補足(4) 「杉本.岡田の樺太越境事変への無責任教唆の闇検証」

更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).3.28日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2021.3月、竹井ちよ(杉咲花)主演のNHK連続放送ドラマ「おちょやん」に、小暮(若葉 竜也)と百合子(井川 遥)がソ連へと旅立つ前のシーンが登場した。これは「杉本.岡田の樺太越境事変」のことであろう。これを機に眼を通すことにした。
 「杉本.岡田の樺太越境事変」は、恐るべき闇を見せている。即ち、宮顕は獄中下で、「杉本.岡田の樺太越境指示」をしており、つまり党活動を継続し得ていたことが判明している。「宮顕の獄中闘争」の奇異な面である。これは、早急な解明が待たれる変事であると思われる。あまりに重要なメッセージが垣間見えるので、別章立てて考察することにする。結論を云えば、「宮顕が獄中で党活動をしていた可能性がある」という疑惑が、「杉本.岡田の樺太越境事変」を通じて見えて来る。れんだいこ観点からはさもありなんということになるが、「唯一非転向完黙人士」観を持つ者達はこれをどう説明するのだろうか。

 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝


 (参考文献)「加藤哲郎一橋大学社会学部教授のHP」の「国境を越える夢と逆夢」、「『日本共産党の70年』と日本人のスターリン粛清」等を参照

 概略事件の主役杉本と岡田について述べておく。二人は愛人関係にあった。杉本良吉は、演出家であり、1931年に日本共産党に入党している。小林多喜二と同世代であり、病妻を抱えながら演劇の仕事を続けるうちに岡田と恋仲に陥る。
 岡田嘉子は、明治35.4月、広島市に生まれた。母方にオランダの血を持つ。東京・女子美術学校を卒業後、女優を志し、大正10年、「出家とその弟子」の公演で、一躍新劇界のスターになる。次いで翌年、映画にも出演し、後に小津安二郎監督の作品に主演する等々、戦前日本当代一流の大物女優であった。この間、複数の恋愛を経験しており、昭和11年頃、杉本と知り合う。
 「杉本良吉・岡田嘉子の越境事変」とは、1938年正月の1.3日夕刻、演劇演出家・杉本良吉(本名・吉田好正)と女優の岡田嘉子の愛人関係コンビが北樺太経由で日ソ国境を越境した事件のことを云う。「恋の逃避行」、「“赤い恋”の樺太国境越え」、「愛の雪見か心中?」としてマスコミでも騒がれた。この事件と宮顕が深いつながりがあることが判明している。しかし、この時宮顕は、スパイ査問致死事件の被告として、巣鴨の東京拘置所にいた。この両者がどのように結びつくのであろうか。この解明が本稿の趣意である。
 1932.9月以前、杉本良吉(演劇人)と今村恒夫(詩人)は、中央委員・宮顕を通じて「党指導部による党員・杉本、今村の入露指令伝達」が為され、それに従い小樽まで出かけて入露を試みているが失敗する。
 「宮顕に、『今後、機会があったら計画を実行するように』といわれていたとされている」。

 これは、升本「女優・岡田嘉子」(88頁以下)、1972.11.16日付け赤旗、宮顕「自主独立への道」(1975年、368頁以下)、「社会科学総合辞典」(333頁)等々で裏づけられる。宮顕自身もこのことを認めている。1954年、宮顕は、「多喜二と百合子」2号の蔵原や中野重治・佐多稲子らとの座談会「プロレタリア文学にたおれた人々」の中で次のように語ったと云う。
 概要「杉本良吉・今村恒夫のソ連派遣指示(1932年秋に試み失敗)は、どうせ誰か1人や2人(ソ連に)行ってないと、先が長いから、みんな捕って資本(もとで)がなくなると困るというので、杉本良吉と(今村恒夫をソ連に)2人やることにしたんだ」。
 
1972.11月、岡田嘉子氏が「初の里帰り」した際、幾つかの事を宮顕に質疑しているようである。宮顕は記者会見して、「杉本には、1932年、私からコミンテルンとの連絡をとるように指示した」と述べており、1932年秋頃、杉本良吉・今村恒夫への「党指導部による入露指令伝達」を為していた事実を認めている。

 
これに関連して、加藤教授は次のような貴重情報を開示している。
 「今回、国崎定洞の最期を探求して、私は資料を手がかりに、何人かの現存する当時の関係者に会った。印象的だったのは、それぞれの人は自分の関わった活動や事件については詳しいが、その行動や事件の全貌と歴史的文脈を、なかなか理解できずにいることだった。1933年の日本共産党の最高指導者であった山本正美でさえ、中央委員宮顕が前年杉本に訪ソの指令を出した試みたことを知らなかった」。

 袴田は次のように述べている。
 「宮本顕治が、ある常任幹部会の席で、こういったことがある。『コミンテルンとの連絡の為に杉本をソ連に派遣したのは私だった』。一体彼はどういう権限で、またどういう成算があって杉本にモスクワ行きを指示したのか、私には理解できない」。
(私論.私見) 「党指導部(宮顕)による党員・杉本、今村の入露指令伝達」について

 岡田嘉子氏が「初の里帰り」した際、幾つかの事を宮顕に質疑した裏事情は、宮顕に対する疑念があり、どうしても質したかったのではなかろうか。宮顕の弁明を聞き、岡田嘉子氏がどう納得したのかしなかったのかは分からない。しかし、疑念を持った岡田嘉子氏の感性は正しいように思われる。れんだいこはつとに指摘しているが、宮顕スパイ説に立たない限り「闇」は解けない。

 そのスパイ宮顕が誰それを掴まえてはスパイ呼ばわりしたものだから、多くの者はそれに振り回されてしまい、宮顕その人こそ真性スパイではないかと問う余裕を持ち得なかった。それは一種の論法幻惑術であり、それに騙されてはいけない。世の中はこういう手合いが跋扈しており、故に論法術にも長けておかないといけない。れんだいこがここでも指摘しておきたい。

 話しを戻す。岡田嘉子氏の質疑に答えて、宮顕自身が、「党指導部(宮顕)による党員・杉本、今村の入露指令伝達」の事実を証言していることになるが、この宮顕による杉本良吉への指令は様々な点でおかしなことになる。この時宮顕は僅か入党1年にして24歳の頃である(宮顕の入党は1931.5月頃)。当時の宮顕にそれだけの権限があったであろうか、疑問としたい。いくら将来有望の逸材であったにせよ、宮顕単独指令とは考えにくい。

 1932年頃といえば、党中央委員長風間丈吉、中央委員松村=飯塚盈延=スパイM、岩田義道、紺野与次郎の時代である。このうちの誰かから宮顕へ指令が伝達され、杉本へ伝えられたと考えるほうが自然というものであろう。れんだいこ推定によればズバリ、スパイM-宮顕-杉本・今村の線しか考えられないことになる。

 「中央委員宮顕」とあるのはオカシイ。1933.1月下旬、「山本-野呂執行部共産党」が創出されたが、宮顕はこの時初めて中央委員候補に昇格したはずである。従って、1933.1月下旬以前の、1932.9月以前に「中央委員宮顕」は履歴詐称である。杉本の思い違いか、宮顕の騙りによる間違いのどちらかであろう。

 加藤教授指摘の「1933年の日本共産党の最高指導者であった山本正美でさえ、中央委員宮顕が前年杉本に訪ソの指令を出した試みたことを知らなかった」は、当時の党組織上あり得ないことで、それがあり得たということは、「中央委員(正しくは候補と思われる)宮顕」の秘密活動ということになる。しかしてそれは、党の秘密活動であったのか、スパイM-宮顕ラインの秘密活動であったのか、ということになる。
 
 それはともかく、宮顕曰く「資本(もとで)がなくなると困る」の真意は、どのようなものであるだろうか。二人の越境指令を正当化させるにはおかしな表現であり、「資本(もとで)がなくなると困る」なる感覚、そういう用語使いは左翼運動家の発想にはない。ズバリ警察的治安対策の眼であろう。

 この時、「樺太経由」が意識的に教唆されていたのかどうかが詮索されねばならない。宮顕は具体的方法については指示しなかったと後に明らかにしているが、臭い。単に入ソだけならいかようにも手段はあったのに、杉本はわざわざ北海道-樺太経由に拘っている。それは恐らく「ルートの指示」が為されていたと窺わせられるものである。

 ちなみに、このルートよりの入ソは、時の特務機関が関心を示していたルートでもあった。杉本.岡田の入ソ事件には、当人らは意識してなかったにせよ、そういう胡散臭いところがあることが知られねばならない。杉本ー今村の入露はいわば調査用の人身御供にされていた可能性がある。

 こうした事実から、「日共党史50年」、「同60年」、「同65年」には、杉本良吉の入露が「コミンテルンとの連絡のため」と記述されていた。しかし「同70年」ではこの部分が削除されている。その理由は開示されていない。説明を要するところであるが、れんだいこは、辿っていけば隠し様のない臭い部分が露見することによって意識的に削除されたと見る。

 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝

 杉本良吉・岡田嘉子らは、微妙にゾルゲ事件と絡んでいる。杉本良吉・岡田嘉子の二人が越境前の1937年12月末に住んでいたのは、当時東京九段坂下にあった豪華マンション「野々宮アパート」の岡田の部屋であった。その同じ野々宮アパートには、その直前にソ連に帰国し、杉本・岡田逮捕の2日前に逮捕されてラーゲリに送られた、ソ連赤軍第4本部諜報員アイノ・クーシネンが住んでいた。

 アイノは、コミンテルン幹部会員オットー・クーシネンの妻であり、当時日本にいたもう一人の赤軍諜報員リヒアルト・ゾルゲと連絡していた。つまり、1937年、杉本・岡田は、アイノ・クーシネン、リヒアルト・ゾルゲと、いつでも連絡をとりうる範囲にいた。こうした事実は、アイノの回想「革命の堕天使たち」と岡田の自伝・評伝からも推定可能である。

(私論.私見) 「杉本良吉・岡田嘉子とゾルゲ事件との絡み」について
 「杉本良吉・岡田嘉子とゾルゲ事件との絡み」は歴史の偶然の悪戯だろうか。推測しかできないが、どうも杉本ー今村ラインが臭い気もする。

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 1937.12月中旬、杉本良吉と、愛人の岡田嘉子がソ連越境を決意している。ちょうど日本軍の南京入城の頃である。越境を言い出したのは、共産党員杉本良吉ではなく、愛人の岡田嘉子だった。岡田は、排外ナショナリズムの熱狂のなかで、もはや自分の思うような芝居や映画は、日本国内では不可能になったと感じとった。軍国主義のお先棒をかつぐのはまっぴらだったと、後に語っている。杉本良吉には、特高警察の監視と病弱の妻と愛人岡田との葛藤から逃れるためにも、渡りに舟の誘いとなった。杉本は、既に5年前に北海道からの渡航を試みて失敗していた。

 この時獄中の宮顕から「コミンテルンとの連絡」を命じられていたと云われている。岡田嘉子の証言によると、杉本良吉は、1937.12月の越境直前に獄中の宮顕に面会に行った、と述べたという(「心に残る人びと」)。この時どのような会話が為されたのか明らかでないのでやや不十分であるが、これを歴史的証言とすると重要なメッセージが残されていることになる。

 岡田嘉子の回想によると、宮顕は、戦後モスクワで岡田嘉子と会ったさい、「あの時、ぼくがマンダート(指令書)に代る紙片でも渡せたら、と述べたという」(「心に残る人びと」)。宮顕のこの云いは、いつ、どのような機会でのことを念頭においていっているのであろうか? 宮顕のマンダート=信認状があれば、杉本良吉・岡田嘉子は助かった可能性が考えられるにしても、獄中下の宮顕にそれがなぜ可能であるのか。既に党中央は壊滅させられている時である。その言い回しは、あたかも獄外にあっていかようにも為しえた風の言い回しでさえある。
(私論.私見) 「国境越え前の杉本の宮顕面会」について
 これを杉本の宮顕に対する形式的挨拶と考えれば単なる事実記録の意味しか持たないが、それにしても何の為に獄中の宮顕に会いに行ったのだろう。この時、何らかの指令的遣り取りが為されていたと考えると、ことは重大性を帯びてくる。5年前の指示と云い、このたびの面会と云い、面会者との間でこのような遣り取りが為しえたという事実自体から、宮顕がこの当時獄中下にあっても、他の被告らとは違う拘束状況に有り、なんらかの形で「党」活動していた可能性が生じる。

 このことは極めて奇怪なことになる。私の深読みかもしれないので追って調査していくことにする。この場合、「党」活動といっても裏方のそれであり、宮顕の変態的活動からして有益なことをする訳ではない。いずれにせよ、この事実は、宮顕の獄中活動の実態が再精査されねばならないことを発信している。
 こうして杉本は、「党の任務」として「コミンテルンに連絡するため」ソ連入国を決行した。そのソ連行きの心情について、加藤哲郎一橋大学社会学部教授のインタビューで、千田是也は次のように述べていると伝えられている。
 「気の毒なのは、杉本良吉・岡田嘉子の1938年正月のソ連行きだった。自分たち新築地劇団のグループは、土方・佐野が国外追放になったのを、37年9月頃に知っていた。しかし、当時演劇理論の違いや『アンナ・カレーニナ』の競演など、つまらぬところでわれわれと対立していた新協劇団の杉本は、それを知らずに、ソ連は天国だ、行けば土方・佐野と会えるだろう、メイエルホリドのもとで学べるだろうと信じて、ソ連に入ってしまった、と述べている」(千田「もうひとつの新劇史」394頁をも参照)。

 当時のソ連は、数千万人に及ぶ大粛清のさなかであった。つまり、二人の情報収集はあまりにお粗末で、計画は無謀であったということになる。共産党員杉本にとってはソ連はあこがれの「労働者の祖国」であったが、実際にはこの頃スターリンによる強権政治が吹き荒れていた。フランスの作家アンドレ・ジイドのソ連旅行記は、この事態を告げそれまでのソ連邦擁護から批判者の立場に移行していた。

 ジイドのソ連旅行記は日本でもすぐに翻訳・紹介されていた。杉本らがこうした情報を知らなかったとは考えにくい。但し、杉本の親しかった宮本百合子らはジイドを批判し、ソ連を信じて疑わない喧伝に努めていた。岡田は素朴にソ連の演劇にあこがれ、杉本もモスクワにいけば日本人演出家、土方与志夫妻や佐野碩らに会えると信じていた、つまり二人は幻想の社会主義に酔っていたのかも知れないが、当時国崎定洞の逮捕の頃であり37年8月には国外追放になっていた。
(私論.私見) 「杉本-岡田の樺太越え決行」について
 これによれば、当時ソ連ではスターリン暴政が荒れ狂っており、それは杉本-岡田が容易に知りえたことであった。それでも「杉本-岡田の樺太越え決行」が為されたということになる。突き動かした事情は何であったのか。演劇熱だけで説明がつくだろうか。

 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝
 宮顕は、杉本.岡田のこの決死行について、「杉本の党的任務」を公式に明らかにした1973年の講演で、次のように論評している。中野重治らの批判を退け、弁明している(「自主独立への道」371頁以下)。 
 「当時、ソ連は世界の共産主義者のいわば一つのあこがれでした。私どもも、ソ連ときけば身がしまるような、そしてここに新しい社会が生まれているんだ、と言ってみずからを励ましたわけです」。
 「もちろん私どもは[杉本に]1932年ごろソ連に行くような指示を出したことはありましたが、その後どういう方法で行けということまでは(笑い)もちろんいってありません」。
 「当時、杉本もそうでありますが、善意のコミュニストは社会主義の国ソ連に行けば、『牢獄と死』が待ちかまえているとだれも予想しないのが当然であります。スターリンの問題が国際的にも明白になったのは、戦後も大分たってからです」。

 加藤教授は、この宮顕の弁明に対して概要次のように批判している。
 しかしそれで、政治家の結果責任を免れうるのだろうか? 中央委員宮本にとっては杉本は「資本」の一つにすぎないが、「善意のコミュニスト」杉本自身にとっては、崇高な「党の任務」である。5年後の杉本の越境が、本当に共産党員としての使命感に支えられたものだったとすれば、1932年の宮本の指示は「笑い」とばせるものではなく、杉本に地獄への片道切符を渡したものであった。宮本は、当時の自分の獄中生活にダブらせて、小林多喜二・今村恒夫・杉本良吉の使命感や党派性を「不屈の戦士」と讃える文脈で述べているのだが、それは、宮本の好きな「知を力に」どころか、「善意の無知」をバネにした幻想への突撃ではなかったか?と。

 それは、ジイドに反論した宮本百合子と同質の、「善意の無知」ないし「信仰告白」ではなかったか? 職業政治家の心情倫理と責任倫理の問題を提起したのは、マックス・ウェーバーであった(『職業としての政治』)。日本共産党に「前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任」、「結果責任」を問いかけたのは、丸山真男であった(『戦中と戦後の間』601頁)。私が「歴史における沈黙の責任」を追及した野坂参三は、沈黙したまま、「同志を裏切った」責任をとらされ、寂しく世を去った。国崎定洞や伊藤政之助を「売った」山本懸蔵は、野坂に「売られ」自らが粛清されることで、責任をあがなったことになるのだろうか? 杉本良吉にソ連渡航を命じた宮本顕治は、当時は「善意のコミュニストは誰も予想しない」事態であったが故に、免責されるのであろうか? 。杉本に渡航を命じた日本共産党とは、杉本をかりたてた「社会主義」とは、いったい何であったのか? 岡田の人生において、宮本顕治の杉本への「任務」の指示は、いかなる意味を持っていたのだろうか?。
(私論.私見) 「杉本-岡田の樺太越え決行に関する宮顕の弁明」について
 「もちろん私どもは[杉本に]1932年ごろソ連に行くような指示を出したことはありましたが、その後どういう方法で行けということまでは(笑い)もちろんいってありません」の(笑い)とはこれ如何に。れんだいこはこういうところを見逃さない。一般に「笑い」は良いことである。しかし、この場合の「笑い」は不謹慎というか、そういう風に話を持っていった宮顕のあまりにも非同志的対応に問題がある。

 「スターリンの問題が国際的にも明白になったのは、戦後も大分たってからです」の弁明も余りにも無責任である。「非同志性と無責任性を備えた党最高幹部」とはこれ如何に。あまりにも見えすぎてくるではないか。

 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝
 二人は岡田嘉子による国境警備隊慰問を装って奇跡的に越境に成功した。1938年1月3日、樺太経由でのソ連越境に辿り着いた。ところが、艱難辛苦の末に成功した挙句待ち受けていたのは逮捕であった。二人は、政治亡命を主張したが認められず、密入国とされた。取り調べも別々にされ、2度と会うことはなかった。「天国のはず」のソ連側に入って為されたことがこれであった。 
 モスクワから粛清ノルマを課されていたサハリンの国境警備隊は、二人に「日本のスパイ」としての自白を迫った。それどころか、二人が頼ってきた佐野碩も、その師である当代ソ連の著名な演出家メイエルホリドも「スパイ団」の一味であることを認めさせようとした。岡田嘉子がまず拷問に屈し、越境1週間後の38年1月10日の供述では、日本の特務機関のスパイであると認めた。

 その供述書をもとに、杉本良吉の拷問も苛酷を極めた。遂に佐野碩・土方与志もスパイだったと「自白」し、それが佐野の演劇の師メイエルホリドの処刑につながったことも今日では知られている(「月刊Asahi」90年4月号)。佐野の師であったソ連の演出家メイエルホリドは、岡田・杉本の供述を根拠にされて39年6月に「日本のスパイ」として逮捕され処刑された。杉本は、1939.10.20日、銃殺刑に処された。
 岡田嘉子は、杉本良吉へのスパイ嫌疑を受けたことに対する獄中から助命嘆願書を提出している。1992.6.30日、毎日、朝日、赤旗など各紙が報じている。升本喜年「女優 岡田嘉子」(文芸春秋、1993年)所収。
 他方、岡田嘉子は殺されはしなかったものの苛酷な運命が待ち受けていた。愛する杉本とともに越境したもののあっけなく引き裂かれ、10年の禁固・流刑の罪で強制収容所送りとなりモスクワの北東800キロにあるビヤトカ監獄に移送された。約3年後、モスクワの監獄に移送された。岡田嘉子は獄中で、対日工作にも従事させられた。越境から凡そ10年経った戦後1947(昭和22).12月、釈放された。その後、モスクワで演劇を学ぶ傍らモスクワ放送のアナウンサーとして生活を始める。この時期、かって映画で共演したこともある滝口新太郎と再会し、結婚する。1971(昭和46)年、滝口が肝硬変で死亡。翌1972年、夫の遺骨を抱いて日本に里帰りする。越境から34年後のこととなった。以来幾度か来日し、約13年間、日本に滞在した。再びソ連に帰り、1992(平成4).2.10日、没した。享年89歳。

 だが、生前の3種の自伝やインタビューでも、ラーゲリ時代の真実を語ることはなかった。旧ソ連に残された岡田嘉子、杉本良吉、メイエルホリドらのファイルによって、岡田の死後にようやく真相が解明された。

 参照文献(加藤「モスクワで粛清された日本人」、名越健郎「クレムリン秘密文書は語る」(中公新書、1994年)、今野勉「岡田嘉子の失われた十年」(中央公論、1994年12月)。
余話1  飯塚繁太郎「評伝宮本顕治」23Pに、宮顕が杉本-岡田の決行を知った様子が次のように記されている。記者会見の席で語ったとのことである。
 概要「そのことは、たまたま私も監獄で、看守が“杉本良吉という男が岡田嘉子と越境した”と監房ののぞき窓からしらせてくれたので知った。別に意外でもなかった」。
(私論.私見) 「宮顕が杉本-岡田の決行を知った様子」について
 ご丁寧にも、看守が「杉本良吉という男が岡田嘉子と越境した」と教えてくれたとは。私には、いつもの臭い芝居話のように聞こえる。仮にその通りとしたら、何ともご親切な看守が居ることになる。

 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝
余話2  「宮本百合子全集」第19巻所収の百合子の1938.9.15日・19日付けの宮本顕治宛手紙によると、9.15日に百合子と面会した顕治は、越境した杉本良吉の妻・杉山智恵子について、百合子が小踊りして喜ぶような「一寸お云いになった言葉」、「極めて自然に云われた数言」を発したようである。それが、18日の百合子による杉山知恵子の見舞い、顕治の智恵子宛手紙につながった。
(私論.私見) 「獄中下の宮顕の杉本良吉の妻・杉山智恵子への配慮と百合子の使い走り」について
 宮顕と獄中結婚した百合子は、差し入れのみならず、獄中下の宮顕の使い走りをしていたことが「手紙」で明かされている。それによると、「杉本・岡田の決行」を知った獄中下の宮顕が、杉本の妻・杉山智恵子へ配慮し、百合子に言伝を届けさせている。1938.9.15日朝の面会の際、宮顕が百合子に発した杉山智恵子についての「数言」とは、いったいどのような言葉であったのか? その内容は明らかにされていないが、このことも、当時の宮顕の現役活動ぶりを示唆していないだろうか。

 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝

【「1999年、山崎憲兵証言」】
 2009.1.15日号週刊新潮は、ノンフィクションライター新井省吾氏の「【特別読物】『憲兵雑誌』が記録していた女優・岡田嘉子の『恋の逃避行』」を掲載している。興味深いので、要約と一部転載しておく。記事によると、旧陸軍・関東憲兵隊教習隊出身者の会報誌「栄光、1999(平成11).9.30日号」に、同教習隊14期生の故山崎英雄氏の「自ら祖国を捨てたものに幸はあったか~女優 岡田嘉子越境事件の検証~」が掲載されていると云う。

 同論文は、二人が越境時に振り切った国境警備隊員の故中村一芳氏の告白を元に記述したものとのことである。中村氏は事件当時、樺太憲兵隊上敷香(かみしずか)分隊に所属、階級は軍曹であった。次のような証言となっている。これを仮に「1999年、山崎憲兵証言」と命名する。
 「嘉子と杉本の二人が、国境警備隊の前線基地である半田沢国境警察駐在所に到着したのは、1月3日昼過ぎのことだった。二人は、兵士や警察官を慰問するとウソを吐いていた。到着してすぐに杉本は、『せっかくここまで来たのだから、今日のうちに国境地点を見に行きたい』と懇願する。午後1時頃、中村氏と国境警察の巡査が渋々付き添って国境線に向けて出発。二人を馬ソリに乗せ、スキーを履いた中村氏と巡査がその後を付いて行く。巡査は、スキーを操作しやすいように、銃は背負い紐で背中に回している。馬ソリに添ってしばらく歩くと、真冬だが好天なので汗ばんでくる。そのとき杉本が、『憲兵さん、お巡りさん、ご苦労さまです。勝手なことを言ってすみません。どうですか、その鉄砲は重いでしょうから、外してここに乗せたら』と荷物の上を指差す。そう言われ、中村氏と巡査は拳銃と小銃をソリの上に乗せた。国境線までの道は深い雪に覆われ、スキーを履いた中村氏らはどうしても遅れがちになる。ソリとの距離は徐々に開き、国境線に近づいた頃には50メートル以上も引き離されていた。伐開された国境線の手前で御者が馬ソリを止め、『お客さん、ここが国境線で、これ以上先へは行けません。その向かいの森はソ連領です』と言った。冬の陽は陰って辺りはもう薄暗くなっていた。馬ソリから降りた二人は、ちょっとの間、国境線の際に佇んでいたが、突然、深い雪を泳ぐようにしてソ連側に向かって走り出した。御者は驚いて、『ア-駄目だ、そつちへ行ったら駄目だ』と喚きながら、五、六歩彼らの後を追ったが、立ち止まった杉本はポケットに手を入れ、近付くと撃つぞとピストルを取り出すような仕草をした。御者は後に駆け出し、『逃げた、逃げた。あいつらソ連に入った』と、30メートルほどに近付いた中村さんと巡査に向かって喚いた。仰天した中村氏らが駆け寄った時には、既に二人は向かいの森の木陰に姿を消すところだった。『お-い、戻ってこい。戻れッ』。中村と巡査が森に向かって叫んだが、声は空しく森に吸い込まれていった。岡田らの越境はソ連側もすぐに気がついたらしい。木々に遮られて姿は見えないが、森の中でけたたましく呼び子が鳴り、軍用犬が狂ったように吠え立てていた。こうなるともう手も足もでない。一瞬の隙を突かれた。帰隊後、中村氏は、銃を手元から離したことが軍人にあるまじき行為と叱責され、留置場に入れられた。その後、中支派遣軍に転属となったが、この失態が汚点となってまとわりつき、処遇にも少なからぬ影響を及ぼしたという」。
(私論.私見) 「1999年、山崎憲兵証言」について 
 「1999年、山崎憲兵証言」に接して、「杉本.岡田の樺太越境事変」の真相を実に実に知ったと思う者は思えばよかろうが、れんだいこは、御者はともかく「憲兵、巡査後押しの越境越え」であったことが逆に確認されたと読む。そういう意味で、「1999年、山崎憲兵証言」の原本が存在しているとして、「無事送り届けの顛末報告書」であったと思われる。こう受け取るべきであろう。

 当然ながら、ソ連側は訝った。「1999年、山崎憲兵証言」通りとすると、国境警備隊の前線基地である半田沢国境警察駐在所慰問までは良いとしても、国境線に行くことまでがなぜ許されたのだということになる。同道した憲兵、巡査の鉄砲預かり経緯も芝居臭い。先に着いた杉本、岡田の逃亡後に憲兵、巡査が駆けつけるのもでき過ぎであろう。そういうこともあって、杉本はスパイ容疑で徹底的に追及され、アタラ惜しい命を落としてしまうことになった。ソ連側の取調べの非道を責めるのも一法だろうが、「杉本.岡田の樺太越境事変」を企画演出した者こそ責任を負うべきであろう。

 2009.1.13日 れんだいこ拝

 ネット検索で見つけた次の一文を転載しておく。
  広島からこんにちは公開しなかった公開質問状  2012年 05月 05日
 『日本共産党の70年』と日本人のスターリン粛清――公開しなかった公開質問状―― 書き起こし

 1 「宮本史観」に貫かれた『日本共産党の70年』

 1994年4月に『日本共産党の70年』がようやく発表された。「ようやく」というのは、今日の学会では日本共産党1921年成立説が有力になってきているが、かりに共産党がいう1922年7月15日を日本共産党の創立時点だと認めたとしても、70周年はすでに2年前の1992年のことであり、それまでの『日本共産党の40年』『45年』『50年』『60年』『65年』などの場合に比べ、刊行が大幅に遅れたからである。実際、当初は1992年夏発表が予定されていたようだが、旧ソ連崩壊で 大量の秘密文書が現れ、野坂参三名誉議長(当時)の山本懸蔵密告、ソ連共産党の日本共産党への資金供与など予期せぬ問題がでてきて、予定変更を余儀なくされたらしい。もっとも世界の共産主義運動崩壊のなかでは、「党史を出せるだけでも立派」という評もなりたつ。実はそれは、党中枢部に一人の老人が居座り続けているから、可能となった。つまり、「宮本顕治とその戦友たち」の党史である。

 その『70年』を、研究者として手にして眺め、驚いた。なんと、私の名前が出てくるのである。光栄にも(?)丸山真男や小田実らと同じ罪状で。1990年の第19回大会時に日本共産党を「反共攻撃」した人物として、こういう文脈で言及される。「[1990年7月の第19回]党大会を前に、『日本共産党への手紙』と題する本が出版された。『赤旗』(7月3日ー5日)は、佐々木一司社会科学研究所事務局長の論文で、日本共産党を中国や北朝鮮の党、とう小平や金日成、ホーネッカーやチャウシェスクと同列に論ずる加藤哲郎、藤井一行らを、きびしく批判した。加藤哲郎は、反党分子やニセ『左翼』暴力集団の流れに属した人物たちとともに、『フォーラム90s』なる組織をつくり、第1回よびかけ人会議の記念講演で、党への攻撃をおこなった」と。


 たしかに私は、1990年6月発行の松岡英夫・有田芳生編『日本共産党への手紙』に、「科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に」という小論を寄稿した。そこで私が問題にしたのは、マルクス主義の学問世界で「科学的真理の審問官」のようにふるまう日本共産党であり、その組織原則である「民主集中制」であった。それは同時に、私が歴史と事実に即して述べた率直な疑問を「反共攻撃」としか受けとめない、日本共産党の体質への批判だった。外部からの「批判」に過剰反応し、論者の学問体系や人格まで「反撃」しなければすまない同党のセクト主義だった。そうした手法を、今度は「党史」にまで及ぼし、東欧革命・ソ連解体・国際共産主義運動崩壊のもとでも現在の指導部をなんとか正統化しようというのが、『70年』の基調である。率直にいって、「またか」という感想である。だからここでは、私が『70年』を読んで驚いた、もうひとつの側面についてのみ論じる。


 それは、1994年4月15日の『70年』発表記者会見で不破哲三委員長の述べた、「この間に、旧ソ連共産党が解体してその秘密文書が表に出、さまざまな新しい事実が明らかになるとか、過去にさかのぼって究明する必要のある一連の問題があった」としている点である。不破氏は、これを取り入れたために発表時期が遅れたといい、実体不明な「ロシア共産党」代表が「ソ連秘密文書をもとにして党史を豊かにしたのは日本共産党だけだと驚きの声をあげたエピソード」まで披露して、自画自讃している。だが、それははたしてどこまで「豊か」であるのか?


 2 旧ソ連秘密文書と「内通者」山本懸蔵

 『日本共産党の70年』は、確かに旧ソ連秘密文書のいくつかを取り入れて、かつての『65年』とは異なる歴史的事実や評価を、書き込んでいる。だがそれは、ほとんど野坂参三の「裏切り」の告発に留まっている。小林峻一・加藤昭著『闇の男――野坂参三の百年』(文藝春秋社、1993年)のもとになった『週刊文春』連載に驚き、あわててロシアに調査団を派遣して捜しだした資料を各章に盛り込んではいるが、到底「豊か」とはいえない。ちょうど『65年』にも残っていた「スターリンの功績」をようやく削除した程度の、「貧しい」水準に留まっている。むしろ、野坂参三に対する断罪との関わりで、「北京機関」につながる徳田球一、ソ連資金の受け入れ先と同定された志賀義雄・袴田里見らの「誤り」「裏切り」が改めて強調され、いわゆる「50年問題」では宮本顕治現議長のみが正しかったと総括されたため、これまでの党史と比べても、『70年』は、いわば「宮本党史」として純化・完成されている。
戦後日本共産党を担ってきたリーダーのなかで、野坂参三は、唯一『65年』段階でなお肯定的に書かれる脇役だったが、『70年』ではついに、最悪の裏切者に転落した。そのため、主役の宮本顕治議長の言動が、戦前・戦後を貫く党史評価の一元的基準とされた。だが、そのような史観は、長続きするだろうか?宮本顕治氏ももうすぐ86歳である。

 『70年』の一つの特徴は、戦前日本共産党の歴史を、天皇制権力とたたかった英雄たちの叙事詩にしようとしていることである。無論、宮本顕治や市川正一らの獄中闘争については、『65年』にも同様な記述がみられた。『70年』は、1922年綱領草案や27年テーゼ・32年テーゼなどの綱領的・理論的記述に加え、虐殺された小林多喜二や野呂栄太郎・岩田義道ら非転向幹部のみならず、豊原五郎・伊藤千代子・奥村秀松ら、これまで無名だった革命家たちのエピソード・名前をも、意識的に挿入している。そうした事実の掲載自体は、研究者への情報提供として、歓迎できる。しかし、やはり「党史」だから、その取り上げ方は、政治的で恣意的である。


 たとえば市川正一について、突如、1993年に発覚した「デマ」との関連で、市川が佐野学逮捕の原因をつくったのではない、と言明する。私は寡聞にしてその「デマ」を知らない。「一部に流れた」というが具体的に何をさすのか、学会関係者に聞いてもわからない。おそらく何らかの政治的事情があったのだろう。興味深いのは、山本懸蔵についての記述が、「豊か」にされたことである。「内通者」野坂参三により「売られ」た犠牲者であることが判明したせいか、「北海道血戦記」や『太平洋労働者』に長く言及され、小林多喜二や野呂栄太郎なみの「英雄」に祭り上げられた。


 実は私(加藤)は、偶然にも『日本共産党の70年』発表の頃、『季刊 窓』誌第19号に「歴史における善意と粛清」という論文を発表した。それは、小林峻一・加藤昭『闇の男』の巻末資料にでてくる元東大医学部助教授国崎定洞の粛清について、旧ソ連秘密文書「国崎定洞ファイル」をもとに、山本懸蔵が国崎定洞をコミンテルン指導部に密告したことを、明らかにしたものである。ロシア語資料翻訳は富山大学藤井一行教授が担当し、二人で討論し、解読した。


 私たちの調査・解読では、山本懸蔵は、1934年9月に国崎定洞をコミンテルン組織部のコテリニコフに売り渡し、36年には伊藤政之助を党から除名してソ連秘密警察に売り渡した張本人であった。さらにさかのぼれば、山本懸蔵は、1930年10月に、片山潜の私設秘書であったフランス共産党員勝野金政を密告して、ラーゲリに送り込んでいた。当時ベルリン在住の国崎定洞の推薦でモスクワに現れた京大出身の非党員の青年、根本辰(とき)の逮捕・国外追放とからめたもので、根本と勝野は山本により「日本のスパイ」と疑われ、ゲーペーウーに売り渡された。私たちはそれを、『闇の男』に収録された巻末資料と「国崎定洞ファイル」の解読で見いだしたが、『70年』は、どうやらこうした資料をふまえていないらしい。いや、ある種の先入感が、資料発掘・解読を妨げたのであろう。


 歴史における善意と粛清」にも書いたが、旧ソ連秘密文書は、全体で7500万点、日本関係だけでも30万点にのぼるという。アメリカ国会図書館ですでに公表された300点ほどによっても、レーニンの革命直後のテロル指令などが現れている。ドイツ共産党やユーゴスラヴィア共産党については、800人以上の粛清犠牲者が確認されている。『闇の男』巻末資料からだけでも、山本懸蔵の妻関マツは、コミンテルンの秘密機関オムス(OMS)に関係したことがわかる。だが『70年』には、そうした事実の記載はない。むしろ、関マツの遺骨をつい最近ひきとり、日本共産党常任活動家の墓に入れて顕彰したと書かれている。

 日本共産党は、野坂問題が明るみに出てあわてて調査団を派遣し集めた史資料を、不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』上下(新日本出版社、1993年)に盛り込んだが、彼らの集めた山本懸蔵の記録では、国崎定洞や伊藤政之助の粛清経過はどうなっているのだろうか? 『70年』はむしろ、「1936年6月、山本が野坂にかわってコミンテルン日本代表に任命された」と書き、山本を顕彰している。


 私が「国崎定洞ファイル」から見いだした資料では、粛清当時の「コミンテルン日本代表」山本懸蔵は、『70年』のいう意味での「内通者」の典型である。一方で野坂参三を弾劾しながら、他方で山本懸蔵を英雄視する『70年』の執筆者たちは、どうやら日本人粛清の規模もメカニズムも、ほとんど理解していないらしい。『闇の男』からだけでも、少なくとも24名の犠牲者が確認できるというのに。

 私の『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年5月刊)は、山本懸蔵による勝野金政・根本辰・国崎定洞・伊藤政之助らの「密告」の根拠にも、考察を及ぼしている。旧ソ連秘密資料を手がかりに、粛清メカニズムを追求して行くと、1920年代末のコミンテルン幹部会員片山潜と、佐野学・山本懸蔵ら在モスクワ日本共産党員との確執に行き当たる。その片山と山本懸蔵の対立が、片山の娘千代の訪ソや山本の推薦した海員労働者のクートベ(東洋勤労者共産主義大学)入学問題と関連し、山本懸蔵の28年3・15事件時の自宅逃亡・訪ソについての片山による疑惑告発に発していることが読み取れる。


 国崎定洞はそこで、片山による山本疑惑情報収集を手伝ったために、山本懸蔵から逆恨みされ「大物スパイ」と疑われたらしい。野坂参三と山本懸蔵の間も、国崎定洞のソ連亡命・クートベ入学許可問題などで対立し、相互不信が累積していた。野坂の妻竜、山本懸蔵の妻関マツ、片山の娘ヤス・千代らの関係は、互いに政治的陰口をたたきあう仲であった。そして、それら疑惑のタネは、彼ら彼女らが日本で活動中に抱いた不信であった。要するに、1930年代在モスクワ日本共産党指導部は、互いに「スパイ」と疑い合い、コミンテルン機構内のソ連共産党員と秘密警察に密告し合う、疑心暗鬼の集団だった。そしてそれは、宮本顕治・袴田里見らのリンチ査問致死事件にいたる国内共産党の姿の投影だった。
現在までに私たちが入手した十数人の日本人の粛清記録に特徴的なのは、ほとんどが別の日本人とのつながりでの「スパイ」容疑であり、逮捕・銃殺・ラーゲル送りであった。互いに互いの足をひっぱりあう、陰惨な「同志」の関係が浮かび上がる。スターリンやソ連共産党にのみ責任をおしつけることのできない、「日本的」メカニズムが働いていた。

 『70年』は、これらの資料にアクセスできなかったのであろうか? 『65年』と比較すると、もっぱら野坂参三の過去の言動が暴かれ断罪されて、山本懸蔵は、逆に顕彰されている。国崎定洞と杉本良吉については「銃殺」と「名誉回復」に言及されたが、杉本の1938年正月越境については、『50年』以来『65年』まで入っていた「コミンテルンとの連絡のため」という渡航目的が、なぜか削除されている。これではとても、「新事実を取り入れた」とはいえない。野坂参三についても、立花隆や袴田里見らがかねてから提起し、『闇の男』が解明した疑惑の一部を追認したに留まる。問題は、その先にある。旧ソ連秘密資料からは、底知れぬほど深い「闇」の世界が見えてくる。

 奇妙なのは、『70年』第3章の粛清期の叙述において、山本懸蔵、国崎定洞、杉本良吉、野坂竜、関マツ以外の粛清犠牲者についての言及が、全くないことである。日本共産党員であったことが判明している伊藤政之助、寺島儀蔵、あるいは『赤旗』でも生き残り犠牲者として報道されたことのある岡田嘉子や永井二一について、どのように書かれるかと期待して読んだが、なんと、すべては「山本懸蔵ら」という表現に押し込められている。少なく見積っても24人に及ぶ日本人が犠牲になったという事実認識すら、『70年』にはないようである。つまり、日本人粛清の解明を、山本懸蔵の件のみに限定し、加害責任を野坂参三1人に負わせようという姿勢がありありとうかがえる。だから、学術研究資料としては全く価値がない。
これから次々に現れるのは、「野坂参三ファイル」をはじめ、これまで全く知られていなかった犠牲者をも含む、在ソ日本人総粛清の記録である。私たちの議論を「反共攻撃」とあげつらい何行もさく前に、まずは「党史」に新たに盛り込むべきは、自党の指導者スターリン、ディミトロフ、マヌイルスキー、クーシネン、片山潜、野坂参三、山本懸蔵らにより「スパイ」と疑われ抹殺された、無名の人々の墓銘碑の発掘ではなかったか?当時のコミンテルンは世界共産党であり、日本共産党はその支部であったのだから。

 ちなみに、私たちが『闇の男』やフジテレビ報道局収集個人ファイル等で確認し得た、国外追放・逮捕や収容所送りを含む日本人粛清犠牲者リストを、ここに掲げよう。――勝野金政、根本辰、須藤マサオ、前島武夫、ヤマザキキヨシ、国崎定洞、伊藤政之助、山本懸蔵、佐野碩、土方与志、土方梅子、杉本良吉、岡田嘉子、寺島儀蔵、野坂竜、箱守平造、福永與平、吉岡仁作、又吉淳、島袋正栄、山城次郎、宮城與三郎、永井二一、小浜濱蔵、健持貞一、照屋忠盛、関マツ、モリタマサミ、サシン・トラオ、古川博史、土橋サダオ、成沢又一。さらに、旧ソ連で、無実の罪で粛清された可能性の高い日本人として、大庭柯公、チルコ・ビリチ、服部某、堀内鉄二、泉政美、山本一正、永浜丸也、永浜さよ、‥‥(詳しくは、加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』など参照)。

 3 杉本良吉・岡田嘉子の越境と宮本顕治氏の政治責任

 『70年』第3章の末尾で、戦前日本共産党の歴史は、「真の愛国者、民主主義者」の「不滅」のたたかいであった、と総括されている。だが、その「たたかい」の典型とは、宮本顕治の獄中闘争であり、そこで大きなスペースを割き批判されているのは、「日本共産党の戦争責任」を問うた丸山真男の1956年の小文である。これは、実に異様である。ここではしかし、私たちの進めている日本人粛清関連秘密文書解読との関連で、『70年』の主人公である宮本顕治現日本共産党幹部会議長に、『70年』には書かれていないいくつかの疑問を提起し、回答を要請したい。いわば、公開質問状である。

 
加藤が現在とりくんでいるのは、杉本良吉・岡田嘉子の1938年正月越境の謎である。その頃宮本氏は、スパイ査問致死事件の被告として、巣鴨の東京拘置所にいた。これらの疑問の根拠については、詳しくは、加藤『モスクワで粛清された日本人』(および本HP)を参照してもらいたい。 

 1 杉本良吉について、『日本共産党の50年』以来『65年』までは、「コミンテルンとの連絡のため」越境したと書かれていたが、『70年』でそれが削除されたのは、どのような理由によるものだろうか?

 2 『50年』で杉本良吉の入露が「コミンテルンとの連絡のため」とされたのは、1972年11月の岡田嘉子の初の「里帰り」のさい、宮本顕治氏が記者会見して、32年秋の杉本良吉・今村恒夫への「党指導部」による入露指令伝達の事実を発表したからであった。それが、『60年』『65年』にも踏襲されてきた。しかし、この宮本氏による杉本良吉への指令は、当時の党中央委員長風間丈吉、中央委員松村=飯塚盈延=スパイM、岩田義道、紺野与次郎のだれから、いつ、どのような任務として指示されたものだったろうか? あるいは、入党1年の24歳の青年党員宮本顕治氏の独断であったのか?

 3 岡田嘉子の証言によると、杉本良吉は、1937年12月の越境直前に獄中の宮本顕治に面会に行った、と述べたという(『心に残る人びと』)。それは、本当だろうか、あるいは、なんらかのかたちで事前に杉本良吉からの伝言が宮本氏にあったのだろうか?

 4 『宮本百合子全集』第19巻所収の百合子の1938年9月15日・19日付けの宮本顕治宛手紙によると、9月15日に百合子と面会した顕治は、越境した杉本良吉の妻杉山智恵子について、百合子が小踊りして喜ぶような「一寸お云いになった言葉」「極めて自然に云われた数言」を発したようである。それが、18日の百合子による杉山知恵子の見舞い、顕治の智恵子宛手紙につながった。1938年9月15日朝の面会のさい、宮本顕治氏が百合子に発した杉山智恵子についての「数言」とは、いったい何であったのか?

 5 1954年に宮本顕治氏は、『多喜二と百合子』2号の座談会「プロレタリア文学にたおれた人々」のなかで、杉本良吉・今村恒夫のソ連派遣(1932年秋に試み失敗)を「資本(もとで)」を残すためと表現したが、その真意は、どのようなものであったのか?

 6 『70年』によると、日本共産党がソ連共産党に公式に粛清の解明を求めた最初は、1959年1ー2月の宮本顕治氏の訪ソの際のことである。私はそれが、1959年10月の杉本良吉・国崎定洞の「名誉回復」、さらには片山潜自伝『わが回想』のドイツ語原稿発見につながったと推定するが、なぜこの1959年時点で、杉本についてのみ真相解明を求めたのか? その時のソ連共産党代表スースロフ、クーシネンらの対応は、どうだったのか?

 7 岡田嘉子の回想によると、宮本顕治氏は、戦後にモスクワで岡田嘉子と会ったさい、「あの時、ぼくがマンダート――指令書に代る紙片でも渡せたら」と述べたという(『心に残る人びと』)。それは、いつ、どのような機会であったか? 宮本氏のマンダート=信認状があれば1938年の杉本良吉・岡田嘉子は助かったと、今でも思っているのだろうか?

 8 1937年12月末に、杉本良吉・岡田嘉子が越境に出発したのは、当時東京九段坂下にあった豪華マンション「野々宮アパート」の岡田の部屋からであった。その同じ野々宮アパートには、その直前にソ連に帰国し、杉本・岡田逮捕の2日前に逮捕されてラーゲリに送られた、ソ連赤軍第4本部諜報員アイノ・クーシネンが住んでいた。アイノは、コミンテルン幹部会員オットー・クーシネンの妻であり、当時日本にいたもう一人の赤軍諜報員リヒアルト・ゾルゲと連絡していた。

 つまり、1937年、杉本・岡田は、アイノ・クーシネン、ゾルゲと、いつでも連絡をとりうる範囲にいた。こうした事実は、アイノの回想『革命の堕天使たち』と岡田の自伝・評伝からも推定可能だが、『70年』で「コミンテルンとの連絡のため」という杉本良吉の渡航理由を削除したのは、日本共産党がこの問題を調査したからなのだろうか? つまり、杉本訪ソを、宮本顕治氏の指示によるものではなく、アイノ・クーシネンやリヒアルト・ゾルゲとのつながりと認めた結果であるのか? あるいは、杉本・岡田のたんなる「恋の逃避行」と考えたからなのか?

 私は、こうした問題の一つひとつの解明が、学問的・歴史的意味での「党史」の真実につながると信じる。宮本顕治氏の回答に、期待している。

 2020.1.16日配信、文春オンライン「なぜ昭和のトップスター・岡田嘉子は恋人と「ソ連への亡命」を決断したのか」。
 スター女優と若手舞台演出家の亡命

 いまの日本では「越境」「亡命」といっても全くピンとこないだろう。島国の日本に陸地の国境はない。しかし、75年以上前には、傀儡国家「満州国」と他国との境以外にも国境が存在した。日露戦争の結果、北緯50度線以南の半分が日本領となった「樺太」(現サハリン)で、北半分を占めるソ連領との境。そこを雪の正月に越えて行った男女がいた。それも、女は当時のトップスター・岡田嘉子。といっても、いまの若い人たちにはピンとこないだろうが、映画や舞台で活躍し、一時は人気ナンバーワンになった女優、男は若手舞台演出家・杉本良吉だった。共産主義国家ソ連への2人の亡命は当時、大きな話題と反響を呼んだ。しかし、ソ連ではスターリンによるとされる粛清の嵐が吹き荒れており、越境・亡命劇の結末は、本人たちが夢見たものとは全く違っていた。詳細はいまも現代史の謎の1つとして残されている。前代未聞のスター女優の越境、亡命とは一体どんなものだったのか。資料や当時の新聞記事を基に見てみよう。

 「岡田嘉子謎の行方 杉本良吉氏と同行 樺太で消える 奇怪・遭難か情死か」(東京朝日)、「風吹の樺太国境に 岡田嘉子さん失踪 新協の演出家杉本良吉君と 愛の雪見か心中行?」(読売)……。1938年1月5日付朝刊各紙は一斉にこう報じた。前年の1937年12月、日中全面戦争で日本軍が中国国民党政府の首都南京を陥落させ、お祭り騒ぎで正月を迎えた。そんな中でのニュースに多くの国民は驚いただろう。

 当時でも破天荒すぎた「亡命」

 メディアも2人の行動の真意を測りかねたようだ。当時の地元紙「樺太日日新聞」は5日付朝刊で「熱愛の旅を樺太へ 岡田嘉子恋の逃避行 新春に投ず桃色トビツク(トピック)」「朔北の異風景に まあ素敵だわ」と、ピント外れの報じ方。有名人の越境、亡命が当時でもいかに破天荒な出来事だったかが分かる。

 1月6日付(実際は5日)夕刊の続報では「謎の杉本と嘉子・果然入露 拳銃で橇屋を脅迫 雪を蹴って越境 夕闇の彼方に姿消ゆ」(東京朝日)、「赤露と通謀か 亜港領事館に逮捕厳命」(読売)などと、越境の模様を詳しく報道。東京朝日の同じ紙面の下部には「戦捷の新春に咲く!」という映画雑誌の広告や、各レコード会社が発売した新曲の広告が。「露営の歌」「上海だより」「塹壕夜曲」「兵隊さん節」……。各紙とも、2人が自分たちの意思で越境した可能性を打ち出したが、朝日は6日付朝刊で「謎解けぬ雪の国境 思想上の悩みか 邪恋の清算か」と、まだ迷っている。

 その後の動きを新聞報道で見ると、日本の外務省が「北樺太」の首都アレキサンドロフスク駐在の総領事を通じてソ連側に2人の捜索と引き渡し交渉することに(8日付夕刊)。総領事からの報告で、2人が国境のソ連監視所に勾留され、生存していることが判明(9日付朝刊)。2人はアレキサンドロフスクへ護送され、ソ連当局の取り調べを受けていることが分かった(15日付朝刊)。

 誰もが驚く越境劇に周囲の動揺は大きかった。

 ぷっつり途絶えた2人の消息

 小山内薫らの築地小劇場の流れを汲む劇団で杉本が所属していた新協劇団は、それまでもメンバーの多くが検挙されるなど、弾圧を受けており、「劇団の規約を乱し、劇団の方針に関しての社会的疑惑を引き起こしたことについては断固として糾弾せざるを得ない。行動は劇団とは無関係」として除名処分を決定。嘉子が所属した井上正夫一座は除名せず「できるものなら温かく迎えたい」との態度で好対照を見せた。

 岡田嘉子の前夫・竹内良一の実妹で嘉子の親友でもあった竹内京子は、事前に相談を受けていたが、警視庁の調べに「ただ雪を見たいからとだけ言っていました」と答えた。「婦人公論」は1938年3月号で良吉の妻智恵子の手記「杉本良吉と私」を、4月号では嘉子が10代で生んだ博の手記「子を捨てた母へ」を掲載。話題を集めた。

 越境、亡命から8カ月余りたった8月30日付東京日日には「フェイクニュース」が。同年7~8月に起きた日ソ間の国境紛争「張鼓峰事件」の停戦協定締結後の情報として、岡田嘉子がソ連領で共産学校の日本語教師をしているが、顔色も青ざめ頬の肉も落ちて、かつて舞台やスクリーンでファンを騒がせた晴れやかな面影はおくびにも見えないといわれる。一方、杉本はハバロフスクで健在……。このあたりで2人の消息はぷっつり途絶える。

 人気投票でナンバーワンのトップスターに

 キネマ旬報増刊「日本映画俳優全集 女優編」によれば、岡田嘉子は広島市生まれ。地方紙記者だった父の勤務の都合で各地で暮らしたが、元々女優志望で、舞台を経て日活の映画女優に。オランダ人の血を引くとされるエキゾチックな美貌と妖艶な雰囲気を生かし、村田実監督の「街の手品師」などに出演して人気を集め、1925年の映画女優人気投票でナンバーワンになるなど、トップスターとなった。

 1927年、「椿姫」に出演したが、村田監督の指導に納得がいかないなどの悩みから、相手役の外松男爵家の御曹司・竹内良一と撮影をすっぽかして逃避行。日活を解雇された。しかし、華族の資格を剥奪された竹内と結婚。一座を作って舞台公演を続けた後、松竹蒲田に入社した。小津安二郎監督の「また逢ふ日まで」「東京の宿」などで好演を見せたが、井上正夫一座で舞台女優に戻る。商業主義に走りがちな映画よりも舞台に自分の場所を見いだしていたようだ。

 「私たちの恋には明日がないのです」越境を決意

 そこで知り合ったのが演出助手の杉本良吉だった。本名・吉田好正。ロシア語に堪能で、早稲田大を中退して左翼の劇団運動に参加し、日本共産党に入党したが、1933年に治安維持法違反で逮捕され、執行猶予中だった。2人は演技指導を通じて親しくなり、愛し合うように。しかし、嘉子には別居中だが竹内という夫があり、杉本にも、かつての美人ダンサーで当時は結核で闘病中の妻がいた。

 嘉子が1973年に出版した自伝「悔いなき命を」には、2人が越境を決意した時のことがこう書かれている。「私たち二人は、もうどうすることもできないところまで進んでいました。私たちの恋が世間から、周囲の人たちから祝福されないことはよく分かっています。私たちの恋には明日がないのです。二人ともそれはよく分かっているのです。それだけにまた激しく燃え上がる愛情なのです」。

 1937年には日中全面戦争が勃発。軍事色が濃くなる中で、非合法共産党の活動や、それにつながるプロレタリア文化活動への弾圧が厳しくなっていた。「彼(杉本)が一番恐れたのは赤紙でした。召集されれば、思想犯の彼が最悪の場所へ送られるのは明らかです」「私たち二人は刻々と周囲を取り巻いてくる暗黒を見つめて、ともすれば黙りがちになるのでした」と同書は書いている。そんな中で嘉子はある言葉を漏らす。「ねえ、いっそ、ソビエトへ逃げちゃいましょうか」。その時、「彼はハッとしたように私を見つめました」。

 共産主義者にとって“理想の地”だったモスクワ

 実は杉本は以前、国外脱出を計画したことがあった。平澤是曠「越境―岡田嘉子・杉本良吉のダスビターニャ(さようなら)」によれば、1932年、党員仲間と北海道・小樽から小型発動機船でソ連に密航することを考えたが、仲介者が信用できず、船に不安があったことから断念した。

 このころの共産党員や支援者にとって、国際共産主義の本拠「コミンテルン」のあるソビエト・モスクワは“理想の地”であり、スタニスラフスキーの弟子メイエルホリドが指導する最先端の演劇運動は左翼演劇人のあこがれだった。現に華族出身で「赤い伯爵」と呼ばれた杉本が師事した演出家・土方与志と、同じく佐野碩がモスクワにいると杉本は思っていた(実際は2人とも追放されていた)。

 「海を越えて行くことは、彼が既に失敗しています。陸続きといえば、満州か樺太しかありません。執行猶予の身である彼が満州へ出ることはできない。とすれば、道は一つ、樺太の国境を越えるだけです」(「悔いなき命を」)。嘉子にも、メイエルホリドの演技指導を受けて「もっといい女優に」という願望があったという。「このまま日本にいても……」。閉塞状況にあった2人が決断するのにそれほどの時間はかからなかったようだ。

 「生涯に一度は樺太に行ってみたいといつもあこがれていました」

 そこから越境に至るまでは、自伝「悔いなき命を」と、当時「時局情報特派員」の加田顕治が現地で取材し、「事件」から3週間後に出版した小冊子「岡田嘉子・越境事件の真相」ではかなりの違いがある。「悔いなき命を」によれば、2人は1937年12月26日、舞台の千秋楽を終え、翌27日、上野駅発の夜行列車で青森へ。「青森から連絡船で函館へ着き、旭川まで。その夜は旭川泊まり。どうにも隠しようのない私の顔です。アイヌの芝居をやるので、その生活を研究に来た、と宿の人に言った手前、次の日は早く起きて、アイヌの家を訪れました。午後出発、翌日朝、海を越えて南樺太へ。その夜は豊原駅前の旅館で一泊。翌日また汽車に乗って、夕刻敷香へ到着。山形屋旅館へ落ち着きました」(「悔いなき命を」)。「岡田嘉子・越境事件の真相」では「二人を乗せた列車が国境の町敷香駅に到着したのが三十一日夜九時」としている。宿の主人に目的を聞かれた嘉子は「私の父はずっと昔、樺太民友新聞に勤務し、文章生活をしていたことがありますし、生涯に一度は樺太に行ってみたいといつもあこがれていました」と答えた。

 2人が越境越えを果たした瞬間

 以下は「悔いなき命を」に従う。「それとなく国境のことを聞くと、冬は雪で道が閉ざされ、警備隊詰所に数人の隊員が雪に埋もれて寂しく暮らしているだけ、とのことです。それは気の毒だから、その人たちを慰問に行こうじゃないか、と言い出しますと、宿の人も喜んで……」。翌日、警察署長宅に行くと、元日の祝宴中で大歓待を受け、署長がソリを出してくれることになった。「生まれて初めて乗るホロもない馬ゾリ。四辺は縹緲とした雪野原」「国境警備隊半田詰所へ着いたのは午後二時を回っていたでしょうか。慰問の言葉もそこそこに、私は国境見物を願い出ました」。信用した隊員は自分たちはスキーで、銃や連絡用電話機を嘉子たちが乗った馬ゾリに載せた。「暗くなっては国境が見えないから早く早くと馭者をせき立てます」「『ここだ』と言われて、馬ゾリが止まるやいなや、二人は手を取り合って駈け出しました」「雪との闘いで邪魔になった手提げカバンを投げ捨て、暑くなったので、首に巻いていたセーターを投げ捨てた時、杉本が『国境を越えたぞ!』と叫び、首から吊るしていた呼び笛を吹きました。それと同時に、二人の若い兵士が行途に立ちふさがりました」と嘉子は書いている。

 「岡田嘉子・境事件の真相」は「国境警備隊半田詰所」を「半田警部補派出所」としており、この方が正しいようだ。

 「嘉子が彼に突き付けた踏み絵だったのだ」

 「越境」は杉本の越境の動機をこう分析している。モスクワでの演劇修行への強い関心と併せて、「いとしい病妻と、嘉子という熱い愛人との狭間で葛藤があった。2人に接する杉本の愛に偽りはなかったが、このまま2人に平等に分かち合うのは偽善者であり、必ず破綻のときがくる」。

 升本喜年「女優 岡田嘉子」は嘉子の動機をこう書く。「杉本の心を心だけでは絶対自分のものにできないとすれば、杉本のその体を物理的に智恵子の手の届かないところへ引き離すほかに道はない。樺太国境を杉本に迫ったのは、嘉子が彼に突き付けた踏み絵だったのだ」。

 どちらもその通りかもしれない。ほかにもさまざまな推測があるが、どれも裏付ける根拠はない。そして、それから戦争を挟んで長い年月がたった。

 後編に続く

 理想の地は「地獄」だった 大粛清時代・ソ連へ渡ってしまった男女の悲劇的な真相 へ続く

 理想の地は「地獄」だった 大粛清時代・ソ連へ渡ってしまった男女の悲劇的な真相」。
 この時代の越境は「地獄の中に飛び込んだものであった」――岡田嘉子の越境

 戦後初めて伝えられた嘉子の消息

 戦後、嘉子がモスクワの放送局でアナウンサー兼プロデューサーのような仕事をしていることが伝わっていたが、消息が正確に報じられたのは1952年。日本人として戦後初めてモスクワを訪問した高良とみ参院議員が面会。同年7月2日付朝日新聞朝刊には、高良議員らと一緒に写った写真とともに「結婚した岡田嘉子」の見出しで記事が掲載されている。

 
戦後初めて伝えられた嘉子の消息と写真(東京朝日新聞)

 その後、ソ連を訪問するかつての知人らと面会していたが、ソ連での結婚相手でやはり戦前、映画スターとして活躍した滝口新太郎が死去。その納骨のために34年ぶりに帰国したのは1972年11月だった。それから何回か両国を往復。その間、山田洋次監督の松竹映画「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」や舞台にも出演した。

 「その知らせはあまりにも最悪でした」

 「悔いなき命を」によれば、ソ連の国境警備隊詰所でのことを「三日ほどたったのち、私だけがどこかよそへ連れて行かれることになったときは、さすがの私も杉本にすがりついて泣きました」と書いている。杉本は「すぐにまた逢えるからね」と言ったが、「それっきり私たちは二度と再び相逢うことがなかったのです」(同書)。

 そして中央アジアの町で数年暮らし、1947年にモスクワに出たとしている。日本とソ連を行き来する間に何度もインタビューを受け、越境後のことを聞かれたが、詳しく話すことはなかった。

 杉本はスパイ容疑で処刑されていた

 1989年4月15日、モスクワ発時事通信電のショッキングなニュースが新聞夕刊に載った。「杉本良吉氏 実は銃殺 スパイ容疑、粛清の犠牲」(北海道新聞見出し)。リャボフというモスクワの現職検事補が、国家保安委員会(KGB)の文書に「杉本が銃殺された」という記述があるのを発見したことが現地の週刊誌に掲載されたという内容だった。

 記事によれば、2人は越境後、国境侵犯の容疑で内務人民委員部(NKVD=KGBの前身)の取り調べを受け、杉本は拷問の結果、日本の陸軍参謀本部から破壊活動のため派遣されたスパイと虚偽の自白を強制された。杉本は裁判手続きなしに処刑され、その自白からメイエルホリドにも嫌疑がかかり、彼も処刑されたという。

「女優 岡田嘉子」によれば、リャボフは嘉子の家を訪れて、その事実を伝えた。「その説明を聞いた嘉子は強烈な印象を受けたはずだが、それを表面には出さず、意外なほど冷静に聞き、リャボフの質問に対してロシア語でいちいち答えた。そして最後に言った。『杉本は病死したとばかり思っていた。あの時、死亡証明書ももらっている。死因は肺炎とあった。死亡の日付も違う』」。

 時事の記事に添えられた嘉子の談話も「もっと早く真実を教えてほしかった」となっていた。
 戦後にアナウンサーとして活躍した岡田嘉子 ©文藝春秋
 「杉本は私を助けるために罪を被った」

 1992年2月、嘉子はモスクワで老衰のため89年の波乱の生涯を閉じた。しかし、物語はそれで終わらなかった。4カ月後の6月、再び時事通信が、越境から2年後の1940年1月に嘉子が検察局と内務人民委員部宛てに嘆願書を出していたというニュースを配信した。

 
「嘉子の嘆願書」時事通信配信ニュースを掲載した北海道新聞

 それによれば、越境直後、「5日間、夜も昼も眠りを与えられない取り調べ」を受けて「精神状態に異常」を来たし、「スパイと言えばソビエト人とするが、言わなければ日本に帰す」と脅されて自白書を書いた。そのため、杉本に対する拷問は過酷を極め、「隣室で苦しさのあまり発する杉本の悲鳴が私の胸を刺した。取り返しのつかない後悔の念に死を願ったが、監視が厳しく許されなかった」とつづっていた。「杉本は私を助けるために罪を被った」とも。

 嘉子はハバロフスクからモスクワに送られ、1939年10月、軍事法廷でスパイ罪で10年の刑を受けた。杉本の処刑はその1週間前だったという。嘆願書はモスクワから約800キロ離れた強制収容所(ラーゲリ)で書かれ、「スパイの汚名は死ぬほどつらい」と再審理を直訴していたが、願いはかなわなかった。

 記事は「岡田さんの自白がもとで杉本氏も自らをスパイと認め、銃殺につながったことが判明した。軍国主義の日本を脱出し、あこがれの地ソ連に越境した二人は、当時吹き荒れたスターリン粛清の直接の犠牲者となった」としている。

 自らの自白が原因だったという事実は嘉子に重くのしかかり、生涯そのことを自分の口から明らかにすることができなかったと思われる。自伝「悔いなき命を」に書いた「中央アジアの町に住んだ」という話はほかのところでも述べていたが、あるいはKGBから言い含められた「物語」だったのか、真っ赤なウソだった。

 2人が犠牲となった「スターリンの大粛清」とは

 1930年代を中心にソ連で起きた大粛清は、規模や原因など、全容はいまも解明されていない。横手慎二「スターリン」も「大粛清の全てを単一の原因で説明することが不可能なことは明らかである」としている。農業集団化などの経済政策や赤軍の運営などの軍事をめぐって、最高権力者スターリンを取り巻く上層部で権力争いが起きたことは間違いないが、それだけではなかった。

 「現在では、1930年代後半の大弾圧は、こうした政治や軍事の指導層だけではなく、より広い階層の人々にまで及んだことが確認されているのである」(同書)。経済部門の管理者や女性、「満州」に関連した人々……。ありとあらゆる人が理由もはっきりしないまま罪を問われ、死刑を含む粛清の対象になった。「スターリン」によれば、1936年から38年までの間に政治的な理由で逮捕された者は134万人に達し、そのうちの68万人余りが処刑されたという。これよりはるかに多い人数を挙げる人もいる。

 こうした大粛清はスターリンの意図とは別になされたものではなかったかという議論もあるが、「大粛清の責任はスターリンにはなかったとする結論まで引き出すのはバランスを失しているように思われる」と同書は指摘している。

 「事件がおかしい」2人の越境に関心を示していたゾルゲ

 興味深いのは、嘉子と杉本の越境、亡命にあのゾルゲが関心を抱いていたことだ。ゾルゲはコミンテルンのスパイでドイツの新聞記者として日本で活動。1941年10月に逮捕され、1944年11月に死刑に処された。グループの1人で画家の宮城与徳(のち死刑)の警察訊問調書には、彼がゾルゲに報告した情報が詳細に記録されている。その中に「昭和十三年一月 杉本良吉、岡田嘉子の北樺太越境 両人の経緯及人物評」「ゾルゲの依頼により私の人物評に私見を報告」という記載がある。宮城は1942年3月の検事の取り調べにも2人の件についてこう答えている。「此の問題はゾルゲから『事件がおかしいからスパイとして行ったのではないか』と調査を依頼され調べて見ましたが、両人とも良い人で芝居を現実に行た丈のことであることが判りました」(検事訊問調書。以上、「現代史資料」)。ゾルゲからの報告は嘉子と杉本の運命に影響を及ぼさなかったのだろうか。
 歴史から消えた「コミンテルンとの連絡」

 いまも残る謎の1つは、越境・亡命にどれだけ裏付けがあったかだろう。杉本の亡命は、同時に日本共産党に入党した宮本顕治・元委員長の指示だったとする見方がある。宮本元委員長自身、著書「回想の人びと」でこう書いている。

 「杉本(良吉)は演劇運動の有能な演出家でありました」「こういう人たちを残しておきたい。それにはソ連にやっておこうと考えたわけであります」「1933年になりますと、弾圧は一層厳しくなって、コミンテルンとの連絡も容易でないということで、併せてコミンテルンとの連絡ということを考えたわけであります」「マンダートといって信任状、これは日本共産党員であると証明する文書、これを彼らに渡しました」。

 加藤哲郎「モスクワで粛清された日本人」によれば、旧制東京府立一中(現日比谷高校)で杉本の2年先輩だった新劇界の大物・千田是也は著者のインタビューにこう答えている。

 「気の毒なのは杉本良吉、岡田嘉子の1938年1月のソ連行きだった。自分たち新築地劇団(築地小劇場の流れを汲む別の劇団)のグループは、土方与志、佐野碩が追放になったのを、37年9月ごろに知っていた」「新協劇団の杉本はそれを知らずに、ソ連は天国だ、行けば土方・佐野と会えるだろう、メイエルホリドのもとで学べるだろうと信じてソ連に入ってしまった」。

 同書はその時代の状況については次のように述べている。

 「当時のソ連は、日本人であれば誰でも『偽装スパイ』を疑われるスターリン粛清のさなかであった。既に1936年11月に伊藤政之助、37年中に須藤政尾、前島武夫、ヤマサキ・キヨシ、国崎定洞、山本懸蔵らが逮捕されていた」「杉本良吉・岡田嘉子の越境は、その地獄の中に飛び込んだものであった」「二人の国境を越える夢は実現されたが、それは、敷居の極度に高い、別の国境に囲い込まれたものにすぎなかった。夢にまで見た『社会主義の祖国』への入国は、逮捕・拷問と銃殺・強制収容所によって迎えられた」。

 この事件にまだ謎は残っている。ただ、本人たちの情報収集や考え方に問題があったとは言えても、理想と思っていた国が実は地獄の地として、信じてきた人間を裏切り、死にも追いやる無残さは、死ぬまで真実を明らかにできなかった無念と重なって、80年余りたったいまも私たちの胸を打つ。

【参考文献】
▽キネマ旬報増刊「日本映画俳優全集 女優編」 キネマ旬報社 1980年
▽岡田嘉子「悔いなき命を」 廣済堂出版 1973年
▽平澤是曠「越境―岡田嘉子・杉本良吉のダスビターニャ(さようなら)」 北海道新聞社 2000年
▽加田顕治「岡田嘉子・越境事件の真相」 皇文社 1938年
▽升本喜年「女優 岡田嘉子」 文藝春秋 1993年
▽横手慎二「スターリン」 中公新書 2014年
▽「現代史資料(3)ゾルゲ事件(三)」(1962年)、「同(24)ゾルゲ事件(四)」(1971年)=いずれもみすず書房 
▽宮本顕治「回想の人びと」 新日本出版社 1985年
▽日本共産党中央委員会「日本共産党の五十年」(1972年)、「日本共産党の六十年」(1982年)、「日本共産党の六十五年」(1988年)、「日本共産党の七十年」(1994年)、「日本共産党の八十年」(2003年)=いずれも日本共産党中央委員会出版局
▽加藤哲郎「モスクワで粛清された日本人」 青木書店 1994年




(私論.私見)