補足・「宮顕こそ胡散臭いとする証言集」(「西岡証言」、「吉本三木雄証言」他)

 (最新見直し2011.01.09日)

【西岡証言】
 亀山の「代々木は歴史を偽造する」に注目されるべき重要なことが書かれている。宮顕こそ胡散臭いという「西岡証言」である。以下、これを見ておくことにする。

 亀山は次のように述べている。「最近、神山茂夫研究会において『自分はそのような上申書をあげた一人である』という同志に出会った」。これはどういうことかというと、「党中央委員大泉・小畑リンチ査問事件、小畑致死事件」に関係する重要事である、直前の党内情勢として「大泉、小畑に対して下部から上申書が党中央部にたびたび来ていた」との査問側の正義の弁明に関係しているからである。

 そういう上申書を提出した一人である西岡氏は次のように云う。
 「私も、小畑が『疑いがある』と上申したが、『スパイだった』という確信はない」。
 「小畑はあるとき、私に、『俺のことをスパイだといって上申した奴がいる』と笑いながら云ったことがある。それは私の上申書を指していることは明らかであった。また、小畑は、私が3.15事件の被告で逃亡中であることも知っていた。それで、小畑がスパイであったかどうかは判らないが、私が捕まらなかったのは不思議な気がする。今では小畑はスパイでなかったと思う」。
 「実のところ、その頂上から下りてくる指導方針はメチャクチャであり、すっかり狂っていた。下で活動している私は信用できなかった。そういうことの終着駅が小畑リンチ事件であったように思う。党には労働者出身とインテリ出身の対立があったのは事実だ」。

 この西岡氏は獄中で春日(庄)、袴田、宮顕らと一緒にいた時期があるようであり、貴重な証言をしている。宮顕に対しては次のように述べている。
 「巣鴨では隣の房に宮本がいて、彼はいつも上等の差し入れ弁当を食っていた。自分はいつも官給のモッソウメシだけであった」。

 この証言に対して、亀山は次のように述べている。
 「訥々と回想しながら語る西岡の言葉に、私は、ウソや誇張は少しも感じられなかった。戦後、東北地方でまじめな下積みの党活動をしてきた西岡の言を、私は信頼していいと思う」。

【「吉本三木雄証言」】

 「吉本三木雄証言」(昭和51年5.13日)も貴重である。次のように述べている。

 「組織の中で、小畑と最もウマが合って、助け合ったし、個人的な話までする仲であったのが、小生でした。小畑の気持ちや気性は小生が誰よりも一番よく知っているので(黒沢を除いて)、さればこそ、リンチで殺された三日間、小生の枕もと(丸の内警察留置場の独房)に彼は立ったのです。如何ばかり無念であったか! 大泉を信用したのが、小畑の間違いだったと存じます」。

 その吉本氏について次のように語られている。

 「赤旗に『スパイの嫌疑濃厚なり』と発表された、小畑無きあと全協中央常任の重鎮なりし、金属出の古島君を病気見舞いしたが、『小畑がスパイならば、宮本と、袴田は超スパイだ』と云っていました。なかなかうまいことを云うものだと感心しました」。

 吉本氏の宮顕批判の舌鋒は凄まじく、次のように発言している。

 「宮本の如き人殺し委員長をのさばらしておくこと国家機関ならば、なぜ、かの赤軍派リンチ事件の連中を無罪釈放せぬのか」。
 「小畑とは最後まで週何回かの連絡をとっていたゆえに、よく承知しているのです。小生がつかまって小畑が殺されるまで三ヶ月の空間があるが、その三ヶ月間に小畑がスパイになりさがったとは到底考えられないことは、11月まで居た古閑君に聞いても判ります。宮本のしたことは、クーデターです。ヤクザの殴り込みです。卑怯な奴等です。当時小生がシャバにいたら、絶対にそのままにしてはおかなかったと存じます。例え一度は宮本の天下になっても、かのナガスネヒコの如く、やがては討伐される運命にあることを確信しています」。
(私論.私見)

 「吉本三木雄証言」は、吉本氏が生前の小畑と「組織の中で、小畑と最もウマが合って、助け合ったし、個人的な話までする仲であった」だけに小畑の人となりを知る者の証言として値打ちがある。「例え一度は宮本の天下になっても、かのナガスネヒコの如く、やがては討伐される運命にあることを確信しています」は余計なセリフで、ナガスネヒコ論に於いて問題があるが、「吉本三木雄証言」の値打ちを下げるものではない。

 2006.5.25日 れんだいこ拝


【「寺尾とし証言」】
 「補足(13)の2、野呂検挙後の宮顕の不審な行動について」で、「寺尾とし証言」記したが、ここでも確認しておく。党中央内にこうした亀裂を走らせつつあった最中の11.28日、野呂委員長が検挙されている。ここで貴重な証言が残されている。野呂検挙の後連絡をとった寺尾としは次のように伝えている。
 「野呂に代わって連絡に出てきたのは着物に角帯をしめた容貌魁偉な男で、どこかの大番頭風のように見えた。私には一度も見たことのない顔であったから、このような幹部もいるのかと印象が深かった。私たち下っ端党員の窮状を訴えたのであるが、一向にピンと来ない様子で私はガッカリした。生活に困ったことのない人を思わせる彼は誰であろうと思っていたところ、間もなく赤色リンチ事件と云われる事件が起こり、大々的に新聞に載った記事と共に、大きく彼の写真が出て、はじめてそれが宮本顕治であることを知った」(寺尾「伝説の時代」)。
(私論.私見)
 何気なく見過ごされがちであるが、野呂検挙後の連絡線として直ちにやってきたのが宮顕であるということと、その時の様子が同志的愛党的な立場からてきぱきと指導をするのではなく、調査物色にでも来たかのような対応に終始していることが伝えられているということである。もう一つ、「着物に角帯をしめた」姿とは非合法時代のカムフラージュとしてそのような悠長な出で立ちだったのだろうか。私にはそうは思えない。それにしても何をしに宮顕は出向いているのだろう。胡散臭さを窺うべきではなかろうか。してみれば、「寺尾とし証言」も又貴重である。

 2004.6.1日再編集 れんだいこ拝

【松尾茂樹証言】

 非常時共産党時代の中央委員・松尾茂樹は、宮顕を本能的に嫌っていた。野呂執行部時代に中央委員に昇格した宮顕に対し、大衆団体方面を受け持っていた松尾が、「宮本は文化運動出身者で、党や労働組合方面の実際の階級闘争、大衆闘争の経験が非常に少ない。東京市委員会にでも行って、多少直接闘争の経験をする必要がある」と強硬に申し入れ、結局この意見が強まり、6月中旬に野呂、大泉、小畑の政治局に編成替えされている。

 1938(昭和13).4.7日、獄中下の松尾茂樹は大泉公判に関連して証人として出席し、次のように陳述している。

 「宮本等は、田井を全然知らない会ったこともないし且つ労働組合方面の知識は全くない男であります。それにも関わらず、単に三田村が云うたとか部会を開かなかったとか云うことを根拠としてスパイ呼ばわりするのは、彼らの軽挙極まるプチブル性を暴露したセクト的行動であります」
 「宮本や秋笹の如きは、根も葉もないことを根拠として同志をスパイ呼ばわりする常習犯であります」
 「なお、大泉.小畑の査問に際し、 彼らが取った態度も私には全然不可解であります。すなわち、彼らの云うが如きスパイの理由が明白ならば、なぜ小畑だけを殺して弱点の多い大泉を残したのか甚だなっていない処置であります」
 「しかも、後になって殺す心組はなかったと云うが如きは非常に卑怯な態度で、もしスパイであることが明らかならば、プロレタリア的断罪としてこれに犯罪をもって望むのが当然であります」
 「小畑だけを殺したところに宮本等の意図を窺われるのであって、自己の政治的闘争相手たる小畑を倒し無能な大泉を故意に残したのであります」。
(私論.私見)
 これは貴重な証言である。松尾氏の宮顕観は、「労働組合方面の知識は全くない男」であり、「セクト的行動」であり、「同志をスパイ呼ばわりする常習犯」であり、概要「甚だなっていない処置をする、非常に卑怯な態度」の持主であるということだ。現下党員は、この悲痛な叫びを肝に銘じるが良い。なお、松尾氏はこの証言後、詳細不明であるが獄死させられている。この松尾氏の履歴の確認、党史上の位置づけ等が必要と思うが為されていない。




(私論.私見)