れんだいこの伊藤律論 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).5.9日
(れんだいこのショートメッセージ1) |
本稿で、れんだいこの伊藤律論をものしておく。 2005.6.30日再編集 れんだいこ拝 |
【れんだいこの伊藤律論その1】 |
日本共産党史上の不思議さは、真性スパイであったと確定している「スパイM」の総括に向うよりは、得手勝手にスパイと断定された「伊藤律」の罵倒の方に忙しいという珍現象にある。それもその筈で、れんだいこ史観によれば、宮顕ー野坂こそそれぞれ系譜は違うもののスパイの頭目であり、その二大頭目の連衡によって党中央が簒奪されたのだからこういう事も不思議ではなくなる。問題は、そういう党中央のプロパガンダをマトモに信じ込む愚かさにある。れんだいこは、本サイトで、それは逆であるという観点から分かる範囲内の書きつけをしておく。 れんだいこが評する伊藤律とは、戦前戦後の左派運動史上指折りの能力者であり、それ故にそれを警戒する体制派から何重もの罠を仕掛けられ、遂には中国の獄中に幽閉された悲劇の士であったということに尽きる。考えてみれば然りで、特に政治の世界では、世上にのうのうと好評価で登場した人物の方こそ案外と胡散臭い人物が多い。 これは逆から見たほうが早い。戦後だけに限ってみても、徳球然りである。徳球は本来なら毛沢東、ホー・チミンに並ぶ偉大な指導者であったと思われる。しかし如何せん、戦後日本は米帝に組み敷かれ、極東の重要な基地として位置づけられていた。その枠組みの中で革命を成就せねばならないという困難な事業に乗り出していった。歴史にイフが許されるなら、米帝を顧慮せずの国内の階級闘争だけなら、徳球の英邁卓越した指導能力は早ければ1947年の2.1ゼネスト時点で権力奪取に成功していただろう。 もとより、彼を支える例えば伊藤律のような優秀な次世代がいたからでもある。徳球の勝れたところは人物鑑定眼も確かで、宮顕より5歳若い伊藤律を次世代の指導者として見出し、彼の周りに有能な士を寄せていたところも評価される。この連中はそれぞれが、その後の逆風の中でも真紅の精神で生き通した。 問題は次のところにある。そういう徳球ないし徳球運動は旧左翼からも新左翼からも史上最悪の罵声を浴びせ続けられており、今日まで経緯している。そういうテキストを学ばせられる訳だから、学べば学ぶほど馬鹿になる党史教本で溢れている。歴史とはそんなもんだろう。 もう一人挙げよう。田中角栄然りである。角栄も本来なら、日本史のみならず世界史上に残る傑出した政治家であった。その彼が何の因果か偏狭な「金権の元凶」として今日でも事あるごとに言及されるほど罵声を浴びせられている。れんだいこが評する角栄とは、1848年にマルクスーエンゲルスが協働した「共産主義者の宣言」の最も忠実な実践者であった。彼自身はそのことを意識していなかったのかも知れない。真に歴史に寄与せんとして能力を発揮したところ、自ずと「共産主義者の宣言」の青写真世界に足を踏み入れていったということの方が真相であろうが。 為にかどうか、角栄はいわゆる生粋の戦前型保守と激しく抗争し、まさに地下で暗闘死闘している。情けないことは、日本左派運動がその角栄掃討戦に表から裏から協力したことである。これも又旧左翼、新左翼を問わない。これほどさように日本左派運動総体の能力がお粗末で、そういうこともあって真の能力者が報われることはない。ついでに述べれば、田中清玄も然りである。彼も又傑出した人物であった。そういう人物に限って、悪し様に云われ続けるのが世の倣いである。 これらの史上の能力者に対し、俺は人よりもこれだけ悪し様に言っているぞ聞いてくれ見てくれとサヨブルのがいるから余計に始末に終えない。伊藤律論はこの観点から為そうと思う。れんだいこのこの所論の是非を賜りたい。 2005.6.30日再編集 れんだいこ拝 |
【れんだいこの伊藤律論その2】 | ||
戦後左派運動の概括書として非常に有益な田川和夫氏の一連の著作がある。だが、その田川氏でさえ「戦後日本革命運動史1」の中で、伊藤律を次のように評している。
他の論者もほぼ同じ論調で、あたかも競うかのように様々に罵倒している。徳球−伊藤律体制に対しても概ね次のような見解が正論とみなされている。高知聡氏は「日本共産党粛清史」文中で次のように記している。
あたかも、徳球−律のコンビに比すれば、野坂や志賀、神山、宮顕、袴田らの方がましだとばかりの観点ではなかろうか。 こうした見解は非常に捻れた逆さなそれではなかろうか。究極、宮顕論理を下敷きにしており、その枠から一歩さえ出ていない。れんだいこには、このことに無自覚なままの「インテリ」ぶりマルクス主義者の薄はかさが滑稽に見える。ところで、この現象は何を語るのだろうか。1956年頃よりいわゆる新左翼が生まれたが、その出発に当たり党史理解がかように変調にされているということを確認すべきではなかろうか。これでは本当の自前の運動が創出できない。れんだいこはそう思う。 我々が継承するのは、戦後党運動が、「至らないながらも真紅の精神を保持し得ていた徳球―伊藤律系譜と、本来白い心で党内に潜入してきた野坂―宮顕系譜との党中央の指導権を廻る死闘戦であった」ことを見据えて、徳球―伊藤律系譜の運動を評価しここから次の流れを生み出すべきであった、のではないのか。実際には、野坂―宮顕系譜の運動から色とりどりに次の流れを生み出してしまった。そしてそれらは全て不毛の台地に座礁し干乾びてしまった。この痛苦な認識から出発せねばならないのではないのか。 世にはその他拗ね者的な諸見解がある。それらにも共通して見える流れは、徳球―伊藤律系譜に対する憎悪に満ちた揶揄中傷である。他方、野坂―宮顕系譜に対しては高踏的な批判を試みて済ませている。こちらも結構胡散臭くて、れんだいこは反野坂―反宮顕運動の為だけで野合しようとは思わない。マルクス主義は批判する為に生まれたのではない、党内権力の掌握から始めて社会権力の奪取に向かわなければ意味がないのだ。これが左派運動を志す者の責務であり、正義主義的評論による万年批判でのご満悦主義者などとは与したくない、そういう気持ちがれんだいこにはある。 2002.10.28日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)