更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).5.16日
小林秀雄と宮本顕治が、昭和4年、当時、もっとも権威ある総合雑誌だった「改造」が主催した「新人賞応募論文」で、一等を競い合い、ほぼ五分五分の評価を受け、一等と二等に別れたが、二人とも共に、文壇や論壇にデビューすることになった事件は、日本の近代文学史においてだけではなく、日本近代史全体にとっても 、極めて重要な大事件であった。後に、日本共産党委員長や議長、あるいは参議院議員として、左翼や左翼論壇の雄として活躍する宮本顕治が 、日本の近代批評の創設者と言われることになる小林秀雄と、若い日に、奇妙な接点を持ち 、微妙な因縁で結ばれているということは、やはり大事な歴史的記録と言わなければならないだろう。あまり多くを語らなかった二人だが、宮本顕治は、小林秀雄が死んだ時、コメント(談話)を残している。
《 朝日新聞昭和58年3月1日(夕刊)
「別々の道でも相交わる一点」 宮本顕治氏(75歳)の話
「改造」の懸賞論文に二人が入選したことなどから、何かにつけて並べて語られるが、小林氏と直接の面識はない。それというのも当時の入選者には、今日のような授賞式めいたものはなく、私は一人で出向き小さな応接室で懸賞金をもらったからだ。文学的デビューで私は社会主義の立場から、彼は近代個人主義の立場からの批評であって、文学的にも社会的にも別々の道を半世紀にわたって歩いたわけだ。戦後、鎌倉の今はなき正木千冬さんが革新市長に立候補したとき、共産党も推したが小林氏らも正木氏の後援会の一員として推していることが分かり、双方の人生に珍しく相交わる一点を感じて感慨があった。いずれにしても、因縁のある同時代人の訃報に接し、さびしい。》
宮本顕治の「さびしい」という言葉を、白々しいと受け止める人も少なくないだろうと思う。しかし、私は、他の誰の追悼文よりも、深く胸にしみる。朝日新聞記者は 、「改造」新人賞の時のエピソードを知っていて、宮本顕治に取材を申し込み、宮本顕治も快く取材に応じたのだろう。そして、宮本顕治も、記者の期待に応えて、静かな口調ながら、感動的なメッセージを残してくれたのだろう。言うまでもなく、小林秀雄の「文芸批評」は、マルクス主義や共産党との対決の歴史であった。少なくとも、小林秀雄の前半は、あるいは戦時中は、マルクス主義や共産党批判が、主なテーマだった。当然、宮本顕治も 、小林秀雄を煙たい存在と見ていただろう。しかし、宮本顕治は、それをお首にも出さず、淡々と、若き日の旧友の死を悼むように、「さびしい」と言っている。私は、宮本顕治という存在に、何の愛着も、好悪の感情もないが、宮本顕治の小林秀雄追悼の言葉には、深く感動した。言い換えれば、ライバルであったはずの共産党議長をも巻き込むだけの深い「深淵」を抱えていたということだろう。要するに、文学や批評というものは、政治的党派性とは無縁であるばかりでなく、その党派性を超えて、深いところで 繋がっているのである。おそらく、立場が逆だったとしたら、小林秀雄も、同じようなコメント(談話)を残していただろう。(続く)
〓〓〓〓以下引用〓〓〓〓
民衆が新しい明日の芸術を創造する。これは、事実上芥川氏自身が自らに向けた否定の刃(やいば)ではないか。あらゆる天才も時代を超えることはできないとは、氏のたびたび繰り返したヒステリックな凱歌であった。こうした絶望そのものが、「自我」を社会に対立させるブルジョア的な苦悶でなければならない。
この作家の中をかけめぐった末期の嵐の中に、自分の古傷の呻きを聞く故に、それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシを打ちおろさなければならない。 (「敗北の文学」より)
小林秀雄とマルクス主義との関係に、最初に着目し、重視したのは、『 日本の思想』における丸山眞男です。他には、「小林秀雄は、マルクスを、マルクス主義者たちより、よく読んで、理解していた。」と言ったのは吉本隆明です。小林秀雄の友人や関係者、あるいは小林秀雄研究者、小林秀雄の愛読者、小林秀雄ファンではありません。中島健蔵によると、小林秀雄自身も、学生時代に、「マルクスはただしい。ただそれだけだ」と言っていたそうです。要するに、小林秀雄フアンや研究者などは、この問題に関しては、ほとんどアテになりません。小林秀雄の問題(批評)は、頭の悪い研究者や単純素朴フアンの眼には見えません。敵であれ味方であれ、丸山眞男や吉本隆明のような、一流の学者や思想家にしか見えません。 「昭和4年」当時、マルクス主義、プロレタリア文学、あるいは共産主義、共産党・・・は、破竹の勢いで、日本列島を襲っていました。若い学生や青年たちは、マルクス主義や共産党に洗脳され、「革命前夜」の様相を呈していました。それに危機感を抱いた政府は、悪法と言われる「治安維持法...」を成立させ、この治安維持法を武器に、共産党弾圧に乗り出します。そして、昭和3年の共産党大量検挙から昭和4年の共産党幹部大量検挙事件へと発展し、共産党は、壊滅的な打撃を受け、その結果、共産党は、非合法の武装共産党時代を迎えます。同時に「転向の季節」がやってきます。いわゆる吉本隆明の『転向論 』で有名な佐野学、鍋山貞親等も、この時逮捕され「転向声明文」を書くことになります。いずれにしろ、宮本顕治が、『 敗北の文学』で、高らかに「革命文学宣言」(笑)を歌い上げた時、マルクス主義も共産党も、受難の時を迎えていたのです。宮本顕治自身も 、後に逮捕され、終戦まで、12年間、獄中に繋がれていました。また、有名なプロレタリア文学作家・小林多喜二も逮捕され、築地警察署で、激しい拷問の末、殴り殺されています。こういう時代に、小林秀雄は、文芸批評家としてデビューし、その後も一貫して、反左翼、反マルクス主義、反共産主義・・・の立場から言論活動を展開していきます。小林秀雄が対決しなければならなかったのは、強大な、原理的、実践的、倫理的な大思想としてのマルクス主義でした。小林秀雄が、近代文学史や近代思想史に大きな足跡が残せたのも、強大な大思想としてのマルクス主義のおかげかもしれません。
〓〓〓〓以下引用〓〓〓〓 《凡そあらゆる観念学は人間の意識に決してその基礎を置くものではない。マルクスが言ったように、「意識とは意識された存在以外の何物でもあり得ない」のである。或る人の観念学は常にその人の全存在にかかわっている。 その人の宿命にかかわっている。》(『様々なる意匠』) 〓〓〓〓引用終了〓〓〓〓
小林秀雄は、マルクス主義、ないしマルクスの言う「共産主義」を信奉す共産主義者や共産党員等を前に全力で闘っている。革命前夜とも言われたマルクス主義全盛の時代に、孤軍奮闘の厳しい闘いを強いられている。この闘いの歴史と成果が、「小林秀雄的批評」にほかならない。その時 、切り札として使ったのが、『様々なる意匠』の中の次の言葉である。小林秀雄の殺し文句は、以下である。 〓〓〓〓以下引用〓〓〓〓... 《凡そあらゆる観念学は人間の意識に決してその基礎を置くものではない。マルクスが言ったように、「意識とは意識された存在以外の何物でもあり得ない」のである。或る人の観念学は常にその人の全存在にかかわっている。 その人の宿命にかかわっている。》(『様々なる意匠』) 〓〓〓〓引用終了〓〓〓〓 この小林秀雄の文章が、すんなりと理解できる人が何人いるだろうか。おそらそう多くはないだろう。しかも、小林秀雄は、マルクスの言葉を使って 、マルクス主義者たちを批判しているのである。「意識とは意識された存在以外の何物でもあり得ない」は、『ドイツ・イデオロギー 』の中の言葉である。このマルクスの言葉を、小林秀雄は、正確に理解した上で、使っている。意識、あるいは思想や理想は、「意識された存在」、つまり思い描いた観念、頭の中で考えた空想でしかない、と。ここで 、小林秀雄が批判しているのは、マルクス主義者や共産主義者だけではない。保守主義者も右翼民族主義者も、芸術至上主義者も大衆文学至上主義者も、およそあるゆる「主義者」の思想を、「観念論」として批判しているのである。むろん、小林秀雄は、あらゆる思想を批判しているわけではない。では、小林秀雄が認める思想とは、どんな思想か。それが、次の言葉だ。 《 或る人の観念学は常にその人の全存在にかかわっている。 その人の宿命にかかわっている。》 小林秀雄は、「その人の全存在にかかわいる」ような思想 、「その人の宿命にかかわっている」ような思想は、認めている。つまり、本を読んで習い覚えたばかりの思想、大学で習い覚えたばかりの思想、あるいは外国留学で習い覚えたばかりの思想・・・というような、時間が経つとすぐにメッキが剥げてしまうような思想を、ホンモノの思想と選別し、厳しく批判しているのだ。小林秀雄の「マルクス主義批判」と前後して、マルクス主義やマルクス主義者たちの転向・崩壊・壊滅が始まるが 、それに、小林秀雄の鋭い「マルクス主義批判」が大きな影響を与えたことは間違いないが、しかし、それがすべてではない。政府・権力側による「弾圧」によって、マルクス主義や共産主義 、あるいは共産党は、衰退と壊滅を余儀なくされたというのが、歴史的経緯である。しかし、それが歴史的事実としても、小林秀雄の「マルクス主義批判」を、軽視は出来ない。(続く)
(私論.私見)