宮顕派閥一覧

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).8.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、宮顕派閥を確認する。それにしても、これが党内に派閥を禁じた最高責任者の生態である。


【1、戦前の宮顕グループ「リンチ事件組」】
 蔵原惟人(明治35)、袴田里見(明治37)、中条→宮本百合子(明治32)、野坂参三

 「いずれの時期にも蔵原の上には、イデオロギー問題全般を統括する宮本顕治がおり、宮本の自称『保護者』を以って任じていた蔵原は、宮本の『リンチ事件』に対する責任を帳消しにして、彼を党の最高指導者に押し上げる使命感に燃えていた」(増山太助「戦後期左翼人士群像」)。

【2、戦後初期の宮顕グループ「国際派内宮顕組」】
 戦前の宮顕グループ「リンチ事件組」(蔵原惟人袴田里見宮本百合子、野坂参三)に加え、新たに多田留治戎谷春松(明治41.8.6、影の護衛隊長)、高原晋一(大正6.5、22.2月入党、財務畑)、岡正芳松島治重米原下司順吉吉田資治らが加わる。

【3、戦後初期の宮顕家族】
 宮本百合子逝去により、百合子在世時の秘書であった大森寿恵子と再婚する。長男太郎、次男公治を産む。

【4、「六全協」以来の徳球系幹部寝返り組】
 春日正一聴涛克巳砂間一良内野竹千代河田賢治紺野与次郎。

【5、志田系寝返り組
 村上弘(大正10.9.24、22年入党)、荒堀広(大正14.10.15、20年入党)、緋田吉郎(大正14)、金子満広(大正13.11.17、21.10入党)。

【6、「六全協」以来のすり寄り組】
 榊利夫(4.2.21、早大、22年入党)、工藤晃(大正15.2.10、)、韮沢忠雄(大正11.12.13、)、西沢富夫(大正2.7.7)、茨木良和市川正一(大正2.9.1、21年入党)、西井教雄(大正12.1.31)、岩林虎之助

【7、「六全協」前後来の「東大グループ」登用組
 工藤晃、上田耕一郎、不破哲三(上田建二郎)、小林栄三(3.3.16、22年入党)、中島武敏(3.9.20、24年入党、上田系)、宇野三郎(6.6.2、東大卒、25年頃入党)、西沢舜一(3.8.17、22年入党、上田系)。

 他にも「全逓グループ」登用組として高原晋一村上弘(大衆運動)、浜武司(統制面)、荒堀広(労働運動)、茂野嵩。「国鉄グループ」登用組として市川正一(大正2.9.1、21年入党)、金子満広藤原隆三
その他労組系登用組として緋田吉郎。「民青グループ」登用組として西沢舜一。「早大グループ」登用組として竹内七郎(労働運動)、榊利夫。その他登用グループとして立木洋(6.3.11、)、桑原信夫(2.3.30、22年入党)、新原昭治(6.7.6、)、西沢富夫、中島武敏、岡本博之。

【8、秘書グループ】
 宮顕の秘書グループは老秘書グループ(戎谷春松、高原晋一)と若手秘書グループ隠れ秘書グループに分かれる。若手秘書グループは次の通りである。(「宮本最晩年の議長室室長・現幹部会員岡宏輔登場」その他参照)
宇野三郎 (6.6.2、東大卒、25年頃入党)。宮本国会秘書(宮本参議院議員時期)。1977年の14回大会で中央委員。1994年の20回大会で常任幹部会員。21回大会で格下げ(21)、22回大会で引退。社会科学研究所長・党史資料室責任者、『党史』編纂責任者、宮本意向の理論化担当、党批判者・反党分子への反論部門担当、『民主文学4月号』問題での宮本意向を受けた民主文学同盟幹部粛清担当。宮本国会秘書(宮本参議院議員時期。
小島優 ()。1977年の14回大会で常任幹部会員。1994年の20回大会で常任幹部会員。21回大会で引退。書記局員、日常活動局長、統制委員会責任者、長期に赤旗編集局・拡大部門担当。
吉岡吉典 (3.5.16、22年入党)。1977年の14回大会で准中央委員。1994年の20回大会で幹部会委員。留任(22)。2004年、参議院議員引退。赤旗編集局長、政策委員長。担当部署公表なし(?)。
西井教雄 ()。
小林栄三 ()。1977年の14回大会で常任幹部会員(中央委員から2段階特進)1994年の20回大会で常任幹部会員。22回大会で引退。文教部副部長、袴田政治的殺人「小林論文」執筆と粛清担当、教育局長、法規対策部長、思想建設局長、書記局員、山形県猪口県委員の粛清担当、『日本の暗黒』連載中断での下里正樹赤旗記者解雇・除名の粛清担当。2001年死去。
白石芳朗 ()。1977年の14回大会で常任幹部会員。1994年の20回大会で常任幹部会員。21回大会で格下げ(21)、22回大会で引退。書記局員、選挙・自治体局長、文化・知識人委員会責任者。
浜野忠夫 ()。
若林 ()。
諏訪茂 ()。1972年、宮本捏造による民青新日和見主義分派査問委員。1977年の14回大会で常任幹部会員。15回大会常任幹部会員。(年、死去)
宮本忠人 ()。1977年の14回大会で常任幹部会員。1977年の14回大会で常任幹部会員。1994年の20回大会で常任幹部会員。21回大会で引退。書記局次長、機関紙局長。立花隆・袴田里見問題対策での「スパイ査問問題第1委員会」10人のトップ、反論大キャンペーンを組織・指導、兵本達吉もその委員メンバーだったと証言。
金子逸 ()。宮本ボディガードで身辺防衛担当。1994年の20回大会で常任幹部会員。書記局次長。22回大会で格下げ。
有馬治雄 ()。宮本議長室室長。22回大会で引退。書記局次長、選対局次長。
有働正治
()。選対局次長、『前衛』編集長、参議院議員。1994年の20回大会で常任幹部会員。21回大会で格下げ、22回大会で引退。参議院議員排除。
上田均 (9.5.10、34年頃入党)。警備畑、防衛隊責任者。1977年の14回大会で幹部会委員。留任(22)。財務・業務局長。 財務・業務局長。
佐々木陸海 ()。国際委員会責任者、衆議院議員。1994年の20回大会で常任幹部会員。書記局次長。21回大会で格下げ。2000年、衆議院議員排除。
岡宏輔  宮本秘書団私的分派の一人。1985年、宮本秘書をしつつ、彼の指令により、『核兵器廃絶問題めぐる対外盲従分子批判−日本労働党・大隈一派』論文を書く。1989年、宮顕指名で赤旗解説部副部長に抜擢され、『マル青同批判』論文を赤旗に載せる。1990年第19回大会で、宮本秘書から43歳で准中央委員に昇格。1994年第20回大会で宮顕により宮本議長事務室の責任者(議長室室長)に抜擢される(宮顕最晩年の議長室室長)。1997年第21回大会、2000年第22回大会で中央委員に留任。2006年第24回大会で58歳の時、幹部会員50人の一人に昇進。新設された「中央委員会事務室副責任者」に抜擢される。、2007年5月、不破哲三の新版『スターリン主義と大国主義』を絶賛する書評を「しんぶん赤旗」に載せる。2007年8月23日、志位・市田・不破の信頼と指名を受け、立花批判記事を書く。
 
 隠れ秘書グループは次の通りである。聴涛弘(10)、河邑重光(14)。他に花房紘()

【9、身の回り世話人組】
 専属看護婦、代々木病院(財団法人東京勤労者医療会)

【秘書グループと不破・上田グループの反目考】
 
宮顕直系グループ 戎谷春松、高原晋一、小林栄三、小島優、白石芳朗、上田均、宇野三郎、有働正治、花房紘、金子満広。
不破グループ 上田耕一郎、志位和夫、荒掘広、桑原信夫、聴涛弘、佐々木陸海、浜野忠夫、河邑重光。中立系は、立木洋、小笠原貞子、市川正一、宮本忠人。
中立系グループ

【反宮顕グループ】
徳田−伊藤律グループ 長谷川浩、藤原春雄
徳田−志田グループ 志田重男、吉田四郎、御田秀一、上田等、水野進
春日(庄)グループ 春日庄次郎
春日(庄)グループ分派 内藤知周、いいだ.もも、内野壮児
志賀グループ 志賀義雄、鈴木市蔵
中共系グループ 西沢隆二、安斉庫治
神山グループ 神山茂夫、中野重治
西川彦義

【宮本顕治的人間観の対極から(樋口篤)(寄稿・増山太助『戦後期左翼人士群像』によせて、かけはし2000.11.6号より)】
 日本版ノーメンクラトーラ

 「竹中恒三郎と紺野与次郎」(一八六頁)(ともに中央委員・書記局員等を歴任)の二人は「いつも体制を支える二枚腰」との副題がついている。路線と指導部が変わっても「万年主流派」ということである。その文中で増山は日本型ノーメンクラトーラ(特権制度)について次の様にいっている。
 「七〇年代、細胞が支部に変えられる頃に中央集権的な支配が一挙に強まった」。
 「上から任命される党官僚によって支配される党につくり変えられたのであった。しかも日本の『ノーメンクラトーラ制度』は独裁者宮本の『無謬性』と『権威』を信仰することを最大の条件とし、宮本の周辺は宮本の眼鏡にかなった者で固められるという特色をもった。だから党内での『平等性』はまったく失われ、『自由と民主主義』を約束する『社民化』を推進しても結局口頭禅に終わって、大衆を欺瞞する大きな矛盾をかかえこむことになったのであった」(二〇五頁)。

 特権意識の自覚はなかった

 宮本周辺の「眼鏡にかなった者」たちとは、前大会で「引退」「降格」された常任幹部会員の小島優(機関紙対策委員長)、前記宇野三郎河村赤旗編集局長(九九年秋に交替)らであろう(かつては西沢富夫副委員長紺野、竹中ら歴代つづいている)。ソ連・東欧党のノーメンクラトーラ(特権階級)は、ルーマニアのチャウシエスク大統領(銃殺された)夫妻や、ブルガリアのジフコフ第一書記のように、いくつもの豪華な別荘や専用お狩り場など、アメリカの大富豪なみの生活に象徴される。ポーランドの連帯労組の八〇年大ストライキの二十一項目要求の中心が、この「ノーメンクラトーラの特権廃止」であったが、その特権は、大多数の国民が食えない時に、党員とくに幹部たちは、「好い物を、安く、並ばないで」買えて食える、が基礎にあった。




(私論.私見)