「『宮本顕治批判を今も続ける立花隆氏の晩節』小文考」 |
(最新見直し2011.05.24日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ネット検索で「『宮本顕治批判を今も続ける立花隆氏の晩節」と問答しておく。 2011.5.24日 れんだいこ拝 |
ネット検索で、「現代産業情報」の「『宮本顕治批判を今も続ける立花隆氏の晩節」(bT83、2007.9.1)に出くわした。取り立てて論(あげつら)うほどのものではないのだが、俎上に乗せ批判しておく。筆者が誰か分からないが、文意から見て日共支持系の者であることが分かる。要旨は、立花隆・氏の宮顕リンチ事件論を日共観点から批判し、「書斎の人として評論家に徹すべきではないか。過去の栄光にすがるジャーナリストもどきの活動は見苦しいし、晩節を汚しているというしかない」とするものである。この執筆者を仮に「A氏」とする。れんだいこは、「A氏」とは全く違う観点から立花を批判している。その研究については「立花隆の研究」に記している。ここに、立花隆氏論を廻る「A氏」とれんだいこの鮮やかな観点の違いが認められる。これを確認しておく。 一括転載ではなく、逐一コメントをつける方法で言及する。 「『宮本顕治批判を今も続ける立花隆氏の晩節」 (http://www.gendaisangyojoho.co.jp/cgi-bin/backnumber.cgi?NO=583&BODY=16) 「立花隆の研究」 (ronpyo/mascomiron/tachibanatakashiron/tathibanatakashiron.htm) 「A氏」は冒頭で次のように書きだしている。
続いて、立花の宮顕リンチ事件論について次のように解説している。
これは事実関係だから問題ない。問題は、続いて次のように評しているところにある。
ここで、「A氏」は、「宮顕リンチ事件」に対する態度を明らかにしている。立花が「捜査当局情報を丸飲みして」、「特高警察の調書に頼って」論証している姿勢に対して批判している。ここが、れんだいこと決定的に違う。れんだいこによれば、戦前の「捜査当局情報」、「特高警察調書」、「裁判記録」が現在よりも粗雑とは到底思えない。むしろ、戦前の方が事実関係については精緻に論証しているケースがあり、「宮顕リンチ事件」の場合にはこれに当て嵌まると思っている。重要な部分では宮顕救済的観点から真相を捻じ曲げているが、その面を割り引けば事実関係については現在より論証的であるとさえ思っている。「A氏」は、「『大本営発表』を含めて、情報は“お上”が一手に握っていた時代である」ことを理由にしているが、それは大東亜戦争の戦果の捻じ曲げであって、戦前の司法行政までが「大本営発表方式」であったとは断定できない。この点で、「A氏」の観点が甘いと思う。 「A氏」は続いて、「兵本達吉批判」に向かい、次のように述べている。
ここで、「A氏」は自分の言説「亡くなった著名人に敬意を表して、悪口を書かないことはマスコミの常識である。功成り名を遂げた人には、それなりの過去がある。その過去を、反論できないのをいいことに、没後に蒸し返したり、新たに暴き立てたりすることはフェアではないし、気持ちのいいものでもない。だから、この常識は良識と言い換えてもよかろう」に自ら抵触している。兵本氏は存命中だから何を書いても良い、どう批判しても良いと云う訳にはいくまい。あくまで事実関係に照らして言及するのが評論の筋ではなかろうか。逐一述べないが、こう書かれたら、これを兵本氏が知ったならタダでは済むまい。本稿は兵本論ではないので、これぐらいの論評にしておく。 「A氏」は続いて、次のように立花を嗜(たしな)めて結びとしている。
「A氏」は立花を嗜(たしな)めようとしているが、「A氏」こそが嗜められねばなるまい。「堀江貴文」のことは省くとして、「立花氏が間違っているのは、『書斎の人』として構築したストーリーを、補強するものだけを採用して構築するという姿勢である。これは『事実』を基本にすべきジャーナリストが、犯してはならない“罪”だ」が手前に降りかかってくることを考えねばならない。「『事実』を基本にすべきジャーナリストが、犯してはならない“罪”」を云うなら、れんだいこに云わせれば、立花の罪より日共の罪の方が数等倍ヒドイ。そのヒドイ日共的観点から立花論を撃つ姿勢をどう評すべきか。れんだいこがこう諭しても「A氏」の信念は揺るがず、「立花氏は『書斎の人』として評論家に徹すべきではないか。過去の栄光にすがるジャーナリストもどきの活動は見苦しいし、晩節を汚しているというしかない」と説教し続けるのだろうか。 要するに、「A氏」論評の拙さは、最も事実関係にそぐわない日共的観点から立花の「宮顕リンチ事件考」を批判している滑稽さにある。当人はこれに何も疑問を覚えていないようなので、哀れさを覚える。人に説教するには百年早い手合いに限って説教したがる、こういう手合いは多い。これが、れんだいこの締めの言葉となる。 2011.5.24日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)