JCPウォッチ・土佐氏による立花氏の研究批判について

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).4.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこ見解と全く相違する土佐高知氏による「宮顕のリンチ事件研究」論考立花隆「日本共産党の研究」の批判がある。以下、これを掲載しておく。当人はいたって大真面目に論じているようであるが、所詮党中央見解をかようにうまく学習しました程度の噴飯ものでしかない。当人が望むなら、いつでも論争に応ずる用意がある旨通知しておくことにする。

 2006.5.25日再編集 れんだいこ拝


立花隆「日本共産党の研究」の批判(990411)〜投稿:土佐高知 さん〜 phk68724@mopera.ne.jp

 立花隆「日本共産党の研究」の批判 目次

はじめに
第1章 立花論文のマキシムとミニマム
第2章 大泉はいつ小畑の死を知ったか?
第3章 「傷」はだれがつくったのか?
第4章 どんな「リンチ」があったのか?
第5章 死因をコロコロ変える立花検事
第6章 戦前史の輝くたたかい
第7章 だれの「法的身分」が問題なのか?
第8章 「立花隆のマインドコントロール」の研究
おわりに

 はじめに

 以下の拙文は、1999年1月から2月にかけて「JCPウォッチ」でおこなったわたしの意見をまとめたものです。その当時は、立花隆氏の「日本共産党の研究」を論拠にした、日本共産党の宮本顕治名誉議長にたいする論難(というのはおこがましかったが)が、はばをきかしていました。それにたいするわたしの反論をまとめたものです。以前から管理人さんには、掲載をおねがいしていたのですが、せっかくのログも事故によって消えてしまったことと、「日本共産党の研究」にたいする批判が、日本共産党のホームページをふくめて見あたらないので、この機会に掲載させてもらうことにしました。ご一読くだされば幸いです。

 第1章 立花論文のマキシムとミニマム

 立花隆の「日本共産党の研究」が「文芸春秋」に連載されたのは、1976年1月号(75年12月10日発売)から、1977年12月号まで21回にわたる連載でした。それを訂正・補筆したのが、講談社からでた単行本「日本共産党の研究」で、おなじく講談社から文庫本がでています。歴史学者の犬丸義一氏ものべているように、連載と単行本とは異なる評価をもたなければなりませんが、やっぱり76年1月号から3月号に、この「日本共産党の研究」の大きな政治的なねらいがあったことは明らかです。

 文庫本Bにある「いわゆるリンチ共産党殺人事件をめぐる事実問題の解明」、「資料1 宮本顕治にたいする確定判決」、「資料2 古畑鑑定書」は76年1月号に付録として掲載され、3月号には、鬼頭元判事補が違法にもちだした「刑執行停止上申書」と「診断書」を引用した「いわゆる宮本委員長の復権問題について」が付録として掲載されました。

 本文の方は1月号が、「共産党史の一大ドラマ」として、スパイ問題から「リンチ事件」に飛んで論じているところはあるものの、全体としては日本共産党の創立の背景をのべている部分、3月号は戦前の3.15大弾圧前後ところを論じているので、付録のつけかたはきわめて異様なものでした。

 それはなぜか?当時をふりかえってみると一目瞭然です。

75年12月10日

「文芸春秋」1月号発売

76年1月27日

春日一幸民社党委員長による、「スパイ査問事件」をつかっての違憲質問(衆院本会議)

   1月30日

塚本民社党書記長の「復権問題」での質問(衆院予算委員会)

   1月末

自民党「共産党リンチ事件調査特別委員会」設置

   2月10日

「文芸春秋」3月号発売


 ここには、鬼頭元判事補によって結ばれた黒いグループの連携プレーがうかびあがってきます。「リンチ事件」は先に「文芸春秋」が取りあげ、春日質問の露払いをする。復権問題では塚本質問が先鞭をつけ、そのあとを「文芸春秋」がフォローする。立花氏も春日も、鬼頭と公安が手に入れた「宮本身分帳」などの反共ネタをもたされていた――これが立花論文のもっている政治的意味であり、70年代前半の日本共産党の躍進に恐怖した反動勢力の反動攻勢の一翼をになったものでした。

 こうして世に出た立花論文が、日本共産党打撃になにを焦点にあてていたか?彼らのいう「リンチ共産党事件」です。この「事件」の位置づけについて、立花氏の発言をあとづけてみましょう。

 「戦前の共産党史は、まるで運命の糸に導かれるように、党壊滅というクライマックスに向かって急テンポで進展していく壮大なドラマである。戦後の共産党史は、これまた壮大なドラマであるが、これは戦前篇の続篇であって、戦後篇だけ見ている人には、映画館に途中から入った人のように、ことのなりゆきがどうにもよくわからない趣向になっている。ましてや戦後篇の一シーンでしかない現在進行中の舞台面を見ただけでは何もわからない。これが、私がここで、現在の共産党の分析からはじまって、党成立の時点までさかのぼっての分析をはじめた理由である」

 「共産党史という戦前、戦後を通じてこの一大ドラマを見事なまでに劇的なものにしているのは、なんといっても、戦前篇のクライマックス、党壊滅という壮絶な場面を主役として演じた宮本顕治その人が、共産党のレーニン主義からの大転回という興味あふれる(はたしてそれがほんとの大転回なのかよくわからないところが、またおもしろい)にの核心はどこにあるのでしょうか?これは立花氏自身が次のように述べていることからも場面でも主役として登場していることだ。このへんのおもしろさを理解していただくためには、もう少し戦前の党史に付き合っていただけなければならない。宮本顕治が戦前の破局の場の主人公だったというのは、当時の新聞を使えば、宮本が”首魁”となっておこした”リンチ共産党事件”が、最後的に党を壊滅させてしまったからである」(文庫本@72から73ページ)

 「誤解のないように、ここでいいそえておきたいのは、ここで明らかにした事実は、歴史的文章の中で見ていただきたいということである。当時の社会情況、党のおかれていた情況、党と権力との闘いの長いドラマの中で、なぜこうした事件が起きたかという視点から考えて考えていかなければならない。ここで提示したのはあくまでも事実問題である。歴史的文脈における位置づけのほうは本篇でおこなう。また、この事件を、いまの宮本氏や、いまの共産党と直接的に結び付けて考えるのは、まったくのあやまりである」

 「ただここで、あえて事件の事実関係だけを先に明らかにしたのは、二つの理由がある。一つは、この事件を、共産党のような、あまり大した問題でないとするかぎり、党史がゆがめられ、そのドラマの本当のコンテキストをとらえられないからである。この事件は、本篇で明らかにしたように、党史という一大ドラマの核なのである。第二の理由は、この問題を共産党があまりにデリケートに考えすぎていることである。共産党が真に大衆化路線を追求しようとするなら、この問題をむしろ党の側から自己切開するだけの勇気をもつべきだろうと思うからである。いまのように、過敏症的にそれにふれまいとする態度でいくかぎり、いつまでたっても、この問題は宮本路線のアキレス腱となりつづけるであろう。この問題を歴史的文脈のなかで自己切開しないかぎり、この事件は歴史的事件として終わらず、現在的事件でありつづけるだろう、と思うからである。そのどちらを選択するかに、党の未来の大きな部分がかかっているはずである。その選択はいまも党と宮本氏の前にある。大衆の信頼を獲得しようとするなら、なによりも必要なのは、事実を直視する勇気ではないだろうか、と私は思う」(文庫本B217から218ページ)

 この引用を見ても立花論文のミニマムは「リンチ事件」であり、マキシムも「リンチ事件」であることがわかると思います。

 これから、立花論文の最大の動機であり、最大の政治的ねらいだった、96年1月号と3月号の付録(文庫本ではBの「付録と資料」)にそって吟味し、なにが歴史の真実か明らかにしていきたいと思います。

 第2章 大泉はいつ小畑の死を知ったか?

 まず「連載」76年1月号の付録「いわゆるリンチ共産党事件をめぐる事実関係の解明」(文庫本B196から218ページ。以下指定のないかぎり文庫本Bからの引用ページ)から入りたいと思います。

 ここで立花氏は、宮本氏が戦後1945年12月に発表した「スパイ挑発との闘争」を引用し(196から202ページ)たあと、自分なりの解釈をこころみて、直接、宮本氏とは関係ない波多然氏の経験を「前振り」に差し込んだあと次のようにのべている。

 「さて、一番の問題点は、宮本氏自身が手を下した大泉・小畑の査問でリンチ行為があったかなかったかである。判決では、これを、本人供述、リンチに参加したメンバーと被害者大泉の調書、合計34通の調書ならびに死体解剖検査記録、古畑鑑定書などを証拠として採用して、リンチの事実は認めている。この宮本氏にたいする判決では、その内容があまりくわしく書いていないので、ほかの共犯者の判決から少しおぎなっておく」として、「秋笹正之輔にたいする治安維持法違反、殺人、同未遂、不法監禁等被告事件第二審判決」を引用します。

 まず、大泉の傷についてのべ、大泉自身の予審調書を引用して要約次のような情景を描写しています。

 <最初は小畑が査問をうけ、次には自分が査問をうけたが、殴られあるいは蹴られなどして一時は気絶した。意識が回復して査問をうけたとき、目隠しされ頭から何かをかぶせられたときがもっとも苦痛だった。包丁の峯で腹を切られたりといろいろ暴行をうけたが、このとき宮本らが自分に加えた暴行の程度をみても「自分ノ殺サレルノハ只時間ノ問題タト思ヒタリ」>

 そして、「実をいうと、大泉氏は現在も存命中である」として、大泉からきいた話を紹介しています(「連載」では、ここで大泉は「党を離れたままである」とのべていたが、批判をうけて「連載」15回目からスパイとして認めるようになった)。

 「査問のはじまった次の日あたりに、ぼくの閉じ込められている押し入れに、フトンがまるめていれられまして、それが大変な悪臭をはなつんですよ。それで次の日、『小畑は死んだんじゃないか』って聞くと、だれだったかわかりませんが、『逃げ出そうとしてなくなった』と答えが返ってきました。そんなこともあったから、ぼくも殺されてしまうなと思ったですよ。そのとき、はじめて、『アア、これが査問か』と思ったです。自分で、賀川を査問しておいてそんな風に感じるのも変なものだが(これ以前に、大泉氏がスパイ容疑者を査問させられたことがある。この査問の仕方が甘かったということが、大泉氏自身がスパイではないかという疑いを持たせた原因の一つになっていた)、僕のやっていたことなど、子供だましみたいなものだった。やはり徹底性に欠けている。しかし、今思い出してもいやなものです。何がって、人の死体の臭いですがね…」(207から208ページ)。

 この前後にはこの発言にたいする批判的コメントはないのだから、立花氏がその発言を真実としているのはまちがいなかろう。ところが、立花氏は別のところで小畑が逃亡を試みて急死直後の情景を次のように描いている。

 「誰かが脈をとってみたが、完全にこときれていた。それでももしかしたらと思ったのか、袴田がヤカンの水をかけ、秋笹が人工呼吸をほどこし、宮本が柔道の活をいれてみたが無益に終わった。小畑は完全に死んでいた。大泉がしきりに、『どうか命だけはお助けください。どうか命だけはお助けください』とくりかえしていた。大泉も、頭に何かがかぶせられたままだったが、その場に立ち会っていたのである。木島は小畑の死顔をみるのがいやなので、手近の風呂敷を顔の上にかぶせた。秋笹が『やっぱり殺したのはまずい』という意味のことをいつまでもブツブツいっているので、他の者たちは、『殺すつもりで殺したんじゃない』と怒った。実際、小畑の死は偶発事であって、殺すべくして殺したものとはいえないだろう。それだけに、彼らにとって小畑の死は苦いできごとであった。だから一層、現場に居合わせないですんだ秋笹が文句をいうのに腹がたったのである。しばらく一同呆然としていたが、事後処理をしなければならない。とりあえず小畑の死体を押入れに押し込んだあと、木島だけを二階に残して、宮本、逸見、秋笹、袴田の四人は階下に降りて会議を持った」(109ページ)。

 この引用中、大泉が殺害現場に居合わせていたという記述は「連載」のときにはなく、立花氏が単行本にするときに書き加えた部分で、大泉は小畑が急死した現場にいたのである。

 この立花氏のデタラメぶりについて、私は論争のなかで「大泉は小畑の死をいつ知ったか?」と指摘しました。それにたいして「そのときは目隠しされていたので、100%小畑の死を確認できなかった。押入に小畑の死体をつつんだ布団がいれられ、そのときに死臭をかいではじめて確認したのだ。矛盾はない」とか「死んだことについて一同が話し合う前に、耳に栓をして押入れにいれたから、一同の会話は聞こえなかった」との反論がありましたが、いずれも説得力に欠けるこじつけでしかありません。

 これについては「リンチ事件とスパイ問題」(竹村一偏、三一書房)の次の記述が真実をあらわしていると思います。

 「この大混乱に際して、誰が途中で大泉を押入れに入れねばならぬなどと気のつくものがいただろう。人ひとり目の前で死んだという大事の前に、大泉などに気を配る余裕のある当事者たちは一人もいなかったはずである」(38ページ)。

 また、立花氏自身が小畑が死んだあとの善後策の協議について、次のように述べていることからも、立花氏は大泉が小畑が死んだことを直後から知っていたことを認めていることは間違いありません。

 「小畑が死んだあと、大泉の査問も中止し、しばらく大泉をアジトに監禁しておくことに決まったことは前にのべた。大泉の処分については困り抜いていた。小畑殺害を知っている以上、釈放するわけにはいかなかった。かといって、殺すのもいやだった。とりあえず、ほとぼりがさめるまで、三ヵ月くらいは監禁しておこうということになった」(145ページ)

 前後でどれだけ矛盾したことがあっても平然と書き飛ばし、日本共産党と宮本氏を攻撃する材料は何でも利用してしてやろうという無責任な態度は、この論文全体の基調の一つになっています。

 第3章 「傷」はだれがつくったのか?

 次に小畑の傷について。ここでも「秋笹判決」に引用された「死体解剖検査記録、宮永鑑定書」から、「小畑の傷」について列記されます(208から209ページ)。この鑑定書自体が、検事立ち会いのもとで「リンチ事件」という特高の先入見を吹き込まれた鳥居坂警察署の宮永警察医(この宮永という人物は、警察の筋書きにそって15才の少年の遺体を50才成年男子の死体と鑑定したことのある人間)がおこなった解剖所見をもとにつくられたもので、充分な吟味が必要なものであることはいうまでもありません。

 立花氏は、この「傷」について「小畑の身体にあったという軽微な損傷というものが事実とすれば、それは大部分かれが逃亡をこころみて頭そのほかで壁に穴をあけようと努力した自傷行為とみなされる」と宮本氏がのべたことを、小畑が逃亡をこころみたときにつくったものと早とちりして、そのときの情景を袴田の本から引用して、「壁に頭で穴をあけているひまはなかったようである」と反論したつもりになっています(209から211ページ)。

 これについて「赤旗」が、「押入に入れられたときに逃亡しようとして壁に穴をあけようとしたときにつくった傷だ」と批判すると、「赤旗」が新しい論拠を持ちだしたかのようにのべて、そんなことは「信じがたい」といっています(227ページ)。自分で転んでおいて「そこに石があったから、石が悪い」とあたることを一般的には「八つ当たり」といいます。

 それはさておき立花氏は「小畑の押入での行動」について、宮本氏の逃げ口上、「滑稽な想定」として、237ページでも三つの反論を試みています。彼の言い分を検証しましょう。

 「第一に、手足を緊縛されて頭で壁に穴をあけることが可能か。頭はオーバーで包まれているのである。第二に、頭の重大損傷は左右前部と三方の各部にバラまかれている。どういう体位で頭をぶつけても、その傷を全部つくることはできない」

 第一についてこれは出来ます。なんなら自分で誰かに手伝ってもらって手足をしばり、押入(3間、つまり畳1枚の長いほうの幅)の中に入ってやってみればすぐわかります。足、頭を壁にぶつけることは簡単に出来ます。問題は、その壁を破れるかどうかですが、いまの住宅の押入の壁は石膏ボードなどでつくられているので絶対出来ません。しかし、査問会場は戦前の木造の二階建て民家の押入です。いまのような新建材をつかっている住宅ではないのです。その当時の壁というは、竹や板などをつかった基礎に土やモルタルを塗ったものですから、足や頭でぶつけると壁がぼろぼろと落ちてきます。わたしも小さいときにそれをして叱られた事があります。もちろん、壁を完全に破壊できるかどうかになるとむずかしいでしょうが、スパイとして査問された小畑が何とか逃げだそうとして行動したことは、何ら不合理ではありません。翌日には実際、逃亡しようとしたのですからね。

 第二についてこれも出来ます。一度に同時には絶対出来ませんが、時間差でやればできます。むしろこれの方が自然。同じ部分でいつまでも壁に頭をぶっつけていると、その部分だけが痛くなります。そうすると別の部分をつかって破壊行動しようとするのは当たり前。立花氏は小畑にたいする「リンチ」を前提にしているから、三カ所同時につくるには、複数の人間から殴られる、蹴られることしかないと思いこんでいるにすぎません。

 さすがに立花氏も、押入れに穴が空いていたとの関係者の調書や宮本氏の公判調書を無視できないと考えたのか、つぎのようにのべています(237ページ)。

 「第三に、ふすま一枚へだてた押入のなかでそんな音を立てればすぐわかるはずで、音を立てないようになにより気を使っているところだから、すぐやめさせるはずである。実際、小畑か大泉のどちらかが壁を叩いて音をたててやめさせられたことは各人の調書を総合するとあったようである。しかし、それが小畑であったか大泉であったか、足でやったのか頭でやったのか、各人の記憶がはっきりせず不一致であるから、大した出来事ではなかったはずである。宮本自身すら『頭カ足デ』とあいまいにしかいっていない」

 急にトーンダウンですが、こうしたいいわけにたいして、宮本氏は孤立無援の暗黒法定で次のようにハッキリとのべています。

 「次ニ小畑ニ関シテ/私ハ夜間徹夜テ3名ヲ一通リ訊問シテ疲レタノテ当日ハ木島ト共ニ同所ノ炬燵ニ〔第11回補正〕入ツテ寝タ/眠ル前ノ情景ハ小畑ハ座敷の中央辺ニ手足ヲ縛ラレ足ヲ投出シ腰ヲ下ニシテ居タ/何カニ寄リカカツテ居タ様ナ事ハナイ/同人カ押入ニ入ツテ居タ時壁ニ穴ヲ開ケ逃ケ様トシタノテ座敷ヘ出サレタノテアル/大泉ハ座敷ノ真中ヘ転カシテアツタ/2人共押入カラ出シテアツタ事ニ間違ヒナイ」(宮本公判調書1944年・公判記録179から180ページ)

 なぜ、査問者は取り調べの不利をしのんで2人をいっしょにしたのか?これは私も疑問でした。立花論文にもその理由は書いていない。ところが宮本氏はその理由をはっきりとのべていたのです。つまり、小畑が逃亡をここみるので、査問者の目に見える監視位置に彼を置いた、と。

 もっとも、この小畑の「頭部の傷」というものは、外表のものは軽微なものであるにもかかわらず、頭蓋腔内には「脳震盪死」を考慮することは不当でない傷があったというもので、再鑑定した古畑氏に、脳震盪は頭部にかなり強大な鈍力が作用したという事実が存在したときはじめて考えられるものだが、遺体にはそういう証拠がないので、死因を脳震盪とするのは適当ではないと退けられている代物です(282ページ)。

 では、外皮に傷がないのに「頭蓋腔内に傷ができた」のか?外皮にくらべて頭蓋腔内のことは、素人目にはわかりにくいと思ったかどうか、15才の少年の遺体を警察のいいなりで50才成年男子の死体と鑑定したことのある宮永警察医だから、検事立ち会いのもとでそれくらいは朝飯前のことだったかもしれません。

 第4章 どんな「リンチ」があったのか?

 さらに立花氏は「鑑定書によると、これらの傷は生前に受けた、つまりリンチによる傷だとされている。これだけの傷を与えるのに、どんなリンチをしたのか、宮本氏にたいする判決では、前記のとおり比較的簡単にしか描写されていないが、袴田氏、秋笹氏にたいする判決では、もっと共犯関係者の内容を引用して、同一事実についてその場面を詳しく書いている」として、判決文にある逸見の供述を引用しています(212から213ページ)。

 なんで「生前に受けた傷」が、つまり「リンチによる傷」に飛躍するのかわかりませんが、引用した中身を読むともっと驚かされます。中身を要約しましょう。

 <12月23日午後1時頃より査問をはじめた。いちばん最初に宮本と袴田が小畑を脅して訊問にはいったが、宮本、袴田、秋笹の三名は小畑を打ったり、撲ったり蹴ったりし、秋笹は「なぜウソを言うか」といって薪割用の小さな斧で、小畑の頭をこつんと叩いたこともあった。小畑の訊問を一応終わり、三名は小畑に目隠し、猿ぐつわをはめ、耳にもつめたと思う。小畑は査問中両手を後ろにまわし針金となわで縛られ、足も同じようにぐるぐるまわしでしばられたままだった。翌24日は午前9時半頃に会場についた。窓は黒い布で覆い、小畑は押入からだされ頭に黒布をおおわれてしばられていた。それをみて前夜相当厳しい査問がおこなわれたことを想像した。袴田がきて、宮本、秋笹、木島、自分の5人で小畑の査問をした。袴田は殴りつけたり、宮本は「警察の拷問はこんなものではない」とおどし、木島が「自白すれば命は助けてやるから言ってしまえ」というと、小畑は「一層ひと思いに殺してくれ」と叫んだ。秋笹は「共産主義者はウソはいわない。助けるといったら助けるから言ってしまえ」といい、自分も小畑を2、3回蹴飛ばした。さらに、午後1時頃より査問のなかで、自分が知る限りもっとも残酷な査問がおこなわれた。まず宮本、袴田、木島、秋笹が小畑をとりかこんで脅していたが、秋笹が火鉢の火を挟んできたので、自分はこれは「やるんだなー」と思って立ち上がって小畑のそばにいった。小畑はこの時、足を投げ出して座っていたが、肩のあたりを動かないように宮本が押さえつけ、両脇には袴田と木島がいた。秋笹が小畑の両足の甲に火をのせると、小畑は「熱い」と叫んで足をはねると火は付近に散乱して畳を焦がした。この間「どうだ白状するか、言うか」とみんなで責めた。またそのとき、小畑を長く寝かせて押さえつけ、木島が小畑の胸腹のところをひろげ、硫酸の瓶を押しつけて「そら硫酸を付けたぞ、流れるぞ」といって脅かした。袴田が小畑のズボンをはずして、みんなで股を押さえつけ、締めたり殴ったりすると、小畑は「言うから待ってくれ」と言うので手をはなしてきくと、まとまったことを言わないのでまたみんなでいじめるという風にした。この間、木島は硫酸の瓶の栓をはずし、小畑の下腹に硫酸をたらたらとたらした。硫酸の付着した部分はすぐに一寸幅位に赤くなり、少しすると熱くなったと見え小畑は悶えはじめた>

 すごい!残酷なリンチ!!(爆笑)

 立花氏は、宮本氏をのぞく他の関係者の供述はこの事実関係でほぼ一致しているとして、判決は下されたとしています。ここに立花氏の特高史観ぶりがハッキリと顔を見せています。

 真実は関係者の供述の多数決できまるもんじゃあありません。供述はそれを裏付ける証拠があって信憑性をもつものです。ところが、「一寸幅の硫酸傷」「両足甲のやけど」をつけたとする逸見供述を裏付ける証拠は、「宮永鑑定」の解剖検査記録にもでてきません。これは1934年1月15日、大泉が麻布鳥居坂署にかけこんで、即日警視庁から発表された「党内派閥の指導権争いによるリンチ殺人事件」「硫酸をあびせ錐で刺す、4日がかりの小畑殺」という「特高シナリオ」にもとづく、密室の取り調べに迎合して関係者の一人である逸見重雄がのべたことを鵜呑みにしているにすぎません。

 このシナリオは、1月18日の「東京日日新聞」で「小畑の死体解剖の結果、錐で突き刺した跡も硫酸をかけた形跡もなく、錐傷と見られたのも過り…」とくつがえされたもので、あわてた特高警察が、記事差し止め、報道禁止を命じた代物です。これをおどろおどろしく書き連ねる立花氏の歴史観を特高史観と言わずして、何を特高史観というのでしょうか。

 しかも、この「事実関係」について「ほかの関係者の供述も一致している」とのべているがこれも真っ赤なウソである。24日午後1時すぎに硫酸を小畑に垂らしたとされた木島は「自分は徹夜明けだったので寝ていた」と供述し、宮本氏も「木島といっしょに炬燵で眠った」と公判でのべている。炭団を押し付けたという秋笹には具体的な供述がなく、袴田も逸見のいうような暴行を働いたとの供述はありません。立花氏は、一般的には手に入りにくい事件の判決や調書をいいことに読者にウソをついているのです。こんなもので真実をゆがめられたらたまりません。警察べったりの宮永鑑定にすら否定された代物を「審理せずとも、最初から判決文が書ける」暗黒法廷の判決文に書かれているというだけで(しかも一人だけ!)、「これが真実だ」と叫びたてる。こんなものを「真実」といえる人は「治安維持法マインドコントロール」に毒された頭の持ち主だけでしょう。

 頭以外の小畑の傷についていっておくと、解剖検査記録に記載されているものは米粒サイズから胡桃サイズの皮下出血が20個前後、鶏卵サイズが1個とその他3、4ヵ所に皮がむけたところがあるだけの「軽微なもの」です。これがどうやってついたのか。宮本氏は公判のなかで、押入れから出し入れされたときに敷居などでつけたものだろうとのべています。さらにわたしは、すべてがすべて23日、24日につけたわけではないと思います。皮下出血はさわってみて痛みを感じる程度のものだから、会場に来る前に小畑がつけたものだってある。逃亡をはかって取り押えられたわけだから、そのときついたものもある。しかしこれらをもってリンチがあったというのはまったくの見当違いでしょう。

 第5章 死因をコロコロ変える立花検事
 (1)「外傷性ショック死」について

 吟味すればするほどあきれますが、とにかく先にすすみましょう。

 次に小畑の死因についてです。

 ここでは立花氏は何が真実かをまともに調べようとする姿勢は爪の垢ほどもなく、「リンチ殺人」という自分の結論にあわせて、次々と自分の都合のいい死因に飛びつくという無節操ぶりをしめしています。

 まず連載で採用した死因は、古畑鑑定にもとづく「外傷性ショック死」でした(文庫本B214ページ〜215ページ)。

 つぎに持ちだしたのが、「考えられている三つの死因、脳部位の損傷死、絞扼死、ショック症状いずれもそれぞれの可能性があり、むしろそれらの諸因が競合して死に至ったと考えるのが一番妥当だろうというのが法医学関係の一般的見解」でした。(文庫B239から240ページ)

 最後に持ちだしたのが、袴田妄言に飛びついて「窒息死」でした(文庫B242〜244ページ)。

 いったい、どれが死因なのかハッキリさせてもらいたいものですが、ともかく一つ一つ吟味してみましょう。

 まず、立花氏は、宮本氏の「再鑑定書は、脳震盪とみなすような重大な損傷は身体のどこにもないこと」という言葉に噛みつき、「これはおかしい、これは古畑鑑定書のつぎのくだりでくつがえされる」と、古畑鑑定書は「結論として脳震盪死を否定しているが、その結論は、頭蓋内には脳震盪を考慮すべき重大な損傷があるが、頭部外傷ないし頭蓋骨の損傷がないということによったのである。それによって(直接の死因にはならなかった)頭蓋内の傷が消失するわけではない」としています。

 古畑鑑定書を要約しましょう。古畑氏は「脳震盪死なるや」と問いかけ、次のようにのべています。

 <本件被害者の身体外表には鈍体の作用によって生じた多数の損傷があるが、損傷自体としてはごく軽微なものであります。しかるに頭蓋腔内において鶏卵2倍大、クルミ大の薄層の硬脳膜下の出血クルミ大、蚕豆大及び腕豆大の軟脳膜下出血があったと言うことですから、被害者の死因の一つとして脳震盪を考慮することは不当ではありません。しかしながら脳震盪は頭部にかなり強大な鈍力が作用したという事実が存在したときに、初めて考えられるもので、本件においては頭部にそのような強力な鈍力が作用したという証拠がありませんから、本件被害者の死因として脳震盪は適当ではありません>

 こうして古畑氏は「頭のなかの傷」については、ハッキリと死因として否定しています。

 次に宮本氏の「ショック死(特異体質者が一般的にはこたえない軽微の刺戟によって急死する場合を法医学上、普通ショック死という)と推定すべきであるとした」という記述にも「これもおかしい。法医学上のショック死の概念とは、ここに書かれている内容ではない」と言下に否定し、自分の持論を展開している。そして、古畑鑑定の「外傷性ショック死」を死因として支持し、「外傷性ショック死の場合、外傷を与えた加害者はその死にたいして有責なのである」としてます。

 しかし、これもおかしい。

 そもそも「外傷性ショック死」というなら、それをひきおこす要因となったものがなければなりません。ところが解剖検査記録をみても、その要因となる記載はありませんし、腎臓の病変もありません。また「ショック死」というなら、小畑の体質についての検討も必要ですが、古畑鑑定はそれをおこなった形跡がない。それどころか古畑鑑定は、小畑の死因を「虚脱死」と断定したので、その他の原因によるものかどうかは不必要なので省くとして、「心臓死」の可能性なども検討しようとしませんでした。

 だから宮本氏は、古畑鑑定のもつ矛盾について1944年の法廷でくわしく批判し、胸腺の残存、心臓の脂肪沈着と肥厚斑などの小畑の特異体質をしめす解剖検査記録や、心臓肥大という所見もあげて内因性急死としての「心臓死」を考えることも不当ではないとして、法廷で古畑氏らとの対決訊問を裁判所に申請したのです。ところが、はじめから宮本氏を有罪にしようとしている法廷はこれを却下し、「傷害致死」「不法監禁致死」と認定したのでした。現憲法のもとでの裁判なら、これだけで判決が否定されるほどの大問題です。現憲法は、被告人に証人審問権を保障しており、反対尋問をうけない鑑定書、供述などは証拠能力がないとされています。これをみてもいかに「外傷性ショック死」は証拠能力がないのは明らかです。

 この古畑鑑定は、宮永鑑定の解剖所見にもとづいて、事件から8年後に鑑定をおこなうという制約をもっていました。直接、死体を見て鑑定をおこなっているわけではない。しかも、鑑定書を丁寧に読むとわかるように、特高警察の当初のシナリオ――暴行がおこなわれたという与件にたって、死因を明らかにしようとしています。

 事件から43年後、代々木病院の中田友也医師によって再々鑑定がおこなわれました。中田医師にたいして「なんら法医学の専門家でなく、共産党の病院である代々木病院の副院長をつとめる外科医にすぎない」などと立花氏は悪罵を投げつけていますが、宮永鑑定の解剖所見をもとに鑑定するという点では、古畑鑑定と条件は同じであるという反面、特高警察の与件が与えられていないこと、戦後の法医学の発展をふまえたうえでの鑑定という、古畑鑑定の限界をつきやぶる側面をもっていました。

 この中田鑑定は、文献、死体検査記録、古畑鑑定にもとづきながら、比較検討をおこなって「小畑の死因は一般的にいわれている外傷性ショック死(2次性)ではない。特異体質による単なるショック死か、または急性心臓死であると推定されます」との鑑定をくだしました。これは宮本氏が治安維持法法廷で主張し、古畑氏との対決をのぞむ根拠となった矛盾を解明したものとして注目する必要があります。

 立花氏は、この中田鑑定にたいして「要するに、古畑鑑定の内容を否定したわけでなく、用語法が戦前といまではちがうということだけをいっているにすぎない。特異体質死や心臓死も『可能性として充分に考えられる』とするが、そうした体質かどうかは、解剖検査記録からはわからない」(238ページ)としています。冗談いっちゃあいけない。中田医師は、はっきりと「文献上からも死体検査記録ならびに古畑鑑定書からも小畑の死因は特異体質か、または急性心不全による急死であるとみるのが最も妥当であると思われます」とキッパリのべています。立花氏は論文をろくに読まずに人を中傷しているにすぎません。なお、中田医師は日本法医学学会の会員であり、これまでも法廷で法医学の専門家として証言している人物であることも指摘しておきましょう。

 (2)「法医学者A、B」と袴田とでかなでた四重奏

 文庫本Bの234ページから240ページは「連載」最終回の部分(付録@を載せて2年後)ですが、死因については、「ひかれものの小唄」のような惨状を呈しています。

 死因について立花氏はしきりに「法医学者」「法医学に造詣の深い人々」「法医学関係者」を引き合いに出して、自分の見解を正当化しようとしています。

 「(頭のなかにあったという傷について)古畑がそれを死因として取らなかったのは、脳の外表の傷とそれが必ずしも対応しないが故であった。これは、古畑がオーバーをかぶせてその上から殴るという手段がとられたことを知らなかったからだと見られ、その条件下では、これも死因ないし、競合した死因の一つと考えられるというのが現在の法医学者の見解である」

 「ほんとに法医学に造詣が深い人々の見解を伝えておけば、特異体質死などはまったく考えられず、むしろ絞扼殺による窒息死の可能性がきわめて大であるという」

 「結局、考えられている三つの死因、脳部位の損傷死、絞扼死、ショック症状いずれもそれぞれの可能性があり、むしろそれらの諸因が競合して死に至ったと考えるのが一番妥当だろうというのが法医学関係の一般的見解である」

 とんでもない法医学者がいたものである。だれがそんなアホなことを言っているかと巻末を見てみると「法医学者A」「法医学者B」ですと。恥ずかしくて匿名でしか載せられなかったのでしょうか。「暴行の手段」が明らかになったから、これも死因の一つとみられるという「法医学者」がいたらぜひお目にかかりたいものですが、そもそも法医学で言う死因をかんがえる手段というのは、殺害の手段が明らかになったからそれでよしとするものでありません。それを裏付ける証拠が遺体の解剖所見で証明されなければならないのです。その証明がなくても、目撃者などの証言があるからということで犯罪の手段が明らかにできるものなら、警察はいくらでも犯罪者をつくりあげることが可能でしょう。これは頭のてっぺんから足のつま先まで特高史観にそまった立花氏らしい考え方ですが、そんなデタラメは許されないのです。だから、法医学者である古畑氏は死因として採用しなかったのです。まったく法医学のイロハも知らないA、Bなる「法医学者」にたよって持論を展開せざるをえない立花氏には同情を禁じ得ません。

 ともかく、ここで「外傷性ショック死」という2年前の死因を維持できなくなった立花氏は「競合した死因」をもち出して自説を取り繕おうとしています。その3つのうち新しいものは、絞扼死ですが、これはかの古畑鑑定で次のように否定されている代物です。

 <本件被害者の頸部には索溝類似の陥没があり、内部頸部器官に甲状軟骨の左右大角部に麻実大の軟部組織間出血各1個存在しますから、これを頸部に外力が作用した痕跡と見られないことはありません。しかしながら、深く考慮してみるに前記の索溝を絞溝と確定するだけの確かな証拠がなく、かつ本死体には絞殺死に見られる症状が顕著に現れていません。よって本死体の死因を絞頸死と見るには、その根拠がかなり薄弱であります。私は絞頸死ではあるまいと考えます>

 もうたくさんだ!結局立花氏は、宮永鑑定にしろ古畑鑑定にしろ、予審調書にしろ自分の都合のいいところはとりあげるが、自分の都合の悪いところはまったく取りあげようとしていない。こんなもので人を信用させようとおもっても無駄なことです。

 こうして結局、1977年末当時、立花氏はまともな死因をあげることが出来なくなっていました。それどころか、この「日本共産党の研究」を書き始める直接の動機となったガセネタをめぐって鬼頭元判事補の裁判がはじまるなど、それに関係していた立花氏は憂鬱な日々をおくっていたのではなかったでしょうか。

 そこに出されたのが「週刊新潮」の袴田妄言でした。息も絶え絶えだった立花氏はさっそくこれに飛びつきます。

 「やはり小畑を殺したのは宮本だったのである。私もかなり前からたぶんそうではないかなと推測していたものの、こうして現実に、現場証人の口から、情景描写いりで宮本が小畑を殺す場面を微細にハッキリ聞かされると、ショックであった。小畑最後の瞬間は、袴田によれば、次のようになる。

 『小畑の右腕をねじ上げればねじ上げるほど、宮本の全体重をのせた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがてウォーという小畑の断末魔の叫び声があがった。小畑は宮本のしめ上げに息がつまり、ついに耐え得なくなったのである。小畑はぐったりとしてしまった』

 こうなると、宮本が小畑殺害の実行行為における主犯だったということになる」(文庫本B240から251ページ)。

 よっぽどうれしかったのでしょう。筆のすべりもグッとなめらかです。しかし、おぼれる立花氏が飛びついた船はとんでもないドロ船でした。

 「週刊新潮」での袴田の一文は、そもそも予審での取り調べに迎合してべらべらのべていたことを「宮本主犯」説へと脚色したものにすぎません。「赤旗」は、袴田妄言によれば、小畑は圧死ということになるが、それを証明するものは二つの解剖所見にもないことを指摘してきびしく批判しました。それにたいして、立花氏は「文芸春秋」78年3月号に「『袴田除名』の衝撃」と題した文章をのせ「反論」を試みます。それが、文庫本B240ページからはじまる一文です。

 立花氏は先ほど引用した文章につづけて、次のように「赤旗」の主張を批判します。

 「後者の論点に関しては、資料をあたればすぐに判明する明白なウソである。『赤旗』は次のように主張する。『かりに袴田の主張でいくと、圧死ということになり(以上は原文で立花氏が傍点をふったところ)、顔面や胸部にいちじるしいうっ血があらわれるはすだが、そんな所見は全然なく、背部の損傷とか内臓の異常とかもない」

 これは自分勝手に誤れる前提(傍点部分)を置いて、その前提のうえに話を積み上げていく、典型的な詭弁論法の一つである。「袴田の主張でいけば」圧死ではなく、窒息死であることは明白である(「小畑は宮本のしめあげに息がつまり」の部分)。そして窒息死であれば、共産党が代々木病院副院長の中田友也にさせた「再鑑定」(『前衛』76年9月号)とも矛盾しない。すなわち中田友也は、特徴的所見(A)として、『血液流動性暗赤色、粘膜、漿膜の溢血点が多い。諸臓器のうっ血が強い』点をあげ、『(A)は窒息並一般急性死体の所見である。(A)の徴候は急死体にみられる一般的所見であって決して窒息死にだけみられる特異的なものではないので、窒息死と判断するためにはその手段、方法が明らかになっていなければなりません』といい、手段、方法が明らかでないという理由だけで、窒息死をのけているのである。ここに手段、方法が明らかになったのだから、袴田証言は共産党自身の再鑑定とも矛盾しないのである。ちなみに、一般の法医学関係者たちの意見をきいてみても、袴田証言に解剖所見と矛盾するところはない。当時、袴田がこれと同じ証言をしていたら、窒息死の鑑定がくだされていただろうことは確実なのである」

 やれやれ4度目の「法医学関係者」のご登場である。しかし、これも自分で自分の足を打つ世迷いごとでしかありません。これについては、「赤旗」の「袴田妄言にとびついた『文春』立花隆の一文」から反論を紹介しておきましょう。

 まず第一に圧死とは「胸部或いは胸腹部圧迫による窒息のため死亡すること」(赤石英『臨床医のための法医学』南江堂、126ページ)をいうのであり、錫谷徹北大教授の「法医診断学」にも、「窒息を惹起する手段の種類」として、「胸郭圧迫」があげられ、「胸腹部圧迫により胸郭が圧迫・固定されて動かなくなる。いわゆる圧死はこの例である」と書かれています。袴田の「証言」は、まさに「圧死」なのです。「圧死」と「窒息死」をあいいれないもののようにいっている立花氏の議論はとんだお笑い草なのです。

 第二に中田論文を勝手に引用していますが、中田氏は、内部所見として窒息死の徴候があるからといって、それは一般急死体と同じ徴候であるから、これを「窒息死と即断してはならない」と戒めているのです。もし、胸部圧迫による窒息死(つまり圧死)なら、当然それを裏付ける顔面や上胸部にいちじるしいうっ血状態がなければなりませんが、二つの鑑定ともそのような記録はありません。

 第三に立花氏は、中田論文が「窒息死と判断するためには、その手段、方法が明らかになっていなければなりません」と述べているところに飛びついて、袴田によって「その手段、方法が明らかに」なったといっていますが、これこそ彼の法医学についての一知半解ぶりをしめしている典型です。一般的に法医学の専門家が「手段、方法」という場合、殺害や暴行の仕方のことをいっているわけではありません。その死因の原因となった痕跡が死体にあることをいいます。たとえば、縊死の場合は首などに索溝痕などが残っていることです。前にも立花氏は、古畑氏がオーバーの上からなぐったことを知らなかったから、頭のなかの傷を死因としなかったが、その方法がわかったのだから法医学者A、Bによると死因の一つとなるとのべています。くりかえすようだがたいした「立花法医学」である。

 第6章 戦前史の輝くたたかい

 いよいよ、付録「いわゆるリンチ共産党事件をめぐる事実関係の解明」の最後の項になりました。

 立花氏はこの最後の項で、@この事件を日本共産党のいうように、あまり大したことではないとするかぎり党史はゆがめられる、Aこの問題を歴史的文脈のなかで自己切開しないかぎり、この事件は歴史的事件として終わらず、現在的事件でありつづけるだろうとし、「大衆の信頼を獲得しようとするなら、なにより必要なのは、事実を直視する勇気ではないだろうか、と私は思う」と結んでいます(文庫本B218ページ)。

 この立花論文にたいする日本共産党と宮本氏の態度はどうだったか。すこしその当時のことを振り返ってみましょう。立花論文の連載がはじまった(75年12月10日)直後の中央委員会総会(第7回。75年12月20日)で、宮本顕治委員長(当時)はあいさつで次のように述べています。

 「むしろこの際わが党は、戦前の暗黒時代における諸党派と諸潮流の各分野での侵略戦争と絶対主義的天皇制奉仕の反国民的な役割をうきぼりにし、日本の戦前論をそれこそ豊富な科学的研究をもって深めてゆく絶好の機会にしたいと思います。多くの同志や支持者を権力犯罪の犠牲にさせられたわが党こそ、権力犯罪とその各分野の追随者たちを告発する資格があるだけでなく、その責任を負うものといわなければなりません」

 こうして歴史の偽造にたいする真実の側の反撃ははじまりました。その当時の日本共産党側の反論の主なものは、「特高史観と歴史の偽造」(日本共産党出版部)に収録されています。この反撃の過程で「宮本顕治公判録」(新日本文庫)も発売され(76年10月)、ほかの被告の供述や2つの鑑定の矛盾を批判する宮本氏の法廷闘争が明らかになりました。この公判記録をみると立花論文の主な論拠が完膚なきまでに批判されているのがわかります。立花氏の独断と偏見にもかかわらず、日本共産党の側にこの問題で隠すものは何もなかったのです。

 立花氏は、この反撃に「『赤旗』の大キャンペーンに反論する」と題する文章を「週刊文春」76年1月8・15日号にのせますが、それはこれまでも見たようにとても反論とはいえない代物でした。立花氏は、そのなかで日本共産党の反論を「ヒステリックなキャンペーン」「途方もない愚行」といって「悲しんだ」とのべています(文庫本B219から233ページ)。

 それにたいして「赤旗」は、76年1月11日から16日に連載した「反論をさけた『反論』」で次のようにのべています。

 「いったい立花氏は、日本共産党が、田中角栄氏と同じように、反論できないとでも考えていたのであろうか。本格的反論に戸惑っているのだとすれば、こっけいな話である。わが党の反論キャンペーンは、まだまだ序の口であって、『悲しむ』のにも早すぎる。立花氏も、すべての反共主義者とともに、まだいろいろと感じたり、知ったりすることが多いであろう」

 これは「犬が吠えても歴史はすすむ」「スパイ査問事件と復権問題の真実」発売前のことであり、実際に立花氏はこのあといろいろと感じたり、知ったりすることになる。後に立花氏はこう回想しています。

 「立花 『赤旗』が連日やるし、パンフレットが次々出るんだよね。『文化評論』『前衛』もやってくるし、『文化評論』では臨時増刊まで出してる。共産党が出したものは、一応最初は買ってたんだけど、そのうち買いきれなくなって(笑)、全部は買ってないんじゃない?しかし、共産党はすごい。パワーあるね。共産党側もこっちがここまでのことを書くとは思っていなかった部分があるんだよ。こっちはこっちで、ここまで反撃してくるかって思うところがあった。

 小林 お互いにそう思ってる。

 立花 だから今度は、宮本問題だけじゃなくて、歴史評価の問題でもすごく反撃してくるわけ。コミンテルンの歴史にしろ何にしろ、この辺が間違っているとか、向こうは共産党の歴史に関する専門家も論争のプロも、もともと山のようにいる。後年の角栄裁判をめぐる大論争は、この時、鍛えられた論争能力、学習の成果なんですよ。また、せいぜいあと1、2回で片づけるつもりの連載が2年もかかっちゃったのも、わりと初期からこれは生易しい相手ではないな、腹を据えてかからなきゃいけないなという感じになったこともあるんだね」(「文芸春秋」平成8年11月臨時増刊「立花隆のすべて」57から58ページ)。

 ともかく、立花氏が「日本共産党のアキレス腱」とみた宮本氏らの「治安維持法等被告事件」は、アキレス腱どころか戦前の特高警察のスパイ挑発に打撃をあたえ、急死したスパイをつかって「リンチ殺人事件」にデッチあげようとした特高シナリオも反動法廷で打ち破った日本共産党のもっとも強力なたたかいの一翼だったのです。

 第7章 だれの「法的身分」が問題なのか? 

 つぎに「文芸春秋」3月号に掲載された文庫本の付録(3)「いわゆる宮本委員長の復権問題について」の吟味にうつりましょう。

 この付録で立花氏は宮本氏の出獄がさも問題があるかのようにいろいろと描いています。まず、GHQの45年10月4日の「覚え書き」にもとづいて、司法省が10月5日にだした「通牒」で宮本氏が出獄したことに、刑務所がわがその理由付けとして病気を理由にした上申書をつくっていることをとりあげ、さも問題があったかのように描いています。しかし、宮本氏が10月9日に網走刑務所をでたのは、GHQの「覚え書き」による政治犯釈放としてであり、旧法体系にしがみつく司法省がその理由付けとして「病気保釈」としたことにはなんら宮本氏らに責任はありません。ここにも、ポツダム宣言にもとづく民主化をただしく評価できない立花氏のこじつけが顔を出しています。日本政府は、GHQにあてた10月22日付け「政治的、市民的、および宗教的自由にたいする制限の撤廃」という文書で「現在までに釈放された政治犯の総数は439人」とのべ、その氏名、年齢、釈放日、釈放後の住所、起訴内容などのリストをつけています。このリストに宮本氏の名前が記載されており、日本政府自身が政治犯として扱っていたことが明らかになっています。

 そもそも、暗黒法廷がこの事件で「被告」を裁いた基準は何だったのか?「被告」につけられた量刑をみてみましょう。

 宮本――無期懲役(「初犯」、非転向、完全黙秘)

 袴田――懲役13年、未決通算900日(非転向)

 秋笹――懲役7年、未決通算900日(公判で転向)

 逸見――懲役5年、未決通算900日(早期転向)

 判決文は「4被告」ともほとんど同文なのになぜこんな差が出るのか。それはこの裁判が特高警察にたいする敵対具合を尺度として行われたものであることはあきらかではないか。事実、宮本氏の公判でも、検事は、転向・非転向の別を重視し、宮本氏は完全非転向だから無期を求刑したとおおぴらにのべているくらいです。

 おもしろいのは大泉です。かれはこの事件では「被害者」という立場でありながら、公判で特高のスパイだったことを暴露してしまったために、「加害者」の逸見よりも200日だけ重い科刑となっていることです。これらをみても、この判決自身が刑法上の罪名などは全然無関係で、特高警察にたいする「従順度」を尺度に決められたことは明らかではないでしょうか。宮本氏にたいする刑罰自体が政治犯として扱っていることは明らかです。

 立花氏は、勅令730号の但し書きをたてに宮本氏らの釈放は問題だと騒ぎ立てています。これもまた彼の旧憲法的感覚を告白するものでしかありません。この但し書き自体が、日本政府による民主化サボタージュの産物でしかありません。それがどんなにばかげたことかは、たとえば治安維持法のほかに但し書きにある食糧管理法違反に問われた人物は、治安維持法がなくなっても治安維持法によって罰せられたという一事をもっても明らかでしょう。ポツダム宣言に立脚する当時のGHQがそんなごまかしを許さなかったのは当然です。この但し書きをもとに、宮本氏らの復権を妨げていた日本政府にたいしてGHQは1947年に完全復権をすることを求めました。

 その際、日本政府は恩赦(犯罪と刑罰はあったが、情けでそれを軽減する)で復権させようとしていたのにたいし、GHQは断固として勅令730号(政治犯の資格回復を求めたもの)で復権させるよう求めました。

 これについてのGHQの文書は、この問題の本質を明らかにして興味深いものです。その文書はいいます。「日本政府はこの事件を一般犯罪というより、むしろ政治犯罪とみなしているということを強調しておきたい。この犯罪の本質は政治的なものであり、政治行動の結果としてのみ一般犯罪の性格を伴うにいたったものである」、「日本政府は、この事件を基本的には政治犯罪であり、一般犯罪はたまたま付随したものであるとみなしたことになる」「日本政府はこの2人を、故殺によるよりもむしろ共産主義者であるという理由で裁判にかけ、有罪にした。…2人を裁き、判決を下したのは日本政府であり、その政府が2人を政治犯と認めているのである」(1947年3月26日、マイヤーズ覚書)、「2人が単に政治犯罪のみで有罪であり、同時に問われていた一般刑法犯については無罪だということになったのである」(1947年5月15日付マイヤーズ覚書)

 こうして1945年12月29日にさかのぼって、宮本氏は「将来にむかって刑のいいわたしをうけざりしものとみなす」という、刑そのものが存在しなかったものとして身分を完全回復したのです。

 この付録を書いて23年、この付録Bの歴史的価値が、宮本氏の復権にケチをつけることで、立花氏自身が権力犯罪の一翼をになったことを証明しているとは皮肉なことです。

 立花氏はこの付録の冒頭で、1月号で「スパイ査問事件」をとりあげたのは、日本共産党があんなひどい時代だったから多少の行き過ぎはしかたなかったと認めて、自己批判するか、開き直るかどちらかを選ぶチャンスを与えてやったのに日本共産党は全面否定に出てきた、それは無理があることだとして、次のようにのべています。

 「それにしても不思議なのは、なぜ共産党がこんなにも無理な議論を重ねてまで、執拗にリンチ事件全面否定にこだわりつづけるのかということだった。どうして、過去をして過去を葬らしむという態度がとれないのだろうか。そのためには、別に全面否定する必要はなく、一部肯定、一部自己批判とか一部開き直りとか、さまざまなことが可能なはずで、政治的にはどう考えても、そうした決着をつけてしまったほうがよいはずである。そこがかねがね疑問に思っていたところだが、最近になって、なるほどと思う事情が判明してきた。それは、すでに一部で議論がかまびしくなっている、宮本氏の復権問題である」(文庫本B250から251ページ)

 これまでもみたように、日本共産党はなかったことをあったというようにいうことはできないしその必要もない。ここで問題なのは、この連載を書き始める前に立花氏は「宮本身分帳」を手に入れていたにもかかわらず、「最近になって、なるほどと思う事情が判明してきた」とべていることだ。ほんとによくいうよ!立花という人物は、前にもふれたように読者が資料を手に入れにくいと事をいいことに平気でウソをつく。これが反動勢力との「かけあい漫才」だったことは、以前見たとおりだが、それをとぼけてみせる――とんでもない人物です。ほとぼりがさめてからの彼の告白をききましょう。

 「小林 次に、『文芸春秋』の昭和51年1月号(50年12月発売)からはじまる『日本共産党の研究』の話に移りますか。

 立花 要するに、これも『田中角栄の研究』の関連なんですよ。『文芸春秋』編集長の田中さんとしては、すごく心苦しい。『角栄研究』で、僕と完全に喧嘩別れの状態みたいになり、僕はもっぱら講談社で仕事するみたいになったわけですから。関係を修復したいという気持ちがずうっとあるんですよね。なにか仕事をやらせたいっていうか、やってもらいたいってことで、確かいろいろ提案があるのかな。そのうちの一つが宮顕(日本共産党・宮本顕治委員長=当時)。

 小林 取材が始まったのは昭和50年の10月ごろからでしたね。

 立花 まず、『文芸春秋』は宮本顕治の身分帳(網走刑務所に保管してある、過去の罪名その他個人情報を記入した台帳)を手に入れていた。それで、僕にそれが価値のあるものかどうか検討してくれという話になった。そこで、日本共産党史を溯って初めからたどってみることになる」(「文芸春秋」平成8年11月臨時増刊「立花隆のすべて」56ページ)。

 万事が万事こういうことだ。鬼頭判事補が網走刑務所からこれらの文書をもちだすためにどんな手をつかったのか。当時の刑務所長は上部機関である札幌矯正管区の森第二部長から、鬼頭判事補に便宜をはかってくれとの電話を受けたことを明らかにしています。こうして所長はやむなく鬼頭判事補にそれらの書類をみせた。そこには宮本氏の健康状態や通信記録、いわゆるプライバシーが記録されている。そんなものを手に入れて書き綴った「日本共産党の研究」。まさに謀略の一翼として暗黒世界から誕生してきたのが立花論文なのです。

 本来は権力犯罪に連座するはずだった立花氏。鬼頭が仲間の権力にすごんでみせたためにうやむやになっただけにすぎません。宮本氏の身分を云々するより自分の「法的身分」を心配したらどうでしょう?

 第8章 「立花隆のマインドコントロール」の研究

 みてきたように立花氏の「スパイ査問事件」についての記述は、自分の都合のいい史料をつなぎ合わせた代物です。ところがこの立花氏とその論文を絶賛し、日本共産党に攻撃を加える人たちがいます。

 「この『研究』は紛れもなく、歴史を変え、歴史を作った大いなる一冊です。この書が世に出なければ、立花隆がこのテ−マで書かなければ、日本共産党は現状とは全く異なる形で今存在していたことでしょう」、「恐らくこの『研究』は何度も何度も版を重ね、装丁を新たにされ、立花隆自身によって新しい『あとがき』が書き加えられてゆくことでしょう。実に偉大で素晴らしい作品です」、「ついに現代史の古典の地位にまで上りつめて、一般書店の店頭に並んでいる」、「本当にいつ読んでもこの書物の迫力は凄い」、「正直なところを申し上げて、総合的、分析的な観点からしても、細かな史料的ディテ−ルの観点からしても、この『研究』で全てが網羅され埋め尽くされていると言って決して過言ではないように思います。極論すれば他には何も要らないです。少なくとも、この問題(スパイ査問事件)を研究する上での社会科学の入門書としては、この『研究』以外のものは有り得ないと言い切れるでしょう」

 すごい入れ込みようです。人が誰をどの程度まで信じようがそれはその人の勝手です。麻原彰晃を信じても結構だし立花隆を信じても結構。だけど、サリンをまいたり、ウソを根拠に人を殺人者呼ばわりするのは絶対に許されないことです。

 ところで、冷静に総合的にみれば間違いがわかるものでも、読む人によってはこれほどまでに虜するのはなぜか?立花論文に仕掛けられた「マインドコントロールのしくみ」を検証したいと思います。

 そもそもこの立花論文はどういうふれこみではじまったか?

 「これは伝聞や推測によらず、資料と証言だけで構成した日本共産党の歴史であり、現代の代々木路線の本質はこれによっておのずから明らかにされるであろう。」これが連載第一号のリードコピーでした。

 当時、立花隆といえば75年新年号の「文芸春秋」で「田中角栄の研究」を発表し、田中角栄をおいつめたライターとして知られていました。その立花氏が書いた日本共産党史ということで、それまでは反共勢力の常ネタだった「日共スパイリンチ事件」は新たな装いで登場しました。まずこれがマインドコントロール効果をあげたことはいうまでもありません。

 さらに、立花氏は自分たちの仕事ぶりについて次のようにのべています。

 「私たちの作業室には、現在横に積み重ねれば、軽く30メートルに及ぶであろう資料がある。このほかに、文芸春秋社の資料室所蔵の資料は随時必要に応じて持ち込んでいる。また、新聞・雑誌のコピーが、やはり重ねれば1メートルにはなるであろう。その他に、関係者の証言テープ速記、聞き書きなどが、延べにして数十時間分はあるだろう(第3巻末の参考資料一覧参照)。

 共産党の反論の筆者のように私たちは要領がよくないので、この資料の山を前に徹夜の連続で悪戦苦闘してきたのである。あまり徹夜作業がつづくので、炊飯道具一式を作業室に持ち込んでいるくらいだ」(文庫本@253ページ)。

 「私たちの手法を公開してしまえば、手間はかかるが、さして困難なことではない。要するに、あらゆる資料(聞き書きもふくむ)をバラバラにして、同じ時代、同じできごとについての叙述をひとまとめにして、それを比較検討していくという、研究者なら誰でもやっていることだ。ただ私たちは、ゼロックスを利用して、分業でやっているから、コツコツ1人でやっている研究者より、より多くの資料をより早くこなせることと、天才的な整理魔が3人ばかりチームの中にいるために、大量の資料を消化するための独特のノウ・ハウを開発しているだけのことである」(前出255ページ)。

 当時は、ゼロックスなんて高級品でした。しかも1月号から3月号まで500万円、いまの貨幣価値になおすと3000万円をこえる金を投入した調査研究。これらは、日本共産党から特高警察までの膨大な資料(これは巻末にも掲載されている)とともに、「反共デマ宣伝とはちがった、客観的な日本共産党論」と読者に思わせる小道具の一つとなりました。じっさいこの議論のなかでも「立花論文は日本共産党の主張も紹介しているから客観的で正しい」と本気で信じた人もいたくらいでした。しかし、膨大な資料をあつめても、近代兵器を駆使しても、それを読みこなす人間が、その資料のどこが正しく、どこが間違っているかを判断できる能力がなければ、ただの紙切れでしかありません。それどころか、特高史観という色メガネで資料を読めば反共デマ雑文しか出来ないのに、やっている本人たちがそのことに気づかないとは哀れです。

 本文をみても、立花氏は相対立しあう資料・証言をつきあわせて、どこが正しくどこが間違っているか、検討した経過と内容を読者に示すことをほとんどやられていません。立花氏が「これはおかしい」「これは正しい」と断定しているだけです。証明はない。ときに「赤旗」の記事や宮本氏の発言ものせられるが、それは立花氏が言下に否定されるあわれな脇役でしかない。それはなぜか?立花氏は次のように述べる。

 「これは歴史学の論文ではないから、文中で史料評価のプロセスをいちいち書くことはしていないが――そんなことをしていたら、これに数倍する巻数が必要になる――どのくだりを書くにあたっても、各資料、証言の比較検討を可能な限り行い、現段階ではこれが最も信じ得るべきとされるものを選びとりながら書いてきたのである」(「単行本あとがき」文庫本B186ページ)。

 つまり読者は立花氏の書いていることを頭から信じるしかないというわけだ。「イワシの頭も信心」――じっさいに立花氏の書いたことを頭から信じた読者は、見てきたように特高史観へとマインドコントロールされたのではなかったでしょうか。げにまっこと思考停止は恐ろしいものです。

 おわりに
 立花論文については、ある思い出がある。70年代の終わりごろ中学時代の友人からこんな話がもちこまれた。「日本共産党を論破するといっている同僚がいる。おまえのことを話したら、ぜひあって眼を覚まさせてやりたいといっているがどうするか?」

 元来、議論好きの私としては願ってもないことで、早速友人の仲介で居酒屋で彼と会いました。その彼が展開したのが「立花史観」でした。ビールをのみながらの激論だったので、こちらもそうとうボルテージをあげてやりあいましたが、そのとき感じたのは、立花論文だけを唯一の基準として論だてる異様さでした。当時は「マインドコントロール」という言葉はありませんでしたが、その彼がしばらくして自殺したことをきいて「なるほど」と思ったものです。

 立花論文は、読み物としては面白かった。ある友人からつまらなくて途中でやめたと聞かされていたので、さぞ資料引用だらけかと思っていましたが、読み始めると実に面白い。とくに「リンチ事件」あたりは、前にも書いたがクライマックス中のクライマックスなので面白かった。これが立花論文の長所であり弱点なのでしょう。面白くなければ、いくら田中金脈追求で名をあげた立花氏の本でも読者は読まないし、その政治的効果はほとんどないからです。ナチスのプロパガンダの手段と方法をよくわきまえた企画だったと思いました。これは、立花氏がどう考えていたかは別として、「文芸春秋」サイドの黒い作戦はあたったとおもいました。

 まだ小畑がスパイだったかどうか(これは彼が査問2日目に逃亡を試みたことで実践的に決着のついていることですが)など、書き足りない部分もありますが、当方も「4月決戦」にむけてあわただしくなったこともあり、一応このテーマでの私の発言は終わりたいと思います。立花論文のミニマムでありマキシムである「スパイ査問事件」が、いかにデタラメで歴史的検証に耐えられないものか、立花論文自身とその掲載資料をつかって明らかにしたことで、この議論に参加した目的は達したと思います。もちろん、それでもなお納得しない人もいるでしょうがそれはそれです。(了)


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