補足・スターリン圧制下のソ連での山懸他党員の粛清について

 (最新見直し2006.5.25日)

【「片山潜、山本懸蔵、野坂参三の疑心暗鬼関係考】

 加藤哲郎教授の 『三二年テーゼ』と山本正美の周辺他労作から窺えることは、「片山潜、山本懸蔵、野坂参三の疑心暗鬼と確執、いいかえれば新革命戦略どころではない日本共産党モスクワ指導部頂点での深刻な分裂・対立が浮上してくる」。以下、概要を辿って見たい。

 片山潜と野坂とは疎遠で、とりわけ片山が野坂を嫌悪していたと伝えられている。鈴木茂三郎の「ある社会主義者の半生」の中で、次のような興味深い箇所がある。

 「極東民族大会に先立って先ずメキシコからヨーロッパを経て片山潜がやって来て、リュックス・ホテルの賓客となるに及び、ホテルの日本人の和やかな空気はそれから俄然緊張を見せた。櫛田、森戸はあたふたとベルリンへ発ち、野坂はあわただしくロンドンに帰った。イルクーツクから来た田口はモスクワの駅頭で『なぜ、野坂を逮捕しなかった。あんなに言って寄越したのに云々』とが鳴り立てたものだ」。野坂はプロフィンテルンのロゾフスキーの紹介でロンドンから来ていた。田口運蔵はコミンテルン極東局の仕事でイルクーツクに来ていたが、極東民族大会のためにモスクワに来ていた。その田口が、『なぜ野坂を逮捕しなかった』と叫んだ理由は明らかではないが、田口はアメリカで片山と親しかったし、コミンテルンの連絡係のような仕事をしていたので、野坂についての何らかの情報を得ていたのかも知れない(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P74)。

 その野坂のモスクワ滞在時の犯罪として「山本懸蔵スパイ疑獄事件」がある。これは永らく噂段階であったが、ソ連崩壊後各資料が漏洩されるに及び、動かし難い証拠資料を突きつけられることになった。野坂除名への一瀉千里の道程となった。

 日本共産党の指導的幹部で、将来を嘱望されていた山本懸蔵が1928年の3.15事件の検挙を逃れて日本出国、モスクワに渡り、片山潜と在ロシア指導グループを形成した。但し、片山潜・山本懸蔵の二者関係は良好でなく互いに疑心暗鬼を発生させていた。山懸の日本からの無事出国のいきさつが疑惑されていた(「1928年の山本懸蔵入ソ問題」)ことが原因の一つでもあった。

 例えば次の通りであった。この頃、千田是也・平野義太郎・勝本清一郎・藤森成吉・佐野碩らを含む「ベルリン日本人反帝グループ」が形成されていた。有澤広巳らの帰国の後、国崎定洞は帰国して東大医学部教授になることを拒否し、ドイツ共産党に入党して千田是也らとドイツ共産党日本語部を結成し、反戦反ナチの活動に入っていた。山懸は、この「ベルリン日本人反帝グループ」を「反党的」と告発しており疑惑していた。その一つの理由として、1928年3.15事件のさいに山本懸蔵が結核を理由に逮捕されず、警察の包囲網をくぐってソ連に逃亡できたことについて片山潜が疑いを持っており、山本懸蔵の方は、その自分についての「疑惑の噂」の出所を、ベルリンの国崎定洞と思いこんでいたことであった、とされている。

 他方、片山潜は、「ベルリン日本人反帝グループ」の中心メンバー国崎定洞グループを信頼し、国崎定洞のモスクワ亡命・クートベ大学院入学を推薦した。山懸は国崎定洞グループを疑惑していたのかこれに反対した。ここに国崎定洞を間にはさんでの片山潜と山本懸蔵の対立という構図が発生していた。

 片山潜と山本懸蔵の対立は、「疑惑の噂」と国崎定洞問題にとどまらなかった。より直接的な対立の発端は、1929年秋の二つの事件「片山千代の入国問題」と「クートベ学生ニコライフ=松田の日本大使館への逃亡事件」にあったと思われる。

 「ニコライフ=松田の日本大使館への逃亡事件」とは、1929年秋、山本懸蔵の推薦で入学した三人の海員出身学生の一人ニコライフ=松田が、厳しい学習と規律に耐えきれず日本大使館に逃げ込んだ事件のことを云う。を起した。これが山懸の失点となった。片山潜は、山本懸蔵の指導責任を問い、1928年の山本懸蔵の3.15事件での検挙逃れ、ソ連入国の疑惑にさかのぼって追及を始めた。

 「片山千代の入国問題」とは、長女のヤスに続いて、二女の千代が特高警察の目が光っている中1929.7.13日、敦賀港から天草丸でモスクワへと向かい、ウラジオストックで日本領事館に行くと、領事が片山潜と同じ岡山出身で、無事にモスクワにつくよう世話をしてくれた等の機縁を持ちながら、道中アナーキスト・武林無想庵の手を借りて入国、片山潜不在時のコミンテルン外国人幹部専用宿舎ルックス・ホテルへ宿泊したことが政治問題になった事件のことを云う。

 この経過には、片山千代受け入れについての山本懸蔵の不作為、その結果としての千代の日本領事館と武林無想庵の援助を受けての父不在中のモスクワ入り、父潜との同居の不許可、クートベ入学申請の不許可、ロシア語は全くできないのに父親と切り離されてレニングラードの工場へという展開が見られ、これが片山潜と山本懸蔵の新たな対立となった。千代に「スパイ」の容疑がかけられていたことが余計にややこしくしていた。次のようにコメントされている。

 「片山潜不在時の千代の入国にあたって、モスクワ日本共産党責任者山本懸蔵が、千代が「非党員」であるという理由で父の留守中に到着した千代の出迎えも身元証明もせず、ルックス・ホテルでの父との同居や片山潜の願ったクートベ入学に反対したことが、老片山には大変な仕打ちに映っただろう」。

 山本懸蔵による片山潜への逆襲か、1930年秋、「勝野金政逮捕、根本辰国外追放事件」が発生する。これは、山懸の密告により為されたことが今日判明している。山本懸蔵がコミンテルン執行委員会人事部へ国崎定洞を密告していた記録が、「国崎定洞ファイル」に残されているとのことである。つまり、山懸が勝野金政を秘密警察に売り渡したという構図になる。

 勝野金政は、島崎藤村と同郷の文学青年で、パリ大学留学中にフランス共産党に入党し、1928年2月にフランス政府から追放され、ドイツの国崎定洞・有澤広巳・千田是也らの左翼グループの援助でモスクワに渡り、ソ連共産党にも入党した。1996年にモスクワで発見された「勝野ファイル」によると、フランスから逃れた勝野を受け入れ、ベルリンの国崎定洞・有澤広巳らに紹介したのは、当時東大法学部助教授でフランクフルト大学留学中の平野義太郎だった。その平野に勝野を紹介したのは、勝野とパリで知り合った東大助教授蝋山政道であった。蝋山の高崎中学の後輩でパリ大学での勝野の親友であった井上房太郎が、蝋山と勝野の接点だった。

 勝野金政は、1928−30年期の片山潜の私設秘書であったが、1930.10月末に突然逮捕され、そのまま1934年6月まで、強制収容所での奴隷労働を強いられる。獄中で勝野の書いた再審請求書や履歴書など膨大な「勝野金政ファイル」が最近発見され、ロシア最高検察庁による名誉回復もなされた。朝日新聞1997年1.13日付けに大きく報道された。

 根本辰国外追放事件も発生している。根本辰国は、「ベルリン反帝グループ」の一員で、ソ連でのクートベ入学を希望していた京大出身の哲学青年根本辰だった。根本は、1930年1月にベルリンの左翼グループに加わり、同年9月に国崎定洞の紹介状を持ってモスクワの片山潜を訪ね、秘書の勝野がその世話をした。
ところが根本辰も、日本の『無産者新聞』で働いたことがあり、4.16事件で検挙された経歴とはいえ、日本共産党員ではなく労働者出身でもなかった。山本懸蔵は、根本を「スパイ」と疑ってクートベ入学を拒否しコミンテルンに告発、片山潜のクリミア療養中に根本を国外追放処分に附した。

 自分を慕ってきた根本辰と、自分の活動の手足である秘書勝野金政を奪われた片山潜は、1930年12月、山本懸蔵の3.15逃亡疑惑を裏付けるため、たまたまヨーロッパに滞在中の医師馬島們をモスクワに呼びつけ始末書を取ろうとした。東京労働者診療所の馬島は、山本懸蔵の3.15逃亡劇の主役の一人であった。だが「山本懸蔵=スパイ」容疑の確たる証拠をとれなかったようである。

 こうした経過から、片山−山本の両者間の関係はぬきさしならないものとなった。そこに1931年春、野坂参三がモスクワに現れ、いわばキャスティング・ボートを握る調停者として片山潜・山本懸蔵の間に入った。こうして、在ロシア指導グループは、片山潜・山懸・野坂のトロイカ体制となった。但し、片山潜も山懸も野坂を疑惑するという複雑な状況に陥っていた。

 こうした経過に翻弄されたか、1930年4月、片山潜は心労によりクレムリン病院に入院する。1930年末から31年夏まで、長い療養生活に入った。片山潜の長女ヤスがイタリアからモスクワに電報でよばれ、レニングラードの工場で働いていた次女千代もモスクワで一緒に父の看病を出来たのは、この時期のことである。片山潜は退院後、そのつかの間の水入らずの家族生活の喜びを、「病中の感想」と題して雑誌「改造」1930年1月号に寄稿する。この間、山本懸蔵はウラジオストックで活動しており、モスクワ日本共産党は、1931年4月に入国した新参者野坂参三が代表となる。

 この間1931年3−4月の頃、野坂参三夫妻、山本懸蔵妻関マツ入ソの事情などが起っている。

 1931年9月に、満州事変が勃発する。山本正美はプロフィンテルン東洋部からコミンテルン東洋部に移され、野坂参三は、ようやく退院した片山潜と再会する。その頃片山千代は、再び父と別れ、ウクライナのハリコフのトラクター工場で働いていた。次のようにコメントされている。

 「ただし、山本正美をはじめとする多くの在ソ日本人共産主義者が語っているように、千代のソ連での生活が必ずしも幸福なものではなく、日本への帰国の希望を再三表明していたことは、まちがいないようである」。

 そうこうしているうち1933年11月、片山潜が病死し、在ロシア指導グループは野坂と山本の二人になった。「国崎定洞粛清事件」、「山本懸蔵スパイ疑獄事件」がここから発生する。その頃ソ連の雑誌では「外国に居住する日本人はみなスパイであり、また外国に居住するドイツ人はみなゲシュタポの手先である」と公言されていた。この時代を自己保身を重ねて無傷で生き残りえたのは野坂参三だけであった。


「山本懸蔵スパイ疑獄事件」

 「山本懸蔵スパイ疑獄事件」については次の通りである。1937(昭和12)年頃にスターリンテロリズムに遭い投獄される身となった。この時に果たした野坂の役割が胡散臭く、むしろその裏画策人であったのではないのか、山懸を救出する素振りを演出しながら何もしなかったという事件である。次のようにコメントされている。

 「スターリン体制が確立した後、スターリン体制に不都合な人物は、すべてトロツキストの嫌疑で粛清され、しかも、山本が逮捕された昭和12年頃からその圧迫が激しくなってきた。山本はその犠牲者であった」。
 「僅か二人しかいなくなった正式代表の一人である山懸が逮捕されて、それが原因で病死(?)したのであるから、もう一人の代表である野坂はその間の事情を明らかにする義務がある。しかし、野坂はそれを一言も言っていない」。
 「山本は刑死ではなく、逮捕から病死まで約5年の時期がある。ソビエト当局は、野坂の意見を聞いたであろう。いや、むしろ、山本がトロツキストでない以上、野坂は進んで山本救出に努力をすべきであった」。

【「国崎定洞粛清事件」】
 この時期の野坂の犯罪については山懸事件問題だけに限らない。加藤哲郎教授の粛清連鎖のなかの国崎定洞問題もある。以下要約すると次のようになる。

 国崎定洞は、1894年生まれの医学者で、日本の社会衛生学の開拓者である。東京帝大医学部助教授として留学中の1928年にドイツ共産党に入党し、日本語部責任者として、千田是也、勝本清一郎、小林陽之助、野村平爾ら在独日本人の反戦反ナチ活動を指導した国際的革命家でもある。ベルリン日本人反帝グループの代表としてアムステルダム国際反戦大会に出席した直後、1932年9月4日に片山潜の招きでモスクワに亡命、1937(昭和12).8.4日に逮捕され、12.10日に銃殺された。ソ連での生活は5年ほど、いわゆるスターリン粛清による日本人犠牲者の一人である。

 国崎定洞のソ連での粛清・客死が明らかになったのは、1974年のことである。ベルリン時代の友人鈴木東民夫妻が、西ベルリンの電話帳を手あたり次第にあたって、フリーダ夫人・遺児タツコの存命を奇跡的に確認した。フリーダ夫人は1960年頃に、ベルリンのソ連大使館から夫国崎定洞のソ連での死亡を口頭で通知されていた。それを後追いして、日本共産党もソ連共産党に問いあわせ、国崎定洞の1937年8月4日の逮捕、12月10日「獄死」の命日、1959年法的「名誉回復」の事実が明らかになった。1932年にソ連亡命後の国崎が、クートベ(東洋勤労者共産主義大学)大学院に学び、外国労働者出版所で働いていたこと、片山潜の死後なぜか国崎は在ソ日本人のなかで孤立したこと、フリーダ夫人は夫の生死も不明のままスターリンのソ連からヒットラーのドイツへと強制送還され娘とともに苦難の生活を強いられたことなどが、フリーダ夫人の証言で判明した。

 モスクワでの国崎定洞については、謎につつまれタブーにされてきた。1930年代後半にソ連で行方不明になったのだから「偉大な同志スターリン」によって暴かれた「帝国主義の手先・スパイ」であったろうという憶測が戦後の日本共産党周辺でささやかれ、党幹部から公然と語られていた(神山茂夫「武装メーデー事件」『文藝春秋臨時増刊・昭和の35大事件』1955年8月)。しかし、国崎定洞の逮捕・粛清の理由は、依然謎に包まれていた。「しのぶ会」事務局の川上武と私は、国崎の伝記を改訂し遺稿集を編んで、その粛清の理由を、ベルリン時代の国崎がドイツ共産党反対派として後に粛清されたハインツ・ノイマン、ヴィリ・ミュンツェンベルグらと親しかったこと、1936年に国崎がスペイン戦争国際義勇軍に志願しソ連出国を拒否されたのでそれが「トロツキスト」と疑われたのではないか、と推定した(『流離の革命家』1976年、『社会衛生学から革命へ』1977年、共に勁草書房)。
 
 ところが1989年のベルリンの壁の崩壊、91年のソ連解体は、全く予想外の国崎定洞粛清の真相をもたらした。日本共産党名誉議長野坂参三の失脚・除名を導いた小林峻一・加藤昭『闇の男』(文藝春秋社、1993年)の付録資料のなかに、国崎の名が出てきた。そこには1959年10月のソ連最高裁判所「国崎定洞の名誉回復決定書」も入っていた。私たちはそれらソ連共産党文書館秘密資料「国崎定洞ファイル」を解読して、粛清の真相をつきとめた。国崎の「獄死」は「銃殺」であった。国崎定洞の場合は、自己の冤罪についての供述記録がクレムリンの秘密資料館に残され、それが瓦解・流出したことで、自己も共有した20世紀のユートピアにはらまれた逆説を論証し、21世紀に人間解放を求める人々に警鐘を鳴らすことができたのである。

 「売った」のは山本懸蔵であった。その詳細は、加藤『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)、『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994年)、及び川上・加藤共著の決定版伝記『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)に記したが、モスクワでの国崎定洞は、党籍はドイツ共産党のままでも多くは日本共産党関係の仕事に従事していた。国崎をモスクワに招いた当時の片山潜は、日本からやってきた指導者山本懸蔵・野坂参三と折り合いが悪かった。特に片山と山本はたがいに「スパイ」と疑いあっており、片山死後の1934年秋から、後見人を失った国崎は、山本の密告によりソ連秘密警察にひそかに監視されていた。銃殺時の国崎のスパイ容疑は東大助教授就任前の兵役中に陸軍諜報部とつながったということであったが、「ファイル」を仔細に検討すると、入国時からモスクワ日本共産党指導部内の疑心暗鬼に巻き込まれ、プチブル出身の片山派として山本に逆恨みされ秘密警察に売られていた。


 国崎と同期に粛清された1930年代ソ連在住日本人は、国崎を売った山本懸蔵夫妻や野坂参三夫人龍を含め約40人が確認された。その他40人余が逮捕・銃殺・強制収容所送り・国外追放になった可能性が高いが行方不明のままである。そのほとんどは、片山・山本・野坂・国崎の4人の指導者との政治的・人的つながりがそのまま「スパイ団」とされたものであった。在ソ日本人コミュニティは、連鎖的に粛清されて壊滅した。
(私論.私見)
 れんだいこが思うに、国崎定洞を売ったのが山本懸蔵かどうか、野坂の関与があったのか無かったのか不明と思われる。むしろ、「この時代を自己保身を重ねて無傷で生き残りえたのは野坂参三だけであった」点をこそ凝視してみたい。結果的に、「野坂参三が知り得た情報によって、1・山本懸蔵粛清、2・国崎定洞粛清、3・片山千代のその後の不遇が引き起こされることになった」という視点の方が正確なのではなかろうか。




(私論.私見)