≪「終始悲鳴を以て…」とは≫
反証一。「査問は静かに進められた」と力説する宮本氏自身が、昭和二十一年三月の月刊読売では次のようにこれと全く矛盾することを書いているのである。「小畑は大声をあげ、猛然たる勢いでわれわれの手をふり切って暴れようとする。……逸見は小畑の大声が外へもれることをふせごうとしてか……風呂敷のようなものを小畑の顔にかけていた」。「大声が外へもれること」を防ごうと必死に努力していながら、隣近所で悲鳴や異常な物音を聞いたひとは一人もいないと強調し、「査問」は静かに進められたという宮本氏は明白に嘘をついている。
反証二。リンチ事件のもう一人の加害者袴田里見氏は『党とともに歩んで』のなかで次のように書いている。「わたしは後ろから組みついたまま、足を払ったので、二人ともいっしょに倒れた。しかし、かれは立ち上るやいなや大きな声で“ワヮー”っといったんですね」。この証言も「査問」は全く静かに進められたという共産党の大宣伝とはあい反する。
反証三。事件直後の昭和九年一月十七日号の赤旗は、国際共産党日本支部日本共産党中央委員会の公式声明「片野(大泉)、古川(小畑)の革命裁判の情況を全勤労大衆諸君に告ぐ」を掲載しているが、この党の公式文書は「『人の将に死なんとするやその言やよし』、スパイ片野(大泉)の最後の告白の態度は、終始悲鳴を以て一命を乞ふた彼としては、あまりに大出来である。……我々はスパイ挑発者を時としては死刑にすることが勿論(もちろん)絶対に必要である……」と明確に述べている。「終始悲鳴を以て一命を乞ふた」という凄惨な「査問」が、四十年後にはどうして平静な「査問」に変質するのであろうか。