第8部の5 宮顕の網走刑務所入獄の実態考

 (最新見直し2014.04.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「宮顕の網走刑務所入獄の実態」を確認しておく。

 2011.1.7日再編集 れんだいこ拝


【宮顕の網走刑務所入獄】
 網走刑務所に送られたのは空襲下のあわただしい時期の45年(昭和20年)6月16日、三人の看守に連れられて巣鴨の東京拘置所から網走へ向かった。6.17日網走刑務所に入獄している。宮顕は、網走に出発する前、面会の百合子に、「まぁ半年か十ヶ月の疎開だね」と言いなしたとある。戦局の帰趨を的確に掴んでいたことになる。10.9日敗戦により、「GHQ」の政治犯釈放指令がなされるまでの4ヶ月間をここで服し、この間も完全黙秘、非転向を貫いたとされている。都合獄中11年10ヶ月となる。

 この経緯に対して、党史(「日本共産党の65年」85P)は次のように記述している。
 「宮本顕治は、警察から予審を経て公判開始までの7年近くを完全黙秘で戦い抜き、公判でも原則的に闘った」。
 「宮本は、1940年4月から公判廷にたったが獄中で発病し、公判が中断していたが、その後、単独で、戦時下の法廷闘争を続けた。宮本は、あらゆる困難に屈せず、事実に基づいて天皇制警察の卑劣な謀略を暴露し、党のスパイ・挑発者との闘争の正当性を立証しただけでなく、日本共産党の存在とその活動が、日本国民の利益と社会、人類の進歩にたった正義の事業であることを、全面的に解明した」。

 まさに歯の浮くような、完璧な獄中闘争ぶりが賞賛されている。既に述べたように、吐かない限り拷問の憂き目にさらされていた他の獄中党員に較べて宮顕のそれは不自然であり、どこが「完璧な獄中闘争」でありえようか!

 宮顕は、次のように自賛している。概要「戦前の暗黒裁判においても、結局、宮本を殺人罪にも殺人未遂罪にもひっかけることができなかったという事実」を見よ、と云う。概要「黙秘権などの認められていなかった戦前において、宮顕が警察でも予審廷でも一言も口をきいていない完璧な獄中闘争」を見よ、と云う。これらを踏まえて、「事件に対する私の陳述は公判廷以外では一切していず、警察調書も予審調書もなかったので、公判陳述が最初で、最後の陳述となった」と記述している。

 ここの記述部分「公判陳述が最初で、最後の陳述となった」とはどういう意味だろう。公判陳述は、初めの公判6回と再開公判15回の都合21回為されている筈であるが、「最初で最後」と云われれば誰しも一回こっきりの陳述と誤解しやすいであろう。これも「非転向タフガイ神話」の知らないものを平気でたぶらかす脚色記述と思われる。宮顕の深紅の獄中闘争が事実であるとすれば、世界の獄中闘争史に燦然と輝く道しるべになるはずであるから積極的にこれを明らかにして欲しい。

 文芸評論家平野氏は、こうした宮顕の不退転の獄中闘争に「心から頭をさげる」、「恐らく自己の姓名さえ承認しなかっただろう。宮本顕治の驚嘆すべき不退転の態度」と感心しており、かなりな提灯持ちであることを自弁している。こうして、この間の宮顕の獄中闘争は、「非転向党員のうち、最も頑強だったのは宮本顕治」であるという箔をつけ、「唯一非転向タフガイ神話」が作りだされることになった。

【「宮顕の網走監獄時代の様子」考】
 いわゆる宮顕の「網走ご苦労説」も正確に理解する必要があろう。宮顕が網走刑務所に服役したのは、6月18日から10月9日までの割合と過ごしやすい3ヶ月半の間である。この頃の様子については、宮顕自身が、「宮本顕治対談集」の中で次のように語っている。  
 「網走はそう長くないんです。戦争が終わる年の6月に行って、10月に出ましたから、一番気候がいい時期にいた訳です」(116P))。
 「(網走には春、夏、秋と一番いい気候のときにおった)網走というのは農園刑務所と云いましてね。農作物を作る刑務所なんですよ。ここでジャガイモがうんととれる。東京の刑務所ではおみおつけの実が何もない、薄いおつゆでしたが、網走ではジャガイモがゴ ロゴロしていて、ジャガイモの上に汁をかけるようで、食料条件がよかった訳です。(中略)それで体重が60キロぐらいになったんですよ。60キロというのが 私の若い頃の標準でね。(中略)そういう訳でむしろ健康を回復したんですね」 (376P)。

 なお、宮顕は次のようにも述べている。

 概要「網走の方が巣鴨よりまだはるかに衛生的だった。第一、入浴はまだ週2回あったし、しらみや南京虫も衣類や房にいなかった。こちらは、食事がほぼ定量つめられていて、ひどい空腹感はなかった。」(「網走の覚書」)。

 宮顕は、「網走の覚書」で「獄中闘争」の様子を次のように自弁している。

 「網走刑務所は、看守のテロの点では、巣鴨よりもっと野蛮だった」と次のように記されている。「“捜検”といって、毎日、監房の検査を係りの看守がやって回るが、何か部屋の整頓が悪いとか掃除が不十分ということでも気まぐれにパンパンという高い音のする殴打を加えた。私が入って間もなく、私の房の番号を呼んでこの“捜検”の看守が扉を開けた。私は返事して立ち上がって房外に出たが、いきなりピシャリと平手が飛んできた。『殴るとは何だ---』と私が詰問すると、『その返事は何か』とどなりつけてきた。房から出る時私が『ハイ』とはっきり答えず、オイという風に聞こえたのがけしからぬというのである。そして私の名札を見てそれ以上は言わず行ってしまった。私は早速看守長に面会を申し出て、その暴行を詰問したが、『それは悪かった。よく注意しておく』という回答だった」。

 当人はかくも威風堂々さ、看守のみならずその長まで詫びさせる獄中闘争の様子を得々と語っているつもりのようである。わたしは、公判陳述の大嘘からしてこのあたりのそれも信用しない。信用したとしても、この程度のことに対して「看守のテロ」とは何と大袈裟なことかと思う。それと、「私は早速看守長に面会を申し出て、その暴行を詰問した」もおかしな記述である。宮顕の抗議を看守が聞き分け、看守長に伝わり、面会が出来て、暴行を詰問し得たということになるが、何と聞き分けの良い網走刑務所であることよ。時期は異なるが、徳球、市川正一元委員長らも厳寒の網走刑務所に居た筈であるが、その時の様子といずれ比較させて見たい。

 私は、宮顕に対する「看守のテロ」は当初よりなかったとみなしている。その裏づけは、宮顕自身が次のように記していることで判明する。

 「(1933.12月の検挙間もなく)麹町の留置場でも看守から真冬に寝具もくれず、手枷足枷をかけて持久戦的拷問をやられた。しかし拷問の効き目がないと考えたのか、その後は警察の一年間、そうした肉体的拷問は受けなかった。市ヶ谷.巣鴨の11年間でも、収容者をなぐる蹴ることを何とも思っていず、日課のように繰り返している看守たちからは、直接なぐられたことはなかった」(「網走の覚書」)。

 これは貴重な告白である。当人はこの後に続けて獄内待遇改善闘争の「札付き」になっていたが、「それらの闘争の中でも、正規懲罰を加える口実と隙はつかまれなかった」(「網走の覚書」)からであるとしているが、うそ臭い。どういう理由付けしようとも、殴られることが無かったことは確かなようである。とすれば、「網走刑務所は、看守のテロの点では、巣鴨よりもっと野蛮だった」も、宮顕自身に対しては嘘になるし、真実とすれば逆に巣鴨生活がいかに大甘なものであったかを逆証左することになろう。


【「宮顕の網走刑務所出所経緯」考】

 1945年(昭和20年).10.9日午後4時、網走刑務所を出所した。宮顕37才、百合子46才の時であった。ところで、この9日出所も謎である。政治犯の一斉釈放は10.10日であり、宮顕の場合は袴田同様に「治安維持法は撤廃されたけども、一般刑事犯罪との併合で起訴されているので、その取り扱いが微妙であった時期」の一足早い出所ということになる。この一日早い出所というのも問題にされていないが、考えてみれば不自然ではある。

 これについては、袴田の貴重な証言が為されている。

 「朝早くに所長がきて、『僕の責任で出すから出ていってくれ、『司法省に使いを出したけれども、その返事は待っておられない、君はハンストなんか宣言して、その体でどうするのだ。その責任まで負わされたらたまらない』と云って、これは彼の英断だったかも知れませんけどもね。宮本顕治同志が既に網走の刑務所から出所していたので、僕はそのことも云ったのです。『同じ罪名で無期懲役の宮本君が出ているのに、なぜ僕がここに閉じこめられていなければならないのか、君たち所長の責任だ』というものですから、彼は板挟みになって、『確かに治安維持法は撤廃されたけれども、その他の罪名は取り消しになっていない。従って併合罪があるので出せない』という通達が司法省からきているわけです。それで残していたんですね」。

 暫し黙して考えてみるに値するであろう。

 百合子は「9ヒデタソチラヘカエルケンジ」という電報を受け取った。釈放後東京の宮本百合子宅に戻ったのは10.19日。この十日間の宮顕の消息も闇に包まれている。同時期にあちこちの刑務所から開放された徳球、志賀ら指導者の面々は例外なく幾度にもわたって「GHQ」の調査を受けているが、宮顕にはその痕跡さえ明かされていない。これも不思議なことである。宮顕については「潔癖神話」ができるようにできるように作為されていると思う私は穿ち過ぎだろうか。

 こうして宮顕は百合子の元へ帰ってきた。国分寺の自立会を訪れたのは10.21日と言われている。すでに全国から党員が参集し始めており、再刊赤旗の一号を背負って全国に飛び立っていたあわただしい頃であった。百合子はこの頃、宮顕に「後家の頑張りみたいなところができているんじゃないか」と言われたようである。これが百合子の12年にわたる心労に報いた宮顕の言葉であったらしい。


【宮顕の獄中闘争の流布されている誤解について】
 上記で考察したように、宮顕の獄中闘争はあらゆる角度から見て胡散臭い。他の党員の場合のように死の拷問攻めによるまさに虐殺、転向、あるいはごく少数の非転向、獄死に比べて、優遇され配慮されすぎたおかしさばかりが見えてくる。にもかかわらず、一般に流布されている宮顕の獄中闘争の武勇伝は次の通りである。

 戸川猪佐武の「小説自民党対共産党」の一節を検証する。

 「彼の耳の底では、北の海の音が鳴っていた。網走刑務所で送った12年の間、くる日もくる日も、耳にしていた波の音である」。「それでもなお、彼は不屈だった。-耐え抜いてみせる。その頃、左翼の多くの人々が、獄中で転向を遂げていた。‐‐‐宮本は、転向を強いられながらも、それには応じなかった。警察、検察側の取調べに対しても、宮本は決して、調書をつくらせるようなことは、一切しゃべらなかった」。

 臼井吉見氏も中野重治との対談「人間・政治・文学」(「展望」1976.9月号)の中で次のように述べている。
 「宮本氏のように、網走の牢獄で十何年も頑張るというような特別の人もあるんだけれども云々」。

 久保田政男氏の「フリーメーソン」でも次のように記している。
 「徳田球一、志賀義雄、宮本顕治ら戦前の日本共産党の指導者は獄中で十数年頑張った歴史を持っているが、このような共産主義者は欧米には例がない」。

 久保田政男氏には、こういう雑な書き出し箇所がまま見える。徳田球一、志賀義雄は良いとしても、宮本顕治も同じように評してはいけない。通常流布されている「宮顕網走獄中闘争記」を真に受けたらそうなるけれども、見てきたように、宮顕が網走に居たのは終戦間際の僅か数ヶ月のことである。しかも春から夏にかけての過ごしやすい時期である。決して、網走に12年居たのではない。この明白な事実が誤解されたまま「真の非転向タフガイ人士宮顕」像が勝手に一人歩きしている。

 付言すれば、宮顕の場合、拷問が為されたかどうかさえ疑わしい。「調書をつくらせるようなことは、一切しゃべらなかった」のも、真実しゃべっていない裏づけは何もなく隠されている可能性がある。逆に、真実存在しなかったとすれば、調書作りそのものが不要とされていたからではなかろうか。代わりに宮顕がなし得たことは、単独法廷でのとうとうたる「正義の陳述」である。しかも、反対尋問が殆ど為されていないというおまけつきでの。






(私論.私見)