補足・スターリン圧制下のソ連での山懸他党員の粛清について |
(最新見直し2006.5.25日)
【「片山潜、山本懸蔵、野坂参三の疑心暗鬼関係考】 | |||
加藤哲郎教授の 「『三二年テーゼ』と山本正美の周辺」他労作から窺えることは、「片山潜、山本懸蔵、野坂参三の疑心暗鬼と確執、いいかえれば新革命戦略どころではない日本共産党モスクワ指導部頂点での深刻な分裂・対立が浮上してくる」。以下、概要を辿って見たい。 片山潜と野坂とは疎遠で、とりわけ片山が野坂を嫌悪していたと伝えられている。鈴木茂三郎の「ある社会主義者の半生」の中で、次のような興味深い箇所がある。
その野坂のモスクワ滞在時の犯罪として「山本懸蔵スパイ疑獄事件」がある。これは永らく噂段階であったが、ソ連崩壊後各資料が漏洩されるに及び、動かし難い証拠資料を突きつけられることになった。野坂除名への一瀉千里の道程となった。
山本懸蔵による片山潜への逆襲か、1930年秋、「勝野金政逮捕、根本辰国外追放事件」が発生する。これは、山懸の密告により為されたことが今日判明している。山本懸蔵がコミンテルン執行委員会人事部へ国崎定洞を密告していた記録が、「国崎定洞ファイル」に残されているとのことである。つまり、山懸が勝野金政を秘密警察に売り渡したという構図になる。 自分を慕ってきた根本辰と、自分の活動の手足である秘書勝野金政を奪われた片山潜は、1930年12月、山本懸蔵の3.15逃亡疑惑を裏付けるため、たまたまヨーロッパに滞在中の医師馬島們をモスクワに呼びつけ始末書を取ろうとした。東京労働者診療所の馬島は、山本懸蔵の3.15逃亡劇の主役の一人であった。だが「山本懸蔵=スパイ」容疑の確たる証拠をとれなかったようである。 こうした経過から、片山−山本の両者間の関係はぬきさしならないものとなった。そこに1931年春、野坂参三がモスクワに現れ、いわばキャスティング・ボートを握る調停者として片山潜・山本懸蔵の間に入った。こうして、在ロシア指導グループは、片山潜・山懸・野坂のトロイカ体制となった。但し、片山潜も山懸も野坂を疑惑するという複雑な状況に陥っていた。
そうこうしているうち1933年11月、片山潜が病死し、在ロシア指導グループは野坂と山本の二人になった。「国崎定洞粛清事件」、「山本懸蔵スパイ疑獄事件」がここから発生する。その頃ソ連の雑誌では「外国に居住する日本人はみなスパイであり、また外国に居住するドイツ人はみなゲシュタポの手先である」と公言されていた。この時代を自己保身を重ねて無傷で生き残りえたのは野坂参三だけであった。 |
【「山本懸蔵スパイ疑獄事件」】 | |||
「山本懸蔵スパイ疑獄事件」については次の通りである。1937(昭和12)年頃にスターリンテロリズムに遭い投獄される身となった。この時に果たした野坂の役割が胡散臭く、むしろその裏画策人であったのではないのか、山懸を救出する素振りを演出しながら何もしなかったという事件である。次のようにコメントされている。
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【「国崎定洞粛清事件」】 |
この時期の野坂の犯罪については山懸事件問題だけに限らない。加藤哲郎教授の「粛清連鎖のなかの国崎定洞」問題もある。以下要約すると次のようになる。 国崎定洞は、1894年生まれの医学者で、日本の社会衛生学の開拓者である。東京帝大医学部助教授として留学中の1928年にドイツ共産党に入党し、日本語部責任者として、千田是也、勝本清一郎、小林陽之助、野村平爾ら在独日本人の反戦反ナチ活動を指導した国際的革命家でもある。ベルリン日本人反帝グループの代表としてアムステルダム国際反戦大会に出席した直後、1932年9月4日に片山潜の招きでモスクワに亡命、1937(昭和12).8.4日に逮捕され、12.10日に銃殺された。ソ連での生活は5年ほど、いわゆるスターリン粛清による日本人犠牲者の一人である。 国崎定洞のソ連での粛清・客死が明らかになったのは、1974年のことである。ベルリン時代の友人鈴木東民夫妻が、西ベルリンの電話帳を手あたり次第にあたって、フリーダ夫人・遺児タツコの存命を奇跡的に確認した。フリーダ夫人は1960年頃に、ベルリンのソ連大使館から夫国崎定洞のソ連での死亡を口頭で通知されていた。それを後追いして、日本共産党もソ連共産党に問いあわせ、国崎定洞の1937年8月4日の逮捕、12月10日「獄死」の命日、1959年法的「名誉回復」の事実が明らかになった。1932年にソ連亡命後の国崎が、クートベ(東洋勤労者共産主義大学)大学院に学び、外国労働者出版所で働いていたこと、片山潜の死後なぜか国崎は在ソ日本人のなかで孤立したこと、フリーダ夫人は夫の生死も不明のままスターリンのソ連からヒットラーのドイツへと強制送還され娘とともに苦難の生活を強いられたことなどが、フリーダ夫人の証言で判明した。 モスクワでの国崎定洞については、謎につつまれタブーにされてきた。1930年代後半にソ連で行方不明になったのだから「偉大な同志スターリン」によって暴かれた「帝国主義の手先・スパイ」であったろうという憶測が戦後の日本共産党周辺でささやかれ、党幹部から公然と語られていた(神山茂夫「武装メーデー事件」『文藝春秋臨時増刊・昭和の35大事件』1955年8月)。しかし、国崎定洞の逮捕・粛清の理由は、依然謎に包まれていた。「しのぶ会」事務局の川上武と私は、国崎の伝記を改訂し遺稿集を編んで、その粛清の理由を、ベルリン時代の国崎がドイツ共産党反対派として後に粛清されたハインツ・ノイマン、ヴィリ・ミュンツェンベルグらと親しかったこと、1936年に国崎がスペイン戦争国際義勇軍に志願しソ連出国を拒否されたのでそれが「トロツキスト」と疑われたのではないか、と推定した(『流離の革命家』1976年、『社会衛生学から革命へ』1977年、共に勁草書房)。 ところが1989年のベルリンの壁の崩壊、91年のソ連解体は、全く予想外の国崎定洞粛清の真相をもたらした。日本共産党名誉議長野坂参三の失脚・除名を導いた小林峻一・加藤昭『闇の男』(文藝春秋社、1993年)の付録資料のなかに、国崎の名が出てきた。そこには1959年10月のソ連最高裁判所「国崎定洞の名誉回復決定書」も入っていた。私たちはそれらソ連共産党文書館秘密資料「国崎定洞ファイル」を解読して、粛清の真相をつきとめた。国崎の「獄死」は「銃殺」であった。国崎定洞の場合は、自己の冤罪についての供述記録がクレムリンの秘密資料館に残され、それが瓦解・流出したことで、自己も共有した20世紀のユートピアにはらまれた逆説を論証し、21世紀に人間解放を求める人々に警鐘を鳴らすことができたのである。 「売った」のは山本懸蔵であった。その詳細は、加藤『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)、『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994年)、及び川上・加藤共著の決定版伝記『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)に記したが、モスクワでの国崎定洞は、党籍はドイツ共産党のままでも多くは日本共産党関係の仕事に従事していた。国崎をモスクワに招いた当時の片山潜は、日本からやってきた指導者山本懸蔵・野坂参三と折り合いが悪かった。特に片山と山本はたがいに「スパイ」と疑いあっており、片山死後の1934年秋から、後見人を失った国崎は、山本の密告によりソ連秘密警察にひそかに監視されていた。銃殺時の国崎のスパイ容疑は東大助教授就任前の兵役中に陸軍諜報部とつながったということであったが、「ファイル」を仔細に検討すると、入国時からモスクワ日本共産党指導部内の疑心暗鬼に巻き込まれ、プチブル出身の片山派として山本に逆恨みされ秘密警察に売られていた。 国崎と同期に粛清された1930年代ソ連在住日本人は、国崎を売った山本懸蔵夫妻や野坂参三夫人龍を含め約40人が確認された。その他40人余が逮捕・銃殺・強制収容所送り・国外追放になった可能性が高いが行方不明のままである。そのほとんどは、片山・山本・野坂・国崎の4人の指導者との政治的・人的つながりがそのまま「スパイ団」とされたものであった。在ソ日本人コミュニティは、連鎖的に粛清されて壊滅した。 |
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れんだいこが思うに、国崎定洞を売ったのが山本懸蔵かどうか、野坂の関与があったのか無かったのか不明と思われる。むしろ、「この時代を自己保身を重ねて無傷で生き残りえたのは野坂参三だけであった」点をこそ凝視してみたい。結果的に、「野坂参三が知り得た情報によって、1・山本懸蔵粛清、2・国崎定洞粛清、3・片山千代のその後の不遇が引き起こされることになった」という視点の方が正確なのではなかろうか。 |
(私論.私見)