第10部の3 戦後違法釈放直後の宮顕の動静

Re:れんだいこのカンテラ時評その87 れんだいこ 2005/08/25
 【戦後違法釈放直後の宮顕の動静考(「風知草」雑感)】

 「戦後違法釈放直後の宮顕の動静」につき、百合子が「風知草」その他の中で記録している。ほぼ正確なものとして足跡を追ってみることにする。結果的に、「風知草論」になってしまったが致しかたない。

 なお、この観点はつとに「将門ウェブ」(http://shomon.net/index2.htm)の「日共粉砕」(http://shomon.net/seikei/nikkyo.htm)の「宮顕と宮本百合子のことで」(http://shomon.net/seikei/nikkyo2.htm#920926)に記されており、ようやく「風知草」を読む機会を得て書き上げることになりました。遅くなりましたが、改めて周さんに御礼申し上げます。

 宮顕は、他の被告より一日早い1945.10.9日、網走刑務所を出所した。宮顕37才、百合子46才の時であった。百合子は知らなかったようであるが「違法釈放」であった。「右により心身の衰弱増進し、刑の執行により生命を保つこと能わざるものと認む」故に、釈放の喫急なることが要請されている診断書に基づき釈放されていたことを知る由もない。

 念のため記すと、宮顕が網走刑務所に服役したのは、1945.6月から10月までの割合と過ごしやすい4ヶ月の間である。それまでは、あちこちを経て巣鴨刑務所に永らく居た。未決囚であった為、他の思想犯達に比べて雲泥の好待遇で過ごしている。「網走刑務所獄中12年非転向神話」が流布されているがデタラメなウソである。

 百合子は「9ヒデタ ソチラヘカエル ケンジ」という電報を受け取った。釈放後東京の宮本百合子宅に戻ったのは10.19日。この十日間の宮顕の消息も闇に包まれている。

 同時期にあちこちの刑務所から解放された徳球、志賀ら指導者の面々は例外なく幾度にもわたってGHQの調査を受けているが、宮顕にはその痕跡さえ明かされていない。これも不思議なことである。宮顕については「潔癖非転向神話」ができるようにできるように作為されていると思うのは穿ち過ぎだろうか。

 こうして宮顕は百合子の元へ帰ってきた。以降の消息につき、百合子は「風知草」の中で宮顕を重吉、百合子をひろ子に扮して明らかにしている。それによると、最初に百合子の宮顕への気遣いから健康診断させている。

 結果は、ひろ子「いかが?」、重吉「案外だった」、ひろ子「そんなによくなっていたの?」、吉岡医師「いい塩梅に病巣がどれも小さかったんですね」、「大体みんなかたまっていますよ。この分なら、無理さえしなければ大丈夫といえますね」なる遣り取りを記している。

 百合子は、宮顕の健康状態を心配して健康診断させたところ「予想外に健康との診断を得た」ことを朴訥に記している。百合子が宮顕に健康診断を受けさせたのは、その良妻賢母ぶりが為した技である。しかし、この記述は思いがけぬ種をまいていることを知る由もない。宮顕が危篤状態という虚言で違法出所した不正を奇しくも暴いている。百合子は、そういう事情を知らぬまま記している。

 宮顕は、獄中時代、百合子の大変な世話を受けている。そのつぶさな様は「12年の手紙」で明らかにされているが、異例の差し入れが為されており、他の被告の獄中時代の様子と比較すれば奇異なほどである。宮顕が釈放され、それほど世話になった百合子との二人の生活が始まる。が、不幸なことに当初より隙間風を漂わせている。百合子は淡々と記している。

 ある日、二人は牛ぎゅうづめの電車の中でら次のような遣り取りをしている。重吉「ひろ子に、何だか後家のがんばりみたいなところができているんじゃないか」。 ひろ子「あなたに対して、私にそういうところがあるとお感じになるの?」。 重吉「僕に対してというわけじゃないさー一般にね」。

 これが百合子の12年にわたる心労に報いた宮顕の言葉であった。百合子は、その時の気持ちを次のように記している。「後家のがんばり、という言葉に含められているものは、バカと云われるより、だらしなしと云われるよりひろ子にとって苦痛であった。人生のずれたところへ力こぶを入れて、わきめもふらない女の哀れな憎憎しさ。それがこの自分にあるのだろうか。帰って半月もたたない重吉からこんな電車の中で、それを云われなければならないのだろうか。こらえても、涙があふれた」。

 次のような遣り取りが続いている。重吉「どうした? しょげたのかい? しょげることはないさ」。ひろ子「あんなに貞女と烈婦には決してなるまいと思って暮らして来たのに」。ひろ子自問「それにしても、どうして、よりによって重吉は、この混雑の中でこんな話をしはじめたのだろう」。ひろ子「でも、どうして急におっしゃるの?」。重吉「どうしてってことはないが、考えたからさーどうせほかにすることがないんだからこんなとき話しといた方がいいだろう?」。ひろ子「大抵の人は、こんなところでは話し出さないと思うわ?」。

 この会話は更に続いている。ひろ子「さっき電車の中でしかけた話ね、覚えていらっしゃる?」。重吉「後家のがんばり、かい?」。ひろ子「わたしには、ね。どうしてああ急におっしゃったのか、きっかけが見つからないのよ。さっきから考えているけれど。でも、きっとそういうところができているんでしょうね」。

 思うに、この遣り取りで問題なのは、宮顕の左派的感性の欠損である。思わぬところで宮顕の胡散臭さが露呈しているように見える。宮顕の百合子に対する「後家のがんばり」は、婦女子に対するブルジョア的嗜好性から発せられており、プロレタリア文芸評論家の根幹に関わる度し難い非プロレタリア性を示していないだろうか。百合子は、抑えた書き方ではあるが、宮顕の胡散臭さを告発しているように思える。

 百合子はもう一つ、宮顕の人格的欠損をも告発している。少なくとも、共産主義者としての虚構ぶりを暴いている。重吉が洋服の着付けに不器用で、カフス・ボタンの袖口を突き出して手伝わせることに対して、ひろ子は次のようにやんわり嗜める。「自分で、カフス・ボタンもつけられないなんて、わるい御亭主の見本なのよ」。

 宮顕は、ひろ子のたしなめが気に障り気難しく対応する。その日の帰宅後、いつになくぶっきらぼうに振舞う宮顕に百合子が問う。ひろ子「ね、どうなすったの」。重吉「どうもしない」。ひろ子「いいえ。こんなのあたりまえじゃないわ。いつものようじゃないわ。ね、どうして?」。重吉「どうもしない。きょうから、何でもみんな自分ですることにきめたんだ。すっかり考え直したんだ。何の気なく、してくれるとおりして貰っていたんだが、俺も甘えていたんだ。ーわるい亭主の見本だと思われているとは思わなかった」。ひろ子「御免なさい。わたしふざけて云ったのに」。重吉「しかし、ひろ子はしんではおそらくそう感じているところがあったんだ。世間には良人のことは何でもよろこんでする細君もあるんだろうが。自分のことは自分でするのはあたり前なんだから、もうすっかり自分でする。監獄じゃそうしてやって来たんだ」。ひろ子「変よ、監獄じゃ、なんて! それは変よ!」。

 この遣り取りは更に続き、結末は、「二度ともう憎らしいことは云わないから、あなたも約束して。さっきのようなことは云いっこなし」となった。しかし、元々宮顕の我がまま亭主ぶりに端を発しているのであるからして、この決着のさせ方は百合子の一方的屈服以外の何物でもなかろう。

 ひろ子は、それを得心させるために、次のように言い聞かせる。「ひろ子は、頬をもたせている重吉の左の膝の上の方を考え沈みながら撫でた。そこに、着物の上からもかすかにわかる肉の凹みがあった。太腿のところに、木刀か竹刀かで、内出血して、筋肉の組織がこわされるまでなぐり叩いて重吉を拷問した丁度その幅に肉が凹んでいて、今も決してなおらずのこっているのであった」。

 しかし、この百合子の得心のさせ方は問題のすり替えであろう。本来何の関係があろうか。更に問題がある。果たして、宮顕の太腿の凹みが特高の拷問によるだろうか。定かでないものに対して、百合子は勝手に「獄中12年非転向聖像」に懸想して得心させている。百合子の純情極まれりということになろう。

 ところで、この頃、戦後党運動の始発となった国分寺の自立会には、すでに全国から党員が参集し始めており、再刊赤旗の一号を背負って全国に飛び立っていた。そのあわただしい頃に宮顕は何をしていたのだろう。「風知草」には、宮顕が毎日出かけていたことが記されているが、どこに出かけていたのか、誰と会っていたのかの記述がない。不自然なことである。

 「風知草」には、宮顕が書き物をしていた様子も記している。百合子は、その清書をさされていた。そうこうしているうち、百合子は小説を書きたくなった。その時の遣り取りが次のように記されている。ひろ子「小説をかかして。ね、小説がかけるように働かして。お願いだから」。重吉「鎮まれ。しずまれ。それを云っているのは、俺の方だよ。かんちがえをしないでくれ」。

 これによると、百合子は、創作に向うにも宮顕の制約を受けており、その意向抜きにはできなかったことが判明する。しかし、百合子の心は疼いていた。次のように記されている。「その時分、そろそろ新しい文学の団体も出来かかりはじめていた。十数年前にも一緒に仕事をしていたような評論家、詩人、作家などが、また集まって、口かせのはずされた日本の心の声をあげようとしているのであった」。

 そうこうしているうちのある日、百合子は、国分寺の自立会に向った。この時、宮顕が連れ立っていない。その事情までは記されていないが、百合子の自立会詣でが遅くなった理由として、宮顕が制約していた気配がある。しかしいつまでもそういう訳には行かず、百合子は晴れて目出度く自立会に向うことになった。その時のウキウキした気分が記されている。

 この時、百合子は婦人部の集まりに列席し、その場に現われた徳球の様子をつぶさに記している。徳球は、カーキ色の国民服を着て、はげ上がった、精悍な風貌であった。身振り手振りにも触れた後、「引き締まって、ぼやついたところのない音声と、南方風なきれの大きいまなじり、話に連れて閃く白眼。その顔のすべての曲線がつよく、緊張していた。ひろい引例や、自在な風刺で、雄弁であり、折々非常に無邪気に破顔すると大きい口元はまきあがり、鼻柱もキューと弓なりに張っている」と記している。

 「この指導者が、縦横無尽という風に、ときに悪態さえ交えながら、しかも、婦人たちの本能的なつつしみには自然のいたわりをもっていて、荒っぽく、しかも淡白な話し振りをももっていることに注意をひかれた。この人の悪口は、火の中からだしたばかりの鉄ごてのようだ。あつくて、ジリッとし、やけどをさせ、また消毒力も持っている。その味は、雨の滴(しずく)もころがり落ちてしみこめない漆塗りの風貌全体と一致していた」とも記している。

 れんだいこは、なぜこの記述を取り上げるのか。それは、百合子が、奇しくも宮顕とは趣の違う戦後直後の党運動指導者像を好意的に描写しているからである。身びいき的には旦那である宮顕をこそ褒め称えたいであろうが、そういう私的感情を超えて徳球の指導者然とした特徴を素直に記している。ここに百合子の魅力がある。

 その後、再び宮顕との遣り取りが記されている。興味深いことに途端に無味乾燥且つちまちまとした遣り取りとなっている。百合子は意識的かどうか分からないが淡々と記している。

 宮顕が国分寺の自立会を訪れたのは10.21日と云われいる。「風知草」にはその時の様子は記されていない。宮顕の戦後党運動の関わりは、新しい代々木の党本部から始まっており、その事務所へ弁当を届けるところから書き起こされている。赤旗編集局の一室で、「重吉とひろ子は弁当箱をあけ、いわしのやいたのを三人でわけて板テーブルの上で食事をはじめた」様子が記されている。三人とは、重吉とひろ子と袴田であったことが記されている。

 フィナーレは、12月始めの第4回目の党大会の記述である。百合子は、その時のニュース映画について記している。戦前の治安維持法下で倒れた山本宣治、小林多喜二のシーンに触れた後、戦後党運動の始発となった府中刑務所の共産党員釈放について記述している。

 「その門の中からスクラムを組み、解放された同志達を先頭にした大部隊が進行して来た。真中に徳田、並んで志賀、その他ひろ子の顔も見分けられない幾人かの人たちが、笑い、挨拶の手を高くふりながらこちらに向って進行して来た」、「そのわっしょ、わっしょという力のこもった声と、ザッザッ、ザッザッという地響きとは、ひろ子を泣かせて、涙を抑えかねた」と感動シーンについて記している。

 百合子の筆先はこれで止まらない。ここに百合子の素晴らしさがある。百合子は、そのシーンの中に宮顕を浮かび上がらせ、次のように記している。「重吉は一人で歩いている。『君達は話すことが出来る』と、今は工場の横庭でかたまって話している人々の間を、重吉は歩いて来る。『君達は話すことが出来る』円く集まって話している女のひとたちのよこを、重吉は歩いて来る」。

 この記述は何を物語っているのだろうか。れんだいこは、百合子の文学的感性で捉えた重吉こと宮顕の異邦人性に対する鋭い指摘をしている、と見る。実に、百合子は、意図せざるにせよ、「風知草」で宮顕その人の左翼指導者としての異質性を描いている。れんだいこは、この意味で、百合子の批評眼の確かさを知る。旦那である故に随分控えめに半端に記しているにせよ、そのように捉えた眼が素晴らしい。

 2005.8.25日 れんだいこ拝





(私論.私見)