「1974年6月26日、民社党の春日一幸委員長は『毎日新聞』の取材に対し、『宮本は小畑をリンチで殺した』と事件を取り上げた。共産党は『小畑は特異体質により死亡したもの』と抗議した。当時は1972年の総選挙で日本共産党が野党第2党の地位を占めた頃であり、また当時、宮本は共産党の委員長であり、袴田は副委員長であった。このため、春日の発言は選挙対策ではないかとみる向きもある。その後、1976年の『文藝春秋』新年号に掲載された立花隆の『日本共産党の研究』で、この事件が取り上げられる。宮本らに対する東京刑事地方裁判所の判決文等が掲載され、大きな反響を起こした。
1月29日には自由民主党の倉成正がこの判決文は本物かどうかと国会質問を行い、稲葉修法務大臣は原本と同じであると認め、どういういきさつでGHQの指示が下ったのか明らかにしなければならないと述べた。1月30日の民社党の塚本三郎の質問に対し、稲葉法相はでっち上げだと主張するなら、再審手続きを申請するべきだとも答弁した。『文藝春秋』はさらに3月号で、鬼頭史郎京都地裁判事補が提供した『刑執行停止上申書』と『診断書』を掲載した(鬼頭は後に公務員職権濫用罪で有罪となる)。一方、共産党側も反論として、『宮本顕治公判記録』を出版した。
自由民主党は民社党と共同で事件を追及したが、結果として宮本らに刑が執行されることはなかった。
野党第一党であった日本社会党委員長成田知巳は、この騒動は目前の論議から国民の目をそらすものであり、また治安維持法体制下で起きた事件を、その背景と切り離して考えるべきではないと批判した。一方で、部落解放運動における対立を、暴力事件やリンチ事件として国会に持ちこむことで今回の騒動の道を開いたと、共産党も批判している。
この年の12月に行われた第34回衆議院議員総選挙では38議席を確保していた共産党は大きく議席を減らし、17議席の獲得にとどまった」。
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