宮顕による史実偽造「野呂委員長の遺言」について

 (最新見直し2011.01.05日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 宮顕は、自身の悪行が露見することに対して極めて神経質であり、都合が悪いことを隠蔽改竄歪曲するのを常習としている。この作風は不破にも継承され、今日の日共の宿あの体質となっている。とりあえずアトランダムに記すが、まずは野呂委員長関係から書きつけておく。

 2011.1.5日再編集 れんだいこ拝


【1、野呂栄太郎の最後の言葉について】

 塩野富津子著の「野呂栄太郎の想い出」(265P)(新日本出版社、1976.4.30)に次のように記されている。

 「野呂委員長は、獄中での遺言で『いろいろお世話になってありがとう。いつか宮本なんかに会う機会があったらよろしく云ってください』と云って再び目を閉じた」。

 この証言は、佐藤さち子の「同志野呂栄太郎の想い出」(青山みどり、前衛15号、1947.4月)に拠っている。塩野富津子の「野呂栄太郎の想い出」は、「党中央委員大泉、小畑リンチ査問、小畑致死事件」に対して、「野呂はこの二人を決して信用していなかった云々」と書き連ね、その傍証として小畑が死亡したにも関わらず専ら大泉の胡散臭さを述べながら、宮顕のリンチ事件に纏わる胡散臭さを免責するという論調になっている。まさに宮顕党中央の意図に従って野呂栄太郎論が為されていることが分かる。

(私論.私見)

 ところで、史実はどうであったのだろう。「いろいろお世話になってありがとう。いつか宮本なんかに会う機会があったらよろしく云ってください」と本当に発していたのなら、何も問題は無い。「宮本なんかに」のところが、本当は「小畑、大泉らに」とあったのであれば、すり替えである。「小畑、大泉、宮本らに」とあったのであれば、歪曲である。そのような伝言が為される間もなく死亡したのなら、完全なる捏造である。私は、「すり替え、歪曲、捏造」いずれかの線で為されていると推測している。

 この推測の根拠は次の通りである。野呂委員長体制下の中央委員会は野呂、逸見、小畑、大泉、宮顕の5名で構成されていたが、れんだいこの史実考証により判明することは、野呂が信用していたのは逸見であり、次に大泉、小畑であり、宮顕については煙たがっていた風がある。これを具体的に跡付けようと思うが今は結論のみ記しておくことにする。

 となると、野呂が獄中遺言で「宮顕によろしく」なぞというのは有り得ない。むしろ、「逸見、小畑、大泉によろしく」と云ったのなら有り得る。それを「宮顕によろしく」とすり替え、それをもっともらしく書き伝え宮顕プロパガンダに加担する著者及び出版社の御用ぶりが指弾されねばなるまい。しかしてこれは悪質な史実偽造である。宮顕ー不破系党中央は、こうした偽造の常習犯である点に於いても許し難い。

 2004.6.1日再編集 れんだいこ拝


【2、野呂検挙後の宮顕の不審な行動について】
 れんだいこの宮顕論査問開始の項で次のように記している。以下引用。党中央内にこうした亀裂を走らせつつあった最中の11.28日、野呂委員長が検挙されている。ここで貴重な証言が残されている。野呂検挙の後連絡をとった寺尾としは次のように伝えている。
 「野呂に代わって連絡に出てきたのは着物に角帯をしめた容貌魁偉な男で、どこかの大番頭風のように見えた。私には一度も見たことのない顔であったから、このような幹部もいるのかと印象が深かった。私たち下っ端党員の窮状を訴えたのであるが、一向にピンと来ない様子で私はガッカリした。生活に困ったことのない人を思わせる彼は誰であろうと思っていたところ、間もなく赤色リンチ事件と云われる事件が起こり、大々的に新聞に載った記事と共に、大きく彼の写真が出て、はじめてそれが宮本顕治であることを知った」(寺尾「伝説の時代」)。
(私論.私見)

   何気なく見過ごされがちであるが、野呂検挙後の連絡線として直ちにやってきたのが宮顕であるということと、その時の様子が同志的愛党的な立場からてきぱきと指導をするのではなく、調査物色にでも来たかのような対応に終始していることが伝えられているということである。もう一つ、「着物に角帯をしめた」姿とは非合法時代のカムフラージュとしてそのような悠長な出で立ちだったのだろうか。私にはそうは思えない。それにしても何をしに宮顕は出向いているのだろう。胡散臭さを窺うべきではなかろうか。してみれば、「寺尾とし証言」も又貴重である。

 2004.6.1日再編集 れんだいこ拝




(私論.私見)