袴田里見論(「袴田除名騒動」について) |
(最新見直し2007.4.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
亀山幸三元中央委員は、「宮本、袴田の論理以前の腐れ縁のようなつながりと共同謀議を見破ることが出来なかった。私と春日(庄)の不明という他は無い」と評している。この言の重さについて気づかない者が多すぎる。 それはそれとして、朝日新聞論説委員の鈴木卓郎は、「共産党取材30年」の中で、袴田について次のように記している。
その袴田が追放された経過を見ていくことにする。ありていに云えば、党内bQの座を不破グループによって奪われたということであろう。が、袴田は切るに切れない得意な存在であったことを、切った後から思い知らされたという構図が浮かび上がってくる。小林栄三は茶坊主としての宮顕擁護の立場から確信犯的に袴田を追い詰めていったが、不破グループの場合マジに宮顕詭弁に乗せられていたのではないかという疑問が湧かない訳ではない。少なくとも途中からは気づいた筈であるが、勢いが止まらなかったのかも知れない。 袴田は1955(昭和30)年の六全協で7名の幹部会員の一人に選出された。ところが、この時期袴田はソ連に滞在の身であったことからみて、宮顕が片腕懐刀として引き上げたことが分かる。袴田が帰国するのは1957(昭和32年)の暮れであり、以降翌1958(昭和33年)7月の第7回党大会で幹部会員、書記局員に大抜擢されている。1961(昭和36年)の第8回党大会では党内bQの地位を確立する。以来、1964(昭和39年)11月の第9回党大会以後は、宮顕、野坂、袴田、岡の4名の党内序列が定まり、1970(昭和45年)7月の第11回党大会以降は副委員長の地位を保全してきた。この間袴田の役目は、宮顕の威光を背景にしての反対派撃滅切り込み隊長としての活躍であり、宮顕体制確立上きわめて大きな仕事を果たしてきた。 その袴田が如何にして斬られたのか。逆にいえば、袴田は晩節をなぜ宮顕批判に向かわざるを得なかったのか。興味ある考察課題であろう。 2004.7.27日再編集 れんだいこ拝 |
【袴田除名の経過序章】 |
1975(昭和50)1.2日付け週刊新潮に、宮顕の「私自身の『昭和史』」なる15ページ文が掲載された。 |
【立花隆「「小畑中央委員リンチ死事件」論文が発表される】 |
1975(昭和50).12.10日、「文芸春秋」1976.1月号が発売され、立花隆論文「小畑中央委員リンチ死事件」が発表された。宮顕の「特異体質によるショック死」説を否定し、「リンチはあった。スパイとされた小畑の死因は傷害致死」と暴露した。この間ロッキード事件の発生のため、宮顕の査問事件の追及は沙汰止みとなっていたが、これによって一挙に火を噴いていくことになった。 12.11日、赤旗は、宮顕の「スパイ挑発闘争−1933年の記録」を全文公開して対抗した。 12.20日、「第7回中総」で、委員長・宮顕は、立花論文に触れて「歴史的ニヒリズムと特高警察史観」、「悪質な反共宣伝、反動裁判所資料の蒸し返し」によるものと反撃。「共.創十年協定」の破綻も追認した。 |
【袴田副委員長が秘密裏に反党活動に動き始める】 |
1975(昭和50)から76年にかけて、袴田がしばしば北海道を訪れ、西舘仁(元北海道委員会委員長)、中川一夫(前北海道委員会委員長)、豊島俊男(同副委員長)、水落恒彦(同常任委員)らと会合する。この時、袴田は、「こんな党じゃ駄目だよ。そうだろう、何も大衆運動なんか、やっちゃいないじゃないか。赤旗を増やすことばかり、その功績者を引き立てて党幹部にする。また赤旗にもっともらしい記事の書けるインテリを登用する。こんなこっちゃ駄目だよキミ。物書きとセールスマンじゃ革命はやれない。肝心の労働者はいつも下積みになって苦労させられている。宮本の私党だよ、そうだろう」と延々と語ったと伝えられている。 この時、袴田私案「北海道独立共産党案」が明かされとも伝えられている。「北海道独立共産党案」とは、次期第13回党大会を目標に、全国各地で労働者党員を糾合し、党中央批判の火の手を挙げる。結集した労働者党員は「北海道独立共産党」という第二共産党を立ち上げ、党中央に対抗していくというものであったようである。 |
【「党内序列に変化、袴田副委員長が不破書記局長の後位になる」】 |
1976(昭和51)1.8日付け赤旗が、党中央労働組合部・林田広一の葬儀記事の文中で、「不破書記局長、袴田副委員長らが参列」と計三箇所に記し、これまでの序列に異変が発生した。この頃既に、袴田の党内序列に異変が生じていたことが判明する。この間袴田と不破の不仲は公然となっており、袴田は「頭でっかちの若僧に何ができる」との態度を見せ、不破がこれを煙たがっていた。 |
1976(昭和51)1月、袴田が、ソ連へ個人的使者を派遣した模様。後にこれが袴田の除名理由の一つになり、「党に隠れてソ連共産党と連絡をとった」と批判されている。この時誰と連絡取ったのか不明であるが、八歳年下の実弟・陸奥男(ソ連国籍・故人、その息子がロシア研究の袴田茂樹・青山学院大教授、娘が経済学者でロシア下院議員のハカマダ・イリーナ)との絡みが推定される。「党に隠れてソ連共産党と連絡をとった」実際の内容は少しも明らかにされず批判だけが押し付けられている。
【立花隆『日本共産党の研究』連載開始と反撃キャンペーン】 |
1月、立花隆「日本共産党の研究」の連載が開始された。各マスコミも査問関係者6人の調書内容をつぎつぎと公表した。 |
1976(昭和51)*月、常任幹部会が、袴田の規律違反を調査する調査委員会を設置した。袴田は一回出席しただけでその後は拒否した。
1976(昭和51).6月、平野謙による「リンチ共産党事件の思い出」(三一書房)の単行本が出版される。袴田調書についてのそれまでの断片的なものではない全文が添付された。
1976(昭和51).6.24日、袴田調書批判の長文の赤旗解説記事「正義の闘争の光は消せない―袴田調書を悪用する策謀にたいして」が出され、並行して宮顕は、自ら赤旗で自己讃美を行い、「特集、宮本委員長獄中闘争物語」連載を開始し、その月だけで7回も載せた。 |
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この論文は、宮顕と小林の共同執筆、あるいは、宮顕原文を共同で練り、元秘書名義で発表したとも推測できる。その理由は、この論文では事件当事者の宮顕でないとわからないような査問開始2日間での細部の状況が、微妙な歪曲とウソをともなって随所に挿入されていることにある。しかし云えば云うほど辻褄の合わなくなるウソ・詭弁があまりにえげつないものとなっている。宮顕は自分が直接批判されると、自己執筆反論文や記事を自ら名乗らずに他幹部名で発表してウソをつき通すという卑怯なくせがあり、「小林論文」も同類と思われる。 |
【袴田里見叛旗騒動勃発】 |
この頃宮顕と袴田の折り合いが悪くなっており、袴田は6.10日「自己批判論文」を書かされていた。 |
【第13回臨時党大会】 |
1976(昭和51).7月、第13回臨時党大会「自由と民主主義宣言」。 |
【袴田副委員長が野坂議長スパイ説を唱える】 |
1976(昭和51)8月、袴田が、調査委員会の席上、野坂議長のスパイ説を唱えた。党中央は「でっち上げ」と批判した。 |
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袴田のこの指摘は無視されたが後日、野坂が失脚する。党中央はどう弁明したのだろうか。 |
9月、「文化評論9月号」で、小林栄三中央委員・元宮本秘書が、「スパイの問題をめぐる平野謙の『政治と文学』」という長大な袴田批判論文を発表した。この「小林論文」は、袴田陳述内容を全否定し、宮顕の陳述と「すべて事実無根のデッチ上げ」とする発言を擁護するウソと詭弁を満展開していた。
【「総選挙総括で、宮顕の居直り、袴田の批判」】 | ||||||||||
1976(昭和51)12.7日、袴田は、総選挙で惨敗直後の常任幹部会で、宮顕は「実際の票の上では少しも減っていない。かえって伸びたのだ。(当選者が前回の39名から19名に半減したことについても)反共攻撃が激しく、それに対しての反撃が弱かったこと、中央の方針は正しかったが、下部組織が動かなかった」と総括しようとしていた。
その他次のように批判している。
興味深いことは、この袴田発言に対して、真っ先に反論したのが統制委員責任者の戎谷春松で、「袴田さんが、『大泉・小畑問題』を特高警察や予審廷でしゃべったことの方が、党規違反として問題ではないのか。なぜ、それについて話さないのか」と、全く関係のない観点から袴田批判の封じ込めに入ったということである。こう云う風に「戦前党中央委員大泉・小畑査問、小畑リンチ致死事件」が利用されていることを知らねばならない。
この日、帰宅した袴田は、夫人の菊枝に「きょうは、ものすごい発言をしてきた。堂々とやって気がすっとした」と語ったている(「袴田里見」)。 |
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この時の宮顕式居直り弁明「「@・数字マジックによる弁明。A・党中央の方針は正しい。B・下部組織は一層奮起せよ。C・反共攻撃等の逆風の指摘」が定式化され、不破に受け継がれ、志位にも受け継がれていくことになる。 |
1976(昭和51)12.16日、袴田出席の上で常任幹部会が開かれ、袴田がとことん批判された。曰く「袴田の主張は、全ての点で誤りであり、筋違いの非難である」。袴田はその大合唱の前に抗弁することの非勢を悟り、「僕の言い方にも、言い過ぎはあったかも知れないが」云々と語ったところ、「非を基本的に認めた」とされることになった。しかし、袴田は後日、12.26日に「みんなで寄ってたかっておれを反党分子のように扱った」と居直り、再び同じ問題を持ち出すこととなった。
1977(昭和52)1.21日、常任幹部会が開かれ、再び袴田批判が続けられた。この為、袴田はいったんは自己批判書の提出を約束した。が、後にこれを拒否することになった。
1977(昭和52)2.5日、「袴田の規律違反問題を調査する」為の「調査委員会」が設置された。調査委員会のメンバーは、不破書記局長を責任者として、戎谷春松統制委員会責任者、諏訪茂組織局長、西沢富夫副委員長であった。
1977(昭和52)2.8日、袴田問題調査委員会の第一回の会議が開かれ、袴田も出席している。
1977(昭和52)2.15日、袴田が代々木病院に入院。以降8.10日まで調査委員会への出席を頑として拒否している。
1977(昭和52)3.28日、常任幹部会が、初めて幹部会に袴田問題を報告した。
1977(昭和52)4.28日、常任幹部会は、「袴田をこのまま放置することは、党の防衛にとってもきわめて危険である」として、袴田不在のまま袴田に対する「6ヶ月の党員権制限の処分」を決定した。この会議は袴田に対して意識的に欠席させる秘密手法で開催されたと、袴田自身が抗弁している。
1977(昭和52)7.16日、15中総が開かれ、袴田問題が報告された。ヒラの中央委員には、この時点で初めて袴田問題が知らされたことになる。
【「党中央秘密警察機関による盗聴」】 |
この後、袴田の「分派主義的規律違反」が次々と摘発されていくことになったが、袴田の家庭内での夫婦の会話や、袴田がかけた電話の内容などもその中に挙げられていた。「党が自分の家に盗聴器をつけている」ことが知られる。 |
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袴田は、党中央による盗聴の諸事実を挙げている。この重要性が確認されねばならない。これまで党中央は、頻りに国家権力による盗聴問題を取り上げ批判してきた。その党中央が党幹部に対して同じ手法を行使していたということになる。れんだいこに云わせれば、宮顕が国家権力側の出自であり、当然にそのような手法を用いるのであって特段の不思議ではなくなる。この観点なしにはこの問題は解けないだろう。 |
【「犬は吠えても歴史は進む」立花批判キャンペーン】 |
立花隆『日本共産党の研究』が、1976年1月から1977年12月まで21回にわたり「文芸春秋」に連載され、1976.6月、平野謙著『「リンチ共産党事件の思い出」が出版された。この頃宮地氏の「意見書」も党中央に提出されている。これに対し、党は、1977年8月8日「犬は吠えても歴史は進む」の立花隆批判の大キャンペーンに乗り出すこととなった。ところが、内容はといえば宮顕論理の丸写しであり、真相解明そっちのけで政治主義的な乗り切りを策したものでしかなかった。 |
【袴田が、調査委員会で「宮顕及び野坂のスパイ性を指摘」】 |
1977(昭和52)8.10日、袴田が調査委員会に出席。この時、戦前、宮顕がスパイに無警戒だったこと、獄中では宮顕の家族が検事にお百度参りした結果、宮顕に書籍が差し入れられたこと、野坂参三が戦前スパイだった容疑があることを持ち出した。 |
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この指摘も相当重要である。 |
【「袴田失脚」】 |
1977(昭和52)10.17−22日、第14回党大会で、袴田の政治的殺人儀式が執り行われた。中央役員として不適格であるとして、副委員長、常任幹部会員、中央委員という党内の一切の役職を党大会役員人事“非推薦”という形で剥奪した。袴田は平の一党員に格下げさせられた。“非推薦”理由について党大会で何の報告もなく、一つの質問も出なかった。その理由は「日本共産党の六十五年」によれば、「袴田が中央委員として不適格であることが明確なので、彼を中央委員に選出しなかった」とある。 |
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党の副委員長失脚に関わるこの手法の胡散臭さを凝視せねばなるまい。この党中央が世間に向かって民主主義を説法していることは皮肉なことである。 |
【袴田の党中央批判、「素朴な手紙」を党中央に提出】 | ||||||
1977(昭和52)11月初旬の第14回党大会直後の頃、袴田は「素朴な手紙」を党中央に送りつけた。「一党員として委員長に素朴な質問を致します」との書き出しから始められて、全13カ条に及ぶ質問状になっていた。この「素朴な手紙」は、11.10日常任幹部会の席上で、戎谷統制委員会責任者によって報告された。その骨子は次のようなものであったと伝えられている。
ざっと、こういう内容が13項目に亘って書かれていたと伝えられている。 |
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袴田の「素朴な手紙」は、党中央の杜撰な経理を指摘している。そういえば、党中央の経理公開は少なくとも世間並みになっているのだろうか。 |
1977(昭和52)11月から翌年4月にかけて、西舘仁は統制委員会に三度呼び出され、袴田私案「北海道独立共産党案」について調査を受けた。
【増山太助氏による「党中央査問者の特高警察的恫喝証言」について】 | |
1977(昭和52)11月、「戦後期左翼人士群像」の著者増山太助氏は次のような史実を明らかにしている。
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これは既にいろんなところで指摘されていることであるが、増山氏も指摘しているところに意味がある。 |
1977(昭和52)12.8日常任幹部会が開かれ、席上、戎谷統制委員会責任者が次のような報告をしている、と伝えられている。
概要「袴田が、今大会前の幹部会及び中央委員会がとった処置に不満を持ち、関与した党会議での秘密決定メモや党財政上の問題点を書き記した書状との交換に5千万円を要求してきた。もし党が拒否するなら、公表する用意があるとそぶいていた。この問題の処理を常任幹部会から一任された宮本、不破、戎谷、高原の4人が検討した結果、党の機密を護る為、やむをえないと考え、これに近い金額と引き換えに、党の機密資料その他を買い取ることにした。それと現金との交換は12月初旬に行われた」。 |
1977(昭和52)12.23−25日、二中総を開き、統制委員会を拡充した。それまで統制委員であった飯田七三(中央委員)、高島信敏(中央委員)の2名が解任され、新たに4名(小島優・幹部会委員、西井教雄・赤旗編集局次長、針谷武夫・中央委員、永井尭・准中央委員)が任命された。統制委員会の人事は、僅か2ヶ月前の第14回党大会での一中総で任命されたばかりであり、それを僅か2ヶ月で入れ替えしたことになる。
1977(昭和52)12.25日、袴田の「週刊新潮」への手記投稿をキャッチした宮顕が直ちに袴田査問を統制委員会に指示。統制委員会は、翌12.26日党本部に出頭するよう袴田に通知。袴田は「病気の悪化」を理由に拒否。統制委員会は、12.27、29日に代表を袴田宅へ派遣したが追い返される。30日にも何とか党本部へ引っ張り出そうとしたがこれも拒否された。
1977(昭和52)12.30日、袴田除名処分を決定、常任幹部会は直ちにこれを承認。
【袴田除名】 | |||||||||
翌1978(昭和53)1.4日、袴田は除名された。同日付け赤旗は、「袴田里見の除名処分について」論文を党中央委員会書記局名で発表。この騒動は新聞・テレビの全国ニュースで報ぜられた。
この時、「袴田里見の党規律違反と反党活動について」論文も掲載された。これによれば、袴田除名理由として次の4点が挙げられていた。
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その後、野坂も又失脚する。党中央は、「野坂スパイ説デッチ挙げ論」で袴田批判したことについてどう居直ったのであろうか。「野坂失脚考」で確認したくなるのが当然であろう。 |
1978(昭和53)1.6日赤旗が、1.4日の「党旗びらき」で不破書記局長が行った袴田問題に対する大要を掲載。
【袴田里美手記「昨日の同志・宮本顕治」が週刊新潮に発表される】 | |||
1978(昭和53)1.12日、袴田の手記「昨日の同志・宮本顕治」が週刊新潮に発表された。次のように述べている。
宮顕の過去の履歴にも言及し、1964年の「4.17スト」時の宮顕の変調行動を次のように告発している。
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1978(昭和53)1.中旬、宮顕は常任幹部会の席上で、「次の総選挙で党議員が全滅するか、反共攻撃を叩き潰して前進するか、党の生死がかかっている」と強調し、他の問題は後回しにしてでも、とにかく袴田を叩け、党内の動揺を防ぐのが先だと指令。この宮顕発言を受けて、赤旗編集局内に、紺野純一をキャップとする10数名の「袴田問題特別デスク」を設置し、反撃態勢に着手した。「赤旗評論特集版」、「赤旗評論特集版」号外、「袴田問題、そこが聞きたい」、「目撃者の証言−袴田問題の真実」等を次々と発行していった。
【党中央が毎日新聞社に抗議】 | |
1978(昭和53)1.16日、毎日新聞投書欄に「袴田氏除名と党活動改善問題−下部の実態を謙虚に見つめよ(一党員)」が掲載された。次のように記されている。
これに対し、党中央は、直ちに中央委員会名で「ジャーナリズムのモラルに反した」と毎日新聞社に抗議している。一党員投稿者に対しては、「規律を守り事実にたって論ぜよ」論文を発表し、規律違反、無規律な自由主義、分散主義的、分裂主義的と批判している。 |
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この時、党中央は、毎日新聞社に如何なる論法で抗議しているのだろうか。興味がもたれるが分からない。いずれにせよ、言論の自由、表現の自由、出版の自由に対する、無定見なご都合主義論法になっているであろう。 |
1978(昭和53)1.18日、主要11都道府県党の組織部長・機関紙部長会議が開かれ、不破初期局長が「袴田問題」について報告。11都道府県党とは、北海道、千葉、埼玉、東京、神奈川、長野、愛知、京都、大阪、兵庫、福岡。
1978(昭和53)1.20日、全国都道府県教育部長会議。宮本委員長が、挨拶の中で「袴田問題は生きた教材」と強調。
1978(昭和53)1.23日赤旗は、赤旗評論特集号を組み、「時間と空間を越えた妄想の羅列」と題する袴田手記批判論文を掲載。見出しだけでも、「邪推に狂った袴田」、「教養の欠如と品性の低劣さを暴露」、「このくらい無知、低劣なものは類があるまい」、「新しい変節者、転向者としてのあさましい心情」、「病的な妄想」、「自己顕示欲の異常さ」、「法律的無知」、「何にも勉強せずに、30年前の『小僧』のまま」、「まるで寝言や夢のような妄想の積み重ね」、「病的とも見えるほど異常」、「きわめて異様な妄想」。
【党中央の「点検運動」】 |
「袴田騒動」は、過去の春日派、志賀派、中国派らを除名したときと違って、全くの一匹狼であった。しかし、党内に与える動揺という点では、「袴田騒動」の持つ意味の深刻さはかなり衝撃的なものであった。宮顕の奥深く懐刀として数十年党活動してきた人物の反旗であるだけに、指摘そのものの意味と重みが違っていた。 かくして党内の動揺を抑える為に、「意思統一」という名のもとに行われる定式化された「点検運動」が始まった。各級機関が直ちに会議を開き、袴田糾弾決議を挙げていった。どれだけ速く総会を開いて袴田を糾弾するかが各級機関の指導者の評価につながった。「袴田里見の反党的裏切りを糾弾し、反共攻撃を断固打ち破る」なる決議が採択されていった。赤旗は各党組織からの党中央支持声明を連日掲載していった。踏絵が更に党組織の末端まで浸透させられていった。 |
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この党は、左派運動的方向において「点検運動」することはない。いつもこうした後ろ向きな「点検運動」であるが、党員一般は疑問を感じないのだろうか。 |
1978(昭和53)1.24−26日、全国の地方議員約千名を集め、地方議員全国研究集会。小林栄三教育局長が「袴田問題の背景と性格」と題して報告。
1978(昭和53)1.28日、各都道府県と東京各区の選対部長を集め、全国選対部長会議。宮顕委員長が「袴田問題の本質と教訓」について演説。
この頃より赤旗は、党中央幹部、中堅幹部、秘書など袴田の身辺にいた者からの告発を掲載し始めた。「野坂スパイ説」を云われた当の野坂をはじめ、村上弘、西沢富夫、瀬長亀次郎ら副委員長、袴田のかっての秘書、防衛担当員らも袴田攻撃に加わる。これらは袴田の過去を暴き、袴田がいかに問題の多い人物であったかを、これでもかこれでもかと明らかにしていた。学者、文化人らの袴田批判を掲載し始めた。水野明善(文芸評論家)「反党分子転落の渕、袴田里見の宮本百合子誹謗に答える」(1.14日)、津田孝(文芸評論家)「宮本百合子の戦時下の作品をめぐって」(1.21日)、須見容子(文芸評論家)「『十二年の手紙』今日に語りかけるもの」(1.24日)。
1978(昭和53)4月頃、「戦後期左翼人士群像」の著者増山太助氏は次のような史実を明らかにしている。この頃増山氏は袴田夫妻とたまたま出会い喫茶店へ入った。席上袴田は、大声で宮本顕治をののしり、「俺があんなに守ってやったのに、俺の首を切るとは何事だ」、「俺の目の黒いうちに宮本を始末して党をつくり直さなければ‐‐‐死に切れない」とわめきたてていた。
【袴田シンパの西舘による「自己批判」】 |
1978(昭和53)5.11日、西舘が党中央への誠心を明かすかのように、袴田批判の一文「袴田の転落から何を学ぶか」が赤旗に掲載される。 |
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これも、特高当局側の転向声明強制と何ら変わらない。それはともかく、その後の西舘氏の去就が気になるところである。 |
【赤旗紙面に載った袴田批判文言】
1 | 人格攻撃 |
「品性下劣」、「異常」、「粗暴」、「時間と空間を超える妄想者」、「病的な妄想」、「自己顕示欲の異常さ」、「病的とも見えるほど異常」、「きわめて異様な妄想」、「自己中心主義」、「ウソつき」、「転落者」、「邪推に狂った袴田」 | |
2 | 無知、無理論攻撃 |
「教養の欠如と品性の低劣さを暴露」、「このくらい無知、低劣なものは類があるまい」、「無理論」、「自分では文章の書けない男」、「法律的無知」、「まるで寝言や夢のような妄想の積み重ね」、「何にも勉強せずに、30年前の『小僧』のまま」 | |
3 | 転向・変節攻撃 |
「新しい変節者、転向者としてのあさましい心情」、「『反共シフト』に組み込まれた『謀略の手先』」、「晩年をまっとうさせようとしたが、袴田は党のこの配慮を裏切った」 | |
4 | 対外盲従分子攻撃 |
「外国崇拝」、「ソ連盲従分子」、「対外事大主義」 | |
5 | 元同僚による罵詈雑言 |
「はぐれガラス、頭の病気、異常、袴田転落、史上最低のユダ」(宮顕) | |
「正常な精神状態にあるとは思われない」(野坂) | |
「作話症」(不破) | |
「反共性痴呆症患者」(多田留治) |
(私論.私見)