日本共産党の創立七十八周年のこの記念の集会にたくさんの方がお集まりいただきまして、本当にありがとうございます(拍手)。また、全国で衛星通信をご覧のみなさんにも、ごあいさつを申し上げます。
総選挙と六中総
この記念日は、日本共産党の過去・現在・未来を考える日だと思っております。
現在でいえば、さきの総選挙がまず問題でありますが、残念ながら後退の結果になりました。しかし、あの謀略的な反共攻撃の嵐(あらし)のなかで、私たちが得た得票と議席は、たいへん貴重なものだと考えています。後退したとはいえ、比例区の得票が六百七十二万票、得票率一一・二%、小選挙区の得票が七百三十五万票、得票率一二・一%。これは三十九議席あるいは四十一議席を得た七〇年代の躍進の時期の峰を越えているものであります(拍手)。七二年の総選挙では、私どもは得票率一〇・八%で三十九議席を得ました。七九年の総選挙では、得票率一〇・七%で四十一議席を得ました。その峰を越えていることは明白であります。
今度の選挙の中で、わが党に投票していただいた多くの皆さまに感謝を申し上げるとともに、ご奮闘、ご協力いただいた全国の党員、後援会員、支持者のみなさんにも心から感謝を申し上げるものであります。(拍手)
私どもは、昨日(七月十九日)、第六回中央委員会総会を開きまして、第二十二回党大会を、この秋、十一月二十日から開催することを決定しました。この大会では、総選挙の総括をふまえて日本共産党がいかに前進するかの方針が中心議題になります。
選挙の総括そのものは、六中総では、党中央として大事だと思ういくつかの角度を提起する中間的なものにとどめました。これは全党の自由闊達(かったつ)な討論に期待してのことであります。すでに党の内外から、現在までに千通に近い意見が寄せられています。電話、ファクス、手紙などであります。この機会に、意見を寄せて下さったみなさんにお礼を申し上げるとともに、これからも多くの意見に耳を傾け、全国的な討論もつくして、選挙戦の実情を的確に反映した建設的な総括をすすめるつもりであります。(拍手)
十一月までの約四カ月間、国民の要求の先頭にたって奮闘しながら、選挙総括をふくめての討論を大いにすすめ、それを第二十二回党大会に結実させ、さらにそれを来年の都議選、参院選での前進の力にして、二十一世紀にむけての躍進の新たな出発点を築きたいと思うものであります。
さて、きょうの講演の主題でありますが、さきの選挙戦で集中的な反共攻撃の嵐をあびたということは、さきほど申しました。この攻撃は、いまの日本の改革についての私たちの政策、提案にたいしてではなく、党の歴史と綱領に矛先をむけての攻撃が多々ありました。すべてが事実と道理をゆがめての攻撃で、全党が奮起して果敢に反撃いたしました。若いみなさんも大いに奮闘されましたが、なかには歴史がわからないとの声もありました。
きょうはそういうことも考えながら、日本共産党の過去・現在・未来を考えるこの記念の日に、あらためて日本共産党の歴史について、また党の綱領についてお話ししたいと思うものであります。
党の戦前の歴史から――宮本名誉議長の1933年の事件とは
戦前の日本社会――「天皇を中心とした神の国」の実態は生やさしいものではなかった
まず日本共産党の戦前の歴史でありますが、反共派はとくに現在名誉議長である宮本顕治さんの戦前の事件にかかわる攻撃に集中しました。
この問題をよくわかっていただくためには、戦前の日本がどんな社会であったかということを見ていただく必要があります。
選挙の前に森首相が「日本は天皇を中心とする神の国」だという発言をして、戦前の日本と今の日本との区別もわからないのかと問題になりました。
「天皇を中心とする神の国」というのは、私どもが戦前の学校で教え込まれた当時の日本の姿そのものでしたが、その実態は、こういう言葉で簡単に表せるような生やさしいものではありませんでした。
当時の明治憲法には、第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第三条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」、こう規定してありました。天皇は、その言葉がぴったりあてはまるような無条件絶対の支配者であって、それを批判したり反対したりすることは絶対に許されない極悪の犯罪とされていたのが、戦前の日本でした。天皇の名でやられることを批判しようものなら、すべてが「国体を変革する」罪にあたる。中国などアジア諸国への侵略戦争も、日本は「神の国」なのだから、そのもとにアジア諸国を統一するために天皇が起こした「聖戦」だとされました。
今ではだれでも無法と認めるこの論理が、国家の強権をもって社会全体に強引に押しつけられたのが、戦前の社会だったのであります。
こういうなかで、日本共産党は一九二二年に創立されました。この国を「天皇を中心とする神の国」から「国民が主権をもつ民主政治の国」にしよう、国民の権利、とくに生活権を保障しよう、侵略戦争と植民地支配をやめさせよう――これが、戦前わが党の先輩たちが最大の任務としてかかげた目標でありました。しかし、この主張――いまでいえば当たり前の民主主義と平和の主張のために、日本共産党は生まれたその時から、その存在自体が弾圧の対象となり、非合法の政党とされたのであります。同じころ、世界各国で共産党は生まれましたが、最初から非合法にされたのは、今沖縄に集まりつつあるサミット諸国のなかでは日本だけのことでした。
そして、日本共産党が生まれてすぐ、当時の政府は治安維持法というものをつくりました(一九二五年、二八年に死刑法に改悪)。これは、国体、つまり天皇絶対という反民主的な政治の体制を変えようとすることを、「国体の変革」の罪として、最高は死刑にするということを決めた、本当の民主主義弾圧法でした。その法律にもとづいて日本共産党への弾圧がおこなわれましたが、この迫害は一九三一年に中国への侵略が始まった時期からとりわけひどいものとなりました。戦前の弾圧といえば、特高警察――日本共産党などを弾圧することを専門にした特別高等警察の存在がいつも問題になりますが、この警察の活動も、中国侵略の開始とともに、いよいよ本格的になりました。
そして、政党のなかで戦争反対を貫いたのは日本共産党だけでしたから、三〇年代には、とりわけその迫害が激しいものとなったのです。 共産党員を逮捕したら、その場で死ぬまで拷問する、こういうことも珍しくはありませんでした。わが党の中央委員で上田茂樹さんという人は、一九三二年四月につかまったことまではわかっているのですが、その後の消息は不明で、どこでいつ殺されたかも今日までついにわからないままであります。中央委員の岩田義道さんは、同じ年の十月に逮捕されましたが、逮捕の四日後に拷問で殺されました。作家の小林多喜二さんは翌三三年の二月に逮捕されましたが、七時間後に絶命しました。やはり党の中央委員だった経済学者の野呂栄太郎さんは三三年の十一月に逮捕され、拷問をうけて三カ月後に死亡しました。こういうことが相次いだのであります。
特高警察はそういうことをやるために、スパイの網の目をはりめぐらせ、党中央にもスパイが潜入しました。今あげた人たちの多くは、そういうスパイの手引きで逮捕され、殺されたのです。その当時の彼らの手口は本当に前代未聞の卑劣なもので、送りこまれたスパイが党の幹部になり、銀行襲撃のような犯罪を自分で計画してそれに党員を動員する、そしてそれによって日本共産党の名誉を傷つけるということまでやったのです。
法廷闘争をただ一人傍聴した宮本百合子の「日記」から
二十五歳の青年だった宮本顕治さんが中央委員として党中央に入ったのはそういう時期でした。一九三三年であります。そして宮本さんたちが、中央に入りこんでいた二人のスパイの存在に気づいて調査をおこないました。それによって、さっき申しました野呂栄太郎の逮捕も、スパイの手引きによるものであることが証明されました。
しかし、この過程で不幸な事件が起きたのです。二人のスパイのうちの一人が、調査の途中、急性の心臓死を起こしました。
宮本さんが逮捕されたあと、この事実を知った特高警察は、これを「指導権争いによるリンチ殺人事件」として大々的な宣伝をおこなったのです。こんどの選挙中にまかれた反共ビラは、このとき特高警察が作り上げたデマ宣伝、「リンチ殺人事件」ということをそのまま蒸し返したものであります。
しかし、事実は、党内の「指導権争い」などではなく、党に潜入したスパイにたいする調査でした。このことには、後日談があるのですが、そのとき調査の対象になった一人はその後警察に捕らえられて裁判にかけられました。特高警察は、スパイの存在を認めませんから、この人物は自分たちが送りこんだスパイだということを認めないまま、共産党の幹部として起訴したわけです。その当人があわてて、「私はそうじゃないんだ。特高警察の課長の命令で――毛利という課長なんですが――送りこまれてこういうことをやったんだ」と、一生懸命法廷で弁解するのですが、特高警察と通じていた法廷は、そういう証言はとりあげないで有罪にしました。こういうことがあとでおきたぐらい、特高のスパイ政策はスパイのご当人も認めた明瞭(めいりょう)なものだったのです。
そして当時、スパイにたいするわが党の最高の処分は、除名してそのことを天下に公表し、二度とそういう活動ができないようにする、こう明瞭に規定されていました。そういう中で起こった不幸な事件だったのであります。
逮捕された宮本さんは、このデマ宣伝を打ち砕くために、獄中でも法廷でもたたかいましたが、私はこの闘争は歴史の記録に残るものだったと思います。
とくに、当時の党の幹部で、同じくスパイの調査に参加したほとんどの人物が攻撃におびえて党の立場を捨て、警察に迎合的な陳述をする、そういうなかでの、いわば極限的な困難に追い込まれたなかでのたたかいでした。しかし、このたたかいは自分とその名誉を守るというだけでなく、不当な誹謗(ひぼう)・中傷をくつがえして日本共産党の名誉を将来にわたって守るためのたたかいだとして、宮本さんは全力をあげて取り組んだのであります。
宮本さんはどんな拷問にも屈しないで、密室での取り調べはすべて拒否し、そして法廷に出たときには道理をつくしてたたかうという態度を堅持しました。
法廷のたたかいは途中で(宮本さんの)病気で中断され、最後の裁判は戦争が終わる前年、一九四四年の十二月まで続きましたが、まさに戦争中の法廷であります。妻の宮本百合子さん以外には、被告の側に立つ傍聴人はだれひとりいない、そういうなかでのそれ自体がきびしい法廷でしたが、そこで、道理をつくす法廷闘争を、諄諄(じゅんじゅん)と事実をとき明かす、こういう態度ですすめたのであります。
宮本百合子さんは、この法廷に参加して「日記」に記録を残しています。彼女自身、夫の宮本顕治さんの口から事の真相を聞くのは、この法廷が初めてでありました。そこで、初めてそういう事実を耳にしながら、「日記」や手紙にそのときの思いを記録しています。
そのいくつかを紹介したいと思います。一つは一九四四年九月二日。第四回公判を聞いての日記であります。
「極めて強烈な印象を与える弁論であった。詳細に亙る弁論の精密適切な整理構成。あくまで客観的事実に立ってそれを明瞭にしてゆく態度。一語の形容詞なく『自分としての説明』も加えず。胸もすく堂々さであった。……リアリズムというものの究極の美と善(正直さ)を感じる。深く深く感動した」
これが初めて事実を聞いた百合子さんの感想です。
次の公判では、そのことの文学的な値打ちにも触れて、のべられています。
九月十四日、第五回公判。「品位にみちた雄弁というものが、いかに客観的具体性に立つものかを痛切に学ぶ。彼は、一つも自分のためには弁明しない。只事実を極めて的確に証明してゆく。こうして、私は、事実はいかに語らるべきものか、ということについて、ねぶみの出来ない貴重な教育をうけつつある。ああ自分もああいう風に語れたら」
百合子さんは宮本顕治の法廷での陳述を聞いて、自分自身がその事態のなかの人物の一人でありながら、自分のための弁明とか、自分の立場からの説明というものを一切加えないで、客観的に事実をずっと積み上げてゆくなかで、何が真実かを明らかにしてゆく、そのことを重く受け取ると同時に、そのことが自分の文学にとってもつ意味を体でくみとったわけですね。
私は、百合子さんは、実際、そのとき受けた思いを戦後の作品に生かしたと思います。『播州平野』、『風知草』、『二つの庭』、『道標』など、多くの作品が戦後書かれました。このなかでは、宮本百合子さん自身が「ひろ子」、「伸子」という名前での登場人物でありました。しかし、自分自身がそこに登場していながら、それこそ自分としての説明を一切加えないで、自分を含む社会の展開をリアルに描き出してゆく、これは彼女自身が編み出した創作の方法ですが、宮本百合子さんにこういうところまでの影響を与えるほど、法廷での堂々たる弁論が展開された。私はここに非常に感銘を受けるものです。
こういう法廷闘争の結果、戦時中のあの無法な法廷でも、「不法監禁致死」などいくつもの罪名をなすりつけはしたが、肝心の「殺人」という罪をなすりつけることはできなかったのであります。治安維持法違反が主で、無期懲役の判決が一九四四年十二月五日に下されました。
この治安維持法違反については、戦後の民主化のなかで、一九四五年十月、政治犯として釈放されて決着がつきます。当時の政府は、そのほかのことがあるじゃないかとがんばったのですけれども、一九四七年五月には、日本政府がそのすべてについて全面的な復権を認めざるを得なくなり、「復権証明書」を出しました。
五月に東京地方検察庁の検事正、木内曾益氏の名前で出された「復権証明書」には、先の判決について「将来に向て其の刑の言渡を受けざりしものと看做(みな)す」、要するになかったことにしようということが書かれたわけであります。
このように、この問題は、戦争中の暗黒裁判の問題として、政治的にも法的にも完全に決着のついた問題であります。
だからその後、一九七六年に、民社党という反共政党がこれを国会に持ち出したときにも、結局、その攻撃は成功しませんでした。しかし、失敗しても失敗しても、これを反日本共産党という目的のためには繰り返し持ち出す。そのこと自体が、自分が戦前の暗黒政治の後継者であることを告白しているのと同じではありませんか。(拍手)
数十万の人々を弾圧した暗黒政治の決着はまだつけられていない
私がさらに強調したいのは、この事件は決着済みだが、戦前の暗黒政治そのものの問題はまだ決着がついていないということであります。
私は、一九七六年に民社党などの反共政党が、この事件を国会に持ち出したときに、(衆院)予算委員会でこうのべました。
「この治安維持法によってどれだけの人が共産主義者の名をもって逮捕されたか――完全な統計はありませんが、司法省の調査によってみると、検事局に送検されただけでも七万五千六百八十一名です。送検されない段階の逮捕を合わせれば、これが数十万に上ることは容易に察知されることです。
しかも、治安維持法で逮捕された被告に対してはあらゆる人権が認められませんでした。そのために多くの人びとが共産党員として命を落としました。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟という組織が調査したところによりますと、逮捕されて、現場で、留置場で拷問などによって虐殺された者が六十五名、そういう拷問、虐待が原因で獄死した者が百十四名、病気その他の理由で死亡した者が千五百三名、全部で千六百八十二名が、わかっているだけでも治安維持法によって逮捕され、虐殺され、死亡しているわけです」(衆院予算委員会総括質問、一九七六年一月三十日)
ここでつけくわえますと、この勇気ある不屈の先輩たちのなかに、党幹部だった夫の裏切りにもめげないで最後まで節を貫いた伊藤千代子さんや、コンパクトに「闘争・死」という言葉を残して獄死した飯島喜美さんなど、多くの若い女性たちがいたことを忘れることはできません。いま名前をあげたこの二人は、ともに二十四歳の若い命を落としたのであります。
このときの予算委員会で、私がこういう事実をあげて、治安維持法をどうみるかということを質問したのにたいし、当時首相だった三木武夫氏は、“戦前の法律のことだから私がいろいろ価値評価をいたす立場ではない”と逃げました。再度の質問にたいしてもようやく「今日の事態から考えると、好ましい法律であったのではない」というにとどまりました。
三木武夫氏でさえそうだったわけです。これは、あの暗黒政治が国政を担う政権党としてまったく清算されていないことの現れでありました。
しかし歴史の審判は、すでに明白であります。日本共産党が多くの犠牲者を出しながら、「主権在民の民主主義の旗」、「侵略戦争反対の平和の旗」をかかげたことは、わが党の誇りある歴史であります。(拍手)
それは、日本共産党にとってだけ意義を持つことではありません。このたたかいがなかったら、民主主義も、平和も、すべてが敗戦による外国からの輸入品だということになってしまうではありませんか(拍手)。明治初期の自由民権運動以来の、民主主義の伝統をになってのわが党の戦前の活動と役割には、まさにその意味で、国民的な意義があったのであります。
そのことを強調して、次の問題、戦後の歴史に移りたいと思います。
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