「ウィキペディア2011.5.23日現在記述『日本共産党査問リンチ事件』とのれんだいこ問答」

  (最新見直し2011.05.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで「ウィキペディア2011.5.23日現在記述『日本共産党査問リンチ事件』」と問答しておく。この記事が誰により編纂されたのか不明である。真面目に記述しているのであるが、れんだいこの検証とは幾つかの点で異なっている。事象の分析もやや異なる面があるのでコメントしておく。なお、次の注釈がつけられている。
 「このページの名前に関して「日本共産党スパイ査問事件」もしくは「共産党スパイ査問事件」への改名が提案されています。議論はノート:日本共産党査問リンチ事件#改名提案を参照してください。このタグは2011年5月に貼付されました」。
 「この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため偏った観点から記事が構成されているおそれがあります。議論はノートを参照してください。このタグは2007年11月に貼り付けられました」。
 「この記事の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2007年11月に貼り付けられました」。

 これによると、「2007年11月」時点ではサイトアップされていたことになる。なお、事件の名称は、日本共産党リンチ殺人事件」、「日共リンチ殺人事件」、「スパイ査問事件」、「スパイリンチ事件」、「リンチ共産党事件」、「スパイ調査問題」などと呼ばれている。しかし、殺された小畑中央委員の冤罪性を担保する立場からするといずれも相応しからざる名称と云う以外にない。れんだいこは、「戦前日本共産党内の中央委員会抗争に於ける宮顕派による査問殺人事件」(略称「宮顕派による査問リンチ殺人事件」、さらに縮めて「宮顕リンチ事件」)と命名したい。

 2011.5.23日 れんだいこ拝


 「ウィキペディア2011.5.23日現在記述『日本共産党査問リンチ事件』」は、事件の総合解説につき次のように記している。
 「日本共産党査問『リンチ』事件は、治安維持法下の1933年に東京府東京市(現東京都)で発生した日本共産党中央委員であった小畑達夫が死亡し、同じく中央委員であった大泉兼蔵らが負傷した事件。両者は『日本共産党にもぐりこんだ特高警察のスパイ』として査問とよばれるリンチにかけられたものだと裁判では認定された。当時は赤色リンチ事件として大々的に報道された。なお、共産党側はリンチの存在を否定している」。

(私論.私見)

 この解説は、「日本共産党査問『リンチ』事件」としており、リンチが存在したことを前提にしている点で史実に添う。これは良い。「治安維持法下の1933年に東京府東京市(現東京都)で発生した日本共産党中央委員であった小畑達夫が死亡し、同じく中央委員であった大泉兼蔵らが負傷した事件」なる記述も問題ない。但し、「僅か5名しかいなかった中央委員」、且つ「先輩格の」と云う下りの記述が必要である。「両者は『日本共産党にもぐりこんだ特高警察のスパイ』として査問とよばれるリンチにかけられたものだと裁判では認定された」は、一見問題ないようで問題がある。「両者は『日本共産党にもぐりこんだ特高警察のスパイ』として査問とよばれるリンチにかけられた」のは事実であるが、「両者は『日本共産党にもぐりこんだ特高警察のスパイ』として査問」したのは査問側の云い分であり、生き残った大泉は認めたものの死亡した小畑は否認したままリンチ致死されたと云うのが真相である。よって「リンチにかけられたものだと裁判では認定された」のは事実であるが、この事実を安易に繋げてはならない。「当時は赤色リンチ事件として大々的に報道された。なお、共産党側はリンチの存在を否定している」の記述はその通りである。

 以上からすれば、次のように要約すべきだろう。
 「日本共産党査問『リンチ』事件は、戦前の日本共産党内に発生した幹部粛清事件であり、治安維持法下の1933年に東京府東京市(現東京都)で発生した。当時、委員長の野呂が逮捕され、獄死した後であり、日本共産党内には中央委員間に深刻な党内抗争が生じていた。この時、中央委員は5名(序列的に見て小畑達夫、大泉兼蔵、逸見重雄、秋笹正之輔、宮本顕治)であったが、後輩核の宮本顕治が中央委員候補の袴田里見を教唆し、逸見重雄、秋笹正之輔を巻き込んで、先輩格の小畑達夫、大泉兼蔵を査問した。結果的に小畑達夫は死亡し床下に埋められ、大泉兼蔵は負傷し監禁された後、隙を見て逃亡し警察に訴え出て世に知られることになった。査問側は『日本共産党にもぐりこんだ特高警察のスパイ摘発闘争』であるとしているが、生き残った大泉は査問過程で認めたものの、死亡した小畑は頑強に否認したまま逃亡を図った為、査問側に抑え込まれ圧殺させられた。事件関係者が総員逮捕され裁判に付せられた結果、治安維持法違反、監禁、監禁致死、監禁致傷、傷害致死、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反等で起訴され、これを認める判決が下された。当時、赤色リンチ事件として大々的に報道され、戦前の日本共産党活動に著しいダメージを与えた。なお、宮本顕治の系譜を引く現在の共産党側はリンチの存在を否定し、死因を急逝心臓マヒによる病死であり事件は特高警察により仕立てられた冤罪事件と主張している。他方、労働者側の小畑が真正スパイ派の宮顕グループによりテロられた殺人事件であり、小畑の方こそ冤罪であるとする説もある」。

 「事件の概要」と題して次のように記している。

 「1933年、当時日本共産党中央常任委員であった宮本顕治、袴田里見らが、当時の党中央委員大泉兼蔵と小畑達夫にスパイ容疑があるとして査問処分を行うことを決定し、12月23日、二人を渋谷区内のアジトに誘い出した。 宮本らは針金等で手足を縛り、目隠しとさるぐつわをした上に押し入れ内に監禁した。秋笹正之輔、逸見重雄らが二人に対して暴行を行ったため、小畑は24日、外傷性ショックにより死亡した。小畑の死体は床下に埋められた。以上の概要が、当時の裁判で認定された結果である。さらにその際、無許可で実包を込めた拳銃一丁を携帯したこと、また、別の党員大串雅美にスパイ容疑があるとして、赤坂区内のアジトに12月21日から22日までの間監禁したこともあわせて裁かれている」。

(私論.私見)
 これもかなり不正確な記述である。以下、問答しておく。1933年、当時日本共産党中央常任委員であった宮本顕治、袴田里見らが、当時の党中央委員大泉兼蔵と小畑達夫にスパイ容疑があるとして査問処分を行うことを決定し、12月23日、二人を渋谷区内のアジトに誘い出した。 宮本らは針金等で手足を縛り、目隠しとさるぐつわをした上に押し入れ内に監禁したは、ママこれで良い。次の秋笹正之輔、逸見重雄らが二人に対して暴行を行ったため、小畑は24日、外傷性ショックにより死亡したがデタラメである。秋笹は小畑死亡事件発生時、二階で赤旗を編集していた為に関知していない。逸見の暴力は、査問側の中で一番役割が控えめである。これが史実なのに、敢えてこのように記述する魂胆が分からない。事件の仕掛けも、査問も、小畑圧殺も宮顕が主役であり、次に能動的なのが袴田であり、その手下の木島隆明である。各人の陳述調書を重ねて読み解くと、こう理解する以外にない。後半の「小畑の死体は床下に埋められた。以上の概要が、当時の裁判で認定された結果である。さらにその際、無許可で実包を込めた拳銃一丁を携帯したこと、また、別の党員大串雅美にスパイ容疑があるとして、赤坂区内のアジトに12月21日から22日までの間監禁したこともあわせて裁かれている」はママこれで良い。

 以上からすれば、せめて次のように要約すべきだろう。
 1933年、当時日本共産党中央常任委員であった宮本顕治、袴田里見らが、当時の党中央委員大泉兼蔵と小畑達夫にスパイ容疑があるとして査問処分を行うことを決定し、秋笹正之輔、逸見重雄らが加わり、12月23日、二人を渋谷区内のアジトに誘い出した。 査問側は大泉と小畑を針金等で手足を縛り、目隠しとさるぐつわをするなどして査問に取り掛かった。同時査問派困難であったので、片方は押し入れ内に監禁された。二日目の査問の休憩中、小畑が逃亡を図り、宮本、袴田、逸見、木島が総勢で抑え込んだ結果、小畑がぐったりし蘇生しなかった。この時の抑え込みの役割と位置につき関係者の供述が一致していない。宮本以外は、柔道の心得のある宮本の足払いに続くねじ伏せ、抑え込みが主因による死亡としている。こうして、小畑は24日、集団的押えこみによる暴行性ショックにより死亡した。小畑の死体は床下に埋められた。以上の概要が、当時の裁判で認定された結果である。さらにその際、無許可で実包を込めた拳銃一丁を携帯したこと、また、別の党員大串雅美にスパイ容疑があるとして、赤坂区内のアジトに12月21日から22日までの間監禁したこともあわせて裁かれている」。

 当時の裁判の認定による経過」と題して次のように記している。

 「1933年、日本共産党中央委員会は特高警察による取締りによって壊滅的打撃を受けていたが、検挙をまぬがれた幹部で党中央を再建した。当時、共産党はスパイを摘発する目的で、波多然・大沢武男といった党員に対して『査問』と称するリンチを行っていた。宮本によると、スパイを行った場合には、共産党規約により査問を受けることが予め承諾されていたという。印刷局副主任であった荻野増治も査問にかけられ監禁されていたが、このままでは殺されると考え、逃走した。 12月20日の深夜、荻野増治は警視庁特別高等警察課に出頭、保護された。荻野の供述により、宮本らのアジトが割り出されることとなる。

(私論.私見)
 この下りはこれで良い。

 当時の裁判の認定による経過」の続きで次のように記している。

 「12月23日、宮本らは小畑・大泉の両名を会合を開くと称して呼び出し、そのまま『査問』にはいった。翌12月24日付の『赤旗』(現『しんぶん赤旗』)には『中央委員小畑達夫、大泉兼蔵の両名は、党撹乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する。』との党中央の声明が掲載された。警視庁は、この「極刑」という表現に注目、荻野と同様のリンチが両名に加えられ、場合によっては殺害されている可能性があるということで、捜査を開始した」。

(私論.私見)

 この下りもこれで良い。


 当時の裁判の認定による経過」の続きで次のように記している。

 「逸見重雄の供述によると、彼らに加えられた暴力行為は以下のようなものであったとされる。まず最初に大泉に対して棍棒で殴打するなどのリンチを加え気絶させた。その後小畑を引きずり出し、キリで股を突き刺したり、濃硫酸をかけるなどの凄惨な拷問を加えた。最後に薪割で小畑の頭部に一撃を加えた。そして大泉を引き出して小畑同様のリンチを加えた。大泉はこの拷問に耐え切れず気絶したが、宮本らは死亡したものと早合点しそのまま引き上げた。大泉はまもなく蘇生した。この頃小畑が死亡する。裁判では小畑の死因は外傷性ショックであるとされた。小畑の死体はアジトの床下に隠された」。

(私論.私見)

 この下りの「逸見重雄の供述によると、彼らに加えられた暴力行為は以下のようなものであったとされる」は良いとして、「まず最初に大泉に対して棍棒で殴打するなどのリンチを加え気絶させた。その後小畑を引きずり出し、キリで股を突き刺したり、濃硫酸をかけるなどの凄惨な拷問を加えた」は不正確である。宮顕が「まず最初に大泉に対して査問を開始した」と述べているが、他の被告は「小畑から査問を開始した」としている。宮顕の大泉先説は、本件査問が決して小畑狙いではなかったとしたい魂胆によるもので詐術とみなすべきだろう。続く「最後に薪割で小畑の頭部に一撃を加えた。そして大泉を引き出して小畑同様のリンチを加えた。大泉はこの拷問に耐え切れず気絶したが、宮本らは死亡したものと早合点しそのまま引き上げた。大泉はまもなく蘇生した。この頃小畑が死亡する」はデタラメ記述である。「最後に薪割で小畑の頭部に一撃を加えた」なる証言はない。「そして大泉を引き出して小畑同様のリンチを加えた。大泉はこの拷問に耐え切れず気絶したが、宮本らは死亡したものと早合点しそのまま引き上げた。大泉はまもなく蘇生した」なる証言もない。査問は一貫して小畑に厳しく大泉にやや甘いのが真相であり、大泉に対して「小畑同様のリンチを加えた」ようには思われない。「この頃小畑が死亡する。裁判では小畑の死因は外傷性ショックであるとされた」は非常に不親切な記述である。本事件は、小畑死亡を廻る事件であり、小畑死亡時の様子こそ解き明かされねばならない。本稿執筆者の意図が歪んでいることが分かる。「小畑の死体はアジトの床下に隠された」は、これで良い。  

 以上からすれば、せめて次のように要約すべきだろう。

 事件関係者の供述によると、彼らに加えられた暴力行為は以下のようなものであったとされる。まず最初に小畑を査問、訊問した。続いて大泉を同様に査問した。交互に査問するうちに次第に手厳しくなり、暴行まで加えるようになって行った。興味深いことは、宮本、袴田、木島ラインの査問は小畑に、逸見、秋笹ラインが大泉に手厳しかったことである。査問過程で、大泉はスパイであると自白した。これにより押し入れに隠され、査問は小畑に集中した。小畑は頑強に否認したまま膠着状態に陥った。査問休憩となった隙に小畑が逃亡を図り、寄ってたかって抑え込まれて小畑が死亡した。裁判で小畑の死因が争われ、小畑を検視した『村上・宮永鑑定書』は『脳しんとう死』と鑑定した。続いて『古畑鑑定書』が出され『外傷性ショック』と鑑定した。秋笹被告事件第二審判決文、宮本判決ででは『外傷性ショック』と認定された。小畑の死体はアジトの床下に隠された」。

 当時の裁判の認定による経過」の続きで次のように記している。

 「一方、宮本らは大泉のハウスキーパーであった熊沢光子に対しても『査問』を行った。熊沢が『本当に大泉がスパイなら一緒に殺してくれ』と言ったところ、宮本らも良心が咎めたのか、直接手を下そうとはしなかった。以後大泉と彼女とは20日間にわたって監禁されることになった。その間、12月26日に宮本は逮捕された。宮本は黙秘し、査問に関する供述は行わなかった。大泉と熊沢の二人は“自殺”を強要され、1934年1月14日が『執行日』となった。前日の13日は最後の晩餐ということで、特別に和菓子が振舞われ、『思想的に行き詰まったので自殺する』旨の“遺書”を書かされた。ところが、翌1月15日になって警察の気配を感じたため『執行』は延期され、彼らは目黒区にある別のアジトに移された。そのアジトで、大泉は監視人に対して最後の抵抗を試みた。監視人は思わぬ反撃に逆上し大泉に拳銃を突きつけた。ちょうどその頃、警視庁麻布鳥居坂警察署(現麻布警察署)の巡査が勤務を終え、目黒区の自宅に戻ったところ、近所の住人から『助けてくれえ!』という叫び声を聞いたとの話を聞き、現地に直行したところ、大泉が射殺されようとしている現場を目撃した。巡査は直ちに現場に踏み込み、拳銃を持っていた共産党員の女を逮捕した。大泉の供述により、小畑達夫の遺体が発見された」。

(私論.私見)
 この下りもママこれで良い。

 「当時の裁判の認定による経過」の続きで次のように記している。

 「事件後、1月17日の『赤旗』には『鉄拳で奴等を戦慄せしめよ』という表題の記事が掲載された。『日本プロレタリアート党の前衛我が日本共産党の破壊を企む支配階級の手先、最も憎むべき、党内に巣喰ふスパイが摘発された。我々一同は、スパイ大泉、小畑両名を、死刑に價することを認め、彼等を大衆的に断罪することを要求する。』という内容であった」。

(私論.私見)
 この下りもママこれで良い。但し、赤旗記事内容が正しいと云うのではない。

 共産党による主張」の項で次のように記している。

 「日本共産党は公式に、査問制度自体の存在を否定している。また、共産党側の主張では、小畑・大泉の両者は特高のスパイであると断定されている(両者とも、取調べの過程で警察と連絡をもっていたことを告白したと公判の中で宮本は陳述している)。特に大泉は裁判でスパイであることを理由に無罪を主張したが、治安維持法違反で5年の懲役刑を受けたことをその実証としている。赤旗の表現については、宮本は公判の中で、こうした表現はあくまでも比喩的なもので、スパイに対しての最高の処分は本名を明らかにしての除名であると陳述している。

 また、拳銃の所持は護身用であり、小畑の自由を拘束したのは『部下のことをいじめたりしてろくなことをせぬで党紀を乱すから、それは党の結束を維持する上においてやむを得ぬことであって、違法性は阻却される。』『ふろしきをかぶせたりして、こうやっているうちにおかしくなったから、ふろしきを取ってみたら死んでおった、そこでたまげて人工呼吸などをした』が生き返らなかったと、裁判で陳述している。このため、小畑の死は外傷性のものでなく特異体質によるショック死であったが、山県警部は宮本顕治に対して『これは共産党をデマる為に絶好の材料である。今度我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる。』と告げたという」。

(私論.私見)
 無茶苦茶であるので論評したくもないがコメントしておく。「日本共産党は公式に、査問制度自体の存在を否定している」自体がウソ。「共産党側の主張では、小畑・大泉の両者は特高のスパイであると断定されている(両者とも、取調べの過程で警察と連絡をもっていたことを告白したと公判の中で宮本は陳述している)」もウソ。仮に宮顕がそう述べたからと云って、それが正しい訳では断じてない。スパイを認めた大泉は生き残った方で、死亡した小畑がスパイを認めたのか頑強に否認したまま死亡したのかが肝腎な問いである。「両者とも、取調べの過程で警察と連絡をもっていたことを告白した」と云うのは、宮顕お得意のウソ。「特に大泉は裁判でスパイであることを理由に無罪を主張したが、治安維持法違反で5年の懲役刑を受けたことをその実証としている」は事実。「赤旗の表現については、宮本は公判の中で、こうした表現はあくまでも比喩的なもので、スパイに対しての最高の処分は本名を明らかにしての除名であると陳述している」の宮顕の陳述は事実だが、内容は大ウソ。

 「また、拳銃の所持は護身用であり、小畑の自由を拘束したのは『部下のことをいじめたりしてろくなことをせぬので党紀を乱すから、それは党の結束を維持する上においてやむを得ぬことであって、違法性は阻却される』」は宮顕お得意のキ弁。査問の当初から拳銃を突きつけて大人しくさせている。「ふろしきをかぶせたりして、こうやっているうちにおかしくなったから、ふろしきを取ってみたら死んでおった、そこでたまげて人工呼吸などをした』が生き返らなかったと、裁判で陳述している」も、宮顕の陳述は事実だが、内容は大ウソ。「このため、小畑の死は外傷性のものでなく特異体質によるショック死であったが」は宮顕の弁なのか、執筆者の言なのかを意図的に混同した書き方になっている。「山県警部は宮本顕治に対して『これは共産党をデマる為に絶好の材料である。今度我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる。』と告げたという」も、宮顕の陳述としては事実だが、内容は大ウソ。

 「判決」の項で次のように記している。

 「宮本顕治、袴田里見を含む5名は、治安維持法違反、監禁、監禁致死、監禁致傷、傷害致死、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反、残り1人が治安維持法違反、殺人、同未遂、幇助、不法監禁、銃砲火薬類取締法施行規則違反といった複数の罪状で裁判にかけられ、以下の判決が下った。宮本は上告したが、訴えは棄却された。殺人罪の適用はされなかった。

(私論.私見)
  この下りもママこれで良い。但し、殺人罪判決であり、敢えてこれを隠す書き方の意図が分からない。「宮本は上告したが、訴えは棄却された。殺人罪の適用はされなかった」もオカシイ。殺人罪判決が出ている。

  「復権問題」の項で次のように記している。
 「1945年8月の終戦後、10月4日にGHQは、政治犯の釈放等を命ずる覚書を発出した。これを受けて日本政府は、直ちに治安維持法違反等の政治犯釈放の措置に入った。10月9日、宮本顕治は、刑の執行を停止するという形で網走刑務所から釈放され、袴田も19日には釈放された。10月17日には昭和20年勅令第579号(大赦令)が発令され、治安維持法等の政治犯罪の赦免が決定された。宮本達は直ちに日本共産党の再建にとりかかり、中央委員会で要職を占めた。

 1945年12月29日には、昭和20年勅令第730号(政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件)が発令された。 この勅令は、治安維持法や出版法といった法律に違反した政治犯や思想犯、軍事犯、海外領土のみに公布された法律に違反して判決が下ったものに対し、その刑の言い渡しを無効とするものであった。ただし、この勅令には例外規定が存在した。刑法第二編に規定された罪、爆発物や銃砲に関する罪、食糧管理法違反などとあわせて判決が下った場合には、この勅令は適用されない事になっていた。この事件の判決を構成した罪状には、刑法第二編に含まれる監禁、監禁致死、監禁致傷、傷害致死、死体遺棄、そして銃砲火薬類取締法施行規則違反が存在するため、この勅令の適用外となり、釈放された宮本らは刑の執行が停止されている状態となる。

 1947年、刑の執行停止状態に気づいた東京検事局が宮本と袴田に出頭を要求した。4月末、GHQから司法省に対し指示があり、資格回復の措置がとられた。5月15日には民政局により「二人は単なる政治犯として釈放されたのであるから、その公民権はSCAPIN458号によって回復されねばならない。SCAPIN458号に基づき発布された勅令(730号)によって処理されるべき問題である。」といった内容の覚書が発給されている。宮本らには5月29日付で復権証明書を発行された。共産党側は、この復権措置により一般刑法犯の有罪判決も治安維持法違反の一環としてなされた不当判決であり、無実であることが証明されたとしている。

 1976年の5月19日の国会では、共産党の正森成二の質問に対して法務省の安原美穂刑事局長は、釈放に関するGHQの指令は超憲法的な特別な指示であったけれども、占領下においては適法な措置であり、宮本らの公民権は回復されている状態であると答弁している」。

(私論.私見)
 少し分析が疲れたので一々訂正しないが、この執筆者の姿勢が良く分かる記述である。要するに「事件は解決済み」としたい魂胆だけが透けて見えてくる。「10月9日、宮本顕治は、刑の執行を停止するという形で網走刑務所から釈放され」は意図的故意に不正確な記述にしている。獄中政治犯の一斉釈放は10.10日であったのに対して「一日早い」10.9日になっている。これを記さねば意味がない。その情報が袴田に伝わるや、袴田は自分が放置され、宮顕だけがなぜ釈放されたのか抗議し始め、「袴田も19日には釈放された」。これが真相である。末尾の「共産党の正森成二の質問に対して法務省の安原美穂刑事局長は、釈放に関するGHQの指令は超憲法的な特別な指示であったけれども、占領下においては適法な措置であり、宮本らの公民権は回復されている状態であると答弁している」も臭い書き方である。時の稲葉法相の「再審の道があるので、不服なら裁判で争ったらどうか」の弁も為されている。「法務省の安原美穂刑事局長」が曲者で、ロッキード事件に活躍しているロクデナシでしかない。こんなもんの弁で「事件は解決済み」にしようとする魂胆が臭い。

  「太田耐造の証言」の項で次のように記している。
 「1952年、雑誌ジュリストで戦時中の司法省刑事局第五、第六課長であった太田耐造が、『一時有名になったいわゆる共産党リンチ事件の被害者大泉兼蔵、小畑達夫は警視庁のスパイであった』『起訴された後予審において大泉は、自分が警視庁のスパイであることを自白したが、検察側は、このようなスパイ政策を容認していなかったので、これに対して断乎たる態度で臨んだ。』」という記事を発表している」。
(私論.私見)
 仮に太田耐造がそう述べたからとして、それが政治的発言であったとしたら何の意味もあるまい。但し、この言が本当であるかどうかも臭い。太田耐造発言の全文を公開して見よ。これは初見であるので知りたい。

  「国会での動き」の項で次のように記している。
 「1974年6月26日、民社党の春日一幸委員長は『毎日新聞』の取材に対し、『宮本は小畑をリンチで殺した』と事件を取り上げた。共産党は『小畑は特異体質により死亡したもの』と抗議した。当時は1972年の総選挙で日本共産党が野党第2党の地位を占めた頃であり、また当時、宮本は共産党の委員長であり、袴田は副委員長であった。このため、春日の発言は選挙対策ではないかとみる向きもある。その後、1976年の『文藝春秋』新年号に掲載された立花隆の『日本共産党の研究』で、この事件が取り上げられる。宮本らに対する東京刑事地方裁判所の判決文等が掲載され、大きな反響を起こした。

 1月29日には自由民主党の倉成正がこの判決文は本物かどうかと国会質問を行い、稲葉修法務大臣は原本と同じであると認め、どういういきさつでGHQの指示が下ったのか明らかにしなければならないと述べた。1月30日の民社党の塚本三郎の質問に対し、稲葉法相はでっち上げだと主張するなら、再審手続きを申請するべきだとも答弁した。『文藝春秋』はさらに3月号で、鬼頭史郎京都地裁判事補が提供した『刑執行停止上申書』と『診断書』を掲載した(鬼頭は後に公務員職権濫用罪で有罪となる)。一方、共産党側も反論として、『宮本顕治公判記録』を出版した。

 自由民主党は民社党と共同で事件を追及したが、結果として宮本らに刑が執行されることはなかった。

 野党第一党であった日本社会党委員長成田知巳は、この騒動は目前の論議から国民の目をそらすものであり、また治安維持法体制下で起きた事件を、その背景と切り離して考えるべきではないと批判した。一方で、部落解放運動における対立を、暴力事件やリンチ事件として国会に持ちこむことで今回の騒動の道を開いたと、共産党も批判している。

 この年の12月に行われた第34回衆議院議員総選挙では38議席を確保していた共産党は大きく議席を減らし、17議席の獲得にとどまった」。

(私論.私見)
 この下りもママこれで良い。但し、中段の「自由民主党は民社党と共同で事件を追及したが、結果として宮本らに刑が執行されることはなかった」は不正な記述である。「結果として宮本らに刑が執行されることはなかった」のは直後のロッキード事件の喧騒に揉み消され、今日に至っているからであり、事件の真偽とは何の関係もない。「結果として宮本らに刑が執行されることはなかった」から冤罪無罪とはなるまい。後段の「野党第一党であった日本社会党委員長成田知巳は、この騒動は目前の論議から国民の目をそらすものであり、また治安維持法体制下で起きた事件を、その背景と切り離して考えるべきではないと批判した」は良いとして、「一方で、部落解放運動における対立を、暴力事件やリンチ事件として国会に持ちこむことで今回の騒動の道を開いたと、共産党も批判している」は意味不明。末尾の「この年の12月に行われた第34回衆議院議員総選挙では38議席を確保していた共産党は大きく議席を減らし、17議席の獲得にとどまった」も思わせぶりな書き方である。共産党の議席を減らす為に宮顕リンチ事件が騒動化されたと読めることになるが、共産党の議席減の要因解説としては不公正だろう。

 宮顕「スパイ挑発との闘争-1933年の一記録-」は「月刊読売」1946年3月号に「“赤色リンチ事件”の真相」と題して掲載され、その後「宮本顕治公判記録」に収録された。その中で次のように述べている。
 「小畑の死因を、最初の鑑定書は、脳震迫であるとしたが、事実、かれが暴れだした時、なにびとも脳震迫をひきおこすような打撃を加えていないのである。そうして再鑑定書は、脳震迫とみなすような重大な損傷は身体のどこにもないこと、むしろショック死(ショックの定義についてはショックを参照)と推定すべきであるとした。そして、裁判所もついにこの事件を殺人および殺人未遂事件として捏造することが不可能となった」。
(私論.私見)
 「かれが暴れだした時、なにびとも脳震迫をひきおこすような打撃を加えていない」のは事実である。「寄ってたかっての圧殺死」が真相である。この真相について何も言及せず、「あらぬ原因」を否定して「何事もなかった」かのように云うのは詐術である。宮顕はこういう話法を常用する。「裁判所もついにこの事件を殺人および殺人未遂事件として捏造することが不可能となった」と云うのもウソである。彼は殺人罪で起訴、判決されている。宮顕は、知らぬ者を誑かすようにして、こういうウソを平気で書く御仁であることが分かる。

  「平野謙のうごき」の項で次のように記している。
 「この間、評論家の平野謙は、生前の小畑との非合法活動での共同の記憶をもとに、この事件に関しての文章と、袴田里見の予審調書とを合わせて、三一書房から『「リンチ共産党事件」の思い出』を1976年に刊行した。また、小畑が大泉とネクタイの柄で合図していたことを思い出し、両者ともスパイであったという推測を公にした」。
(私論.私見)
 この下りもママこれで良い。注釈すれば、平野謙は宮顕系の文芸御用評論化であり、そういう平野の言に信用を置く訳には行くまい。

  「袴田の批判と主張」の項で次のように記している。
 「1977年(昭和52年)には当時党副委員長であった袴田が、事件に関して党や宮本を週刊誌などで公然と批判した。袴田は規律違反(党外からの党攻撃)を犯したとして共産党から除名処分を受けた。1978年の週刊新潮記事では宮本が小畑に暴行を加えて死亡させたと主張した。後に書籍も残している」。
(私論.私見)
 この下りもママこれで良い。「後に書籍も残している」は「昨日の同志宮本顕治へ」( 新潮社)を指す。

  「浜田幸一による人殺し発言問題」の項で次のように記している。
 「1988年、衆議院予算委員会において当時予算委員長を務めていた浜田幸一はこの事件にふれて、「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました。」「昭和八年十二月二十四日、宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を股間に……」「針金で絞め、リンチで殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね。いいですね。」「私が言っているのは、ミヤザワケンジ君(宮本顕治の誤り)が人を殺したと言っただけじゃないですか。」等と発言し、問題となった。浜田は予算委員長を辞任することになる(浜田幸一#「宮本顕治人殺し」発言)。」。
(私論.私見)
 この下りもママこれで良い。

  「脚注」の項で次のように記している。
  • 昭和51年1月30日、衆議院予算委員会、稻葉修法務大臣答弁
  • 昭和51年1月30日、衆議院予算委員会、安原美穂政府委員答弁
  • 昭和51年10月01日 衆議院予算委員会
  • 1940年4月18日公判・冒頭陳述。所収、「スパイ査問事件と復権問題の真実」『文化評論』1976年4月臨時増刊号。
  • 昭和51年10月5日、参議院予算委員会 稻葉修法務大臣答弁
  • 兵本達吉は『日本共産党の戦後秘史』において、当時は未必の故意の判例が確立されていなかったため、検察は宮本顕治を傷害致死罪でしか起訴できなかったという。現在の刑事裁判ならば、「極刑をもって断罪する。」という赤旗の声明からみても、未必の故意による殺人罪に問えるケースであったとしている。
  • 中野文庫 - 政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件(昭和20年勅令第730号)
  • 昭和51年05月19日 衆議院法務委員会
  • 昭和51年10月30日衆議院予算委員会 共産党 不破哲三の質問
  • 『宮本顕治公判記録』新日本出版社 ISBN 4-406-00408-4
  • 1976年2月2日の成田知己委員長談話また、当時の赤旗に一部を除いてほぼ全文掲載された。「資料日本社会党四十年史」 ASIN B000J6Q07M 所収
  • 第112回国会 予算委員会 第7号議事録

  「関連項目」の項で次のように記している。

  「参考文献」の項で次のように記している。

  (本文中に書名があげられていないもの)

  • 警視庁史編さん委員会 編『警視庁史(第3)』1962年
  • 松本明重『日共リンチ殺人事件』1976年
  • 民社党教宣局『歴史を偽造する日本共産党』1976年
  • 立花隆『日本共産党の研究 下』1978年
  • 国際勝共連合広報委員会『裁かれる宮本顕治・日本共産党への審判. 1』1980年
  • 国際勝共連合広報委員会『裁かれる宮本顕治・日本共産党への審判. 2』1982年
  • 兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』2005年
(私論.私見)
 この下りもママこれで良い。




(私論.私見)