補足(4) | 「杉本.岡田の樺太越境事変への無責任教唆の闇検証」 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).3.28日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2021.3月、竹井ちよ(杉咲花)主演のNHK連続放送ドラマ「おちょやん」に、小暮(若葉 竜也)と百合子(井川 遥)がソ連へと旅立つ前のシーンが登場した。これは「杉本.岡田の樺太越境事変」のことであろう。これを機に眼を通すことにした。 |
「杉本.岡田の樺太越境事変」は、恐るべき闇を見せている。即ち、宮顕は獄中下で、「杉本.岡田の樺太越境指示」をしており、つまり党活動を継続し得ていたことが判明している。「宮顕の獄中闘争」の奇異な面である。これは、早急な解明が待たれる変事であると思われる。あまりに重要なメッセージが垣間見えるので、別章立てて考察することにする。結論を云えば、「宮顕が獄中で党活動をしていた可能性がある」という疑惑が、「杉本.岡田の樺太越境事変」を通じて見えて来る。れんだいこ観点からはさもありなんということになるが、「唯一非転向完黙人士」観を持つ者達はこれをどう説明するのだろうか。 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝 |
(参考文献)「加藤哲郎一橋大学社会学部教授のHP」の「国境を越える夢と逆夢」、「『日本共産党の70年』と日本人のスターリン粛清」等を参照
1 | 概略事件の主役杉本と岡田について述べておく。二人は愛人関係にあった。杉本良吉は、演出家であり、1931年に日本共産党に入党している。小林多喜二と同世代であり、病妻を抱えながら演劇の仕事を続けるうちに岡田と恋仲に陥る。 | ||||
岡田嘉子は、明治35.4月、広島市に生まれた。母方にオランダの血を持つ。東京・女子美術学校を卒業後、女優を志し、大正10年、「出家とその弟子」の公演で、一躍新劇界のスターになる。次いで翌年、映画にも出演し、後に小津安二郎監督の作品に主演する等々、戦前日本当代一流の大物女優であった。この間、複数の恋愛を経験しており、昭和11年頃、杉本と知り合う。 | |||||
2 | 「杉本良吉・岡田嘉子の越境事変」とは、1938年正月の1.3日夕刻、演劇演出家・杉本良吉(本名・吉田好正)と女優の岡田嘉子の愛人関係コンビが北樺太経由で日ソ国境を越境した事件のことを云う。「恋の逃避行」、「“赤い恋”の樺太国境越え」、「愛の雪見か心中?」としてマスコミでも騒がれた。この事件と宮顕が深いつながりがあることが判明している。しかし、この時宮顕は、スパイ査問致死事件の被告として、巣鴨の東京拘置所にいた。この両者がどのように結びつくのであろうか。この解明が本稿の趣意である。 | ||||
3 | 1932.9月以前、杉本良吉(演劇人)と今村恒夫(詩人)は、中央委員・宮顕を通じて「党指導部による党員・杉本、今村の入露指令伝達」が為され、それに従い小樽まで出かけて入露を試みているが失敗する。
これは、升本「女優・岡田嘉子」(88頁以下)、1972.11.16日付け赤旗、宮顕「自主独立への道」(1975年、368頁以下)、「社会科学総合辞典」(333頁)等々で裏づけられる。宮顕自身もこのことを認めている。1954年、宮顕は、「多喜二と百合子」2号の蔵原や中野重治・佐多稲子らとの座談会「プロレタリア文学にたおれた人々」の中で次のように語ったと云う。
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1972.11月、岡田嘉子氏が「初の里帰り」した際、幾つかの事を宮顕に質疑しているようである。宮顕は記者会見して、「杉本には、1932年、私からコミンテルンとの連絡をとるように指示した」と述べており、1932年秋頃、杉本良吉・今村恒夫への「党指導部による入露指令伝達」を為していた事実を認めている。 これに関連して、加藤教授は次のような貴重情報を開示している。
袴田は次のように述べている。
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岡田嘉子氏が「初の里帰り」した際、幾つかの事を宮顕に質疑した裏事情は、宮顕に対する疑念があり、どうしても質したかったのではなかろうか。宮顕の弁明を聞き、岡田嘉子氏がどう納得したのかしなかったのかは分からない。しかし、疑念を持った岡田嘉子氏の感性は正しいように思われる。れんだいこはつとに指摘しているが、宮顕スパイ説に立たない限り「闇」は解けない。 1932年頃といえば、党中央委員長風間丈吉、中央委員松村=飯塚盈延=スパイM、岩田義道、紺野与次郎の時代である。このうちの誰かから宮顕へ指令が伝達され、杉本へ伝えられたと考えるほうが自然というものであろう。れんだいこ推定によればズバリ、スパイM-宮顕-杉本・今村の線しか考えられないことになる。 「中央委員宮顕」とあるのはオカシイ。1933.1月下旬、「山本-野呂執行部共産党」が創出されたが、宮顕はこの時初めて中央委員候補に昇格したはずである。従って、1933.1月下旬以前の、1932.9月以前に「中央委員宮顕」は履歴詐称である。杉本の思い違いか、宮顕の騙りによる間違いのどちらかであろう。 加藤教授指摘の「1933年の日本共産党の最高指導者であった山本正美でさえ、中央委員宮顕が前年杉本に訪ソの指令を出した試みたことを知らなかった」は、当時の党組織上あり得ないことで、それがあり得たということは、「中央委員(正しくは候補と思われる)宮顕」の秘密活動ということになる。しかしてそれは、党の秘密活動であったのか、スパイM-宮顕ラインの秘密活動であったのか、ということになる。 それはともかく、宮顕曰く「資本(もとで)がなくなると困る」の真意は、どのようなものであるだろうか。二人の越境指令を正当化させるにはおかしな表現であり、「資本(もとで)がなくなると困る」なる感覚、そういう用語使いは左翼運動家の発想にはない。ズバリ警察的治安対策の眼であろう。 この時、「樺太経由」が意識的に教唆されていたのかどうかが詮索されねばならない。宮顕は具体的方法については指示しなかったと後に明らかにしているが、臭い。単に入ソだけならいかようにも手段はあったのに、杉本はわざわざ北海道-樺太経由に拘っている。それは恐らく「ルートの指示」が為されていたと窺わせられるものである。 ちなみに、このルートよりの入ソは、時の特務機関が関心を示していたルートでもあった。杉本.岡田の入ソ事件には、当人らは意識してなかったにせよ、そういう胡散臭いところがあることが知られねばならない。杉本ー今村の入露はいわば調査用の人身御供にされていた可能性がある。 こうした事実から、「日共党史50年」、「同60年」、「同65年」には、杉本良吉の入露が「コミンテルンとの連絡のため」と記述されていた。しかし「同70年」ではこの部分が削除されている。その理由は開示されていない。説明を要するところであるが、れんだいこは、辿っていけば隠し様のない臭い部分が露見することによって意識的に削除されたと見る。 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝 |
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杉本良吉・岡田嘉子らは、微妙にゾルゲ事件と絡んでいる。杉本良吉・岡田嘉子の二人が越境前の1937年12月末に住んでいたのは、当時東京九段坂下にあった豪華マンション「野々宮アパート」の岡田の部屋であった。その同じ野々宮アパートには、その直前にソ連に帰国し、杉本・岡田逮捕の2日前に逮捕されてラーゲリに送られた、ソ連赤軍第4本部諜報員アイノ・クーシネンが住んでいた。 |
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「杉本良吉・岡田嘉子とゾルゲ事件との絡み」は歴史の偶然の悪戯だろうか。推測しかできないが、どうも杉本ー今村ラインが臭い気もする。 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝 |
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5 | 1937.12月中旬、杉本良吉と、愛人の岡田嘉子がソ連越境を決意している。ちょうど日本軍の南京入城の頃である。越境を言い出したのは、共産党員杉本良吉ではなく、愛人の岡田嘉子だった。岡田は、排外ナショナリズムの熱狂のなかで、もはや自分の思うような芝居や映画は、日本国内では不可能になったと感じとった。軍国主義のお先棒をかつぐのはまっぴらだったと、後に語っている。杉本良吉には、特高警察の監視と病弱の妻と愛人岡田との葛藤から逃れるためにも、渡りに舟の誘いとなった。杉本は、既に5年前に北海道からの渡航を試みて失敗していた。 この時獄中の宮顕から「コミンテルンとの連絡」を命じられていたと云われている。岡田嘉子の証言によると、杉本良吉は、1937.12月の越境直前に獄中の宮顕に面会に行った、と述べたという(「心に残る人びと」)。この時どのような会話が為されたのか明らかでないのでやや不十分であるが、これを歴史的証言とすると重要なメッセージが残されていることになる。 岡田嘉子の回想によると、宮顕は、戦後モスクワで岡田嘉子と会ったさい、「あの時、ぼくがマンダート(指令書)に代る紙片でも渡せたら、と述べたという」(「心に残る人びと」)。宮顕のこの云いは、いつ、どのような機会でのことを念頭においていっているのであろうか? 宮顕のマンダート=信認状があれば、杉本良吉・岡田嘉子は助かった可能性が考えられるにしても、獄中下の宮顕にそれがなぜ可能であるのか。既に党中央は壊滅させられている時である。その言い回しは、あたかも獄外にあっていかようにも為しえた風の言い回しでさえある。 |
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これを杉本の宮顕に対する形式的挨拶と考えれば単なる事実記録の意味しか持たないが、それにしても何の為に獄中の宮顕に会いに行ったのだろう。この時、何らかの指令的遣り取りが為されていたと考えると、ことは重大性を帯びてくる。5年前の指示と云い、このたびの面会と云い、面会者との間でこのような遣り取りが為しえたという事実自体から、宮顕がこの当時獄中下にあっても、他の被告らとは違う拘束状況に有り、なんらかの形で「党」活動していた可能性が生じる。 このことは極めて奇怪なことになる。私の深読みかもしれないので追って調査していくことにする。この場合、「党」活動といっても裏方のそれであり、宮顕の変態的活動からして有益なことをする訳ではない。いずれにせよ、この事実は、宮顕の獄中活動の実態が再精査されねばならないことを発信している。 |
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6 | こうして杉本は、「党の任務」として「コミンテルンに連絡するため」ソ連入国を決行した。そのソ連行きの心情について、加藤哲郎一橋大学社会学部教授のインタビューで、千田是也は次のように述べていると伝えられている。
当時のソ連は、数千万人に及ぶ大粛清のさなかであった。つまり、二人の情報収集はあまりにお粗末で、計画は無謀であったということになる。共産党員杉本にとってはソ連はあこがれの「労働者の祖国」であったが、実際にはこの頃スターリンによる強権政治が吹き荒れていた。フランスの作家アンドレ・ジイドのソ連旅行記は、この事態を告げそれまでのソ連邦擁護から批判者の立場に移行していた。 ジイドのソ連旅行記は日本でもすぐに翻訳・紹介されていた。杉本らがこうした情報を知らなかったとは考えにくい。但し、杉本の親しかった宮本百合子らはジイドを批判し、ソ連を信じて疑わない喧伝に努めていた。岡田は素朴にソ連の演劇にあこがれ、杉本もモスクワにいけば日本人演出家、土方与志夫妻や佐野碩らに会えると信じていた、つまり二人は幻想の社会主義に酔っていたのかも知れないが、当時国崎定洞の逮捕の頃であり37年8月には国外追放になっていた。 |
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これによれば、当時ソ連ではスターリン暴政が荒れ狂っており、それは杉本-岡田が容易に知りえたことであった。それでも「杉本-岡田の樺太越え決行」が為されたということになる。突き動かした事情は何であったのか。演劇熱だけで説明がつくだろうか。 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝 |
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宮顕は、杉本.岡田のこの決死行について、「杉本の党的任務」を公式に明らかにした1973年の講演で、次のように論評している。中野重治らの批判を退け、弁明している(「自主独立への道」371頁以下)。
加藤教授は、この宮顕の弁明に対して概要次のように批判している。
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「もちろん私どもは[杉本に]1932年ごろソ連に行くような指示を出したことはありましたが、その後どういう方法で行けということまでは(笑い)もちろんいってありません」の(笑い)とはこれ如何に。れんだいこはこういうところを見逃さない。一般に「笑い」は良いことである。しかし、この場合の「笑い」は不謹慎というか、そういう風に話を持っていった宮顕のあまりにも非同志的対応に問題がある。 「スターリンの問題が国際的にも明白になったのは、戦後も大分たってからです」の弁明も余りにも無責任である。「非同志性と無責任性を備えた党最高幹部」とはこれ如何に。あまりにも見えすぎてくるではないか。 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝 |
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7 | 二人は岡田嘉子による国境警備隊慰問を装って奇跡的に越境に成功した。1938年1月3日、樺太経由でのソ連越境に辿り着いた。ところが、艱難辛苦の末に成功した挙句待ち受けていたのは逮捕であった。二人は、政治亡命を主張したが認められず、密入国とされた。取り調べも別々にされ、2度と会うことはなかった。「天国のはず」のソ連側に入って為されたことがこれであった。 | ||||
8 | モスクワから粛清ノルマを課されていたサハリンの国境警備隊は、二人に「日本のスパイ」としての自白を迫った。それどころか、二人が頼ってきた佐野碩も、その師である当代ソ連の著名な演出家メイエルホリドも「スパイ団」の一味であることを認めさせようとした。岡田嘉子がまず拷問に屈し、越境1週間後の38年1月10日の供述では、日本の特務機関のスパイであると認めた。 その供述書をもとに、杉本良吉の拷問も苛酷を極めた。遂に佐野碩・土方与志もスパイだったと「自白」し、それが佐野の演劇の師メイエルホリドの処刑につながったことも今日では知られている(「月刊Asahi」90年4月号)。佐野の師であったソ連の演出家メイエルホリドは、岡田・杉本の供述を根拠にされて39年6月に「日本のスパイ」として逮捕され処刑された。杉本は、1939.10.20日、銃殺刑に処された。 |
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岡田嘉子は、杉本良吉へのスパイ嫌疑を受けたことに対する獄中から助命嘆願書を提出している。1992.6.30日、毎日、朝日、赤旗など各紙が報じている。升本喜年「女優 岡田嘉子」(文芸春秋、1993年)所収。 | |||||
9 | 他方、岡田嘉子は殺されはしなかったものの苛酷な運命が待ち受けていた。愛する杉本とともに越境したもののあっけなく引き裂かれ、10年の禁固・流刑の罪で強制収容所送りとなりモスクワの北東800キロにあるビヤトカ監獄に移送された。約3年後、モスクワの監獄に移送された。岡田嘉子は獄中で、対日工作にも従事させられた。越境から凡そ10年経った戦後1947(昭和22).12月、釈放された。その後、モスクワで演劇を学ぶ傍らモスクワ放送のアナウンサーとして生活を始める。この時期、かって映画で共演したこともある滝口新太郎と再会し、結婚する。1971(昭和46)年、滝口が肝硬変で死亡。翌1972年、夫の遺骨を抱いて日本に里帰りする。越境から34年後のこととなった。以来幾度か来日し、約13年間、日本に滞在した。再びソ連に帰り、1992(平成4).2.10日、没した。享年89歳。 だが、生前の3種の自伝やインタビューでも、ラーゲリ時代の真実を語ることはなかった。旧ソ連に残された岡田嘉子、杉本良吉、メイエルホリドらのファイルによって、岡田の死後にようやく真相が解明された。 参照文献(加藤「モスクワで粛清された日本人」、名越健郎「クレムリン秘密文書は語る」(中公新書、1994年)、今野勉「岡田嘉子の失われた十年」(中央公論、1994年12月)。 |
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余話1 | 飯塚繁太郎「評伝宮本顕治」23Pに、宮顕が杉本-岡田の決行を知った様子が次のように記されている。記者会見の席で語ったとのことである。
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ご丁寧にも、看守が「杉本良吉という男が岡田嘉子と越境した」と教えてくれたとは。私には、いつもの臭い芝居話のように聞こえる。仮にその通りとしたら、何ともご親切な看守が居ることになる。 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝 |
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余話2 | 「宮本百合子全集」第19巻所収の百合子の1938.9.15日・19日付けの宮本顕治宛手紙によると、9.15日に百合子と面会した顕治は、越境した杉本良吉の妻・杉山智恵子について、百合子が小踊りして喜ぶような「一寸お云いになった言葉」、「極めて自然に云われた数言」を発したようである。それが、18日の百合子による杉山知恵子の見舞い、顕治の智恵子宛手紙につながった。 | ||||
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宮顕と獄中結婚した百合子は、差し入れのみならず、獄中下の宮顕の使い走りをしていたことが「手紙」で明かされている。それによると、「杉本・岡田の決行」を知った獄中下の宮顕が、杉本の妻・杉山智恵子へ配慮し、百合子に言伝を届けさせている。1938.9.15日朝の面会の際、宮顕が百合子に発した杉山智恵子についての「数言」とは、いったいどのような言葉であったのか? その内容は明らかにされていないが、このことも、当時の宮顕の現役活動ぶりを示唆していないだろうか。 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝 |
【「1999年、山崎憲兵証言」】 | |||
2009.1.15日号週刊新潮は、ノンフィクションライター新井省吾氏の「【特別読物】『憲兵雑誌』が記録していた女優・岡田嘉子の『恋の逃避行』」を掲載している。興味深いので、要約と一部転載しておく。記事によると、旧陸軍・関東憲兵隊教習隊出身者の会報誌「栄光、1999(平成11).9.30日号」に、同教習隊14期生の故山崎英雄氏の「自ら祖国を捨てたものに幸はあったか~女優 岡田嘉子越境事件の検証~」が掲載されていると云う。 同論文は、二人が越境時に振り切った国境警備隊員の故中村一芳氏の告白を元に記述したものとのことである。中村氏は事件当時、樺太憲兵隊上敷香(かみしずか)分隊に所属、階級は軍曹であった。次のような証言となっている。これを仮に「1999年、山崎憲兵証言」と命名する。
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ネット検索で見つけた次の一文を転載しておく。
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2020.1.16日配信、文春オンライン「なぜ昭和のトップスター・岡田嘉子は恋人と「ソ連への亡命」を決断したのか」。
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「理想の地は「地獄」だった 大粛清時代・ソ連へ渡ってしまった男女の悲劇的な真相」。
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(私論.私見)