をひた走って警視庁へ救助を求めた。宮顕は、公判でこの事件との関わりを強く否定しようと種々言い方を替えることになった。

 私が、この事件に注目するのは、日にちから見ても判るように、本稿で取り扱う「党中央委員大泉・小畑両名被リンチ査問事件」の直前に行われており、いわば予行演習の観があったのではなかろうか、と推測される点である。なお、「手足を麻縄にて縛り監禁」という点でも見逃せない事件であると思われる。まさに実地訓練の観がある。

 ここに袴田の貴重な陳述が残されている。大串雅美査問につき、当初は「大串雅美に対し査問を実行したことをたぶん宮本から聞知したと記憶しておりますが、これは宮本と同局責任者の西沢隆二との協議の結果行われた事で、中央委員会としては何ら関知しないことであり、又承認した事もありません」(袴田第15回調書)と述べている。この陳述は次のように修正されていく。概要「(大串雅美査問に当たり)この時宮本が果たして西沢と協議していたのかというと、この点については党内でそう云う取りざたがあるのでその頃聞いただけの事で、実際に両名の協議の結果行われたものや否や直接関係がなかったので私には判りません」(袴田第19回調書)。

 つまり、この修正によれば、当初の宮顕と西沢隆二との共同謀議説から一転して宮顕不関与説を主張し始めたことになる。この陳述は更に次のように修正されている。袴田の第3回公判調書では、「西沢が自分に嫌疑がかかっている事を知り、自分はスパイではないのだと言う事を証明する為、大串の査問をやったと大串の査問に立ち会ったものからの報告書が参ったのです」と陳述している。つまり袴田は、更に歩を進めて西沢単独主導説を主張し始めたことになる。

 とはいうものの、余程真実が明らかにされることを厭ったのであろう、「西沢をこの事件に併合審理される事は、私を始め宮本は勿論希望しておらぬのです」 (袴田第3回公判調書)と合同公判を拒否している。真実解明のためには関係者の同席裁判で白黒明らかにすれば良いではないか。大串雅美査問につき、このように袴田が次々と論調を替えたのはなぜなのか。宮顕−袴田が「併合審理を拒む」背景には、余程拘る理由と背景に指図があったように思われる。大串雅美査問事件の黒幕としての宮顕の役割が炙(あぶ)り出されるのを避けようとして論調を次々と変えていると解するのが相当ではなかろうか。

【相次ぐ査問事件の奇怪考】 
 この期間の査問事件の全貌を解明する必要があるが未だ着手されていない。分かる範囲内で列挙すれば次の通りである。時期不明、三船査問未遂事件。1932年(昭和6年)5月頃、有能な全協中央委員であった松原リンチ事件。1933(昭和7).8.14日、有能な朝鮮人活動家・尹基協射殺事件。9.14日、有能な沖縄出身の活動家であった平安名常孝殺人未遂事件が発生している。松原も尹基協も平安名も全協系の有能活動家であった。12.21日、有能な党印刷局局員であった大串雅美査問事件。12.23日、「党中央委員査問事件」。1934年(昭和9年)1.12〜2.17日、大沢武男査問事件、同1.17〜2.17日、波多然査問事件などがその主なものである。

 「党中央委員リンチ査問事件」の翌年早々の大沢、波多査問事件では当初より激しい暴力が行使されている。これら二つの査問は、「査問を中央委員会に於いて承認し、木島をして指導統制に当たらしめ実行せしめたのであります」(袴田第15回調書)とあるように、袴田の承認の下で木島が責任者となり実行された。ちなみに波多然は、手記「リンチ共産党事件について」(経済往来昭和51年5月号)で、リンチの様子を次のように明らかにしている。
 「査問は、実際は、嫌疑ではなく、スパイであることの自白の強要であり、数日間ではなく、数ヶ月間であり、…残 忍なテロによる強迫であった云々」。

 本稿の「査問事件」はこういう党史的背景において捉えられねばならないのではなかろうか。「政治というものが避けよう もなくその底に秘めている暴力性に目を閉ざして、うわべのきれいごとで身を装うことの欺瞞性を強く指摘したい」(栗原幸夫「戦前日本共産党の一帰結」)という栗原氏の言葉には説得性があることになる。

 1934年頃になると昨日リンチした者が今日リンチされるというような一種の「輪番リンチ」が惹起しつつあったようである。西沢隆二がその例で、加害者であり被害者となったようである。疑心暗鬼に包まれた党内の状況がしからしめたところということになる。これらを見れば、宮顕が公判で云い、今日の党史でも踏襲している「スパイに対する最高の処分は除名であった」云々は、あまりに空々しい隠蔽でしかなく、具合の悪い史実であろう。

 ちなみに、松本清張氏は、「昭和史発掘」の「スパイMの謀略」の項で、1931年4月に紺野与次郎が上海から「スパイは発見次第必ず消すこと」というコミンテルンの指令を持ち帰っていることを明らかにしている。宮顕の「スパイに対する最高の処分は除名であった」云々の公判陳述は、そういう点からも詐欺的である。


 なお、34年度の査問はほとんど宮顕−袴田−木島ラインによって党議決定で行われているのに対し、前年の32.33年の査問事件については党議決定されたものかどうか、誰が指令したのかさえ雲を掴むようなことになっている。事実、村上氏は革命的精神をそそのかされ尹基協を射殺したものの、後に尹基協氏の潔白を知ることにより獄中でこの点に拘りつつ悶死している。尹基協協射殺を指示したと言われる首脳部とは誰なのか、平安名常孝殺人未遂事件も含めて党議決定されていたものなのか、その際の提議者は誰なのか、今日に至るも この過程が明らかにされていない。

 これらの査問のなお犯罪的なことは、査問されたこれらのいずれもと査問に指し向けられた者らが次代の党を担える資質を見せていた有能な活動家であったことに共通項がある。いわば「双葉の芽」のうちに将来を消されたのであって、こういう観点からも責任が問われねばならない重大案件であると思われる。

 こうなると、ためにする批判ではなく、一連の「査問事件」は、宮顕の党中央委員進出以降の出来事であることを強調することはいきすぎであろうか。不思議なことに宮顕が中央委員に登場して以来党内に「査問事件」 が発生してきており、本稿の「査問事件」に先立ついくつかの査問に宮顕の影が見えているのというのは事実のようである(ようであるという意味は資料が乏しいということである)。むしろ、数々の「党内査問事件」の発生が宮顕の指導によって推進されていたのではないかとさえ思えてくる。

【「数ある査問事件証言」のうち誰の陳述を重視すべきかについて】
 以上を踏まえて、私流ドラマを誌上再現することにする。但し、非常に長くなるので以下小畑関係を中心に見ていくことにする。 なお、私の手元にあるのは先に挙げた著書の範囲の予審調書及び法廷陳述でしかない。このうち袴田と大泉の予審調書はほぼ出そろっているが、他の三人のそれは一部しか漏洩されていないようなので正確は期しがたい。立花氏の「日本共産党の研究」は新資料を駆使しているので参照させていただくことにした。

 というわけでこれらをどう見るのかについて思案を凝らした。各自はそれぞれ事前に拷問を受けている筈であり(どうやら袴田は受けていないらしい。よくしゃべり協力的であったということであろうか)、警察または予審判事の誘導も大いに考えられるので、採用に当たってはまず作り事とは思えない陳述であるかどうかを重視した。次に、各自の陳述とか回想録に微妙な差が見られているところから、逸見・宮顕・袴田・秋笹・木島の弁明のうち誰が的確に事態を表現しているのか、という観点からの見定めを重視した。

 その結果私は、党史の流れの中で派閥を形成せず、野呂委員長の補佐役に甘んじようとしていただけの人であり、このたびの査問にも当初反対していた逸見のそれに最も信をおくことにした。逸見は両派のどちらにも与する必要がなく、自己の保身以外に嘘を言う必要が見あたらない立場にいたと思えるからである。

 ところがこれが厄介であった。逸見は余りに凄惨なリンチの様子を陳述しているからである。他の者のそれには見られないほどの露骨さで宮顕の関与を語っており、この辺りは当事者全員の陳述との整合性を重視すべく神経を使った。但し、党除名後の袴田が語った事件の真相手記も無視するわけにはいかなかった。事件の流れについては袴田のそれをベースにした。彼がこの事件の仕掛け屋として当初から関わっており、最も多弁に語っているからである。部分的な箇所の解明には秋笹のそれをも参考にした。木島のそれはほとんど採用しなかった。彼は宮顕−袴田のリモコンでしかなく、一部始終の経過についてもさほどタッチしていないからである。但し、私の勉強不足とも思うが、木島の予審調書の詳細は「日本共産党の研究」でしか知らず、立花氏はその著書の中で木島が宮顕から受けた数々の指令部分ないしやり取りを明らかにしており、他にないものなので比較できぬまま採用した。宮顕のそれはあまりにも当事者の供述とかけ離れておりベースとしては採用せず、他の陳述との比較という方法で採用した。この点については別途宮顕の観点から見ていくことが必要であるとは思っているが。

【「査問事件」の総括の現代的意義について】  
 ともあれ、このような状況下の33年の暮れに「党中央委員査問事件」が発生し、その三日後12.26日に宮顕は検挙逮捕されている。宮顕は、以来敗戦まで12年間を獄中に送ることとなった。敗戦の前年に氏の公判が開かれているが、検挙以来黙秘を貫き、白紙の調書に象徴される完全非転向を貫いた、とされている。この間の様子は、中条百合子との「12年の手紙」往復書簡集他で知らされている。以下、このような経歴を見せる宮顕が直接関与することになった「査問事件」について言及してみたい。

 「査問事件」とは、1933年(昭和8年)12.23日、当時の日本共産党中央委員会内部に発生した「大泉・小畑両中央委員被リンチ査問、小畑致死事件」のことを云う。あらましはこうであった。当時中央委員候補であった袴田が発案したとされており、同じく中央委員候補であった秋笹も同調し、これを中央委員であった宮顕がすぐさま支持し、逡巡したもう一人の中央委員逸見を何とか巻き込んで、 宮顕−袴田ラインであった木島他を警備役として取り込み、他にそれぞれのハウスキーパーを見張り役として利用した。これが総数であり、宮顕がリーダーとして指揮することになった。

 こうして大泉、小畑両中央委員がアジトに呼び出され、この二人をスパイ容疑者として査問するという事件が発生した。この経過で査問二日目の午後小畑が死亡するという突発的な不祥事が起った。 査問は頓挫し、責任転嫁と事後処理の打ち合わせが行われた。唖然とすべきは、小畑の死体が放置されたその場であったか階下であったかは別にして、その直後居残り組最高指導部となった宮顕と逸見の協議により袴田と秋笹が中央委員に、木島が中央委員候補に任命されると云う論功行賞を受けている。これが戦後になって吹聴され続けている「戦前最後の党中央委員宮顕−袴田コンビ」の誕生秘話である。おぞましいと感じるのは私だけでしょうか。

 新たに中央委員となった袴田と秋笹で事後処理を話し合ってそれぞれ散会することとなった。小畑の死体は床下に隠されることになった。翌翌日の12.26日に宮顕はいち早く検挙された。大泉とそのハウスキーパー熊沢はその後も翌年の1.15日まで監禁され続けられることになった。この間二人は心中を申し出、遺書を上申した。これを査問側も認め、心中決行のため新アジトに二人を移したが、決行当日不思議なことに監視員が木島のハウスキーパー唯一人という状況になり、大泉は隙を見て逃げ出し当局に転がり込むこととなった。こうして事件が発覚し、マスコミが猟奇的に大きく報道するところとなった。事件の報道は各界に衝撃をもたらし、党の権威と運動が大きく損なわれることになり、実質上党中央は崩壊させられるに至った。


 この事件が今日においてなお重大であり尾を引き続けているのは、党中央執行部員同志による致死を伴った査問事件であったという重大案件であるにも関わらず、この事件に対して党内的な総括が未だになされているとは言い難く、事件の全貌もまた未だヴェールに包まれていることにある。それは、査問の首謀者が今日の党を指導する宮顕であったことによる政治的複雑性と、査問の経過中での小畑死亡原因をめぐって当事者の主張一人一人に隔たりが見られ、未だに解釈が一定していないという事情が横たわってることにも原因があるようである。今日の党執行部を支持する者は、概ね宮顕の強く主張する平穏無事な査問経過中の「体質的ショック死」に転嫁させ、他方反宮顕系の者は「リンチ査問死」であり宮顕に結果責任を負わそうとする傾向にあるという具合に、今日においても著しい政治的色彩を帯びている。

 この件に関する私の考えはこうである。「査問事件」は宮顕にとって触れられたくない事件であろうが、臭いものに蓋をせず、公党の責任問題として党史的に総括しておくべき事柄のように思われる。その姿勢は党内の自浄能力の欠如を疑わせるものとして受け止められるであろうし、アキレス腱として事あるごとに利用され続けられることになるであろう。決して党百年の計のために役立たない。是非生存中に事案処理をされんことを望む。55年に「50年問題について」で徳球執行部を総括したように、「いわゆる査問事件について」を党内論議的に総括しておく必要があるのではないのか、と思う。

 このことを中野重治は彼らしく一般論的な言い方で次のように述べている。
 「いわゆるリンチ≠フ件にしてみれば、おれは殺さなかったぞと誰かがヤミクモ言い張ることで事が解決されるのではない。そこへと追い込まれて行ったのには、追い込まれた側に決定的な大きな原因があったことを正面からつかむこと、これが党再生の道だろうと思う」(雑誌「通信方位」昭和51年1月号『歴史の縦の線』)。

 にも関わらず、「査問事件」が今日までタブー視されている不自然さには、「査問事件」の全面的な解明に対して熱心でない宮顕の姿勢が大きく関係している。それがために、時に応じてかえって猟奇的事件としての興味をかきたてられるというシーソー関係にさらされている。今、こういう状況下にあって私がこの事件の解明に向かおうとすることの意味は、一つは、「査問事件」の発生が党の組織問題としての「スパイ・挑発者に対する摘発闘争」の一環として生じたという歴史的経過を踏まえ、この事件が党の責任において党史的に総括されねばならないと思うことにある。この問題は、再発を防ぐための今後の教訓としても、問題を歴史的全体性の中で捉え直される必要があるのではないか。

 少なくとも、「当時の味方の中に無限に敵を発見していくスパイ摘発闘争の悪循環を見据えつつ戦前日本共産党史の一帰結として『査問事件』を捉え、日本共産党の過去の革命的運動の反省という環の中での総括が必要」(栗原幸夫「日本共産党史の一帰結」要約)ということではなかろうか。 私は更に次の視点を添えたい。「スパイ摘発闘争の悪循環」は、当時の特高のシナリオに沿った宮顕派による党中央の簒奪劇であったということと、この時点において最後の砦として維持されていた戦闘的党員ないし大衆団体殲滅戦に狂奔するために応用されたものではなかったか。

 もう一つは、この事件を単に猟奇的に見るのではなく、宮顕の政治的立場にまつわる胡散臭さの逃れようのない証拠事件として解明しようということにある。宮顕は、この事件ではからずも黒幕から直接の下手人の一人としての役目を果たすことになった。それは突発的であったので、氏の冷静なシナリオを狂わして自らをして手を染めさせてしまったのではないか、と思っている。「これは予期しない、不幸で残念なできごとだった」(「私の五十年史」)と宮顕自身語っているが、私は「残念」の意味するところを「氏の冷静なシナリオを狂わして自らをして手を染めさせてしまった」故の「残念」と受け取る。以来、この事件は宮顕の政治的活動の致命的なアキレス腱として内向させられているのではなかろうか、と思われる。


 最後の一つは、「査問事件」の前後の解析を通じて、宮顕の警察・予審調書が存在しないということに関連させての「完全黙秘・獄中12年・非転向タフガイ神話」の虚像を暴いてみようと思う。なぜなら、戦後直後の有能且つ戦闘的活動家に立ち塞がってきたのがこの神話であり、この如意棒が振りかざされることによって、転向組が沈黙を余儀なくされてきている経過があるから。ありえなかった虚構を暴くことはこの意味で必要となっている。ちなみに、『さざ波通信』編集部の方たちにあってさえこの神話が無条件に措定されている文章を読んだことがある。この現実を突破することからしか抜本的な党の再生はあり得ないというのが私の視点となっている。

 ところで、とり急ぎここで指摘しておきたいことは、果たして査問の間じゅう小畑、大泉に食事が提供されていたのかということについてコメントしておきたい。実際には与えられていないように推測されるので、小畑、大泉両名は食事抜きのまま丸一昼夜と翌日の午後まで5食分が抜かされたまま査問が継続されていたことになる。加えて充分な睡眠も与えられず、捕虜同然の姿で手足を縛られたままの消耗著しい姿勢で経過させられていたことになる。宮顕は、こういう査問状況についても否定しているのだろうか。仮に「体質的急性ショック死」を認めたにせよ、これらの事実はその大きな因果になっているのではないか、と容易に推測し得ることである。それとも何か、宮顕並びにその同調者は、テーブル越しに会議でもしているかのようにして査問がなされ、経過経過で食事を与え用足しもさせていたとでも言っているのだろうか。

【小畑のスパイ性の根拠と冤罪問題】

 今日においても小畑氏のスパイ性をめぐって見解が分かれている。正真正銘スパイであったと疑う者といやそうではなかったとする立場の者とに分かれている。大井廣介の遺書「独裁的民主主義」(昭和51年12月、インタープレス刊行)や亀山幸三の「代々木は歴史を偽造する」(昭和51年12月、経済往来 社刊行)は、小畑はスパイでなかったという立場から書かれている。これに対して、平野氏の場合は、小畑に会った第一印象で小畑は臭いと感じたと述べ、この印象を補強する形で誰それの検挙は小畑が売った可能性が強いとか、取調べの際に自白か転向を促すために特高が小畑がスパイであるという秘密を公然と漏らしたとかを列挙している。さすがに立花氏は、もしそうなら逆に小畑がスパイでないことになると指摘している。特高は誰それがスパイであるとか漏らすことは御法度であるから、常套的な内部攪乱のやり方であろう、と理由を述べている。

 ここで、小畑氏の履歴について簡単に述べておく。小畑は、「忘れられた思想家」として知られる安藤昌益の出生地・秋田仁井田村から出自している。党関係の側からの小畑に関する伝記的記録は見あたらないようなので、やや詳しくは「日本共産党の研究三56P」を参照して貰いたい。同書記述を要約すれば、小畑が非常に誠実有能な活動家であり、主に全協との絡みで党中央に進出して行った貴重な労働者畑党員であったことが判る。

 常に特高を警戒しながら活動していた様が見て取れるし、事実この「査問事件」途中小畑のアジトが木島によって調べられるが、下宿のおばさんを味方に付けていたこととか机には厳重に鍵がかけられていたこととか、何よりこの査問中完璧な受け答えをしている様が大泉と好一対をなしており(対特高においてもこのような対応をしただろうと賞賛される対応を見せている)、そして最後に渾身の力を振り絞って査問の罠から逃走を試みようとした戦闘力が知れることになるであろう。

 ここで付言しておけば、 小畑の遺体を引き取った弟が郷里の知人に宛てた手紙の一節は次のように記されている。

 「新聞ですでに詳細ご承知と思いますが、ただ兄は裏切り者ではなかったことを判然とお知らせいたします。兄こそ正しい党員です。兄こそ日本共産党の正統なる後継者だったことを確信を持って云い得ます」、「母は悲 しみの中にも元気です。唯、新聞は兄を裏切り者のように書いているので、それを残念がっています」。

 小畑は、質朴な労働者出身であり、半非合法の日本通信労働組合の中央委員長を経験している。昭和6年夏に万世橋署に検挙された。刑務所行きが間違いないと推測されていたところ、起訴されずに警察だけで釈放された。この件に関して、この時スパイにさせられたのではないかとこのたびの査問中厳しく追及されている。この言い分の正しくないことは立花氏が文中で述べているのでそれを参照されたし。昭和8年頃、日本通信から全協本部、全協本部中央の常任を経て野呂執行部時代に党中央委員というふうに急速に出世していった。以降の動きについては既に記述しているので割愛する。

 私は、小畑氏が名誉回復されねばならない根拠が充分あると考えている。とすれば、小畑関係の資料蒐集しておくことは公党としての早急な義務であるように思われる。特に、冤罪事件に奮闘する党員の方は、先の投稿で述べた松原氏に対しても、この小畑に対しても同様まず身内の冤罪事件に取りかかって欲しい。

 小畑に対する私の認識はこうである。スパイ性はあったかも知れないが、小畑に認められるスパイ性程度のものは当時の獄外党員の誰しもが背負わされているすね傷ではなかったのか。小畑にかけられた嫌疑程度のものであれば、逆に小畑グループが宮顕グループを査問した場合を想定したとき、宮顕も袴田も木島も同等かそれ以上のすね傷を露見させられずには済まなかったのではないのか、と私は思っている。

 では聞こう。この当時には珍しくもまさに珍しくも!宮顕は1932年(昭和7年)2月頃、中条百合子と正式な結婚をしているが、わずか二ヶ月程の期間であったとはいえ駒込と百合子の父の別荘国府津での生活は、特高の目をくらまし続けての生活であったと言うのか。歴史の奥底の大事な真実は秘せられるとしたものだからこれ以上の推測は控えるが、次のことだけは言っておきたい。当時にあってはスパイ性も転向性も、ある種特高との駆け引きの中で行われていることであり、獄外党員を見る場合、その党員の本音と活動ぶりが党運動の推進性とスパイ性のどちらに重心を持っていたのかという観点で評価されねばいけないのではないのか。そういう具体的特殊的な考察抜きにスパイ呼ばわりするとしたら、当時の獄外党員は皆なスパイにされる可能性がありはしないか。当時のメーデーデモを見てもデモ隊列の両側に二倍の数の警官が張り付いていたようである。検挙しようと思えば容易であったであろうが、却って党の動きが判らなくなる等の理由で見逃されていたのではないのか。特高の網に引っかからない機関党員がいたら却って疑わしいのではないのか。


 この当時有能とみなされる活動家ほど抱き込まれる機会を仕掛けられていたのであり、宮顕にはそういうお呼びさえかからなかった的な完全無欠神話こそ却って不自然であろう。この当時特高は個々の党員をいつでも検挙できる体制下で泳がせていたのではなかったのか。それは今日の公安とオームの、あるいはまた広域暴力団との関係のようなものであり、全国手配者にせよ張りめぐらされた網の中の掌中に入れられているのかも知れないという見方ができるのと同じである。特高から見て落とし込みようのない危険な有能党員は獄外にあることを許さず、適宜に逮捕・拘禁・虐殺の憂き目にあわしていたのではないのか。獄外党員はその動きをチェックされ続けており、真実地下に潜って尾行さえ付かせなかったという絵空事は子供だましの言いではないのか。

 こういうセンテンスで当時の情況を読みとらなければ賢明な判断がなしえないのではないのか。かたやスパイ、こなた深紅の活動闘士というきれい事過ぎる論調を信じられる者はおめでたい幸せ者でしかなかろう。付言すれば、非スパイ性を拵えるために八百長的逮捕さえ行われていたとか、熱血党員をスパイであるかのように見せかける罠とか様々に混乱の種が蒔かれていたという情況も知っておく必要がある。以上、通説の「査問事件」の不可解な面として、この小畑の非スパイ性の指摘をさせていただこうと思う。第二点としたい。


 少し観点が違うが、この辺りを踏まえて立花氏も次のように言っている。

 「共産党の内部には、妙に陰湿な伝統がある。それは過去の活動歴の汚点がその党員の党生活に陰に陽に終生つきまとうということである。その人間が党中央に忠誠を誓っている限りにおいては、彼の汚点は表向き無かったことになっている。ところがいったん、その人間が党中央に背くや否や、彼の過去の汚点が洗いざらい暴き立てられ、彼がもともとダメな人間で、党員としてあるまじき行為を過去から一貫して積み上げてきたことになってしまうのである」(日本共産党の研究二.74P)。
 「活動歴の汚点はもちろん、プライバシーに至るまで容赦なくあばかれる。戦前からの活動者の場合、活動歴の最大の汚点は転向である。なにしろ純粋の非転向者は日本中でほんの一握りしかいなかったのだから、たいていの人は転向歴がある。普段はそのことは問題にされないが、いったん事が起こると、たちまち引き合いに出される」(日本共産党の研究二.77P)。

 立花氏のこの指摘は客観描写として説得力がある。問題は、「共産党内部の妙に陰湿な伝統」を共産主義ないしその党の宿アと看做すべきか、スターリニズム的且つ宮顕派特有の捻じ曲げに責を負わすべきか、ということになろう。れんだいこは、後者の観点を採っている。

 なお、ここで大泉の第15回調書において大泉が指摘している日本共産党批判を見ておくことにする。なかなか鋭い分析が為されているように思われるから。リンチ事件の契機となった大泉−小畑派と宮顕−袴田派の対立の背景に政治的遠因があると指摘した上で次のように述べている。

 「日本共産党はその発生当時から小ブル的要素を多分に持っており、インテリが牛耳り、労働者・農民の生活から遊離し、その活動は従って机上戦術的で何ら労働者農民の実質的利益をもたらさず、党は政策的に破綻に瀕しておりました。又党員採用に関しても無統制で、ボルシェヴィキ的鉄の規律はなく、個人的関係が決定的な力を持って、党組織関係は要するにインテリや失業者の集合に他ならず、大衆組織はほとんどなかったと云えましょう」云々。

【大泉のスパイ性の根拠とその評価問題】  

 ここで、大泉の履歴についても簡単に述べておく。大泉は、その予審調書に拠れば、昭和7年1月に新潟から上京し、上京後党の農民部との連絡に成功、以後不思議なほど党内出世を遂げ重要な党機関を歴任していくこととなった。新潟時代既にスパイ的動きが見られ、地元党員から党中央あてに上申書がなされている。上京後のスパイ活動は主に特高の宮下警部と連絡を取り合っていたと自白している。党内出世の結果、昭和8年8月下旬頃、警視庁特高トップの毛利課長直轄のスパイとなっているようである。同年12月23日にスパイ容疑で査問されるまでの期間といえば満4ヶ月ということになる。証人として喚問されたかっての同志達は、ほとんど口を揃えて、大泉の指導者としての消極性、無理論、古い型の指導性、呑気なとうさんぶりなどを証言している。 無節操・無定見、女と金銭関係において極端に放縦、着服癖、熊沢光子を欺瞞してハウスキーパーとする等非同志的態度が見られた云々。

 宮顕は、第一回公判廷において、次のように陳述している。

 「(査問を通じて)彼らは先ず日常活動に就いてのスパイとしての証拠を掴まれるや、その後は最早自分は客観的にはスパイと思われても仕方がないとはっきり言ったのであります」。
 「(小畑は) 只、『自分はその当時政治的水準が低かったからそういうことをやったのであって、自分としてはスパイではないがスパイと思われても仕方がないから除名は勿論承認する』と自白したのであります」。

 この「客観的には云々」という口癖が宮顕論理の特徴である。既に何度か指摘しているが、こういう論理と権力がジョイントすると権力者は大抵のことを思い通りに正当化し得ることになる。反動的理論の典型というべきであろう。


【補足・スパイ考】

 スパイ考の最後にこのことも述べておきたい。当時のスパイにもいろいろ種類があって、指揮系統別に見れば次のように識別できる。

 地方出先の特高担当のスパイ
 警視庁(本庁)特高担当のそれ
 特高のトップ毛利氏の最高機密下のそれ
 更にはこれらの指揮系統とも違うそれ

 という具合に幾重にも(ここが肝心だ!)系統的に組織されていたのではないのか。

 これらのスパイの養成経緯にも次のような差がある。

 弱みが握られてスパイにさせられた者
 党への不信から自ら進んで志願した者
 元々警視庁から送り込まれた者
 警視庁とも違う別の筋から送り込まれた者

 という風に分類できるのではなかろうか。更に付加すれば、5.袴田のように特高の期待通りに迎合的にうごめく者も居たようである。大泉の場合、自ら志願した風がある。故郷での事業負債を抱えていたようであり、金銭的な渇望と党への不信がオーバーラップしていた形跡がある。恐らく熱海事件の際に見せたスパイMを真似て特高に党の機密情報を高く売りつけ、支度金を貰って暫く満州にでも身を隠そうとしていたのではないかと、これは想像部分であるが根拠がないわけではない。ところが、彼もシナリオが狂ってしまった。査問事件に巻き込まれてしまい、スパイであることが暴かれてしまうと同時に出先の警察に飛び込むことにより隠蔽が難しくなったからである。

 もう一つの区別も必要である。スパイには、その果たす役割に次のような差がある。

 単に情報取りのそれ
 「単に一つの階級的組織に打撃を与えるに止まらず、大衆団体と共産党との対立を政策的に惹起せしめようとする方針を目論む」(宮顕の公判陳述)党の内部攪乱・破壊で動くそれ
 「党活動や党人事に関与し、党の内部に組織的にスパイ をはめこんでいき、それらのスパイ達を手駒として動かしながら、党を文字通り換骨奪胎して行く」(日本共産党の研究二.99P)ことを狙ったそれ
 そして今日的段階ともいえる「党の用語を縦横に駆使しながら党の本来的活動とは無縁の方向へ引っ張っていくことのできる指導的能力者」としてのそれ

 という風にスパイにも進化発展の歴史があるのではなかろうか。





(私論.私見)