第2部 | 「敗北の文学」の論評 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).4.24日
投稿№ | 題名 |
「『敗北』の文学」に現れた特殊感性について(前半) | |
「『敗北』の文学」に現れた特殊感性について(後半) | |
れんだいじさんの「敗北の文学」論への異論 吉野傍 | |
吉野さんへ、取り急ぎご返信 | |
大坂の人氏の「野蛮」の読みそこないに関して | |
果たして「野蛮」の読みそこないか | |
大阪の人はんの中傷に駁す | |
読解力不足によるあてこすり批判考 |
題名/「『敗北』の文学」に現れた特殊感性について(前半) |
「敗北の文学」は、その自殺が大きく騒がれた当代の大御所的文芸作家・芥川龍之介の作品及び作家論であると同時に宮顕の入党決意宣言ともいう意味が添えられていた。1929(昭和4).4月の頃、宮顕20歳の春の力作であった。これが当時「中央公論」と並んで最も権威ある総合雑誌と目されていた「改造」の懸賞論文で一等当選となるという栄誉を受けることになり注目を浴びた。この時の次点が小林秀雄の「様々なる意匠」であったというのは有名な話である。同誌8月号に発表された。宮顕はこの名声をもって当時のプロレタリア文学運動の隊列に加わっていくことになり、「戦旗」に働き場所を見つけた。1931(昭和6).5月、入党。相前後してプロレタリア作家同盟に加入した。1932年の春より地下活動に入った。 私が「敗北の文学」に注目する理由は、あまり指摘されていないが、このような経歴を見せていく宮顕の面目と宮顕式原型が良きにせよ悪しきにせよここに躍如としていることにあり、「敗北の文学」で見せた氏の文芸理論ないしはマルクス主義に対する思想的態度がはるか今日の宮顕式党路線に従う日本共産党の現況に色濃く投影されているように思うからである。ここでは、芥川文学に対する宮顕の作品論は省き、その作家論について検討することにする。但し、作家論に限ってみた場合でさえこれを順序立てて書いていくと相当長くなるので結論的な要約のみメッセージすることにする。 その前に芥川氏の人物像をごく簡単にスケッチしておくと次のようにいえると思う。芥川氏は、早くより文筆で身を立てることを志し、一高-東大という当時のエリートコース中のそのまたエリート的な文系俊才として既にこの頃から頭角を現していくことになった。24才の時に著した大正5年の初期作品「鼻」が夏目漱石氏に激賞を受け、その文才が高く評価されることになった。次作「芋粥」もまた名を高からしめた。以後数々の短編、中編作品を著していくことになり、気がつけばいつしか文壇第一人者の地位に辿り着いていた。 氏はこうして順風満帆の作家活動に分け入っていくことになったが、文芸上の立場は孤高であった。当時の主流であった自然主義文学でもなく、私小説風でもなく、かといって白樺派的ヒューマニズムとも一線を画していた。よく古典を題材にしながら当世の痛烈な社会時評を得意にして、一種奇才を放っていた。表現は的確かつ清新な比喩と機知に富んだ警句をスパイスとし、かつ洗練された文章かつ繊細かつ凝った文体で他を圧倒した。 まず、宮顕のヨイショから入ることにする。以上のような特徴を持つ芥川文学は今日のプロ作家間においても玄人受けする日本文学史上孤高の地位を占めているが、この文学を宮顕もまた高く評価したことは氏の炯眼であると素直に評価したい。文学潮流の背景に社会的情勢の意識への反映を見ようとするマルクス主義的分析からすれば、やや教条的になるが当時の文壇史を次のようにレリーフすることが可能である。
大雑把に見てこのように文壇潮流を分けることができる。この場合、芥川氏はどこに位置していたのであろうか。通常芥川文学は 「芸術至上主義文学」とか云われ、どちらかといえば(3)のジャンルで括られることが多い。これに対して、宮顕は、とりわけ後期の芥川氏に(5)的傾向を見ようとした。もっともプレ・プロレタリア文学的においてではあるが。 実はこの着想が的確であり、私も同感である。ところが、当時の芥川氏を囲む知人、友人たちでさえそのような芥川観を持つ人はいなかった。芥川氏の自殺に接してさえ当時の文芸家はどう解いたかというと、創作の行き詰まり説、健康不安神経症説、女難説、人生倦怠説、世事の多事多端に伴う厭世説等々の理由により真因が定まらなかった。 ところが、宮顕は、「敗北の文学」において、社会主義者になろうとしてなりきれなかった氏のプチブル的半端性の苦悶に着目し、これを見事に切開して見せた。私は、「敗北の文学」が雑誌「改造」懸賞論文で一等当選の栄誉を得た背景には、 宮顕のこの観点の意外性と説得性が認められたことにあったと思っている。 芥川氏をプレと形容しようとも、社会主義思想の持主としてみなすことには異論が多いかもしれない。それはそういう風に見ない芥川論ばかしが流布されているからである。 芥川文学の場合前期と後期において大きく作風が異なるので、どの時期の芥川を観るかにより見解が異なるのも致し方ない面はある。作品的には初期の頃から文壇の第一人者への地歩を固めていった中期のものに前途洋々、意欲満々の傑作品があるのは確かである。しかし、芥川文学はある種テーマ性、思想性の高い文学であり、その内在的発展という弁証法的行程から観る場合、前期の芥川文学に散りばめられていた諸々の淵源が集結していったのが後期の芥川文学であり、むしろこの後期の芥川文学の方にこそいっそう真価が滲んでいると考える方が自然であろう。かく後期の芥川文学を評価する必要があると思われる。 そういう眼で見れば後期の芥川氏は限りなく社会主義者たらんと努力した形跡があり着目されるに値する、と言えば 驚かれるであろうか。このように彼が評価されることが少ないが、そのことの方が問題である。今日にもつながる当時の作家及び批評家が凡俗であったことを証左しているように思われる。 これを長たらしく証明しても仕方ないので端的に彼にまつわるエピソードで例証する。寄せ集めれば様々なデータが揃うと思うが一端を述べてみる。芥川氏は社会科学について相当勉強した風がある。今東光が或る本屋で芥川とばったり会ったとき、小脇にマルクスの英訳書か何かを何冊も抱えていたと伝えられている。芥川が一高仲間の無二の親友恒藤恭(すでにこの頃京大教授であったと思われる)と旧交を温めようとして京都へ行ったときも、祇園の茶屋でエンゲルスのことを話題にし合ったと伝えられている。 中野重治が書いた感想などでも、晩年の芥川龍之介がプロレタリア芸術への好意的理解を持とうと していたことが伝えられている。芥川は通常理解されている以上に勃興しつつあったプロレタリア文学に理解を寄せており、その延長上で当時の党員活動家にせがまれる都度財政支援していたことも伝えられている。ハウスキーパー ならぬ財務キーパー(これをスポンサーというのではなくてどういうのだったかな。思い出せない)の有力な人士であった。 では、芥川氏のプレ社会主義者としての移行過程はどのようなものであったのであろうか。このことについて少し触れたい。一高時代早くも、「人生は、一行のボオドレエルにも如かない」とうそぶいた芥川氏の精神風景には、既にこの頃より鋭い社会批判の視点が内在していた。当時の社会風潮とは、日本帝国主義が西欧列強の仲間入りを遂げその傾向をますます雄雄しくしようとしていた時代であり、軍人がしだいに社会の前面に台頭し始めた頃であった。 社会全般が天皇制イデオロギーで染め上げられつつ、軍部勢力と独占資本が結託し、国内外に渡っての強権的支配をほしいままにしようとする気運が押し寄せていた時代であった。 芥川氏が文芸を志した背景には、こうした時代環境にあって、「中流下層階級の貧困」を認識しつつ、時代の流れに棹さそうとする反骨精神があった。体制内エリートとして同化していくことを良しとせざる自負に立脚しようとする精神があった。このセンテンスでこそ氏の諧謔的警句的なスタンスがより見えてくる。当時の社会風潮に対する文芸的な抗議が込め られていたからこそ構図が大事にされ、一字一句が痛烈であった。 初期の芥川文学は、金欲、権勢欲、名誉欲に執着しようとしている世上のブルジョア精神と、他方プロレタリアの「生きるために生きる人間のあさましさ」、あるいはまた「公衆は醜聞を愛するものである」という大衆心理に対する侮蔑精神を持ち、そのどちらの精神をも俗物根性と否定した。そして文芸的な高踏的な文人墨客趣味生活こそ価値あるとする人生観を確立しようとした。こうして芥川文学の初期のこの頃はとりわけ痛烈な社会批判精神を内在化しつつ、人の心の中にあるヒューマニズム的なるものとエゴ的なるものという背反的なものを相克的に露見させることを楽しんだ。但し、芥川氏の非凡さは、これを単にニヒリズムに解消させたようとしていたのではなく、主に体制イデオロギーの中にある虚構を暴露しようとしていたことにあった。 こうして文壇の奇才としての評価を増しつつ作家活動にいそしんだ芥川氏は、気がつけば当代の第一人者としての地位へ登り詰めていた。ところが、皮肉というべきか、功なり名を遂げた芥川氏が絶頂期に達した頃は、わが国にプロレタリア文学が勃興しつつ押し寄せてきた時代であった。 この時、氏がどう対応したのかが興味深い。彼を取り囲む文壇仲間のほとんどの者がこうした時代の流れと没交渉で創作にいそしんでいた中で、氏は、プロレタリア文学について少々異なる姿勢を、結論から言えば「理解」しようとしたのである。ここが氏の凡百の作家とは違うところであった。芥川氏の眼から見て当時のプロレタリア文学は文章表現的には稚拙であったであろうが、柔らかなまなざしを持ったのである。 但し、彼はプロレタリア文学に出会うことにより苦悩を深めることになった。 後期の芥川文学はここから始まる。芥川氏のこれまでの半生は権力的であることを忌避しつつ世の風潮に半身に構えて対峙してきた。その氏からみて、庶民大衆の生き様の中にある助け合い志向の共働性の意義を見いだそうとするプロレタリア文学はまばゆいものでしかなかった。かって自身が俗物としてあるいはまた下賤として退けてきた世界であり、そうした庶民の心根の中に光を見いだしこれを受け入れるとなれば、営々と築き上げてきた自身の思想的スタンスを大変換せねばならないこととなったのである。「否定の否定」をせねばならぬ勇気を鼓舞せねばならないことになったということである。 その経過は苦しい行程となった。芥川氏はこれに挑んだ。しかし挫折した。というより作風的に大衆の息づかいを書くことができなかったのである。その理由として、作風の転換をなすには彼の名声を高めているところの繊細かつ凝縮された技巧派的文体がかえって邪魔になったということが考えられる。あるいはもっと凡俗に彼があまりにも大御所になりすぎていたからであったかもしれない。この頃から 「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」と書きつづるようになった。それは芥川氏のプロレタリア文学家に転身できないジレンマの表現であったように思われる。 こうして初期の作品から負わされた名声の十字架を背負いながら彼の後半生の作品は綴られていくことになる。自分の人生は「書物からの人生」でしかなかったという意識のとらわれとの自己格闘が作品化されていくことになっ た。時にキリスト的な殉教精神を、時に社会主義的な思想を賛美しつつ多少の距離を持つ自身をさらけ出していくことになった。この苦悶苦闘のウェイトがどれだけ占めていたのかははっきりしないが、やがて彼は精神的な美意識に拘りつつ命を絶っていくことになった。1927(昭和2).7.24日、芥川は自殺した。享年36才であった。惜しまれる死であった。 |
題名/ 「敗北の文学」に現れた特殊感性について(後半) |
このような経過を持つ芥川文学及び氏の生涯を宮顕がどう評価したか。ここが本稿のテーマである。本投稿を理解していただくために芥川氏について前投稿で簡略に記した。以下、宮顕の芥川論を解析していくこととする。主たるテキストは、75年初版の新日本文庫の「『敗北』の文学」に拠った。宮顕は、言い足らなかったのか、続いて「過渡時代の道標-片上伸論-」で、片上氏を論じつつ、一方で芥川論を補足したので、この時点の観点も併用した。
「敗北の文学を書いた頃」と同書末尾の水野明善氏の解説も参考にした。 最初に。芥川氏の文学的軌跡を「敗北」とみなす宮顕の感性について、少々疑問を挟まざるをえない。タイトルにはネーミング者の最関心事が滲むものであることを思えば、あらゆるものの基準に「敗北」とか「勝利」をもって総括しようとしている宮顕の感性が見えてくることになる。宮顕にとって、「敗北」とか「勝利」とかこそが最重要な基準になっており、プロセスはその下僕でしかないということになっているのではないだろうか。しかし、芥川を論ずるのに、この視点ほど似合わないものはないという変調さがここにある。 宮顕は「私の五十年史」の中で、執筆動機を次のように述べている。
この記述に疑義を述べてみる。興味深いことであるが、宮顕が「敗北の文学」で記した芥川論の観点が宮顕のオリジナルなものであったのか疑わしいとする説があるようである。宮顕は、「『白亜紀』の終刊号に短いエッセイでも述べており」と漠然と記しているが、松山高校時代の文学サークル誌「白亜紀」に既に他の同人による同様の観点のものが見受けられる、との指摘が為されている。つまり、「敗北の文学」の観点が宮顕オリジナルのものであるのか、「白亜紀」同人による芥川論の剽窃が為されたのかどうかを廻って議論の余地が残されている。 こうなると、「白亜紀終刊号」を確認せねばなるまい。れんだいこには確かめようがないのでこれ以上のことは分からない。この方面の考察は本筋から離れるので割愛することにするが、宮顕の芥川論に伏線となる基礎資料があり、観点の盗作であったということは十分に考えられる。但し奇怪なことに今日、「白亜紀」が僅かに保存されている図書館で、該当個所のページが切り取られているとの伝であり確認が難しくされている。これが事実とすると、誰が何のためにこれを為すのか、闇がある。宮顕にはこういう闇が至るところで纏わりついている。 もとへ。宮顕の「敗北の文学」の秀逸なるところは、芥川氏の「ぼんやりとした 不安」の内容実体について立ち入り、「当時インテリゲンチアの悩み、自殺に行き着いた芥川の文学的内面を批判」し、芥川氏の創作精神に脈打つプレ社会主義思想とでもいえる批評眼が介在していることを指摘し、且つこれをよくなしえたことにあった。芥川氏の辛辣な表現の中に、プロレタリア文学的な階級的視点を持つ前の「前駆的な汎ヒューマニズム思想」が色濃くあることを踏まえたのである。 この視点は、当代の文芸評論家の誰もが見抜けぬ芥川論であった。ここに宮顕の一流な批評眼があったといえる。芥川氏の自殺直後に数多く発表された皮相な死の解釈を退けて、氏の内面心理における思想の揺らぎに着目し、「鋭い分析と明快な判断に基づく力強い説得力で、『階級的思想的矛盾の洞察』を為した」(水野明善氏の解説要約)のである。 宮顕の芥川論の観点は次のようなものであった。「敗北の文学を書いた頃」で次のように説明されている。
問題意識として以上のように捉えた宮顕の感性に対して何も云うことはない。いよいよ核心に入る。以上のように芥川氏を理解した宮顕が、ではどのように氏を批評したのか。「時代的であり得た芥川」を認めつつ次のように論断した。
宮顕はかく喝破した。ここまでは宮顕一流の批評眼であり、異論はない。 そして、起承転結の結の部分として次のように総括した。
話はそれるが、れんだいこは、ここのところの表現が原文通りかどうか少し気になっている。最近手に入れた新日本文庫ではこう記されているが、昔学生時代に読んだ時とちょっと文章が違うような気がしている。その時の本はもうないので確かめようがない。どなたかお手数ですが「改造」誌上掲載文と照らし合わせていただければ助かります。私には時間がない。もっとも気のせいかもしれない。なお、「いつの日にか」は「いつの間にか」の転写間違いであったので、2002.11.7日訂正した。「パルナッス」とは、ギリシャの聖なる山の意とのことである。 話しを戻す。この結の部分にこそ宮顕独特の感性があると私は睨んでいる。私は異論を挟まざるを得ない。末尾の「ツルハシをうち下ろさねばならない」を修辞上の表現として見逃すこともできようが、宮顕の場合、どうも修辞上でない傾向にあるというのが私の見方である。 以下、れんだいこの感想に入る。私がほとほと感心するのは宮顕の力強い断定調である。問答無用式に「バールを打ち下ろせ」(昔読んだ本は確かこんな表現ではなかったかと思う。ハードとソフトの違いで意味は変わらないけれど)という宮顕を支える信念とは何なのか。 述べてきたように、芥川氏の良心と誠実さは万人の胸を打つものではないか。仮に我が身に引き替えて見た場合、彼のような誠実な行程を進みうるか自信がない。芥川氏の自殺の直後、確か谷崎潤一郎だったと思うが、芥川ほどの業績があればもう何もしなくても飯が食えるのになぜ自殺なぞしたのかと哀悼したが、実際の大方の思いであろう。 人は誰しも完成された艶福な者ではない。至らぬ者が至ろうとする軌跡こそ我らが人生であり、何よりも尊く美しく評価されねばならないのではないのか。芥川氏の頭上にバールがうち下ろされねばならない必然性がどこにあるのか。 そういう正邪の分別なぞ無用なものではないのか。批評に温かさがなさ過ぎるではないか。芥川氏に宮顕が指摘するような半端性があったとしてもそれがどうしたというのか。云っている本人も含めて人は皆「ボチボチでんな」ではないのか。 仮に、このような論法を許してしまえば、特権者は自在に、半端ながら党運動を理解しお手伝いの一つでもしようと接近してきたシンパの頭上に半端なるがゆえにバールをいつでも打ち込むことができる。他方で、党運動に無縁な者または体制側信奉者は無傷ですむことになる。そういう感性がオカシクはないか。近親憎悪的な論理であり、近しい人ほどチクチクいたぶられることになる。 これが芥川龍之介論の世界でおさまっていれば敢えて私は問題にしなかった、と思う。そういう宮顕流の感性が今日の党活動の背景論理としてこびりついているように思うし、それは良くないと思うから本投稿で闘おうとしている。過去、宮顕式理論に首肯しない異端者の排斥過程もまたこのセンテンスで行なわれてきたのではないのか、ということが言いたいわけである。 自然、宮顕をして余人をかくも断罪せしめる根拠は何なのかについて考究していかなければならないことになろう。彼は神か、そんなことはない。宮顕はそのような物言いをするだけであり、以下浮き彫りにするが、彼からは「安心立命」的信仰を常人より強く持つ粗野な感性しか見えてこない。どうやら宮顕の強さを支える信念は、単に当時公式的であったスターリン流のマルクス主義的理解でしかなかった、と思わざるをえない。マルクス主義の理解の仕方がスターリンのそれと非常に似通っていたそれであった、と言い換えることもできる。 そこにあるものは、一つは、哲学的な意味での自己流唯物弁証法的観点の導入による、事象認識のリアルな脳髄への反映を疑わない統一且つ絶対真理型認識観であり、一つは、史的唯物論に基づく社会の合法則的発展を盲信する社会主義-共産主義社会の必然的到来性信仰である。「新しい歴史的方向」 とか「歴史的必然性」に対する絶対依拠の精神である。宮顕は当時の時代感覚としての非常にオポチュニティーなこのようなマルクス主義の哲学と史的必然論を誰よりも生硬に主張していただけではないのか、としか思えない。 この二つの観点は、当時にあってさえマルキストたらんとする者なべてが七転八倒しつつ学びとろうとしているところのものであった。そういう謙虚さが平均値としてあった。それに引き替え宮顕は、その苦闘からいち早く脱し、むしろこの二つの観点を如意棒として手に持ち、自身こそその高みにあるとする自惚れから、対象とするものを容赦なく演繹的に断罪して憚らない君臨者の座にありついた。自己流のマルクス主義的認識であれ、「真理」を手にした者から観れば、過程のすべてが 「いらだたしさを覚える。経過した後から過程を見れば退屈に近い」不十分なものでしかないことになる。 このような如意棒を手にした者が権力とジョイントしたらどうなるか。何とかに刃物とならざるをえない。その果てにあるものが今日の日本共産党中央委員会の在り姿ではないのか。権力者は「無謬の帝王、真理の体現者」として立ち現れ、至らない者をいかようにも断定し、采配を振るうことができることになる。宮顕の強靱さとは、この二つの如意棒を振り回しながら、ためらいなく党内整列を優先させることのできる癖の強さにあった。 そう、こちらの方の優先こそが宮顕の特徴であり、私が疑惑する所以となっている。彼が権力と果敢に闘ったという例を寡聞にして聞かない。この強さが余人の追随を許さない異質的な優れものであったというだけのことではないのか。私の辟易させられるところであり、同時に当時の反対派の連中にはこの点が欠けていたところのものであった。当時の反対派の面々を見れば、攻めには強いが守りにはからっきし弱いお人好しという共通項がある。 とはいえ、そういう如意棒を唯々諾々として受け入れる素地も党内に幅広く あったようにも思われる。コミンテルンに対する絶対拝跪精神がそのまま党内権力者に対するそれに横滑りしており、こうして組織的従順さが当時にあっては党及び党員共通の意識の中に埋め込まれていたように思われる。良く言えば革命の大義の為に殉じようとする精神である。肯かなかったり理解できない者は勉強不足でしかないということにされたし、なった。 とはいえ、時代の経過が宮顕式論理の正否をはっきりさせてしまった。今や 二つの如意棒の観点はどちらも総崩れしつつある。つまり、今日的な状況からすれば、大いに問題ありの観点と言えることが露見されつつある。これに同意できない者はオポチォニスト的な幸せ者である。そういう者も次の指摘には肯いて欲しい。 宮顕の論法を評論すれば、没弁証法的思考であり、善悪二元論的な発想であり、権力的論理に染まっているということに特徴があるということ。マルクス主義の最重要部分は弁証法的認識論であると言うのに。マルクス主義者における殉教精神は、宗教的なそれとは区別されるべき常に批判精神を自由闊達に自他内外に持ち合わせねばならないものであり、これが命綱なのではなかろうか。でないと我らの運動もまた絶対的教義に拘束される宗教的団体と何ら変わりはしないことになる。党内に社会観の自由な摺り合わせがあればこそ、労働者はこの隊列に参陣して一種解放感に浸ることができたのではなかったか。あるいはそうあるべきではないのか。 最後に。宮顕の言いまわしに耳を傾けてみよう。「過渡時代の道標」で次のように補説している。
宮顕は、プロレタリア文学の意義を上述のように述べた後、次のように芥川を斬って捨てている。
うーーんご立派デスとしか言いようがない。ハイ。 |
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れんだいじの「敗北の文学論」に対して、「さざなみ通信」上で、吉野氏より次の反論「れんだいじさんの『敗北の文学』論への異論」が為された。これを転載しておく。
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れんだいじは、吉野氏の反論に対して次のようなレス「吉野さんへ、取り急ぎご返信」を返した。
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上記の遣り取りに対して、2002.10.24日「梁山泊」掲示板でハンドルネーム・大阪の人より次のような揶揄が為された。
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れんだいこは、大阪の人に対して、「善隣学生会館事件」掲示板で次のようなレスをつけた。
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れんだいこの上記レスに答えることなく、大阪の人さんは再び次のような投稿を「梁山泊掲示板」に書き付けた。そこで、れんだいこは、「善隣学生会館事件」掲示板に次のような投稿をした。
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Re:れんだいこのカンテラ時評その35 | れんだいこ | 2005/04/02 | ||
【読解力不足によるあてこすり批判考】 れんだいこがインターネット界に自前サイトを持って登場したのが2000.2.11日を期してである。もう5年になる。その間気づいたこととして、議論があちこちで為されているが、往々にして読解力不足の例が見られるということである。 れんだいこの立論に何人かがいちゃもんつけてきたが、その多くが曲解的な批判であった。そういう御仁がいっぱしのインテリサヨぶっている姿がさもしく、れんだいこは正面からの遣り取りを忌避した。逆恨みされては叶わんという思いからであった。この姿勢は今も変わらない。議論つうのはし甲斐のある相手とやるに限る。大人が小学生の子供をいたぶっても面白くもおかしくもないからである。しかし、ある程度は火の粉を拭っておかねばならない。れんだいこが相手にしないことによって成り立っている曖昧さが、れんだいこの立論にも非があるというどっちもどっち的に処理されるのは迷惑至極だからである。武士の情けで許容しているのに過ぎないだけで、是非の白黒づけようとすればそれは造作もないことなのだということを時には知らしめておく必要がある。普通なら気にかけないのだが、このところの体調不良がれんだいこの堪忍袋を切れやすくしており従来の曖昧さを質す方向に向ってしまう。 ここでは、宮顕の芥川論におけるピッケル問題を取り上げる。主として猛獣文士氏の「善隣学生会館事件HPの掲示板」(http://www.konansoft.com/cgibin/zenrin_wforum.cgi)で遣り取りされたのだが、ある時、大阪の人なる御仁が、れんだいこの「宮顕式芥川文学論批判」にいちゃもんつけてきた。その内容は、宮顕が「敗北の文学」文中で「氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」と述べている件りに対して、れんだいこが何とも宮顕らしい無慈悲な観点よと批判していたところ、大阪の人なる御仁が、「何かね。宮本顕治さんの『「敗北」の文学』を読んで若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさん」なる批判言辞を書きつけた。 これに対して、れんだいこは、れんだいこが誤読なのか、大阪の人の方が誤読なのか、白黒付けようかと提案した。「宮顕の芥川論におけるピッケル記述問題」は、読解力さえあれば解ける問題である。 れんだいこはその後、「果たして『野蛮』の読みそこないか」、「大阪の人はんの中傷に駁す。(2003.2.21日)」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/miyamotoron/miyamotoron_2.htm)で立論している。「善隣学生会館事件HPの掲示板」で決着つけようと管理人氏の猛獣文士氏が配慮された。 大阪の人氏は登場しないままに「梁山泊掲示板」に次のような一文を書き付けている。「猛獣さんは私に彼のHPに戻ってきて、彼のヨタ話に付きあえと口説いているようです。何かね。宮本顕治さんの『「敗北」の文学』を読んで若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさんに調子を合わせて『私もそう読む』とか猛獣さんが書いていたのをBBSで読んで、暗澹としまして、もう猛獣さんやれんだいこさんのHPから得るものは何もないな、と思ったので、おいとま致しました」。 これによると、大阪の人氏は、れんだいこの誤読に調子を合わせて「私もそう読む」と相槌するような管理人氏のところには出入りしないという方便で、議論を避けていることを合理化せんとしていることになる。 しかしこれはおかしな手品ではある。大阪の人氏の方から振ってきた問題であり、ならば議論の場を提供しようとしているのだから大阪の人氏は据え膳を蹴っていることになる。本来なら、大阪の人氏はれんだいこの立論に反論せねばならない。これが大人の議論の嗜みであろうに。 結局、大阪の人氏は現在に至るまで頬被りし続けている。氏はそのことで氏の信用を毀損せしめられていることに何とも痛痒を感ぜず、相変わらずの厚顔無恥さでインターネット掲示板界を世渡りし続けている。宮顕・不破系日共理論を賛美し万歳論を伝道し続けている。れんだいこにはかような劣性人士によってしか支持されない日共のブザマさが分かり興味深い。 ここで問題をもう一度整理する。宮顕の原文はこうである。
この文章をどう読解すべきか、これが問われている。大阪の人氏のれんだいこ誤読説から推理すれば、氏はどうやら、「ツルハシをうち下ろさねばならない」を山登りの際に打ち下ろすピッケルの意に捉えているのだろう。そのように芥川文学を乗り越えるのだという意味に理解しようとしていることになる。しかしだ、「日本のパルナッスの山頂で」とあるからには「ツルハシをうち下ろさねばならない」とは、脳天にバールを打ち下ろせの意であって、山登りの際に打ち下ろすピッケルの意ではなかろう。 大阪の人氏がどうしてもそのように理解したいというのは勝手である。しかし、その勝手な持論の為に「れんだいこの誤読」をあちこちで吹聴されるとれんだいこには迷惑な話しである。この際決着つけようとの配慮を無視して相変わらず「若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさん」と逃げながら鉄砲撃つ芸当だけは忘れない。 れんだいこと大阪の人氏との絡みはこれだけである。直接議論したことはない。仮にしたとしても、こういう風に読解力が基本的に欠けている者との間には有益なものは生まれないだろう。他にに記せばキリがない。その都度大阪の人並みの残骸が上がるのが避けられない。それはれんだいこの趣味ではないのでここではこれぐらいにしておき、必要の発生次第に記しておくことにする。 2005.4.2日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)